柴田 紘一(しばた こういち、1940年11月10日 - )… 柴田 紘一(しばた こういち、1940年11月10日 - )は、日本の政治家。岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(4期)、岡崎市議会議員(2期)、東海市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。 愛知県額田郡岩津町大字大門(現・岡崎市大門3丁目)の農家に生まれた。名前は「八紘一宇」からとられた。父母は農作業で忙しかったため、祖母に育てられる。近所の大圓寺に設けられた託児所に通所した。 学校教育法が施行された1947年(昭和22年)、岩津町立大樹寺小学校(現・岡崎市立大樹寺小学校)に入学。6年生のとき母親がパーキンソン病に罹り、田1町歩、畑5反歩を父親は一人で耕作しなくてはならなくなった。1953年(昭和28年)4月、岩津町立岩津中学校(現・岡崎市立岩津中学校)に進学するが、田畑は次第に荒れ始めた。
本間 勝(ほんま まさる、1939年5月1日 - )は愛知県… 本間 勝(ほんま まさる、1939年5月1日 - )は愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手。
本田 威志(ほんだ たけし、1937年8月20日 - 201… 本田 威志(ほんだ たけし、1937年8月20日 - 2010年7月27日)は、日本の元プロ野球選手(内野手)。愛知県岡崎市出身。
各務 三郎(かがみ さぶろう、1936年10月20日 - 2… 各務 三郎(かがみ さぶろう、1936年10月20日 - 2025年8月27日)は、日本の海外ミステリ編集者、翻訳家、評論家、アンソロジスト。 本名は太田博(おおた ひろし)。日本推理作家協会会員。 愛知県岡崎市出身。愛知県立岡崎高等学校卒業。早稲田大学商学部在学中は歌人として知られた。歌人としての名義は太田比呂史であり、結社「未来」に参加していた。 同大学卒業後、早川書房に入社し、『ミステリマガジン』の編集に携わる。常盤新平の後を受け、1969年8月号から編集長になり、1973年6月号まで務める。その後フリーとなり、海外ミステリの翻訳(ジュニア向け多数)、評論執筆、アンソロジー編纂に携わる。 1995年に編著『チャンドラー人物事典』で、第48回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)を受賞した。
杉浦 昌弘(すぎうら まさひろ、1936年9月25日 - )… 杉浦 昌弘(すぎうら まさひろ、1936年9月25日 - )は、日本の植物分子生物学者・植物分子遺伝学者。学位は、理学博士(名古屋大学・論文博士・1967年)(学位論文「無細胞系におけるバクテリオファージφ×174の遺伝情報の発現」)。名古屋大学特別教授。名古屋大学名誉教授、名古屋市立大学名誉教授。 愛知県岡崎市出身。小学校から高校卒業まで幸田町で過ごした。双子葉植物であるタバコを用いて、1986年に植物葉緑体ゲノムの全塩基配列を世界で初めて決定した業績で世界で広く知られる。その後、単子葉植物のイネ葉緑体ゲノム、裸子植物のクロマツ葉緑体ゲノム、藻類のクロレラ葉緑体ゲノムの全塩基配列を決定。また、試験管内(in vitro)で活性のある葉緑体DNAの転写・翻訳系を開発した事でも知られる。
河井 学(かわい まなぶ、1936年8月21日 - )は、愛… 河井 学(かわい まなぶ、1936年8月21日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手。 1955年、愛知県立岡崎高等学校卒業。同年、毎日オリオンズへ入団。1957年に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
辻村 益朗(つじむら ますろう、1934年 - )は、日本の… 辻村 益朗(つじむら ますろう、1934年 - )は、日本の装丁家、絵本作家。福音館古典童話シリーズや福音館文庫、『タンタンの冒険』シリーズなど、ロングセラーの児童書の装丁を多く手がけた。 愛知県岡崎市出身。街道筋の宿屋の家系に生まれる。母親は和装の師匠をしていた。1949年、愛知県立岡崎北高等学校に入学。1年生のとき1学年上の瀬川康男を知る。高校時代は瀬川とともに美術クラブに所属した。愛知学芸大学(現・愛知教育大学)美術科卒業。 1960年8月1日、同郷の瀬川の初めての絵本『きつねのよめいり』(松谷みよ子・文)が福音館書店の月間絵本こどものとも53号として出版される。これは、辻村のレイアウトで完全原稿の形に仕上げられ、福音館書店の編集者だった松居直のもとに持ち込まれたものだった。
成瀬 守重(なるせ もりしげ、1933年2月6日 - 202… 成瀬 守重(なるせ もりしげ、1933年2月6日 - 2026年2月4日)は、日本の政治家。元参議院議員(2期)。 愛知県岡崎市出身。1957年、早稲田大学政治経済学部卒業。世界救世教教育政治委員会委員長、常任理事、責任役員を務める。1980年、MOA常務理事、産業経済研究協会理事などを務める。1989年の第15回参議院議員通常選挙で比例区に自由民主党から立候補して初当選。2期務める。党内では清和政策研究会(三塚派→森派)に属した。2001年に引退。2003年、勲二等瑞宝章を受章。 2026年2月4日、老衰のため、岡崎市内の病院で死去した。92歳没。死没日付で正四位に叙された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
瀬川 康男(せがわ やすお、1932年4月5日 - 2010… 瀬川 康男(せがわ やすお、1932年4月5日 - 2010年2月18日)は、日本の画家、版画家、絵本作家。愛知県岡崎市出身。本姓は鈴木。 福音館書店のこどものともの仕事を皮切りに、新しい技法を次々と使いながら多彩なタブロー、版画、スケッチ、絵本の制作を続けた。彼の初期の絵本は松谷みよ子、松野正子などの文に挿絵をつける形で作成されたが、1975年以降は文・絵ともに自作の絵本も制作。その仕事は、童画の枠を超えた現代的な「児童出版美術」の域に達し、BIB(ブラチスラヴァ絵本原画展)グランプリや国内の出版文化賞を受賞するなど、国内外で高い評価を獲得している。 なお年・名前・仕事の協力関係とも似通っている瀬川拓男は親族ではなく、血縁・家系とも他人である。
栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980… 栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980年1月16日)は、愛知県岡崎市出身の元騎手・元調教師。息子の栗田伸一は元騎手・調教助手であったが、父同様に若くしてこの世を去っている。 子沢山な地方公務員の11人兄弟の下から二番目として誕生し、公務員である父の担当が地元にあった岡崎競馬場の管理であった事や、幼くして母と死別してから母代わりとなった姉が調教師の妻だった事から、幼少期から競馬と接した栗田は騎手を目指す事となった。1946年に京都・武田文吾調教師に弟子入りし、一旦松田由太郎厩舎に移籍したが、再び武田厩舎に戻って1951年にデビュー。初騎乗は6月16日のミスヨシ(7着)で、初勝利はデビュー3ヶ月後の9月15日・ノーベルと手間取った。
杉浦 直樹(すぎうら なおき、1931年〈昭和6年〉12月8… 杉浦 直樹(すぎうら なおき、1931年〈昭和6年〉12月8日 - 2011年〈平成23年〉9月21日)は、日本の俳優。フリーランス。血液型はB型 愛知県岡崎市に、杉浦仙次郎の次男として生まれる。兄に康雄、弟に俊也、2人の妹がいる。祖父は実業家の3代目杉浦銀蔵。従兄は数学者で東京大学名誉教授の杉浦光夫で、父の兄である英一の次男。戦争末期、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学。1945年、学徒動員により日清紡績美合工場に送られ、終戦まで飛行機を作る毎日を送る。 1946年春、当時岡崎中学校で教鞭を執っていた画家の山本鍬太郎が演劇部を設立すると、すぐに入部。1948年4月の学制改革により愛知県立岡崎北高等学校に移る。
中村 哲(なかむら さとる、1931年5月17日 - )は、… 中村 哲(なかむら さとる、1931年5月17日 - )は、日本の経済史学者。京都大学・福井県立大学・鹿児島国際大学名誉教授。堀江英一門下。 1931年、愛知県岡崎市出身。神奈川県立小田原高等学校を卒業後、1951年4月、京都大学文学部入学。1955年4月、同文学部史学科国史学専攻卒業。1957年3月、京都大学大学院文学研究科修士課程国史学専攻修了。1959年3月、京都大学大学院文学研究科博士課程国史学専攻退学後、京都大学人文科学研究所助手を1966年まで務める。同年4月、龍谷大学経営学部助教授。1969年4月、京都大学経済学部助教授に就任。1970年7月、経済学博士学位取得。1976年7月、同経済学部教授。
小林健吾(こばやし けんご、1930年5月29日- )は、日… 小林健吾(こばやし けんご、1930年5月29日- )は、日本の会計学者。滋賀大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。 愛知県岡崎市出身。愛知県立岡崎高等学校卒業、1954年名古屋大学経済学部卒業。1956年名古屋大学大学院経済学研究科修士課程修了。1975年コロンビア大学卒、1980年「直接原価計算」で大阪市立大学より経営学博士の学位を取得。1957年名城大学法商学部講師、1961年専修大学商経学部助教授、1962年経営学部助教授、1968年滋賀大学経済学部助教授、1971年教授、1986年名誉教授、青山学院大学経営学部教授。2001年定年、名誉教授、青森公立大学経営経済学部教授、2005年LEC会計大学院教授、2010年特任教授。
内田 修(うちだ おさむ、1929年10月5日 - 2016… 内田 修(うちだ おさむ、1929年10月5日 - 2016年12月11日)は、日本の外科医、ジャズ愛好家。愛知県岡崎市出身。名古屋大学医学部卒業。数多くのジャズミュージシャンを支援したことから親しみをこめて「Dr.U(ドクター・ユー)」「Dr.Jazz(ドクター・ジャズ)」と呼ばれる。その膨大なコレクションは、愛知県岡崎市に寄付された。「ジャズの街岡崎名誉顧問」。 1929年10月5日、愛知県岡崎市に産婦人科医院の二男として生まれる。1945年7月、岡崎空襲により家を失い、一家で額田郡岩津町(現・岡崎市岩津町)に疎開する。1947年3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1950年、名古屋大学医学部に入学。
杉浦 光夫(すぎうら みつお、1928年9月10日- 200… 杉浦 光夫(すぎうら みつお、1928年9月10日- 2008年3月11日)は、日本の数学者。理学博士(1961年)。東京大学名誉教授。 愛知県岡崎市出身。1946年、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。1953年、東京大学理学部数学科卒業。1961年、理学博士。東京大学教養学部助教授、教授、1989年、定年退官、名誉教授。1989年、津田塾大学学芸部教授。2003年より津田塾大学理事。2008年3月11日に死去。79歳没。 俳優杉浦直樹は従兄弟である。
白井 昭(しらい あきら、1927年9月24日 - 2025… 白井 昭(しらい あきら、1927年9月24日 - 2025年2月26日)は、日本の評論家。鉄道技術者。鉄道ファン。元名古屋鉄道社員。元大井川鐵道副社長・顧問。日本ナショナルトラスト会員。 名古屋鉄道在籍時に、鉄道技術者としてパノラマカー(7000系)、モノレール車両(東京モノレール100形、名鉄MRM100形)の企画・製作・設計に携わった。大井川鐵道在籍時に井川線のアプト式新線開業、蒸気機関車の動態保存を手がけている。 同じく鉄道ファンであり鉄道関連の著書を多く手がけている白井良和は実弟である。 愛知県岡崎市出身。旧制豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋工業専門学校(現・名古屋工業大学)卒業。
近藤 貞雄(こんどう さだお、1925年10月2日 - 20… 近藤 貞雄(こんどう さだお、1925年10月2日 - 2006年1月2日)は、プロ野球選手(投手)・指導者・監督、野球解説者。
内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年(大正14年)1月5… 内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年(大正14年)1月5日 - )は、日本の政治家、新聞記者。愛知県岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(2期)を歴任した。「喜久」を音読みして「きく」と読まれることも多い。 長男の内田康宏を擁立した1980年6月の衆院選で、検挙者128人(うち逮捕者55人)におよぶ空前の選挙違反事件を引き起こした。愛知県警が解明しただけでも計4,424万円の現金をばらまき、自身のほか、県議1人、岡崎市議25人、安城市議7人、幸田町議6人、旧額田町議4人が逮捕された。長年にわたる土建業者との癒着も暴かれ、同年8月、収賄容疑で再逮捕された。 愛知県岩津村井ノ口(現・岡崎市井ノ口町字楼)に、農業を営む父:内田松太郎、母:かまの三男として生まれる。
青木 脩(あおき おさむ、1925年1月3日 - 2004年… 青木 脩(あおき おさむ、1925年1月3日 - 2004年10月9日)は、日本の会計学者。経済学博士(論文博士・1978年)(学位論文「フランス会計制度論 付加価値会計制度の確立過程」)。愛知大学教授、名古屋工業大学教授、中京大学教授を歴任。名古屋工業大学名誉教授。 愛知県岡崎市生まれ。東京大学経済学部商業学科卒。1978年「フランス会計制度論 付加価値会計制度の確立過程」で経済学博士。名城大学講師、愛知大学助教授、教授、名古屋工業大学教授、1989年定年退官、名誉教授、中京大学教授。
津端 修一(つばた しゅういち、1925年1月3日 - 20… 津端 修一(つばた しゅういち、1925年1月3日 - 2015年6月2日)は、日本の建築家、都市計画家、評論家。愛知県岡崎市出身。 1945年に海軍技術士官として厚木飛行場に赴任するが終戦を迎える。1947年に新制東京大学に再入学する。 1951年、東京大学第一工学部建築学科卒業。丹下健三の下で住宅問題の研究をテーマに卒業論文に取り組む。前川国男の建築設計事務所への入所を希望するが前川と太田博太郎の推薦でアントニン・レーモンドの事務所に所属する。その後坂倉準三の建築設計事務所を経て、1955年日本住宅公団発足と共に入社。 日本住宅公団勤務時、多摩平・高根台団地、阿佐ヶ谷住宅をはじめとする多くの団地を設計するなど、公団初期の全体計画を手がける。
鈴木 勝忠(すずき かつただ、1923年9月15日 - 20… 鈴木 勝忠(すずき かつただ、1923年9月15日 - 2012年6月3日)は、日本の日本近世文学研究者、岐阜大学名誉教授。 愛知県岡崎市生まれ。1943年、愛知第二師範学校卒業、入営。1953年、東京大学文学部国文科卒。愛知学芸大学講師、岐阜大学助教授、教授。1987年、定年退官、名誉教授、中京大学教授。1963年、東京大学国語国文学会賞受賞。1993年、芭蕉祭奨励賞受賞。2000年、勲三等旭日中綬章叙勲。没後正四位。 川柳・雑俳研究の第一人者で、『雑俳集成』を24巻のほか多く私家版を刊行した。
本田 実信(實信)(ほんだ みのぶ、1923年 <大正12年… 本田 実信(實信)(ほんだ みのぶ、1923年 <大正12年> 3月29日 - 1999年 <平成11年> 1月6日)は、日本の東洋史学者。文学博士(ケンブリッジ大学・1957年)。京都大学名誉教授。北海道大学教授・京都大学教授・名古屋商科大学教授を歴任。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 1923年、愛知県岡崎市生まれ。1949年東京帝国大学文学部東洋史学科を経て、東京大学大学院修了。1957年、ケンブリッジ大学に学位論文を提出して文学博士(Ph.D.)を取得。 英国留学からの帰国後、モンゴル帝国史、ティムール朝史、サファヴィー朝史等のペルシア語写本を中心とする重要写本のマイクロフィルムを大量に招来した。
大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - … 大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - 1987年1月29日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手。
鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の実業家。松坂屋社長・会長。愛知県岡崎市出身。 1936年、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)卒業後、松坂屋に入社。 1972年、取締役名古屋店長に就任し、伊藤鈴三郎社長の片腕として頭角を現し、常務、専務を経て、1978年副社長となる。 1980年、会長の16代目・伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲)は、任期半ばの弟・鈴三郎に辞任を迫り、長男・伊藤洋太郎を社長の座に据える。鈴三郎は一族の序列をわきまえて沈黙を守ったが、彼の腹心たちはこの不条理な行為を許さなかった。 1984年12月、16代目が死去し、会長が空席になると、1985年1月に鈴木は会長に就任した。
佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 1962年4月18日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。 旧制岡崎中学校では、投手の高塚誠治とバッテリーを組む一方、4番打者も務める。1935年の夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。1936年に卒業し、大阪タイガースに入団。 同年12月に後楽園イーグルスが新たに設立されると移籍し、1937年春季からレギュラー捕手となり36試合にマスクを被る。しかし、6月下旬にバッキー・ハリスが入団すると出番が大きく減少。秋季は9試合の出場に終わる。 1938年には東京セネタースに移籍。1939年から北浦三男に代わって正捕手となると、長打力があり、1940年には3本塁打で6位タイ、1942年にも4本塁打を放ち4位タイであった。
永田 武(ながた たけし、1913年6月24日 - 1991… 永田 武(ながた たけし、1913年6月24日 - 1991年6月3日)は、日本の地球科学者である。岩石磁気学という分野を開いた。日本の南極観測を指導した。 愛知県岡崎市出身。第一東京市立中学、旧制第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、東京大学地震研究所を経て東京大学教授に就任した。疎開中は挙母町(現・豊田市宮町)の浄覚寺に滞在した。奇しくも30年前に日本人で初めて南極へ向かった白瀬矗が晩年1946年同じ挙母町に転居し亡くなった後、白瀬の妻と次女タケコが浄覚寺に滞在している。1944年7月、東京大学 理学博士、論文名は「火山岩、自然残留磁気およびその地球磁気学的諸問題への応用について(英文) 」。
酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23… 酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23日)- 1997年(平成9年)1月2日)は、日本の囲碁棋士。三宅一夫七段門下、日本棋院所属、九段。本名保一。王冠戦優勝2回、本因坊戦リーグ入りなど。日本棋院中部総本部に所属、棋士会長を長く務めるなど、中京碁界の重鎮としてその隆盛に貢献した。酒井四兄弟の康雄、利雄、義允の長兄。酒井栄男七段は実子。 愛知県岡崎市に生まれる。1924年に名古屋在住の三宅一夫に入門。1927年入段。1932年四段。1940年五段。1948年、日本棋院東海支部から改称した東海本部に所属し、第5期本因坊戦の関西予選五段級に出場、炭野武司、窪内秀知、瀬川良雄、染谷一雄と連勝して「東海の鬼」と呼ばれた。
太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日 - 19… 太田 一夫(おおた かずお、1910年11月19日 - 1990年11月3日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(5期、日本社会党)。保革を問わず「いっぷさん」と親しまれた。 愛知県矢作町大字渡(現岡崎市渡町字宮西)生まれ。碧海郡矢作高等小学校(現岡崎市立矢作中学校)を経て、1927年(昭和2年)に上京。東京市下谷区の岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学。下谷区坂本町4丁目にあった東京朝日新聞の新聞販売店で住み込みで働きながら、昼間は学校に通う。1929年(昭和4年)10月、同校を首席で卒業。12月、名古屋鉄道に入社。 1945年(昭和20年)12月10日、名古屋鉄道労組を結成。1948年(昭和23年)8月、名古屋鉄道労組書記長、私鉄中部地連書記長に就任。
榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 … 榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 - 1983年3月12日)は、日本の新聞記者、政治家。『東海新聞』(『東海愛知新聞』の前身)の創立者の一人。東海新聞社の社長を26年間務めた。また、愛知県議会議員を2期務めた。 愛知県額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に生まれる。祖父の事業の失敗から岡崎市の中心部に一家は移住。文選工見習いをしながら家計を助け、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業。 1915年(大正4年)春、竹内京治が社主を務めていた日刊紙『岡崎朝報』に入る。やや遅れて入社したのが太田光二であった。太田は戯作的色合いの強かった同僚記者とは一線を画し、「時事漫談」という硬派の文章を執筆していたという。
阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日… 阿部 真琴(あべ まこと、1908年(明治41年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月13日)は、日本史学者。 愛知県岡崎市出身。1931年東京帝国大学文学部国史学科卒、1951年神戸大学文理学部助教授、1958年文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、徳川林政史研究所。1988年、急性心不全のため死去。
冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8… 冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8日 - 1991年<平成3年>6月23日)は日本の生理学者。医学博士。慶應義塾大学医学部名誉教授で医学部長を務めた。アメリカ合衆国のイェール大学名誉教授。眼の網膜の情報処理機構の研究で知られ、視覚神経生理学、感覚生理学の世界的権威とされる。1972年(昭和47年)、紫綬褒章受章。1978年(昭和53年)、勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。愛知県岡崎市出身。
浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 19… 浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。 愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。上京し東京実業学校に学んだが2年で中退。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。
内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 19… 内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 1989年10月3日)は、日本の中国思想史学者。 1905年、愛知県岡崎市生まれ。同志社大学文学部を卒業。卒業後は同志社大学講師となった。1957年に学位論文『中国農村の分家制度』を同志社大学に提出して法学博士号を取得。その後、助教授、教授に昇進。1976年に同志社大学を定年退任し、名誉教授となった。 専門は中国の制度史・法制史。
佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。 日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。 オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。
杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1… 杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1974年2月16日)は、日本の画家、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授。教育者として西三河美術界に功績を残した。 愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)在学中、留年した尾崎士郎と同級になった。1916年(大正5年)、同校卒業。 1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。
近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 -… 近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 - 1949年11月6日)は、日本の社会運動家、著述家、芸術家。大正期から昭和20年代前半にかけて、郷里岡崎市の社会主義運動および文化活動を牽引した。 愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)の代々続く清酒醸造を業とする家に近藤伍三郎の長男として生まれ、祖母に育てられる。1914年(大正3年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。芸術家になることを夢み、東京美術学校進学を希望するが父の反対にあい、やむなく東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。在学中から若山牧水に師事し「創作社」同人となった。この頃、府立一中の蔵原惟人、浅野晃らと同人誌『りらの花』(後『リラ』)発行。
石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 19… 石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 1977年8月10日)は、日本の仏教考古学者。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1941年)(学位論文「飛鳥時代寺院址の研究」)。元奈良国立博物館長。文化功労者。従三位勲二等旭日重光章。岡崎市名誉市民。 愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町)生まれ。本郷村外十ヶ町村組合立江西高等小学校(現・岡崎市立矢作中学校)から愛知県立第二中学校(愛知県立岡崎高等学校)へ進む。1918年、東京高等師範学校(現・筑波大学)本科国語漢文部卒業。愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)勤務、1923年東京高等師範学校専攻科修身教育部卒業などを経て、1925年1月から鑑査官補として東京帝室博物館に勤務、鑑査官・学芸部長へと昇進した。
太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 193… 太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 1930年12月4日)は、日本の農学者、教育者。菜種の新品種「六ツ美種」の開発者として知られる。 愛知県碧海郡糟海村大字土井(現・岡崎市土井町)に生まれる。中井村立中井尋常高等小学校を卒業。しばらく村役場書記や小学校準教員をしていたが、愛知県第二師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)へ進学する。同校卒業後10数年は、棚尾・依佐美・富士松・桜井等の尋常小学校の訓導として教鞭をとった。謄写印刷のパンフレット式の教科書を作り、農業関係の科目を熱心に教えたという。 1927年(昭和2年)、六ツ美村立農業補修学校の長谷川一男校長の招きにより、同校の教頭に就任。
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 195… 千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 1956年2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県会議員(3期)、岡崎市会議員(4期)などを歴任した。横に大きく伸びた口ひげから「おひげさん」の愛称で親しまれた。 愛知県額田郡岡崎町連尺(現・岡崎市)で木綿問屋を営む千賀伝三郎の五男として生まれる。愛知県第二師範学校附属小学校、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。木綿織物業に従事する。 1928年(昭和3年)10月5日に行われた岡崎市会議員選挙に立候補し初当選。千賀は立憲民政党の岡崎支部である岡崎民政倶楽部に属していたが、当選の翌月、他の若手の民政党員と共に分派し岡崎民政青年団を結成した。
小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月… 小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月21日 - 1980年〈昭和55年〉10月)は、愛知県額田郡本宿村(現・岡崎市上衣文町)出身の地方自治功労者。本宿村会議員、本宿村長、岡崎市議会議員、岡崎市議会議長。 1892年(明治25年)5月21日、愛知県額田郡本宿村上衣文森下35(現・岡崎市上衣文町森下)に生まれた。「知多郡内海町に生まれ、1911年(明治44年)に小早川家に養子に入った」とする文献もある。父の小早川九七も農業の傍らで本宿村会議員を務めた人物である。 1906年(明治39年)には東海高等小学校を卒業し、家業である農業に従事していた。江戸時代の本宿村は赤坂宿と藤川宿の間にある東海道の間の宿であり、松平家所縁の寺である法蔵寺は大名や旅人などの参拝者が絶えなかったとされるが、近代になると官設鉄道(現・JR東海道本線)の経路から外れたことで往来が減っていた。
大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 19… 大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 1958年1月22日)は、日本の出版人、ソ連研究家。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)で人力車夫をしていた大竹岩吉の三男として生まれた。尋常小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校)1年の時に横浜市に移住。小学校卒業後、印刷工として小僧奉公に出る。文選の技術を習得すると郷里の岡崎に戻り、籠田町の手島喜代三郎の岡崎活版所に就職。文章を認められ、まもなく日刊新聞『新三河』の編集部に抜擢される。「新三河は停雪(大竹の雅号)でもっている」と言われたほど評判を呼んだという。のち上京し、『國民新聞』や『東京日日新聞』、『読売新聞』などで記者を務めた。
石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日… 石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日 - 1967年(昭和42年)3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 愛知県碧海郡矢作村(現・岡崎市)に生まれる。1907年(明治40年)3月、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)卒業。同年4月、碧海郡刈谷町の刈谷第一尋常小学校(現・刈谷市立亀城小学校)に赴任。いくつかの小学校勤務を経たのち、大正期に南設楽郡と知多郡の視学を歴任。 1923年(大正12年)、岡崎市投尋常小学校(現・岡崎市立根石小学校)長に就任。1924年(大正13年)、岡崎市梅園尋常高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)長に就任。
千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 -… 千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 - 1962年2月21日)は、日本の実業家、政治家。近代岡崎の商工業者の第一人者として知られる。岡崎商工会議所の会頭を3期(通算約12年)、衆議院議員を1期務めた。長女の夫は一宮市の実業家・四代目豊島半七。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)の呉服商の老舗大島屋に生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業後、名古屋市の簿記学校に進む。1903年(明治36年)、父の死去により年若くして家業を継いだ。 家業の呉服商に木綿部を増設して千賀合名会社を設立し、三河木綿の生産に着手した。当時特産品として知られた三河木綿は零細な家内工業によるものであったため、生産量はごくわずかであった。
菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 … 菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 - 1956年12月18日)は、日本の政治家。第7-9代岡崎市長(3期)、愛知県会議員、岡崎市会議員を歴任した。 名は經三郎とも表記される。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)で岡崎藩士の子として生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)卒業後の1893年(明治26年)、東京市本郷の伊勢屋呉服店へ入店。1898年(明治31年)12月、連尺町で姫路屋呉服店を開業した。その後長く岡崎商業界の重鎮をなした。 42歳の時に政界へ進出。1920年(大正9年)9月3日、岡崎市会議員に就任する。1923年(大正12年)、国道1号の整備をめぐって市会内で、今ある路線を改修するという派と、新たに南側に路線を作るという派との対立が生まれる。
小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月1… 小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月12日 - 1938年(昭和13年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少将。第5代岡崎市長。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業した後は、歩兵第33連隊に属し、1902年(明治35年)には陸軍大学校に入学した。陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発し、第3師団に属して出征し、負傷した。1907年(明治40年)、陸軍大学校に復学し、翌年に卒業した。卒業後は参謀本部に勤務するかたわら、山縣有朋元帥の副官を務めた。1910年(明治43年)、少佐に昇進するとともに、イギリス・フランス・ドイツに留学し、飛行機・自動車の調査にあたった。
本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日 - 196… 本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日 - 1968年2月8日)は、日本の政治家。第2-4代岡崎市長(3期)。 旧藩主本多家の出身であったことから「殿様市長」として親しまれた。旧岡崎藩主17代目の本多忠敬(ただあつ)は実兄。 愛知県岡崎市生まれ。学習院、札幌農学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。勲六等単光旭日章受章。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発にとりくむ。勲五等瑞宝章を受章。 1918年(大正7年)7月12日、郷里岡崎の初代市長・千賀又市が公務執務中にたおれ、その日のうちに49歳で死去。
岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10… 岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10日)は、日本の新聞事業者、文人、政客。1915年(大正4年)開催の「家康忠勝両公三百年祭」を実行面で取りしきった。近代岡崎市の文化発展に寄与した人物の一人。 千賀伝左衛門の孫として生まれる。本名は岡田太良次郎。生まれるとすぐに岡崎投町(現・岡崎市若宮町)の醤油業岡田壮太郞のもとへ養子にやられる。養父壮太郎は梅園町の誓願寺境内の茶室「不蔵庵」の維持に尽くしていたので、撫琴は「不蔵庵の息子」と呼ばれた。 岡崎連尺町(現・岡崎市連尺通)の大賀屋の植田石芝から俳句の手ほどきを受け、16、17歳の頃から俳人として頭角を現した。正岡子規の俳句運動の影響を受け俳句雑誌『甲矢』(はや)を発行。
小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治… 小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治5年5月18日) - 1951年(昭和26年)12月14日)は、日本の政治家。第4代岡崎市長(1期)。助役時代より岡崎公園の修築・改修に力を入れたため、公園助役、公園市長とよばれた。企業の誘致にも積極的で、日清レーヨン、日本レーヨンなどを誘致した。 額田県八町村(現・愛知県岡崎市八帖南町)で岡崎藩士の子として生まれる。1886年(明治19年)2月、真宗三河教校に入学し英語を学ぶ。1887年(明治20年)7月8日、同校を卒業。1891年(明治24年)1月から1892年(明治25年)10月まで名古屋市の私立誠心塾で漢学・剣道を修める。同年12月11日から数度にわたり兵役につき、日清戦争と日露戦争に従軍した。
斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、… 斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、1871年〈明治4年〉11月14日 - 1921年〈大正10年〉10月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲二等功三級。 愛知県碧海郡土井村辻(現・岡崎市土井町)出身。斎藤兵三郎の四男。赤渋小学校卒業後、同校助教を務め、宮地小学校への合併後も同職。1891年(明治24年)に小学校教員免許を正式に取得。成城中学校を経て翌年桑子小学校訓導となるも、同年士官候補生として近衛歩兵第2連隊に入営。1895年(明治28年)陸軍士官学校第6期卒業。日清戦争では台湾に派遣され、三角湧や龍潭城、新竹を転戦するもマラリアに罹患し新竹兵站病院に入院。