田村 恒夫(たむら つねお、1926年(大正15年)1月9日… 田村 恒夫(たむら つねお、1926年(大正15年)1月9日 - 2009年(平成21年) 9月18日)は、日本の人形師。徳島県徳島市国府町出身。阿波木偶制作保存会会長。阿波木偶作家協会名誉会長。 徳島県徳島市国府町で生まれる。これまでに小松正利、久米惣七、山口巳鶴に師事。「人形恒」を称する。 1979年(昭和54年)に阿波木偶制作保存会を結成し会長に就任。1988年(昭和63年)、自宅の制作工房をこくふ街角博物館「阿波木偶館」とし、一般公開を行っている。2001年(平成13年)、阿波木偶作家協会副会長に就任し、その後名誉会長に就任する。 2009年(平成21年)9月18日、肺がんのため徳島市内の病院で死去した。
小沢 健志(おざわ たけし、1925年1月9日 - 201… 小沢 健志(おざわ たけし、1925年1月9日 - 2019年7月4日)は、日本の写真評論家、写真研究家。 東京出身。日本大学法文学部卒業。九州産業大学大学院教授、日本写真芸術学会名誉会長などを歴任。写真評論家としては金丸重嶺の弟子にあたる。 日本の幕末から明治期の古写真蒐集の第一人者であり、近代日本の初期写真史研究に先鞭を付けた人物で、多くの著述刊行、講演を行った。 1991年設立の「日本写真芸術学会」にも関わり、設立当初は副会長(3人のうちの1人、初代会長は渡辺義雄)、続いて第2代会長(1998年就任)を歴任した。2002年に会長を退任し名誉会長となった。 2019年7月4日、老衰により死去。
三条 町子(さんじょう まちこ、1925年1月9日 - 20… 三条 町子(さんじょう まちこ、1925年1月9日 - 2022年8月30日)は、日本の歌手。本名は藤田 信子(旧姓:宮野)。三條 町子の表記もある。 青森県八戸市に生まれる。作曲家大村能章の弟子。戦争中は栃木に疎開。 1948年(昭和23年)に上京し、同年、キングレコードから本名の「宮野信子」の名前で「泪のブルース」にてデビュー。他に「黄昏の花園」などを発表した。1949年(昭和24年)、芸名を「三條町子」として発表した「かりそめの恋」が大ヒットし、一躍その名が知られることとなった。1951年(昭和26年)には「東京悲歌」(とうきょうエレジー)も大ヒットした。大津美子の1956年(昭和31年)の代表作「ここに幸あり」はもともと三條町子の吹き込みで曲は制作されたが、三條が出産を控えていた為に、同じレコード会社の当時新人の大津に回ってきたというエピソードがある。
岡安 大仁(おかやす まさひと、1924年1月9日 - 20… 岡安 大仁(おかやす まさひと、1924年1月9日 - 2017年1月12日)は栃木県出身の医学者。 栃木町入舟町(現・栃木市入舟町)に生まれる。旧制栃木県立栃木中学校を経て、日本大学医学部卒業。元日本大学医学部教授。 元日本歯科大学客員教授。ピースハウス病院ホスピス最高顧問。信愛病院ホスピス棟顧問。 兄の岡安恒武は詩人・歯科医、その妻の岡安歌子は日本画家であった。
鮎川 浩 (あゆかわ ひろし、1924年1月9日 - )は、… 鮎川 浩 (あゆかわ ひろし、1924年1月9日 - )は、日本の俳優。本名・熊木 中庸(くまき ちゅうよう)。
藤村 正太(ふじむら しょうた、1924年〈大正13年〉1月… 藤村 正太(ふじむら しょうた、1924年〈大正13年〉1月9日 - 1977年〈昭和52年〉3月15日)は、日本の推理作家、小説家、放送作家。社会派推理小説の作家の一人。別筆名に川島 郁夫。 京城府(現在のソウル特別市)生まれ。第一高等学校を卒業。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1949年、東京大学法学部政治学科を卒業。同年、結核の療養中に本名の川島郁夫名義で投稿した「黄色の輪」が雑誌「宝石」の百万円懸賞に入選。 NHKの犯人当て推理番組「私だけが知っている」の脚本執筆陣に参加。
高柳 重信(たかやなぎ しげのぶ、1923年1月9日 - 1… 高柳 重信(たかやなぎ しげのぶ、1923年1月9日 - 1983年7月8日)は、俳人。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。 3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱・実践し、金子兜太らと共に「前衛俳句」の旗手となった。歌人の高柳蕗子は実子。俳人の中村苑子と事実婚(内縁関係)にあった。
横山 亨(よこやま とおる、1923年1月9日 - 1998… 横山 亨(よこやま とおる、1923年1月9日 - 1998年11月17日)は、日本の金属工学者。第9代横浜国立大学学長。工学博士(東京大学)。 長野県東筑摩郡片丘村北内田(現松本市)生まれ。神奈川県横浜市育ち。旧制横浜第一中学校、旧制第一高等学校を経て、1945年東北帝国大学工学部航空学科卒業。横浜高等工業学校航空工学科助教授となる。1961年横浜国立大学工学部機械工学科教授。1962年西ドイツ・フンボルト研究員として理工学研究所客員研究員となる。1977年 横浜国立大学工学部長。1985年同学長。1988年退官。1996年勲二等旭日重光章受章。 父の横山盛彰は金沢高等工業学校校長を務めた。
高橋 正衛(たかはし まさえ、 1923年1月9日 - 19… 高橋 正衛(たかはし まさえ、 1923年1月9日 - 1999年9月26日)は、日本の編集者、歴史学者、昭和史研究家。元みすず書房取締役。筆名は渡辺正治。 青森県八戸市出身。1943年中央大学専門部経済学科卒業。同年12月学徒動員で入隊。1946年みすず書房の創立に加わり同書房に勤務。1963年から小尾俊人編集長と協力し企画、刊行した「現代史資料」は、1965年第13回菊池寛賞を受賞した。1991年に退職した後は、昭和史研究に従事。
中山 あい子(なかやま あいこ、1922年(大正11年)1月… 中山 あい子(なかやま あいこ、1922年(大正11年)1月9日 - 2000年(平成12年)5月1日)は東京府(現・東京都)出身の小説家。本名、中山 愛子。 長崎の活水女学院を卒業後、結婚したが夫の戦死に遭い、一児(のちの女優中山マリ(燐光群))を抱えて寡婦となる。このため住み込みの英文タイピストとしてイギリス大使館に16年間勤務。退職後は東京神田の貸しビルに住み込み管理人として勤める。その傍ら、『女流』『炎』などの同人誌に小説を発表。1963年(昭和38年)、『優しい女』で『小説現代』の第1回小説現代新人賞を受賞して文壇に登場。『奥山相姦』『幻の娼婦たち』などを発表し、色川武大から「女流の焼跡闇市派」と賞賛される。
武田昌輔(たけだ まさすけ、1922年1月9日 - 2012… 武田昌輔(たけだ まさすけ、1922年1月9日 - 2012年6月25日)は、日本の法学者。 青森県青森市出身。1944年中央大学法学部卒。大蔵省に入り、大蔵省高等財務講習所(現在の税務大学校)第1期となり、主税局税制第一課を経て、1966年成蹊大学経済学部助教授、1967年教授、1988年学部長。1989年退任、名誉教授となる。税務会計研究学会会長、財団法人租税資料館理事長を務めた。専門は法人税法。
飯島 晴子(いいじま はるこ、1921年〈大正10年〉1月9… 飯島 晴子(いいじま はるこ、1921年〈大正10年〉1月9日 - 2000年〈平成12年〉6月6日)は、俳人。 京都府出身、京都府立京都第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)、田中千代服装学院卒。卒業後は服飾関係の仕事に従事。1959年、夫の代理で『馬酔木』の俳句会に出席したことをきっかけに38歳から句作をはじめる。能村登四郎の指導を受け、1960年より『馬酔木』に投句。1964年、『鷹』創刊より同人、代表同人の藤田湘子(のち主宰)を補佐した。1966年、第1回鷹俳句賞を受賞、以後同結社の代表作家として活躍。1970年より現代俳句協会会員。1997年、第六句集『儚々』(ぼうぼう)により第31回蛇笏賞を受賞。
池永 次郎(いけなが じろう、1920年1月9日 - 201… 池永 次郎(いけなが じろう、1920年1月9日 - 2016年1月16日)は、日本の実業家。日魯漁業(現・マルハニチロ食品)の元社長。 東京府出身。東京府立第一中学(現・日比谷高校)四修卒を経て、水産講習所(現・東京海洋大学)卒業。一中ではのちにNHK経営委員長となる竹見淳一らと同期。日魯漁業入社。取締役を経て、1973年に常務、翌年に専務に就任するが、1975年に常務に降格。子会社の日魯工業社長を経て、1981年に日魯漁業に社長として復帰。1986年2月に会長、以後は相談役。
西沢 爽(にしざわ そう、本名、西澤 義久(にしざわ よしひ… 西沢 爽(にしざわ そう、本名、西澤 義久(にしざわ よしひさ)、1919年(大正8年)1月9日 - 2000年(平成12年)7月19日)は、日本の作詞家、元日本作詩家協会会長、文学博士。 東京府出身。1954年(昭和29年)から日本コロムビアの専属となり、島倉千代子「からたち日記」、「恋しているんだもん」「星空に両手を」、美空ひばり「ひばりの佐渡情話」、「波止場だよ、お父つぁん」、水原弘「女の爪あと」、小林旭「さすらい」、舟木一夫「学園広場」など数々のヒット曲を世に送り、戦後の大衆音楽に多大な影響を与えた。 1974年(昭和49年)、休筆を宣言し、作詞活動の第一線から身を引く。その後、中世以降の歌謡曲研究に専念し、「日本近代歌謡史」、「雑学歌謡昭和史」などを著した。
唐津 一(からつ はじめ、1919年1月9日 - 2016年… 唐津 一(からつ はじめ、1919年1月9日 - 2016年8月15日)は、日本の評論家、システム工学者。東海大学名誉教授。 旧満州安東(現丹東)生まれ。東京帝国大学工学部卒業後、逓信省電気試験所を経て、日本電信電話公社(現NTT)に入社。1961年、松下通信工業に移り、1978年常務取締役、1984年には松下電器産業技術顧問に就任。1986年より東海大学開発技術研究所教授。1990年から1993年まで東海大学福岡短期大学初代学長を兼ねた。1998年より東海大学教授。著書多数。 2016年8月15日、老衰のため死去。97歳没。
鈴木田 登満留(すすきだ とまる、1918年1月9日 - 没… 鈴木田 登満留(すすきだ とまる、1918年1月9日 - 没年不明)は、熊本県出身のプロ野球選手。
大塚 武(おおつか たけし、1917年(大正6年)1月9日 … 大塚 武(おおつか たけし、1917年(大正6年)1月9日 - 1983年(昭和58年)8月30日頃)は、日本の銀行家。北洋相互銀行取締役社長、日本銀行事務管理部長、北海道経営者協会会長などを歴任した。 静岡県静岡市出身。静岡県立静岡中学校を経て、1941年東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。卒業と同年に日本銀行に入行する。学生時代は年間百日以上も山登りに費やしたが、高橋泰蔵ゼミナールでは抜群の成績で、入行後も、2度ぐらい大学に戻らぬかといわれた逸材であった。 1953年に通商産業省に出向する。日銀に戻って外国為替局次長、新潟支店長を歴任後、1964年から札幌支店長を務め、大学同窓の森鼻武芳(のちに北海道銀行頭取)とゴルフや囲碁を嗜み、交遊を持つようになる。
岡本 彰祐(おかもと しょうすけ、1917年(大正6年)1月… 岡本 彰祐(おかもと しょうすけ、1917年(大正6年)1月9日 - 2004年(平成16年)11月1日)は日本の医学者。止血剤:ε-アミノカプロン酸とトラネキサム酸、抗血栓薬:アルガトロバンの開発者として知られている。 東京生まれ。22歳で結核のために亡くなった長兄の「病気を治す薬の研究」の願いもあり、麻布中学卒業後、慶應義塾大学医学部へ進学。医学の真理を究めることが第一で、応用は邪道と考える当時の風潮の中、学問の真理の探究を通じて治療法を研究すべく、自由なテーマで研究のできる生理学教室を選ぶ。 1941年(昭和16年)6月、慶應義塾大学医学部を卒業、10月より生理学教室助手として、加藤元一、林髞の指導の下、神経・筋生理学の研究に従事。
長瀬 恒雄(ながせ つねお、1917年1月9日 - 2006… 長瀬 恒雄(ながせ つねお、1917年1月9日 - 2006年6月29日 )は、日本の経営者。 岐阜県高山市出身。1941年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に鉄道省に入省した。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 国鉄で常務理事などを歴任し、1970年5月に日本交通公社(現在のJTB)常務に就任し、専務を経て、1976年6月に社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。 2006年6月29日、死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
景山 春樹(かげやまはるき、1916年1月9日-1985年7… 景山 春樹(かげやまはるき、1916年1月9日-1985年7月22日)は、日本の神道・仏教美術学者。 1916年、滋賀県大津市で生まれた。景山家は比叡山公人の家系であった。國學院大学文学部国史学科で学び、1939年に卒業。 1939年5月、京都市教育局学務課に入職。1941年1月、恩賜京都博物館鑑査員となった。1944年に応召し、1946年に復員。 1947年に文部技官となり、京都国立博物館考古室長兼普及室長を務めた。1964年、学位論文『神道美術の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1970年に京都国立博物館学芸課長となり、1976年に退官。 1976年4月からは帝塚山大学教授として教鞭をとった。
木戸口 久治(きどぐち ひさはる、1916年1月9日 - 2… 木戸口 久治(きどぐち ひさはる、1916年1月9日 - 2005年1月7日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。石川県出身。 1942年(昭和17年)9月に中央大学法学部を卒業。同年10月に司法官試補となったが、陸軍に召集されてベトナムに出征。復員後に5日間だけ検事になったが、「同期より遅く任官しても将来どうなるか」と考え、1948年(昭和23年)1月に弁護士登録をした。 第二東京弁護士会に所属。十条製紙の顧問弁護士を務め、立木の所有権や境界などの紛争があるたびに出かけ、北海道から九州まで全国の山を歩いた。製紙工場の公害問題も地方の人たちと丁寧に話し合い、訴訟に持ち込まれないで解決した。 中央大学理事や第二東京弁護士会会長を務めた。
今井 文男(いまい ふみお、1916年1月9日 - 1995… 今井 文男(いまい ふみお、1916年1月9日 - 1995年12月16日)は、国文学者。専門は俳諧、文学表現。 1916年、愛知県犬山市に生まれる。1935年、青山師範学校本科二部を卒業。1936年、東京高等師範学校文科第二部(国語・漢文専攻)入学、諸橋轍次・垣内松三・能勢朝次の教えを受ける。1939年、東京高等師範学校を3年で修了し、東京文理科大学文学部国語学国文学専攻に入学。 1941年、東京文理科大学を卒業。1950年、金沢大学金沢高等師範学校教授、1952年、東海大学助教授、1954年、金城学院大学助教授、1956年、東京教育大学講師、1958年、金城学院大学教授を歴任。1975年、愛知淑徳大学設立に伴って同大学へ移籍、教授兼文学部長。
田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日… 田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日 - 1982年(昭和57年)6月29日)は、日本の水泳選手。専門は自由形。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。 1916年(大正5年)1月9日、京都府出身。同志社大学在学時の昭和8年度第7回明治神宮体育大会水上競技大会の新人競技の部・男子100m自由形に出場して1分1秒6のタイムで優勝し、注目を集める。 同志社大学から立教大学へ転じて、立教大学在学中の1936年(昭和11年)日本選手権水泳競技大会の競泳男子200m自由形で2分14秒8のタイムで優勝。その年のベルリンオリンピック日本代表選手に選出される。 ベルリンオリンピックでは100メートル自由形で4位入賞を果たし、男子800メートルリレーで、遊佐正憲・杉浦重雄・新井茂雄と共に金メダルを獲得。
高木 晴子(たかぎ はるこ、1915年1月9日 - 2000… 高木 晴子(たかぎ はるこ、1915年1月9日 - 2000年10月22日)は、神奈川県出身の俳人。高浜虚子の五女で、高浜年尾、星野立子らの妹。 鎌倉生まれ。1932年フェリス女学院卒業。同年、虚子に京都の句会に連れて行かれ、初めて句会に出る。これ以降、虚子に師事する。1934年、日本銀行勤務の高木良一(餅花)と結婚、大森山王に居住。1944年、太平洋戦争中は虚子一家と長野県小諸に疎開した。1945年、秋田市に移住。初めて自分の句会「柿の花」を持つ。1947年「風荒き夜風に雁の帰るかな」「みちのくの帰雁に夜風悲しとも」の句が『ホトトギス』巻頭を飾る。1948年9月、夫が青森へ転勤、浦町字橋本日本銀行舎宅に居住。
佐藤 鉄章(さとう てっしょう、1914年1月9日 - 19… 佐藤 鉄章(さとう てっしょう、1914年1月9日 - 1990年3月20日)は、日本の小説家、古代史家。 秋田県大館市生まれ。本名・有次郎。1941年文部省中等教員検定合格。秋田県下で教育生活を送る傍ら、執筆をつづけ、1949年「北方文芸」主宰、1955年「奥羽文学」を興して主幹となる。1970年上京。息子に佐藤有文。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 19… 岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 1972年7月8日)は、日本の騎手、競走馬調教師。東京競馬倶楽部、国営競馬、日本中央競馬会に所属。騎手時代にはトキノミノル、ゴールデンウエーブなどに騎乗した。 1914年、山梨県中巨摩郡玉幡村(現:甲斐市西八幡)に農家の三男として生まれる。幼少期から農耕馬の世話で馬に親しんだ。19歳の時に上京、東京競馬倶楽部の田中和一郎厩舎(目黒競馬場)に騎手見習いとして入門した。 1934年に正騎手となり、3月に初騎乗。同年9月3日、セイサンで初勝利を挙げた。以後「追える騎手」として徐々に頭角を現す。1940年春にはトキノチカラで帝室御賞典・春(阪神競馬場)を制し、特殊競走(重賞競走)初勝利を帝室御賞典で挙げた。
市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 -… 市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 - 2003年)は、日本の俳優、実業家である。本名牧野 正(まきの ただし)、旧芸名市川 小松(いちかわ こまつ)、木村 正二郎(きむら しょうじろう)。
岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 19… 岩生 周一(いわお しゅういち、1913年1月9日 - 1999年2月5日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・堆積岩岩石学。福岡県久留米市生まれ。 1931年旧制福岡高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学理学部地質学科に入学。1935年同卒業。1938年地質調査所(現:産業技術総合研究所)の技師に任官。1942年第一次山西学術調査研究団に参加した。1953年東京大学教養学部地学教室の教授となる。1969年同理学部地質学教室教授に転任し、1973年定年・退職、名誉教授となる。その後、1973~1978年千葉大学理学部教授を務めた。また、日本学術振興会など諸機関の委員を歴任し、戦後の日本の復興に非金属資源開発の面から大いに貢献した。
本城 和彦(ほんじょうまさひこ、1913年1月9日 - 20… 本城 和彦(ほんじょうまさひこ、1913年1月9日 - 2002年8月29日)は、日本の建築家・都市計画家で1955年に設立された日本住宅公団の初代建築部設計課長、東京大学都市工学科教授を歴任。また国連地域開発センター(UNCRO)所長をつとめ、発展途上国の開発問題に取り組み国際的に活躍。 公団技術課長時代新たな台所を浜口美穂らと企画し「ダイニング・キッチン」という造語を生み出した人物としてもしられる。 著書に、『都市住宅地の設計』 (計画編、技法編、建築設計講座、理工図書)『建築家の休日―イラン・トルコ・ギリシャ家族旅行』(鹿島研究所出版会)『世界の現代建築』『建築学大系 3. 建築経済』『フランスの優先市街化地域制度による団地建設の現況調査』『社会発展段階に応じた住宅地再開発のあり方 アメリカにおける再開発の研究』(昭和40年度委託研究, 日本住宅公団建築部調査研究課)『住宅の経済学』(編集、日本経済新聞社, 1968)『私と建築・短歌』(編集、1970)など。
斎藤 正二(さいとう しょうじ、1913年〈大正2年〉1月9… 斎藤 正二(さいとう しょうじ、1913年〈大正2年〉1月9日 - 1999年〈平成11年〉7月22日)は、日本の社会学者。俳人。栃木県生まれ。1941年日本大学社会学科卒、同助手、予科講師、1949年日大文理学部助教授、1957年教授、1966年「日本社会学成立史の研究」で日本大学文学博士。1977年人文科学研究所長、1983年定年、名誉教授、1986年勲四等旭日小綬章受勲。宵路の名で俳句も作った。
村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45… 村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45年)1月9日-1989年(平成元年)3月23日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史、明治維新史、鹿児島県の郷土史。鹿児島女子短期大学教授。西郷隆盛研究の第一人者だった。また、教育者として鹿児島県立甲南高等学校の教員や県立高等学校の校長等を歴任。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1930年(昭和5年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1934年(昭和9年)旧制第七高等学校造士館卒業。1938年(昭和13年)東京帝国大学文学部国史学科卒業。同年5月より文部省維新史料編纂事務局嘱託。大日本青少年団本部文化部を経て、帰郷し1944年(昭和19年)5月に母校・第二鹿児島中学校の教諭となる。
佐伯 秀男(さえき ひでお、1912年1月9日 - 2003… 佐伯 秀男(さえき ひでお、1912年1月9日 - 2003年11月1日)は、日本の俳優、ファッションモデル、ボディビルダーである[4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。本名は鬼武 秀治(おにたけ ひではる)[4][5]、1956年 - 1959年の一時期、三原 秀夫(みはら ひでお)と名のった時期があり[7][8][9][10][12][14][17]、佐伯 泰輔(さえき たいすけ)の別名も持つ[9][10][12][18]。
阪上 安太郎(さかがみ やすたろう 1912年(明治45年)… 阪上 安太郎(さかがみ やすたろう 1912年(明治45年)1月9日 - 1984年(昭和59年)2月27日)は、日本の政治家、水球選手。衆議院議員を6期務め、衆議院功労議員として表彰された。 1932年ロサンゼルスオリンピック、1936年ベルリンオリンピックに出場した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
友永 丈市(ともなが じょういち、1911年(明治44年)1… 友永 丈市(ともなが じょういち、1911年(明治44年)1月9日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。海兵59期。ミッドウェー海戦に空母「飛龍」飛行隊長(艦上攻撃機操縦員)として参加し、ミッドウェー島空襲の総指揮官を務め、その後に米機動部隊への雷撃隊を指揮して戦死。最終階級は海軍中佐。 1911年(明治44年)1月9日、大分県別府市に生まれる。大分中学校を経て、1928年(昭和3年)4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年(昭和6年)11月 海軍兵学校59期を卒業。1933年(昭和8年)4月重巡洋艦「愛宕」乗組。11月、第25期飛行学生を拝命。1934年(昭和9年)7月 飛行学生を卒業。
鈴木鵬于(すずき ほうう、1910年(明治43年)1月9日 … 鈴木鵬于(すずき ほうう、1910年(明治43年)1月9日 - 1944年(昭和19年)3月22日)は日本の俳人。作家。本名は鈴木邦(ほう)。 愛知県渥美郡泉村(現田原市)に生まれる。幼い頃より頑健ではなく病弱だったため、遠方通学の無理がたたり体調を崩し、成章中学(現愛知県立成章高等学校)を中退。中退後は、静養のかたわら文学書を読み耽っていた。そんな折、前隣りの旅籠旅館盛義海水亭の主人であった川合茂助(俳号華光)から俳句を勧められ、俳句誌『石楠』に投稿するようになる。 などの句で、石楠同人に名を知られるようになった。 石楠俳人の主と好人物の女将の経営する盛義海水亭は、石楠同信の来訪には絶好の場所となり、臼田亞浪をはじめまさに多士済々であった。
山口 平四郎(やまぐち へいしろう、1910年(明治43年)… 山口 平四郎(やまぐち へいしろう、1910年(明治43年)1月9日 - 2010年(平成22年)1月17日)は、日本の地理学者。立命館大学名誉教授。元人文地理学会会長。授勲勲三等瑞宝章。 日本において第二次世界大戦前から一貫して交通地理学研究を続けてきた唯一の人物。人文地理学会の発足に参画し、機関紙「人文地理」の発刊と頒布にも尽力。 陸軍中将・山口勝の四男として神奈川県横須賀市に生まれる。山口家の本拠は東京にあったが、父が軍人だった関係で小学校を2度転校した。小学生時より地理に関心を持ち、世界の高山や大河を表にしたり、国々や都市の人口、産物、鉄道などの統計を収集したりした。東京開成中学校を経て、1927年(昭和2年)4月、浦和高等学校文科甲類入学。
江木 武彦(えぎ たけひこ、1910年1月9日 - 1998… 江木 武彦(えぎ たけひこ、1910年1月9日 - 1998年2月16日)は、日本での話し方教室創始者。言論科学研究所所長、社団法人言論科学振興協会理事長を務め、話し方教室を開き、多くの話し方教室運営者を育成した。江木鰐水の孫。 1910年1月9日、東京都文京区にて、日本の写真術の先覚者と言われる江木保男の次男として銀座で出生。精華小学校、暁星小学校・中学校、福岡高等学校 (旧制)、明治大学(帝大受験浪人し徴兵猶予を受けるため在籍)を経て、1934年、東京帝国大学政治科卒業。1934年、新聞連合社入社、発信部、政治部、北京特派員などとして勤める。新聞連合は日本電報通信社と合併し同盟通信になる。その後、同盟通信社を退社し、新民会首都指導部員になるも約1年で辞任。
中嶋 敏(なかじま さとし、1910年1月9日 - 2007… 中嶋 敏(なかじま さとし、1910年1月9日 - 2007年6月24日)は、日本の東洋史学者。東京教育大学名誉教授。 1910年、石川県生まれ。1927年、旧制静岡県立静岡中学校卒業。1930年、旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。東方文化学院研究員、民族研究所を経て、東京高等師範学校、東京教育大学教授、大東文化大学教授。東京教育大学名誉教授、東洋文庫研究員・評議員。 2007年6月24日、心筋梗塞のため死去。
伊藤 四十二(いとう よそじ、1909年1月9日 - 197… 伊藤 四十二(いとう よそじ、1909年1月9日 - 1976年6月9日)は、日本の薬学者(臓器薬品化学・生理化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1945年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京帝国大学医学部助教授、岐阜薬学専門学校教授、東京大学医学部教授、東京大学薬学部教授、東京大学薬学部学部長、東京大学附属図書館館長、東京大学総長代理、静岡薬科大学学長(第3代)などを歴任した。 兵庫県出身の薬学者である。唾液腺ホルモンに関する研究で知られるとともに、ヒト胎盤性ラクトゲンを世界で初めて発見したことで知られている。日本の生理化学が発展する基礎を作った一人とされており、生物系薬学を確立したことで知られている。
山田 勝美(やまだ かつみ、1909年1月9日 - 1989… 山田 勝美(やまだ かつみ、1909年1月9日 - 1989年4月10日)は、日本の漢文学者。 千葉県出身。広島文理科大学漢文学科卒業後、東京帝国大学文学部支那哲学科研究生として加藤常賢に契金文を学ぶ。1957年「塩鉄論の基礎的研究」で広島文理科大学文学博士。上智大学文学部教授を務め、79年定年、名誉教授。71年中華学術院から名誉哲士号を贈られる。
安孫子清水(あびこ しみず、1908年1月9日 - 1994… 安孫子清水(あびこ しみず、1908年1月9日 - 1994年3月26日)は、日本の政治家である。 1933年日本大学法文学部卒業。 1937年弁理士登録。 1959年自由民主党北区支部事務局長。 1964年滝野川信用金庫理事。 1969年東京都議会議員。1989年まで5期20年間務めた。 1980年11月の秋の叙勲で勲七等から勲五等に叙され、瑞宝章を受章し、1989年11月の秋の叙勲で勲四等に叙され、瑞宝章をそれぞれ受章する。 1994年3月26日、死去した。86歳没。同年4月19日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって従五位に叙された。 桜門紳士録刊行会編『桜門紳士録』桜門紳士録刊行会 昭和57年6月10日
北 猛夫(きた たけお、1907年〈明治40年〉1月9日 -… 北 猛夫(きた たけお、1907年〈明治40年〉1月9日 - 1979年〈昭和54年〉9月1日)は、日本映画の美術監督、プロデューサー、東宝ビルト代表取締役社長。日本映画・テレビ美術監督協会初代理事長。大阪府出身。 弟の北辰雄も映画美術監督。 初期は久保一雄を助手として活躍し、前紀は青柳信雄監督や実写版サザエさんシリーズを中心に、後期は本多猪四郎監督作品やゴジラシリーズ、特撮映画の本編美術監督として活躍する。現代劇、時代劇を問わず、リアリティのある美術設計を得意とした。
蘆原 英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1… 蘆原 英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1981年3月2日)は、日本の音楽・舞踊評論家。本名は敏信。 昭和20年代から40年代にかけて、バレエ評論家の第一人者として活躍した。藤田嗣治の甥。 滋賀県大津市で軍医の四男として生れ、1931年慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。1932年、フランスに留学し、バレエ、シャンソン、演劇を学ぶ。 帰国後、中央公論社に入社。戦後は雑誌「婦人公論」の編集長となる。また、バレエ、シャンソン、演劇の評論家となる。1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加する。 1957年『巴里のシャンソン』で毎日出版文化賞受賞。1962年にフランス政府から芸術文化勲章をうける。
楫西光速(かじにし みつはや、1906年1月9日-1964年… 楫西光速(かじにし みつはや、1906年1月9日-1964年3月19日)は、日本の経済史学者。 大阪市西区出身。1923年、大阪高等学校文科に入学。1926年3月に卒業し、翌月、東京帝国大学経済学部経済学科に入学。1929年に卒業。1958年「下総行徳塩業史」で東京大学経済学博士。大阪の商業学校で教えたのち、1938年に渋沢敬三のアチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)研究員。戦後1948年法政大学教授となり、1950年東京教育大学教授。この間、土屋喬雄を助けて『渋沢栄一伝記資料』を編集。『東京商工会議所史』の編纂に当たったほか、日本資本主義発達史を中心とする多数の著書、論文、社会科の教科書も執筆した。
祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日… 祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の応用化学者である。 愛知県名古屋市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後、工学部に所属し応用化学を専攻した。卒業後は東京工業大学に勤務し、講師を経て助教授として活動する。1936年(昭和11年)より留学のため渡英し羊毛の研究に携わり、その後ドイツに移住しアルカリセルロースの研究にも携わった。 1939年(昭和14年)に帰国後は、その応用として合成繊維(アルカリ繊維素)の研究に携わる。これによって、1941年(昭和16年)に理学博士の称号を得た。翌1942年(昭和17年)より教授に昇格し、1948年(昭和28年)に母校の東京大学に復帰し同大学で教鞭を執る。
藤田 信男(ふじた のぶお、1903年1月9日 - 1992… 藤田 信男(ふじた のぶお、1903年1月9日 - 1992年4月25日)は、大学野球の選手・指導者として活躍した人物である。元法政大学名誉教授。中国・天津市生まれ。 天津市で料亭「敷島桜」を営む家の長男として生まれる。兵庫・伊丹中学(現兵庫県立伊丹高)から法政大学に進み外野手として活躍、主将も務めた。1927年卒業後、監督代理を経て1929年に法大野球部の3代目監督に就任した。日本遠征で訪れたハワイチームのエース若林忠志を勧誘するなどチーム強化に努め、1930年東京六大学秋季リーグ戦でチームを創部初の優勝に導いた。その後1940年まで12年の任期中4回のリーグ優勝を達成、法大野球部の第一次黄金時代を創り上げた 監督を退いた後は東京六大学野球連盟(就任当時は東京大学野球連盟)の理事に就任、戦時下の野球統制に対して飛田穂洲らとともに軍部・文部省による弾圧阻止に奔走した。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。
2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日… 2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日 - 1962年11月22日)は、日本の実業家。玉塚證券社長・会長、日本証券業協会会長、東京証券取引所理事長を歴任。 東京市日本橋生まれ。旧姓は山崎。初代玉塚栄次郎の養子となり、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、玉塚證券入社。玉塚證券社長・会長、玉塚不動産社長、日本証券業協会会長などを歴任。1955年から1957年まで東京証券取引所理事長を務めた。 1962年日本医科大学付属第一病院で胃癌のため死去。享年60。酒が飲めず、地味な性格で、夜の付き合いが苦手なため、敵がいないと評された。 玉塚證券で役員を務めた玉塚和男は子息。ローソン社長などを務めた玉塚元一は孫。
山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 196… 山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 1964年11月23日)は日本の政治家。衆議院議員や青森県知事を務めた。 1901年、北海道久遠村(現せたな町大成区)に青森県出身の漁師の末子として生まれる。実家は貧しく、父は本籍地を捨てて出奔した状態だったので戸籍上は母の私生児扱いであった。1915年、父の郷里である八戸市に移住。八戸中学(現青森県立八戸高等学校)に入学するもストライキ騒動の責任者とされて退学処分を受ける。その後は中央大学の予科に進学。箱根駅伝の走者として活躍し、第2回から第7回まで出場した。在学中に結婚し、長男の竜男が生まれている。 中央大学法学部卒業後、青森県立青森商業高等学校の英語兼民法の教師となるが、大学の先輩である梅村大の衆議院議員立候補を応援するために退職。
佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 199… 佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 1992年4月19日)は、日本の内務官僚、詩人。 岩手県江刺郡米里村(現:奥州市江刺米里)出身。本名は慎一。1925年早稲田大学文学部仏文科卒。内務省に入り、情報局文芸課に勤務。児童向け書籍の統制に大きな役割を果たす。第二次世界大戦後は岩手県庁に勤めたのち、1973年盛岡大学短期大学部生活学園短期大学教授。1985年退職。大学在学中から詩作を始め、1931年詩集『北の貌』を刊行。「詩洋」「文学表現」「風」同人。児童文化運動にも関わり、1964年岩手県教育功労者。 1941年(昭和16年)12月23日に児童文化の統制団体として発足した日本少国民文化協会の設立にあたっては、民間側の城戸幡太郎、波多野完治、百田宗治、上村哲弥、藤田圭雄、吉田甲子太郎、滑川道夫、羽仁説子、稲田達雄、武井武雄とともに官側(内務省)の設立準備委員を務めた。