安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月2… 安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月24日 – 1953年〈昭和28年〉1月15日)は、大正から昭和にかけての文筆家・翻訳者・報道記者。別名義として安藤十九木や杉森鵬程もあり、他にもXYZや十九気などの筆名もあったという。維新史の研究者から実録文学の執筆に転じ、また、西園寺公望や野口遵に関する書籍を特に多く出版した。 山口県岩国市の警察官・安藤徳明の子として生まれる。最初は軍人を志し、広島陸軍地方幼年学校第21期生として入学。善通寺歩兵第43連隊士官候補生を経て、陸軍士官学校第36期生となる。しかしこの後の安藤は、軍人としてのキャリアを進まなかった。 軍人の道を諦めた安藤は京都帝国大学史科に転じ、維新史を専攻した。
竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - … 竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - 1987年7月15日)は、日本の医師、性科学者、文筆家、翻訳家。 青森県出身。北海道帝国大学医学部卒。1933年「実験的腸閉塞論」で北大医学博士。今裕に師事。東京都立病院に19年間勤務。東京都立大塚病院副院長、城北診療所院長。医業のかたわら、戦後は性医学について多くの随筆的著作をなした。
柴田 賢一(しばた けんいち、1902年 - 1982年)は… 柴田 賢一(しばた けんいち、1902年 - 1982年)は、日本の文筆家、翻訳家。 福岡県芥屋生まれ。1929年東京帝国大学文学部美学科卒業。在学中から新聞に小説を寄稿したほか、鈴木三重吉の『赤い鳥』に童話を発表するなど執筆活動を行った。 大学卒業後、誠文堂新光社に入社、『世界地理風俗大系』の編集を担当し、『世界知識』の発刊に伴い編集長となる。 1942年、海軍報道班員としてシンガポール、ビルマ、フランス領インドシナと、アジア各国の前線をめぐり、海外諸国の政策についての論文を多数翻訳し紹介した。 戦後は志摩 達夫名義で青少年向けの作品を執筆した。
松本 慎一(まつもと しんいち、1901年11月8日 - 1… 松本 慎一(まつもと しんいち、1901年11月8日 - 1947年11月26日)は、日本の著述家・社会運動家。岩波文庫版『フランクリン自伝』の翻訳、尾崎秀実の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』の編集で知られる。政治学者・松本礼二の父。 愛媛県出身。愛媛県宇和島中学校を卒業し、1919年に(旧制)第一高等学校に入学、寮で同室だった尾崎秀実や同期の古在由重らと親交を結ぶ。1922年に卒業し、東京帝国大学法学部に入学。 1926年に東京帝大法学部法律学科を卒業し、三省堂に勤務し英和辞典の編纂に従事。この時期にマルクス主義・共産主義への思想的傾斜を強め、1931年6月にコミンテルンの東アジア方面連絡員が上海で検挙されたヌーラン事件に関連して検挙されるも、嫌疑不十分としてほどなくして釈放された。
川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 19… 川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 1981年7月31日)は、日本の社会運動家、著述家である。21世紀になって公開された資料により、第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)のエージェントとなっていたことが判明している。 岐阜県大垣出身。1925年明治大学専門部政治経済科卒業。 1928年中国にわたり、上海で日支闘争同盟を組織した。1931年春、同盟の会合に出席した際、満鉄調査部上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、尾崎秀実と出会う。リヒャルト・ゾルゲとも知りあい、情報活動に参加した。1941年10月22日ゾルゲ事件で検挙され、のち懲役10年の判決が下された。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
服部 龍太郎(はっとり りゅうたろう、1900年7月15日 … 服部 龍太郎(はっとり りゅうたろう、1900年7月15日 - 1977年6月18日)は、日本の音楽評論家、著述家、翻訳家、作詞家、訳詞家。 静岡県生まれ。早稲田大学文学部卒業。新交響楽団(のちNHK交響楽団)編集主幹、ニットーレコード洋楽部長、桐朋学園講師。西洋音楽、民謡、易学などについて多数の著作を著す。 ※JASRACには服部名義で作詞・作曲の登録をされている日本民謡もある。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 … 渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 - 1978年12月22日)は、日本のジャーナリスト、放送タレント、文筆家。 東京出身。杉靖三郎の兄。東京外国語学校仏語科を経て1928年東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。1924年東京朝日新聞社に入社。パリ支局長、ストックホルム支局長を務め、1955年退社して社友。戦後は、NHKのラジオクイズ番組「話の泉」に8年間休まず出演。聴取者から寄せられた難問奇問に、その博識ぶりで「物知り博士」として知られた。
アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) … アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) - 1983年(昭和58年))は、広島県出身の著述家、啓蒙活動家。ブラジル日系社会の文化的発展に貢献。
吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日… 吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日 - 1977年〈昭和52年〉11月4日)は、日本の文筆家。 福島県石城郡小名浜町(現・福島県いわき市)に生まれる。旧姓は若松。少女時代から文学に親しみ、雑誌や新聞に短歌や短編を投稿する。尋常高等小学校高等科を卒業後、独学で小学校准教員検定に合格し、1916年から2年ほど小学校に勤務する。このころ平で牧師をしていた山村暮鳥に出会い、文学の指導などを受ける。また鹿島村(現・いわき市鹿島町)の八代義定の書斎「静観室」に通い多くの書を読む。 1921年(大正10年)3月、詩人の三野混沌(本名:吉野義也)と結婚、原稿や日記をすべて焼いて、好間村(現・いわき市好間町)北好間の菊竹山で開墾生活に入る。
常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月… 常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月12日 - 1989年〈昭和64年〉1月2日)は、日本の政治家、参議院議員(2期)、宗教家、文筆家。 1899年(明治32年)福岡県糟屋郡古賀町(現古賀市)に生まれる。慶應義塾大学部理財科に在学していたが、卒業前に結核に倒れ、同大学を中退。闘病と共に天理教の修養を始める。 1935年(昭和10年)修養団体『中心社』を創設。その後、月刊誌「中心」を主宰し中心社主幹。この他、養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘を経営して社会福祉に貢献、健康学園を創建。兼ねてよりの持論である5健運動を推進する。 1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙全国区に緑風会から出馬し参議院議員に当選。
近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 -… 近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 - 1949年11月6日)は、日本の社会運動家、著述家、芸術家。大正期から昭和20年代前半にかけて、郷里岡崎市の社会主義運動および文化活動を牽引した。 愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)の代々続く清酒醸造を業とする家に近藤伍三郎の長男として生まれ、祖母に育てられる。1914年(大正3年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。芸術家になることを夢み、東京美術学校進学を希望するが父の反対にあい、やむなく東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。在学中から若山牧水に師事し「創作社」同人となった。この頃、府立一中の蔵原惟人、浅野晃らと同人誌『りらの花』(後『リラ』)発行。
森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1… 森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1996年1月1日)は、日本の音楽評論家、文筆家、翻訳家。山口県、現在の宇部市出身。早稲田大学露文科中退。シベリウスの曲に感銘を受け、叙事詩『カレワラ』を約8年間かけて翻訳した。1937年、フィンランド政府より白バラ一等勲章を贈られる。1945年春、郷里に帰り、山口大学・山口芸術短期大学で美学・音楽史を教える。1970年、勲四等瑞宝章叙勲。妻は森本ヤス子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月2… 黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月26日)は、日本の新聞記者、文筆家。黒木晩石(くろぎばんせき)の筆名で知られる。 宮崎県美々津(現日向市)に生まれる。1916年宮崎中学校卒業。1922年早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞に入社、統一部長、論説委員。「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行、誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが50年間主宰。1939年軍事報道のため大陸に渡る。1942年報知・読売両新聞社合併により読売新聞記者、論説委員。1951年読売新聞を退社、帰郷し名前を晩石と号して著述に専念した。
福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4… 福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4日 - 1966年(昭和41年)8月28日)は、大正から昭和期の地主、農業経営者、著述家、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、山口県都濃郡福川町長。 山口県都濃郡福川村(福川町(第1次)、徳山市、福川町(第2次)、南陽町、新南陽市を経て現周南市)で福田秀夫の五男として生まれ、素封家福田民平の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 農業を営む。著述業にも従事し、雑誌『新思潮』を経営。その後、徳山実業実践学校講師、徳山商業学校教諭を務めた。政治家道源権治の後継者と目され、都濃郡農会長、同教育会長の後任に推薦されて就任。
芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1… 芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1956年以降)は、日本の文筆家、翻訳家。本名・安島 健(あじま けん)。別筆名に曲木 磯六。 秋田県湯沢市出身。東京帝国大学文学部倫理学科中退。報知新聞、日本評論社の記者をへて文筆に転じる。萩原朔太郎らの『感情』に寄稿したこともあり、菊池寛の代作をした。
西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月… 西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月17日 - 1970年(昭和45年)3月20日)は、戦前日本の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。本名は清原一隆。 全国水平社設立の中心人物で差別され苦しんでいた、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた。 奈良県御所市の被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉… 松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。位階は正三位。 パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。 1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。 1899年頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。
御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)… 御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の著述家、ジョン・ラスキン研究者。 三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる。御木本幸吉の長男。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ。同校中退後、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった。
松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本… 松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本の文筆家、詩人、翻訳家。筆名に松山 敏(まつやま さとし)。 宮崎県生まれ。金星堂に勤務し、1921年雑誌『人間』の編集長を務め、作家たちと交友。1930年東京外国語学校卒業。 松山敏の名で詩集や詩の翻訳本などを刊行するが、原典訳ではないものも多い。一時期、同人誌『銀皿』を刊行。 戦時中は時局的な著作を悦三の名で多く刊行、戦後も敏名義で活動するが、悦三名義で往年の作家の思い出などを綴った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)… 小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)1月20日 - 1986年(昭和61年)2月26日)は、大正から昭和期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市で、小林市之助の四男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学政治経済学科を卒業した。 大阪現株取引(株)支配人、大阪市福島商業学校講師、逓信省海運事業調査嘱託などを務め、下岡忠治が朝鮮総督府政務総監に就任した際に随行して同秘書(朝鮮総督府嘱託)となった。その他、神戸電機製作所監査役、石産製作所監査役、日本輸出農産物(株)設立委員なども務めた。 1937(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。
本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1… 本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1974年10月10日)は、日本の民俗学者、文学碑研究家、文筆家。本名・豊治。孫は漫画家の本山一城。 長崎市出島町出身。1912年早稲田大学政治経済科卒。民俗および民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全20巻、「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、金石文化研究所を主宰。その他実用書を含めて多種多様な著作をもつ。
新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 -… 新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 - 1951年(昭和26年)11月15日)は、日本の文筆家。主に評論や翻訳などで活躍した。
根岸 栄隆(ねぎし ひでたか、1888年-1977年)は、日… 根岸 栄隆(ねぎし ひでたか、1888年-1977年)は、日本の川柳名人、文筆家、著述家、作家。 十四世川柳名人を号し、東京川柳会を主宰。鳥居の研究者としても知られる。都市計画家石川栄耀の実兄。東京都出身。 青山学院旧中等科をへて、1915年、日本大学法学部法学科卒業。その後小説の指導を村上浪六に師事し採掘場の管理人などを務めながら著述活動を展開。しばらくして下野新報や日刊ラジオ新聞などの記者を歴任する。 1937年、弟栄耀と商業都市美協会を立ち上げて常任幹事に就任すると同時に機関紙「商業都市美」編集主幹、また人形町通商店街商業組合で指導委員を務める。その他東京府商店街商業組合連盟会の活動にも関与する。
松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1… 松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1日 - 1968年(昭和43年)7月30日)は、熊本県出身の日本の農業研究者・教育者・著述家である。 農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献。 自ら日本初の民間農業実習所を開き48年間に亘り生徒を受け入れ後進育成に献身するなど、明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献した。また、全国各地に赴き講演を開き農業技術・精神の普及に尽くした。実習所で直接教育を受けた生徒は約三千六百名、講演で講習を受けた者は延べ約四万名に及ぶ。その傍ら雑誌『農友』を自ら執筆、50年間に亘り刊行し、その他50冊におよぶ著書も執筆した。
布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日… 布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日 ‐ 1975年(昭和50年)6月15日) は、大正から昭和期の海外特派員、著述家、政治家。衆議院議員。 愛媛県北宇和郡吉野村(吉野生村を経て現松野町)で、布岩太郎の二男として生まれた。1911年(明治44年)早稲田大学政治経済科を卒業。さらに同大文科で地理学を学んだ。のちワシントン大学文科、ロンドン大学文科でも学ぶ。 コーストタイムス旬刊雑誌社主幹、外務省特務通信員、中央新聞海外派遣員を務め、18年間で世界60数か国を旅行し、1933年(昭和8年)中央アジアで消息不明となるなど「世界漫遊家」と称された。また著述業にも従事した。 戦後、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛媛県全県区から出馬して当選。
高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6… 高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6月28日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、医学博士、文筆家。主に性欲・犯罪に関する著作で知られる。筆名・高田 杏湖。 1886年(明治19年)、滋賀県栗太郡草津村、東海道草津宿の名門6代目高田茂徳の長男として生まれる。 茂徳の放蕩癖により家財を使い果たした一家は草津を追われ北海道、京都、東京と転居を繰り返す。貧困にあったが親戚である実業家浜岡光哲の援助をうけ医学の道に進んだ。 旧制第三高等学校卒業後、京都帝国大学医学部に学び同校法医学教室助手となる。 1919年(大正8年)、千葉医学専門学校の教授に就く。1922年(大正11年)から1年あまり文部省在外研究生として独伊英に留学。
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月… 岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月11日 - 1948年〈昭和23年〉10月11日)は、日本の画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。妻は歌人・小説家の岡本かの子。長男は芸術家の岡本太郎。 義弟(妹の夫)に洋画家の池部鈞がおり、甥は俳優の池部良。 津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名:良信(喜信)、通称:竹二郎)と母・正の長男として北海道函館区汐見町に生まれる。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1… 龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1961年2月16日)は、日本の造園史家、造園家、教育者、文筆家。日本文化史及び造園史の教育にすごした。造園家の龍居竹之介は子息。 1884年(明治17年)、東京市京橋区に生まれる。父は龍居頼三(1856 - 1935)。東京府立第四中学校、学習院高等科を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業する。1917年(大正6年)同大学大学院へ進学し、当初住宅史の研究に従事した。恩師である文学博士の三上参次に加え、建築学者(工学博士)の伊東忠太と関野貞にも師事し、後年の日本造園史家として名を馳せる基礎をつくる[要出典]。
青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - … 青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - 1972年2月22日)は、日本のキリスト教研究者、牧師、文筆家。植村正久の研究で知られる。徳島県板野郡大津村(現鳴門市)出身。 板野郡大津村で生まれる。幼少期、僧侶となるように、実家の菩提寺に預けられた。しかし、教師を目指して徳島師範学校を卒業。キリスト教に回心して、ニコライ神学校を卒業して、貧しい子供の教育活動を行った。 渡米して、プリンストン神学校を卒業する。帰国後に、植村正久を研究して、全集を出版する。また。「福音新報」に執筆した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 191… 中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 1914年8月2日)は、日本の文筆家。 長野県諏訪郡米沢村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校に試験の成績一番で入学。同期に鶴見祐輔がいた。東京帝国大学法科大学卒業。中島菫畝の筆名で執筆をしている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - … 平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日)は、女性ジャーナリスト、文筆家、歌人、実業家。 本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事で衆議院議員の蔵原敏捷は実弟である。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身、父・蔵原穆、母・そでの長女として生まれる。 1900年3月、熊本女学校を卒業。翌1901年、徳島県出身(生まれは東京府)の平山八十五郎と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国スタンフォード大学留学中に客死したため、同年9月、幼子を実家に預け、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した。熊本の女性記者第一号として活動する。
高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15… 高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15年〉10月16日 - 1964年〈昭和39年〉11月17日)は、日本の実業家、政治家、著述家、詐欺師。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、翠崖(-すいがい)、鬼外(-きがい)などがある。 実業家としては「鉄道に賭けた男」、「通販史上に輝く巨星」、「今でいう企業再生ファンドのような・・・」などと、その創造力や先見性が注目された。その一方で、蓄財書を出版して投資家を集めるなか池上電気鉄道事業で詐欺・横領などの容疑で逮捕され、「貯金魔」「虚業家」などと呼ばれた。 1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市小幡)に生まれる。同村の旧制要小学校(後の行方市立要小学校)を卒業し、茨城県立尋常中学校(旧制茨城県立水戸中学校→茨城県立水戸第一高等学校)に入学。
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9… 逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。 新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生。 1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業。 1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任、1917年(大正6年)4月に大尉に任官、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年(明治9年)1… 一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年(明治9年)12月15日 - 1941年(昭和16年)11月4日)は、日本の実業家・著述家。王子製紙取締役・監査役を務めるかたわら、一柳家にまつわる歴史の編纂や史跡の保護にあたった。諱として「直幹」、号として「南峰」を称している。 1876年(明治9年)、岐阜県大垣生まれ。父は大垣藩で藩校教授を務めていた一柳元吉(1842年 - 1919年、諱は「薫」、号「芳洲」)。実弟に、文部省社会教育局長・国民精神文化研究所所長となる関屋龍吉がいる。生家の一柳家は、江戸時代初期に伊予国西条藩主であった一柳家の流れを汲む。西条藩一柳家は3代藩主一柳直興の時に改易処分を受けたが、直興の弟・一柳直照が5000石で別家を立てており、その家は大身旗本として幕末まで存続した。
坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930… 坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930年?月)は、日本の歴史家、著述家。号は蠡舟(れいしゅう・いしゅう)。坂本 健名義の著書もあるらしい。 兵庫県淡路島平民出身。1895年7月3日に旧制第四高等学校大学予科第一部を卒業、1898年7月10日に東京帝国大学文学部史学科を卒業。1900年北京京師大学堂(現・北京大学)の招聘を受け、7年間の出向を経て著述業に従事。 大正期には「コーラン経」(1920年、セイルらのクルアーン英訳本からの重訳)や「ムハメッド伝」(1923年)を著した。 以下は北京京師大学堂での同僚。
山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31… 山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31日 - 1971年〈昭和46年〉1月11日)は、日本陸軍の軍人・著述家・中国文学研究者・翻訳家。別号は三志園、海城。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる。 旧士族・山縣正升の長男として生まれる。村上私学校を中退して陸軍教導団歩兵科に入り、1894年(明治27年)3月に卒業。歩兵二等軍曹として日清戦争に参戦した。1898年(明治31年)12月、士官候補生となり、陸軍士官学校(12期)に入学(同期に小磯國昭らがいる)。
岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9… 岡 鬼太郎(おか おにたろう、明治5年8月1日(1872年9月3日) - 1943年(昭和18年)10月29日)は、日本の劇評家、歌舞伎作家(脚本家)、演出家、著述家。本名嘉太郎(よしたろう)。号は鬼吟(きぎん)。 東京生まれで、父岡嘉知は旧佐賀藩士。東京府尋常中学を経て、慶應義塾大学卒業。1893年に時事新報に入社、1895年報知新聞に移り、鬼太郎の名で厳しい劇評(歌舞伎)を書く。岡本綺堂と親しく、その影響で花柳小説や戯曲も書いた。ほか二六新報などの新聞記者もつとめた。 1908年記者をやめ、永井荷風とともに二代目市川左團次の演劇革新運動に加わる。かたわらで、戯曲の創作、辛口の批評で人気を集め『鬼言冗語』などの歌舞伎関係の批評随筆を多く残した。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月… 小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した。号は霞南。 陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する。慶應義塾を卒業後、米国に留学し、政治学をまなんだ。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得。帰国後は明治学院教授を短期間務めたのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。
菅沼 貞風(すがぬま ただかぜ / ていふう、慶応元年3月1… 菅沼 貞風(すがぬま ただかぜ / ていふう、慶応元年3月10日(1865年4月5日) - 1889年(明治22年)7月6日)は、日本の経済史家・著述家・南進論者。弟に海軍少将で西海中学(現・西海学園高等学校)創立者の菅沼周次郎がいる。専修学校(現在の専修大学)の学風に大きく魅了され、法律学と経済学を修し卒業。 同郷の石橋禹三郎・稲垣満次郎とともに「平戸派南進論者」と称される。 肥前国松浦郡平戸(現長崎県平戸市)に、平戸藩藩士・菅沼量平の長男として生まれる(名はしばしば「ていふう」と読まれるが正しくは「ただかぜ」[要出典])。父量平は藩主に詩歌について進講するなど文武に優れ、貞風はその父について学問を始めた。
熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1… 熊田 葦城(くまた いじょう・くまだ いじょう、文久2年(1862年)6月 - 1940年2月12日)は、日本の歴史学者、文筆家。本名は熊田宗次郎。 福山藩藩士・熊田臨蔵の次男として、備後国福山(現在の広島県福山市)に生まれる。誠之館にて学を修めたほか、江木鰐水に漢籍を、五弓雪窓に漢作文を、藤井葦川に漢詩を学ぶ。 二十歳のころ大阪に出て大阪新報社に就職、同社で編集長をつとめたのち新潟日日新聞、北海道毎日新聞、北海新聞などを経て報知新聞に招かれた。同紙編集長の傍ら日清戦争の戦時記事を執筆して大いにその名を知られるようになる。一時同社を退いたが、日露戦争を機に再び報知の編集長に就任。自著『日本史蹟』が賞讃の的となり、のち鎌倉に居住して著述業に専念した。
田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年… 田部井 鉚太郎(ためがい りゅうたろう、1862年(文久2年4月) - 1918年(大正7年)9月9日)は、三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)出身の教育者・文筆家。号は竹香。豊橋市長の田部井勝蔵は弟。 文久2年(1862年)4月、江戸・赤坂にある刈谷藩の江戸藩邸に生まれた。父は刈谷藩士の田部井清蔵であり、鉚太郎は長男だった。田部井家は三河碧海郡高津波村(現・愛知県刈谷市)にある。 明治維新後には愛知県師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)を卒業し、21年間にわたって愛知県内の学校の訓導や校長を務めた。また、南画家の牧野敏太郎(挙母藩藩士の子であり牧野義雄の兄)の南画の師だった。1901年(明治34年)には富山県視学となった。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4… 椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4年9月19日) - 1912年(明治44年)4月4日)は、日本の文筆家・漢文学者・実業家。筆名・雅号は南浦。海運業などで活躍した明治の実業家の一人。『南浦遺集』という書名はこの雅号に由来する。 子孫には、実業家で元日本鉱業株式会社の役員・椎名芳胤、音楽家・文筆家の菊村紀彦、元奥州大学(現・富士大学)教授で近代日本の図書館学等に貢献した椎名六郎らがいる。日本鉱業は新日鉱ホールディングスへと受け継がれ、日立製作所や日産自動車を生んだ第二次世界大戦前の新興財閥、日産コンツェルンの源流となった企業の一つであった。 讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清尾八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。