長尾 弘子(ながお ひろこ、1930年5月6日 - 2023… 長尾 弘子(ながお ひろこ、1930年5月6日 - 2023年10月5日)は、日本画家。徳島県徳島市出身。徳島市立高等女学校(現徳島市立高等学校)卒業。 1939年に和田青華のもとで日本画を学び、1946年には徳島市立高等女学校にて高岡何有に師事。その後、第1回徳島県展初出品で特選となって以降、特選を重ね、現在は特別出品となる。 1993年にそごう徳島店美術画廊にて個展を開く。2010年に徳島県郷土文化会館にて画業70年を記念した個展「日本画展-この道七十年のあしあと」を開く。 2001年に徳島新聞文化賞、徳島県文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰を受賞。
久保園 晃(くぼその あきら、1930年5月6日 - 201… 久保園 晃(くぼその あきら、1930年5月6日 - 2016年12月26日)は、日本の宇宙航空エンジニアであり、日本の宇宙開発の草分け的存在である。 1930年(昭和5年)5月に中国遼寧省瀋陽市に生まれる。戦後鹿児島県日置郡伊集院町(現・日置市)に引き上げ、旧制第七高等学校、鹿児島大学文理学部物理学科を卒業後、1953年(昭和28年)運輸省運輸技術研究所航空部に入所。航空機の風洞実験などを学ぶ。1955年(昭和30年)新三菱重工(現・三菱重工業)名古屋航空機製作所に入社。技術部の空力研究課、電子技術課、飛翔体基礎設計課などで、航空機に関する実験、設計などを行い、国産旅客機YS-11の開発にも携わった。
石阪 春生(いしさか はるお、1929年5月6日 - 201… 石阪 春生(いしさか はるお、1929年5月6日 - 2019年12月24日)は、日本の洋画家。小磯良平の弟子。新制作協会会員。 兵庫県神戸市兵庫区出身。1951年(昭和26年)関西学院大学経済学部卒業。詩人の竹中郁は叔父。 自らに内在する「永遠の女性像」を探求した「女のいる風景」シリーズで、神戸を代表する画家の一人として関西を中心に幅広く知られている。その作風は、白を基調とした瀟洒な色調の画面に、都会の憂愁を感じさせる中世ヨーロッパ風の人形のような女性たちを、油彩・版画・素描・コラージュといったさまざまな手法を用いて、繊細かつ幻想的な筆致で描くものであった。 神戸市湊西区(現・兵庫区)の製粉業を営む商家に生まれる。
浅田 寛厚(あさだ ひろあつ、1929年5月6日 - 201… 浅田 寛厚(あさだ ひろあつ、1929年5月6日 - 2012年1月30日)は、日本の英文学者、青山学院大学名誉教授。専門は現代米国演劇。 横浜市に生まれる。1947年福岡県中学修猷館を経て、 青山学院大学文学部英米文学科に進み、1954年同大学院修士課程修了。立正大学大学院博士課程修了。 金城学院大学、関東学院大学助教授、青山学院女子短期大学助教授を経て、1972年青山学院大学文学部英米文学科助教授となり、1974年同教授に就任。1975年から1976年までエディンバラ大学客員教授を務め、英米の演劇を研究した。 2000年4月より2005年4月まで青山学院大学英米文学科同窓会会長を務めた。
西嶋有厚(にしじま ありあつ、1929年5月6日- )は、日… 西嶋有厚(にしじま ありあつ、1929年5月6日- )は、日本の西洋史学者、福岡大学名誉教授。
今井 俊満(いまい としみつ、1928年5月6日 - 200… 今井 俊満(いまい としみつ、1928年5月6日 - 2002年3月3日)は、日本の画家。アンフォルメルの画家として、日本とパリを拠点に活動した。息子の今井アレクサンドル、今井龍満(りゅうま)も画家。 父俊雄と母綾野の次男。京都市に生まれ、幼い時に大阪市の船場安土町に転居。大阪市立船場尋常小学校を卒業すると、1941年に上京して旧制武蔵高等学校尋常科に入学した。武蔵高校在学中から絵を描き始め、荻太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎などに師事。1948年に武蔵高校を卒業した。 高校卒業後の1948年10月には第12回新制作派協会展で入賞。1950年には東京藝術大学美術学部油絵科で1年間派遣学生として学び、1952年にはフランスに私費留学し、ソルボンヌ大学文学部に学ぶ。
山本 弘一(やまもと ひろかず、1928年5月6日 - 19… 山本 弘一(やまもと ひろかず、1928年5月6日 - 1990年/1991年)は、日本の陸上競技(中距離走)選手である。 1952年ヘルシンキオリンピックで男子1600メートルリレー走に出場した。 戦時中、旧制甲南高等学校尋常科(現在の甲南中学校・高等学校)在籍中より中距離走選手として活動し、1948年、戦後第1回のインターハイ優勝に貢献した。1947年の秋季国体では兵庫県代表選手となり、800m走で個人優勝。1949年、旧制甲南高等学校理科卒業。 京都大学に進学後、第1回全国七大学対校陸上競技大会において、400m、800m、1500mの3種目で優勝。 京都大学在学中、1952年ヘルシンキオリンピックに参加。
島崎 久弥(しまざき きゅうや、1928年5月6日 - )は… 島崎 久弥(しまざき きゅうや、1928年5月6日 - )は、経済学者。 東京府(現世田谷区)出身。1953年東京大学法学部政治学科卒、東京銀行に入り、調査部審議役から東銀リサーチ・インターナショナル主任研究員。1984年関東学院大学経済学部教授。1991年「円の侵略史 円為替本位制度の形成過程」で九州大学博士(経済学)。1992年神奈川大学経済学部教授。京都大学、関東学院大学、中央大学、横浜国立大学、神奈川県立外語短期大学、横浜商科大学、明治学院大学の各非常勤講師兼務。1999年定年。 2. 『日本紳士録』 2002 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小川 東洲(おがわ とうしゅう、1928年5月6日 - 20… 小川 東洲(おがわ とうしゅう、1928年5月6日 - 2022年9月26日)は、北海道深川市出身の書家。本名、小川昭三。世界各国で書展を開いたほか、北海道を中心とした数々の賞を受賞している。 1928年、北海道深川市生まれ。北海道第一師範学校(現北海道教育大学札幌校)卒業。1962年に「第3回北海道書道展」にて大賞を受賞する。その後1965年にはアメリカ合衆国のサンフランシスコにおいて個展を開き、同年ポーランドの名誉市民となる。1978年に当時の文部省より、芸術選奨新人賞を獲得。1980年にイタリア・ヴェネツィアで行われた「今日の書展」、同じく中国・北京で行われた「現代日本の書道展」の2つの書展で招待出品として作品を展示した。
能澤 正雄(のざわ まさお、1927年5月6日 - 2019… 能澤 正雄(のざわ まさお、1927年5月6日 - 2019年7月15日)は、日本の原子力工学者。理学博士(1962年)。元日本原子力研究所理事。元高度情報科学技術研究機構顧問。日本工学アカデミー会員。 1927年生まれ。1945年、都島工業学校(現・大阪府立都島工業高等学校卒業。同年4月、阪大理学部に併設されていた大阪臨時教員養成所に入るが、6月に赤紙を受取り独立工兵隊に配属、和歌山県紀ノ川の川口付近に配置される。終戦を経て臨時教員養成所を卒業した後1951年3月、大阪大学理学部物理学科卒業。大学では菊池正士の研究室に所属した。1960年2月、大阪大学理学部助教授となる。武田栄一から移籍の要請をうけ、同年4月、日本原子力研究所入所。
渡辺 襄(わたなべ のぼる、1926年5月6日 - 2007… 渡辺 襄(わたなべ のぼる、1926年5月6日 - 2007年6月16日)は、毎日新聞社社長。 広島県福山市出身。1949年東京大学法学部卒。同年毎日新聞社に入社。政治部記者になり、政治部副部長、論説委員、論説主幹などを務め、1983年に取締役に就いた。1986年専務兼主筆、翌1987年に社長に就任した。1992年には相談役となり、1996年から顧問となった。また、1988年から2001年まで横綱審議委員を務めた。
古賀 登(こが のぼる、1926年5月6日-2014年7月1… 古賀 登(こが のぼる、1926年5月6日-2014年7月17日)は、東洋史学者。早稲田大学名誉教授。 横浜市出身。1952年早稲田大学文学部東洋史学科で松田壽男に師事、1958年同大学院文学研究科博士課程満期退学。1958年早大文学部助手、1963年講師、1965年助教授、1970年教授、1997年定年退任、名誉教授、皇學館大學教授。 1980年「漢長安城と阡陌・県郷亭里制度」で早大文学博士。2006年11月瑞宝中綬章受章。
手代木 渉 (てしろぎ わたる; 1925年(大正14… 手代木 渉 (てしろぎ わたる; 1925年(大正14年)5月6日 – 2007年(平成19年)3月7日) は、主に昭和時代の第二次世界大戦後に活躍した発生生物学者で、弘前大学理学部(現、理工学部)教授、学生部長、学部長、学長を歴任した。プラナリア(ウズムシ)の研究で理学博士(東北大学1962年)、後に斯学の国際学会(Turbellarian Biology 1990)を主催した。 1925年(大正14年)5月6日]、福島県耶麻郡豊川村沢部(現、喜多方市豊川町沢部長尾)に生まれる。父の名は藤一(とういち)母の名はマツヨ、四男だった。生家はかつて世襲の肝煎(きもいり)の家系。会津盆地北西部に位置する稲作を主とする農村で自然が豊かな地元の村立豊川小学校(現、喜多方市立豊川小学校)に通学した。
橋本 勲(はしもと いさお、1925年5月6日 - 2007… 橋本 勲(はしもと いさお、1925年5月6日 - 2007年2月6日)は、日本の経済学者・マーケティング学者。元京都大学経済学部教授。経済学博士(京都大学・論文博士・1972年)。 商業資本論研究における生産的労働と不生産的労働に関する研究など、商業資本や流通問題の原理的研究,またマーケティング研究, とりわけマーケティング学説史の研究など多岐にわたる先駆的業績を残す。マーケティングに関する歴史的研究のリーダーの一人。 香川県高松市に生まれる。香川県立商業学校/昭和17年卒(現・香川県立高松商業高等学校)、高松経済専門学校(現・香川大学)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業する。香川大学の助手、講師、助教授を経て、1962年より京都大学助教授となり、商業論、マーケティング論講座を担当した。
森田 桂(もりた かつら、1925年5月6日- 2013年1… 森田 桂(もりた かつら、1925年5月6日- 2013年11月14日 )は、日本の経営者。学位は、理学博士。武田薬品工業社長、会長を務めた。大阪府出身。 1948年に京都大学理学部化学科を卒業し、同年に武田薬品工業に入社。1961年から1年間アメリカ国立衛生研究所に留学。1982年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1989年6月に副社長に就任し、1991年6月には社長に昇格した。1993年6月から会長を務め、1997年6月から相談役を務めた。 1997年11月には勲二等瑞宝章を受章した。 2013年11月14日、急性心不全のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
森 清(もり きよし、1925年5月6日 - 2008年6月… 森 清(もり きよし、1925年5月6日 - 2008年6月24日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。正四位勲二等。 愛媛県新居浜市出身。1948年に東京大学法学部政治学科を卒業後、自治省に入省する。自治省官房長などを経て、消防大学校校長を最後に退官。1976年に行われた第34回衆議院議員総選挙に旧愛媛2区から自由民主党公認で立候補し当選(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。以後、1度の落選を挟んで通算当選4回。防衛政務次官などを歴任した。自民党では福田赳夫-安倍晋太郎派(清和会)に所属し、中川派の旗揚げにも参加した。
井口 朝生(いぐち あさお、1925年(大正14年)5月6日… 井口 朝生(いぐち あさお、1925年(大正14年)5月6日 - 1999年(平成11年)4月9日)は、日本の歴史小説作家、時代小説作家。日本文芸家協会会員。 東京生まれ。日本大学文学部(歴史専攻)卒業。父は時代小説作家の山手樹一郎。弟は国文学者の井口樹生。姪は詩人の井坂洋子。 少年時代は堀辰雄や立原道造の作品を愛読した。小説の道に進むべく、棟田博主宰の小説勉強会「風らい会」に参加。父には内緒で講談倶楽部賞に応募、佳作を受賞するが、同じ住所であったために父にばれてしまい、一騒動あったと言う。童門冬二、永井路子、平岩弓枝ら、講談倶楽部賞関係の新人が集まった『小説会議』に参加、父が同人誌のスポンサーとなる。
阿部 脩(あべ おさむ、1925年〈大正14年〉5月6日 -… 阿部 脩(あべ おさむ、1925年〈大正14年〉5月6日 - 没年不明)は、日本のプロレスラー、レフェリー、俳優、大相撲力士。 北海道旭川市出身。角界入りし、高砂部屋から大成山(おおなりやま)の四股名で1941年1月場所初土俵。1946年11月場所を最後に廃業。プロレスに転身して力道山率いる日本プロレスの初期メンバーとしてキャリアをスタートさせる。身長175cm、体重103kgという当時としては恵まれた体格を活かし、パワー溢れるレスラーとして活躍。その後、東京プロレスを経て国際プロレスへ移籍した。 プロレスラー引退後は国際プロレスのレフェリーに転向する。髭を蓄えており、ホイッスルを吹く独特で特徴のあるスタイルから「髭のレフェリー」「髭の阿部」の愛称で親しまれた。
多田英之(ただひでゆき、1924年(大正13年)5月6日 -… 多田英之(ただひでゆき、1924年(大正13年)5月6日 - 2021年(令和3年)9月21日)は、日本の建築構造学者。大阪府出身。専門は建築構造で耐震構造・免震構造・鋼管構造など。免震の生みの親。工学博士、一級建築士、技術士。1983年に建設大臣の特別認可を取得し、国内免震建築第一号積層ゴムを用いた免震建物評定を八千代台住宅に誕生させる。平成元年には日本建築学会免震構造小委員会主査として「免震構造設計指針」をまとめ、2001年に東京都杉並区に28階建て日本初の超高層免震マンションを実現する。積層ゴムアイソレータの実物大実験など耐震実験を多く行い、免震という概念を確立。 1942年、大阪市立都島工業学校建築科卒業。
土居 晴夫(どい はるお、1923年(大正12年)5月6日 … 土居 晴夫(どい はるお、1923年(大正12年)5月6日 - 2018年(平成30年)2月16日)は、日本の歴史家、坂本龍馬研究家。龍馬の甥にあたる坂本直寛の孫。 兵庫県神戸市生まれ。報徳商業学校(現在の報徳学園)卒。神戸市職員、八代学院大学(現・神戸国際大学)講師。神戸史学会、土佐史談会、高知海南史学会に所属。龍馬研究会顧問・東京龍馬会顧問・愛媛龍馬会顧問を歴任した。
西江 一郎(にしえ いちろう、1923年5月6日 - 没年不… 西江 一郎(にしえ いちろう、1923年5月6日 - 没年不明)は福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球監督。 旧制嘉穂中学(現:嘉穂高校)、社会人野球の日鉄二瀬を経て、1948年秋に大阪タイガースに入団。 入団初年度の1948年から31試合に出場した。1950年には、前年まで遊撃手のレギュラーだった長谷川善三(1949年オフに西鉄に移籍)に代わって遊撃手のレギュラーとして135試合に出場した。この年は、セ・リーグ遊撃手シーズン最多失策記録である71失策を記録した。翌1951年には白坂長栄の台頭で、レギュラーの座を奪われるものの貴重な控え選手として活躍した。1954年オフに自由契約になり、東映フライヤーズに移籍。
山内 逸郎(やまのうち いつろう、1923年5月6日 - 1… 山内 逸郎(やまのうち いつろう、1923年5月6日 - 1993年6月8日)は、日本の医師。 岡山県岡山市出身。1947年岡山医科大学卒、1955年医学博士(岡山大学)。1952年国立岡山病院小児科医長。1955-1957年米国ニューヨーク州立大学生理学教室に学ぶ。1975年全国に先駆けて小児医療センターを設立、新生児の救急医療体制を整備。小児医療センター長、副院長を経て、1982年院長となる。1979年未熟児網膜症の診療を容易にした「経皮黄疸計」を開発。また母乳運動をすすめ、1986年には全国初の乳房センターを開設した。1976年の鹿児島の5つ子誕生の際には現地で医師団を指導した。1989年退官。
瀬長 浩(せなが ひろし、1922年5月6日 - 1997年… 瀬長 浩(せなが ひろし、1922年5月6日 - 1997年10月21日)は、日本の銀行家。 沖縄県出身。1944年に東北帝国大学理学部物理科を経て、1949年にハワイ大学を卒業。琉球貿易庁、琉球政府での勤務を経て、後に中部製糖社長に就任。1972年に沖縄銀行頭取に就任し、1983年には会長に就任。 1997年10月21日に腎不全のために死去。75歳没。
星野 安三郎(ほしの やすさぶろう、1921年5月6日 - … 星野 安三郎(ほしの やすさぶろう、1921年5月6日 - 2010年3月13日)は、日本の法学者。専門は、憲法学・教育法。東京学芸大学名誉教授、立正大学名誉教授。 1921年、栃木県日光市に生まれる。旧制第二高等学校を経て、1943年に東北帝国大学法文学部法学科入学。入学直後に入営することとなり、戦後復員後に復学。1947年に同校を卒業し、東北大学特設研究科に進学して1948年に修了。同年、東京第三師範学校長の田中保房に誘われて同校の講師に就任。学制改革に伴い、東京学芸大学講師、助教授、教授として研究・教育活動を継続。1975年に日本学術会議中央選挙管理委員長、1981年に定年まで1年残して退任。
成田壽一郎(なりた じゅいちろう、1921年(大正10年)5… 成田壽一郎(なりた じゅいちろう、1921年(大正10年)5月6日 - 2001年(平成13年)4月15日)は秋田県能代市出身の木工家、著述家、教育者。 秋田県立能代工業学校木材工芸科を卒業後、海軍省艦政本部に就職。その後東京高等工芸学校卒業ののち、日本楽器に就職。大日本帝国陸軍航空技術予備役少尉。 軍隊からの復員を果たした後、故郷へ戻り1953年(昭和28年)3月まで秋田県立能代工業高等学校木材工芸科教師を努める。1958年(昭和33年)4月より千葉大学工業短期大学部木材工芸科講師に就任した。その後1978年(昭和53年)に千葉大学建築工学科講師を経て、1985年(昭和60年)2月14日工学博士を取得し、教授に昇格。
森 茂(もり しげる、1920年5月6日 - 2002年5月… 森 茂(もり しげる、1920年5月6日 - 2002年5月10日)は、日本の実業家。京王百貨店代表取締役相談役。東京都出身。 1943年に東京商科大学を卒業と同時に鉄道省に入省。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。第22戦隊3艦視艇隊・同戦隊司令部(横浜市中区山下町)に配属。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進。同年6月、海軍省軍務局第3課に転任し終戦を迎えた。海南島に進出した商社の監督・終戦処理を担当し、1945年10月、予備役に編入され解員(復員)した。 戦後の1945年11月、鉄道省に復帰。
薬師山 精進(やくしやま せいしん、1920年5月6日 - … 薬師山 精進(やくしやま せいしん、1920年5月6日 - 2000年2月16日)は、昭和初期の力士。高砂部屋所属。本名は斉藤 精作。身長170cm、体重95kg。青森県弘前市出身。最高位は東十両13枚目。得意技は突き、押し、捻り、高無双。 幼少期から相撲が好きで、1934年高砂一門が青森県で巡業を行った際に自ら志願して高砂部屋に入門を許可された。翌1935年1月場所で初土俵を踏む。四股名は郷里の薬師堂から「薬師山」と名乗った。1940年1月場所満19歳で十両に昇進した。この場所は4勝11敗に終わり、翌場所幕下に落ちた。その後右肘を痛めたこともあり、十両復帰はならなかった。一時「鷹揚山」と改名したが、再び「薬師山」に戻した。
清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 200… 清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 2000年8月6日 )は、日本の洋画家。 1919年(大正8年)5月6日、静岡県浜松市にて生誕。1936年、浜松第一中学(現浜松北高校)4年修了後、慶應義塾大学経済学部予科に入学し、油彩画を始めていく。大学在学中は写真部に所属していた。 1944年に慶應義塾大学を卒業し、戦後はアメリカやヨーロッパ、アジア各地を訪問していく。1947年に二科展に初入選し、浜松市で初の個展を開催する。 1949年には世田谷区の成城にアトリエ兼住居を構え、1951年に渡米しシカゴの画廊で個展を開催し、1954年にタイやエジプト、インドなどを周遊後、帰国。帰国後は、「今日の新人展」(神奈川県立近代美術館)や読売アンデパンダン展等に出品していった。
桑田 三郎(くわだ さぶろう、1919年5月6日 - 201… 桑田 三郎(くわだ さぶろう、1919年5月6日 - 2013年9月14日)は、日本の法学者。専門は、国際私法・商標法・工業所有権法。中央大学名誉教授。高岡法科大学初代学長。弁護士。 1919年、広島県生まれ。1939年、兵役に就く。一方で、八杉貞利に学んでロシア語を習得した。1945年に太平洋戦争が終結すると、復員。1947年、高等試験司法科試験に合格。弁護士試補。1948年、弁護士登録(第一東京弁護士会所属)。1949年、中央大学法学部法律学科を卒業した。 卒業後は、中央大学法学部助手に着任。中央大学助手時代には学外指導教授として江川英文に師事した。1953年に同法学部助教授、1961年に同法学部教授に昇進。
飯塚 小玕斎(いいづか しょうかんさい、1919年5月6日 … 飯塚 小玕斎(いいづか しょうかんさい、1919年5月6日 - 2004年9月4日)は、日本の竹工芸家。東京市本郷区生まれ。本名は成年。1942年、東京美術学校油画科を卒業。同じく竹工芸家の飯塚琅玕斎の次男であり、彼に師事。1982年、竹工芸で人間国宝 (重要無形文化財保持者) となった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
酒井 日慈(さかい にちじ、1919年(大正8年)5月6日 … 酒井 日慈(さかい にちじ、1919年(大正8年)5月6日 - 2019年(令和元年)5月28日)は、日蓮宗の僧侶。日蓮宗第51代管長、大本山池上本門寺第82世貫首。 東京市浅草区に生まれる。1941年(昭和16年)に法政大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、学徒出陣で東部101連隊に入隊する。復員後、東京池上の實相寺住職、池上本門寺執事長を経て、1991年(平成3年)に千葉市川の弘法寺貫首、2000年(平成12年)に池上本門寺第82世貫首に晋山、2006年(平成18年)に日蓮宗第51代管長に就任する。また、日蓮宗新聞部長、立正大学法華経文化研究所参与、日蓮宗講学職、日蓮宗布教研修所所長などを歴任。
斎藤 忍随(さいとう にんずい、1917年5月6日 - 19… 斎藤 忍随(さいとう にんずい、1917年5月6日 - 1986年1月21日)は、日本の哲学者、西洋古典学者(古代ギリシア哲学)。東京大学文学部名誉教授。 北海道宗谷支庁枝幸郡中頓別町に生まれる、生家は曹洞宗開禅寺。旧制旭川中学、旧制二高を経て、1944年、東京帝国大学文学部哲学科卒業。 1948年、新設の北海道大学法文学部に助教授で赴任(1950年、法学部と文学部に分離)、1952年、東京大学文学部助教授を併任、1954年、東大助教授に専任、1969年、教授。1972年から1974年まで文学部長。1978年、定年退官し名誉教授、成城大学教授。同年、紫綬褒章受章。1984年、成城大学退職。 ギリシア哲学研究の第一人者で、哲学会理事長、西洋古典学会常任委員、日本ギリシャ協会理事を務めた。
知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993… 知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993年7月25日)は、沖縄民謡の歌手、作詞・作曲家。知名定男の父として知られている。 沖縄県具志川市(現在のうるま市具志川)生まれ。太平洋戦争中は現在の北九州市で暮らしながら筑豊炭田で働いていた。その際に息子の知名定男が生まれた。 戦後しばらくの間、大阪で暮らし、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となるが、1956年、定男ら家族を引き連れて沖縄に密航。 1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、宮廷音楽湛水流の研究や箏曲譜などの編纂にも取り組んだ。 作詞・作曲家としても活躍し、名作の数々は現在でも沖縄県内で広く歌い継がれている。
岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 … 岩佐 直治(いわさ なおじ、1915年〈大正4年〉5月6日 - 1941年〈昭和16年〉12月8日)は、日本の海軍軍人である。「甲標的」(前部に45センチ魚雷発射管を備えた特殊潜航艇)による真珠湾攻撃の考案者の一人で、自ら搭乗して真珠湾攻撃で戦死した。「九軍神」の一人である。二階級特進により、最終階級は海軍中佐。 群馬県前橋市天川原町に、岩佐直吉・てる夫婦の5男、末子として生まれる。長兄・竹松は陸軍中尉だった。後の神奈川県知事・内山岩太郎は従兄にあたる。前橋市中川尋常小学校(現:前橋市立中川小学校)に入学後、前橋市城南尋常小学校(現:前橋市立城南小学校)が新設されると同校に転校、旧制・群馬県立前橋中学校(現:群馬県立前橋高等学校)を経て、海軍兵学校(海兵65期)を卒業した。
瓜生 忠夫(うりゅう ただお、1915年(大正4年)5月6日… 瓜生 忠夫(うりゅう ただお、1915年(大正4年)5月6日 - 1983年(昭和58年)2月26日)は日本の映画評論家とマスコミの研究者。東京帝国大学ドイツ文学科を卒業した後、日本映画社に入社。在学中は帝国大学新聞編集長を務めた。戦後は、映画評論やマスコミ研究に専念しながら、法政大学、明治大学、中央大学、専修大学の講師を務めた。共産党員であったため1950年にレッドパージを受ける。駅弁の研究者としても知られていた。
豊田 尭(豊田堯、とよだ たかし、1914年5月6日- )は… 豊田 尭(豊田堯、とよだ たかし、1914年5月6日- )は、西洋史学者。 奈良県生まれ。1939年京都帝国大学文学部史学科卒。60年「バブーフとその時代 フランス革命の研究」で京都大学文学博士。戦前は同志社大学予科と第三高等学校で教授を、戦後は京都大学助教授、1959年大阪大学文学部助教授、64年教授。78年定年退官、名誉教授。87年勲三等旭日中綬章受章。
岡倉 古志郎(おかくら こしろう、1912年5月6日 - 2… 岡倉 古志郎(おかくら こしろう、1912年5月6日 - 2001年4月2日)は、日本の国際政治学者、経済学者。 同志社大学教授、大阪外国語大学教授、中央大学教授、日本学術会議副会長、原水爆禁止日本協議会専門委員、日本平和委員会及び日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の各常任理事などを歴任。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の孫に当たる。息子に岡倉徹志がいる。 朝日新聞記者で天心の伝記も編纂した岡倉一雄の子として、東京に生まれる。東京帝国大学を卒業後、東京電灯(現東京電力)に入社。その後、企画院を経て1938年には東亜研究所に入る。同年の企画院事件(企画院判任官グループ事件)にて治安維持法違反で検挙。
冨山 芳正(とみやま よしまさ、1912年5月6日 - 20… 冨山 芳正(とみやま よしまさ、1912年5月6日 - 2003年10月23日)は、ドイツ文学者、学習院大学名誉教授。 東京都生まれ。1935年東京帝国大学文学部独文科卒。学習院大学助教授、教授、83年定年、名誉教授。東洋学園理事。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月… 立花 美年子(たちばな みねこ、1911年〈明治44年〉5月6日 - 1970年〈昭和45年〉4月10日)は、日本の元皇族。北白川宮成久王と同妃房子内親王の第1王女子。立花種勝の妻。旧名は、美年子女王(みねこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に北白川宮永久王、妹に東園佐和子(佐和子女王)と徳川多恵子(多恵子女王)がいる。明治天皇の孫にあたる。 1911年(明治44年)5月6日、北白川宮成久王とその妃で明治天皇の第7皇女子である房子内親王との間に第1王女子として生まれた。 学生時代の学習院初等科から女子学習院(現在の学習院女子中・高等科)においては、高松宮妃喜久子と同級で仲が良かったという。
宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 20… 宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 2006年6月14日)は、日本の洋画家。広島県福山市出身。 明治44年(1911年)5月6日、広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現:福山市水呑町)に生まれる。 昭和初期、福山より同郷の彩美堂主人・土肥円修を尋ねて上京する。本郷洋画研究所、太平洋美術学校、番衆義塾に学び、安井曾太郎に師事した。新燈社展を始め、光風会展、白日会展、第一美術展、東光展、春陽展、二科展、第1回日展に入選する。 戦後は国展(国画会)及び埼玉県美術展に毎年出品し、それぞれ委員、審査員を務めた。 主に福島県の只見川に取材し、四季折々の自然に感じた生命感を、画面に形象化して制作した。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日… 井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。
力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 19… 力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 1994年9月9日)は、日本の教育者、山口大学第4代目学長。同大学工業短期大学部元学長。専門はドイツ語。 山口県立医学専門学校ドイツ語講師 。 大学紛争時の1969年8月から1970年3月まで山口大学教養部長を務め、その後、学長代行を経て、1971年4月に、2年間空席となっていた学長職に就き、学長として1973年まで務めた。 同大学構内吉田遺跡の調査団長の一人。他に市川禎治、中村正二郎も加わった。同大学工業短期大学部の学長。
国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994… 国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994年4月18日)は、日本の水彩画家。「北海道を代表する芸術家」の1人に挙げられる。 北海道の気候や風土を意識したテーマで描き、幻想的で静謐感の漂う作風が特徴。 1907年5月6日、函館区鶴岡町(現・函館市大手町)で書画骨董などを商っていた父・美登利、母・キクの六男(男6人女1人の末子)として生まれるが、同年8月25日の函館大火で生家は丸焼けになり、その後は住居を転々としつつ1914年には宝小学校に入学する。1916年8月2日の函館大火でも罹災し、両親と1人の兄と4人とで小樽区山田町(現・小樽市山田町)へ移住した。 1924年に小樽区立堺尋常小学校(現・小樽市立堺小学校)高等科を卒業して上京。
沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983… 沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983年1月20日)は、日本の小説家、経済評論家。本名、大野兤(おおの ひろし)。 埼玉県越谷市出身、日本大学専門部法科中退。 時代小説を主に執筆した。 1936年、『天鼓』で第1回千葉亀雄賞受賞。※田中平六名義 1938年、『兜町』が第8回直木賞候補作となる。 1940年、「白狼」及び「花影」が第11回直木賞候補作となる。 1952年、「獄門帳」が第28回直木賞候補作となる。 1954年、「帰らぬ人々」が第31回直木賞候補作となる。 映像化された作品に「獄門帳」鶴田浩二、「大江戸喧嘩纏」大友柳太朗、「雪姫七変化」松島トモ子、「伊達六十二万石」(映画名「伊達騒動 風雲六十二万石」大友柳太朗)、「妻恋い獅子」(映画名「胡蝶かげろう剣」里見浩太郎)がある。
市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989… 市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989年11月10日)は、日本の国文学者、歌人。文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)。東洋大学名誉教授。雅号は「迯水居」。 長野県上高井郡小布施町生まれ。旧制大分高等商業学校、1941年東洋大学文学部国文学科卒業。1926年から出版社の辞書部に勤務、1948年から新村出の委嘱により岩波書店で「広辞苑」の編集主任を務めた。1953年東洋大学国文学科講師、1956年同教授、1973年退任、名誉教授。1961年「萬葉集考」で文学博士(東洋大学)の学位を取得。1973年から迯水短歌会を主宰し、機関誌を発行した。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。
新垣 美登子(あらかき みとこ、1901年〈明治34年〉5月… 新垣 美登子(あらかき みとこ、1901年〈明治34年〉5月6日 - 1996年〈平成8年〉12月9日)は、日本の作家、美容師。 作家としての代表作は、処女作の『花園地獄』、『黄色い百合』など。甥はレーザー医学の第一人者とされる医師の大城俊夫。 沖縄県那覇区上之蔵で誕生した。小学校4年生の頃から文学を愛好した。沖縄県立高等女学校に入学後、昼間は県立図書館に入り浸りとなり、当時の県立図書館の館長を務めていた伊波普猷との出会いがあった。大正デモクラシーの最中の女学生には、読書好きが多かったが、特に美登子はその筆頭といえ、女学校2年のとき『チャタレイ夫人の恋人』を読み、大人を真似てフランスやイギリス文学にも手を伸ばしていた。
長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6… 長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、日本の内務・警察官僚、教育者。最後の官選香川県知事、和洋女子大学学長。位階は従四位。 山口県出身。長瀬栄三郎の長男として生まれる。山口高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、青山警察署長、浅草警察署長、蔵前警察署長、沖縄県経済部長、福島県経済部長、茨城県経済部長などを歴任。 その後、香川県内務部長に就任し、1947年3月、前任の増原惠吉が知事選に出馬のため辞任したことに伴い同県知事に昇格した。
高峰 妙子(たかみね たえこ、本名:中村薫、旧姓:浅井、18… 高峰 妙子(たかみね たえこ、本名:中村薫、旧姓:浅井、1899年(明治32年)5月6日 - 1980年(昭和55年)11月15日)は、元宝塚少女歌劇団男役主演スター(初公演の主役。男役スター第一号。花組&雪組主演男役でもあった。)。宝塚歌劇団1期生。愛称はアッサン。同期生に大江文子、雲井浪子、小倉みゆき、由良道子や筑波峯子らがいる。福井県坂井郡本荘村(現:あわら市)出身。元・宝塚歌劇団・宝塚音楽学校声楽講師である。 この芸名は小倉百人一首の第4番:山部赤人の 1913年7月、宝塚唱歌隊(この年の12月に宝塚少女歌劇養成会に改称)に14歳で入隊。 1914年4月 - 5月、宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)の初公演である『ドンブラコ』で主演の桃太郎を演じた。
弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年… 弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年6月19日)は昭和期の日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1917年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。1926年から1929年まで東京帝国大学大学院に在学。1930年に医学博士を取得。 札幌市立病院の小児科医となり、田坂重元とともに風疹ウイルスを日本で初めて発見した。また、日本における臨床ウィルス学の先駆者と呼ばれている[誰によって?]。1934年から1936年まで欧米に留学し、主にベルリン大学小児科教室・病理科教室で研究に当たった。1947年熊本医科大学医学部教授及び熊本医科大学附属病院院長、1950年北海道大学医学部教授となった。
木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月… 木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は林 髞(はやし たかし)。山梨県出身。 1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。生家は医家。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。