三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治… 三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治41年)10月5日 - 1963年(昭和38年)11月18日)は大正から昭和期の歌舞伎役者。本名は喜熨斗 政則(きのし まさのり)。屋号は澤瀉屋。定紋は三升の中に段の字、替紋は八重澤瀉。東京市浅草区生まれ。 猿之助一座で幹部として活躍したが病に倒れ、長男が三代目市川猿之助を襲名するのを見届けると、父の初代市川猿翁の後を追うようにして死去した。 趣味は音楽。住所は東京市京橋区(現・東京都中央区)明石町。 夫人は女優の高杉早苗で、その間に2男1女。長男が二代目市川猿翁、次男が四代目市川段四郎。長女は市川靖子、その元夫は俳優の川合伸旺。
清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 197… 清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 1975年〈昭和50年〉10月5日)は、日本の俳優。旧字体: 淸水將夫。 明治大学中退後、滝沢修や宇野重吉らと共に劇団民藝を結成し、死去するまで劇団の代表的俳優として活躍した。また、映画俳優として戦前期から松竹キネマ・新興キネマの作品に出演し、戦後も舞台活動の傍らバイプレーヤーとして数多くの作品に出演した。黒澤明監督作品の常連でもあり、出演本数は300本以上にのぼる。 妻は女優の高野由美。 1908年(明治41年)10月5日、東京府東京市牛込区に生まれる。明治中学在学中から、キリスト教青年会の演劇サークルに入り、新劇に興味を抱く。1926年(大正15年)、明治大学文科に入学後、新劇俳優を目指す。
ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10… ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は、徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(みね こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした。また、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - … 埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - 1979年12月31日)は、日本の小説家。山梨県出身。 早稲田大学露文科中退。戦前三度の芥川賞候補に選ばれるが、いずれも受賞を逃す。 1907年(明治40年)10月5日、山梨県北巨摩群白州町に生まれる。同町の出身者には山口素堂がいる。生家は宿場本陣の家柄であるが、1912年(大正元年)春、一家そろって上野車坂町に移る。また、大正期に下級官吏であった埴原の父は49歳でこの世を去っている(『文芸復興』誌上に「沈香も焚かず」の題で小説化している)。 早稲田大学露文科を中退後、銀座松屋に勤めながら執筆するが、左翼的との理由で解雇。1932年(昭和7年)、長編『蒼白きインテリ』を刊行(後、発禁)。
薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月… 薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉8月3日)は、日本の声楽家(テノール)、オペラ歌手、音楽教育者、音楽評論家、音楽学者、合唱指揮者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県出身。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした。 戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている。
金 鍾信(キム・ジョンシン、朝鮮語: 김종신、1904年10… 金 鍾信(キム・ジョンシン、朝鮮語: 김종신、1904年10月5日 - 1977年11月12日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。馬山市議会議員、馬山市長、第3代韓国国会議員を歴任した。仏教徒。 慶尚南道馬山府(現・昌原市)出身。中央大学政経学部2年修了。日本統治時代は新幹会の幹部を務めたが、青年運動と治安維持法違反により西大門刑務所で3年間服役した。その後は馬山昌信中学教諭を経て、醸造業を営んだ。解放後は馬山東洋酒精(または東洋酒造)社長、東洋酒類社長、馬山商工会議所会頭、大東工業社長、造船商事社長、馬山野協会長、馬山警察後援会長、司法保護協会会長、馬山府会議員・馬山市議会議員、第8代馬山市長(1952年5月5日 - 1953年5月15日)、国民会馬山支部会長、第3代国会予算決算委員長(1957年9月6日~1958年5月30日)、自由党馬山市党委員長・院内副総務、馬山日報創業者、第一生命保険社長、馬山大学学長、馬山慶南每日新聞社長、馬山文化放送代表理事、民主共和党慶尚南道第1地区党委員長・中央常任委員を務めた。
北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月… 北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年(明治36年)10月5日 - 1982年(昭和57年)3月18日)は日本の作家、児童文学者、詩人。本名、北畠美代。 10人きょうだいの6番目の次女として青森市に生まれる。父は青森大林区署の役人。 1920年、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす。1922年、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。 恢復後、1924年から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年に退職。
藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)1… 藤井 松太郎(ふじい まつたろう、1903年(明治36年)10月5日 - 1988年(昭和63年)2月4日)は、日本の鉄道技術者。第7代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1973年 - 1976年)。太っ腹の親分肌といわれ、トンネルや橋梁の技術に精通していたことから“トンネル松”と呼ばれていた。 北海道雨竜郡一已(いちゃん)村(現在の深川市)の農家藤井豊吉・チエの長男として生まれる。農家の次男であった父豊吉と母チエは1900年5月に香川県大川郡福栄村から、当時開拓が始まったばかりの一已村に親戚を頼って娘2人を連れて移住している。移住してしばらくは極貧の生活であったが、1914年から始まった第一次世界大戦による豆需要により生活が安定。
浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 198… 浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 1989年10月26日)は日本の女優。本名は木村 くめ。
浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5… 浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師、陸上競技指導者、スポーツ行政官。昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士。 1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。 大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した。
桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月… 桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月5日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の英文学者。法政大学教授、実践女子大学第6代学長。コールリッジ研究の第一人者。 宮城県柴田郡村田町生まれ。1929年東北帝国大学法文学部卒。1930年高等学校英語科教員免許取得。 1930年、宮城県立女子専門学校教授、1941年同校依願退職。同年横浜専門学校教授、1945年同校依願退職。 1945年、法政大学専門部教授、1946年同大文学部講師、1959年同教授、1960年「コウルリッヂ研究」で文学博士。 1969年実践女子大学教授。1972年、勲三等瑞宝章。1974年から78年まで学長。
中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1… 中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1969年8月19日)は、日本の小説家。本名は中山 議秀(なかやま よしひで)。横光利一に兄事し、無名時代の長い苦節を経て『厚物咲』『碑』で文壇に登場。以後作家として幅広く活躍した。後年は、戦国武将物や剣豪物を多く書いた。日本芸術院会員。 福島県西白河郡大屋村(後の大信村、現在の白河市)生まれ。 1918年に旧制福島県立安積中学校(現在の福島県立安積高等学校)を卒業、1923年に早稲田大学文学部英文科卒業。 早稲田大学在学中に、横光利一、富ノ澤麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊。小説『穴』を発表。また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。
平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日… 平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日 - 1989年(平成元年)6月17日)は、日本の医学者。新潟県出身。専門は脳神経解剖学。京都大学教授、京都大学第16代総長などを務めた。 1900年(明治33年)新潟県西蒲原郡七穂村(のち味方村、現新潟市南区)に生まれる。 幼時より医師になることを志し、地元の小学校を卒業した後父の居た京都に独りで赴き、1912年(大正元年)に京都市立平安中学に入学、1915年(大正4年)に府立第二中学へ転校し1917年(大正6年)に卒業。同年7月、金沢の第四高等学校(金沢大学の前身)に入学、1920年(大正9年)高校を卒業し、京都帝国大学医学部に入学。
国会図書館(学術機関ポジトリデータベース) 杉平 顗智(すぎ… 国会図書館(学術機関ポジトリデータベース) 杉平 顗智(すぎひら しずとし、1899年(明治32年)10月5日 - 1984年(昭和59年)5月1日) 1899年(明治32年)10月5日 山梨県東山梨郡等々力村1582番地にて出生、父は了英、母はます。1984年(昭和59年)5月1日 山梨県東八代郡一宮町の病院にて85歳で死去。 京都大谷大学にて英文学など教える(英文学) 名古屋同朋大学(英文学) 1899年(明治32年)、山梨県勝沼町真宗大谷派仙光寺にて出生。 大正10年(真宗大谷大学専修科1年)の時 初秋 鈴木大拙博士に師事 1923年(大正12年)、大谷大学卒業。 1927年(昭和2年)、東京大学文学部英文科卒業。
政岡 憲三(まさおか けんぞう、1898年〈明治31年〉10… 政岡 憲三(まさおか けんぞう、1898年〈明治31年〉10月5日 - 1988年〈昭和63年〉11月23日)は、日本のアニメーション作家、アニメ監督、演出家。大阪府出身。日本のアニメ黎明期において多大な貢献をしたことから「日本のアニメーションの父」「日本動画の父」と評される。 1898年(明治31年)、大阪府に生まれる。 1917年(大正6年)、京都市立美術工芸学校卒業。黒田清輝の元で学ぶ。 1925年(大正14年)、マキノプロダクションに入社。 1926年(大正15年)、京都市下加茂に吞平プロダクション(個人映画プロダクション)を設立。『貝の宮殿』を自主制作。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に入社。
原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1… 原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1992年4月7日)は、日本の鉱物学者。理学博士(東京帝国大学)。 神奈川県横浜市生まれ。1924年、東京帝国大学理学部卒業。1925年、熊本高等工業学校教授・第五高等学校教授。1929年、欧州の大学留学。1931年に北海道帝国大学理学部の地質学鉱物学教室創設とともに同助教授となり、1932年、同理学部教授。1939年 東京帝国大学 理学博士 「本邦産硼素鉱物の研究」。1947年北海道大学理学部教授。 1958年、理学部長。1962年に定年退官。北海道大学名誉教授。同年、新設の旭川工業高等専門学校校長となり、1970年に退職。1972年、旭川工業高等専門学校名誉教授。
尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5… 尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5日 - 1987年6月22日)は、大韓民国の医師、教育者、医学者、大学教授。大韓民国学術院会長、ソウル大学校総長などを歴任した韓国医学界の泰斗。本貫は海平尹氏(朝鮮語版)、号は東湖(동호、ドンホ、とうこ)。日本姓、日本名は伊東 日善(いとう にちぜん)。 1896年10月5日、日本の東京府東京市にて、教育者の尹致旿(ko:윤치오)と李淑卿(이숙경、李敬淑とも)夫妻の長男として生まれる。 父の致旿は1884年の甲申政変で日本に避難した後一旦帰国、その後日本留学生監督に任命されるなど日本との往来が多い人物だった。1906年に大韓帝国に帰国し、父の職場近くにあった漢城府鋳洞(日本名日出町)の京城日出小学校に通った。
山本 義章(やまもと よしあき、1896年10月5日 - 1… 山本 義章(やまもと よしあき、1896年10月5日 - 1961年9月26日)は、日本の内務官僚、弁護士。第32代京都府知事(最後の官選知事)、陸軍司政長官。 鳥取県鳥取市出身。山本吉太郎の長男。東京帝国大学法科卒業。 大阪市警察署長、北海道庁・兵庫県・警視庁各特高課長、大阪府工場課長、長野県書記官・警察部長、千葉県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、熊本県経済部長、秋田県書記官・総務部長、ジャカルタ州長官、京都府知事を歴任。その後、公職追放となる。 1946年弁護士を開業。追放解除後の1953年の第3回参議院議員通常選挙において出身地の鳥取地方区から緑風会公認で立候補したが落選した。
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月… 金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月5日または1895年 - 1965年4月17日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲、2代韓国国会議員。 李氏朝鮮黄海道延白郡(現・朝鮮民主主義人民共和国黄海南道)または黄海北道生まれ。平壌大城中学校卒業、駒澤大学専門部政治科修了。駒澤大学在学中に三・一運動に参加したため、後は投獄された。1927年、満州で大韓独立党に加入し、義成団副団長を務めた後、朝鮮に潜入し地下活動を行ったが、九月山事件で再び逮捕され、2年間服役した。解放後は延白面長、延白郡守、延白水利組合長を務めた。1948年の初代総選挙と1950年の第2代総選挙では延白郡甲選挙区から出馬し当選したほか、憲法起草委員、反民族行為特別調査委員会委員長を歴任した。
鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 197… 鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 1972年11月30日)は、元・国際労働機関(ILO)職員。国際基督教大学名誉教授。 茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市)で元水戸藩士の次男として生まれた。芝中学校在学中に安部磯雄のユニテリアン教会や社会主義協会に足を運び、その社会改良思想に影響を受けた。1911年芝中学校を卒業。フレンド平和奨学会(Friend Peace Scholarships)の奨学生としてアメリカ合衆国に留学。ハワイの中央太平洋学院(ハイスクール)、ホイットマンカレッジを経て、1915年ハバフォード大学に入学。社会学と社会事業(特に社会問題と労働問題)を学ぶ。1917年ハバフォード大学を卒業。
北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)… 北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)10月5日 – 1957年(昭和32年)11月24日)は、南洋庁長官、拓務次官。 佐賀県出身。佐賀県立佐賀中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して、大蔵省銀行局に勤務し、のち福島税務署長に就任した。1919年(大正8年)、拓殖局書記官に任ぜられ、拓務省が設置されると拓殖省書記官に任ぜられた。文書課長、管理局第一課長などを経て、1932年(昭和7年)より殖産局長を務めた。 1936年(昭和11年)に南洋庁長官に任ぜられ、1940年(昭和15年)4月までその職にあった。同年10月に拓務次官に就任し、退官後は陸軍軍政顧問を務めた。
岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1… 岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1977年1月11日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 岡山県出身。第六高等学校 (旧制)卒。1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行に入社。1943年2月に大和証券取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年11月には社長に就任。1957年11月から1959年12月までに会長を務めた。 1966年9月に黄綬褒章を受章。1977年1月11日、心不全のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26… 平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26年)10月5日 - 1960年(昭和35年)6月14日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎港町本山町(現秋田市土崎港中央)で、平沢喜一郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学農科大学実科を卒業した。 木材業を営み、出羽林業を設立して取締役に就任。土崎木材商業組合長、秋田県木材業統制組合理事長、同森林組合連合会副会長、同木材業林産組合長、秋田合同運送社長、三協木材社長、東北興業監事などを務めた。 政界では、土崎港町会議員、秋田市会議員、秋田県会議員、同参事会員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から秋田県民主党公認で出馬して初当選。
司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 … 司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。 丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。 1893年(明治26年)10月5日、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)にある安久美神戸神明社の家に生まれた。1906年(明治39年)9月に高浜尋常高等小学校を退学すると、13歳で書籍商の丸善株式会社に見習生として入社した。 1922年(大正11年)5月10日に結婚している。
渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 19… 渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 1984年2月15日)は、東京市出身の実業家・文化人。 渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。幼少時は邸宅の近くにあった日本橋川で泳いでいた。 大学時代の1916年から1917年ころに親戚筋の女性と結婚し、長男の和男(アコーディオン演奏者)・華子(小説家)ら2男2女を成すも離婚する。1917年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。日本興業銀行に勤務したが、1年半勤めて退職。欧米で住宅事情を学び、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。
井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5… 井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5日 - 1985年(昭和60年)1月5日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県北蒲原郡板山村(現新発田市)で、弁護士の井伊小平太の長男として生まれた。新発田中学校(現新潟県立新発田高等学校)、第二高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。神戸海上保険勤務を経て、1922年、弁護士を開業し、農民事件の弁護を数多く担当した。 1926年、労働農民党新潟県連合会執行委員に就任。1927年、労働農民党と日本労農党の共同推薦を受けて新潟県会議員に当選。さらに、新潟県参事会員、新発田町会議員、金銭債務調停委員、県地方事務所参与、借地借家調停委員、新発田中学校講師などを務めた。
中井 光次(なかい みつじ、1892年(明治25年)10月5… 中井 光次(なかい みつじ、1892年(明治25年)10月5日 - 1968年(昭和43年)4月9日)は、日本の政治家、内務官僚。大阪市長(第10・12代)。 静岡県出身。大阪府立市岡中学校6期、1917年に東京帝国大学卒業。内務省に勤務し、各府県の内務部長・警察部長を歴任。1936年4月1日から9月2日まで島根県知事(官選第32代)、同年9月3月から1945年9月7日まで大阪市助役を務める。 1945年9月8日から1946年12月13日まで第10代大阪市長を務める。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選(大阪府選出)、民主党、国民民主党に所属。1951年3月31日まで務めた。 その後第12代(公選2代目)大阪市長に当選(1951年4月25日 - 1963年3月23日)。
大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1… 大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1976年2月13日)は、日本の法学者(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)。旧名大濱 信陪。妻は評論家の大浜英子。
中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 19… 中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 1977年1月31日)は、真言宗の僧、インド哲学研究者。 1891年、愛媛県今治市生まれ。旧姓は白石。11歳で得度する。東京帝国大学文学部印度哲学科で学び、1921年に卒業。高楠順次郎に師事した。卒業後は九州帝国大学講師となり、1929年には高野山大学教授、1933年より中国天津日本図書館長、北京大学文学院教授。 戦後日本へ帰国し、1946年より高野山大学教授に復帰。同文学部長、1951年学長を務めた。1952年「ヤーヂユニヤワルキヤ法典の研究」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1958年、密教文化研究所長となる。1964年には再度学長を務める。
大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年… 大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年> 10月5日 - 1981年 <昭和56年> 2月27日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。位階は正五位。京都府京都市出身。 1909年に京都府立第一中学校を卒業し、同年に大橋商店に入社。1948年に蝶理社長に就任し、1958年5月には会長に就任。1959年9月から1960年5月までに再び社長を務めた。家政学園理事長も務めた。 1944年に紺綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年2月27日、老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
秋葉 隆(あきば たかし、1888年(明治21年)10月5日… 秋葉 隆(あきば たかし、1888年(明治21年)10月5日 - 1954年(昭和29年)10月16日)は、日本の文化人類学者。文学博士。 1888年、千葉県で生まれた。1914年に東京高等師範学校英語部を卒業し、東京外国語学校ドイツ語専修科へ進み、同校を1917年に卒業。東京帝国大学社会学科へ進んで1921年に卒業した。 1924年に京城帝国大学が開設されると同時に予科講師に任命され、同時に研究のため欧米に留学が命じられた。留学期間中、ロンドン大学、パリ大学に留学し、デュルケーム、ラドクリフ=ブラウン、マリノフスキーなどから文化人類学を学んだ。 1926年、帰国と同時に京城帝国大学法文学部助教授に採用された。
角替 利策(つのかえ りさく、1888年10月5日 - 19… 角替 利策(つのかえ りさく、1888年10月5日 - 1978年)は、日本の農学者(高分子化学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は農学博士(東京帝国大学・1931年)。旧制は青野。 東京帝国大学農科大学副手、東京帝国大学農科大学実科講師、神奈川県立農事試験所技師、絹業試験所技師、生糸検査所技師、京都帝国大学農学部講師、武庫川学院女子大学教授などを歴任した。 静岡県小笠郡城東村(現・掛川市)出身。青野文之丞の次男として生まれ、角替太郎市の養子となった。 1915年(大正4年)に東京帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)農芸化学科を卒業し、同大学副手、同実科講師、神奈川県立農事試験所技師、絹業試験所技師、生糸検査所技師などを歴任した。
土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5… 土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5日 - 1960年3月26日)は、高知県香美郡赤岡町(現在の香南市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は永森 役太郎(ながもり やくたろう、旧姓は岡本)。身長164cm、体重94kg。得意手は左四つ、寄り、掬い投げ、波離間投げ。最高位は前頭筆頭。 1907年(明治40年)1月場所に幕下付出で初土俵を踏むと、1908年(明治41年)5月場所に新十両、1910年(明治43年)1月場所に新入幕した。黒髪豊か、大銀杏が似合う好男子で、二字口(徳俵)いっぱいまで下がって仕切り、相手の懐に飛び込んで攻め立てる取り口だった。また技を多く持ち、奇手で相手を苦しめた。
大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5… 大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5日 - 1942年7月12日)は、現在の滋賀県草津市出身で八角部屋、雷部屋に所属した大相撲力士。本名は川合 文治郎。3代八角。最高位は西関脇。178センチメートル、103キログラム。 尋常小学校を卒業後、実家の飲食店を手伝っていたが、巡業でやってきた東京相撲の関係者の目にとまり勧誘される。入門をめぐっては先代大鳴門の八角と、元横綱初代西ノ海の井筒の間で争いが起こったが、結局八角に入門する。 1902年5月場所、「司天龍」の四股名で初土俵。1908年5月場所で十両に昇進すると、4勝1敗1分4休、5勝1敗2分1預1休と続けて2場所で入幕を果たす。
吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 19… 吉田 ふじを(よしだ ふじを、1887年10月5日 - 1987年5月1日)は、日本の洋画家。吉田博の妻であり、夫婦ともに洋画家である。 洋画家である吉田嘉三郎と、その妻の吉田るい(英語版)の三女。小学生の頃に上京し、11歳で小山正太郎の画塾不同舎に入門。当時はまだ義兄であった吉田博とともに1903年にアメリカへ渡り、ともに展覧会を開いたことでアメリカ各地で高評価を得た。1907年に文展に入選している。帰国後は、文展や太平洋画会、日本初の女性による洋画団体「朱葉会」などで活躍し、朱葉会では名誉会長を務めた。戦後には油彩画や木版画なども描き、花を題材とした作品などを生み出した。2002年、府中市美術館で「吉田ふじを展」が開催され、翌年には福岡市美術館でも同じ展覧会名の展覧会が開かれた。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月… 田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月5日 - 1960年(昭和35年)11月11日)は、日本の物理学者。学校法人名城大学創設者。福岡県山門郡柳河町(現・福岡県柳川市)出身。 柳河尋常小学校、柳河高等小学校、福岡県立中学伝習館(現・福岡県立伝習館高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科電気機械分科を卒業(明治42年)。卒業後逓信省(現総務省)に入り、電気事業者届出落成電気工作物の検査・監査に当たった。その当時の部下が後に東海大学を創立した松前重義である。明治45年(1912年)4月、明治専門学校(現九州工業大学)助教授となったが、大正4年(1915年)8月東北帝国大学理科大学物理学科(現東北大学理学部)に入学して勉学に励んだ。
徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19… 徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19年)10月5日 - 1976年(昭和51年)9月6日)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。 父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・公開した。
秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 -… 秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 - 1970年10月23日)は、日本の経営者。栃木県栃木市出身。 1905年に慶應義塾大学法学部政治科を卒業し、1910年に大日本製糖に入社。常務、専務、副社長を経て、1949年6月には日本専売公社総裁に就任し、1953年5月までに務めた。慶應義塾大学理事も務めた。 1964年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1970年10月23日心不全のために死去。86歳没。
村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 19… 村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。 法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。
折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1… 折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1966年12月23日)は、日本の造園家、都市計画家。官庁技師として活躍。また造園分野の教育者として後進の指導に当たった。日本における公園整備の第一人者として、世界的に知られる。 山形県新庄市出身。1881年(明治14年)新庄藩主戸沢子爵の東京麻布の邸内に、山形県士族折下済の長男として生まれた。麻布中学校、第一高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。卒業後、宮内省内苑寮園芸掛技手となって新宿御苑に奉職。福羽逸人の指導の下で御苑と代々木御料地の管理に関与。御苑にて、洋蘭の品種改良や菊、果樹疏莱、庭園芸などを研究した。
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉1… 甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉10月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月20日)は、日本の華族(伯爵)。甘露寺家第35代当主。東宮侍従、侍従、侍従次長、明治神宮宮司を歴任した。官位は従二位勲一等。 1880年(明治23年)、甘露寺義長の長男として生まれる。母は子爵勘解由小路資生の四女・立子(たつこ)。 学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。 1910年(明治43年)12月、東宮侍従に任じられ、大正天皇践祚の後も東宮侍従として裕仁親王(のちの昭和天皇)に仕えた。
馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5… 馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5日 – 1937年(昭和12年)12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、貴族院勅選議員。広田内閣で大蔵大臣、第一次近衛内閣で内務大臣をつとめた。蔵相時代に行った大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政は、官界や財界に大きな混乱を招く結果となった。
馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年〈明治12年〉10月5… 馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年〈明治12年〉10月5日 - 1937年〈昭和12年〉12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚。法制局長官、日本勧業銀行総裁、貴族院勅選議員、広田内閣大蔵大臣、第一次近衛内閣内務大臣を歴任した。積極財政派で、蔵相時代に大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政を行った馬場財政で知られる。 東京府芝区(現在の東京都港区)に、旧幕臣・山本時光の長男として生まれる。時光は一時期日雇人夫に身をやつしていたと伝えられ、生家は貧しかった。後に鉄道技師で、旧会津藩士の馬場兼の婿養子となり改姓する。麹町区富士見小学校高等科3年から1892年(明治25年)4月に東京府尋常中学校2年へ編入学、1896年(明治29年)3月に尋中を卒業し、第一高等学校文科政治科へ入学。
渡辺 釟吉(わたなべ はつきち、1879年〈明治12年〉10… 渡辺 釟吉(わたなべ はつきち、1879年〈明治12年〉10月5日 - 1967年〈昭和42年〉12月4日)は、日本の政治家、医師。愛知県挙母市の初代市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)。その他、挙母町長(2期)、愛知県会議員(2期)、挙母町会議員などを歴任した。 現在の愛知県豊田市常盤町2丁目に、医師で挙母町長を務めた渡辺良策の三男として生まれる。1897年(明治30年)、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)の予科を卒業。1901年(明治34年)、同校本科を卒業。1905年(明治38年)から自宅で父とともに医師として自宅で開業。 医師会においては、地方の医療体制の確立を念願し、辺地の医師派遣などに力を注いだ。
石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11… 石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11年)10月5日 - 1947年(昭和22年)11月8日)は、医師。専門は生理学、鍼灸治療。 1878年(明治11年)、代々医家を営む石川昌徹の五男として石川県射水郡小白石村(後に富山県小杉町を経て、現在の射水市)に生まれた。1888年(明治21年)、10歳の時に父を亡くす。富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部に進んだ。1903年(明治36年)、東京帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、1904年(明治37年)より京都帝国大学医科大学生理学教室の天谷千松の下で研究を続けた。1905年、京都帝国大学医学部助教授となった。
千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? -… 千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? - 1958年5月7日)は、サハリン出身の日本の臨済宗の僧侶、20世紀初期にアメリカに禅を広めた。義弟に彫刻家の工藤敬三(旧名:千崎敬蔵)がいる。
赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日… 赤松 桂(あかまつ かつら、1876年(明治9年)10月5日 - 1943年(昭和18年)8月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県北宇和郡高光村長、宇和島市長。 愛媛県宇和郡宇和島御殿町(現在の宇和島市)で士族・告森桑圃の四男として生まれ、北宇和郡高光村の旧庄屋・赤松新古の養嗣子となる。1900年(明治33年)東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業する。 1910年(明治43年)5月より郷里の高光村長を5期務めたのち、1930年(昭和5年)5月に清家吉次郎の補欠で県会議員となり、任期満了まで務めた。1936年(昭和11年)7月、宇和島市長に就任するが、任期途中の1938年(昭和13年)3月、病気を理由に辞任した。
荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9… 荒木 十畝(あらき じっぽ、1872年10月5日(明治5年9月3日) - 1944年(昭和19年)9月11日)は、日本画家。長崎県大村生まれ。本名・朝長悌二郎。