三浦 一郎(みうら いちろう、1914年6月6日 - 200… 三浦 一郎(みうら いちろう、1914年6月6日 - 2006年3月13日)は、日本の西洋史学者・エッセイスト。元茨城大学教授、上智大学名誉教授。 東京府豊島師範学校附属小学校、旧制武蔵高等学校を経て、東京帝国大学西洋史卒業。 戦後新制成蹊高等学校教諭を経て、茨城大学助教授、1966年同大学教授、1970年上智大学教授、1980年同大学特別待遇教授、1985年退職、同大学名誉教授。ギリシア古代西洋史を専門とするが、『世界史こぼれ話』が角川文庫に収められて人気を博した。 没年91。葬儀は日本基督教団高輪教会、喪主は長男の三浦久利夫(くりお)。
青山 杉雨(あおやま さんう、1912年6月6日 - 199… 青山 杉雨(あおやま さんう、1912年6月6日 - 1993年2月13日)は、書家。愛知県葉栗郡草井村大字村久野(現・江南市)生まれ。大東文化大学教授。号は杉雨、本名は文雄。
梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6… 梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の実業家、合唱指揮者。元共和証券株式会社取締役常務、逝去時同社監査役。 神奈川県に生まれる。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1935年(昭和10年)慶應義塾大学経済学部卒業。在学時は慶應義塾ワグネル・ソサィエティーに所属。バリトンソリスト及び学生指揮者として活躍した。木下保に師事。 1935年(昭和10年)から家業の共和証券株式会社に奉職。 1939年(昭和14年)に、慶應ワグネルの指揮者であった山口雅章が死去し、その後「やむをえず」(第88回定期演奏会(1963年)プログラムにおける梅原の寄稿より)OBの梅原が合唱パートの指揮者を引き継ぐこととなった。
新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろ… 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。 中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓した。『強力伝』(1955年)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969年)、『八甲田山死の彷徨』(1971年)などがある。 長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(かくましんでん)(現在の諏訪市上諏訪角間新田)に藤原彦、りゑの次男として生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)・神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業。
鹿間 時夫(しかま ときお、1912年6月6日 - 1978… 鹿間 時夫(しかま ときお、1912年6月6日 - 1978年12月12日)は、日本の古生物学者。 1912年、京都府で生まれた。旧制成蹊高等学校を経て、東北帝国大学理学部に進学。1931年から1939年にかけて、栃木県葛生町周辺に広く分布する古生代石灰岩の割れ目にたまった第四紀の堆積物の中から発見された化石を調査。東北帝国大学理学部を卒業。 1942年、満洲国の新京工業大学教授に就任。 戦後は1947年から3年間、長野県飯田高松高校教諭として勤務。このとき直接の影響を受けた卒業生には長谷川善和、鎮西清高、加賀美英雄(海洋地質学)、山田哲雄(岩石学)、松島信幸(日本地質学会名誉会員)がいる。ほか、本多勝一(ジャーナリスト)や富永明夫(仏文学者)、近藤信道(画家)もその時期の教え子であった。
梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年… 梶 一郎(かじ いちろう、1912年6月6日 - 1978年1月20日)は、将棋棋士、九段。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は12。東京府東京市(現:東京都台東区)の生まれ。 元号が明治から大正に変わる前月の明治45年(1912年)6月の生まれである。 1928年、土居市太郎に入門。同年9月に関東の奨励会が創設されている。 プロ入り(四段昇段)は1934年。以降昇段を重ね、戦時中の1943年に八段まで上り詰める。 戦後に始まった第1期順位戦(1946年度)では、A級(八段リーグ)からスタート。4勝9敗の成績で陥落枠7名の中に入り、第2期はB級で指す。 第11期(1956年度)B級2組順位戦で2位(9勝4敗)の成績を収め、B級1組に復帰。
荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 19… 荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 1992年6月14日)は、日本の作曲家である。 大阪府に生まれる。15歳よりヴァイオリンを辻吉之助に学び、1929年(昭和4年)兵庫県甲陽中学校卒業後、日本大学国文科に籍を置くも、1933年(昭和8年)12月には中途退学した。1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の間松平頼則についてピアノおよび作曲法を学び、1932年(昭和7年)自作室内楽発表会を開催後、1934年(昭和9年)には石田一郎、落合朝彦と共に独立作曲科協会を設立し、2回の発表会を行う。 1936年(昭和11年)、日本現代作曲家連盟に入会し、同年11月に上海に渡航してアレクサンドル・チェレプニンに師事して約4ヶ月間作曲法を学び、1942年(昭和17年)まで教示を受けた。
小林 桂助(3代)(こばやし けいすけ、1908年〈明治41… 小林 桂助(3代)(こばやし けいすけ、1908年〈明治41年〉6月6日 - 2000年〈平成12年〉1月10日)は、日本の鳥類研究家。旧名・小林賢三。位階は従六位。 1908年、神奈川県横浜市生まれ。1923年(大正12年)の関東大震災後、1927年に神戸市に移住。1932年(昭和7年)に神戸商業大学(現・神戸大学)を卒業した。 翌1933年(昭和8年)、薄荷輸出業「小林桂」(1883年に初代小林桂助が創業)に入社した。小林桂助3代目を継ぎ、家業の傍ら鳥の生態を調査した。1947年から1981年まで日本鳥学会評議委員をつとめた。2000年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 このほか、鳥類に関連する著書多数。
高宮 晋(たかみや すすむ、1908年〈明治41年〉6月6日… 高宮 晋(たかみや すすむ、1908年〈明治41年〉6月6日 - 1986年〈昭和61年〉5月12日)は、日本の経営学者。東京帝国大学教授・一橋大学教授・上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。 千葉県山武郡豊岡村(松尾町を経て現山武市)で、高宮昇の長男として生まれた。1933年東京帝国大学経済学部卒、1939年東京帝国大学助教授、1941年日本銀行調査局参与、1945年東京帝国大学教授、1946年運輸省調査局経済調査部長、1952年経営研究所所長、1954年一橋大学教授、1962年「経営組織に関する経営学的研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。1963年上智大学経済学部教授、1968年経済学部長、のち名誉教授。
平林 せん(ひらばやし せん、1908年〈明治41年〉6月6… 平林 せん(ひらばやし せん、1908年〈明治41年〉6月6日 - 1940年〈昭和15年〉2月)は、日本の労働運動家。製紙工場で労働を経て、従叔母(母の従妹)である社会運動家の伊藤千代子らの影響を受けて日本共産党の組織化に協力し、日本共産党の機関紙『赤色信越』の編集など、製紙労働者の組織化に短い生涯を捧げた。長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。 1908年に中洲村で誕生した。中洲小学校を卒業後、12歳で製糸工場の女工となった。家は伊藤千代子の家に近く、夏場に帰省すると千代子から労働問題についての話を聞いて、千代子の影響を強く受け育った。労働農民党の責任者である上条寛雄からも影響を受けて、社会主義に傾倒した。
山田 勝巳(やまだ かつみ、1905年 6月6日 - 197… 山田 勝巳(やまだ かつみ、1905年 6月6日 - 1970年)は、日本のノルディック複合、スキージャンプ選手。1932年レークプラシッドオリンピック日本代表。 北海道札幌市生まれ。北海中、北海道帝国大学農学部林学科卒業後、1929年に青森県の大鰐営林署へ就職。青森林友会所属で競技を続けた。 1932年レークプラシッドオリンピックスキージャンプで32位、ノルディック複合32位。 のちに鰺ヶ沢営林署をへて北海道庁へ異動。一方で全日本スキー連盟技術委員や複合部長などを歴任した。 理論家肌で逆転の発想をよくすることから””逆さん”の愛称で慕われた。
山地 壽(やまぢ ひさし、1903年〈明治36年〉6月6日 … 山地 壽(やまぢ ひさし、1903年〈明治36年〉6月6日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は日本の新聞記者、1級首相秘書官、政治家。通称名は山地 一壽(やまぢ かずとし)。東京日日新聞記者、岸信介総理大臣1級秘書、財団法人家族計画国際協力財団(現JOICFP)理事長。
木下 彰(きのした あきら、1903年6月6日 - 1982… 木下 彰(きのした あきら、1903年6月6日 - 1982年3月28日)は、日本の経済学者。 和歌山県出身。1929年東北帝国大学法文学部経済科卒。1951年「商業的農業論 典型的商業的農業としての柑橘業の分析的研究」で東北大学経済学博士。1930年東北帝大助手、1933年講師、1935年助教授、1942年教授、東北大学経済学部教授、1956年経済学部長、1967年定年退官、名誉教授、長野経済短期大学学長、長野中央学園理事長、東北福祉大学教授。1973年勲二等瑞宝章受勲。1981年「名子遺制の構造とその崩壊」で日本学士院賞受賞。経済政策,農業経済学を専攻。
清水 文雄(しみず ふみお、1903年(明治36年)6月6日… 清水 文雄(しみず ふみお、1903年(明治36年)6月6日 - 1998年(平成10年)2月4日)は、熊本県出身の国文学者。和泉式部など中古文学・中世文学の研究で有名。作家・三島由紀夫の才能を見出したことで知られる。 1932年(昭和7年)、広島文理科大学卒業。1933年(昭和8年)、蓮田善明や栗山理一、池田勉と共に「国文学試論」を発行。1938年(昭和13年)、蓮田たちと共に「文藝文化」創刊。 1938年(昭和13年)、国語教師として旧制成城高校から学習院に赴任。1939年(昭和14年)、当時中等科3年生だった平岡公威(三島由紀夫)に、国文法と作文を教える。1940年(昭和15年)、寄宿舎の星雲寮舎監。
太田 一郎(おおた いちろう、1902年6月6日 - 199… 太田 一郎(おおた いちろう、1902年6月6日 - 1996年1月20日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務省総務局長、外務事務次官を経て、駐タイ兼ラオス特命全権大使、駐イタリア特命全権大使兼駐チュニジア特命全権公使等を務めた。 山梨県甲府市生まれ。1922年第五高等学校文科甲類卒業。1924年(大正13年)高等試験外交科試験合格。同年東京帝国大学法学部政治学科を中退し、外務省在外研究員として中華民国に留学。1927年(昭和2年)外交官補任官、中華民国在勤、叙従七位。1928年英国在勤。 在南京副領事を経て、1932年(昭和7年)在上海副領事。同年在中華民国公使館三等書記官。1937年(昭和12年)在ロスアンゼルス領事、日本赤十字社ロスアンゼルス特別委員長。
田中 英吉(たなか えいきち、1902年6月6日 - 198… 田中 英吉(たなか えいきち、1902年6月6日 - 1983年5月20日)は、カトリック教会の司教。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。カトリック高松司教区の初代司教を務めた。愛媛県戸島出身で、カトリック京都司教区の田中健一名誉司教の叔父にあたる。 1902年6月6日に愛媛県の戸島村(現在の宇和島市)に生まれる。1935年12月21日に司祭に叙階された。その後は高松教区の教区司祭として働き、1955年には新設されたばかりの桜町教会(香川県高松市)の初代主任司祭となった。聖堂の建設に尽力し、1957年(昭和32年)3月17日に聖堂の献堂式が行われた。その後1963年9月に桜町教会は司教座聖堂に指定され、同年10月20日に田中は教皇パウロ6世から司教に叙階された。
中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - … 中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - 1986年9月28日)は日本の数学者。専攻は数学基礎論、数学史。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授、兵庫医科大学名誉教授、文学博士。従四位勲三等旭日中綬章。
風間 道太郎(かざま みちたろう、1901年6月6日 - 1… 風間 道太郎(かざま みちたろう、1901年6月6日 - 1988年8月25日)は、日本の平和運動家、伝記作家。 東京出身。暁星中学、第一高等学校、1928年東京帝国大学法学部法律学科卒業。太陽生命保険株式会社、谷村製鉄鉄工所、東京商工会議所、大政翼賛会、長野県鉄商工経済会などで勤めた。戦時中は大政翼賛会文化部副部長を務めるが、ほどなく退き農村生活を送る。戦後は、世界画報社や志摩書房の編集者、日本学園高等学校教諭などを歴任した。 大学で尾崎秀実と親しく、1946年尾崎の『愛情はふる星のごとく』を出版。新日本文学会に属し、平和運動家として活動しつつ、伝記などを書いた。
笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 -… 笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉11月6日)は、日本の国文学者。号は葵園。 静岡県志太郡藤枝町出身。静岡県立静岡中学校を経て、1927年、早稲田大学文学部国文科卒業。東京帝国大学文学部国文学研究室藤村作のもとで学び、1929年、同文学部副手、1930年、東京女子大学教授を兼任。北京師範大学、善隣大学教授を歴任した。 広島市で缶詰製造・精米業を営み広島市会議員や広島女子商業初代理事長等をつとめた笹野雄太郎の長男である。 狂言研究の先駆者として知られ、天正狂言本を初めとする狂言の諸資料を発掘、調査、紹介し、文献資料に基づく狂言研究の基礎を築いた。
高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 197… 高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 1971年11月15日)は、日本の社会科学者。同志社大学法学部卒業、高知短期大学名誉教授。専門は政治史・政治思想史・比較憲法。 岐阜県大垣市出身。同志社大学法学部で、高木庄太郎に政治史を学ぶ。1924年(大正13年)、法学部を卒業。同志社大学法学部で政治史の講師を務める。 1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけ、同志社で法学部教授会と理事会(津下紋太郎、西村金三郎ら)との対立が生じた際に、高橋貞三講師とともに学生新聞で理事会を激しい言葉で批判した。理事会から「自発的辞表」提出を要求され、能勢克雄教授とともに解任させられた。これに対して法学部教授会は連名で理事会を批判した。
安倍 三郎(あべ さぶろう、1898年6月6日 - 1974… 安倍 三郎(あべ さぶろう、1898年6月6日 - 1974年5月7日)は、日本の心理学者。旧姓は島田、1924年から母方の安倍姓を名乗る。 1898年、岩手県下閉伊郡山田町で生まれた。1929年、卒業論文『二時程比較之研究』を提出して東北大学法文学部心理学科を卒業。 1935年3月、師道高等学校教授に就いた。1939年3月、満州国立建国大学教授に就任。1940年に学位論文『時間意識の実験的研究』を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得 (勅令第200号による)。 戦後は1946年8月に引揚帰国する。1947年広島文理科大学・広島高等師範学校教授となるが、間もなく公職追放のため辞職。東北大学教養部教授となり、1962年に定年退官、名誉教授となる。
長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月… 長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月6日 - 1988年(昭和63年)7月22日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、ジャカルタ市長。 東京市本郷区春木町(現・文京区本郷三丁目)に生まれる。1921年(大正10年)3月、東京高等商業学校を卒業し、同年11月、台湾総督府財務局金融課に奉職する。 1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格し、1931年(昭和6年)7月に地方理事官に進み、高雄州知事官房税務課長に発令される。1933年(昭和8年)9月、台中州知事官房税務課長に転じ、1934年(昭和9年)9月、台湾総督府税関事務官・財務局勤務、1935年(昭和10年)9月に東勢郡守を経て、1936年(昭和11年)10月に彰化郡守に就任する。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6… 務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6月6日 - 1991年4月30日)は、日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長や、讀賣テレビ放送の会長を務めた。長野県南安曇郡温村(後に三郷村を経て現在は安曇野市)出身。 社会部や政治部が花形の新聞社にあって販売畑一筋で歩み、戦前まで東京を中心とした東日本のブロック紙に過ぎなかった読売新聞を日本屈指の全国紙にまで押し上げた。「読売と名が付けば白紙でも売ってみせる」と言ったとされ、その辣腕ぶりから「販売の鬼」と呼ばれたが演劇や登山を好む一面もある。プロ野球の歴史では反長嶋・反江川で親川上・親藤田の座標軸に据えられている。
池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月… 池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月6日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。池内綿糸店社長。鳥取商工会議所顧問。 鳥取県鳥取市出身。池内新蔵の長男。1913年、旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。家業の綿糸商を継承する。池内綿糸店、とりせんビル、丸興綿業各社長、鳥取大丸、鳥取瓦斯、日ノ丸証券、日ノ丸金属、日本海テレビ各取締役をつとめる。 鳥取市の豪商である。趣味は刀剣、読書。宗教は真宗。住所は鳥取市元大工町。 池内家は、藩政時代に主として酒造業により繁栄し、「高砂屋十家」と称された高砂屋一族のうちの一家である。「高砂屋十家」はいずれも高砂の郷士・池内氏を祖とし、本町四丁目にあった沢氏(初代高砂屋惣兵衛)と川端二丁目にあった小川氏(初代高砂屋六兵衛)を高砂屋両本家としていた。
一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年… 一番ヶ瀬 佳雄(いちばんがせ よしお、1895年(明治28年)6月6日 - 1964年(昭和39年)11月15日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。新竹州知事、台南州知事。 一番ヶ瀬健太郎の子として東京市に生まれる。第六高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)10月に高等試験行政科合格。卒業後、直ちに農商務省に奉職し農務局属となり、1925年(大正14年)5月に大阪府工業組合監督官、1934年(昭和9年)2月に拓務省管理局地方課長を経て、1935年(昭和10年)5月に台湾総督府殖産局農務課長に転じた。
酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6… 酒井 忠悌(さかい ただやす、1893年〈明治26年〉6月6日 - 1962年〈昭和37年〉11月28日)は、出羽庄内藩11代藩主、伯爵・酒井忠篤の四男。鶴城書道会会長。致道博物館顧問。東北農家研究所相談役。山形県社会教育委員。通称は小三郎、号は南荘。子に酒井忠一。 旧庄内藩酒井家当主・酒井忠篤の四男として鶴岡市家中新町に生まれる。伯父(忠篤の長兄)酒井忠恕の未亡人の瑛昌院に奉仕して桧物町邸に居住していたが、没後鷹匠町に移って、長い間酒井家の学問所・文会堂で経書を講じた。早くから漢学を赤沢源也に、漢詩と書道を黒崎研堂に学んでいて、昭和37年(1962年)3月に、松平穆堂の後を継いで鶴城書道会会長となった。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日… 松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日 - 1978年(昭和53年)11月12日)は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。位階は正六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊。東京江東病院小児科医局に勤務する。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した。
神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年… 神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年6月6日 - 1981年8月1日)は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。 長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)生まれ。漢方医の神近養斉とハナ夫妻の子で、出生当時父は47歳、母は43歳になっていた。夫妻はすでに二男二女をもうけていて、彼女は末の子であった。 父は幼い末娘を「チコ」と呼んで可愛がっていたが、1891年、彼女が3歳のときに死去した。
石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日… 石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日 - 1967年(昭和42年)3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 愛知県碧海郡矢作村(現・岡崎市)に生まれる。1907年(明治40年)3月、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)卒業。同年4月、碧海郡刈谷町の刈谷第一尋常小学校(現・刈谷市立亀城小学校)に赴任。いくつかの小学校勤務を経たのち、大正期に南設楽郡と知多郡の視学を歴任。 1923年(大正12年)、岡崎市投尋常小学校(現・岡崎市立根石小学校)長に就任。1924年(大正13年)、岡崎市梅園尋常高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)長に就任。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)… 橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 父橋本昌世は京都府士族で、軍人となり陸軍中佐まで進んだ。陸軍士官学校14期卒業(同期には古荘幹郎大将、西尾寿造大将、山田乙三大将、宇佐美興屋中将)。陸軍大学校22期生で卒業時13番。陸大同期に畑俊六元帥(首席)、杉山元元帥、小磯國昭大将らがいる。 陸軍きってのロシア通として知られている。同国へ留学したり、第一次世界大戦時にロシア軍に観戦武官として従軍経験もしている。駐露日本大使館附武官補佐官、附武官などを歴任した。
芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月… 芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月6日 - 1962年(昭和37年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選山梨県知事、川崎市長、沼津市長。 千葉県安房郡北条町長須賀(現:館山市長須賀)で、旧龍野藩士・芝辻勝の長男として生まれる。北条町尋常高等小学校、千葉中学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年9月、内務省に入省し東京府属となる。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、神奈川県理事官、同県三浦郡長、同愛甲郡長、福島県北会津郡長、同県伊達郡長、富山県事務官・学務部長、愛媛県警察部長、宮崎県書記官・内務部長、三重県書記官・内務部長などを歴任。
藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 196… 藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 1964年8月27日)は、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)出身の工芸家・図案家。 1881年(明治14年)6月6日、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)に生まれた。父親は忠三郎、母親はかぎ。兄が2人、姉が1人、妹が2人いる。母親のかぎは西加茂郡挙母村(現・豊田市)出身である。 藤井は幼少の頃から手先が器用であり、「針吉」や「凧吉」などとも呼ばれていた。 1888年(明治21年)に棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)に入学し、さらには医師の杉村修平の塾で学んだ。11歳だった1892年(明治25年)に棚尾小学校を卒業し、知多郡大野町(現・常滑市)の木綿問屋である尾白株式会社(尾白商会)に奉公に入った。
水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月… 水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月6日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科選科を卒業し、東京市主事となった。1912年(大正元年)、高等学校卒業検定試験に合格し、東京帝国大学法科大学政治家を卒業。高等文官試験に合格し、台湾総督府事務官、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、交通局理事を歴任。1929年(昭和4年)、台中州知事となり、1931年(昭和6年)に退官した。 その後は台北市会議員、台北商業会議所理事を務めた。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
篠原 助市(しのはら すけいち、1876年(明治9年)6月6… 篠原 助市(しのはら すけいち、1876年(明治9年)6月6日 - 1957年(昭和32年)8月2日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京文理科大学教授。文学博士。 愛媛県に越智孫七の二男として生まれ、篠原亀吉の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等師範学校を卒業し、福井県師範学校教諭となった。1916年(大正5年)、京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。大日本武徳会武道教師、東京高等師範学校教授、東北帝国大学教授を経て、1930年(昭和5年)に東京文理科大学教授兼東京高等師範学校教授となった。1934年(昭和9年)より、東京文理科大学教授に文部省督学官・教育調査部長を兼ね、1937年(昭和12年)より東京文理科大学教授専任となった。
石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年… 石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年〉6月6日 - 1928年〈昭和3年〉5月3日)は日本の日本画家・洋画家。英国ロイヤル・アカデミー初の日本人学生。代表作に『美人読詩』や松方正義・渋沢栄一・大隈重信らの肖像画がある。 「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる。「かずよし」とする文献もある。幼名は倉三郎。27歳のとき師の滝和亭の一字をもらい「和訓」に改名した。画号は耕雲、雅原、中雅。 1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる。幼少から画才に秀で、須佐建真(須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ。1892年、松江に出て後藤魚洲(島根師範学校教員)と堀櫟山(小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
佐香 ハル(さこう ハル、1874年(明治7年)6月6日 -… 佐香 ハル(さこう ハル、1874年(明治7年)6月6日 - 1958年(昭和33年)3月20日)は、日本の教育者。徳島県出身。徳島県立高等女学校(現徳島県立城東高等学校)卒業。 徳島市幟町に藩絵師の長女として生まれる。徳島女学校を出て結婚したが離婚し、26歳で上京。渡辺裁縫女学校(現帯広北高等学校)、堀越和洋裁女学校で学ぶ傍ら、国語伝習所と帝国教育会中等教員国語漢文教習所にも通う。 母校の堀越和洋裁女学校の教師を経て、1903年に東京都神田三崎町にて私立和洋裁専門女学校を創設し校長となる。翌年夏の帰省中、徳島師範学校女子部にて徳島初の裁縫講習を行なったところ、県知事らの勧めがあり、1905年(明治38年)に地元である徳島県に帰郷し、徳島市で佐香和洋裁女学校を創設(現香蘭高等学校)。
十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 -… 十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 - 1940年(昭和15年)4月29日)は、日本の教育者。 福岡県に衆議院議員十時一郎の二男として生まれ、大叔父の養子となった。第三高等学校から第五高等学校に転じ1896年(明治29年)7月に卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。学習院教授、第三高等学校教授などを務め、1922年(大正11年)、社会学研究のため欧米に留学した。1923年(大正12年)、新設の広島高等学校(現在の広島大学総合科学部)校長に就任し、1932年(昭和7年)に第五高等学校校長に転じた。
林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1… 林 毅陸(はやし きろく、1872年6月6日(明治5年5月1日) - 1950年(昭和25年)12月17日)は、明治後期から戦前昭和期の歴史家、法学者(法学博士)、政治家。枢密顧問官、衆議院議員、帝国学士院会員、慶應義塾長、初代愛知大学学長等を歴任。号は弘堂。 位階勲等は正四位勲三等旭日中綬章。日本の外交史研究の先駆者として知られている。 佐賀県松浦郡田野村(現在の唐津市肥前町田野)に、豪族・中村清七郎の四男として生まれる。幼名は中村毅陸。母は唐津藩士・浦川喜右衛門の次女。 10歳の頃、中江兆民の門下であり、『仏和辞書』を同盟出版から出版し、東京府で仏学の私塾を開いていた実兄・中村秀穂が帰省の際に伴われて上京。
藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4… 藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4月26日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の政治家、実業家。 1869年(明治2年)、山口県阿武郡徳佐村(のち阿東町、現在の山口市)にて出生。 明治法律学校を卒業して、警視庁属兼警部となり、その後、実業界に入り、八溝金山、釧路炭砿、朝日銀行、北日本興業等の取締役、江戸見崎養魚監査役などを務める。ほか逓信大臣秘書官を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙において山口県五区から衆議院議員に当選。立憲政友会に所属した。 衆議院議員を1期務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙は不出馬。1943年(昭和18年)に萩市長に就任。
曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明… 曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明治2年4月26日〉 - 1925年〈大正14年〉12月4日)は日本の俳優、劇作家。本名は大松福松。劇作家としては和老亭当郎と名乗った。 伊勢国松阪出身。家業は合羽、煙草の販売だった。 1900年(明治33年)、3代目中村歌六の弟子となり中村時代()を名乗る。歌舞伎の下積み役者として活動するなかで中村珊之助と出会い、2人で喜劇に舵をとる。曾我兄弟にあやかり、年上の時代が曾我廼家十郎、珊之助が曾我廼家五郎を名乗る。1904年(明治37年)2月、道頓堀「浪花座」にて狂言『無筆の号外』を上演して人気を得る。この際、時期が日露戦争の開戦と重なって十郎は尻込みしたが、五郎の牽引で興行した。
井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久… 井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久元年4月28日) - 1951年(昭和26年)1月13日)は、日本の医学者、眼科医。島根県生まれ。 島根県邇摩郡宅野村(現・大田市仁摩町)に井上柳葊の三男として生まれる。1880年、島根県医学校に入学。1884年に同校を卒業後、1887年、獨逸学協会学校入学。1889年からドイツへ留学し、ベルリン大学やミュンヘン大学などで研鑽を積む。1895年に医学博士の学位を取得。 1896年、帰国して東京眼科病院を開院。1909年、ミュンヘン大学の恩師であるアウグスト・フォン・ロートムントの処方箋を参考に目薬を処方し、信天堂山田安民薬房(現ロート製薬)の山田安民が「ロート目薬」として調製・発売。
萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年… 萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年6月6日) - 大正13年(1924年)1月31日)は、日本の歴史学者・国文学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。 ※日付は明治5年まで旧暦
渡邊 魁(わたなべ かい、安政6年5月6日〈1859年6月6… 渡邊 魁(わたなべ かい、安政6年5月6日〈1859年6月6日〉- 大正11年〈1922年〉12月26日)は、明治中期の日本の裁判官。脱獄囚であったが、戸籍を偽って別人になりすまし、裁判官となったという特異な経歴で知られる。 安政6年(1859年)5月6日、島原藩士渡邊平丁の長男として江戸に生まれる。 商法講習所(一橋大学の前身)で学んだ後、三井物産長崎支店に勤務した。同支店では金銭出納を担当していたが、明治12年(1879年)2月以来、支店長の検印を盗み、会社の切符を偽造して三井銀行から金を盗み、出納簿を改竄し、460余円を横領。これが発覚し、同年7月2日、改定律例の「雇人盗家長財物律」により、終身懲役の有罪判決を受ける。
鳥海 哲四郎(とりうみ/とりのうみ てつしろう、1859年6… 鳥海 哲四郎(とりうみ/とりのうみ てつしろう、1859年6月6日(安政6年5月6日) - 1914年(大正3年)4月6日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 松沢与五郎の四男として出羽鶴岡藩領飽海郡牧曽根村(山形県飽海郡北平田村を経て現酒田市)に生まれ、1877年(明治10年)同郡上蕨岡村上寺(蕨岡村を経て現遊佐町)の鳥海午治郎の養子となる。蕨岡村会議員を経て、1896年(明治29年)飽海郡会議員、1899年(明治32年)より山形県会議員を務めた。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では山形県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 1907年(明治40年)蕨岡村長となり、1913年(大正2年)再選した。