榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月… 榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1992年〈平成4年〉1月27日)は、大正末から昭和期の医学者、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、医学博士。心臓外科の創始者。 福井県福井市宝永上町生まれ。幕臣榊原職直の後裔である。開業医の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1925年(大正14年)九州帝国大学医学部を卒業した。 金沢医科大学(現金沢大学)に赴任し副手、助手を歴任。泉伍朗教授の元で脾臓手術を行い認められる。1928年(昭和3年)泉教授と共に岡山医科大学(現岡山大学医学部)に赴任し講師に就任し、1929年(昭和4年)助教授となる。収縮性心包炎の手術に成功して名を知られた。
16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、189… 16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1984年〈昭和59年〉1月8日)は、日本の実業家。大日本除虫菊会長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の三男。同社会長を務めた上山英介の実父、同じく会長を務めた上山直武の養父。 和歌山県有田郡保田村山田原(現・有田市山田原)出身。1924年、京都帝国大学経済学部卒業。日本勧業銀行に入り、検査役・鑑定役・大阪支店副支配人などを歴任し、1938年、退職して大日本除虫菊会社副社長に就任。1943年、勘太郎を襲名し第3代社長に就任。1981年、会長に就任。 上山英一郎の三男、十五代勘太郎、英三の弟であり、1932年に分家した。
那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 196… 那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 1968年12月7日)は、岐阜県出身の実業家・興行師。京都帝国大学卒業。株式会社東京楽天地社長などを歴任した。土木工学者・鉄道官僚の那波光雄は父。日本郵船社長の有吉義弥は義兄。 1899年(明治32年)11月3日に岐阜県に生まれた。父は土木工学者・鉄道官僚の那波光雄である。愛媛県の旧制松山高等学校を第1回生として卒業後、1926年(大正15年)に京都帝国大学法学部を卒業した。旧制松山高校の同窓には後に三和銀行頭取となる上枝一雄、後に日本郵船社長となる有吉義弥などがいた。大学卒業後には小林一三が率いる東宝グループの阪神急行電鉄、東京瓦斯、東京宝塚劇場などに勤務した。
粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - … 粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - 1970年8月23日)は、ボストン美術館東洋部員、歴史学者、関西学院大学教授。 兵庫県川辺郡六瀬村出身。1896年、川辺郡猪名川町島に生まれる。猪名川町六瀬第二小学校、大阪府立北野中学校、青山学院高等学部卒業後、1927年米国オハイオ州ウェスリアン大学でB.A.、コロンビア大学大学院史学科でM.Aを取得。その後1939年までハーバード大学にて碑文およびパピルス文書などの史料にもとづくヘレニズム史の研究を継続し、一時期ボストン美術館東洋部にも勤務。1939年に帰国後、神戸女学院講師を経て、1951年に招かれて関西学院大学文学部教授に就任し史学科を開設し1967年の定年まで、その充実・発展のために尽力。
山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治… 山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治29年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、衆議院議員(2期)。参議院功労議員表彰。 1896年島根県生まれ。1923年に関西学院大学文学部社会学科卒業後、コロンビア大学に留学し、1929年大学院修了。 関西学院大学で講師を務めた後、1943年マライ半島において陸軍司政官。戦後はシンガポール戦犯裁判所通訳、日本で浜田進駐軍首席通訳、1947年島根県議会議員。 1949年には第24回衆議院議員総選挙島根県全県区で民主党から出馬し、初当選。以後通算2期務める。 1958年には、第4回参議院議員通常選挙島根県選挙区補欠選挙で自由民主党から立候補し、初当選。
畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)… 畠山 重勇(はたけやま じゅうゆう、1895年(明治28年)11月3日 - 1978年(昭和53年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県北秋田郡比内町長、同町名誉町民。位階は従五位。 秋田県南秋田郡扇田村(扇田町、比内町を経て現大館市比内町扇田)で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立大館中学校(現秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業。 大葛産業取締役社長、同会長、北秋田郡木炭同業組合長、炭谷鉱山経営、扇田通運取締役社長、秋田県木炭取締役、北秋通運取締役、秋田県木材取締役、秋田県燃料商業組合理事長、東北木材興業専務取締役、同社長などを務めた。 政界では、扇田町会議員を務め、1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)まで秋田県議会(県会)議員に3期在任し、同参事会員も務めた。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年… 久 琢磨(ひさ たくま、1895年11月3日 - 1980年10月31日)は、日本の武道家。大東流合気柔術の継承者である。 1895年、高知県安芸郡佐喜浜村(現・室戸市)出身。大阪の成器商業学校(現在の大阪学芸高等学校・附属中学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学(第13回生)。神戸高商では相撲部のキャプテンを務め、関西学生相撲大会で優勝するなどした。 1919年(大正8年)に神戸高商を卒業し、鈴木商店に入社。鈴木商店と深い関係がある高知商業学校(現在の高知商業高等学校)の校友となり、職務の間に同校をたびたび訪れて相撲部のコーチを務めた。鈴木商店内には「高商派」(神戸高商出身者)と「土佐派」(高知県出身者、とくに高知商業出身者)の派閥があり、久はその双方に属し得る立場であったが、金子直吉の側近を自負した久は土佐派の中核となって行動し、台湾銀行からの金子退陣要求に対して強い抵抗を示した。
中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 199… 中尾 幸雄(なかお さちお、1895年11月3日 - 1998年10月4日)は、日本の経営者。ゼネラル石油社長を務めた。愛媛県南宇和郡愛南町出身。 1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1947年7月にゼネラル物産(のちのゼネラル石油)に転じ、1948年4月に取締役に就任し、1953年4月に副社長を経て、同年11月から1967年11月までに社長を務めた。1961年5月から1963年5月までに石油連盟会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年10月4日心不全のために死去。102歳没。
長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)1… 長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)11月3日 - 1970年(昭和45年)7月14日)は、日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。 新潟県西蒲原郡漆山村(現・新潟市西蒲区)出身。1916年(大正5年)広島高等師範学校卒業後、熊本県立済々黌中学の理科教師となるが1年で退職し、1917年(大正6年)広島高等師範学校研究科に入るが4カ月で中退。1921年(大正10年)京都帝国大学(現京都大学)理学部卒業。1924年(大正13年)同大学助教授。1928年(昭和3年)にドイツに留学し、ポツダムの地球物理学研究所で研究に当たる。1930年(昭和5年)8月にストックホルムで開催された国際測地学・地球物理学連合総会に参加した後、11月に帰国。
富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 198… 富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 1988年3月9日)は、日本の機械工学者。内燃機関技術の研究改良における先駆的人物として知られる。 千葉県山武郡生まれ。5歳で小学校に入学し、1903年、大網高等小学校、1906年、旧制千葉中学校に入学する。1911年、第一高等学校に無試験入学。1917年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業。1918年4月、東京帝国大学航空学調査委員会(のち航空研究所)の嘱託、同年11月、東京帝国大学助教授。1932年、教授。日本におけるガソリンエンジン国産化の初期から研究に携わり、日本の航空エンジン研究の先駆者の役割を果たすと共に、多くの技術者および研究者を育てた。
澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年… 澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年〉11月3日 - 1970年〈昭和45年〉3月8日)は、日本の会社役員、銀行家。三菱銀行取締役。三菱電機監査役。 群馬県新田郡太田町(現太田市)出身。1915年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。第百銀行に入り大阪支店次長、横浜・丸ノ内各支店長を歴任し三菱銀行に転じ郵船ビル支店長、本店審査部副長、日本橋支店長を経て1947年、取締役に就任。 質商・初代澁澤金蔵の孫。二代目澁澤金蔵の二男。三代目澁澤金蔵の弟。趣味はスポーツ。宗教は浄土宗、仏教。住所は東京世田谷区玉川奥沢町 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
8代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)… 8代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、東京の落語家。本名∶並河 益義。位階は従五位勲四等、勲章は瑞宝章および旭日小綬章(死没時追贈)。 自宅住所から、「黒門町」「黒門町の師匠」「黒門町の文楽」などと呼ばれた。演じた演目の種類は多くはなかったが徹底的に練りこまれているとの定評がある。 落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の5代目古今亭志ん生と併び称された。志ん生の八方破れな芸風とは対照的に、細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしない完璧主義により、当時の贔屓を二分する人気を博した。 母は並河いく。並河家は武家で、常陸宍戸藩主松平家の家来筋。
神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年… 神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年)11月3日 - 1952年(昭和27年)6月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県古志郡長岡町(現長岡市表町二丁目)で、神山敬太郎の長男として生まれた。1907年(明治42年)新潟商業学校(現新潟県立新潟商業高等学校)を卒業した。 1912年(大正元年)12月、一年志願兵として入隊し、1916年(大正5年)3月、陸軍歩兵少尉に任じられた。以後、新潟市在郷軍人会副会長、同市在郷軍人会連合分会阪之上区分会長、同市軍友会幹事を務めた。 肥料・砂糖・麦粉等の卸問屋を営み、1926年(大正15年)12月、親族で合資会社神山商店に改組し代表社員に就任。
小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - … 小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者・社会科教育学者。 東京出身。1919年東京高等師範学校卒、1922年東京帝国大学文学部社会学科卒、横浜実科高等女学校教諭、1925年千葉県銚子町公正会主事。1927年東京帝大経済学部卒。1932年東京府豊島師範学校教諭、1934年東京市視学。39年東京市主事教育局教育研究所長、1952年駒澤大学教授(-1962)、1955年東京経済大学教授、1956年亜細亜大学教授・日本経済短期大学教授、1971年亜細亜大を定年、名誉教授。
山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890… 山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家、社会主義者、労働運動家、婦人運動家である。戦前、公娼制度の廃止、女性労働者の地位向上、古い家族制度の批判、社会主義フェミニズムの理論化、女性社会主義者の組織化などを展開。アウグスト・ベーベルの『婦人論』の最初の完訳者としても有名。戦後も、女性運動、婦人労働運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。息子は山川振作。 1916年、『青鞜』1月号に、「日本婦人の社会事業に就て伊藤野枝氏に與ふ」を発表し、『青鞜』1915年12月号に発表された伊藤野枝の論文「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就て」を批判した。
栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月… 栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉12月1日)は、日本の国史学者。名古屋大学名誉教授。旧制第八高等学校校長。専門は日本近世史。 愛知県愛知郡田代村(現・名古屋市千種区)出身。旧制明倫中(現・愛知県立明和高等学校)、旧制八高を経て、1914年に東京帝国大学文学部国史学科卒。 東京帝大史料編纂官補となり、「大日本史料」の編纂に従事。八高教授、広島高等師範学校教授、1929年に広島文理科大学教授、1946年に第八高等学校校長、1949年に名古屋大学教授。1953年に中日文化賞を受賞。 1955年、在官のまま病死。法名は顕学院釈元晃。桃巌寺に葬られた。
足立 達夫(あだち たつお、1890年(明治23年)11月3… 足立 達夫(あだち たつお、1890年(明治23年)11月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。1912年(明治45年)、第三高等学校卒業。1915年(大正4年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。司法官試補となったが、翌年に警視庁警部に転じ、同警視、赤坂青山警察署長、島根県警視・保安課長、同理事官・学務課長、香川県理事官・視学官・学務課長、同事務官、同書記官・学務部長、静岡県書記官・学務部長、青森県警察部長、栃木県警察部長、同内務部長、福岡県警察部長を歴任。1932年(昭和7年)、鹿児島県書記官・総務部長に就任し、1936年(昭和11年)に退官した。
柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月… 柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月3日 - 1953年(昭和28年)5月29日)は、日本の外交官、詩人。 旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。 その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二。
高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11… 高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11月3日 - 昭和54年(1979年)8月26日)は、内務官僚、実業家、ジャーナリスト。香川県知事。 愛媛県西条市出身。高橋岩吉の長男として生まれる。明治40年(1907年)3月、北予中学(現松山北高校)卒業。明治42年(1909年)11月、警視庁巡査となる。 1909年12月、神田警察署勤務となり、深川警察署、三ノ橋警察署、本所相生警察署、早稲田警察署で勤務。大正4年(1915年)2月、警察官練習所を卒業。同年3月、内務省に転じ、内務属として警保局保安課に配属され、さらに同局図書課に異動。同年10月、文官高等試験行政科試験に首席で合格。
11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、… 11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、1889年〈明治22年〉11月3日 - 1966年〈昭和41年〉4月27日)は、日本の実業家、資産家、福井県多額納税者。右近商事社長。日本火災海上保険の会長。 福井県・右近権左衛門の長男。1914年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。1917年、家督を相続し義太郎を改め襲名した。海運業を営み会社重役である。 趣味は洋画、園芸。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市、大阪市西区西長堀北通5丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11… 井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11月3日 - 1971年(昭和46年)5月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山市名誉市民 、不二越創業者。 長崎県南高来郡北有馬村今福(北有馬町を経て現南島原市)で、農業・井村庄太郎、きく の五男一女の末子として生まれる。有馬高等小学校を卒業し、1907年(明治40年)医師を目指して長崎の行余学舎に入学したが、実家の家計が傾き学舎を中退。長崎に残り、新聞配達、新聞記者見習いなどに従事。1913年(大正2年)11月、台湾に渡り台中の帝国製糖に入社。倉庫係、農場係、鉄道建設係で勤務。 1919年(大正8年)中越水電に招かれ支配人に就任。
植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年… 植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年> 11月3日 - 1968年 <昭和43年> 5月9日)は、日本の精神医学者。位階は正四位。 長野県諏訪郡本郷村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1915年東京帝国大学医科大学卒業。同大学三浦内科、精神科に勤務。1918年渡米し、マサチューセッツ州立精神病院病理研究所員、ダンバース精神病院病理研究所員、ボストン精神病院病理研究所員、ハーバード大学医学部神経病理部講師。1923年論文「プルキンエ細胞樹枝突起と軸索における限局性腫脹について」で医学博士。慶應義塾大学医学部神経科講師。1925年同大学助教授、1926年同大学教授。
平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)… 平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)11月3日- 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省建設局長を最後に退官し、第44代土木学会会長や日本技術士会会長、パシフィックコンサルタンツ社長、ピーエス・コンクリート社長などを歴任。1957年の技術士法制定に奔走し、建設コンサルタント制度の確立に貢献。また、新幹線計画では幹線調査委員会委員としてその実現に貢献した。勲三等。墓地は谷中霊園[3]。
大手 拓次(おおて たくじ、1887年〈明治20年〉11月3… 大手 拓次(おおて たくじ、1887年〈明治20年〉11月3日〔ただし戸籍では12月3日〕 - 1934年〈昭和9年〉4月18日)は、日本の詩人。 群馬県碓氷郡西上磯部村(現・安中市西上磯部)、磯部温泉の温泉旅館・鳳来館に父・宇佐吉、母・のぶの次男として生まれる。祖父・万平は磯部温泉を開発した有力者で、生家は裕福な上流家庭であった。幼少期に両親を亡くしたため祖父母に溺愛され育つ。 磯部小学校、安中中学校と進むが、1904年(明治37年)に中耳炎で休学、以降左の耳が難聴となる。この中耳炎が完全に治癒しなかったのか、以後生涯を通じて頭痛に悩まされ続けることとなった。復学後安中分校の本校である旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)で学び、詩人となることを志し1906年(明治39年)に早稲田大学第三高等予科に入学。
和田 恒輔(わだ つねすけ、1887年11月3日 - 197… 和田 恒輔(わだ つねすけ、1887年11月3日 - 1979年12月2日)は、日本の実業家。山口県出身。富士電機製造(現在の富士電機)社長、富士通信機製造(現在の富士通)社長、日本原子力研究所顧問、原子力委員会参与等を務めた。正四位勲二等瑞宝章。ドイツ連邦共和国功労勲章大十字章、藍綬褒章受章。 神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。同期の高畑誠一、永井幸太郎、出光佐三と親しかった。古河鉱業入社後、1923年富士電機製造に転籍。1931年富士電機製造取締役。1945年から富士電機製造社長を務め、シーメンスとの提携や、多角経営を進めた。1953年日本ポリドール取締役。1954年富士通信機製造社長。1958年藍綬褒章受章。
関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日… 関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日 - 1969年(昭和44年)4月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。柏原中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員(兵站班)、陸軍兵器本廠付、アメリカ駐在、兵器本廠付、陸軍省整備局課員などを歴任し、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級。1929年(昭和4年)12月、兵器本廠付に発令され陸大専攻学生となった。
白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 19… 白木 正博(しらき まさひろ、1885年11月3日 - 1960年11月2日)は、日本の医学者(産科学・婦人科学)。日本の産婦人科学界の父と呼ばれ、子宮がん治療に初めて放射線を採用したことで知られる。白木博次は次男。
久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 -… 久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 - 1962年3月10日)は、大正から昭和時代の日本の化学者、教育者。東京帝国大学教授、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)教授、東邦大学理学部教授、千葉商科大学教授 1885年(明治18年)11月3日生まれ。千葉県出身。千葉県士族、久松善の二男。後に先代、太郞吉の養子となる。 1910年(明治43年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第八高等学校(現・名古屋大学の前身の一つ)教授を経て、理化学研究所研究員を務める。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)までフランスに留学。ポール・サバティエ(ノーベル化学賞受賞者)のもとで有機化学の研究に従事。
渡辺 豊日子(わたなべ とよひこ、1885年(明治18年)1… 渡辺 豊日子(わたなべ とよひこ、1885年(明治18年)11月3日 - 1970年)は、朝鮮総督府官僚。男性。 熊本県阿蘇郡白水村(南阿蘇村)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同年、高等文官試験に合格し、東京府属となった。宮城県理事官・視学官、愛知県理事官・視学官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府事務官となった。内務局第一課長、監察官・地方課長、殖産局農務課長・土地改良課長、山林部長を歴任。1930年(昭和5年)、慶尚南道知事となり、さらに学務局長に就任した。 退官後は、鮮満拓殖株式会社理事・監事を務め、1939年(昭和14年)からは朝鮮林業開発株式会社社長を務めた。
白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年… 白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年11月3日 - 1967年6月28日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は水原白氏。号は解慍、初名は白南勛、児名は長孫。キリスト教徒。 黄海道殷栗郡出身。19歳の時に長連公立小学校を卒業。20歳でキリスト教に入信した。1905年、長連イエス教会が設立した光進学校の教員となり、金九、蔡元瑢と共に長連郡学務委員を務め、海西教育総会の結成にも関与した。その後は儆新学校と普成学校の聴講生を経て、1913年に明治学院、1917年に早稲田大学政経科をそれぞれ卒業した。在学中に学生運動、独立運動に参加し、特に1919年の二・八独立運動を幕後で実務を担当した。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日… 渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日 - 1967年(昭和42年)1月21日)は、近代日本の建築家。元鉄道院技師。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、近畿を中心に商業ビルの秀作を多く残した。門下に村野藤吾がいる。 東京府麹町区(現東京都千代田区)生まれ。天長節(のちに明治節。明治天皇の誕生日)に生まれたことから「節」と名づけられた。父は相馬藩士、後に陸軍中将。 旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院に入り、京都駅(後に焼失)などを設計。1916年(大正5年)に独立、大阪に設計事務所を開設。1920年(大正9年)~1921年(大正10年)には欧米を視察。
石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月… 石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の商人(畳表商)、醸造家、広島県多額納税者。 広島県人・石橋喜助の二男。1917年、家督を相続する。酒造業を営み直接国税1110円を納め、広島県多額納税者に列する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は広島県呉市泉場町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大橋 清太郎(おおはし せいたろう、1882年11月3日 -… 大橋 清太郎(おおはし せいたろう、1882年11月3日 - 1962年11月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 現在の東京都出身。東京府立一中卒(現・東京都立日比谷高等学校)。材木商を営み、品川町議、同町長、東京市議、同参事会員、東京府議、同参事会員、同議長を経て、1940年、斯波貞吉と麻生久の死去による東京5区(当時)の衆議院議員補欠選挙で初当選。 1939年(昭和14年)に盛り上がりを見せた反英運動には大橋も積極的に参画。7月14日に行われた山王台などで行われた反英市民同盟主催の集会では座長の一人を務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選した。
中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉1… 中村 藤兵衛(なかむら とうべえ、1882年〈明治15年〉11月3日 - 1949年〈昭和24年〉11月30日)は、日本の貴族院勅選議員、太田市長。 群馬県新田郡太田町(現在の太田市)に太田保次郎の長男として生まれ、中村勘蔵の婿養子となった。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。翌年より会計検査院書記となり、同副検査官となった。1915年(大正4年)より衆議院書記官も兼任し、1923年(大正12年)より衆議院書記官長を務めた。1930年(昭和5年)に退官した後は国政研究会を主宰した。1935年(昭和10年)より内閣調査局(のち企画庁)参与を務めた。この間、文官普通試験委員長、臨時議員建築局、大蔵省営繕管財局各参与、大礼使事務官、議会制度審議会臨時委員などを務めた。
貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 19… 貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭礦社長。 貝島炭礦の創始者である貝島太助の四男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1895年、福岡県立尋常中学修猷館に入学、在学中の1898年、貝島鉱業合名会社を、社長・貝島太助、社員・貝島六太郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟)、貝島太市の4名で設立する。1901年、東京高等商業学校(現・一橋大学)を目指すため、修猷館を退学して東京商工中学校へ入学し、1902年、東京高等商業学校に進学する。在学中の1904年、旧長州藩士鮎川弥八の三女で鮎川義介(日産コンツェルン創始者)の妹であるフジと結婚する。
御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11… 御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11月3日 – 1941年(昭和16年)8月20日)は、津市長、佐世保市長。族籍は佐賀県士族。 佐賀県小城郡多久村(現在の多久市)に御厨利貞の長男として生まれる。1902年(明治35年)、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部、台湾総督府警視、台湾総督府専売局煙草課長、南投庁長、高雄州内務部長を歴任した。 1922年(大正11年)、津市長に選出され、1925年(大正14年)まで在任した。翌年には東京市社会局長に就任し、1928年(昭和3年)まで在任した。1930年(昭和5年)に佐世保市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。
馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月… 馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月3日 - 1929年〈昭和4年〉1月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県碧海郡依佐美村大字野田(現刈谷市)で旧福島藩士馬淵栄吉の長男として生まれる。 高等小学校を卒業後、陸軍士官学校(11期)に入り、1900年(明治33年)6月陸軍歩兵少尉に任官される。1903年(明治36年)陸軍大学校に入学、卒業後陸軍参謀本部部員に補せられる。さらに第17師団参謀、歩兵第38連隊大隊長を経て再び参謀本部部員となり、陸軍大学校および海軍大学校教官に補せられ、陸軍の中堅、参謀将校の養成に尽くした。 1920年(大正9年)第一次世界大戦が終了し、平和条約の締結にあたり実施委員を命じられ欧州に出かけ1922年(大正11年)帰国する。
大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)1… 大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)11月3日 - 1948年(昭和23年)4月28日)は、浄土真宗の僧で、真宗大谷派連枝。東洋学者。第13代大谷大学学長。院号は能浄院。別号は「禿庵」。 1878年、東本願寺第22世法主・大谷光瑩(現如)の次男として生まれた。幼名は英麿(ふさまろ)。父の意向で11歳から17歳まで親元を離れて上京し、福沢諭吉家で薫陶を受けた。1897年(明治30年)、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。 翌1898年(明治31年)、21歳で布教のため大谷勝信とともに日清戦争直後の中国上海や台湾に赴いて、台湾南支布教総督に就任。布教活動の第一線に立った。 3年間布教活動に従事した後、新知識を求めてイギリス・オックスフォード大学マンチェスターカレッジに入学し、3年間を過ごした。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1876年(明治9年)11月3… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1876年(明治9年)11月3日 - 1955年(昭和30年)1月26日)は、日本の西洋史学者。立教大学文学部長、初代史学科長、名誉教授。國學院大學名誉教授。専門は、ギリシャ・ローマ史、西洋史学。日本聖公会の信徒。 文芸評論家の小林秀雄と同姓同名であり、間違われたエピソードについては、野々上慶一『高級な友情:小林秀雄と青山二郎』(小沢書店、1989年)に詳しい。(書籍名の小林秀雄は、文芸評論家の小林秀雄) 1876年、旧会津藩士小林軍雄(ときお)・イシの長男として青森市に生まれる。1888年9月長崎県立長崎中学校に入学、1890年9月東京英語学校(私立) (後の日本中学校、現・日本学園中学校・高等学校)に入学、1893年國學院本科に入学し、1896年卒業。
森 勇(もり いさむ、1876年(明治9年)11月3日 - … 森 勇(もり いさむ、1876年(明治9年)11月3日 - 1958年(昭和33年)10月)は、日本の検事。富山市長。 岐阜県羽島郡中屋村(現在の各務原市)出身。1900年(明治33年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。1902年(明治35年)、判事検事登用試験に合格し、司法官試補として金沢地方裁判所に勤務した。1905年(明治38年)に検事となり、高松区裁判所検事、大津区裁判所検事、大阪地方裁判所検事、大津地方裁判所検事、広島区裁判所検事、山口地方裁判所検事、呉区裁判所検事、広島地方裁判所検事、広島控訴院検事を歴任した。1928年(昭和3年)に那覇地方裁判所検事正となり、以後、富山地方裁判所検事正、奈良地方裁判所検事正、金沢地方裁判所検事正を務め、1939年(昭和14年)に退官した。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3… 寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。 元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)と八重(旧姓水野)との三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという。1888年、番町小学校から県立松山中学校に入った。1893年(明治26年)(18歳)、三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上である。3人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。
星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日… 星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉1月16日)は、日本の実業家・政治家。第25代群馬県会議長、勢多郡会議員、勢多郡黒保根村長。水沼製糸所の経営や甘楽社社長として養蚕産業界に功績を残した。 1873年(明治6年)、星野長太郎・カクの子として熊谷県勢多郡水沼村(現・群馬県桐生市黒保根町水沼)に生まれた。次男とされたが兄は養子の文弥であるため、実際には長男。1891年(明治24年)6月明治学院高等科(現・明治学院高等学校)を卒業。同校の学友には島崎藤村や和田英作がいた。 郷里に帰ると父が設立した水沼製糸所の経営に参画。1900年(明治33年)には経営難から水沼製糸所の所有権は椎名三衛へと移ったが、経営には元治があたった。
菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1873年(明治6年… 菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1873年(明治6年)11月3日 - 1922年(大正11年)5月16日)は、日本の政治家。立憲政友会衆議院議員(1期)。 岩手県出身。菊池家は盛岡藩の豪商であった東屋の一族である。宮古町会議員、下閉伊郡会議員、同参事会員、同議長、宮古町漁業組合長などを勤め、1920年の第14回衆議院議員総選挙で立憲政友会から立候補して当選。1期務めた。明治期に閉伊川河口の埋め立て工事が行われた際は私財を投じてこれにあたった。また自らが中心となり盛宮自動車を設立。さらに原敬と共に山田線の地元誘致へ働きかけるなど、劣悪だった地域の交通事情改善のため尽力した。
宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11… 宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11月3日 - 1948年(昭和23年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 島根県出身。のちの能義郡広瀬町(現安来市)で生まれる。1896年(明治29年)11月に陸軍士官学校(第8期)を卒業し、1897年(明治30年)6月、砲兵少尉に任官。 1903年(明治36年)、砲兵大尉に進み野戦砲兵第2連隊中隊長となり日露戦争に従軍した。1920年(大正9年)4月に野砲兵第1連隊長、同年9月に陸軍砲兵大佐を経て、1924年(大正13年)12月に陸軍少将・澎湖島要塞司令官に任官。 その後、1926年(大正15年)3月に野戦重砲兵第1旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年… 木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日)- 1941年(昭和16年)4月5日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県員弁郡北大社村(稲部村大字北大社、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業。1919年(大正8年)家督を相続し、農業を営む。 員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め、農事改良、農業振興に尽力した。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた。
福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871… 福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871年11月3日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。準三と表記される場合がある。 相模国大住郡小嶺村(現在の神奈川県平塚市)の代々里正・組頭を務めた家で、福井直吉の長男として生まれる。1891年(明治24年)、慶應義塾を卒業。社会問題に関心を持ち、神奈川県農会副会長を務めるかたわら、農商務省の嘱託として神奈川県の工場・職工の調査にあたった。自らは社会主義者ではなかったが、1899年(明治32年)に著した『近世社会主義』は日本で社会主義を解説した最初期の文献である。また、郭沫若は、同書が1913年に中国語に翻訳され、これが中国へのマルクス・エンゲルス思想の初めての紹介になったと述べている。
安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明… 安田 善三郎(やすだ ぜんざぶろう、1870年11月3日(明治3年10月10日) - 1930年(昭和5年)1月9日)は、日本の実業家、政治家。実業家伊臣忠一の子で、安田善次郎の婿養子。安田財閥を指導し、様々な企業の重役を務めた。高学歴の人材登用など財閥の近代化を図ったが、善次郎と対立し離縁される。貴族院議員。オノ・ヨーコの祖父。 1870年(明治3年)10月10日生まれ。宇和島藩士伊臣忠一の子で、旧名を伊臣貞太郎という。1892年、帝国大学法科大学卒業後、安田製釘所に入社。1895年、安田財閥総帥安田善次郎の次女・暉子と結婚(媒酌人は穂積陳重)。同時に善次郎の養嗣子となる。 明治商業銀行、京都銀行、安田商事、安田銀行、第三銀行などの監督、大垣共立銀行、帝国製麻の社長、百三十銀行、日本商業銀行などの頭取、信濃銀行取締頭取、東京火災海上運送保険、東京建物、横浜電気鉄道などの取締役、鐘淵紡績、共済生命保険、水戸鉄道、肥後銀行などの監査役を務めた。
早川 六三郎(はやかわ ろくさぶろう、1870年11月3日(… 早川 六三郎(はやかわ ろくさぶろう、1870年11月3日(明治3年10月10日) - 1946年(昭和21年)4月21日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。 早川勇治郎の長男として、岐阜県武儀郡八幡村(南武芸村、武芸村、武芸川町を経て現関市)に生まれる。1893年(明治26年)12月、家督を相続する。 農業を営み、南武芸村会議員、学務委員、武儀郡会議員、同参事会員を歴任した。また財界では、美濃銀行、美濃電気軌道各取締役、八幡産業会社重役、上有知銀行監査役を務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。