つのだ じろう(本名:角田 次朗〈読み同じ〉、1936年〈昭… つのだ じろう(本名:角田 次朗〈読み同じ〉、1936年〈昭和11年〉7月3日 - )は、日本の漫画家・心霊研究家。東京府東京市下谷区豊住町(現:東京都台東区下谷1丁目)出身。血液型O型。八人兄弟の次男であり、次弟のつのだたかしはリュート奏者、末弟のつのだ☆ひろはミュージシャン。漫画原作者・ゲームクリエイターのビトウゴウは息子である。 当時の下谷区豊住町で床屋を営む家に生まれ育つ。小学2年生のころ空襲を避けるため一家で福島県に疎開、戦争が終わった中学2年生の時に東京に戻る。新宿区立淀橋中学校(現:新宿区立西新宿中学校)、東京都立青山高等学校卒業。 高校在学中に自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、一方のチームの監督が漫画家の島田啓三であることに気づく。
東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)… 東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)、1936年〈昭和11年〉5月31日 - 1988年〈昭和63年〉7月6日)は、日本のコメディアン、タレント。昭和を代表するコメディアンの一人。妻との間に3男2女があり、次男はお笑いコンビ・Take2の東貴博、三男はタレントの東朋宏。タレントの安めぐみは義娘(次男・貴博の妻。ただし、東の死去から23年後の2011年に結婚したため、生前に面識は無い)にあたる。 東京府東京市浅草区 (現・東京都台東区浅草) 出身。父は岐阜県大垣市の出身で皇宮警察官であった。戦時中に家族とともに名古屋市に疎開し、名古屋時代の親友にプロゴルファー塩谷育代の父親がいた。
小畑 千代(おばた ちよ、1936年3月5日 - )は、女… 小畑 千代(おばた ちよ、1936年3月5日 - )は、女子プロレスラー。本名は小沢千代子(おざわ ちよこ)、千代子の命名者は長兄である小沢喜三(おざわ よしみつ)、小畑千代のリング名は東京女子プロレス社長による。日本女子プロレス・国際プロレス女子部のエースとして活躍した。東京都台東区出身。 1955年1月、フランス座で知られた東洋興業によって旗揚げされた東洋女子プロレス(媒体によっては東京女子プロレスとも表記)でデビュー。妹である小畑紀代(本名:小沢清子)も同団体のレスラーだった。当時の小畑のことを稲垣正浩は「女子プロレス草分けの花形ヒロイン」「戦後の日本社会に(稚児のお遊びと思われていた)女子プロレスを認知させた人物」と記述している。
内海 好江(うつみ よしえ 、本名・奥田 好江、1936年〈… 内海 好江(うつみ よしえ 、本名・奥田 好江、1936年〈昭和11年〉2月23日 - 1997年〈平成9年〉10月6日)は、日本の漫才師。東京市浅草区(現・東京都台東区)出身。マセキ芸能社に所属し、内海桂子・好江の名で内海桂子と女性漫才コンビとして活動していた。 両親は夫婦漫才師の荒川小芳・林家染寿。1945年にデビュー。女剣劇や父娘漫才を経て、1950年の14歳の時に内海桂子と女性漫才コンビ「内海桂子・好江」を結成。 三味線教室へ通い毎日10時間以上の猛練習を行い、猛スピードで成長。1958年、4度目の挑戦で『NHK新人漫才コンクール』で優勝。その前年は、準優勝だったことを桂子から「好江のせいだ」と当たられ自殺未遂を起こしたことがある。
鏡味 健二郎(かがみ けんじろう、1935年3月21日 - … 鏡味 健二郎(かがみ けんじろう、1935年3月21日 - 2020年5月16日)は、日本の太神楽曲芸師。本名:鈴木 茂男。東京都台東区出身。実父は、5代目古今亭今輔。太神楽曲芸協会および落語芸術協会(参与)会員。 この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。
三代目 翁家 和楽(おきなや わらく、1933年(昭和8年)… 三代目 翁家 和楽(おきなや わらく、1933年(昭和8年)12月19日 - 2014年(平成26年)9月3日)は、太神楽曲芸師。 この項目は、落語家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:舞台芸術/PJ:お笑い)。
大川 寛(おおかわ ひろし、1933年2月21日 - 201… 大川 寛(おおかわ ひろし、1933年2月21日 - 2011年3月22日)は、日本の元プロボクサー。本名は小川 寛(おがわ - )。戸籍上の出生地は千葉県山武郡片貝町であり、出身地は東京都台東区浅草。元日本フェザー級(2度獲得)・ライト級、OBF東洋ライト級・ジュニアライト級王者。現役時代は共栄ジム(後の極東ボクシングジム、現在の極東ボクシングクラブ)所属。大川ボクシングジムを開設し、その初代会長を務めた。 脚が長く均整のとれた体を持ち、左右のフックやスピードのある右ストレートを武器に3階級5王座を制覇した技巧派である。 極東ジムが秋山政司、大越利晴といった日本王者らを抱えて全盛期を迎えていた当時、後に精密機械と言われる世界王者沼田義明を育てた小高伊和夫会長の愛弟子であった大川が本名の小川を変えて戦ったのは、心臓が小さいのは名前からきていると小高会長が案じたためであった。
河内 桃子(、1932年〈昭和7年〉3月7日 - 1998年… 河内 桃子(、1932年〈昭和7年〉3月7日 - 1998年〈平成10年〉11月5日)は、日本の女優。本名は久松 桃子、旧姓大河内。血液型はO型。俳優座所属。 東京府東京市下谷区谷中出身。日本女子大学附属高等学校卒業。 昭和20年代にデビューした女優としては久我美子と並ぶ名家出身で、祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏、父は正敏の次男で画家であった大河内信敬。夫は今治松平家末裔でテレビプロデューサーの久松定隆。 高校卒業後、OLをしていたが[要出典]、1953年に東宝ニューフェイスの6期生として東宝に入社。同期には宝田明、佐原健二、藤木悠、岡田眞澄がいる。入社した年の『女心はひと筋に』で映画初出演を果たす。
すぎやま こういち(本名:椙山 浩一〈読みは同じ〉、1931… すぎやま こういち(本名:椙山 浩一〈読みは同じ〉、1931年〈昭和6年〉4月11日 - 2021年〈令和3年〉9月30日)は、日本の作曲家・編曲家・指揮者。位階は従四位。 日本作編曲家協会(JCAA)常任理事、日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員、日本カジノ学会理事、日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。 1931年、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)で、椙山庸吉、蔦子の長男として生まれる。 父親の庸吉は1907年、奈良藩士の末裔である椙山家の人物と小学校教頭であった母の間の一人息子として神戸市に生まれ、旧制大阪高等学校を経て東京帝国大学薬学部を卒業後、昭和薬科大学で教鞭を執り、1938年より愛知県庁の衛生技官を務め、1942年に厚生省本省に転じ、1952年に保安庁に出向したという経歴を持つ人物だった。
二代目 市川寿猿(にだいめ いちかわ じゅえん、1930年(… 二代目 市川寿猿(にだいめ いちかわ じゅえん、1930年(昭和5年)5月20日 - )は、歌舞伎役者。東京都出身。屋号は澤瀉屋。定紋は三ツ沢瀉(喜猿時代の定紋は「桔梗鶴」)。澤瀉屋一門の長老格にして、歌舞伎界全体でも2024年(令和6年)現在、現役最高齢の役者。 東京(当時東京市)・浅草生まれ。3歳で女かぶきの坂東勝治一座に入門。女かぶきは女性の役者を中心に歌舞伎の演目を見せる芸能で、坂東勝治一座は全国を巡業する旅芸人の一座だった。舞台を志したのは役者になりたかったのになれなかった実母に託されたためと本人は語っている。戦後の1947年(昭和22年)八代目市川八百蔵(のちの八代目市川中車)に入門し、市川七百三郎を名乗り大歌舞伎の世界へ入る。
田沼 武能(たぬま たけよし、1929年2月18日 - 20… 田沼 武能(たぬま たけよし、1929年2月18日 - 2022年6月1日)は、日本の写真家。文化勲章受章者。東京工芸大学名誉教授、文化功労者、一般社団法人日本写真著作権協会会長。位階勲等は従三位勲三等。 サンニュース・フォトス、サン通信社での勤務を経てフリーランスとなり、東京工芸大学芸術学部教授、社団法人日本写真家協会会長(第5代)などを歴任した。 東京府出身の写真家である。サンニュース・フォトスに入社するも、倒産にともないサン通信社に移籍し、その後フリーランスとなった。主に世界の現状、子供達の姿を撮影する。なお、『芸術新潮』やアメリカ赤十字社においては嘱託として活動し、『ライフ』では契約写真家として活動した。
小幡 欣治(おばた きんじ、1928年6月12日 - 201… 小幡 欣治(おばた きんじ、1928年6月12日 - 2011年2月17日)は、日本の劇作家。 東京市浅草区(現・東京都台東区)出身。東京都立京橋化学工業学校(後の東京都立羽田工業高等学校で、現在の東京都立つばさ総合高等学校)卒業。 元々演劇や文学に傾倒しているわけではなかったが、演劇雑誌の懸賞募集に初めて戯曲を書いて入選したのをきっかけに、1950年に「悲劇喜劇戯曲研究会」に入会。工員、セールスマンなどを務める傍ら演劇界での活動を続け、1956年に「畸生児」で第2回新劇戯曲賞(後の岸田國士戯曲賞)を受賞。菊田一夫の後継者存在とも言われたことがあった。1975年芸術選奨新人賞受賞。それ以降商業演劇だけでなく新劇を手掛け、1999年には第7回「山本安英の会」記念基金に贈られた。
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 … 渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。 没後に国民栄誉賞を受賞している。 1928年3月10日、東京府東京市下谷区(現:台東区下谷)で、地方新聞の記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄・健一郎がいる。 1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。
杉本 幸治(すぎもと こうじ、1927年4月27日 - 20… 杉本 幸治(すぎもと こうじ、1927年4月27日 - 2011年3月13日 )は、書体設計者。三省堂勤務を経て、リョービイマジクスの本明朝を制作・監修した。タイポデザインアーツ主宰。 東京市下谷区(東京都台東区下谷)生まれ。東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)印刷科卒業。 1947年に三省堂入社。今井直一の元で本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、ベントン父型・母型彫刻システムの管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。 独自に明朝体活字の開発を進めようとしていた晃文堂の社長・吉田市郎からスカウトを受ける。三省堂にとどまった杉本は、晃文堂の新書体開発に構想段階からプライベートに監修するような立場で関わることになった。
小倉 保己(おぐら やすみ、1925年(大正14年)- 20… 小倉 保己(おぐら やすみ、1925年(大正14年)- 2013年(平成25年)5月27日)は、日本の歯学者・医学者・薬理学者。専門は、歯科薬理学。医学博士(千葉大学・論文博士・1959年)。石巻専修大学第2代学長。東北大学名誉教授。学校法人専修大学元顧問。小倉隅仙の号で書家としても活動。 東京市浅草区にて出生。旧制・成蹊高等学校(理科甲類)卒業。 1946年千葉医科大学医学部卒業し、千葉医科大学医学部薬理学教室(小林龍男教授)助手。その後、パリ大学医学部留学(Jean CHEYMOL教授に師事)、千葉大学医学部講師、同大学腐敗研究所助教授を経て、東北大学歯学部教授。フグ毒研究の権威。同歯学部長を務めた後、1988年東北大学停年退官。
石田 五郎(いしだ ごろう、1924年〈昭和9年〉2月21日… 石田 五郎(いしだ ごろう、1924年〈昭和9年〉2月21日 - 1992年〈平成4年〉7月27日)は、日本の天文学者・文筆家。理学博士(東京大学・論文博士・1978年)。元東京大学教授。 萩原雄祐に師事。自称・二世天文屋。但し、石田にとって初代の天文屋とは野尻抱影のことであり、決して学問上の恩師である萩原のことではない。 東京天文台(三鷹市)に1年、かつて麻布狸穴町にあった東京大学理学部天文学教室に9年、東京大学東京天文台(現:国立天文台)岡山天体物理観測所に24年勤務した。 天文学者である一方で、歌舞伎や能などの日本伝統芸能・文学・美術・音楽などの広い分野に造詣が深く、『天文台日記』をはじめとする一般向け書籍を多く上梓した文筆家としても知られる。
太宰 久雄(だざい ひさお、1923年〈大正12年〉12月2… 太宰 久雄(だざい ひさお、1923年〈大正12年〉12月26日 - 1998年〈平成10年〉11月20日)は、日本の俳優。大宰 久雄と表記されることもある。 映画『男はつらいよ』シリーズのタコ社長(桂梅太郎)役で有名な俳優である。同映画において渥美清演じる車寅次郎との掛け合いは見所のひとつであった。 東京市浅草区千束町(現在の東京都台東区浅草千束)出身。浅草の荒物雑穀商、海苔問屋・佐野屋の息子として生まれる。タコ社長役で見られた髪型は、父・久吉をモデルにしたもので、当時の浅草の海苔問屋の商人たちの間で流行っていた髪形であるといわれている。この独特のウェーブは魚の鯔の背中の姿を模しているため、イナセと呼ばれる江戸時代に流行ったスタイルでもあった。
金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27… 金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1995年〈平成7年〉1月20日)は、日本の俳優・料理研究家・司会者・タレント。妻は丹阿弥谷津子。愛称は「ネコさん」。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身。母方の祖父は元彰義隊で、厳しい家系で家族親族からは役者になったことをずっと「河原乞食」と蔑まれていたという。歯科医の家庭に生まれたが、小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送った。中学から下谷で育ち、京華学園を卒業。 役者に興味はなく、久保田万太郎直筆の推薦状を持った友人の付き添いで文学座に行ったら、中村伸郎に軽くあしらわれたことに腹を立て、出入りしていた錦町岸の錦橋閣の息子・奥野匡から「もし、やるなら演出部に来い」と言われ、「文学座に行けば女の顔が見れるだろ」と冷やかしで、1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入りする。
池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年〈大正12年… 池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年〈大正12年〉1月25日 - 1990年〈平成2年〉5月3日)は、戦後の日本を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、映画評論家としても著名であった。映画ではとりわけフランス映画の名作、とりわけフィルム・ノワールを好み、監督ではジュリアン・デュヴィヴィエや俳優ジャン・ギャバンを敬愛している他、美食家(食通)として多くのエッセイを著している。 1923年(大正12年)1月25日、東京市浅草区聖天町(現:東京都台東区浅草7丁目)に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男であった。
内海 桂子(うつみ けいこ、本名:安藤 良子(あんどう よし… 内海 桂子(うつみ けいこ、本名:安藤 良子(あんどう よしこ)、1923年〈大正12年〉1月12日 - 2020年〈令和2年〉8月22日)は、日本の芸人、漫才師、女優。漫才協会名誉会長、マセキ芸能社所属。 内海好江と約半世紀に渡って音曲漫才コンビ内海桂子・好江(1950年 - 1997年)を組んで人気となった。今村昌平との縁で横浜放送映画専門学院(当時)の専任講師も務めた。 桂子の当時の相方と好江の母親が兄弟弟子という縁で、当時14歳の好江を預けられる形でコンビを組んだ。好江とは14歳差で血縁関係はない。 好江の没後は漫才協団会長として東京演芸界を率いる傍ら、最古参の現役ピン芸人として都々逸や漫談、「名鳥名木 何の木に留めた」、「○○尽くし」などの軽口もこなした。
朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014… 朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。the companyのアソシエイツメンバー。 東京府東京市下谷区谷中(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。 父・朝倉文夫により幼い頃から英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が彼女の中に擡げてきたところがあり、それにより日本画家として生きていかんとする意思を抱いたとNHKは報じている。 画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。
荻原 賢次(おぎはら けんじ、1921年10月30日 - 1… 荻原 賢次(おぎはら けんじ、1921年10月30日 - 1990年1月7日)は、日本の漫画家。 祖先は松本藩士であったという。神奈川県横浜市で生まれ、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)の「職人の多い下町」で育つ。少年時代に、湯島聖堂の斯文会で『日本外史』などを通じ、漢文に親しみ、歴史の素養を身につける。小島尋常小学校卒業後、商業補習学校、研数学館などを転々とする。この間、川端画学校を中退したほか、クロッキー研究所に在籍している。クロッキー研究所ではのちにともに漫画家になる根本進、塩田英二郎、上田トシコ、永井保らと知り合う。 自作漫画を雑誌に投稿して頭角を現すと、1939年には永井に、その永井が所属する若手漫画家のグループ「漫画突撃隊」へ勧誘される。
東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 … 東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、東京市下谷区(現・東京都台東区)出身で高砂部屋(入門時は富士ヶ根部屋)に所属した大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。本名は井上 謹一(いのうえ きんいち)。 子供時代から巨躯・怪力で、大人に交じって家業の鉄工所を手伝っていたことから“下谷に怪童あり”と評判になる。その評判を聞きつけた富士ヶ根が勧誘して入門させ、1936年1月場所に初土俵を踏む。しかし、緊張から鍛え上げられた力を発揮できずに前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下時代から双葉山定次に目をかけられ、「キン坊、来い」と呼ばれては猛稽古で鍛えられた。
暁 テル子(あかつき てるこ、1921年1月21日 - 19… 暁 テル子(あかつき てるこ、1921年1月21日 - 1962年7月20日、本名:関根 ひさ)は、昭和20年代に活躍した日本の歌手、女優。愛称は「テリー」。 SSK(松竹少女歌劇団)出身。 1933年(昭和8年)、子役でデビュー。 1939年(昭和14年)準幹部となり、並木路子らと4人のジョリー・シスターズで活躍。 1941年(昭和16年)古川ロッパ一座に入団。東宝、松竹の舞台でも活躍。 戦後はアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)専属となり外国人兵から「テリー」と愛称で呼ばれ人気を博した。 1948年(昭和23年)大映と契約し、『春爛漫狸祭』で映画デビュー。 1949年(昭和24年)、照子からテル子に改名。
伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう … 伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう よしろう)、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本の俳優。「ゆうのすけ」は雄之助・雄之弼・侑之助でクレジットされている映画もある。 兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。 1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。
加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 199… 加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 1998年3月13日)は、日本の大正、昭和の庶民史、世相・風俗・文化史などの評論家・庶民文化研究家・紙芝居作家。 東京市浅草区神吉町(現・東京都台東区東上野四丁目、五丁目辺り)の貧困家庭に生まれ、荒川区尾久に育つ。本名は加太一松(かぶと かずまつ)だが、名門の加太家の血筋を誇る父に反発し、尋常小学校5年の時から「かた」と名乗るようになった。父親が働かないため関東大震災前に母親と別れ、大商人の妾をしていた伯母(父親の姉)に育てられる。 紙芝居の世界に入ったのは高等小学校在学中の14歳の時。高等小学校卒業後、師範学校への進学を希望していたが、給費制度廃止のために断念し、紙芝居の世界で働く。
大宮 敏充(おおみや としみつ、1913年4月13日 - 1… 大宮 敏充(おおみや としみつ、1913年4月13日 - 1976年12月23日)は昭和時代に浅草を中心に活躍したコメディアンである。本名は恒川 登志夫(つねかわ としお)。 「大宮デン助」はあるいは単に「デン助」という愛称で広く知られている人物。彼が演じるキャラクター「デン助」は、戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡した。脚本を執筆する際のペンネームは「言問 三平」。 東京府東京市浅草区(現:東京都台東区浅草)生まれ。旧制第二東京市立中学校※五年制(現:東京都立上野高等学校)を3年で中退後、当時のスター歌手・田谷力三に憧れ芸能界入り。実家からは勘当され独力でタップダンスを習得、これを糧にする。1939年、26歳にて大宮登志夫の芸名で一座を結成。
梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年… 梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年1月20日)は、将棋棋士、九段。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は12。東京府東京市(現:東京都台東区)の生まれ。 元号が明治から大正に変わる前月の明治45年(1912年)6月の生まれである。 1928年、土居市太郎に入門。同年9月に関東の奨励会が創設されている。 プロ入り(四段昇段)は1934年。以降昇段を重ね、戦時中の1943年に八段まで上り詰める。 戦後に始まった第1期順位戦(1946年度)では、A級(八段リーグ)からスタート。4勝9敗の成績で陥落枠7名の中に入り、第2期はB級で指す。 第11期(1956年度)B級2組順位戦で2位(9勝4敗)の成績を収め、B級1組に復帰。
市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわ… 市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわしま たけお)1912年2月17日 - 1992年5月6日)は、日本の俳優である。テレビ「暴れん坊将軍」などに出演。社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 -… 阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 - 1940年代)は、日本の俳優である。本名阿部 正太郎(あべ しょうたろう)、旧芸名片岡 市女男(かたおか しめお)。1930年代の松竹蒲田撮影所において、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」で知られる。 1912年(明治45年)1月15日、東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)に生まれる。生年月日については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』には同年「2月15日」とされている。父・阿部三之助は、芝居関係の仕事をしていた人物であるとされる。 数え年9歳になった1920年(大正9年)、父の仕事をきっかけに、新派の河合武雄一座に入門し、九州巡業で初舞台に立つ。
市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年… 市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。市川 龍男と表記されることもある。本名は有田 信一(ありた しんいち)。旧芸名は市川 市松(いちかわ いちまつ)、市川 新藏(いちかわ しんぞう)、有田 晃之助(ありた こうのすけ)。父・市川幡谷と共に、マキノ・プロダクションなどのサイレント映画で活躍した二枚目俳優である。 1911年(明治44年)11月5日、東京府東京市浅草区花川戸(現在の東京都台東区花川戸)に、映画俳優市川幡谷(本名有田松太郎、1888年 - 没年不詳)の子として生まれる。生年月日については、1910年(明治43年)11月1日の説もある。
大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 197… 大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 1979年1月14日)は、将棋棋士。棋士番号7。東京府東京市(現:東京都台東区)出身期。木見金治郎九段門下。 東京出身だが大阪の棋士・木見金治郎の内弟子となる。同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。1929年に四段昇段。 戦前は居飛車党だったが、戦後の1947年(昭和22年)に順位戦がスタートした際に、振り飛車を積極的に採用するようになる。それまで2日制以上の長丁場が当たり前だった対局が「持ち時間各7時間の1日制」に短縮されたことから、居飛車と比べてあまり長考の必要がない振り飛車を採用したとされる。この結果、江戸中期以降は廃れていた振り飛車をプロの戦法として復活させ、「振り飛車の神様」の異名を持つ。
中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5… 中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5日 - 1988年(昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。本名、木庭一郎(こば いちろう)。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者、日本芸術院会員。私小説批判で有名。
亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 200… 亀井 トム(かめい とむ、1910年12月29日 - 2000年?)は、日本のジャーナリスト。『週刊埼玉』社長。本名、亀井 兎夢。出生名、久松 兎夢。トム・カメイ名義による著作もある。 子爵久松定弘(旧姓、大河内)の六男として東京市下谷区(現・東京都台東区)に生まれる。1928年、東京府立一商(現・東京都立第一商業高等学校)卒。日本大学専門部経済学科を2年で中退し、叔父の湯目補隆(ゆのめ すけたか、旧制大阪高校や旧制第二高校の校長を歴任)の私塾で学ぶ。1933年、亀井家の養子となる。 埼玉県川越市に住み、1953年から地方新聞『週刊埼玉』を発行。1970年1月、日本国民救援会系の「石川さんを守る会」川越地区の岸野茂(農林技官)と杉山英夫(横川元代議士襲撃事件被告人、大井医院事務長)の来訪と資料提供を受け、1970年2月から同紙で「狭山事件の再検討」を月1回特集する。
石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 19… 石井 英子(いしい ひでこ、1910年12月15日 - 1998年6月7日)は、講談の定席として知られた東京・上野の寄席「本牧亭」の経営者。 寄席「鈴本亭」(鈴本演芸場)の席亭であった鈴木孝一郎の三女として、東京・上野に生まれる。東京府立第一高等女学校(後の東京都立白鷗高等学校・附属中学校の前身)を卒業した。 曲芸師であった春本助次郎(2代目)と結婚し、娘2人をもうけるが、5年で死別する。 父・鈴木孝一郎は、戦後1948年に再開した本牧亭の経営を英子に委ね、席亭とした。1950年以降、本牧亭は40年にわたって講談の定席として維持されたが、1990年に閉場した。 1992年には、池之端の料理屋の2階に場所を移し、「池之端本牧亭」として、定員30人の小規模な形で本牧亭を再開したが、以降の経営は娘夫婦に委ね、長女の清水孝子を席亭とし、その夫清水基嘉を本牧亭社長として、自らは会長となって「隠居」を自称していた。
今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1… 今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1978年6月28日)は、東京市浅草区雷門(現:東京都台東区雷門)出身の俳優。本名は小野寺 幸男。旧芸名は今村 原兵、今村 原平、今村 源平。 専修商科学校卒業。1929年に新東京歌劇団文芸部に入る。俳優に転向し、天勝一座を経て、1934年から俳優の草間実に師事。帝国キネマ、新興演芸を経て、1939年に吉本興業に入社。1944年に「今村原兵楽劇団」を創立。1946年にムーランルージュ新宿座に入り、1951年の解散まで在籍。その後は衣笠プロ、東京俳優生活協同組合などに所属していた。 1978年6月28日、脳出血の為、東京都世田谷区駒沢の国立第二病院で死去。
二代目 江川 マストン(にだいめ えがわ マストン、1910… 二代目 江川 マストン(にだいめ えがわ マストン、1910年2月12日 - 1998年9月6日)は、日本の曲芸師、軽業師である。初代についてはほとんど知られていない。「江川の玉乗り」で知られる。本名迫 與三郎(さこ よさぶろう)。 1910年(明治43年)2月12日、東京府東京市浅草区仲町(現在の東京都台東区浅草)に初代空中軒マストンの長男として生まれる。 「江川の玉乗り」は、1884年(明治17年)に区画整理により東京の「浅草公園六区」に見せ物小屋等が成立し始めたころから、関東大震災までの期間、常打ち小屋「大盛館」(現在の浅草新劇場の位置)で興行が行われた曲芸の一座で、幕末からのキャリアを持つ興行師・江川作蔵がこれを率いた。
小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 199… 小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝国大学文学部英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。
浅尾 丁策(あさお ていさく、1907年9月27日 - 20… 浅尾 丁策(あさお ていさく、1907年9月27日 - 2000年1月29日)は、日本の油絵専門の絵画修復師(英語版)。美術モデル紹介所のプールヴーモデル紹介所の創始者でもある。 1907年9月27日、東京市下谷区(現・台東区)に生まれる。父親は、油絵筆の製作販売店「拂雲堂」の主であった。 1925年、画材店竹見商店の店員となり、画材の知識を詰めこむ。1927年に、東京美術学校の近所に、画材店の浅尾拂雲堂(あさおふつうんどう)を創業する。画材店経営のかたわら、油絵の修復について研究を重ね、東京美術学校教授の田辺至や画家の山下新太郎ら修復に詳しい人物から知識教わるなど、油絵修復技術の確立にこぎつける。
五十五世梅若六郎(うめわか ろくろう、1907年〈明治44年… 五十五世梅若六郎(うめわか ろくろう、1907年〈明治44年〉8月3日 - 1979年〈昭和54年〉2月8日)は、観世流シテ方能楽師、日本芸術院会員。本名は梅若 亀之(うめわか たかし)、別名として梅若景英、梅若六之丞。三代梅若実を追贈。 五十四世梅若六郎(後の二代梅若実)の子として東京浅草厩橋に生まれる。祖父は明治三名人の一人、初代梅若実。弟に梅若雅俊、梅若恭行。次男に五十六世梅若六郎。 1911年「忠信」の法師で初舞台。1915年「菊慈童」で初シテ。1918年浅草精美高等小学校卒。1925年「道成寺」を披く。1928年「翁」を披く。1944年、55世を襲名。1949年、厩橋の能楽堂が戦災で焼失したため、後援会長の支援で東京・東中野に移転。
五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(… 五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(明治40年)4月17日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、歌舞伎役者・俳優。俳名は橘丈。屋号は豊島屋。本名は寺田勝次。 曾祖父は二代目嵐璃珏。四代目嵐芳三郎の子。 東京の上野の生まれ、本郷元町尋常小学校卒業。1914年に三代目嵐市太郎の名で本郷座で初舞台。五代目市川鬼丸(後の三代目尾上多賀之丞)の部屋子になり、1921年に市村座に参加。1927年6月に五代目嵐芳三郎を襲名。1944年に前進座に参加。女形、二枚目を得意とし晩年は老け役に徹した。 1954年に文部省芸術祭奨励賞受賞。 墓所は台東区一乗寺にある。戒名は「前勝院技能日芳居士」。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。
犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 200… 犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 2007年9月17日)は、日本の脚本家、映画監督である。最高齢の映画人であった。長谷川一夫のデビュー作と引退作の脚本を執筆し(デビュー作『稚児の剣法』 は監督兼任)、勝新太郎の当たり役『座頭市』の脚本家としても知られる。 1901年(明治34年)2月15日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)花川戸に生まれ、台湾の台北市で少年時代を過ごす。父は『劇団新派』の前身の一つとされる『成美団』の座付作家・大須賀豊(本名・犬塚福太郎)だが犬塚が五歳の時に死別した。 成人して台北銀行(※犬塚本人の回想では台湾銀行)に就職するが、演劇に興味を持ち退職。
大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900… 大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900年6月1日 - 1961年7月28日)は、東京都浅草出身の日本の男性アニメ監督である。 戦前期には江戸千代紙を用いた切り絵アニメーション、戦後は影絵と色セロファンを用いたアニメーションを個人で作り続け、とりわけ後者は日本のアニメーションとして初めて国際的な評価を受ける。特に1953年にカンヌ国際映画祭短篇部門に出品した『くじら』(1952年完成)は上映会場で画家パブロ・ピカソにも絶賛された。手塚治虫は「わが国のアニメーションの最初の功労者」としている。没後、大藤の生涯の業績を記念して毎日映画コンクールの中に大藤信郎賞が設けられた。 東京浅草の蓄音機録音スタジオを経営する家で、8人兄弟の7番目の子として生を享ける。
大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月… 大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月11日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、大正 - 昭和期の俳優。新派生え抜きの役者の一人で名脇役として知られた。 東京浅草須賀町(現・台東区)の生まれ。幼少時からの芸事好きで、1907年(明治40年)に伊井蓉峰主演の舞台「乞食の子か大名の子か」で子役エキストラの一人で初舞台を踏む。伊井の弟子の藤井六輔に師事し、藤川宗六の芸名を貰うが後に本名の大矢市次郎で活動。 18歳のときに、60歳の役を演じて以来老け役を得意とし、多くの当り役を持った。 新派系の劇団を転々としたのち、1939年(昭和14年)に花柳章太郎・伊志井寛・柳永二郎・川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。
渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9… 渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9月9日- 1959年(昭和34年)8月20日)は、日本の演劇研究者、評論家である。筆名は鈍太郎、今谷久平。 東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)七軒町に生まれる。幼年期より、演劇や歌舞伎等の芝居に興味を持ち、独学で脚本や資料を研究した。郁文館中学校卒業後、青山学院高等部に在学する傍らに、上野図書館(現在の国際子ども図書館)に勤務する。 1911年(明治44年)に演芸画報社に入社し、雑誌『演芸画報』の編纂に携わった。1943年(昭和18年)に廃刊するが、同年その後継である『演劇界』の編纂にも携わった。その後は、歌舞伎や日本舞踊、琴や尺八等の邦楽を研究し、多くの著書や辞典を刊行した。
片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月2… 片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月20日 - 1977年(昭和52年)10月22日)は、螺鈿師、蒔絵師。本名は照三郎。東京都出身。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
六代目 大谷 友右衛門(おおたに ともえもん、1886年(明… 六代目 大谷 友右衛門(おおたに ともえもん、1886年(明治19年)6月1日 - 1943年(昭和18年)9月10日)は大正から昭和戦前期に活躍した歌舞伎役者。屋号は明石屋。 定紋は丸十、替紋は水仙丸。本名は青木 八重太郎(あおき やえたろう)。 歌舞伎役者中村鷺助(本名青木喜之助)の子として東京浅草に生まれる。父が下回りの役者だったことから幼くして歌舞伎の世界に入り、五代目中村歌右衛門に入門。明治24年(1891年)、浅草座で中村翫兵衛を名乗って初舞台。明治31年(1898年)6月に中村翫、翌年1月に初代中村おもちゃと名乗り、初代中村吉右衛門や初代助高屋小傳次らの子供芝居に出る。 明治35年(1902年)6月、市村座において中村駒助を襲名。
秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 -… 秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 - 1975年6月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。 東京市浅草生まれ。9歳で奉公に出され、のち少年記者となり、銀行、外人商館、郵便局、横浜市役所などで働き独学する。1909年「二六新報」に入社。その後国民新聞、報知新聞で演劇記者として活躍。1923年東京朝日新聞に入社。1941年朝日新聞定年後も劇評を担当した。 歌舞伎や大衆演劇に精通し、1961年日本演劇協会功労賞受賞(永年にわたって担当した「朝日新聞」の劇評により)。 1966年第1回長谷川伸賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(… 安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(1885年)5月16日 - 昭和34年(1959年)5月6日)は、大正から昭和初期にかけての彫刻家。本名は和吉(わきち)。主に象牙彫刻(牙彫)の分野で活動し、萬蔵、萬造、萬象の号を使用した。 明治18年(1885年)、浅草で父・小澤卯之助と母・せんの次男として生まれる。父の死後、3歳で安藤家に養子に入った。 高等小学校卒業後に象牙彫刻を習って独立した。師匠は大谷光利とされ、東京彫工会に所属。明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現・台東区西部)に住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災で自宅を焼失したことを機に雑司が谷に転居し、昭和14年(1939年)には板橋区向原に転居した。