松下 むめの(まつした むめの、英語:Mumeno Mats… 松下 むめの(まつした むめの、英語:Mumeno Matsushita, 1896年〈明治29年〉3月3日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、パナソニックの創設者である松下幸之助の配偶者。三洋電機の創設者である井植歳男の姉。 井植清太郎の次女として兵庫県津名郡浦村(現在の淡路市)に生まれる。浦高等小学校を卒業後、技芸学校に通って裁縫技術を覚えた後、大阪に出て船場(京町堀)で女中奉公を務める。炭屋を経営していた平岡屋の紹介で、松下幸之助と出会う。見合いは松島にある芝居小屋「八千代座」の前で行われた。見合いとは言っても目の前を通り過ぎるだけのものであった。この結婚に父であった清太郎は強く反対するが、当のむめのの意思は変わらなかった。
南家 碩次(なんけ せきじ、1895年〈明治28年〉3月3日… 南家 碩次(なんけ せきじ、1895年〈明治28年〉3月3日 - 没年不明)は、日本の実業家。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)に生まれる。1917年、第六高等学校を卒業する。1920年、東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業する。満鉄に入社する。鞍山製鉄所に勤務する。 1923年、鞍山製鉄所桜桃園採鉱所長。1924年、撫順炭鉱古城子採炭所に勤務する。1931年、撫順炭鉱揚柏堡採炭所長。昭和製鋼所採鉱部次長、採鉱部部長を経て1941年理事に就任。 1943年、満州製鉄理事。1945年、満州製鉄東辺道支社長。鋼管鉱業取締役、三信建設社長、三信採石社長、三信コンサルタント社長をつとめる。 著書は『鑛山に賭ける』、『或る鉱山技師の手記』などがある。
長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 -… 長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 - 1976年1月15日)は、日本の写真家。日本人として初めてヒマラヤを撮影した。名は傳次郎とも書く。
山田 午郎 (やまだ ごろう、1894年〈明治27年〉3月3… 山田 午郎 (やまだ ごろう、1894年〈明治27年〉3月3日 - 1958年〈昭和33年〉3月9日)は、福島県安達郡二本松町 (現:二本松市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。「サッカージャーナリストの草分け」と呼ばれる人物。 高等小学校を卒業し地元の小学校で代用教員を務めた後、東京府青山師範学校に入学しサッカーを学んだ。1917年(大正6年)に青山師範を卒業して小学校の教員として勤務する傍ら、内野台嶺の勧誘により東京蹴球団に入団。1921年(大正10年)の第1回全国優勝大会(現在の天皇杯)決勝では右のHBとして出場し優勝に貢献した。 1925年(大正14年)の第7回極東選手権では日本代表監督を務め、その年には少年向けの指導書「ア式フットボール」を出版したが、翌年に教員を辞して朝日新聞社に入社し運動部記者となり、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)まで運動部長を務めた。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3… 高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 19… 松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 1971年3月15日)は、日本の童話作家・翻訳家。 千葉県千葉市辰州町出身。別姓・村山。 1910年千葉県立千葉中学校卒。 1915年早稲田大学文学部英文科卒。 1916年頃より少女小説を書く。 1918年東京日日新聞(現・毎日新聞)に入り、「小学生新聞」編集長を務める。 1926年童話作家協会創立に参加した。 1954年に制定された、母校である千葉県立千葉高等学校(旧千葉県立千葉中学校)の校歌を作詞している。
郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 19… 郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 1975年10月25日)は、日本画家、日本芸術院会員。 富山県小杉町出身。本名・與作。1915年東京美術学校日本画科卒業、1916年渡米、1922年院展日本美術院賞受賞、1924年日本美術院同人、院展に出品を続け、1934年帝国美術学校日本画科教授、1936年多摩美術学校日本画科教授、1949年日展審査員、1956年多摩美術大学教授、1958年日本美術院評議員、1960年日本芸術院賞受賞、1971年勲四等旭日小綬章受章、1972年日本芸術院会員。没後勲三等瑞宝章追贈。 壁画を描いた。長女の郷倉和子も日本芸術院会員。
長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1… 長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1974年2月20日)は、日本の彫刻家。特に相撲をテーマにした作品を得意とした。本名・勝之。 富山県射水郡大島村(現在の射水市)に生まれた。1910年(明治43年)に富山県立工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)、1915年(大正4年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1920年(大正9年)の第2回帝展に「露光」が初入選してから連続入選を重ねた。1930年(昭和5年)の第12回帝展において「円盤」が推薦となり、以後無鑑査出品となった。 日展審員、日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。
豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年… 豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年4月19日)は、医師、英語講師、キリスト教無教会主義の新約聖書研究家。内村鑑三、塚本虎二に師事した。 1891年3月3日、医師である父・豊田貫一と母・豊田琴の5人兄弟の四男として出生した。志波尋常小学校に入学したのち転校し、吉井尋常高等小学校を卒業。明善中学校を卒業、熊本県の第五高等学校を卒業したのち上京、東京帝国大学医科大学を1917年7月に卒業した。その後約1年間を海軍軍医として勤務後、軍艦比叡に乗艦。1920年に和泉橋慈善病院の小児科医局員となる。 1923年1月、古田孝子と結婚。同年より、東京帝国大学薬理学教室で2年間研究に従事。
高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3… 高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3日 - 1939年〈昭和14年〉1月17日)は、日本の大正から昭和前期の政治学者。早稲田大学教授を務め、ビアード、グッドナウ、ベントリーらのアメリカ政治学を日本に紹介した。 1891年(明治24年)、宮城県宮城郡利府村(現・利府町)に生まれる。1911年(明治44年)9月、早稲田大学専門部政治経済科第二学年に入学。1913年(大正2年)7月、同科卒業。1914年8月、コロンビア大学に留学、チャールズ・ビアードの指導を受ける。1916年2月、同大学でM.A.を取得。1917年7月、同大学でPh.D.を取得。その後帰国まで、ニューヨーク市政調査会で調査研究にあたる。
田淵 寿郎(たぶち じゅろう、明治23年(1890年)3月3… 田淵 寿郎(たぶち じゅろう、明治23年(1890年)3月3日 - 昭和49年(1974年)7月10日)は、大正、昭和期の日本の土木工学者。都市計画推進者、近代的都市づくりの先駆者である。名古屋市助役などを歴任。 広島県佐伯郡大竹村(現在の大竹市)出身。中学から兄のいた大分県杵築に住む。回漕問屋の十番目の子に生まれたので「十郎」と名付けようとしたらしいが、語呂が悪いということで「寿郎」とした。回漕問屋の息子として育ったため、本人は将来は船乗りになりたかったらしいが、海軍兵学校の試験の身体検査で心肺機能に異常があることがわかり、入学のための身体基準が厳しい商船学校への進学を断念した。また造船科に進もうとしたが、学校で所属していたボート部の練習が忙しく造船科に進むための必修科目である化学実験を受講しなかったことや当時造船業は不況であったこと等から、兄などの勧めもあって受講条件を科していない土木工学科へ進むことになる。
坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3… 坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3日 - 1982年(昭和57年)7月7日)は、日本の児童文学作家。日本藝術院会員。岡山県出身。 同じ児童文学作家、児童文学研究者である坪田理基男は三男。 1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれる。父・平太郎はランプ芯などを製造する島田製織所を経営していたが、1898年(明治31年)譲治が8歳の時に死去した。大学生だった兄が家業を継ぐものの、以後会社の内紛が続く。のちに譲治も経営に参加する。(これは、後の小説に反映されることになる。) 1908年(明治41年)、早稲田大学文科予科へ入学した。同級生の生田蝶介の紹介で小川未明を訪問する。
堤 不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日… 堤 不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日 - 1959年(昭和34年)7月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県甲府市に生まれ、陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業。1931年、第10師団参謀長。1944年4月、第91師団長。1945年8月18日-21日、占守島の戦いで第91師団を指揮した。同年8月23日、降伏文書に署名した。 1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。
内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 196… 内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 1969年9月28日)は、日本の地理学者。日本における歴史地理学の開拓者と知られ、他に政治地理学・郷土教育などに功績がある。 佐賀県東松浦郡呼子(よぶこ)の士族の家に生まれた。唐津中学在学中、日露の日本海海戦の砲声を聞いた。同校を19歳で卒業し、23歳(1910年)の時東京高等師範学校本科地理歴史科を卒業し、当時唯一の地理学の専門課程があった京都帝国大学文科大学史学科に入学。 1913年(大正2年)、大学を卒業し、大学院に進学。1914-1916年までは同助手を勤める。この間、小川琢治・石橋五郎・中目覚らに学ぶ。また、日本近世史が専門の内田銀蔵や、東洋史の権威である内藤湖南にも学んだ。
森脇 忠(もりわき ただし、1888年(明治21年)3月3日… 森脇 忠(もりわき ただし、1888年(明治21年)3月3日 - 1949年(昭和24年)10月13日)は、日本の洋画家である。 島根県に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は同年に自身の作品が文展に初入選され、以後官展にも出品を続けた。1920年(大正9年)には第三高等学校(現在の京都大学)にて教鞭を執り、1941年(昭和16年)までその職にあたった。また勤務中の1920年および1922年(大正11年)には帝展に出品され特選となり、1924年(大正13年)には京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の講師も務めた。 その後は中沢弘光に師事し、彼の作風に影響を受け室内や風景をシチュエーションとした裸婦画をよくし、油彩による日本風俗の表現を試みた作品の制作に携わる。
小林 錡(こばやし かなえ、1888年3月3日 - 1960… 小林 錡(こばやし かなえ、1888年3月3日 - 1960年10月25日)は、日本の政治家、検察官。衆議院議員(通算8期)、裁判官弾劾裁判所裁判長などを歴任した。 愛知県西加茂郡寺部村(現・豊田市)に生まれる。1903年(明治36年)3月、高橋村寺部尋常高等小学校(現・豊田市立寺部小学校)を卒業。1908年(明治41年)3月、東京府青山師範学校卒業。同年4月、東京市麹町尋常小学校(現・千代田区立麹町小学校)の訓導となる。 1912年(明治45年)、日本大学法文学部英法科卒業。1915年(大正4年)12月、判事検事登庸試験に合格。佐賀地方裁判所、甲府地方裁判所、東京地方裁判所などで検事を務める。
北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - … 北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - 1945年2月13日)は、下川凹天、幸内純一と並び称せられる「日本初のアニメーション作家」のひとりである。水彩画家、雑誌編集者、そして同時代の若い画家たちを支援した人物でもあった。日本水彩画会大阪支部代表、日本洋画協会を設立し美術雑誌を発刊、展覧会開催を行った。美術の世界を離れたあと、アニメの世界に転向、北山映画製作所を設立した。 1888年(明治21年)3月3日、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現在の同県和歌山市住吉町)に生まれる。父・清兵衛(1841年 - 1892年)、母・かつ乃(1854年 - 1937年)の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、1903年(明治36年)4月12日、家督を相続する。
大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 197… 大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 1977年11月18日)は、大正・昭和期のキリスト教神学者。文学博士(1949年)。旧姓は沖田。同志社第13代総長。 1887年(明治20年)広島県高宮郡飯室村(現在の広島市安佐北区安佐町)で沖田惣左衛門の六男に生まれる。1912年(明治45年)に愛媛県伊予郡中山村(現在の伊予市中山町)の大塚家の養子となる。 広島県師範学校講習部から1903年同志社普通学校に入学。1905年日野真澄から受洗。1909年同志社普通学校を卒業して同志社神学校に入学。1912年に渡米し、ユニオン神学校、コロンビア大学で学び、マスター・オブ・アーツの学位を受ける。帰国後の1919年に専門学校令による同志社大学神学部教授、翌年大学令による同志社大学文学部神学科教授となり、多くの著書、論文を発表、キリスト教倫理学および組織神学を講じた。
池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 … 池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 - 1969年(昭和44年)12月17日)は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)出身の日本の風刺漫画家、洋画家。旧姓・山下。 岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。 1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる。東京府人の山下覺之介の二男。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる。台東区立下谷小学校に通った。 1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。
有本 芳水(ありもと ほうすい、1886年(明治19年)3月… 有本 芳水(ありもと ほうすい、1886年(明治19年)3月3日 - 1976年(昭和51年)1月21日)は、日本の詩人・歌人である。 本名歓之助、1886年(明治19年)3月3日、兵庫県飾西郡津田村(現・姫路市)に生まれる。 岡山市の関西中学校に入学。在学中から詩作をし、同人雑誌「白虹」に参加する。上京し、早稲田大学高等師範部を卒業後、実業之日本社に入り、「日本少年」主筆として活躍した。1905年に車前草社に入り、若山牧水、正富汪洋らと作歌。薄田泣菫、与謝野鉄幹、晶子らの先進を敬慕しつつ、「日本少年」に毎号発表した少年詩は少年の読者に愛誦され、文学者に多くの影響を与えた。 1913年(大正2年)4月、岡山県上道郡浮田村北方の井尻龍五郎・林夫妻の長女、清子と結婚。
倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3… 倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3月3日 - 1938年〈昭和13年〉3月27日)は、日本の商人(履物商)、実業家。広島瓦斯電軌社長。倉田商事代表社員。昭和証券、防石鉄道各取締役。芸備銀行監査役。 広島県広島市堺町・倉田幾蔵の長男。広島第一中学校に入学したが、家業に従事するため中途退学する。履物商を営み、傍ら会社重役であった。広島瓦斯電軌専務取締役、同副社長を経て社長。 趣味は絵画。住所は広島市大手町9丁目、同市堺町。 倉田家は安芸郡牛田村(現・広島市東区)より明治の初年に祖父・幾蔵が出広し荒物、下駄の販売を創めた。2代目幾蔵は賀茂郡西志和村(現・東広島市)出身で、門根木家より入婿し、家業に精励、明治24、25年頃より下駄の海外輸出を決行、莫大の利益を得る。
佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年… 佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年3月3日 - 1945年1月2日)は、日本の俳優である。坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」で「日本の女優第一号」こと松井須磨子の同期として新劇俳優を始め、「舞台協会」を設立、また日活や東亜キネマの無声映画にも出演した。のちのスター女優夏川静江、おなじくのちの俳優夏川大二郎は妻の連れ子である。 本名の「佐々木 百千万億」は珍名である。早稲田大学文学部露文科卒業。1909年(明治42年)4月、24歳のときに、坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」が設立した「文芸協会演劇研究所」に入学する。同期生は、武田正憲、林和、柳下富司、伊藤理基、掬月晴臣、日高清、久里四郎、志田徳三、松井須磨子、三田千栄子(のちの山川浦路、上山草人の妻)、五十嵐吉野の11名であった。
比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3… 比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3日 - 1941年(昭和16年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 福島県石城郡湯本村(常磐市を経て、現在のいわき市)出身。早稲田大学政治経済科卒業。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬。対立候補は星製薬社長の星一(立憲政友会)であったが、「薬は星、政治は比佐」のキャッチフレーズで勝利を収めた。 以後、当選回数は6回を数え、第2次若槻内閣と第1次近衛内閣で陸軍参与官を務めた。 1941年(昭和16年)現職のまま死去。戦後、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に公職追放者として掲載された(追放理由は「陸軍政務官」)。
伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日… 伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日 - 1970年11月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本古文書学。 1883年(明治16年)、山口県大津郡三隈村(現在の山口県長門市)で山口県士族伊木尚義の長男として生まれた。山口中学校、山口高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。1906年に卒業。同大学大学院に入学し、古文書学を専攻した。 1907年、東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、『大日本古文書』の伊達家文書・相良家文書等の編纂に従事。1908年からは國學院大學、1911年からは慶應義塾大学部で講師として古文書学を講義した(兼任)。1925年に史料編纂官となり、『大日本史料』第9編の編纂を手掛けた。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日… 和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
小山 寛蔵(おやま かんぞう、1882年〈明治15年〉3月3… 小山 寛蔵(おやま かんぞう、1882年〈明治15年〉3月3日 - 1929年〈昭和4年〉12月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県三上郡、のちの庄原村(比婆郡庄原村、庄原町を経て現庄原市)出身。 東京法学院(のち東京法学院大学を経て、現在の中央大学)で学ぶ。広島県議、庄原町長、同農会長、比婆郡自治教育会長、同郡有財産林組合長、広島県土地収用審査委員、広島地方森林会議員、山陽製鉄(株)高野山工場長、東城製鉄(株)取締役兼工場長、京都西陣織物同業組合調査部長となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において広島3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1929年12月、在職中に死去した。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 … 吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 - 1944年〈昭和19年〉10月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 山口県熊毛郡、のちの大野村(現平生町)出身。1905年、京都帝国大学電気科卒。栃木県立宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)教諭、宇都宮電燈、奥羽電燈各(株)技師長、シーメンス・シュケルト(株)電気技師、周防電燈、中外電気各(株)専務取締役、全州電気、周東自動車、旭金属工業、満州工機各(株)社長、中島電気、全北電気各(株)取締役、周東中学校(現・柳井学園高等学校)主、東京工材、旭電気各(株)会長となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口9区から立憲政友会公認で立候補して初当選。
小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)… 小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)3月3日 - 1968年(昭和43年)4月2日)は、政治家。第11 - 14代八王子市長を務めた。勲四等瑞宝章、藍綬褒章受章。 1881年(明治14年)3月神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て現相模原市)に資産家根岸家の次男として生まれる。高等小学校時代から成績は良く法曹界を目指し東京法学院に進学し1901年(明治34年)卒業するが脚気衝心に罹り療養生活に入る。1907年には小林家に婿入り。1916年(大正5年)八王子町議会議員に当選(1期)。1918年(大正7年)には八王子織物同業組合評議員に選出。副組合長を経て1924年(大正13年)に組合長に就任した他、武相甲織物同業組合連合会会長・東京府織物工業組合理事長など織物関係の組合の要職に就任。
三淵 忠彦(みぶち ただひこ、1880年〈明治13年〉3月3… 三淵 忠彦(みぶち ただひこ、1880年〈明治13年〉3月3日 - 1950年〈昭和25年〉7月14日)は、日本の裁判官。初代最高裁判所長官。栄典は正三位・勲二等瑞宝章。 長男に三淵乾太郎(元浦和地方裁判所所長)がいる。 会津藩士・三淵隆衡(家老・萱野長修の実弟)の子として生まれる。大学卒業後、書生を経て東京地方裁判所判事となり、大審院判事、東京控訴院上席部長などを歴任した。裁判官在任中には、弁護士であった片山哲が労働法制定、家庭裁判所の設置などを求めたことに同調し、彼らが創設した中央法律相談所が発行する「中央法律新報」に寄稿するなど、片山との関係を深めている。1923年には法曹会調査部において民事実体法規担当の一人であった。
大塚 常三郎(おおつか つねさぶろう、1880年(明治13年… 大塚 常三郎(おおつか つねさぶろう、1880年(明治13年)3月3日 - 1926年(大正15年)3月21日)は、朝鮮総督府官僚。内大臣秘書官長。 栃木県出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格した。内務属、沖縄県警視、統監府書記官、朝鮮総督府書記官、同農商工部鉱務課長、同参事官、同内務部第二課長、同内務局長・中枢院書記官長などを歴任。1925年(大正14年)、内大臣秘書官長に転じた。 1926年(大正15年)3月21日、腎臓病再発により大学病院で療養中に死去、46歳。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈、正四位に叙される。
清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年… 清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年3月3日 - 1943年4月24日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、教育者。日本電報通信社(現・電通)外報部長。東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。日本聖公会の信徒。 1880年(明治13年)3月3日、清田海一郎(浅草聖ヨハネ教会初代牧師)の長男として広島県忠海(現・竹原市)に生まれる。 その後、大阪に出て小学校を卒業した後、上京する 1897年(明治30年)3月、東京・築地の旧制立教中学校を卒業。同1897年(明治30年)4月、立教専修学校(現・立教大学)に入学して、1899年(明治32年)に同校卒業。卒業と同時に、1899年(明治32年)3月、ペンシルバニア州費留学生として米国に留学。
正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3… 正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師。岡山県生まれ。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。
岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - … 岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - 1951年〈昭和26年〉9月7日)は、歌人、書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名・三郎。書号・三谷(さんこく)、俳号・傘谷(さんこく)。 徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく、17歳のとき香取秀真に一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのはこれまで自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。
本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日… 本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日 - 1970年(昭和45年)2月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 山形県出身。酒田本間家の一族、本間東三郎の長男として生まれる。東京外国語学校を経て第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し大学院に進んだ。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 以後、富山県事務官、同理事官、島根県警察部長、愛媛県警察部長、広島県警察部長、警視庁官房主事、同高等警察課長、兵庫県内務部長などを歴任。 1922年10月、長野県知事に就任。ブラジル移民の推進、郡制廃止への対応、中等学校の整備、道路網の改良などを推進。
丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日… 丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日 - 1932年(昭和7年)3月9日)は、日本の大蔵官僚、実業家。 東洋葉煙草社長。協立煙草、東洋錫紙(現・UACJ製箔)各取締役。 族籍は青森県士族。従四位勲四等。 長男は京都製作所元会長の丸瀬雄一郎。孫は丸紅会長・朝田照男の妻にあたる。 青森県士族・元郡長の丸瀬正果の長男として生まれ、1925年(大正14年)家督を相続する。 1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年、文官高等試験(第11回)に合格し、大蔵省専売局に配属され、煙草専売局属、同事務官、同三次、同監査課長等を歴任。その後、同総務課長かつ臨時議院建築局理事を最後に、1924年(大正13年)10月、退官。
杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 … 杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 - 1943年(昭和18年)7月6日)は、日本の教育家である。 神奈川県に生まれ、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に入学する。卒業後は留学のため渡米し、カリフォルニア大学にて教育学および心理学を学んだ。帰国後は静岡師範学校(後の静岡第一師範学校、現在の静岡大学教育学部)で教鞭を執り、1916年(大正5年)には長野師範学校(現在の信州大学教育学部)に転勤する。 翌1917年(大正6年)には同学校附属の小学校の研究学級の教師にあたり、実験心理学を元に新教育の促進に携わった。これによって1925年(大正15年)には新教育の研究会から「研究学級の経営」として杉崎が研究した成果の発表にあたった。
矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931… 矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931年8月23日)は、日本の植物学者。理学博士。位階および勲等は正四位・勲三等。東京生まれ。 植物学者。中国大陸の高等植物の研究にあたる。理學博士。 地球科学者・矢部長克の兄。妻敬子は貴族院議員・男爵中御門経隆の三女。 矢部の没後に、追悼記事として記されたものは , , , , がある。また、後年 の中に 小林義雄 (菌類学者) が を記した。この は、加筆修正されて に収録された。さらにそれが(一部修正されて) に収められた。この際に、誤った「よみがな」が振られた為に、それが世間に広まった。詳細は、別項に記す。 の矢部吉禎の項の記述は、この をベースに記述されている。
山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 -… 山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 - 1947年8月17日)は、イタリア文学者、翻訳家。日本で最初にダンテの『神曲』「地獄篇」を完訳した。 新潟県北蒲原郡(現・新潟県新発田市上館)生まれ。新潟市の北越学館に入学し受洗。1892年東北学院労働会に入って勤労学生として苦学し、20歳の同学院文科2年生のときに島崎藤村が教師として赴任し、交流する。バイオリニストを志して渡米し、カリフォルニア大学に学び、語学の才を発揮し、とくに中世英語ではアメリカ人を抜いてトップの成績を修めたという。 1914年から1922年にかけてダンテ・アリギエーリ『神曲』を邦訳。ダンテ研究家の大賀寿吉に絶賛される。
清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日… 清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日 - 1921年〈大正10年〉5月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 静岡県富士郡柚野村(現在の富士宮市)で酒造業を営む清家の四男として生まれた。1903年(明治36年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、中央新聞の記者となった。その後、東京市長尾崎行雄の知遇を得、市長秘書役に抜擢された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その他、東京市会議員も務めた。
坂口 拙三(さかぐち せつぞう、1874年(明治7年)3月3… 坂口 拙三(さかぐち せつぞう、1874年(明治7年)3月3日 - 1946年(昭和21年)11月24日)は、明治から昭和前期の農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、岐阜県会議長。 岐阜県方県郡、のちの稲葉郡木田村(現岐阜市)で、豪農・坂口太八郎の長男として生まれる。1888年(明治21年)岐阜高等小学校を卒業し、1889年(明治22年)上京して、慶應義塾正課を卒業し、さらに東京法学院(のち英吉利法律学校、現中央大学)で学んだ。 帰郷して家業の畜産業を継承。北海道、朝鮮で開墾事業を行い、揖斐川電力(現イビデン)取締役、岐阜製氷取締役、京城工業社長、日本鉄煉瓦取締役などを務め、岐阜市でS電機商会を、中華民国山東省青島で雑貨店を経営した。
河野 清丸(こうの きよまる、1873年(明治6年)3月3日… 河野 清丸(こうの きよまる、1873年(明治6年)3月3日 - 1942年(昭和17年)8月21日)は、日本の教育学者。 愛媛県周桑郡周布村(現在の西条市)出身。1891年(明治24年)、愛媛県師範学校に入学。卒業後、高等小学校訓導、校長を務めた。1903年(明治36年)、愛媛県立商業学校助教諭に転じ、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格して、同校教諭となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、吉田熊次のもとで教育学を学んだ。またそのかたわら大成中学校修身科講師を務めた。1910年(明治43年)に卒業し、また高等学校卒業試験にも合格して、文学士となった。
風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年… 風間 繁松(かざま しげまつ、明治4年1月13日(1871年3月3日) - 1955年9月14日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍軍曹、酒田風間氏分家・東美家第七代当主。号は触水。
新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(18… 新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) - 昭和2年(1927年)3月12日)は、現在の山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。 仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、1888年近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが、手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官だった北白川宮能久の薦めもあり、彫刻家志望に転じた。1891年の除隊後、後藤貞行に師事。後藤は当時、高村光雲のもとで楠木正成像の原型の制作に当たっており、その助手を務めた。また浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学んだ。1896年に軍より北白川宮能久親王騎馬銅像の制作依頼を受け、1899年に原型を完成させた(翌年鋳造、1902年に設置)。
五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863… 五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863年3月3日) - 昭和19年(1944年)8月7日)は、日本の実業家、政治家。北海道多額納税者。北海造営(株)監査役。札幌電気軌道監査役。金融業。地主。北海道士族。衆議院議員。 越前国足羽郡、のちの福井県足羽郡和田村(現福井市)出身。福井県士族五十嵐佐次平の長男。明治31年(1898年)家督を相続する。金融業を営む。衆議院議員に挙げられる。 五十嵐農場(東中)の土地売却をめぐっては、当時急激に増加しつつあった小作争議との関わりで社会の注目を集めることになった。この農場は明治40年(1907年)に中島農場から所有権が移動したもので、実質的な所有者は札幌の金貸し業・五十嵐であった。
宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(18… 宮川 久次郎(みやかわ きゅうじろう、文久2年2月3日(1862年3月3日) - 没年不詳)は、明治期日本の外交官、銀行家。在広東副領事、在香港副領事、在ニューヨーク一等総領などを歴任した。 東京府出身。高等商業学校(現一橋大学)卒業後、外務省入省。森有礼文部大臣による上申により、1888年に交際官試補と兼任して母校高等商業学校教諭に任じられ、統計を講じた。1889年広東副領事。同年汕頭副領事及び瓊州副領事を兼務。1890年香港副領事。1895年ニューヨーク一等領事。1897年に非職となり、のち横浜正金銀行副支配人などを務めた。1900年叙正六位。1908年の申酉事件では、成瀬隆蔵、図師民嘉、村瀬春雄、八十島親徳と大学問題実行委員に就任。
春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1… 春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1月18日) - 1929年(昭和4年)11月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 愛知県出身。1874年、愛知県養成学校小学教科卒。小学校訓導、南麻績村戸長、実田村長、中島郡会議員、同参事会員、愛知県会議員となる。また、破産管財人、愛知県教育会、同県農会各評議員、日光川倉庫銀行取締役を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙で再選した。1915年の第12回衆議院議員総選挙では51票差で落選した。1929年に死去した。
菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月… 菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月3日) – 昭和11年(1936年)7月26日)は、明治期のジャーナリスト、「グリム童話」の訳者、衆議院議員、僧(本願寺顧問)。号は桐南。筆名は桐南居士。 石見国邑智郡銀山領川本村(現・島根県邑智郡川本町川本)の浄土真宗本願寺派・壽國山光永寺に住職・菅了雲の長男として生まれる。 明治8年(1875年)、学制施行により設立された川本小学(現・川本小学校)の初代校長となる。明治9年(1876年)秋、川本小学を辞して、大阪英語学校(後の第三高等学校)に学び、明治10年(1877年)6月、本願寺からの援助を受けて慶應義塾「大人科」に入学。明治12年(1879年)暮れないし明治13年(1880年)春まで在学。
間中 進之(まなか しんし、1852年3月3日〈嘉永5年2月… 間中 進之(まなか しんし、1852年3月3日〈嘉永5年2月13日〉 - 1890年〈明治23年〉9月5日)は、日本の政治家。衆議院議員。所属は弥生倶楽部 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で生まれる。漢学を学んだ。 1874年(明治7年)、22歳で学区取締となる。1879年(明治12年)、北葛飾郡・中葛飾郡選出の埼玉県会議員に選ばれた。議会では、立案委員、組合監事などを務めた。1880年(明治13年)6月、議員を辞職して南埼玉郡長に就任。1890年(明治23年)3月に郡長を辞任した。 同年7月、第1回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から出馬して当選したが、2ヵ月後に死去した。
永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう… 永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう、1849年〈嘉永2年〉3月3日 - 1924年〈大正13年〉2月24日)は、日本の教育者。北海道の先住民族であるアイヌのために建立された釧路市の春採小学校において、開校間もない頃からアイヌの児童たちの教育の心血を注いだ。また、アイヌを差別や貧窮から救済するために、児童の教育、住民たちの生活環境の双方から改善を目指し、アイヌたちの生活向上を支援した。その献身的な精神により、春採のアイヌの人々からの尊敬と信頼を集めた。漢詩人でもあり、アイヌの儀式(イオマンテ)をもとに描いた『送熊行』は大きな反響を呼んだ。 磐城国刈田郡宮村(後の宮城県蔵王町)で誕生した。