宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 … 宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 - 1992年5月11日)は、日本の天文学者。荒木俊馬の弟子の一人で、惑星気象学の開拓者として有名。広島県出身。
12月1日生まれ:404人
宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 … 宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 - 1992年5月11日)は、日本の天文学者。荒木俊馬の弟子の一人で、惑星気象学の開拓者として有名。広島県出身。
新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1… 新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1日 - 2003年〈平成15年〉11月27日)は、日本の実業家。住友生命保険社長・会長、松下政経塾理事長、関西師友協会会長を歴任した。
吉山 博吉(よしやま ひろきち、1911年(明治44年)12… 吉山 博吉(よしやま ひろきち、1911年(明治44年)12月1日 - 2007年(平成19年)5月2日)は、日本の実業家、第4代日立製作所社長・会長、電気学会会長、環太平洋産業連関分析学会設立発起人等を歴任した。 山口県萩市に生まれた。旧制第一高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1935年(昭和10年)大学卒業と同時に日立製作所に入社した。入社後は主として重電畑を歩み、1952年(昭和27年)電機事業部技術部長となり、1961年(昭和36年)11月取締役、1964年(昭和39年)11月常務、1968年(昭和43年)5月専務、1969年(昭和44年)11月副社長などを経て1971年(昭和46年)11月社長に就任、1981年(昭和56年)6月に社長退任、会長に就任、1987年(昭和62年)6月に会長退任。
中田 正子(なかた まさこ、明治43年〈1910年〉12月1… 中田 正子(なかた まさこ、明治43年〈1910年〉12月1日 - 平成14年〈2002年〉10月15日)は、日本の弁護士。日本初の女性弁護士の一人で、鳥取県弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを歴任した。夫は中田吉雄元社会党参院議員。旧姓は田中。昭和25年に正子が鳥取市馬場町に開業した法律事務所は、初代鳥取市長となった岡崎平内の屋敷の応接間を使用していた。 明治43年(1910年)、東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に陸軍将校の父・田中國次郎(国次郎)と母・槙子の次女として生まれる。父の國次郎は憲兵少佐で、職業軍人の傍らシェークスピアを原語で読む好学の士であり、正子はこのような父の影響を受けて育った。
樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 20… 樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 2009年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 長野県上伊那郡川島村(現辰野町)生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校文科甲類、京都帝国大学法学部卒業。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活を送る。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登録(東京弁護士会)。
伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - … 伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - 1999年1月17日)は、日本の外交官。外務省アジア局長、駐オランダ兼アイルランド特命全権大使、駐インド兼ネパール特命全権大使。 東京出身。日本統治時代の朝鮮の大田中学校(のちの大田高等学校)を経て、1929年第三高等学校文科甲類卒業。1932年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1949年公職資格訴願審査委員会事務局長。1950年警察予備隊総隊副総監(警視監)。1951年外務省連絡局長。同年外務省国際協力局長。1952年に日米合同委員会でいわゆる米軍基地を決定する協定に署名した。その後MSA協定の交渉に関わった。1954年香港総領事。
関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐197… 関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐1977年12月16日)は、日本の映画監督。 1908年12月1日、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)の地主の家の四男に生まれる。旧制佐渡中学在学中は画家に憧れていた。卒業後、旧制新潟高校に入学して中退。 劇映画『ひろしま』(日教組プロ、1953年)でベルリン映画祭長編劇映画賞受賞。記録映画『鉄路に生きる』(1951年)が1952年ヴェネツィア国際映画祭教育科学部門第2位。また、児童向け劇映画『トランペット少年』(東映教育映画部、1955年)が第9回エディンバラ国際映画祭で受賞。 戦争孤児を描いた『第二の人生』、学徒兵を描いた反戦映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、砂川の立川基地拡張反対闘争を描いた『爆音と大地』など社会意識の強い作品が多い一方、刑事ドラマ、少年探偵団シリーズなどの映画もつくり、娯楽作品でも腕を振るった。
倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1… 倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1994年5月5日)は、日本の教育者、中国文学者。博士(文学)。元香川大学学長。香川大学名誉教授。 香川県三豊郡大見村(現 三豊市三野町)出身。旧香川県立三豊中学校、第一臨時教員養成所卒業、東京高等師範学校研究科を経て、1934年、東京文理科大学文学科に入学。同大学漢文学専攻卒業。在学中は諸橋轍次に師事した。卒業論文は「中国現代詩の研究」。1937年(昭和12年)同大学卒業後、福井師範学校に赴任。間もなく盧溝橋事件が起こり、同年12月に応召。翌年1938年(昭和13年)4月に除隊。終戦まで3回応召を受けた。 1949年(昭和24年)香川大学教授に就任。
冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月… 冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月1日 - 1993年(平成5年)7月23日)は、日本の実業家。神鋼電機株式会社(現シンフォニアテクノロジー株式会社)第3代代表取締社長。昭和54年4月、勲三等瑞宝章 産業振興功労 受勲。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現:鹿児島県立加治木高等学校)を経て、第七高等学校造士館(現:鹿児島大学法文学部・理学部)理科甲類を1929年3月に卒業。1932年3月、京都帝国大学工学部電気工学科卒業。 1932年4月、神戸製鋼所 入社(1949年株式会社神戸製鋼所より分社化し神鋼電機株式会社が設立される)。1950年11月、神鋼電機株式会社取締役就任。
永井 純一郎(ながい じゅんいちろう、1907年〈明治40年… 永井 純一郎(ながい じゅんいちろう、1907年〈明治40年〉12月1日 - 2003年〈平成15年〉9月29日)は、昭和期の官僚、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県宮崎郡田野村(田野町を経て現宮崎市)で、永井三郎の長男として生まれた。1931年(昭和6年)中央大学法科を卒業し、同年、農林省に入省した。 同省では、畜産局、山林局、蚕糸局、経済更生部、総務局で勤務。和歌山県庁に転じ、食料課長、農務課長、人事課長を経て、総務部長、食料部長、農林部長を歴任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に和歌山県選挙区から無所属で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。この間、日本社会党に入党し、同党政策審議会副会長、日本農民組合和歌山県連顧問などを務めた。
高野 宗雄(たかの むねお、1907年(明治40年)12月1… 高野 宗雄(たかの むねお、1907年(明治40年)12月1日 - 1989年(平成元年)9月25日)は、日本の政治家、第4、5期魚津市長(1964年 - 1972年)、新川信用金庫理事、新開発公社理事長を歴任。 1907年(明治40年)12月1日、富山県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学経済学部を卒業し、東京建物に入社する。1954年(昭和29年)魚津市監査委員、1960年(昭和35年)同教育委員委員を経て、1964年(昭和39年)4月に魚津市長選挙に出馬し、当選する( - 1972年(昭和47年)5月)。 在任中は白倉小学校組合管理者、家事・民事調停委員、衛生処理組合管理者、魚津市開発公社理事長、新川育成牧場組合管理者、新川広域圏事務組合理事長、市体育協会会長などを兼任した。
有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 19… 有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 1992年4月8日)は、日本のフランス文学者。東北大学名誉教授、文学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県築上郡千束村(後の豊前市)野田出身。1924年3月、旧制福岡県立築上中学校(福岡県立築上中部高等学校および福岡県立青豊高等学校の前身)卒業。1927年3月、旧制福岡高等学校(九州大学教養部の前身)文科丙類卒業。1930年3月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。1931年4月から1932年3月まで東京帝国大学大学院に在籍。1932年4月から1933年8月まで広島文理科大学・広島高等師範学校(現広島大学)講師。1933年9月、東京帝国大学文学部副手となる。
河西 静夫(かさい しずお、1906年12月1日 - 200… 河西 静夫(かさい しずお、1906年12月1日 - 2003年11月13日 )は、日本の実業家。元帝国ホテル代表取締役副社長、元 帝国商事 取締役社長、元 帝国ホテルハイヤー取締役社長、元 帝国ホテル列車食堂 取締役、元 ニューフジヤホテル代表取締役会長、元 監査役、元 芝パークホテル取締役、元 熱海富士屋ホテル取締役。 1906年生まれ。1932年旧制巣鴨高等商業学校(現・千葉商科大学)卒業。1933年株式会社帝国ホテル入社。1948年社団法人日本ホテル協会(現・一般社団法人日本ホテル協会)常務理事、および社団法人日本観光通訳協会(現・一般社団法人日本観光通訳協会)理事、1950年株式会社帝国ホテル副支配人、1951年取締役、1955年株式会社芝パークホテル取締役、1957年株式会社帝国ホテ常務取締役、1961年帝国商事株式会社取締役、1963年財団法人日本船舶振興会(現・公益財団法人日本財団)専門委員会委員、1967年内閣観光政策審議会委員、1968年株式会社帝国ホテル専務取締役、1969年財団法人観光資源保護財団(現・公益社団法人日本ナショナルトラスト)理事、1970年帝国ホテル代表取締役副社長、1971年帝国商事株式会社 取締役社長、および学校法人千葉学園 (千葉県)評議員、1973年帝国ホテルハイヤー取締役社長、1974年株式会社ニューフジヤホテル監査役、1976年代表取締役会長、および株式会社熱海富士屋ホテル取締役就任。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 -… 浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 - 1944年12月27日)は、日本の俳優である。本名は金谷 幸太郎(かなや こうたろう)。 1906年(明治39年)12月1日、北海道函館区に「金谷幸太郎」として生まれる。 1927年(昭和2年)、日活太秦撮影所に入社する。翌1928年(昭和3年)、デビュー作である志波西果監督の『無念丸橋忠弥』に主演した。同作以降、脇を固める役が多くなる。1932年(昭和7年)には日活を退社し、フリーランスの役者として、日活太秦作品にも日活と配給提携をしていた片岡千恵蔵プロダクション作品にも出演した。1935年(昭和10年)、第一映画設立に参加、高島達之助・溝口健二共同監督によるトーキー『お嬢お吉』に出演する。
小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 198… 小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 1988年12月20日)は、日本の歴史家。専門は、東洋史・仏教史。 1905年、長野県上伊那郡小野村(現:辰野町)で生まれた。長野県松本中学校、松本高等学校文科乙類を経て、1927年に京都帝国大学文学部史学科に入学。在学中に2年間病気療養のために休学したが、1933年に卒業論文『両税制度の一考察を提出して卒業。京都帝国大学大学院へ進んだ。 同じく1933年、京都帝国大学文学部副手に採用(-1943年5月)。1937年より外務省在支特別研究員として中華民国北平市(現:北京市)に留学。華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進めた。
高橋 成通(たかはし せいつう、米国名: Seytsu Ta… 高橋 成通(たかはし せいつう、米国名: Seytsu Takahashi、1905年(明治38年)12月1日 - 1984年(昭和59年)4月1日)は、日本の高野山真言宗の僧侶。ロサンゼルス高野山別院・第4代主監であり、仏教伝道師でもある。広島県庄原市出身。 1905年(明治38年)、広島県比婆郡東城町(現:庄原市)で出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、後に京都社寺信用組合(現・京都信用金庫)理事長、京都市観光局長を務める小橋確治がいた。1925年(大正14年)3月に同校を卒業。その後、僧侶として修行する傍ら、高野山大学一般仏教学科へ進学し、1931年(昭和6年)同校を卒業する。
斎藤 克郎(さいとう かつろう、1905年12月1日 - 1… 斎藤 克郎(さいとう かつろう、1905年12月1日 - 1990年7月15日 )は、日本の経営者。東北銀行頭取を務めた。 岩手県出身。旧制盛岡中学校を経て、1929年に慶應義塾高等部を卒業し、同年に盛岡銀行に入行。1950年11月に東北銀行取締役に就任し、1958年14月に常務、1968年に専務、1974年5月に副頭取を経て、1976年4月に頭取に就任。1982年6月から取締役相談役を務めた。テレビ岩手監査役なども歴任した。 1979年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1990年7月15日膀胱癌のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
杉 豊(すぎ ゆたか、1905年12月1日 - 1981年7… 杉 豊(すぎ ゆたか、1905年12月1日 - 1981年7月19日 )は、日本の経営者。日本光学工業(のちのニコン)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京帝国大学工学部造兵科を卒業し、同年に日本光学工業に入社。1949年7月に取締役に就任し、1961年5月に常務を経て、1969年5月に社長に就任。1973年4月に会長に就任。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年7月19日肝不全により、死去。75歳没。
佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1… 佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1日 - 1997年〈平成9年〉4月15日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(3期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)出身。東京高等師範学校臨時教員養成所卒。1925年(大正14年)北海道立室蘭中学校に赴任した。その後、旧制新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)の教諭と教頭を務める。戦後、新制直江津町立直江津中学校(のち直江津市立直江津中学校、現上越市立直江津中学校)校長となる。1962年(昭和37年)直江津市長に当選。同年7月に就任した。高田市と合併するまで市長を3期務めた。在職中、高田市との合併が起こり、合併の方向で話を進め、1971年(昭和46年)に上越市が発足した。
山本 忠雄(やまもと ただお、1904年12月1日 - 19… 山本 忠雄(やまもと ただお、1904年12月1日 - 1991年7月28日)は、日本の英語学者。 大阪府出身。1928年東京帝国大学英語英文科卒。広島高等師範学校教授、広島文理科大学(のち広島大学)教授。1946年「Growth and system of the language of Dickens : an introduction to a Dickens lexicon」で東大文学博士、同論文で1953年日本学士院賞受賞。神戸大学教授、1968年定年退任、大谷女子大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤路 友蔵(友藏、あかじ ともぞう、1904年(明治37年)… 赤路 友蔵(友藏、あかじ ともぞう、1904年(明治37年)12月1日 - 1987年(昭和62年)9月16日)は、昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 鹿児島県鹿児島市で生まれる。1925年(大正14年)大阪市民労働学院を卒業した。 実業界では、鹿児島鉄工常務取締役、高千穂電機工場長、汎東亜工業常務取締役などを務めた。戦後、鹿児島県専門委員、同県農地委員、同県地方労働委員を歴任した。 1947年(昭和22年)8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙に鹿児島県地方区から日本社会党公認で立候補して落選し、1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に鹿児島県第3区から立候補したが落選した。
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12… 小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家、小説家である。
保母 道雄(ほぼ みちお、1903年12月1日 - 1981… 保母 道雄(ほぼ みちお、1903年12月1日 - 1981年4月12日)は、日本の銀行家、実業家。三和銀行(現:三菱UFJ銀行)専務取締役、東洋電機製造副社長、パレスサイドビルディング社長を務めた。 1903年12月1日、岐阜県恵那郡阿木村(現在の中津川市)に生まれる。 1927年、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業し、鴻池銀行に入行した。1933年、鴻池銀行が三十四銀行・山口銀行と合併して三和銀行(現:三菱UFJ銀行)が発足すると、同銀行に転じた。 三和銀行では、戦時期に鴻池支店長代理、東京支店長代理、丸の内支店次長などを務めた。戦後、同行が北海道方面への支店網拡大を進めるなか、1946年11月に小樽支店開設準備委員となり、1947年3月に開設された小樽支店の初代支店長に就任した。
大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 -… 大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 - 1975年1月31日)は、日本の経済学・経済史学者。 1902年、愛知県渥美郡花田村で生まれた。京都帝国大学経済学部で学び、1928年に卒業した。同大学大学院に進学。 1932年、京都帝国大学経済学部の助手に採用された。1933年から1940年まで、大蔵省の委託で『明治・大正財政史』の編纂にあたった。1941年、立命館大学経済学部教授に就いた。1950年、学位論文『近世交通経済史論』を立命館大学に提出して経済学博士の学位を取得。戦後の1956年、甲南大学経済学部教授。1973年に甲南大を定年退職し、名誉教授となった。1975年に死去。
田中 百畝(たなか ひゃっぽ、1901年12月1日 - 19… 田中 百畝(たなか ひゃっぽ、1901年12月1日 - 1964年2月11日)は、日本の実業家。京浜急行電鉄社長、京浜百貨店社長。広島県世羅郡津名村下津田(現:世羅町下津田)出身。 教育者を志し1927年、東京商科大学(現:一橋大学)教員養成所を卒業。 教職にあったが1932年、京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)に入社。1939年同社常務、東京地下鉄道専務、東京急行電鉄専務を経て、1946年京浜百貨店(現:京急ストア)社長に就任。 戦後、京急の大東急からの分離独立運動に尽力。1948年京浜急行電鉄発足後の1950年、同社社長に就任。川崎鶴見臨港バスの買収、都営地下鉄との提携による都心乗り入れ、平和島温泉の建設、三浦半島の開発など沿線地域の開発に敏腕を振るい京急発展の礎を築いた。
阿部 源蔵(あべ げんぞう、1900年(明治33年)12月1… 阿部 源蔵(あべ げんぞう、1900年(明治33年)12月1日 - 1974年(昭和49年)4月22日)は、日本の政治家、内務官僚。 福岡市長、陸軍司政官。スラバヤ市長。玄洋社社員。 阿部八重吉の長男として福岡市真砂町(現博多区千代)に生まれる。1920年、福岡県立中学修猷館、1922年、第五高等学校文科甲類を経て、1925年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業し、高等試験行政科に合格して内務省に入省。 警視庁の大森署長、浅草署長、目黒署長、本富士署長などを務める。目黒署長時代には、二・二六事件に遭遇しており、沈着な処置で名を上げている。その後、1938年8月、山梨県総務部地方課長兼人事課長、1941年1月、高知県書記官・学務部長を経て、ジャワの陸軍司政長官としてインドネシアに渡り、1944年12月、スラバヤ市長に就任。
阿久津 正蔵(あくつ しょうぞう、1900年12月1日 - … 阿久津 正蔵(あくつ しょうぞう、1900年12月1日 - 1988年2月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計大佐。太平洋戦争後は軍人時代に研究した製パンの知識をもってパン業界に入り、日本パン技術協会会長を務めた。 1921年(大正10年)、主計候補生第15期として陸軍経理学校を優等卒業。同年、陸軍三等主計に任官し歩兵第52連隊附、続いて第8師団経理部の経理官となる。1926年(大正15年)、陸軍二等主計で陸軍糧秣本廠の廠員に補職され陸軍経理の中でもとくに糧秣を担当する。1930年(昭和5年)、陸軍から派遣され東京帝国大学工学部を卒業。その後は陸軍糧秣本廠と兼務して陸軍科学研究所所員および陸軍習志野学校研究部部員となり研究を本務とする。
鬼頭 仁三郎(きとう にさぶろう、1900年12月1日 - … 鬼頭 仁三郎(きとう にさぶろう、1900年12月1日 - 1947年9月29日)は、日本の経済学者。 愛知県名古屋市出身。1925年東京商科大学卒、1928年同研究科卒。高垣寅次郎に師事した。東京商大図書館に勤め、1935年東京商大附属商業専門部教授、1940年東京商大教授を兼任した。1945年東京商大附属商学専門部長、同商業教育養成所長となった。1947年叙官吏一級、正五位。墓所は多磨霊園。 ケインズの「貨幣論」を翻訳し1932-1934年に刊行。「貨幣と利子の動態」をはじめとする貨幣論の著作によって、ケインズ金融理論の発展に努めた。弟子に三上隆三、吉野昌甫らがいる。英文学者で作家の北條文緒は娘。
岸 道三(きし みちぞう、1899年12月1日 - 1962… 岸 道三(きし みちぞう、1899年12月1日 - 1962年3月14日)は、日本の実業家・財界人。経済同友会代表幹事(第10代)・日本道路公団初代総裁。 大阪府大阪市に生まれ、北海道小樽市で育つ。小樽中学校から三浪を経て、第一高等学校に入学。5年間在籍し、その間全寮委員長として、関東大震災後の同校移転問題などに関係する。その後東京帝国大学工学部鉱山学科に入学。在学中はボート部で活躍し、1929年(昭和4年)の卒業後も後輩の指導に当たった。 東京帝大学生課嘱託などを経て、1931年(昭和6年)に名古屋合板支配人として財界に入る。以後明治製革常務、満鉄調査部嘱託、興中公司広東事務所長などを歴任する一方、昭和研究会に所属し、各界に広く人脈を持つようになる。
片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1… 片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1日 - 1994年〈平成6年〉)は日本の農学者。 熊本県立玉名中学校(1918年卒業)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学農学部を卒業した。 農林省農事試験場鴻巣試験地勤務から、1936年に九州帝国大学農学部助教授となり、1939年に教授に昇任した。太平洋戦争中の1943年12月から翌年7月まで、南方軍総監部付を兼務して、占領地域の農業指導にも当たった。1963年に定年退官し、名誉教授となった。 イネ科植物の分蘖(ぶんけつ)した茎と主茎の間で、縦に並んだ葉(同伸葉)が同時に規則的に生じることを1951年に報告し、「同伸葉理論」と名付けられた。
棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1… 棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1970年9月9日)は、日本の俳人、医学者。福岡県福岡市出身。本名は棚橋陽吉。 1918年福岡県立中学修猷館を経て、九州帝国大学医学部を卒業し、同大医学部教授に就任。貝の血液研究でも知られる。 昭和の初めから、吉岡禅寺洞に師事し、俳誌「天の川」幹部同人となり、新興俳句の隆盛期に評論などで活躍した。一時横山白虹の後を継ぎ「天の川」を編集している。1938年以後目を病み、句作から離れた。
松好 貞夫(まつよし さだお、1899年12月1日 - 19… 松好 貞夫(まつよし さだお、1899年12月1日 - 1982年10月19日)は、日本の経済史学者。専門は日本経済史。経済学博士(同志社大学)。東京都立大学名誉教授、流通経済大学名誉教授。 滋賀県生まれ。1925年同志社大学法学部経済学科卒。本庄栄治郎の下で日本経済史研究に従事。大阪市職員として#明治経済市史の編纂にあたり、次いで大蔵省に於いて#明治財政史の編纂員を務める。1947年同志社大学教授。1949年「新田の研究」で同志社大学経済学博士。1952年東京都立大学教授、1957年初代法経学部長、1963年定年退官、名誉教授。1965年開学の流通経済大学に招かれ経済史を教授、のち名誉教授。大学歌のひとつである「登竜の門」の作詞を手掛けた。
中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年… 中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年10月25日)は、ドイツ文学者、大衆文学研究家。 和歌山県出身。旧姓は高石。早稲田大学文学部独文科卒。第一早稲田高等学院、早大の講師、1949年早大教授。70年定年退職、名誉教授。1934年「大衆文学本質論」を発表、大衆文学論でも活躍した。1935年早稲田大学明治文学研究会の結成に参加。息子は大衆文学研究家の中谷治夫。
田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 198… 田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 1984年8月25日)は、日本の教育家、新聞記者、水泳指導者。静岡県浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)出身。 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られる。 田畑は1898年(明治31年)12月1日、浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)にて生まれた。実家は造り酒屋であった。 旧制静岡縣立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社する。
矢野 政男(やの まさお、1898年(明治31年)12月1日… 矢野 政男(やの まさお、1898年(明治31年)12月1日 – 1968年(昭和43年)10月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)で、矢野留松の二男として生まれる。1916年(大正5年)栃木県立烏山中学校(のち栃木県立烏山高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)烏山町で矢野自動車商会を設立し、事業の成長に伴い東野自動車株式会社に改組して宇都宮市に進出した。その他、栃木県中央貨物自動車取締役社長、宇都宮自動車取締役社長、芳南交通取締役社長、両毛酸素取締役社長、三共工業取締役社長、茨城県日産自動車販売取締役社長、東野鉄道(のち東野交通)取締役社長、那須高原開発取締役社長、金桝商会取締役社長、東野観光取締役社長、北関運輸取締役社長、東武宇都宮百貨店会長、三共石油会長などを務めた。
小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 19… 小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 1967年〈昭和42年〉12月29日)は、日本の俳優。本名は小川 寅次。 1897年(明治30年)12月1日、東京市浅草区蔵前に生まれる。5歳のときに新派の舞台で初舞台を踏み、弟の小太郎と共に新派の名子役といわれる。のちに新国劇に入団。沢田正二郎に芸の細かさを認められ、『三等水兵の日記』『髪』などでのコミックな役や、『国定忠次』などの老爺役を得意として大幹部俳優となる。戦後の1946年(昭和21年)に退団して新国民座を主宰するが、経済的事情から解散する。 1951年(昭和26年)、映画俳優に転向し、大映の『万華地獄』に出演して以来、各社の作品に出演。
薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年12月1日 - 196… 薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年12月1日 - 1966年8月4日)は、日本の政治家・新聞記者。衆議院議員。福井県おおい町出身。 地主・薩摩三蔵の二男。第三高等学校を経て、1922年に拓殖大学支那語科を卒業。学生時代から猶存社に出入りし、拓大魂の会を組織した。 1923年から1928年まで大東文化協会幹事となり、同協会の副会長であった政友会代議士・小川平吉の秘書役を務めた。 国民新聞に入社し、経済部長、主筆、論説委員を歴任した。 海軍大将の加藤寛治とは親戚であったことから、ロンドン海軍軍縮会議の結果をめぐって表面化した統帥権干犯問題の際に、北一輝らの民間右翼と加藤ら海軍艦隊派とのつなぎ役となる。
北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12… 北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12月1日 - 1973年(昭和48年)9月1日)は、昭和時代の日本の建築家、数寄屋(茶室)建築学者。東京高等工業学校 (現・東京工業大学)卒。大阪府出身。 大阪府南河内郡北八下村(現・堺市北区の一部および松原市の一部)の北尾吉郎兵衛(浄郭)の四男として生まれる。 父は社寺・楼閣建築に携わるも、春道の9歳の時(1904年・明治37年)には本願寺門跡の僧侶となったため、春道も同時に本願寺の衆徒となった。また春道の初名は春吉であったが、同年に名を改めている。 春道は上京し東京高等工業学校 (現・東京工業大学)に入学、伊東忠太のもと建築設計の実務に携わり、伊東のヨーロッパ旅行にも同行した。
阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1… 阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1973年8月8日)は、日本の漫画家、水墨画家。本名・坂本雅城(さかもと まさき)。水墨画家としては阪本雅城を用いる。 東京府西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)に生まれる。五日市小学校五年生のとき、同校の校章をデザインしたことにより、これは現在でも使われている。東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)卒業後日本画家を志すが、生活できず岡本一平のすすめで漫画を描き始める。勤務していた中外商業新報(現日本経済新聞)や夕刊大阪新聞(現産経新聞)の家庭面に4コマ漫画を連載したが、思い切り奇想天外な作品を試したいと思い立ち、鉄の玉の中に人が入っている作品を「幼年倶楽部」編集部へ持ち込んだ。
山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年)12月1… 山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年)12月1日 - 平成6年(1994年)2月22日)は、日本の天台宗の僧侶。第253世天台座主を20年務め、「比叡山宗教サミット」の開催や「一隅を照らす運動」に尽力した。その行動的な姿から「空飛ぶお座主」といわれた。 明治28年(1895年)12月1日、兵庫県揖保郡太子町に生まれる。母に連れられて寺に参詣した際、修行者の姿に心を惹かれて仏教に憧れたという。明治37年(1904年)延命寺で出家し、堀恵慶の弟子となる。この時「恵諦」の法名を賜る。16歳で比叡山に入り、比叡山中学に入学。大正9年(1920年)天台宗西部大学卒業、卒業後は天台学の専門研究員となる。
岸田 正記(きしだ まさき、1895年〈明治28年〉12月1… 岸田 正記(きしだ まさき、1895年〈明治28年〉12月1日 - 1961年〈昭和36年〉6月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幾久屋百貨店店主。 元衆議院議員岸田文武の父。元広島県知事宮澤弘(元内閣総理大臣宮澤喜一の実弟)の岳父。元科学技術庁長官岩動道行は妻・和子の従姉妹。衆議院議員で第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄と参議院議員宮澤洋一は孫。 広島県賀茂郡西志和村(現:東広島市)出身。岸田幾太郎の長男。西志和高等小学校卒業。1913年(大正2年)、広島県立広島商業学校卒業。広商時代の同級生に大木惇夫がいる。長崎高等商業学校、京都帝国大学法学部卒業。在学中の1922年(大正11年)高等文官試験行政科合格。
瀧清 麻吉(たきすみ あさきち / たきずみ あさよし、18… 瀧清 麻吉(たきすみ あさきち / たきずみ あさよし、1895年(明治28年)12月1日 - 1950年(昭和25年)2月7日)は、大正から昭和期の警察官、政治家。衆議院議員、奈良県奈良市長。旧姓・上窪(かみくぼ)。 奈良県山辺郡針ヶ別所村大字馬場(都祁村を経て現奈良市)で、上窪甚三郎の三男として生まれ、同郡福住村(現天理市福住町)の瀧清こふしの養子となる。1915年(大正4年)小倉農業補修学校を修了した。 1916年(大正5年)奈良県巡査となる。以後、1920年(大正9年)巡査部長・高田警察署勤務、1922年(大正11年)奈良県警部補、1924年(大正13年)奈良県警部、1926年(大正15年)郡山警察署竜田分署長、1927年(昭和2年)御所警察署長、桜井警察署長、1928年(昭和3年)高田警察署長、1929年(昭和4年)郡山警察署長、1932年(昭和7年)奈良県警察部高等警察課長、1936年(昭和11年)地方警視・奈良警察署長などを歴任。
杉浦 喜之助(すぎうら きのすけ、1895年(明治28年)1… 杉浦 喜之助(すぎうら きのすけ、1895年(明治28年)12月1日 - 1975年(昭和50年)10月5日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(2期)。 愛知県西尾市生まれ。1911年(明治44年)、福地村立福地尋常高等小学校(現・西尾市立福地北部小学校)卒業。1919年(大正8年)、西尾町の肴町の金物店、小岸屋に養子に入り、杉浦姓となる。 1940年(昭和15年)、西尾町議会議員に初当選。戦後、西尾町議会議長として、市制施行の実現に尽力する。1952年(昭和27年)、西尾信用金庫理事長に就任。 1953年(昭和28年)12月15日、西尾市誕生とともに市議会議員となる。1957(昭和32年)、市議会議長に就任。
東谷 傳次郎(伝次郎、とうたに でんじろう、1894年〈明治… 東谷 傳次郎(伝次郎、とうたに でんじろう、1894年〈明治27年〉12月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月15日)は、大正・昭和期の官僚。会計検査院長を務めた。位階は従三位。 広島県安佐郡福木村(現広島市東区)で農業・東谷保五郎の三男として生まれた。専検に合格し旧制第四高等学校を卒業。1921年(大正10年)4月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。1922年(大正11年)2月、会計検査院に入院し同書記に任官、第三部第三課に配属された。 以後、官房総務科長、第四部第一課長、第二部第三課長、第一部第一課長、第三部第三課長などを歴任。 1942年(昭和17年)5月、南方軍司令部附に発令。
尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1… 尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1972年3月17日)は日本の医師、老年医学者。医学博士。 広島出身の医師で医学中央雑誌の創設者でもある尼子四郎の長男として山口県下松市で生まれ、まもなく一家で上京する。誠之小学校では中川一政と同級生であり、また東京高等師範学校附属中学校の受験のため夏目漱石に英語の個人教授を受けていた。 世界に先駆けて老年医学の重要性に着目し、その研究と教育の先駆者と評価されている。日本老年医学会は「尼子賞」を設けている。 その一方、父から医学中央雑誌の編集を引き継ぎ、全ての文献の採択、抄録の編集、校正に目を通し、それを優先するため生涯国外に出なかった。
石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 -… 石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 - 1958年1月23日)は、日本の洋画家。 1893年、和歌山県東牟婁郡太地町で船大工を生業とする石垣政治の子として生まれた。1901年、町立太地小学校に入学し、1907年に県立新宮中学校へ進学したが、1909年には1901年にアメリカへ移民していた父の呼びかけで退学して渡米した。1910年からカリフォルニア州ベーカーズフィールドでボーイなどとして働き、また日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義の本などにも親しんだ。 1914年から絵画をサンフランシスコ美術学校やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学び、1916年頃より絵画制作を始めたという。
宮良 當壯(みやなが まさもり、みやら とうそう、1893年… 宮良 當壯(みやなが まさもり、みやら とうそう、1893年12月1日 - 1964年3月1日)は、沖縄出身の国語学者・方言学者。常用体の漢字表記で、「宮良 當壮」、「宮良 当壮」とも表記される。文学博士(國學院大學)、石垣市名誉市民。 1893年(明治26)沖縄県石垣村大川生まれ。 1909年(明治42)八重山高等小学校卒業後、沖縄本島の首里で人力車の後押しをするなど旅費を稼ぎ、大阪で帝国吃後矯正会での吃音矯正や音声学の学習を経て、18歳の時に上京、新聞配達や納豆売りなどをしながら1911年(明治44)8月郁文館中学校2年に編入学し、言語学者の前田太郎と出会い、研究の補助などを行った。1919年(大正8)國學院大學文学部に入学し、折口信夫の講義を受けるとともに、前田家で行われていた言語研究会で金田一京助、橋本進吉、東條操、安藤正次、神保格らと出会い、東條操から方言採録の依頼を受け、また、同年6月30日に柳田国男とも出会っている。
下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月… 下山 琢磨(しもやま たくま、1892年(明治25年)12月1日 - 1957年(昭和32年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。下山筆八工兵大佐の長男として生まれる。東京府立四中、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業した。 1922年(大正11年)9月、陸士教官に就任し、1925年(大正14年)3月、ドイツ駐在に発令された。1927年(昭和2年)11月、教育総監部付となり、教育総監部課員に異動し、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)… 吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)12月1日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、社会運動家、政治家、法学者。参議院議員(1期)。次男は元東映プロデューサー吉川進。 京都府京都市出身。吉川利兵衛の養子となる。京都薬学校(現京都薬科大学)卒を経て、1918年(大正7年)同志社大学政治科を卒業した。1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけて欧米に留学し、コロンビア大学政経部大学院などで学んだ。ロイター通信記者、日米時報主筆、帝都復興院嘱託、東京市政調査会研究員などを務め、社会運動に従事した。 1926年(大正15年)社会民衆党創立に加わり、1927年(昭和2年)京都支部創立に伴い支部長に就任。