永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 197… 永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 1978年3月8日)は、日本の版画家、画家。茨城県出身。大正初期の時代から昭和にかけて旺盛なる創作活動を続け、版画や油絵により、自分の信ずる「美の世界」を表現するために、様々な手法を試み社会に問い続けた。また、著書「版画を作る人へ」はその後の版画家たちへ影響を与えた。 茨城県西茨城郡北那珂村入野(現在の桜川市)に生まれる。土浦中学時代より絵画に興味を持ち始め、熊岡美彦、矢口達、高田保らと知り合う。1904年に創刊された美術雑誌『みずゑ』に水彩画を応募し、画家になることを本格的に意識し始める。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学するもすぐに中退。
浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 194… 浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本の元プロ野球監督。 旧制立教中学に在籍し、野球部(立教大学野球部の基礎)を創設。立教大学教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイドに技術的指導を受ける。その後早稲田大学商科に進み、二塁手として野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった[リンク切れ][出典無効]。 1922年(大正11年)、第二高等学校(旧制二高)の野球部のコーチをする。
福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月… 福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉3月18日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家である。 「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加し矢作水力社長などを務めたほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。 福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。
小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年… 小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1975年〈昭和50年〉3月1日)は、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)出身の実業家・政治家。小野沢興行株式会社会長。島根県議会議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。 1891年(明治24年)1月5日、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)に生まれた。父は小野沢勝次郎であり、勝太郎は5人兄弟の長男だった。小野沢家は規模の小さな農家であり、小野沢は小学校に4年間しか通っていない。 16歳の時には家出して東京に出た。まずは専売局の下請け工場に務めたが、新聞配達、牛乳配達、土方人夫と様々な職業を転々とした。
登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月… 登坂 良作(とさか りょうさく、1891年(明治24年)1月4日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、官選函館市長。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)立売町で登坂岩内の四男として生まれる。新潟県立新発田中学校、第二高等学校を経て、1917年4月、東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。義兄堤清六が経営する堤商会(後のニチロ)に入って北洋漁業に携わりロシア帝国カムチャツカ州、千島列島に渡航した。 1918年12月、函館区で弁護士を開業。以後、函館市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員、(財) 相馬報恩会理事長、全国人権擁護委員会連合会理事などを務めた。
土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日… 土屋 耕二(つちや こうじ、1891年(明治24年)1月4日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、日本の内務官僚。印刷局長。 千葉県夷隅郡長者町(現在のいすみ市)出身。1915年(大正4年)10月、文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。北海道庁理事官、広島県理事官、広島県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長を歴任。 1928年(昭和3年)、内閣印刷局書記官・総務部長に転じ、1936年(昭和11年)には内閣印刷局長に就任した。1943年(昭和18年)に内閣印刷局は大蔵省印刷局に改組されたが、引き続き局長を務めた。退官後は日本銀行監事を務めたが、戦後に公職追放となった。
笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3… 笠井 藍水(かさい らんすい、1891年(明治24年)1月3日 - 1974年(昭和49年)11月15日)は、日本の歴史家・郷土史家。徳島県の郷土史研究や各市町村史編纂の基盤確立に大きな役割を果たした。本名は笠井(吉田) 高三郎(かさい(よしだ) たかさぶろう)。 1891年1月3日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平の三男として生まれる。 1909年、早稲田中学校を卒業する。卒業後、水彩画講習所でデッサンの勉強をしていたが、家族の要請により、1910年に脇町に帰郷する。 1913年8月23日、脇町収入役に就任し、『美馬郡郷土誌』編纂のために美馬郡教育会嘱託を兼任する。1915年10月19日、辞任する。
広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治… 広瀬 与兵衛(廣瀬 與兵衞、ひろせ よへえ、1891年(明治24年)1月3日 - 1966年(昭和41年)6月5日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。旧姓は長谷川、旧名は勉。 神奈川県で長谷川豊吉の六男として生まれ、東京府の薪炭商、先代・広瀬与兵衛の養子となる。中央大学を修了。1926年(大正15年)に家督を継承し与兵衛を襲名して家業の薪炭商を経営した。 東京都燃料卸商業組合理事長、同燃料配給統制組合理事長、全国燃料団体連合会長、日本薪炭社長、ほまれ鋳物社長、中野木材工業社長、東京燃料林産取締役会長、千代田製鉄取締役会長、中央倉庫取締役、神田錦町町会長、東京商工会議所議員、商工組合中央会理事、同中央金庫評議員などを務めた。
阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日… 阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日 - 1960年〈昭和35年〉4月22日)は、日本の動物学者。広島大学名誉教授。 哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也は兄。歴史学者の竹岡勝也は弟。動物生態学者の阿部襄は甥。 1891年(明治24年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺で、教師をしていた父・阿部富太郎と医師の娘であった母・ゆきの四男として生まれる。 旧制・山形県立山形中学校、旧制・第二高等学校を経て、東京帝国大学理科大学で渡瀬庄三郎教授のもとで学び、1916年(大正5年)同動物学科を卒業し、同理学部嘱託、ヨーロッパ留学をへて、第二高等学校および広島高等師範学校教授を歴任し、1929年(昭和4年)広島文理科大学(現・広島大学)教授となる。
川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - … 川上 三太郎(かわかみ さんたろう、1891年1月3日 - 1968年12月26日)は、日本の川柳作家。「川柳六大家」の一人。東京の日本橋出身。本名は幾次郎、別号は蒼蒼亭(そうそうてい)、S・S・T。 東京市日本橋区蠣殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。1911年に大倉高等商業学校(のちの東京経済大学)を卒業し、大倉洋行に入社。退社後、1920年に東京毎夕新聞社に入り、学芸部長などを務め、1927年退社。 13歳から川柳を作り、井上剣花坊に師事した。1929年に『國民新聞』の選者になり、1930年に国民川柳会を結成し、機関紙「国民川柳」を発刊。1934年には国民川柳会を川柳研究社に、「国民川柳」を「川柳研究」に名前を改める。
藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月… 藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月2日 - 1958年(昭和33年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の仏教学者。浄土真宗大谷派の僧侶。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)にて生まれる。1911年(明治44年)真宗大谷大学予科を経て、1914年(大正3年)同大を卒業する。 同年より東京帝国大学で図書館学、1923年(大正12年)から国史学を学び、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて同大学図書館司書、史料編纂官補を歴任。1924年(大正13年)東洋大学の教授となり、同図書館長を兼務。ほか大倉精神文化研究所主任、明治仏教史編纂所理事、日本教学研究所評議員、駒澤大学講師、史料編纂官などを兼任。
山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月… 山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月1日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の政治家、実業家。北海道会議員、衆議院議員、北海道岩見沢市長(1947年-1954年)。 石川県出身。空知農学校卒。1915年(大正4年)早稲田大学専門部政治経済科卒業。小樽新聞(後の北海道新聞)に入社し政治経済部記者となり、同社岩見沢支局長を務めた。その後、小樽商業会議所総務課長に就任。1924年(大正13年)第8期北海道会議員に当選、2期8年務め、北海道会参事会員にも在任。その後1932年の第18回衆議院議員総選挙にて北海道第4区から当選。1期務め、立憲政友会に所属。1936年の第19回から1942年の第21回総選挙まで立候補するもいずれも落選。
梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 … 梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1982年〈昭和年57年〉)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国陸軍の軍医、医学博士。最終階級は陸軍軍医中将。 長岡藩医・梛野直(なぎの ただし)の長男として生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(1908年(明治41年)卒業)、旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学医学部を卒業する。1917年(大正6年)に陸軍二等軍医に任官した。 軍籍のまま大学院で学んだ後、外国駐在軍医官としてアメリカ合衆国とドイツに赴任する。海外赴任中にはスイスのチューリヒに留学し、悩解剖研究所モナコフ教授に師事した。1927年(昭和2年)10月13日、東京帝国大学から医学博士号を授与された。
土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月… 土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県小城郡芦刈村(現・小城市)出身。小城中学校在学中、日露戦争が勃発。郷里から将校が出征する姿や、演習帰りの歩兵第48連隊の留守大隊の将校らを見て自身も軍人を志す。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校に進学。中隊長は三木宗太郎、区隊長は津村諭吉(のち鴨脚光弘)、指導生徒は神田正種だった。神田の誘いで富久町の善慶寺にて精神修養を行うようになり、陸士卒業後も同期の甘粕正彦と度々訪れている。歩兵第37連隊での勤務を経て陸軍士官学校に進学。しかし区隊長の森本八十三中尉とのそりが合わず、大きく内申点を落としてしまう。
長谷川 治良(はせがわ はるよし、1891年(明治24年)1… 長谷川 治良(はせがわ はるよし、1891年(明治24年)1月1日 - 1980年(昭和55年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科(21期)を優等で卒業した。また、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部火薬学科で学び、1919年(大正8年)7月に卒業した。 1926年(大正15年)8月、砲兵少佐に進級。1931年(昭和6年)8月、砲兵中佐に進み、1932年(昭和7年)8月、陸軍造兵廠廠員に就任。1934年(昭和9年)12月、火工廠作業課長に転じ、1935年(昭和10年)8月、砲兵大佐に昇進した。
中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> … 中西 幸重(なかにし ゆきしげ、1891年 <明治24年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 1月7日)は、日本の政治家。三重県宇治山田(現・伊勢市)市長、伊勢市長。位階は従六位。 三重県度会郡神社町(現・伊勢市)出身。神社港で旅館業を営む両親のもと生まれる。 1911年(明治44年)3月、三重県師範学校(現・三重大学)卒業後、小学校教諭を経て1914年(大正3年)関西大学専門部法科へ入学。卒業一か月前に、旧軍閥打倒の護国戦争に投じるため中華民国上海へ渡った。1919年(大正8年)に帰国後は東京労働日報主筆に就任する傍ら、尾崎行雄に師事し大野伴睦らと共に普選運動を展開した。 1929年(昭和4年)3月、神社町助役、1933年(昭和8年)同町会議員、1947年(昭和22年)宇治山田市議会議員、1951年(昭和26年)三重県議会議員となる。
江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1… 江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉4月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡矢部村(八女郡矢部村を経て現八女市)で生まれる。高等小学校卒業。農業、石炭業を営む。 東豊炭坑江田鉱業所長、恩賜財団同胞援護会福岡県川崎分会長などを務めた。 1933年(昭和8年)川崎町会議員に当選し、以後3選した。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から民主自由党所属で出馬して当選した。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙(福岡県第4区、自由党)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 1957年(昭和32年)4月19日死去、66歳。
高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年(明治24年) -… 高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年(明治24年) - 1967年(昭和42年)9月)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 1950年代の一時期、高村 將嗣(新字体表記高村 将嗣)と名乗った。読みはいずれも「たかむら しょうじ」とも。ユナイテッド・アーティスツの日本支社支配人から東亜キネマ取締役、のちに撮影所長へと転身して辣腕を揮い、戦後は宝プロダクションを設立して剣戟映画を手がけ、加藤泰、萩原章を映画監督として本格的にデビューさせた。 1891年(明治24年)、長野県更級郡稲荷山町仲町(現在の同県千曲市稲荷山中町)に生まれる。弟は高橋家の養子となった元長野県議会議員の高橋楙(たかはし しげる)である。
赤木 顕次(あかぎ けんじ、1891年(明治24年) - 1… 赤木 顕次(あかぎ けんじ、1891年(明治24年) - 1959年(昭和34年))は、日本の宗教家、PL教団祐祖。日本三大寮歌である北海道大学恵迪寮の明治45年寮歌「都ぞ弥生」の作曲者。北海道小樽市出身。 1891年、小樽市の医者の家に生まれる。生まれつき耳が遠かったものの、ハーモニカの名手であった。京北中学校から北海道大学農学部に進学した。 1912年、日本三大寮歌のひとつとなる、北海道大学恵迪寮の明治45年寮歌「都ぞ弥生」を寮の同室であった横山芳介が作詞し、赤木が作曲した。都ぞ弥生の作歌活動のために一年留年し、1917年(大正6年)に、畜産科を卒業した。 卒業後、東京、広島で食品化学会社研究員、東京帝国書院で教科書編集、中学教師と勤める。
井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は… 井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は、日本の造園家。政治家。明治神宮造営局に奉職、ついで造園の内務技師として横浜市の震災復興三公園、兵庫県立明石公園の建設に関わったほか、郷里で町長となって地方自治にも参画する。 富山県上新川郡水落村の阿波加家に生まれ富山中学・旧制第四高等学校(金沢市)卒業後、富山県婦負郡四方町の井本三信家を継ぎ同家のあやと結婚。1919年東京帝国大学農科大学で造園・土木を専攻・卒業。師である原熙の推挙により、明治神宮造営局に奉職し内外苑、殊に御苑(通称、神宮御苑)の造園を担当した。大名下屋敷の庭園から代々木御苑となり、昭憲皇太后がしばしば行啓し、明治天皇が御茶屋「隔雲亭」・あずまや・お釣台を設け、菖蒲田を昭憲皇太后のため植えさせられたという名園で、最奥に清正井と呼ぶ泉が湧いており、武蔵野の昔を偲ばせ訪う人が多い。
中村 茂(なかむら しげる、1891年 - 1969年)は、… 中村 茂(なかむら しげる、1891年 - 1969年)は、沖縄県の空手家。昭和期の空手家で、沖縄拳法の創始者。 1891年(明治24年)、父・中村幸吉、母・カメの長男として沖縄本島北部の名護間切(現・名護市)に生まれた。幼少の頃より祖父や親戚から武勇伝を聞いて育ち、武術に興味を持った。夭折した父やその弟にあたる叔父・中村貞一から「手(ティー)」と琉球古武術の手ほどきを受けた後、沖縄県立第一中学校(現・首里高校)に入学。屋部憲通、花城長茂、東恩納寛量、糸洲安恒らから空手の指導を受ける。当時の一中の唐手師範は糸洲安恒、師範代は花城長茂だったので、中村は両者に師事したものと思われる。卒業後は名護に戻り、そこで「久茂地の山原国吉(やんばるくにし)」こと、国吉真吉にも師事した。
大瀬 欽哉(おおせ きんや、1891年(明治24年) - 1… 大瀬 欽哉(おおせ きんや、1891年(明治24年) - 1991年(平成3年))は、日本の歴史家。鶴岡市立図書館館長、(社)荘内文化財保存会理事、山形県地域史研究協議会副会長、栄典・称号は、勲六等単光旭日章・鶴岡市名誉市民。 1891年(明治24年)山形県鶴岡市家中新町に銀行員の大瀬正の四男として生まれる。荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)を経て、山形師範学校第二部卒業。西田川郡で高等小学校の教師を務める。1936年(昭和11年)鶴岡市立図書館に司書として勤務し、同図書館館長を務める。1950年(昭和25年)以文会(現・致道博物館)が設立され評議員に就任。1955年(昭和30年)図書館館長を退職。
謝花 凡太郎(しゃばな ぼんたろう、1891年(明治24年)… 謝花 凡太郎(しゃばな ぼんたろう、1891年(明治24年) - 1963年(昭和38年))は日本の漫画家。児童文化史に大きな影響を与えた中村書店の人気作家として活躍した。苗字の読み方は「しゃか」だという説もある。 本名は殿木真三。東京都の日本橋出身。慶應義塾大学卒業後はサラリーマンを経て会社を起こすが、特定の職に就くことはなかった。40代以降に漫画を描き出し、1933年(昭和8年)に『びっくり突進隊』で中村書店からデビューする。戦後も『漫画少年』で数々の作品を発表した。 1940年(昭和15年)頃からは、漫画執筆とは別に中学校で書道を教えるようになり、戦後も漫画執筆と並行して行い、亡くなるまで従事した。
今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年… 今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年)は、日本の法律家、キリスト教伝道者。福音同志会の中央委員・日本基督教団中渋谷教会(日本基督教会)長老牧師を務めた。母の今泉みねは蘭学の家として知られる桂川家出身。母に回想録『名ごりの夢』口述を勧め、自らも『蘭学の家桂川の人々』を著した。 佐賀藩出身の検事今泉利春と今泉みねの三男として生まれる。東京帝国大学法学部を卒業。植村正久の後継者高倉徳太郎の神学を受け入れ、その協力者となり、「福音と現代」の発行を助けた。 1935年に月刊誌『みくに』を発行し、みくに運動を展開した。第二次世界大戦においては戦争協力の姿勢を示し、「キリストにより日本の国体を明らかにする」「皇国の使命を認識して、之をたすけることが最も神のみこころにかなうのである。
太田 謙吉(おおた けんきち、1891年 - 1963年)は… 太田 謙吉(おおた けんきち、1891年 - 1963年)は、日本の造園家、都市計画家。官庁の造園技師として、都市計画における公園緑地行政と、都市近郊の農林業用地の用途向上理論を究明した。 滋賀県に生まれる。1917年(大正6年)東京帝国大学農科大学農学科卒業後、明治神宮造営局に入局。神宮の造営にあたる。 1919年から都市計画官制が設けられた際、中央委員会の技手として内務省に入る。1933年から1938年にかけて東京緑地計画協議会技師、1938年から都市計画神奈川地方委員会技師兼地方技師として活躍する一方で、母校帝大農学部の講師として公共緑地学を園芸第二講座において講じた。 緑地計画協議会時代に努力して指定をみた神奈川県大桶山景園地の施設計画及び施工に着手するいっばう、湘南海岸公園の都市計画決定をみるなど、広域緑地計画に大きな功績を残した。
山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)… 山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)は、日本の技術者、実業家。 長野県岡谷市出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京帝国大学工科大学冶金学科卒業、官営八幡製鐵所(現・日本製鉄八幡製鉄所)入所。第2製銑課長、日本製鐵(現・日本製鉄)本店技術部長、広畑製鉄所製銑部長兼化工部長、同所技師長、同社常務取締役、同社代表精算人、同社監査役、日本鉄鋼協会会長を歴任。 官営八幡製鐵所、日本製鐵在職中は、製銑設備の拡充、改良に努めた。1981年日本鉄鋼協会共同研究賞(山岡賞)が設けられ、鉄鋼の学術技術における共同研究に多大な功績のあったグループに授与されている。
上林 大韶(かんばやし だいしょう、1891年 - 1979… 上林 大韶(かんばやし だいしょう、1891年 - 1979年?)は、日本画家、レタリング作家。本名、上林重徳。 日本の近代デザイン史において、杉浦非水と山名文夫の端境期に活躍した。 1908年4月、東京美術学校日本画科専科入学。本郷千駄木林町に住み、同年5月末に斜め向かいに引っ越してきた東京美術学校の教師鶴田機水の家に通ううちに門人となる。千駄木林町の上林の家は四軒続きの二階長屋で、二階東側に小出楢重、一軒おいて同じ二階に熊谷守一も下宿していた。この長屋の周囲には、小出の友人の信時潔をはじめ、高村光雲、中條精一郎、高村光太郎、結城素明、蔦谷龍岬、石井柏亭などが住んでおり、芸術家が多く集まっていた。
巌本 荘民(いわもと まさひと、1891年 - 没年不詳)は… 巌本 荘民(いわもと まさひと、1891年 - 没年不詳)は、日本の教育者、外交官。立教大学元教授。 1891年(明治24年)12月、父・巌本善治と母・若松賤子の長男として生まれる。 早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカに留学し、ハーバード大学に修学。 帰国後、外交官として在日米国大使館で務めたのち、立教大学教授に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は… 山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は、日本の木版画家。 1891年、長野県上伊那郡美篶村(現・伊那市)に生まれ、15歳で上京し木版彫刻家、武藤李吉に師事。やがて師匠に代わり読売新聞社に勤めるようになり、挿画を彫り木版の腕を磨くと同時に、黒田清輝率いる葵橋洋画研究所で美術を学んだ。 1926年には、文部省より欧米における版画についての調査を託され渡航。各国で視察と版画の実技を行いながら、後に着手するシリーズ『世界百景』の写生を進める。帰国後は、絵を描き、版を彫り、紙に刷るまでを単独で行う"創作版画"に取り組むいっぽう、横山大観や石川寅治ら画家の作品を版画にするなど精力的に活動した。
安倍 豊造(あべ とよぞう、1891年 - 1979年)は日… 安倍 豊造(あべ とよぞう、1891年 - 1979年)は日本ホーリネス教会の牧師、戦後は日本基督教団ホーリネスの群の牧師。 秋田県鹿角郡宮川村に生まれた。幼少の頃は、医師になることを目指した。秋田県小坂町の東洋宣教会の伝道館で大沢豊助によって入信した。 後に、柏木聖書学院に入学して、卒業後に日本ホーリネス教会の伝道者として、福島、青森、千葉、仙台、東京で働いた。1933年のホーリネス分裂事件の際には委員側に加わり、1936年の和協分離後は日本聖教会の牧師になった。 1937年6月に日本聖教会の東京都中野区の更生教会の牧師に就任した。1941年日本基督教団第6部の牧師になる。1942年6月ホーリネス弾圧事件の時には、2年間拘禁された。
妹尾 知之(せのお ともゆき、明治24年〈1891年〉 - … 妹尾 知之(せのお ともゆき、明治24年〈1891年〉 - 昭和59年〈1984年〉)は、日本の海軍軍人。海軍中将。海軍兵学校40期生。海軍大学校22期生。
戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10… 戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得し、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立して設計活動した。 戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。 1959年に造園家アメリカ協会 (ASLA) メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
美川 秀信(みかわ ひでのぶ、1891年?(明治24年?) … 美川 秀信(みかわ ひでのぶ、1891年?(明治24年?) - 1940年(昭和15年)1月11日)とは、戦前の日本及び日本統治時代の朝鮮の水産業技師である。 また「日本マラソンの父」金栗四三と共に東京高等師範学校に入学した、金栗四三の熊本県の同郷の同級生として有名である。 熊本県玉名郡南関町の士族・美川家に生まれる。 玉名北高等小学校(現在の南関町立南関第三小学校)、旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校)を通して金栗四三の同級生であった。 そして1909年(明治42年)、美川は両親の勧めもあったが「東京へ行きたい」がために金栗を誘い、熊本県で行われた東京高等師範学校の出張入学試験を共に受け、熊本県からは4人の、そして玉名中学校から金栗四三と共に「たった2人の合格者」として東京高師に合格した。
佐藤 正典(さとう まさのり、1891年(明治24年) - … 佐藤 正典(さとう まさのり、1891年(明治24年) - 1985年(昭和60年)1月1日)は、日本の教育者、化学工学者。南満州鉄道中央試験場所長、大阪府工業奨励館館長、(株)科学研究所(現・理化学研究所)社長、千葉工業大学第4代学長、日本国政府人事院人事官、日本化学会会長、理化学研究所相談役などを歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋康順(たかはし こうじゅん、1891年〈明治24年〉- … 高橋康順(たかはし こうじゅん、1891年〈明治24年〉- 没年不明)は、日本の農商務・商工官僚、満州国官僚。 1891年、秋田県仙北郡金沢村で平民・高橋兵蔵の長男として誕生。第一高等学校を経て、1914年、高等文官試験に合格・1916年に帝国大学仏法科を卒業。 農商務省に入省し、商工局に配属される。臨時産業調査局事務官 農商務事務官、鉱山監督局書記官、特許局事務官、抗告審判官、商工書記官、鉱山局鉱政課長、臨時産業合理局事務官、大臣官房文書課長、東京鉱山監督局長、特許局事務官審判部長を歴任し、1933年退官。 満州国に招かれ、実業部理事官、総務司長兼特許発明局長兼臨時産業調査局長、1933年6月21日から1936年8月25日まで実業部総務司長を務め、1936年8月25日から10月まで次官に相当する実業部次長と総務司長を兼ねた。
都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1… 都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1981年(昭和56年)6月20日)は、日本の彫刻家である。 石川県金沢市の生まれ。中学時代は素行不良により数回転校を繰り返し、多くの中学校にて学んだ。後に青木外吉からの推薦により、石川県立工業高等学校に入学し彫刻家としての活動を始める。卒業後は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学し、卒業後は帝展出品のために動物や歴史上の人物、仏像等幅広い分野の彫刻像の製作にあたった。 しかし帝展への出品までには7度出品されたもののいずれも落選し、1920年(大正9年)に開催された第8回帝展でようやく入選されるという苦戦の人生を送る。入選後は朝倉文夫の門人となり、師匠の技法を元に彫刻を学んだ。
梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初,… 梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初, 拼音: Liáng Fúchū, 粤拼: loeng4 fu4 co1; 1891年 - 1968年12月26日)は、中華民国、中華人民共和国の野球選手、野球指導者。 戦前、戦後中国において各地で野球の普及活動を行い、中国野球の父と呼ばれる。 広東省香山県(現・中山市東昇鎮、後に小欖鎮に合併)で生まれる。幼名は梁澄樹。1901年、10歳時に一家で来日、横浜で暮らしていたが、そこで野球に出会う。1905年、14歳のときに兄弟や近所の華僑少年と共に「中華野球団」を結成した。明治大学でも野球を続け、捕手、一塁手としてプレーしたのち、本牧十二天のグラウンドで中華野球団を指導した。
松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 -… 松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 - 1983年1月28日 )は、日本の実業家、政治家。新潟県佐渡郡相川町長・新潟県議会議員・佐渡汽船社長、会長などを務めた。 新潟県佐渡郡金丸村金丸の舟崎家の出で、相川の素封家松栄家に婿入りした。1889年の相川町の長者番付では、秋田藤十郎・幅野長蔵に次いで養父の松栄治作が3位にランクされている。 1915年早稲田大学商学部を卒業、1918年から町会議員を5期20年務める。この間郡会議員に2回当選。また1923年9月と1935年9月に県議に、高位当選している。相川町長は、1926年8月から1927年7月までと、佐渡鉱山の縮小騒ぎが起きた1928年6月から約1年余、推されて難しい時期の町政を担った。
富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年1… 富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年12月29日 - 1978年9月13日)は、韓国海苔の生産向上に貢献した日本の水産学者。 1890年12月29日広島県沼田郡安村(現・広島市安佐南区)生まれ。東京帝国大学水産学科卒業後、1919年から朝鮮総督府勤務。同水産試験場主任技師として水産養殖、加工研究に従事。特に海苔養殖と加工で独自の養殖技術を開発、生産量を向上させた。朝鮮半島での海苔養殖が盛んになるのは、日本が韓国併合した1910年前後からで、広島出身者を中心に多くの民間養殖業者が渡航、移住し日本式の養殖技術が導入され各地に広まった。しかし品質に問題があったため、富士川ら学者・技術者がこれの改善、品質の均一化等の研究を進めた。
嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月… 嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月25日 - 1967年(昭和42年)6月28日)は、日本の冶金学者。九州工業大学及び西日本工業大学学長を務めた。 1890年12月25日、佐賀市に生まれる。佐賀中学5年生の時、明治専門学校総裁を務めていた山川健次郎の講演に触発されて1909年に私立明治専門学校(現・九州工業大学)1期生として冶金科に入学する。 卒業後明治鉱業に入社、米国リーハイ大学留学を経て、1925年に母校の教壇に立つ。爾来36年間に亘って、明治専門学校、明治工業専門学校、九州工業大学の教育研究に大きな足跡を残した。その間、水素還元製法による超高純度鋼いわゆる嘉村鋼の発明により帝国発明協会表彰、鉄の磁気的性質に及ぼす燐の影響に就いての論文に対して日本鐵鋼協会表彰など鉄冶金界に名声を刻し、九州大学より工学博士の学位を授与される。
小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月… 小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉10月27日)は、日本の法律家。最高裁判所裁判官、弁護士。 1890年(明治23年)12月24日、京都府に生まれる。子供の頃は「とても7歳までもつまい」と医者に言われたほど体が弱く、弱い者びいきとして弁護士を志す。1914年(大正3年)、法政大学専門部法律科を卒業する。弁護士試験に合格後、大阪で開業する。 1929年(昭和4年)、大阪弁護士会副会長に、1946年(昭和21年)、大阪弁護士会会長に就任する。1941年(昭和16年)『日本取引所法制史論』で法政大学より法学博士を授与される。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)、最高裁判所裁判官に任命される。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月… 大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 香川県木田郡氷上村(現在の三木町)出身。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。同年、高等文官試験に合格し、翌年に朝鮮総督府試補となった。道事務官、咸鏡北道財務部長、慶尚南道財務部長、京畿道財務部長、全羅北道内務部長、平壌府尹、釜山府尹、京畿道内務部長などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、東亜窒業株式会社社長、協同油脂株式会社社長、満州協同油脂株式会社社長、協同油脂販売株式会社社長、協同油脂製函株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社取締役、朝鮮水産開発株式会社顧問、朝鮮協同海運株式会社相談役などを務めた。
丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉1… 丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉11月4日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県出水郡出水町(現出水市)に生まれる。1908年(明治41年)台湾総督府に奉職し、通信局勤務、土木局庶務課勤務、総督官房会計課勤務を経て、1936年(昭和11年)12月に地方理事官に進み、台南市助役となった。その後は、台北州羅東郡守、同州基隆郡守を経て、1942年(昭和17年)4月に退官し、皇民奉公会中央本部主事に就任した。 戦後は、日本基督教団阿久根伝道所長老となった。
柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 -… 柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 - 1973年1月26日)は、日本の右翼で教育者。国士舘創立者。正四位勲二等、瑞宝章受章。経済学博士。
大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)… 大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)12月20日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。海軍司政長官。弁護士。 長野県に石田善吉の三男として生まれ、大河原昇五郎の養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、朝鮮銀行に入ったが翌年に退職した。1919年(大正8年)に司法官試補となり、東京地方裁判所判事、土浦区裁判所検事・水戸地方裁判所検事、八日市場区裁判所検事・千葉地方裁判所検事、東京区裁判所検事・東京地方裁判所検事を歴任。 1930年(昭和5年)、朝鮮総督府道事務官に転じ、咸鏡北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長、慶尚北道警察部長、咸鏡北道内務部長、忠清南道内務部長、釜山税関長を務めた。
谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1… 谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1971年12月14日)は、日本の英文学者、小説家。早稲田大学教授。小説家谷崎潤一郎の弟。 東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)出身。谷崎倉五郎の二男。生家は母方の祖父が事業に成功したため、当初は裕福だったが、父が事業に失敗し、次第に零落、兄潤一郎は家庭教師をして糊口を凌いだが、精二は阪本尋常小学校高等科を経て工手学校(現在の工学院大学)に通った。卒業後は通信技手をしていたが、しかし兄の影響もあって文学を志し、国民英学会、正則予備校に通い、1909年、早稲田大学高等予科英文科入学、同期に広津和郎があり、坪内逍遥、相馬御風、島村抱月らの指導を受けた。
内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)1… 内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)12月19日~1987年(昭和62年)4月10日)は、庄内町名誉町民、元日本水彩画会理事長の画家。 1890年(明治23年)12月19日、山形県東田川郡余目町大和村古関(現庄内町古関)の寺院・玄通寺の二男として生まれる。1913年(大正2年)山形県師範学校本科第一部卒業。22歳で小学校の教師となるも25歳で上京し、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。しかし、生活苦により中退。東京で教師として務めるながら、画家の石井柏亭、石川寅治に師事する。 1927年(昭和2年)美術および美術教育を研究するためにヨーロッパへ留学。1928年(昭和3年)パリに渡り、画家のアマン・ジャンやオットン・フリエスに師事する。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 19… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 長野県南安曇郡温村(現在の安曇野市三郷温下長尾)に生まれた。務台理作とは同郷で、南安曇郡温村立長尾尋常小学校以来の同級生であった。梓農業補習学校に学んだ後、1908年に長野県師範学校(信州大学教育学部の前身のひとつ)に入学し、1912年に卒業して教師となり、以降、訓導、校長、県視学官などを務めた。 松岡は師範学校在学中に手塚縫蔵と知り合い、キリスト教に入信し、松本市の聖公会で受洗した。松岡は、長野県師範出身者を中心として青年教師らが集まっていた東西南北会に参加しており、1912年に最初に着任した南安曇郡温明小学校で校長排斥運動に関与したが、岡村千馬太に諭され、同校を去った。
玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - … 玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は菊沢 敬之助(旧姓は山内)。 1890年(明治23年)12月19日、愛媛県宇和島市に生まれる。東京の私立商工中学を中退後、独学で教員免状を取り、小学校に8年間勤務した。また、その間に川端画学校で西洋画を学び、十数年の間絵画の製作を続けた。 1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に開設された佐藤紅緑主宰の俳優養成所に年齢超過で資格がないのを無理に頼んで入所する。同年に『海国の母』で映画デビューし、脇役として細山喜代松監督『赤熱の力』等に出演。やがて等持院撮影所に移籍し、多くの作品で老け役、敵役を演じた。