柳澤 久(やなぎさわ ひさし、1947年7月 - )は長野県… 柳澤 久(やなぎさわ ひさし、1947年7月 - )は長野県出身の柔道家。女子柔道の指導者として知られている。八段。(財)講道館評議員。
職業が柔道:932人
柳澤 久(やなぎさわ ひさし、1947年7月 - )は長野県… 柳澤 久(やなぎさわ ひさし、1947年7月 - )は長野県出身の柔道家。女子柔道の指導者として知られている。八段。(財)講道館評議員。
西村 昌樹(にしむら もとき、1947年6月8日 - )は、… 西村 昌樹(にしむら もとき、1947年6月8日 - )は、千葉県出身の日本の柔道家。身長185cm。体重115kg。 1966年日本大学第一高等学校卒業、拓殖大学卒業。1972年の全日本選手権3位。ミュンヘンオリンピック柔道男子重量級銅メダリスト。 (階級表記のない大会は全て重量級での成績)
二宮 和弘(にのみや かずひろ、1946年11月28日 - … 二宮 和弘(にのみや かずひろ、1946年11月28日 - )は、日本の柔道家。1976年モントリオールオリンピック柔道男子93kg級金メダリスト。福岡県福岡市出身。柔道九段。 博多高校卒業後、天理大学を経て、正気塾にて岡野功に師事する。その後、当時の福岡県警柔道師範の誘いで、1972年4月より県警に入る。同年全日本選手権で3位入賞。 1973年のスイス・ローザンヌの世界選手権での無差別級で優勝、翌1974年の全日本選手権でも準優勝。永くライバル関係の上口孝文(同じく全日本柔道選手権準優勝経験者)を下して出場した1976年モントリオールオリンピックでは、当時の日本人選手が苦手にしていたクラスで金メダルを獲得。
園田 勇(そのだ いさむ、1946年11月5日 - )は、福… 園田 勇(そのだ いさむ、1946年11月5日 - )は、福岡県山門郡三橋町(現:柳川市)出身の日本の柔道家。1976年モントリオールオリンピック柔道男子80kg級金メダリスト。身長177cm。得意技は大外刈。5人兄弟の末っ子。 福岡電波高校から福岡工業大学に進学後、1969年世界柔道選手権大会の80kg級で金メダルを獲得した。この大会では兄の園田義男も63kg級で金メダルを獲得した。大学卒業後は丸善石油に入社し柔道を続けたが柔道は仕事が終了した夕方からしかできなかった。1972年6月に福岡県警察に入り警察官に対しての柔道コーチを始めた。 1973年世界柔道選手権大会で銀メダル、1976年のモントリオールオリンピックには4歳下の強力なライバル藤猪省三と競い代表の座を得ると本大会でも金メダルを獲得した。
河野 義光(こうの よしみつ、1946年10月17日 - )… 河野 義光(こうの よしみつ、1946年10月17日 - )は、愛媛県出身の日本の柔道家。階級は軽中量級(70kg級)。 今治南高校2年の時にインターハイ軽量級で優勝すると、3年の時には中量級で優勝を飾った。1965年に日本大学へ進むと、1966年の全日本学生柔道優勝大会では2位となった。1967年に東京で開催されたユニバーシアードには団体戦に出場してチームの優勝に貢献した。1968年のソ連及びハンガリー遠征の際には活躍して、ハンガリー大会での個人戦中量級で優勝を果たした。全日本学生柔道選手権大会軽中量級では中央大学の津沢寿志に優勢負けして2位だった。1969年の世界選手権には軽中量級に出場して決勝まで進むが、金沢工業大学教員の湊谷弘に掬投で敗れて2位にとどまった。
篠巻 政利(しのまき まさとし、1946年10月6日 - )… 篠巻 政利(しのまき まさとし、1946年10月6日 - )は、千葉県南房総市白浜町(旧 千葉県安房郡白浜町)出身の柔道家。身長181cm。体重115kg。1960年代後半〜1970年代前半に活躍した。 本人談(2024/07/28 南房総市スポーツ少年団 白浜柔道クラブの指導時)、「生まれは山口県下関市だが3歳で安房郡白浜町にきて子供・学生時代を過ごした。海によく行っていた。」とのこと。 インターネット上の「山口県下関市出身」の情報は、この出生地によるものと思われる。 篠巻の柔道は、旧 白浜町立長尾中学校(後に、白浜中学校・長尾中学校は統合し白浜町立白浜中学校となる)より始まった。 篠巻が中学3年になる年、隣の千倉町立千倉中学校より柔道顧問となる教師が長尾中学校に赴任、長尾中に柔道部が創設された。
呉勝立(オ・スンニプ、朝: 오승립、英: Oh Seung-… 呉勝立(オ・スンニプ、朝: 오승립、英: Oh Seung-Lip、1946年10月6日-)は韓国の柔道選手。兵庫県神戸市長田区出身。階級は中量級。身長175cm。高校までは「呉原」姓を名乗っていた。
園田 義男(そのだ よしお、1945年8月30日 - 201… 園田 義男(そのだ よしお、1945年8月30日 - 2018年1月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。弟はモントリオール五輪金メダリストの園田勇。 福岡工業大学在学中に全日本学生選手権大会や世界学生選手権大会、ユニバーシアード等で優勝を果たし、社会人になってからはメキシコシティで開催の世界選手権大会で弟の勇とともに兄弟同時優勝を成し遂げた。引退後は指導者として、福岡工大付属城東高校で谷亮子や日下部基栄等を育てた事でも有名。のち同校の校長を務めた。身長167cm。得意技は大外刈。 終戦直後の1945年8月、福岡県山門郡三橋町(現:柳川市)にて5人兄姉(4男1女)の3男として生まれる。実家は農業・養豚を営む家柄、父親は厳格で典型的な亭主関白であった。
重岡 孝文(しげおか たかふみ、1945年1月2日 - )は… 重岡 孝文(しげおか たかふみ、1945年1月2日 - )は福岡県出身の日本の柔道家。階級は軽量級。身長160cm。得意技は小内刈、掬投、飛びつきの腕挫十字固。 小学校5年の時に柔道を始めた。久留米商業高校時代は「小内刈の重岡」との異名をとり、地区大会では重量級の坂口征二にもその小内刈で一本勝ちしたことがあるという。その後、東京教育大学に進学すると、1963年にはプレオリンピックとなる東京国際スポーツ大会の軽量級で優勝した。しかし、翌年の1964年東京オリンピック代表にはなれなかった。卒業後は大分県で高校の教員になると、1967年の世界選手権では決勝で松田博文に優勢勝ちして優勝を果たした。また、軽量級の選手ながら全日本選手権にも出場したことがある。
岩釣 兼生(いわつり かねお、1944年3月25日 - 20… 岩釣 兼生(いわつり かねお、1944年3月25日 - 2011年1月27日)は、日本の柔道家。七段。身長182 cm、体重105 kg(全盛期)。熊本県出身。晩年、雑誌などでは岩釣 兼旺を名乗ることが多かった。 熊本県立鹿本高等学校時代、木村政彦にスカウトされ拓殖大学に入学。当時の木村の指導方法は、気が向いたら真夜中だろうと部員を叩き起こすというもので、1日のうち24時間が練習時間と言っても過言ではないくらい厳しいものであったとされる。 岩釣は師匠ゆずりの独特の大外刈や腕緘(キムラロック)を身につけて、1965年の大学4年時、キャプテンとして部を率い、全日本学生柔道優勝大会決勝でそれまで4連覇していた明治大学を破って拓殖大学を戦後団体戦初優勝に導く。
山本 裕洋(やまもと やすひろ、1944年(昭和19年)1月… 山本 裕洋(やまもと やすひろ、1944年(昭和19年)1月31日 - )は、日本の柔道家、段位は8段、全日本実業柔道連盟副理事長、西日本実業柔道連盟理事長、宮崎県延岡市に在住。 広島県出身。広島市の中学校から柔道を始め、広島県立広島商業高等学校に進学して山肩敏美と出会い、崇徳高等学校に転校し学校と道場での練習を積み、3年のとき主将として全国大会初出場を果たした。 明治大学に進学後は曽根康治、神永昭夫の両指導者の下で厳しい指導を受け、全日本学生柔道選手権大会無差別級で2年連続優勝を果たした。 1967年 旭化成工業(現 旭化成)に入社し、当時衰退していた柔道部の監督に入社3年目で就任。「他社に無い練習を」をスローガンに早朝5時30分からのトレーニングを率先励行したことで徐々に部員の意欲が高揚し、会社の理解もあって、好成績が続き社内外で認められるようになり、各地から名選手が入社するようになって現在の強い柔道部が出来上がった。
川野 一成(かわの かずなり、1944年1月25日 - )は… 川野 一成(かわの かずなり、1944年1月25日 - )は、福岡県出身の日本の柔道家。段位は七段。 柔道は中学3年の時に始めた。常磐高校から国士舘大学へ進学するが、この当時大きな実績はあげていない。大学時代には指導者の上野孫吉から「オマエはもう柔道やめてくれ、邪魔だ!」と言われたこともあった。大学を卒業すると、地元に帰らずもう少し東京に留まっていたかったことから国士舘高校の教員になると、先輩から頼まれて柔道部監督にも就任した。最初はそれほど乗り気でなかったものの、柔道部を指導していくうちに勝てない悔しさからどんどん指導にのめりこんでいった。 後のロサンゼルスオリンピック及びソウルオリンピック95kg超級金メダリストの斎藤仁をスカウトした際には、直前に柔道部の寮が火事になってしまったことから着る物もなくて、やむを得ずペラペラのヤッケを重ね着して斉藤の住む青森県まで赴いた。
岡野 功(おかの いさお、1944年(昭和19年)1月20日… 岡野 功(おかの いさお、1944年(昭和19年)1月20日 - )は、日本の柔道家、流通経済大学名誉教授。1964年(昭和39年)東京オリンピック柔道男子80kg級金メダリスト。身長170cm。体重80kg。 茨城県龍ケ崎市出身。福井英一の漫画『イガグリくん』に影響を受け中学から柔道を始める。茨城県立竜ヶ崎第一高等学校卒業。中央大学法学部に在学中の1964年(昭和39年)、東京オリンピックに中量級の日本代表として出場し、金メダルを獲得した。1965年(昭和40年)の世界選手権でもオール一本勝ちで優勝し、21歳で柔道中量級における世界のトップ選手となる。1972年の(昭和47年)全日本柔道選手権覇者でミュンヘンオリンピック中量級で金メダルを獲得した関根忍とは同学年のライバルであった。
佐藤 宣践(さとう のぶゆき、1944年1月12日 - )は… 佐藤 宣践(さとう のぶゆき、1944年1月12日 - )は、日本の柔道家。北海道函館市出身。2012年、九段に昇段。東海大学名誉教授、2016年4月より桐蔭横浜大学第三代学長。身長178cm、体重88kg。 東京教育大学卒業後、博報堂に入社。1967年の世界選手権の軽重量級で優勝。その後も1969年無差別級で3位、1971年軽重量級で2位、1973年軽重量級で優勝と安定した成績を挙げた。全日本選手権においても90kg前後の体格ながら1967年と1971年に準優勝、1974年優勝と好成績を残す。またサンボも経験しており、1972年のヨーロッパ選手権では優勝を成し遂げている。 現役時代は左組からの体落、大内刈を得意とした。
常田 享詳(つねだ たかよし、1943年11月5日 - )は… 常田 享詳(つねだ たかよし、1943年11月5日 - )は、日本の政治家、薬剤師、柔道家(六段)。 参議院議員(2期)、鳥取県議会議員(3期)、鳥取市議会議員(1期)を歴任。
湊谷 弘(みなとや ひろし、1943年10月17日 - 20… 湊谷 弘(みなとや ひろし、1943年10月17日 - 2016年6月15日)は、日本の柔道家(講道館9段)。富山県出身。 1967年と1969年に開催された世界選手権大会の軽中量級覇者である。 富山県福野町(現・南砺市)で接骨院を営む家に、7人兄妹の末っ子として生まれる。父が道場を経営していた関係で5歳頃から柔道を始め、当時は幼心にもインターハイか国体への出場を目標に稽古に励んだ。なお、兄妹はいずれもスポーツマン・スポーツウーマンで、後に卓球のダブルスで日本一になった者もいる。 中学校を卒業すると、進学校であり柔道でも県立小杉高校らと共に当時富山県内の4強に数えられた県立福野高校(現・県立南砺福野高校)へ進学。
関根 忍(せきね しのぶ、1943年9月20日 - 2018… 関根 忍(せきね しのぶ、1943年9月20日 - 2018年12月18日)は、日本の柔道家(9段)。茨城県東茨城郡大洗町出身。1972年ミュンヘンオリンピック柔道男子80kg級金メダリスト。身長173cm。1964年東京オリンピック80kg級金メダリストの岡野功とは同じ茨城県の出身で、同年齢のライバルでもあった。 茨城県立那珂湊第一高等学校から中央大学を経て警視庁に進み、左手をぐいと伸ばして肩越しに背中をつかむ変形の組み手で実力を伸ばした。 1972年には中量級の選手ながら全日本選手権で優勝した。さらに1972年ミュンヘンオリンピックの男子柔道中量級でも金メダルを獲得した。5回戦で韓国の呉勝立に敗れたが、呉が勝ち進んだため敗者復活で救われ勝ち上がり、決勝で呉と再戦。
松田 博文(まつだ ひろふみ、1943年8月31日 - )は… 松田 博文(まつだ ひろふみ、1943年8月31日 - )は福岡県出身の日本の柔道家。身長162cm。得意技は背負投、内股。 嘉穂高校から関西大学進学後、1964年東京オリンピックの軽量級代表候補になるも今一歩のところで代表にはなれなかった。しかし1965年の世界選手権軽量級では優勝を果たした。その後フランス柔道連盟に招聘されて、一時期フランスで柔道を教えていた。帰国後は東レデュポンに所属していた。1967年の世界選手権中量級で優勝した丸木英二とは大学時代に同級生だった。
丸木 英二(まるき えいじ、1943年5月25日 - )は、… 丸木 英二(まるき えいじ、1943年5月25日 - )は、日本の柔道家。身長172cm。得意技は背負投、大内刈。兵庫県出身。 柔道は幼少の頃から始めた。浪商高校から関西大学進学後、全日本学生柔道選手権大会の中量級で優勝を果たした。さらに1967年の世界選手権でも決勝でオランダの選手を破り優勝した 1965年の世界選手権軽量級で優勝した松田博文とは大学時代に同級生だった。1968年には世界チャンピオンである天理大学助手の岡野功や翌年に兄弟で世界チャンピオンとなる福岡工業大学の園田義男、園田勇などとともにソ連とハンガリーへの遠征を行った。ソ連における団体戦でチームは3戦とも圧勝した。続いてハンガリーにおける団体戦では日本チームは2度一本勝ちして初めて勝利となる変則ルールの下で試合が行われたが、全試合で勝利を収めた。
山中 圏一(やまなか けんいち、1943年 - 2025年1… 山中 圏一(やまなか けんいち、1943年 - 2025年10月26日[要出典])は長崎県佐世保市出身の日本の柔道家。階級は中量級(80kg級)。 佐世保に生まれるが、その後豊後高田市に移った。1956年に高田中学に入学すると、当初はテニス部に所属していたが、柔道部の稽古風景を見て「これだ!」と思い柔道部に転部した。その後、高田高校から天理大学に進学すると、1963年の全日本学生柔道優勝大会で2位、1964年の全日本学生柔道選手権大会中量級では中央大学の関根忍に体落で敗れるが2位となった。1965年の世界選手権中量級では準決勝でアメリカのジェームズ・ブレグマンを体落で破るものの、決勝では中央大学の岡野功に背負投で立て続けに技あり2つを取られて敗れた。
中村 良三(なかむら りょうぞう、1942年11月12日 -… 中村 良三(なかむら りょうぞう、1942年11月12日 - )は、日本の柔道家。講道館九段を取得している。 現役時代は全日本選手権出場等の実績を持ち、引退後は母校・東京教育大学および筑波大学にて教授や柔道部監督、国際柔道連盟教育理事等を歴任した。 富山県高岡市の生まれで、小学校低学年の時に母親の友人の女性から勧められて柔道を始めた。市立高陵中学校にて後々まで生涯の師と仰ぐ事となる向健三と出会い、中学3年次に県大会で団体戦・個人戦とも優勝。高校は県下有数の進学校である県立高岡高校へ進み、卒業後1961年に東京教育大学へ入学して稽古に励んだ。大学4年次の1964年には日本の柔道家にとっての檜舞台である全日本選手権に東京地区代表として出場を果たしている。
坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は… 坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー、柔道家、実業家。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・元プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二。 受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年、柔道三段を取得。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定。国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。
チアキ・イシイ(Chiaki Ishii、石井 千秋、194… チアキ・イシイ(Chiaki Ishii、石井 千秋、1941年10月1日- )は、栃木県足利市出身の柔道家。男性。1969年にブラジルに帰化した。得意技は大内刈。彼の2人の娘、タニア・イシイ(ポーランド語版)、バニア・イシイも柔道家である。 生家は天神真楊流柔術の流れを汲む柔道の足利造士館石井道場。五男の末っ子として生まれる。 祖父は慶応2年生まれの天神真楊流柔術の石井清吉柳喜斎源正義こと石井清吉。清吉は大正に入って嘉納治五郎から請われ道場の看板を柔道に変える。それ以来、父親の石井勇吉(1970年現在、柔道七段)は清吉に講道館の寒稽古・暑中稽古に送られみっちり鍛えられる。チアキはこのころ講道館六段が清吉に贈られたと述べている。
中谷 雄英(なかたに たけひで、男性、1941年7月9日 -… 中谷 雄英(なかたに たけひで、男性、1941年7月9日 - )は、元柔道選手。柔道指導者。講道館9段。
金 義泰(キム・ウィテ、朝: 김의태、英: Kim Ui-T… 金 義泰(キム・ウィテ、朝: 김의태、英: Kim Ui-Tae、1941年6月2日-)は韓国の柔道選手。日本名は山本 義泰(やまもと よしやす)。兵庫県神戸市長田区出身。階級は中量級。身長174cm。 在日韓国人として生まれて、神港学園高校から天理大学に進み、主将を務めるなどして活躍した、1961年の世界選手権(無差別)では韓国代表で出場して、準決勝で曽根康治に判定、3位決定戦で古賀武に払腰で敗れたが4位となった。また、1963年のプレオリンピック大会の中量級では決勝で中央大学の岡野功に敗れた。 その後、1964年には東京オリンピックの中量級代表に選ばれて韓国で練習していたが、コーチがいなかったので何もかも自分でこなさなければならなかった。
山本 信明(やまもと のぶあき、1941年5月 - )は新潟… 山本 信明(やまもと のぶあき、1941年5月 - )は新潟県北蒲原郡出身の日本の柔道家。 水原高校から東洋大学へ進学すると、釣込腰と大内刈のコンビネーションを武器に全日本学生柔道優勝大会などで活躍した。 卒業後は海外雄飛を夢見て、1970年にポルトガルへ旅立つと、さらにはヨーロッパやアフリカ各地でも柔道指導を行うようになった。1971年にユーゴスラビアのベオグラードに立ち寄った際にはレスリングのユーゴスラビアジュニア王者だったラドミール・コバセビッチを見出して柔道への転向を勧めると、コバセビッチは柔道選手となり、東海大学へ留学することになった。1973年にエジプトのアレクサンドリアで柔道指導を行った際には、YMCAでバスケットボールに取り組んでいたモハメド・ラシュワンを見出して柔道を勧めると、ラシュワンは柔道を始めた。
奥田 義郎(おくだ よしろう、1941年生)は、日本の柔道家… 奥田 義郎(おくだ よしろう、1941年生)は、日本の柔道家。京都府出身。修猷館高校教師らを歴任。2000年現在、九州大学柔道部師範。 平安高校、天理大学卒。 1963年、福岡の修猷館高校に赴任。1964年には全日本選手権で同年の東京オリンピック中量級の金メダリストの岡野功を寝技で破りベスト8に進出するなど、絞めの奥田として勇名を馳せた。 「どんな大男でも寝かせてしまえば条件は一緒」と公言し、身長170 cm・体重70 kgと小柄ながら、強化合宿では重量級の代表選手でも、寝技では相手にならなかった。 例えば、世界柔道選手権で2度の優勝、全日本選手権も制した、これまた寝技の名手と呼ばれ名声を馳せた佐藤宣践を試合で絞め落としたネズミ捕りという技は、相手を抑え込みに誘い込み、自分が下になりながら絞める技で、抑えていた佐藤が痙攣して落ちてしまい、目撃していた岡野功はまるで魔術のようだったと語っている。
松阪 猛(まつさか たけし、1939年12月20日 - 20… 松阪 猛(まつさか たけし、1939年12月20日 - 2014年10月22日)は、日本の柔道家(講道館9段)。現役時代の階級は中量級および重量級。 大阪府岸和田市出身で、生粋の大阪生まれ・大阪育ち。記録上の講道館入門は1956年3月29日。近畿大学在学中の1962年11月、4日に開催された全日本学生選手権(大阪府立体育会館)で3位入賞し、2週間後の講道館80周年記念全日本体重別選手権(東京体育館)では中量級の部で優勝を果たして、東京五輪代表候補の1人に数えられた。 1963年1月に大阪府警察入り、警察学校卒業後は機動隊特科中隊第2小隊(柔道部)へ赴任。府警のほか警視庁や旭化成、新日本製鉄、博報堂など実業団への出稽古で己の柔道を磨いた。
古賀 武(こが たけし、1939年5月11日 - )は日本の… 古賀 武(こが たけし、1939年5月11日 - )は日本の柔道家(9段)。福岡県出身。 1961年に開催された世界選手権の銅メダリストである。 福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)で家具製造業の傍ら柔道場を開く父親のもと、3人兄妹の長男として生まれる。太平洋戦争でソ連に抑留されていた父親が戦後帰国し、道場 を再開したのを機に、古賀はそこで柔道を習い始める。白銀中学1年の時であった。 柔道は父親の勧めによるもので古賀本人の意思によるものではなく、古賀曰く“最初は嫌々やっていた”が、天性の運動神経も手伝い、次第に柔道に明け暮れるようになる。朝5時に目覚めると、父親同伴で近くの海岸をランニングし、途中の神社で約100段の階段を駆け上がるという稽古を中高時代に続けた。
関 勝治(せき かつじ、1939年5月 - )は、千葉県市川… 関 勝治(せき かつじ、1939年5月 - )は、千葉県市川市出身の日本の柔道家。現役時代は中量級の選手。組み手は左組み。得意技は体落。身長171cm。体重76kg。 それまでは陸上競技やバスケットボールなどに取り組んでいたが、中学3年の時に加藤道場に入門して柔道を始めた。千葉商大付属第一高校3年の時にはすでに20歳になっていたが、高校生として初となる全日本選手権出場を果たした。大会では予選リーグ1勝1敗の成績で翌日の決勝トーナメントには進めなかった。この際に、フットワークはいいが、体落一辺倒のマンボ的柔道はあまり感心できないとも評された。1961年には明治大学政治経済学部に進学すると、師範の姿節雄や曽根康治の指導の下で鍛えられて全日本学生柔道優勝大会では4連覇達成に貢献した。
猪熊 功(いのくま いさお、1938年2月4日 - 2001… 猪熊 功(いのくま いさお、1938年2月4日 - 2001年9月28日)は、日本の柔道家。身長173cm。体重88kg。 1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック柔道競技の男子80kg超級で金メダルを獲得。 神奈川県横須賀市出身。幼少時代は病弱で、結核・自家中毒・ヘルニアなどを経験した。市立不入斗中学2年生の時に姿三四郎に憧れ、近所にあった渡辺利一郎の道場で柔道を始める。同門に、山村泰三(後の大相撲小結)や森徹(後のプロ野球選手)など。入門当初、体格で劣る猪熊は2人におもしろいように投げ飛ばされ続けたが、持ち前の負けん気が生み出した背負投を武器に、卒業する頃には2人を全く相手にしないほど強くなっていたという。
竹内 善徳(たけうち よしのり、1937年 <昭和12年> … 竹内 善徳(たけうち よしのり、1937年 <昭和12年> 8月27日 - 2006年 <平成18年> 5月14日)は、日本の柔道家。1962年全日本選手権の覇者。国際柔道連盟副会長、筑波大学名誉教授らを歴任。叙従四位、授瑞宝中綬章。 北海道札幌市出身。北海道札幌東高等学校で本格的に柔道をはじめ、北海道チャンピオンとなる。高校卒業後は柔道の道を志し東京教育大学(のちの筑波大学)へ進学。大学での同級生に学生初の全日本選手権覇者となる猪熊功がいたが、2人の先輩にあたる長谷川博之(埼玉県柔道連盟副会長)は「荒武者でファイターの猪熊に対し、竹内は理論派で紳士」と語っている 1960年に大学を卒業すると、大分の大分上野丘高校にて教師に。
米塚 義定(よねづか よしさだ、1937年5月19日 - 2… 米塚 義定(よねづか よしさだ、1937年5月19日 - 2014年10月18日)は日本及びアメリカの柔道家。柔道の段位は講道館9段で、空手道でも8段を所有している。アメリカでは“ヨネ”として知られた。 青森県北津軽郡武田村(のちの中泊町)出身。小さい頃は相撲や陸上競技に取り組んでいた。武田中学校を卒業後、五所川原高校に入学してから柔道を始め、受け身の練習を始めてから2年後の高校3年次には青森県代表として国体出場を果たした。日本大学に進学すると、4年間の学生生活で引き分けはあっても負け試合は1度もなく、副主将を務めて全日本学生柔道優勝大会などで活躍した。 1960年に大学を卒業後、ニューヨーク州柔道協会に招聘されてアメリカで柔道指導にあたる事になった。
椎名 清(しいな きよし、1937年 - )は、日本の柔道家… 椎名 清(しいな きよし、1937年 - )は、日本の柔道家。栃木県栃木市出身。主にアメリカ合衆国での指導者としての活動が知られる。 1937年栃木県に生まれ、日本大学を卒業後渡米。1968年の時点で、5段の段位を有していたとされる。 米塚義定と共に指導者として活動し、セント・ジョンズ大学で25年間指導した。アメリカ合衆国オリンピック代表のジョセフ・ワナグと、テイモック・ジョンストン=オノ(英語版)、トリニダード・トバゴに柔道を普及させたマーク・リトリアンらを指導している。 2023年にアメリカ柔道連盟(英語版)殿堂に選出された。アメリカ柔道連盟の高段者リストでは9段に位置している。 この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。
神永 昭夫(かみなが あきお、1936年〈昭和11年〉12月… 神永 昭夫(かみなが あきお、1936年〈昭和11年〉12月22日 - 1993年〈平成5年〉3月21日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 全日本選手権大会を3度制し、猪熊功と共に1960年初頭に“神猪時代”を築いた。柔道競技がはじめて採用された1964年の東京オリンピックでは無差別級に出場するも、決勝戦でオランダのアントン・ヘーシンクに敗れて銀メダルに終わった。 宮城県仙台市出身。東北高校在学中に柔道をはじめたが、恵まれた体格のため、短期間で格段の進歩を遂げる。東北高校在学3年の時、薦められて講道館で昇段試験を受け、そこで19人抜きの快挙をなして即日3段の認定を受けた。これは当時としては破格の扱いであった。
渡辺 喜三郎(わたなべ きさぶろう、1936年1月29日 -… 渡辺 喜三郎(わたなべ きさぶろう、1936年1月29日 - 2019年9月25日)は、日本の柔道家(講道館7段)。 新潟県加茂市出身。県立加茂農林高校2年生の時に滝沢虎雄6段の元で柔道を始め、身長176cm・体重80kgと均整の取れた体躯と先天的な体の弾力性や巧妙な体捌きを以て稽古に励んだ。生来左利きであったが柔道においては右組を主とし、高校時代には中央大学出身の宮内英二8段の指導も受けてメキメキと頭角を現した。 1954年春に高校卒業後は師の宮内と同じ中央大学へ進学して菊池揚二9段や山辺正路8段の薫陶を受け、忽ち当時の学生柔道界において抜きん出た存在となった。この頃の学生柔道界は日本大学の松下三郎を筆頭に早稲田大学の三宅倫三、天理大学の今村春夫や古賀正躬、明治大学の神永昭夫、関西大学の岩田兵衛、東京教育大学の長谷川博之や猪熊功らが全国的に名を馳せた時代であり、渡辺はそれらと鎬を削って学生柔道黄金時代の立役者の1人として活躍している。
松下 三郎(まつした さぶろう、1935年〈昭和10年〉9月… 松下 三郎(まつした さぶろう、1935年〈昭和10年〉9月1日 - 2020年〈令和2年〉4月19日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。 鹿児島県日置郡吹上町 (現在の鹿児島県日置市吹上町)で生まれる。吹上町立伊作小学校を経て、吹上町立伊作中学校在学中に先輩の誘いで柔道と出会い、稽古に参加するようになった。 鹿児島商業高等学校進学後は野球部に入部したものの、ボール拾いやランニング、古いボールの繕いといったことの連続で練習の機会が無かった。そんな折、母校である伊作中学校に立ち寄った際に剣道の先生から柔道をやるよう勧められたこと、柔道部の顧問から勧誘されたことを理由に柔道部に転部し、県大会やインターハイに出場した。
曽根 康治(そね こうじ、1928年11月14日 - 198… 曽根 康治(そね こうじ、1928年11月14日 - 1981年4月27日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 1958年の世界選手権で優勝。得意技は内股や大外刈など。 埼玉県大里郡寄居町出身。父親が柔道6段、叔父がのち柔道9段の曽根幸蔵、兄も有段者という柔道一家に生まれる。7歳の時に地元・寄居町にて、長谷吉重郎(講道館8段)が館主を務める明道館に入門。 県立熊谷商業高校を卒業後は明治大学に進学し、入学直後には当時まだ少なかった3段に昇段した。しかし1・2年生の頃の柔道部はGHQの圧力で武道は禁止されていたため稽古を大っぴらにはできず、“第2レスリング部”と称する柔道同好者の集いに過ぎなかった。当時は寮も無く寄居から駿河台の校舎まで電車に2時間半揺られて通学していたが、3年生になりようやく“柔道部”が創設されて葛飾区の堀切に白雲寮ができるとそちらに移り住んだ。
佐伯 弘治(さえき こうじ、1928年 - 2016年2月3… 佐伯 弘治(さえき こうじ、1928年 - 2016年2月3日)は、日本の法学者、柔道家。専攻は民法、法社会学。前学校法人国士舘理事長。学校法人日通学園学園長。流通経済大学名誉学長。学生柔道の振興にも寄与した。 富山県富山市生まれ。 富山県立富山商業学校、国士舘専門学校を経て、1951年、法政大学法学部卒。 1953年、法政大学大学院(旧制)修了。指導教授は薬師寺志光。 大学院修了後、法政大学短期大学部商経科講師(法政大学柔道部監督と兼任)を経て、1965年流通経済大学の開学に伴い経済学部助教授、1969年教授。 1974年、46歳の時、流通経済大学学長に就任し、2001年3月まで、9期27年務める。
大沢 慶己(大澤 慶己、おおさわ よしみ、1926年3月6日… 大沢 慶己(大澤 慶己、おおさわ よしみ、1926年3月6日 - 2022年10月21日)は、日本の柔道家(講道館十段)。早稲田大学名誉教授、全日本柔道連盟評議員・理事・顧問、講道館参与・評議員、講道学舎学頭、早稲田大学名誉教授らを歴任。 現役時代は身長167cm・体重67kgという小躯ながら、松本安市や醍醐敏郎ら戦中・戦後を代表する大型選手達と鎬を削り、全日本選手権大会や全日本東西対抗大会等の主要大会で活躍。その軽快な身のこなしから今牛若丸や昭和の小天狗と呼ばれた。 引退後は1964年の東京五輪でコーチを務め、後に全日本柔道連盟国際試合選手強化委員会(女子)委員長や講道館女子部部長を歴任して黎明期の女子柔道の礎を築いたほか、母校・早稲田大学では柔道部師範や教授を務めるなど半世紀以上に渡り後進の指導に当たって、今日の柔道の隆盛に大きく貢献した。
大沢 慶己(おおさわ よしみ、1926年3月6日-)は、日本… 大沢 慶己(おおさわ よしみ、1926年3月6日-)は、日本の柔道家、早稲田大学名誉教授。柔道で事実上の最高段位となっている十段の所有者(120年以上の柔道の歴史のなかで2006年現在、過去を含めて十段所有者は15名のみ)。柔道が初めて五輪正式種目となった1964年東京オリンピックの柔道競技コーチ、全日本柔道連盟国際試合選手強化委員会(女子)委員長、講道館女子部部長、早稲田大学柔道部師範、早稲田大学人間科学部教授を歴任。今日の日本および世界の柔道の隆盛にも大きく貢献した。2006年、早稲田大学スポーツ功労者表彰。
醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日 - 202… 醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日 - 2021年10月10日)は、日本の柔道家(講道館十段)。 戦後の柔道界を牽引した1人であり、同時期に活躍した松本安市、吉松義彦、石川隆彦、夏井昇吉らと繰り広げた数々の名勝負は、現在も柔道界の歴史に刻まれる。講道館研修員や警察大学校師範として後進の指導にも当たり、モントリオール五輪やロサンゼルス五輪では男子柔道競技の監督を務めた。2006年には講道館より事実上の最高段位である10段に列せられている。 1925年の年末12月26日、千葉県安房郡船形町(現・館山市)仲宿で米穀や酒類を販売する商店を営む、醍醐武兵衛の4男として出生。醍醐家は江戸時代より代々捕鯨を生業とする家柄で、初代・新兵衛はかつて千葉県の七聖人に数えられる程の腕前であった。
夏井 昇吉(なつい しょうきち、1925年10月19日 - … 夏井 昇吉(なつい しょうきち、1925年10月19日 - 2006年9月13日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 21歳で柔道を始めた晩学ながら第1回世界選手権大会や全日本選手権大会を制した。現役引退後は秋田県警警察官としての道を全うし、後には全日本柔道連盟評議委員や東北柔道連盟会長等を務めて柔道界の運営に携わった。 秋田県男鹿市船川に生まれる。幼少期から運動神経は抜群で、いわゆる“わんぱく坊主”として近所でもよく知られていた 秋田工業高校入学と同時に、夏井の体格の良さ・足腰の強さに目を付けたラグビー部に勧誘され、入部後はロックとして活躍した。この頃の夏井は柔道の経験は無いが、体が大きいために柔道の試合には臨時選手として引っ張り出されたりもしている。
二瓶 英雄(にへい ひでお、1924年 <大正13年> 3月… 二瓶 英雄(にへい ひでお、1924年 <大正13年> 3月26日 - 1999年 <平成11年> 8月9日)は日本の柔道家(講道館9段)。北海道柔道連盟副会長、北海道警名誉師範等を務めた。位階は正六位。 樺太の豊原市(現・ユジノサハリンスク)に出まれ、樺太庁豊原中学校在学中に柔道を始めた。記録上の講道館入門は1939年3月付で卒業後は樺太鉄道局に勤め、太平洋戦争に伴う兵役と終戦後1947年6月までの抑留生活を経て、北海道へ引き揚げ後は札幌鉄道局(現・JR北海道鉄道事業本部)に復職。 1948年5月2日に戦後初の柔道日本一を決める全日本選手権が講道館で開催され、当時5段位の二瓶は北海道代表で出場したが初戦で徳島代表の湊庄市5段に敗れた。
山舗 公義(やましき きみよし、1924年3月7日 - 19… 山舗 公義(やましき きみよし、1924年3月7日 - 1999年9月14日)は日本の柔道家(講道館9段)。 柔道家としての現役時代は全日本選手権準優勝や世界選手権3位等の成績を残し、引退後は三重県津市の市議会議員、三重県柔道協会会長を歴任した。 1924年三重県に生まれる。進学先の旧制・京都中学は柔道か剣道が必須科目であったため、柔道を選択したのが柔道を始めるきっかけとなった。教師を務める海部勇次5段の元で立技を中心に稽古し、1941年の第12回明治神宮大会中等学校府県対抗試合に京都府代表の一員として出場し優勝に貢献。その時の監督が、生涯の師として仰ぐ事となる森下勇9段(のち全日本柔道連盟副会長)であった。
粟津 正蔵(あわづ しょうぞう、1923年4月18日 - 2… 粟津 正蔵(あわづ しょうぞう、1923年4月18日 - 2016年3月17日)は、日本の柔道家(講道館九段)。 戦前から戦後にかけての現役選手時代は明治神宮競技大会や全日本選手権大会等で活躍。1950年代以降はフランスにおいて半世紀以上に渡り柔道を指導し、その礎を築いた。その功績から1999年にはフランス政府よりレジオンドヌール勲章を受賞し、“フランス柔道育ての父”として知られている。 現在の京都府京都市山科区安朱東海道町に生まれる。5歳で柔道を始め、小学生の頃から全国有数の強豪校である市立第一商業学校(現:市立西京高校)に出入りして稽古に汗を流し、そのまま同校へ進学。市立第一商業学校時代には1年生の頃から活躍しその黄金期の立役者となったほか、平野時男や大館三郎らと共に京都府代表として出場した1939年と1949年の明治神宮競技大会柔道競技(中等学校の部・団体戦)では連覇を果たしている。
橋元 親(はしもと ちかし、1923年1月15日 - 200… 橋元 親(はしもと ちかし、1923年1月15日 - 2000年1月29日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会錬士)。 天理大学柔道部や旭化成柔道部の師範のほか、全日本柔道連盟参与、近畿地区柔道連盟評議委員、関西学生柔道連盟会長等を歴任した。 宮崎県延岡市出身。県立延岡中学校入学と同時に、幼少からの病弱を案じた両親の意向に従い剣道部に入部した。2年生になり柔道部へ移ると、武道専門学校出身の平野直の手ほどきを受けて成長したほか、家から学校までアップダウンのある片道15kmを自転車で毎日通学し、これにより強靭な足腰が出来上がっていったという。3年生で大日本武徳会の初段、翌年に2段、卒業時には当時少なかった3段にまで昇段している。
安部 一郎(あべ いちろう、1922年11月12日 - 20… 安部 一郎(あべ いちろう、1922年11月12日 - 2022年2月27日)は、日本の柔道家。講道館十段。 1950年代以降のヨーロッパにおいて講道館柔道の普及に尽力し、斯道の国際的発展に大いに貢献した。帰国後は講道館国際部部長や同審議部部長を経て、同参与を務めた。 秋田県の生まれ。両親が山形県出身であったため本籍はしばらく山形県西村山郡谷地町にあった。父親が農林省(現・農林水産省)に勤める国家公務員であった関係で安部は幼少時より宮崎県や岐阜県など日本各地を転々とし、中学校の入学時には群馬県の前橋市に住んでいた。 旧制前橋中学校(現・県立前橋高校)に入学すると体育のほかに軍事教練や武道の授業があり、武道は剣道と柔道のどちらかを選択することになる。
湊 庄市(みなと しょういち、1922年11月1日 - 20… 湊 庄市(みなと しょういち、1922年11月1日 - 2004年1月3日)は、日本の柔道家(講道館9段)、政治家。旧姓小山。 柔道界においては全日本柔道連盟顧問や四国柔道連盟副会長、徳島県柔道連盟会長、徳島県警師範等を、また政界においては徳島県議会議員として県議会議長等を務めた。 徳島県阿波郡市場町(現・阿波市)にて、養蚕業と雑貨商を営む小山家に次男として生まれた。1935年4月に旧制阿波中学校(現・県立阿波高校)へ入学し、授業で柔道と剣道のどちらかが必修科目となっていたため、道具の安い柔道を選択したのが斯道に触れるきっかけとなった。師範の竹内秀夫より柔道を学び、ここで同級生の川添利雄(のち高知県柔道連盟会長)や西條晃正(のち徳島県議会議員)らと阿波中の黄金時代を築いたのち、1939年6月付で講道館へ入門。
平野 時男(ひらの ときお、1922年8月6日 - 1993… 平野 時男(ひらの ときお、1922年8月6日 - 1993年7月27日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 皇宮警察や綜合警備保障の柔道師範を務めたほか、欧州各国で柔道指導を行いアントン・ヘーシンクやウィレム・ルスカ等の世界チャンピオンを育てた事で知られる。 淡路島の洲本市に生まれ、旧制・洲本中学校に入学した直後の1935年4月より柔道を始めた。2年生で初段位を取得すると推薦により平安中学校へ転校し、大日本武徳会武道専門学校師範を務める福島清三郎8段(のち9段)の義方会塾に住みこんで4段・5段の猛者を相手に修行に励んだ。平安中学主将となった平野は1939年に全国中等学校大会で優勝すると、同年秋に講道館で開催された明治神宮国民体育大会(中学校の部)に団体戦の京都府代表として出場し、優勝に貢献。