百目鬼 恭三郎(どうめき きょうざぶろう、1926年(大正1… 百目鬼 恭三郎(どうめき きょうざぶろう、1926年(大正15年)2月8日 - 1991年(平成3年)3月31日)は日本の新聞記者、文芸評論家。匿名で発表した原稿も多い。 北海道小樽市に生まれ、群馬県前橋市に育ち、旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。旧制新潟高等学校で丸谷才一と知り合う。東京大学文学部英文学科を卒業後、母校群馬県立前橋高等学校勤務を経て、補欠社員募集に応じて朝日新聞社に入る。入社当初は宇都宮支局にて刑事事件の記事を書いていた。 入社4年後に東京本社学芸部に転属。まもなく安西均の後任として詩壇を担当したが、現代詩に疎いため、大学時代の友人である篠田一士にたびたび意見を訊いていた。
秋吉 良雄(あきよし よしお、1926年(大正15年)2月8… 秋吉 良雄(あきよし よしお、1926年(大正15年)2月8日 - 没年不詳)は、日本の大蔵官僚。北海道開発事務次官、武富士社長、同副会長などを務めた。 大分県別府市出身。1947年9月:東京帝国大学法学部政治学科卒業。1947年10月:復興金融公庫経理部書記。1947年12月:高等試験行政科を合格。 1947年12月:大蔵省入省。管理局属。1949年6月:管財局外国財産課。1949年6月:門司税関監視部付。 1949年12月:門司税関長官房付。1950年5月:八戸税務署長。1952年3月:仙台国税局総務部総務課長。 1953年7月:主計局主計官補佐。1953年9月:主計局主計官補佐(農林係)。
稲垣 真美(いながき まさみ、1926年2月8日- )は、日… 稲垣 真美(いながき まさみ、1926年2月8日- )は、日本のノンフィクション作家、評論家。美学、プラトンを専攻。2012年、筆名を稲垣太瑚に変更した。 日本文芸家協会、日本ペンクラブ各会員、全日本国際酒類振興会会長。 京都府八幡町(現八幡市)生まれ。浄土宗の仏教学者を父にもち、幼時から少年時まで京都・鴨川沿いで育つ。 当時の木内重四郎京都府知事の構想で、大正7年実験的に特殊な英才教育を実施した京都府立師範学校附属小第二教室で学んだ。 第一高等学校 (旧制)を経て東京大学文学部美学美術史学科卒。1955年、同大学院修士課程修了。 1965年「苦を紡ぐ女」で直木賞候補。「花粉になった女」で岸田戯曲賞候補。
末包 良太(すえかね りょうた、1925年(大正14年)2月… 末包 良太(すえかね りょうた、1925年(大正14年)2月8日 - 1987年(昭和62年)10月24日)は、昭和時代の計算機科学者。 京都市に生まれる。第三高等学校、東京帝国大学工学部航空学科を経て1948年(昭和23年)同大学応用数学科を卒業。同大助手を経て1951年(昭和26年)電気試験所材料部数学研究室に勤務し、駒宮安男とともに1952年(昭和27年)継電器式自動計算機のパイロットモデルETL Mark Iを完成させた。これは日本初の逐次式自動計算機であった。のち駒宮と共に大型継電器式自動計算機ETL Mark IIの開発に着手し、1955年(昭和30年)高木正英や桑原繁らとともにこれを完成させた。
古田 光(ふるた ひかる、1925年2月8日 - 2007年… 古田 光(ふるた ひかる、1925年2月8日 - 2007年3月17日)は、日本の哲学研究者。横浜国立大学名誉教授。 中国・撫順市生まれ。1944年第三高等学校卒業。1947年東京文理科大学卒業。1954年横浜国立大学講師、1969年助教授、1970年教授。1990年定年退官、名誉教授、唯物論研究協会委員長、富山国際大学教授。 2004年4月瑞宝中綬章受章。2007年3月17日、胃癌のため死去。
吉沢 伝三郎(吉澤 傳三郎、よしざわ でんざぶろう、1924… 吉沢 伝三郎(吉澤 傳三郎、よしざわ でんざぶろう、1924年2月8日 - 2003年4月15日)は、日本の哲学・倫理学研究家。ニーチェを主とした近代ドイツ哲学研究で知られる。東京都立大学名誉教授。 1924年(大正13年)、大阪府に生まれる。1941年(昭和16年)に大阪府立高津中学校を卒業後、旧制一高に進学。1949年(昭和24年)に東京帝国大学文学部倫理学科を卒業。和辻哲郎から教えを受けた最晩年の弟子の一人であり、和辻にその人柄と秀逸な研究をこよなく愛された愛弟子だった。 卒業後は東京都立大学教授となる。1987年に定年退官。2003年に死去。急死した最愛の長男の墓に永眠している。 専門は近代ドイツ哲学。
稲田 悦子(いなだ えつこ、1924年2月8日 - 2003… 稲田 悦子(いなだ えつこ、1924年2月8日 - 2003年7月8日)は、日本の女性フィギュアスケート選手、コーチ。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックのフィギュアスケート競技女子シングル日本代表。戦前、戦後合わせて全日本選手権7回優勝。日本の女子フィギュアスケートの先駆者でもあった。大阪府大阪市出身。梅花高等女学校卒業。 1924年(大正13年)、大阪の稲田時計店の末娘として生まれた。1932年(昭和7年)、8歳のときから永井康三にスケートの指導を受け、才能を開花させた。1933=1934年、全日本ジュニア選手権優勝。1934~1935年、全日本選手権優勝した。1935年11月の日本代表選考会で、総得点1745.3点で2位の東郷球子を300ポイント以上引き離して優勝した。
荒木 健治(あらき けんじ、1924年2月8日 - )は、熊… 荒木 健治(あらき けんじ、1924年2月8日 - )は、熊本県出身 の元プロ野球選手。
久米 明(くめ あきら、本名:同じ、1924年2月8日 - … 久米 明(くめ あきら、本名:同じ、1924年2月8日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーター。元日本大学芸術学部教授。1992年紫綬褒章。
山田明(やまだ あきら、1924年2月8日 - )は日本の大… 山田明(やまだ あきら、1924年2月8日 - )は日本の大蔵官僚。 岡山県出身。京都帝国大学経済学部卒業。岡山県立岡山商業高等学校の教師だった1949年3月 国家公務員試験に合格。同年5月 大蔵省入省。大阪財務局国税調査部第二課配属。1953年11月 敦賀税務署長。1959年7月 東海財務局総務部総務課長。1961年7月 管財局国有財産第三課長補佐。1963年2月 長崎税関総務部長。1964年7月 神戸税関監視部長。1967年8月 大臣官房付。同年10月 総理府内閣総理大臣官房参事官。1969年8月 石油開発公団資金部長。1971年6月 大臣官房参事官。同年7月 大臣官房付。同年10月 退官。
佐治 守夫(さじ もりお、1924年2月8日 - 1996年… 佐治 守夫(さじ もりお、1924年2月8日 - 1996年11月9日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 山形県出身。旧制山形高校を経て、1948年東京大学文学部心理学科卒。国立精神衛生研究所厚生技官、1967年東京大学教育学部助教授、1969年教授。1984年定年退官、名誉教授。日本・精神技術研究所心理臨床センター所長。日精研心理臨床学院長。1956年よりスタンフォード大学、WHO本部その他に学ぶ。専門は心理療法、カウンセリング。ロジャーズが提唱したクライアント中心療法を導入した。
長尾 十三二(ながお とみじ、1924年2月8日 - )は、… 長尾 十三二(ながお とみじ、1924年2月8日 - )は、日本の教育学者。専門は西洋教育史。特にアドルフ・ライヒヴァイン(de:Adolf Reichwein)を研究した。 名古屋市出身。1952年東京文理科大学教育心理学特別研究生前期課程修了、65年「プロイセン絶対主義の崩壊過程における教育政策の研究 Abiturientenexamenの実施過程を通してみた」で東京教育大学教育学博士。東京教育大学助教授、教授、1975年立教大学教授、1985年中央大学文学部教授。93年退任。
渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)… 渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)2月8日 - 2013年(平成25年)6月22日)は、秋田県秋田市出身の元プロ野球選手。 秋田市立土崎商業学校(現:秋田市立秋田商業高等学校)卒業後、1941年に阪神軍に入団。その後、1944年(昭和19年)に応召。 1946年から大阪タイガースに復帰。同年は開幕投手を勤め、10勝を挙げる(12敗)。同年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間が僅か55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合ではパシフィック先発の湯浅芳彰と投げ合い、被安打5・88球で完封勝ちした。
黒木 三郎(くろき さぶろう、1922年2月8日 - 201… 黒木 三郎(くろき さぶろう、1922年2月8日 - 2010年2月20日)は、日本の法学者、弁護士、早稲田大学名誉教授。愛知大学教授や日本法社会学会理事長を務めた。日本学術会議会員。専門は民法、法社会学。 九州大学在学中、福岡市内で開かれた学徒出陣式で学生代表として答辞を述べる際の原稿に「戦火がおさまったときには銃をペンにかえて学園に戻る」と書いたことが検閲に引っかかった。のちに「言論を封じ込め、学生から学問を奪い取り、死まで強要する体制に疑問を感じた。」と述べ、この体験から護憲を掲げて、青島幸男が当選を果たした1995年の東京都知事選挙に無所属で出馬した。選挙では社会党の政策立案にも携わった東京大学名誉教授の大内力が応援に駆け付けたものの、結果は284,387票(得票率6.12%)しか得られず落選した。
谷 資信(たに すけのぶ、1922年2月8日 - 1999年… 谷 資信(たに すけのぶ、1922年2月8日 - 1999年5月10日)は、日本の建築構造学者、構造家。早稲田大学名誉教授。 1922年、東京に生まれる。1945年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、早稲田大学専門部工科専任講師。1949年早稲田大学理工学部専任講師に転任。1953年同大学助教授就任。1960年工学博士。1963年同教授就任。1981年、早稲田大学専門学校校長兼務。1992年退職。1979年「耐震要素の配置と復元力特性に関する研究」にて日本建築学会賞受賞。1987年から1988年まで日本建築学会会長。1995年日本建築学会賞大賞受賞。1997年、勲三等瑞宝章受章。 構造設計にスカイハウス(1958年建設,東京都文京区大塚)、古川市民会館(1966 年建設,宮城県古川市)、鎌倉商工会議所会館など多数。
吉田 悟郎(よしだ ごろう、1921年2月8日 - 2018… 吉田 悟郎(よしだ ごろう、1921年2月8日 - 2018年5月21日[信頼性要検証])は、日本の歴史学者。 金沢市に技術者・吉田恵一の子として生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒、成城高等学校卒、1942年東京帝国大学文学部西洋史学科を学徒出陣で繰り上げ卒業、1945年敗戦で復員し、GHQで検閲の仕事をしたのち日本評論社の編集者となる。1952年東京都立広尾高等学校教諭、81年退職。大学非常勤講師として世界史を教える。歴史教育者協議会会員。
吉水 幸夫(よしみず ゆきお、1921年2月8日 - )は、… 吉水 幸夫(よしみず ゆきお、1921年2月8日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。
宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 200… 宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 2001年2月18日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは遊撃手。
大和 英成(やまと ひでしげ、1919年2月8日 - 197… 大和 英成(やまと ひでしげ、1919年2月8日 - 1973年5月30日)は、日本の地理学者。理学博士(東京大学・1959年)(学位論文『低湿地の農業地理学的研究』)。駒澤大学教授等を歴任。 東京都出身。1936年東京府立八中(現・都立小山台高校)、1940年 駒澤大学専門部歴史地理科卒業。日本学園、都立武蔵丘高校で教鞭をとる。1948年 東京外国語専門学校専修科独語科卒業。1951年 法政大学文学部(旧制)地理歴史学科卒業。1951年 駒澤大学文学部兼任講師。1955年 東京大学大学院数物系研究科修士課程を修了し、駒澤大学専任講師。1958年 東京大学大学院博士課程修了し、駒澤大学文学部助教授。
高桑 栄松(高桑 榮松、たかくわ えいまつ、旧姓:桜井、19… 高桑 栄松(高桑 榮松、たかくわ えいまつ、旧姓:桜井、1919年2月8日 - 2016年5月4日)は、日本の政治家、医学者。北海道大学名誉教授、参議院議員(2期)。医学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 長兄は熊本県知事、参議院議員の桜井三郎。 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(現燕市)に10人兄弟の8番目として生まれる。新潟県立巻中学校を経て北海道帝国大学医学部卒業。同大学院博士課程修了。1945年札幌在住の親戚である高桑家の養子となる。1956年より北海道大学へ赴任。医学部長・大学院環境科学研究科長を経て、1980年より公害研究所(現国立環境研究所)所長として筑波研究学園都市で過ごす。同年、紺綬褒章受章。
世良 正利(せら まさとし、1918年2月8日 - 2008… 世良 正利(せら まさとし、1918年2月8日 - 2008年7月31日[要出典])は、日本の心理学者、中央大学名誉教授。人格心理学、社会心理学専攻。ソビエト心理学、日本人論などを研究した。 広島県生まれ。1942年東京帝国大学文学部心理学科卒業。海軍技術研究所、東京女子経済専門学校勤務を経て、中央大学文学部助教授、教授。1979年度から1984年度まで同大学人文科学研究所長。1989年定年退任、名誉教授。2008年7月31日没。[要出典]
永野 藤夫(ながの ふじお、1918年2月8日 - 2002… 永野 藤夫(ながの ふじお、1918年2月8日 - 2002年6月6日)は、日本のドイツ文学者、横浜国立大学名誉教授。ドイツ演劇、キリスト教文学が専門、文芸評論も書いた。 福島県生まれ。1941年、東京帝国大学独文科卒。横浜国立大学助教授、教授。1964年、「宗教改革時代のドイツ演劇 その史的発展の考察」で東京大学文学博士。1976年、定年、名誉教授。 1991年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年6月6日、肺炎のため死去。
丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 -… 丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2009年〈平成21年〉11月24日)は日本の作詞家。本名は西山安吉。丘灯至夫以外にも丘十四夫、河野一郎など数々のペンネームを持つ。 好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』など。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などが知られている。 ペンネームの由来は、新聞記者としての経験から「押しと顔」を逆から読んだものといわれている。新聞記者は押しが強くて面の皮が厚い、と言われることから。
佐川 博男(さがわ はくお、1917年〈大正6年〉2月8日 … 佐川 博男(さがわ はくお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2004年〈平成16年〉12月)は、日本の居合道家、剣道家。段位は居合道範士九段、剣道教士七段。居合の流派は夢想神伝流。 福島県東白川郡塙町で生まれる。1928年(昭和3年)、福島県立白河中学校(現福島県立白河高等学校)に入学し、剣道部に入部。3年生のころ郡山で開かれた剣道大会で大島治喜太の居合演武を見て、居合を志す。 1936年(昭和11年)11月16日、仙台陸軍教導学校を卒業し、軍人として第二次世界大戦では中国戦線に出征した。この戦争での白兵戦の経験から、「日本刀は3人斬ると脂が付いて斬れなくなる」という俗説には否定的であった。
長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 20… 長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 2008年4月29日)は、日本の技術者。 鳥取県鳥取市出身。1939年に東京帝国大学航空学科を卒業後、立川飛行機に入社。キ94の設計主務などを務める。キ94の翼型は「TH翼」という層流翼で、長谷川の研究の応用である(THは長谷川のイニシャル)。終戦に伴い、1946年にトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)に入社。初代トヨエースの主査を皮切りに、初代パブリカ、トヨタスポーツ800、初代カローラの主査を歴任した。1967年に取締役製品企画室副室長に就任、その傍ら初代セリカ・カリーナの開発主査を務める。またそういった量産車以外にもFRP製のスポーティな試作車23A(1956年)なども設計している。
井上 四郎(いのうえ しろう、1915年2月8日 - 201… 井上 四郎(いのうえ しろう、1915年2月8日 - 2010年7月11日)は、昭和期の日本の銀行員。日本銀行理事、アジア開発銀行総裁(第2代)などを務めた。東京都出身。父は1932年に、血盟団事件で暗殺された元大蔵大臣の井上準之助、母は華族・吉敷毛利家の毛利重輔の娘・千代子。 1931年、東京府立一中を四修で修了し、府立高等学校 (旧制)、東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行。日本銀行理事(外国局担当 1967年10月-1972年9月)に就任、ニクソンショックの渦中にあって、当時の柏木雄介大蔵省顧問らと同様、日本銀行を代表して日本市場閉鎖に反対の立場をとった。この間、閉鎖するまでの12日間で当時2200億円の為替差損を生じさせることとなったが、一方で、これは市中銀行が輸出奨励政策の一貫からこれまで巨額のドルを保持していたこと、また、日本の国際収支の“黒字隠し”のためにこの「ドルの保持」が利用されていたこともあって、国家が民間企業の巨額の差損を肩代わりすることで“救った”ものだと評されている 。
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3… 加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。 早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した。 また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。
村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日… 村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日 - 2010年〈平成22年〉5月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(12期)、大蔵大臣(第82代・第91代・第92代)、厚生大臣(第60代)を歴任。税制通で知られ、消費税導入にもかかわった。 新潟県長岡市坂之上町生まれ。株屋をやっていた幸太郎の三男。 長岡市立表町尋常小学校から長岡中学校に進む。長岡中二年の時、母が死去、姉静子に身のまわりの面倒をみてもらうようになった。当時の旧制中学は五年制だったが、中学四年生から旧制高校を受験できた。担任教諭の勧めで一高を受験、合格した。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学法学部を卒業。
春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012… 春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012年)は、日本の国語学者。九州大学名誉教授。 長野県生まれ。春日政治の長男で、親子二代で九州大学国語国文の教授を務めた。旧制福岡県立福岡中学を経て、京都帝国大学文学部国文科卒。1962年「古代国語における存在詞の展開」で九州大学文学博士。福岡経済専門学校教員、福岡商科大学(校名変更、のち福岡大学)助教授、九州大学文学部助教授を経て、教授となる。1978年定年退官、名誉教授、帝京大学文学部教授を務めた。
神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1… 神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1997年4月23日)は、日本の物理学者。神戸大学名誉教授。理学博士。大阪府大阪市出身。
吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991… 吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991年10月13日)は、陶芸家。文化功労者。 山口県萩市出身。本名は寿男。東京美術学校彫刻科卒。萩焼作家協会会長、山口芸術短期大学教授を務めた。1971年日本芸術院賞受賞。1982年日本芸術院会員。1986年勲三等瑞宝章、1990年文化功労者。墓は山口県萩市大井の周鷹寺の墓地にある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8… 浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8日 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 大阪府出身で北野中学卒業後はセミプロ(クラブチーム)の神戸ダイアモンドでプレー。1936年に東京セネタースへ誘われ入団。セネタースの先発投手として活躍し、1940年には初の二桁勝利となる14勝を挙げている。1941年には大洋軍に移籍し、この年も11勝を挙げている。1942年を最後に退団。浅岡は兼任で野手としても活躍し、425試合に出場している。浅岡によると当時のプロ野球はデーゲームのみで開催されていたため、大学の夜間部に通っていた。プロ野球退団後は応召により軍隊に入り、戦後は球界からは完全に離れた。
金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8… 金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8日 - 2007年(平成19年)8月15日)は、日本の官僚、政治家。自治事務次官、鹿児島県知事、自由民主党参議院議員、総務庁長官、参議院協会会長、財団法人井上育英会顧問を務めた。 位階は従三位。勲等は勲一等瑞宝章。学位は法学士(東京大学)。称号は特定非営利活動法人日本居合道連盟名誉範士。 鹿児島県出水郡上出水村(後の出水町)生まれ、現在の出水市出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(のち鹿児島県立鶴丸高等学校)、第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)を経て、東京帝国大学(のち東京大学)法学部卒業後の1938年(昭和13年)、内務省入省(地方局配属)。
鳥越 憲三郎(とりごえ けんざぶろう、1914年2月8日 -… 鳥越 憲三郎(とりごえ けんざぶろう、1914年2月8日 - 2007年3月23日)は、日本の宗教学者・民俗学者・歴史学者。 岡山県出身。関西学院大学法文学部卒、1962年「琉球宗教史の研究」で東京文理科大学(後の東京教育大学)文学博士。大阪学芸大学講師、助教授、1967年校名変更で大阪教育大学助教授、1973年教授。1979年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授。1989年退職。1955年『馬酔木』に投稿し、水原秋桜子に師事した。長男は鳥越皓之。 沖縄戦前の1942年に沖縄県の嘱託で祭祀などを調査。同年、湧上元雄と共に久高島のイザイホーを視察した。また中国雲南省に日本人の起源を求めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
孫 文璟(ソン・ムンギョン、朝鮮語: 손문경、1913年2月… 孫 文璟(ソン・ムンギョン、朝鮮語: 손문경、1913年2月8日 - 1962年12月または1972年1月1日)は、大韓民国の教育者、社会運動家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 日本統治時代の全羅南道高興郡道徳面出身。漢学勉強を経て裡里公立農林学校(現・全北大学校特性化キャンパス)、横浜専門学校法科、明治大学法学部卒。1950年の第2代総選挙では高興甲選挙区から出馬したが、8,355票を獲得しても朴八峰に19票差で敗れて落選した。その後の朝鮮戦争中は釜山で避難しながら地方出身の学生の支援を行う社会事業を展開した。1954年の第3代総選挙では候補者の公選を経て、自由党の候補として、高興甲選挙区から国会議員に初当選した。
愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004… 愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月17日)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 1912年、京都府生まれ。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。1951年より東北大学文学部教授。1959年に『キタイ部族制社会の研究』を京都大学に提出して文学博士。1974年に定年退官し名誉教授。 退官後は京都女子大学教授となった。2004年6月17日、肺炎のため死去。子息の愛宕元も東洋史学者(京都大学名誉教授)だった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 19… 藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 1980年3月13日)は、人文地理学者。 和歌山県生まれ。1935年京都帝国大学文学部地理学科卒。和歌山師範学校教授、和歌山大学教育学部助教授、金沢大学法文学部助教授、教授、大阪市立大学教授。1976年定年退官、名誉教授、関西大学教授。ポリネシアの島嶼などを研究した。 1962年京都大学で文学博士。論文の題は「漁村の生態 : 人物地理学的研究」。
多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 -… 多田 勇(ただ いさむ、1911年(明治44年)2月8日 - 1990年(平成2年)3月12日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県香取郡佐原町(佐原市を経て現香取市)で生まれる。1931年(昭和6年)日本大学商業学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を卒業した。 房総新聞記者となる。以後、千葉県砂糖卸商業組合専務理事、同日用品配給統制組合常務理事、千葉県生活用品販売副社長、東日本産業社長、多田印刷社長、千葉県印刷工業組合理事長、全日本印刷工業組合連合会理事、同常務理事、同副会長、日本印刷工業会理事、全国印刷工業健康保険組合理事、千葉印刷団地協同組合理事長、関東五県印刷工業厚生年金基金理事、千葉陸上競技協会会長、千葉県体育協会副会長、同顧問などを務めた。
板原 伝(いたはら つたえ、1910年(明治43年)2月8日… 板原 伝(いたはら つたえ、1910年(明治43年)2月8日 - 1984年(昭和59年)11月7日)は、昭和時代の政治家。農民運動家。高知県土佐市長。 板原信衛、うまの二男として高知県高岡郡高岡町(現土佐市)に生まれる。高岡町高等小学校を中退し、農業に就いた。小作農家として楮加工、養蚕に従事した。 1929年(昭和4年)高知県穀物検査の制度化に反対し、農民運動を進め、制度は廃案となる。その後、岡崎精郎を委員長とする全国農民組合県支部、高東地区で兄の板原正気、西原貞らと共に激しい農民運動を展開した。 1945年(昭和20年)戦後の農民開放指令、農地改革となり、1946年(昭和21年)農民組合が新たに発足し農地改革推進の中心的役割を担うようになる。
鈴木 明良(すずき あきら、1909年(明治42年)2月8日… 鈴木 明良(すずき あきら、1909年(明治42年)2月8日 - 1985年(昭和60年)9月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。落選後は詐欺を生業とし、「M資金事件」の立役者と言われた。 茨城県結城郡江川村(現在の結城市)出身。1928年、茨城県立下妻中学校を卒業。岩佐鉄工所営業部長、朝日海運取締役社長、明商株式会社社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で旧茨城県選挙区から出馬して当選し、その後第24回総選挙まで連続3回の当選を果たした。この間、日本進歩党情報部長、民主党総務、民主自由党総務、衆議院内閣委員長などを歴任した。 1952年の第25回総選挙で落選し、同時に選挙違反で逮捕された。
鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 200… 鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 2005年5月12日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県加世田市(南さつま市)出身。教育者小原國芳の長兄の次男として誕生し、叔父國芳の養子となる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、國芳が校長を務めた旧制成城高等学校を卒業した。1932年京都帝国大学文学部教育学科卒業。その後國芳の娘と結婚し、國芳が養子に入っていた鰺坂家を代わって相続した。静岡県視学官、東京農業教育専門学校教授、鹿児島大学教授を経て、1959年京都大学教育学部教授。1972年に定年退官、名誉教授となる。その後、甲南女子大学学長、文部省教育職員養成審議会会長を務めた。
広田 栄太郎(ひろた えいたろう、1909年(明治42年)2… 広田 栄太郎(ひろた えいたろう、1909年(明治42年)2月8日 - 1974年(昭和49年)5月23日)は、日本の国語学者。 東京生まれ。東京帝国大学卒。二松学舎教授、文部省国語調査官。国語審議会幹事、戦後の国語国字改良に当たる。のち中央大学教授、大妻女子大学教授。在職中に死去。
中村 忠雄(なかむら ただお、1909年(明治42年)2月8… 中村 忠雄(なかむら ただお、1909年(明治42年)2月8日 - 1981年(昭和56年)5月30日)は、日本の政治家。茨城県龍ケ崎市長を務めた(2期)。 茨城県稲敷郡柴崎村(新利根村→新利根町を経て、現在の稲敷市)に生まれる。1931年(昭和6年)に東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)を卒業した。その後、歯科医院を開業する。 1940年(昭和15年)に稲敷郡大宮村(現在の龍ケ崎市)会議員となり、1946年(昭和21年)には議長となる。 龍ケ崎市発足後の1955年(昭和30年)、龍ケ崎市議会議員となる。1966年(昭和41年)、市議会議長に就任した。1975年(昭和50年)、龍ケ崎市長に当選した。
川端 秀子(かわばた ひでこ、1907年(明治40年)2月8… 川端 秀子(かわばた ひでこ、1907年(明治40年)2月8日 – 2002年(平成14年)9月7日)は、作家・川端康成の妻。青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身。旧姓は松林。戸籍名はヒテ。青森県立八戸高等女学校(現・八戸東高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、川端康成と出会う。1931年(昭和6年)12月2日入籍。 康成の没後約十年を経た1983年(昭和58年)に回想『川端康成とともに』を発表。2002年(平成14年)9月7日に死去し、近親者のみでの葬儀・告別式が執り行われた。 JR大森駅西口にある天祖神社の石垣には夫・康成の肖像がある「馬込文士村の住人」レリーフなどと共に何点かのレリーフが飾られ、川端秀子の肖像は断髪したモダンガールとして文士村の女性を紹介するレリーフにある。
古山 一郎(ふるやま いちろう、1907年2月8日 - 19… 古山 一郎(ふるやま いちろう、1907年2月8日 - 1993年(平成3年)10月9日[要出典])は、日本の陸上競技(投擲)選手。早稲田大学在学中に1928年アムステルダムオリンピックに男子円盤投で出場した。 大阪市北区において、古山武造の子として[要出典]生まれる。古山家は旧出雲広瀬藩士[要出典]。四條畷中学(現在の大阪府立四條畷高等学校)卒業後、早稲田大学専門部に入る(『早稲田大学百年史』によれば専門部法律科在籍。専門部は専門学校令に基づく短期課程の高等教育機関)。 早稲田大学在学中の1927年(昭和2年)・1928年(昭和3年)、日本陸上競技選手権大会で円盤投げ競技連覇。 1928年(昭和3年)6月に日本を出発した、早稲田大学競走部のイギリス遠征に参加。
野長瀬 正夫(のながせ まさお、1906年2月8日 - 19… 野長瀬 正夫(のながせ まさお、1906年2月8日 - 1984年4月22日)は、日本の詩人・児童文学作家。
佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989… 佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989年5月20日)は、日本の哲学者、文芸評論家・同人作家。 茨城県生まれ。1928年東京帝国大学哲学科卒。1937年法政大学講師。三木清とともに『文學界』同人となる。 戦後1951年法政大学教授。1973年退任。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岩倉 具栄(いわくら ともひで、1904年〈明治37年〉2月… 岩倉 具栄(いわくら ともひで、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1978年〈昭和53年〉11月2日)は、日本の英文学者、華族、政治家。東京府出身。貴族院議員。法政大学教授。D・H・ローレンスの研究者。岩倉家第18代当主。勲等は勲三等。その他の栄典は藍綬褒章。爵位は公爵(華族制度廃止まで)。 公爵岩倉具張の長男として、東京府荏原郡上目黒の西郷従徳邸に誕生。当時、父は東京帝国大学の学生だった。父方の曾祖父は岩倉具視で母方の祖父は西郷従道。東京府東京市麹町区に育つ。 父具張が投機に失敗して多額の負債を作ったため、責任を取って官職を辞し、1914年(大正3年)8月29日に隠居。このため、1914年(大正3年)9月5日、学習院初等科5年在学中の具栄が公爵の爵位を継承。
塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8… 塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8日 - 没年不詳)は、日本の実業家。ニチボー第8代社長、ユニチカ第2代会長。 長崎県出身。1926年(大正15年)大阪高等工業学校機械科(現大阪大学)を卒業し、大日本紡績入社。1956年(昭和31年)取締役。1959年(昭和34年)常務取締役。 ブラジル現地の事情に精通していた原乙彦らによって大日本紡績のブラジル進出の準備が進められていた中、1960年8月9日、工場建設の先遣隊として、塩塚(常務)は、市居誠一(ニチボーブラジル初代社長)らと現地に向かった。ちょうどこの年の10月、第3回世界バレーボール大会(女子)がブラジルで開催され、日本代表チーム(東洋の魔女が主力メンバー)のコーチとなった大松博文と選手たちが、アメリカーナ (英語) に先遣隊を訪ね、互いに励ましあった。
森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日… 森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日 – 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 香川県綾歌郡土器村(現丸亀市土器町)で生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学文学部を卒業した。 同年、香川県女子師範学校教諭に就任。以後、同県立坂出高等女学校(現香川県立坂出高等学校)教諭、同県高松第一中学校(現高松第一高等学校)教諭、同校長事務取扱、高松市立高等女学校長、高松第二高等学校長、高松市教育部長を歴任した。1947年(昭和22年)香川県教職員組合中央執行委員長に就任し1年間在任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に香川県地方区から日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。