浅井 慶三郎(あさい けいざぶろう、1930年10月5日 -… 浅井 慶三郎(あさい けいざぶろう、1930年10月5日 - 2016年9月25日)は、日本の経営学者。 東京出身。1953年慶應義塾大学経済学部卒、1963年同大学院博士課程満期退学。1966年慶大商学部専任講師、1967年助教授、1974年教授。1996年定年、名誉教授、常葉学園浜松大学教授、1998年校名変更で浜松大学教授。2001年退職。2000年「サービスとマーケティング パートナーシップマーケティングへの展望」で慶大商学博士。
石田 敏彦(いしだ としひこ、1930年(昭和5年)10月5… 石田 敏彦(いしだ としひこ、1930年(昭和5年)10月5日 - 2013年(平成25年)11月5日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。12代目東宝代表取締役社長。東京都出身。
久保 欣哉(くぼ きんや、1929年(昭和4年)10月5日 … 久保 欣哉(くぼ きんや、1929年(昭和4年)10月5日 - 2008年(平成20年)8月5日)は、日本の法学者。専門は、商法・経済法・企業会計法。学位は、法学博士(一橋大学・1959年)(学位論文「株式配当と無償交付の研究」)。元一橋大学法学部長、元青山学院大学法学部長。一橋大学名誉教授。吉永榮助門下。指導学生に山部俊文一橋大学名誉教授、長塚真琴一橋大学教授、平川幸彦元明治学院大学教授、シュテファン・ヘルツベルク元駐日ドイツ大使館首席公使など。
松浦 豊明(まつうら とよあき、1929年10月5日 - 2… 松浦 豊明(まつうら とよあき、1929年10月5日 - 2011年8月16日)は、日本のピアニスト。上野学園大学名誉教授。 大阪府豊中市出身。8歳でピアノを始め、上野児童音楽学園で永井進に師事。東京音楽学校(現東京芸大)ピアノ科に入学するが中退。 1948年、第17回日本音楽コンクールピアノ部門で第1位と特賞を受賞。1950年、デビュー・リサイタルを行い、NHK交響楽団定期演奏会にも参加(プロコフィエフ第3番)。1958年、第1回チャイコフスキー国際コンクールで入賞し、後にメロディアレコードへの録音、1960年・1962年の旧ソ連主要都市巡演につながる。 1958年に国立ベルリン高等学院に留学し、ヘルムート・ロロフに師事。
鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 20… 鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 2005年11月26日)は、日本の脚本家。岐阜県高山市(旧・吉城郡国府村大字広瀬)出身。 父親は警察官で、岐阜県内で転校を繰り返し、父は退官時は高山警察署の署長であった。旧制岐阜二中(現・岐阜県立加納高等学校)の二学年下に篠田正浩がいたが、在学中に面識はない。同中学から日本大学藝術学部に進み、大学卒業後、1954年東映に入社。同期に東映京都撮影所に配属された高岩淡ら。東映東京撮影所の助監督となるが、同スタジオの埃が原因で、気管支炎を患い、一番仲良しだった深作欣二は引き留めてくれたが、やむなく1955年、本社企画本部脚本課に転属し脚本家となる。
内田 修(うちだ おさむ、1929年10月5日 - 2016… 内田 修(うちだ おさむ、1929年10月5日 - 2016年12月11日)は、日本の外科医、ジャズ愛好家。愛知県岡崎市出身。名古屋大学医学部卒業。数多くのジャズミュージシャンを支援したことから親しみをこめて「Dr.U(ドクター・ユー)」「Dr.Jazz(ドクター・ジャズ)」と呼ばれる。その膨大なコレクションは、愛知県岡崎市に寄付された。「ジャズの街岡崎名誉顧問」。 1929年10月5日、愛知県岡崎市に産婦人科医院の二男として生まれる。1945年7月、岡崎空襲により家を失い、一家で額田郡岩津町(現・岡崎市岩津町)に疎開する。1947年3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1950年、名古屋大学医学部に入学。
伊東 壮(伊東 壯、いとう たけし、1929年10月5日 -… 伊東 壮(伊東 壯、いとう たけし、1929年10月5日 - 2000年3月3日)は、日本の経済学者、平和運動家。山梨大学学長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員、東京都原爆被害者団体協議会会長等を歴任した。 広島市に生まれる。旧制県立広島一中3年の時に被爆。1959年、一橋大学大学院経済学研究科修了。大川一司ゼミ出身。 都立高校教諭を経て1965年より山梨大学の教員をつとめた。山梨大学教育学部長、山梨大学学長(1992-98年)のほか、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員(1981-2000年)、東京都原爆被害者団体協議会(東友会)会長、大規模小売店舗審議会特別委員(通商産業省)などを歴任した。
待鳥 啓三(まちどり けいぞう、1929年10月5日 - 1… 待鳥 啓三(まちどり けいぞう、1929年10月5日 - 1998年8月14日)は、日本の経営者。太陽生命保険社長を務めた。 福岡県出身。1952年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に太陽生命保険に入社。1971年5月に取締役に就任し、1982年に常務、1983年7月に専務を経て、1990年7月に社長に就任。1995年7月に会長に就任し、1996年7月には相談役に就任。 1994年11月に藍綬褒章を受章。 1998年8月14日肝不全のために死去。68歳没。
沢田 昭夫(澤田昭夫、さわだ あきお、1928年10月5日 … 沢田 昭夫(澤田昭夫、さわだ あきお、1928年10月5日 - 2015年3月24日)は、日本の歴史学者。筑波大学名誉教授。専門は近世イギリス史・ヨーロッパ史で、思想家トマス・モアの研究者。カトリック信徒で洗礼名は「パウロ」。 1928年(昭和3年)10月5日、米国・ワシントンD.C.で生まれる。代父を務めたのは当時駐米フランス大使であったポール・クローデルで、洗礼名「パウロ」は彼に因む。 米国、フランス滞在約5年を経て日本に帰国し、暁星、成城に通った。 1940年代にはロゲンドルフ神父に勧められて、ロンドン大学のチェインバズ教授の『モア伝』を熟読し、これがトマス・モア研究へとつながった。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1945年(昭和20年)5月25日は、米軍による東京大空襲で家族とともに青山墓地に避難。
江島 淳(えじま あつし、1927年〈昭和2年〉10月5日 … 江島 淳(えじま あつし、1927年〈昭和2年〉10月5日 - 1987年〈昭和62年〉5月25日)は、日本の政治家。参議院議員(当選2回)。日本国有鉄道に入り、建設局計画課長、広島鉄道管理局長を経て、1980年以来参議院議員に2回当選する。 山口県下関市出身。江島鐡雄の長男。旧制山口県立豊浦中学校(同級生に林義郎)、海軍兵学校(76期)、山口高等学校を経て、1951年に東京大学第一工学部土木工学科を卒業した。 卒業後は日本国有鉄道に入り、東京鉄道管理局施設部工事第一課長、外務省サンフランシスコ総領事館領事、国鉄建設局計画課長、広島鉄道管理局長などを歴任。 1980年6月、第12回参議院議員通常選挙山口県選挙区に自由民主党公認で藤本万次郎を連合後援会会長に迎える万全の布陣で出馬、日本社会党新人浜西鉄雄、日本共産党新人伊藤潔を破って初当選。
舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日… 舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。兵庫県神戸市出身。 1944年に兵庫県立第一神戸中学校(現:県立神戸高校)から、新居浜工業専門学校(現:愛媛大学工学部)に進学するも、1945年7月に同学校が行う軍事教練に反発し[要出典]退学処分になる。その1ヶ月後に終戦を終え、大阪外国語大学ロシア語学科(現:大阪大学外国語学部)。へ入り直す。当時の舛田は、大の軍人嫌いの少年だったという。 大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)ロシア語学科卒業。大学卒業後は教師になるつもりであったが、名作フランス映画の再上映を観て感動し映画に関心を持つ。映画監督を目指し、大学卒業後に上京。
風間 眞一(かざま しんいち、1927年(昭和2年)10月5… 風間 眞一(かざま しんいち、1927年(昭和2年)10月5日 - 2010年(平成22年)11月21日)は、日本の実業家、銀行家。金屋会長、克念社、鶴岡学園各理事長、荘内銀行相談役等を歴任した。 庄内地方においては本間家に次ぎ、鶴岡においては最大の地主であった風間家に生まれ、荘内銀行第三代頭取を務めた父である幸右衛門(嘉一郎)が急逝したことに伴い家督を継いだ。 東大法学部を卒業後荘銀に入行。以降、常務取締役総務部長等を歴任。1986年(昭和61年)には常勤役員を退任し、家業経営に専念した。 退任後には、風間グループ企業の経営指導に取り組んだほか、6年間にわたり鶴岡商工会議所会頭を務め鶴岡市や、庄内地方の振興と発展にも力を尽した。
大城 眞順(おおしろ しんじゅん、1927年10月5日 - … 大城 眞順(おおしろ しんじゅん、1927年10月5日 - 2016年2月18日)は、日本の政治家。沖縄返還前の琉球政府では立法院議員として活動し、復帰後には衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)を務めた。 1965年の琉球政府の第7回立法院議員総選挙で第26区より当選。 1968年の第8回立法院議員総選挙で再選。 1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙に沖縄県全県区に自由民主党から出馬し、初当選。四十日抗争では田中派として大平正芳に投票。 1980年の第36回衆議院議員総選挙で落選。 1980年の喜屋武眞榮の任期途中での沖縄県知事選出馬に伴う第12回参議院議員通常選挙の沖縄県選挙区補欠選挙で自由民主党から出馬し、初当選。
清水 汪(しみず ひろし、1926年(大正15年)10月5日… 清水 汪(しみず ひろし、1926年(大正15年)10月5日 - 2014年(平成26年)4月18日)は、日本の大蔵官僚。環境事務次官。 1944年(昭和19年)、静岡県立静岡中学校卒業。陸軍士官学校在学中に敗戦を迎え、戦後、旧制静岡高等学校を経て、東京大学法学部政治学科を卒業。大学在学中の1950年(昭和25年)10月、国家公務員6級職試験(行政職、法律職)に合格。 1951年(昭和26年)4月、大蔵省に入省。大臣官房文書課に配属。1953年(昭和28年)8月、日本橋税務署長。大蔵省大臣官房参事官、大蔵省銀行局銀行課長、大蔵省銀行局総務課長、内閣官房内閣審議室長兼内閣総理大臣官房審議室長等を経て、1980年(昭和55年)6月、 大蔵省関税局長。
松居 直(まつい ただし、1926年10月5日 - 2022… 松居 直(まつい ただし、1926年10月5日 - 2022年11月2日)は、日本の編集者、出版事業家、児童文学者。 京都府京都市生まれ。生家は近江商人の家系で、6人姉兄弟で長姉は1914年生まれ。幼時より上村松園や竹内栖鳳などの作品に接して育つ。 洋画家の須田国太郎は叔父で、若いころ彼のアトリエに入り浸っていたこともある。また国太郎の息子で東海旅客鉄道元社長の須田寬とは親戚にあたる。 同志社大学法学部政治学科を卒業する直前、24歳のとき、自宅に下宿していた佐藤身紀子と恋仲になったことがきっかけで、身紀子の父佐藤喜一の経営する福音館書店の編集者となった。のち身紀子は妻となる。 このとき実験的に作った「福音館小辞典文庫」シリーズが成功を収めたため、翌1952年2月、佐藤と共に正式に福音館書店を発足させた。
島袋 宗康(しまぶく そうこう、男性、1926年10月5日 … 島袋 宗康(しまぶく そうこう、男性、1926年10月5日 - 2022年12月9日)は、日本の政治家。沖縄社会大衆党名誉顧問。元参議院議員(2期)・沖縄社会大衆党委員長。姓は琉球語読み(沖縄の名字)で、日本語読みは「しまぶくろ」とも。 1969年、那覇市議会議員に当選し4期務めた。 1984年、沖縄県議会議員に当選し2期務めた。 1989年から約15年間、沖縄社会大衆党委員長を務めた。 1992年の第16回参院選では第二院クラブ公認で革新共闘の統一候補として沖縄県選挙区に立候補し、PKO法反対などを訴え、341票の僅差で自民党の大城真順を破り初当選。1人区では唯一の野党が獲得した議席となった。
小田 欽造(おだ きんぞう、1925年10月5日 - )は、… 小田 欽造(おだ きんぞう、1925年10月5日 - )は、日本の経営者。三ツ星ベルト社長、会長を務めた。兵庫県出身。 1947年に大阪府立堺高等工業学校を卒業し、1950年2月に三ツ星調帯(のちの三ツ星ベルト)に入社した。1956年9月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1968年11月に専務を経て、1973年11月に社長に就任した。1995年6月に会長を経て、1999年6月に特別顧問に就任。 1991年4月に藍綬褒章を受章。
大塚 保治(おおつか やすじ、1924年10月5日 - 20… 大塚 保治(おおつか やすじ、1924年10月5日 - 2011年2月28日)は、日本の工学者。工学博士。元慶應義塾大学理工学部長。専門分野は高分子化学。 横浜市出身。慶應義塾大学工学部応用化学科卒業、工学博士。慶應義塾大学理工学部教授、理工学部長、財団法人慶應工学会顧問を歴任した。 1989年(平成元年)繊維学会会長。2002年(平成14年)勲三等旭日中綬章受章。 藤井光雄研究室出身。 慶應義塾大学理工学部教授の川口春馬、小池康博は大塚研究室の出身である。 2011年2月28日、胃がんのため東京都新宿区の病院で死去。86歳没。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
西岡 久寿弥(にしおか くすや、1924年(大正13年)10… 西岡 久寿弥(にしおか くすや、1924年(大正13年)10月5日 - 2010年(平成22年)2月26日)は、日本の免疫学者である。 三重県の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、国立がんセンター(現在の国立がん研究センター)に勤務しウイルス部長に就任する。1972年(昭和47年)には母校の東京大学教授となり、その後は東京都臨床医学総合研究所副所長を務めた。 同大学勤務中は免疫の重要な役割を果たす補体の研究に携わった事で一躍名を馳せる。また日本赤十字社中央血液センター副所長や世界保健機関ウイルス肝炎研究センターの所長等多くの医療機関の所長を務めた。2010年2月26日に膀胱癌のため死去。
山田 芳治(やまだ よしはる、1924年10月5日 - 19… 山田 芳治(やまだ よしはる、1924年10月5日 - 1989年12月31日)は、日本の政治家(衆議院議員3期)。 旧制静岡高等学校から東京大学法学部を卒業。自治省に入庁し、京都府に出向して企画文書課長・人事課長・地方課長を歴任。自治省に戻り自治大臣秘書官・徳島県企画開発部長を歴任後、京都府知事だった蜷川虎三の誘いを受け総務部長から副知事(1967年)に就任した。 当時は蜷川の後継者と目されていたが、1972年の総選挙で京都2区選出だった柳田秀一の不出馬に伴い日本社会党公認から出馬、蜷川後継の立場を生かす格好でトップ当選を果たした。その後、1976年の総選挙でも再選を果たすが、蜷川が引退した1978年に社会党・公明党・民社党・社民連に推される形で京都府知事選に立候補。
姓億 政明(せいおく まさあき、1924年(大正13年)10… 姓億 政明(せいおく まさあき、1924年(大正13年)10月5日 - 2008年(平成20年)12月10日)は、阿波おどりの踊り子として有名であった人物。 阿波おどりの有名連である「のんき連」に入る。写楽踊り創始者。同じく有名連「葵連」の創設者小野正巳と「娯座留連」の創設者四宮生重郎とともに、阿波おどりの名手として「三羽ガラス」と呼ばれた。 徳島県徳島市出身。「新のんき連」初代連長。「阿波写楽連」会長。「合併症になら連」顧問。 徳島市で生まれる。1968年(昭和43年)10月1日に「新のんき連」を結成。初代連長に就任。 1970年(昭和45年)頃、徳島市電報電話局に勤務していた。 2006年(平成18年)に「新のんき連」連長を退任。
矢野 徹(やの てつ、1923年〈大正12年〉10月5日 -… 矢野 徹(やの てつ、1923年〈大正12年〉10月5日 - 2004年〈平成16年〉10月13日)は、日本のSF作家、翻訳家。坂田 治名義による作品もある。 愛媛県松山市生まれ。兵庫県立第二神戸中学校を経て、中央大学法学部卒。第二次世界大戦中は学徒出陣で陸軍第11師団騎兵第11連隊に所属。階級は軍曹。 日本に本格的なSF出版が芽生える前の、海外SFのファン1号といわれ、SFに興味があった晩年の江戸川乱歩に面識を得る。そのまま、SF翻訳家、SF作家となり、幅広く活躍した。 冒険小説『カムイの剣』は角川書店によりアニメ映画化された。また、代表作『折紙宇宙船の伝説』は日本国外でも出版され、高い評価を受けた。
田中 美智子(たなか みちこ、1922年10月5日 - 20… 田中 美智子(たなか みちこ、1922年10月5日 - 2019年2月11日)は、日本の政治家、家政学研究者。元衆議院議員(5期)。夫は経済学者の田中礼蔵。 広島県出身。父親は師範学校の校長だった。日本女子大学家政学部社会福祉科卒業。27歳のとき結核で3年間療養、右肺を切除した。日本福祉大学助教授、名古屋家庭裁判所調停委員長などを歴任。 1972年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧愛知1区から、日本共産党員ではあったものの、無所属(日本共産党・革新共同推薦)で立候補し初当選した。この年の総選挙で現職の丹羽久章(旧愛知1区)と辻寛一(旧愛知6区)は落選。自民党は名古屋市内の議席をすべて失った。 在職中、アスベスト問題や高額療養費制度の是正などに取り組んだ。
霜田 光一(しもだ こういち、1920年〈大正9年〉10月5… 霜田 光一(しもだ こういち、1920年〈大正9年〉10月5日 - 2023年〈令和5年〉5月29日)は、日本の物理学者。理学博士。東京大学名誉教授。理化学研究所名誉研究員。日本学士院会員(第2部第5分科)。位階は正四位。文化功労者。勲二等瑞宝章受章者。 埼玉県北足立郡浦和町(現・さいたま市)出身。明星学園小学部、明星学園中学部、旧制武蔵高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学理学部物理学科卒業。 東京大学理学部教授、理化学研究所主任研究員、慶應義塾大学理工学部教授、レーザー学会会長、日本物理教育学会会長を歴任。専門はレーザー分光(laser spectroscopy)、量子エレクトロニクス、物理教育。
藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 19… 藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 1993年12月25日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手(投手)・監督。
川崎 七三郎(かわさき しちさぶろう、1920年10月5日 … 川崎 七三郎(かわさき しちさぶろう、1920年10月5日 - 1995年11月29日)は、日本の経営者。日本火災海上保険社長、会長を務めた。東京都出身。 1942年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1946年に日本火災海上保険に入社。。 1969年6月に取締役に就任し、1974年6月に常務、1975年6月に専務を経て、1976年7月には副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1984年7月に会長に就任し、1989年6月には取締役相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章。。 1995年11月29日呼吸不全のために死去。75歳没。
秋田 稔(あきた みのる、1920年10月5日 - 2017… 秋田 稔(あきた みのる、1920年10月5日 - 2017年4月28日)は、日本の神学者。恵泉女学園名誉学園長。 現中国東北部(満洲)生まれ。大連第一中学校、第一高等学校卒、東京帝国大学文学部倫理学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科倫理学専攻(旧制)修了、ハーバード大学ハーバード燕京研究所客員研究員、国際基督教大学助教授、準教授、教授、1973年北星学園大学学長、恵泉女学園長、1995年退任、名誉学園長、山梨英和学院長。
鳴海 要(なるみ かなめ、1920年10月5日 - 2004… 鳴海 要(なるみ かなめ、1920年10月5日 - 2004年8月28日)は、日本の陶芸家。りんご釉の開発者。 青森県中津軽郡岩木町(現 弘前市)出身。1951年県工業試験場窯業部研究員、1954年加藤土師萌に師事。1956年東京藝術大学美術学部副手。1961年現代日本陶芸特選。1964年に帰郷し、賀田で築窯する。 1977年岩木町褒賞、1996年青森県文化賞、1999年青森県褒賞、2003年青森りんご勲章をそれぞれ受賞した。2003年、鳴海要記念陶房館を開設し、同年地域文化功労者文部大臣表彰を受けた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)… 宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)10月5日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。太平洋戦争における撃墜王。
竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1… 竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1984年4月4日、本名:竹山 逸平)は、昭和20年代に活躍した日本の歌手である。代表曲は「泪の乾杯」、「異国の丘」など。 静岡県浜松市出身。浜松第一中学校を経て慶應義塾大学法学部に進学。大学在学中から歌好きが高じてコーラス部に所属。卒業後は日本火災海上(現:損害保険ジャパン)に就職するも、歌手になる夢が捨てきれず、1943年に日本ビクターから歌手デビューする。 ヒットに恵まれたのは戦後になってからで、1947年に平野愛子の「港が見える丘」のB面だった「泪の乾杯」をはじめ、藤原亮子とデュエットした「誰か夢なき」、1948年に作曲家・吉田正の出世作となり、復員兵の中村耕造とデュエットした「異国の丘」、1949年に再び藤原亮子とデュエットした「月よりの使者」、「熱き泪を」、「流れの船唄」が相次いでヒットとなった。
牛島 徳次(うしじま とくじ、1918年10月5日 - 19… 牛島 徳次(うしじま とくじ、1918年10月5日 - 1999年3月1日)は、日本の中国語学者。筑波大学名誉教授。 東京生まれ。1941年東京文理科大学漢文学科卒、栃木県立栃木中学校赴任、同年召集、少尉として豊橋連隊に入る。敗戦後復職、京都帝国大学で倉石武四郎に師事し研究。1946年東京高等師範学校に赴任、のち東京教育大学教授、1966年「古代漢語文法論」で東北大学文学博士。1977年筑波大学教授、1982年定年退官し、名誉教授となり、大東文化大学教授、文教大学教授を務め、1993年退職。
岡田みゆき(おかだ みゆき、1917年(大正6年)10月5日… 岡田みゆき(おかだ みゆき、1917年(大正6年)10月5日 - 2008年(平成20年)1月12日)は、日本の小説家。徳島県徳島市出身。徳島県女子師範学校専攻科卒業。 徳島市で生まれ、徳島県女子師範学校専攻科を卒業。卒業後は小・中学校教諭を務める傍ら、同人誌『徳島作家』に参加し創作を続ける。1960年(昭和35年)に「谷間の神」が第3回婦人公論新人賞佳作に選ばれる。1961年(昭和36年)、「石ころ」が芥川龍之介賞候補に選ばれる。徳島県作家協会理事を歴任。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
吉野 裕子(よしの ひろこ、1916年10月5日 - 200… 吉野 裕子(よしの ひろこ、1916年10月5日 - 2008年4月18日)は、日本の民俗学者。 東京都に赤池濃の三女として生まれる。1934年女子学習院本科を卒業し、1936年に同院高等科を卒業。1942年『風のさそひ』を上梓。専業主婦となるが、日本舞踊を習っていたことから民俗学に関心をもち、1954年津田塾大学卒業、1970年著書『扇』を刊行、1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭」により東京教育大学文学博士の学位を授与される。在野の学者として著書多数。全集全12巻がある。 2008年4月18日、心不全のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
南 美江(みなみ よしえ、1915年〈大正4年〉10月5日 … 南 美江(みなみ よしえ、1915年〈大正4年〉10月5日 - 2010年〈平成22年〉8月6日)は、日本の女優。演劇集団 円所属。本名は南波 房江(なんば ふさえ)。 広島県広島市出身。神奈川県横浜市で育ち、横浜第一高等女学校(後の神奈川県立横浜平沼高等学校)を卒業後、宝塚音楽歌劇学校(後の宝塚音楽学校)に入る。 1933年、宝塚少女歌劇団(後の宝塚歌劇団)に入団し、『トウランドット姫』で初舞台を踏む。入団時の成績は76人中2位。23期生。 美空暁子の名で男役として活躍。愛称は「ナンちゃん」。 1941年、「戦時色が濃くなり、夢がなくなった」として退団。 かかり付け医が長岡輝子の知人だったことから、1942年に文学座研究生となり、南美江の名で、1944年に初舞台を踏んで以降、文学座で活動。
三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5… 三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5日 - 没年不詳)は、実業家である。第二次世界大戦中に従軍し、大日本帝国陸軍主計中尉となり、戦後はクラレ東京支社長、クラレ不動産取締役を務めた。岡山県高梁市出身。 1915年(大正4年)、現在の岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生れる。その後、1928年(昭和3年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1933年(昭和8年)に同校を卒業し、翌年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1937年(昭和12年)3月に同校を卒業し、同年、東京帝国大学経済学部へ進学する。1940年(昭和15年)3月、同大学の経済学部経済学科を卒業する。
牛丸 義留(うしまる よしと、1915年10月5日 - 没年… 牛丸 義留(うしまる よしと、1915年10月5日 - 没年不明)は、日本の厚生官僚。厚生事務次官を歴任。 佐賀県多久市出身。旧制小城中、旧制佐賀高校文科甲類を経て1939年東京帝国大学法学部政治学科卒。 内務省に入り、1948年厚生省に移る。薬事局長、社会局長を経て、1965年厚生事務次官に就任。退官後、1968年の参院選で佐賀県から無所属で出馬したが、落選した。その後、年金福祉事業団理事長を経て、1979年の佐賀県知事選に出馬したが落選した。その間、済生会中央病院の事務局長等顕職あったが2000年代から地元佐賀にて隠遁。その後体調悪化と共に子供の住む神奈川県真鶴町に転居。その後死去。 靖国神社へのA級戦犯の合祀に関し、厚生省援護局が1966年にA級戦犯の名簿を靖国神社に送ったことについて、当時厚生事務次官だった牛丸は「知らなかった」と証言している。
高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 19… 高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 1996年1月12日)は、日本の哲学者、評論家。 大阪府出身。1940年(昭和15年)早稲田大学文学部哲学科卒業、1941年(昭和16年)学徒出陣で入営。満州、北支などを転戦し、陸軍大尉。復員後、大阪商業大学助教授、1955年(昭和30年)東京医科大学教授。1986年(昭和61年)定年、名誉教授。若者向けの啓蒙書、顔診断の著作を多く執筆した。
今井 善衛(いまい ぜんえい、1913年(大正2年)10月5… 今井 善衛(いまい ぜんえい、1913年(大正2年)10月5日 - 1996年(平成8年)4月19日)は、日本の官僚。元通商産業事務次官。 1931年、東京府立第一中学校卒業、第一高等学校を経て、1937年、東京帝国大学法学部政治学科卒業、商工省入省。入省同期に、佐橋滋(通産事務次官)、松村敬一(経企事務次官、通商局長、繊維局長)、樋詰誠明(大丸副社長、中小企業庁長官)、川瀨健治(東京通産局長)など。佐橋、今井、樋詰で「昭和12年入省組の3羽烏」と呼ばれていた。 外務省出向(在米国大使館)、通商局通商政策課長、大臣官房総務課長、中小企業庁振興部長などを経て、1958年8月5日、繊維局長に就任。1959年2月、日米綿製品交渉のため、今井・牛場信彦外務省経済局長・ヘンリー・カーンズ米商務次官補らの三者間で意見交渉を持つ。
飯田 道雄(いいだ みちお、1913年10月5日 - 199… 飯田 道雄(いいだ みちお、1913年10月5日 - 1997年9月2日)は、日本の実業家。 神奈川県出身。1931年に京浜電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社し、1935年に日本大学専門部商科を卒業した。自動車部長、取締役、事業本部長、常務、専務を経て、1975年5月に副社長に就任し、1981年6月に社長に昇格し、1987年6月に会長に就任した。 1975年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月から勲二等瑞宝章を受章した。 1997年9月2日、心不全のために横浜市の病院で死去。83歳没
井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日… 井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日 - 2004年(平成16年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 1912年(大正元年)10月、岐阜県不破郡関原村にて野砲兵第18聯隊附岩田富士太郎砲兵少佐(のち砲兵大佐、陸士9期)の四男として生れる。岐阜県大垣中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科に合格する。1933年(昭和8年)7月には、陸軍士官学校本科(45期)を卒業。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて6番/335名という優秀なものだった。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1聯隊附となる。同聯隊には、終戦時に宮城事件の首謀者となる畑中健二(46期)も所属していた。
木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 19… 木本 正次(きもと しょうじ、1912年10月5日 - 1995年1月26日)は、日本の小説家。毎日新聞元編集委員。 1912年(大正元年)10月5日、徳島県海部郡牟岐町出身。 神宮皇學館(現皇學館大学)卒業後、毎日新聞に入社。 毎日新聞時代は新聞記者として数々の出来事の現場取材を経験。 毎日新聞中部本社報道部長、毎日新聞西部本社ラジオ報道部長、毎日新聞大阪本社整理部顧問を務め、毎日新聞東京本社及び大阪本社では出版局参与を務めた。 毎日新聞記者を務める傍ら、小説家としての活動を並行して進め、1960年(昭和35年)に『刀塚』が直木賞候補となった。 木本の代表作である『黒部の太陽』は、毎日新聞東京本社編集委員在任中の1964年(昭和39年)に、毎日新聞連載小説として発表した作品である。
徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明… 徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明治44年〉10月5日 - 1995年〈平成7年〉7月19日)は、日本の俳優、実業家。慶應義塾大学中退。 赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんの店に、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎がよく訪れていたのがきっかけで、実弟である後の七世尾上梅幸が養子となる。 慶應義塾大学中退後、1932年に松竹に入社。当初は文芸係兼舞台監事として勤務していたが、松竹社長の大谷竹次郎の推薦で俳優に転向。松竹蒲田撮影所に転籍する。翌年、『大学の若旦那』でデビュー。当初の芸名は大綱豪であったが、名前が強すぎるとのことで、徳大寺伸に変更する。芸名の由来は、徳大寺の大は当時の松竹社長であった大谷社長の大の字をとり、伸は長谷川伸の伸の字をとったとのことである。
安田 潤(やすだ じゅん、本名:安田凖之助 、1911年(… 安田 潤(やすだ じゅん、本名:安田凖之助 、1911年(明治44年)10月5日 - 1989年(平成元年)1月12日)は、日本の口笛奏者。初代安田善次郎が総帥の旧安田財閥一門の出自ながら数奇な運命を辿った末、40歳半ばで趣味の口笛の音楽化を志す。以後、「口笛は詞(言葉)がない歌」を信条にして独学で研鑽を重ね、日本初の口笛ソリストとして活躍した。 口笛は、通常息を吐きながら音を出すが、安田は息を吸い込みながら高音を出す奏法も行ない、その倍音を響かせた音色は聴衆を魅了した。キングレコードで制作・発売されたLPレコード3作のうち2作は国立国会図書館に収蔵されている。なお、2025年(令和7年)2月、LPレコード3作の代表曲がキングレコード㈱の音楽配信で再販復活した(詳細は後掲ディスコグラフィ欄に記載)。
伊藤 清敏(いとう きよとし、1911年10月5日 - 20… 伊藤 清敏(いとう きよとし、1911年10月5日 - 2008年8月10日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長を務めた。 兵庫県出身。1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に住友海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)に入社。1965年6月に取締役に就任し、1967年6月に常務、1970年6月に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1974年1月には社長に昇格。1979年7月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2008年8月10日に胆管癌のために死去。96歳没。
土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987… 土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987年3月22日)は、日本のジャーナリスト、経済評論家。
平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 197… 平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 1971年12月30日)は、日本の実業家。元リッカーミシン社長。 現在の京都府長岡京市出身。 高等小学校卒業後、故郷を離れて日本紡績(後のユニチカ)に就職し、関西大学商学部夜間部を卒業。 1929年、8ヶ月間で祖父母、母を続けざまに喪った。あまりに短期間過ぎて平木家は墓地に埋葬する場所が無くて困ったと伝わる。 1934年に京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設した。当時日中戦争の軍需景気でインフレが発生し、税法も新しくなったため税金の取り立てが厳しく、計理士の需要は非常に高かった。おかげで29歳の頃に平木はすでに結婚していたが、一家が一生生活に困らないほどの財産を築き上げた。
本間 重三(ほんま じゅうぞう、1909年(明治42年)10… 本間 重三(ほんま じゅうぞう、1909年(明治42年)10月5日 - 1964年(昭和39年)11月4日)は、昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 酒田本間氏の一族、本間鐐吉の二男として生まれ、兄鉄之助の跡を継ぐ。山形県立酒田中学校を経て東京商科大学を卒業し、1933年(昭和8年)より酒田市役所にて勤務する。庶務課長、考査役、総務課長と歴任したのち、1946年(昭和21年)青塚恒治前市長が公職追放となると市長代行者に選任された。翌年の1947年(昭和22年)4月には公選初代酒田市長に就任。3期12年に渡り務め、1959年(昭和34年)に退任した。 市長在任中は、戦後復旧、酒田病院設立などに尽瘁した。
中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5… 中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5日 - 1991年(平成3年)8月9日)は、広島県広島市出身の実業家。中国電力副社長、中国電気工事(中電工)社長、広島商工会議所会頭などを務めた。
黒羽根 忠雄(くろばね ただお、1909年〈明治42年〉10… 黒羽根 忠雄(くろばね ただお、1909年〈明治42年〉10月5日 - 1996年〈平成8年〉6月17日)は、日本の医学者、内科医。医学博士(東京慈恵会医科大学)。元・黒羽根内科医院院長。山形県鶴岡市出身。 貧しい人からは診療料金を取らない事で知られ、通称は「赤ひげ先生」であった。 東京医学専門学校(現・東京医科大学)を卒業後、東京慈恵会医科大学で大脳生理や条件反射学総説大脳感応現象の研究をした。
佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 … 佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 - 1955年3月17日)は、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身で浅香山部屋、井筒部屋に所属した力士。本名は佐々木 林蔵。182cm、98kg。最高位は西前頭12枚目。 1933年1月初土俵。軍隊を終えた後だったため、23歳と遅い入門だった。入門した浅香山部屋が同年7月師匠(元横綱三代目西ノ海)の急逝により閉鎖されたため、井筒部屋に移籍した。左四つの吊り寄りが得意であったが、けたぐりの飛び道具もしばしば見せた。熱心な稽古の甲斐があって1939年1月十両昇進、1940年5月新入幕を果たし、翌1941年1月には最高位となる西前頭12枚目に昇進し、横綱男女ノ川と大関五ッ島を倒す殊勲を演じたものの4勝11敗と大きく負け越した。