湊谷 武雄(みなとや たけお、1937年4月9日 - )は福… 湊谷 武雄(みなとや たけお、1937年4月9日 - )は福井県出身の元プロ野球選手、横浜ベイスターズ代表取締役(1997 - 2003年)。選手時代の姓は松井。 福井県立若狭高等学校では1955年、エースとして甲子園に春夏連続出場を果たす。春の選抜では準々決勝に進むが、県尼崎高の今津光男投手に完封を喫する。同年の春季北信越地区大会県予選決勝で、武生高を相手にノーヒットノーランを達成。北信越地区大会でも決勝で大町南高を降し優勝した。同年夏の選手権では、2回戦で立命館高の富永格郎投手に抑えられ敗退。カーブ、ドロップ、シュートが武器だった。高校同期には、後にプロで同僚となる遊撃手の浜中祥和がいた。 1956年に投手として大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。
寺田 縉太郎(てらだ しんたろう、1937年(昭和12年)4… 寺田 縉太郎(てらだ しんたろう、1937年(昭和12年)4月9日 - )は、日本の実業家。BPカストロール名誉会長。ペトロルブ・インターナショナル名誉会長。曽祖父は浅野財閥の創始者・浅野総一郎。Sansan創業者兼代表取締役社長の寺田親弘は三男。 東京都出身。富士産業会長を務めた寺田統一郎の長男として誕生。戦時中は岐阜県揖斐郡に集団疎開を経験した。 1961年(昭和36年)慶応義塾大学経済学部卒業、同年日本石油に勤務。1978年(昭和53年)9月ペトロルブ・インターナショナルを設立し、社長、会長、名誉会長を歴任。 名前の「縉」は中国のめでたい席に必ず飾る赤い絹を指し、縁起のよい意味をとって名が付けられた。
寺内 弘子(てらうち ひろこ、1936年〈昭和11年〉4月9… 寺内 弘子(てらうち ひろこ、1936年〈昭和11年〉4月9日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属。参議院議員(1期)を歴任。 山形県山形市出身。1953年山形市立第二中学校卒。生長の家に入り、国会議員秘書や生長の家政治連合本部婦人青少年問題対策部長などを務める。1983年の第13回参議院議員通常選挙で比例区から自民党公認で立候補したが落選。1986年に藤井裕久の衆院選出馬に伴い繰り上げ当選した。1988年竹下改造内閣で沖縄開発政務次官に就任。翌1989年の宇野内閣でも留任した。同年の第15回参議院議員通常選挙で落選。1993年の第40回衆議院議員総選挙で埼玉5区から無所属で出馬したが落選した。
石黒 誠作(いしぐろ せいさく、1935年4月9日 - )は… 石黒 誠作(いしぐろ せいさく、1935年4月9日 - )は、富山県魚津市出身の元プロ野球選手。 中学時代は県大会で4度の優勝を経験しており、魚津高校でも1年生からレギュラーとして活躍する。 1954年に近鉄パールスに投手で入団。1956年に外野手へ転向し、この年に1軍初出場。 1957年に現役引退。その後は地元で会社員となった。
門田 照子(かどた てるこ、1935年4月9日 - 2022… 門田 照子(かどた てるこ、1935年4月9日 - 2022年1月1日)は、日本の詩人。福岡市出身。 福岡市出身。1954年福岡県立修猷館高等学校卒業、1997年、詩集『抱擁』で福岡県詩人賞、2004年『桜桃と夕日』で現代詩・平和賞、2015年『ロスタイム』で福岡市文学賞を受賞。2018年、福岡県詩人会 第三十三回先達詩人顕彰を受ける。 詩誌「東京四季」「花筏」同人。福岡県詩人会、日本詩人クラブ、日本現代詩人会、日本文藝家協会、福岡県文化連盟各会員、日本現代詩歌文学館評議員。 2022年1月1日、福岡市内の病院で死去。
吉川庄一(よしかわ しょういち、1935年4月9日-2010… 吉川庄一(よしかわ しょういち、1935年4月9日-2010年11月5日)は、日本の原子力工学者。 東京都出身。1958年、東京大学理学部を卒業。プリンストン大学大学院に学び、1961年博士号を取得、プリンストン大プラズマ物理研究所主任研究員となる。1973年帰国して東大の教授となる。1976年プリンストン大に戻り教授。大河千弘とともに核融合実験装置の研究開発を進める。1974年の「核融合への挑戦」で毎日出版文化賞受賞。元妻は画家・評論家の吉川裕子。裕子との二女・マコ・ヨシカワ(en:Mako Yoshikawa)は小説家。 吉川裕子(よしかわひろこ)は、1936年名古屋市に井上五郎の娘として生まれる。
塩島 大(しおじま だい、1934年4月9日 - 1985年… 塩島 大(しおじま だい、1934年4月9日 - 1985年9月20日)は、日本の造園家、建設(都市計画)官僚、政治家である。位階は正五位勲四等、勲章は旭日小綬章。衆議院議員(1期)。日本造園学会常務理事、日本都市計画学会評議員。 長野県北安曇郡池田町生まれ。長野県松本深志高等学校を経て、東京大学農学部入学。1959年(昭和34年)、 大学卒業とともに建設省入省(同期に望月薫雄元建設事務次官)。計画施設課、大阪府土木部、総理府近畿圏整備本部、首都圏整備委員会を経て、1981年(昭和56年)に建設省公園緑地課長を務め、1982年(昭和57年)8月、退官。公園緑地課長の時に、国営アルプスあづみの公園を考案したほか、東京大学・明治大学で講師を務めた。
伊香 輝男(いこう てるお、1934年4月9日 - 2009… 伊香 輝男(いこう てるお、1934年4月9日 - 2009年6月1日)は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ。 同志社香里高校ではエースとして活躍。同志社大学に進学し、2年生から一塁手、外野手も兼ねる。関西六大学野球リーグでは、中心打者として1955年春季リーグで優勝を経験。同年の全日本大学野球選手権大会では準決勝で日大に延長10回惜敗。リーグ通算72試合に出場し、243打数73安打、打率.300、1本塁打の成績を残した。大学同期に青木稔、国松彰(いずれも中退)がいる。 1957年に近鉄パールスへ入団。強肩好打の外野手と期待され、1年目から一軍に定着。2年目の1958年には主に中堅手として65試合に先発出場、翌1959年は主に左翼手として71試合に先発する。
金 宰淑(김 재숙、キム・ジェスク、1934年4月9日 - … 金 宰淑(김 재숙、キム・ジェスク、1934年4月9日 - )は、元在日本大韓民国民団中央本部団長。 中央大学法学部、同大学専攻科(刑事法)。 2000年の民団中央団長選挙に出馬し、地方参政権の獲得、信用組合問題への取り組み、「21世紀委員会」の設置、「福祉問題推進委」などの設置、「組織功労者会」の設置を公約に掲げて、同年3月、中央団長に選出された。
三谷 昇(みたに のぼる、1932年〈昭和7年〉4月9日 -… 三谷 昇(みたに のぼる、1932年〈昭和7年〉4月9日 - 2023年〈令和5年〉1月15日)は、日本の俳優・声優、芸術家。 広島県立福山葦陽高等学校卒業。「文学座」や「劇団雲」を経て、「演劇集団 円」に所属していた。特技は広島弁。 高校時代から演劇活動を開始。1951年に高校を卒業後、画家を志望して東京藝術大学を受験するが失敗。郷里に帰るのが嫌で文学座に裏方として入団した。4年後、役者へと転身した。 絵心は晩年まで持ち続け、舞台でピエロを演じた経験から「役者は道化」と思い定め、ピエロを描いた「道化石」を共演者らに送ったり、新美南吉の童話『いつのことだかどこのことだか』を紙芝居化したり、公演先でスケッチしたりしており、没後には遺作展も開かれた。
大畑 庄作(おおはた しょうさく、1932年4月9日 - )… 大畑 庄作(おおはた しょうさく、1932年4月9日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。
石川 忠久(いしかわ ただひさ、1932年〈昭和7年〉4月9… 石川 忠久(いしかわ ただひさ、1932年〈昭和7年〉4月9日 - )は古典中国文学者。二松学舎大学名誉教授・顧問、桜美林大学名誉教授、日本中国学会顧問、全国漢文教育学会会長、斯文会理事長、六朝学術学会顧問、全日本漢詩連盟会長、漢字文化振興会会長。漢詩の著書・編著多数。号は「岳堂」。
上野 武志(うえの たけし、1931年4月9日 ‐ 2013… 上野 武志(うえの たけし、1931年4月9日 ‐ 2013年9月8日)は、日本の高校野球指導者。東京都(当時は東京府)出身。 現在の豊島区池袋に生まれた。母は宇都宮学園高等学校を経営する上野家の長女で、その弟の上野秀文が同校の校長を務めていた。宇都宮中学を経て、栃木県立宇都宮高等学校では三塁手、早稲田大学教育学部に進み、卒業後は富士機械製造でプレーし、監督も務めた。1959年秋に叔父の秀文から誘われ、宇都宮学園高校野球部コーチとなり、翌年6月から監督に就任。1961年の第43回全国高等学校野球選手権大会に同校を出場させて以降、甲子園常連校となった。1995年の第77回全国高等学校野球選手権大会後に監督を退き総監督になったが、1999年末に引退。
広中 平祐(ひろなか へいすけ、正字体:廣中 平祐、1931… 広中 平祐(ひろなか へいすけ、正字体:廣中 平祐、1931年(昭和6年)4月9日 - )は日本の数学者。ハーバード大学元教授。京都大学数理解析研究所元所長。日本人で2人目のフィールズ賞受賞者である。専門は代数幾何学で、フィールズ賞受賞対象の研究は「標数0の体上の代数多様体の特異点の解消および解析多様体の特異点の解消」。日本学士院会員。
柄澤 昭秀(柄沢 昭秀、からさわ あきひで、1930年4月9… 柄澤 昭秀(柄沢 昭秀、からさわ あきひで、1930年4月9日 - )は、日本の精神医学者。埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。1955年東京慈恵会医科大学卒、同助手、講師、助教授、1961年「精神疾患の脳波的研究」で東京慈恵会医科大学医学博士、1972年東京都老人総合研究所精神医学研究室長、1975年同心理・精神医学部長、副所長、1993年日本社会事業大学教授、1997年定年、聖徳大学教授。老人の精神医学が専門。
岡谷 公二(おかや こうじ、1929年4月9日 - )は、日… 岡谷 公二(おかや こうじ、1929年4月9日 - )は、日本のフランス文学・美術研究者、翻訳家。跡見学園女子大学名誉教授。 東京生まれ。岡谷鋼機創業者一族の出。父の岡谷順之助は岡谷商店副社長で岡谷鋼機取締役。外祖父の高松定一は堀川貯蓄銀行取締役。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を卒業。 父親の指示で慶應義塾予科医学部に進学するが、医学を放棄して東京大学文学部に進学する。1952年東京大学文学部美学美術史学科卒業。大学時代は『第15次新思潮』に参加。 その後ゴーギャン、アンリ・ルソーなど、熱帯に魅せられた画家たちの翻訳、研究を著し、柳田國男の青春期を研究し、友人であった田山花袋の初期作品が、ほぼ柳田自身の悲恋をモデルとしていることをつきとめた。
久里 洋二(くり ようじ、1928年4月9日 - 2024年… 久里 洋二(くり ようじ、1928年4月9日 - 2024年11月24日)は、日本のアニメーション作家、イラストレーター、絵本作家、洋画家。一コマ漫画家としても活動している。本名:栗原 英夫(くりはら ひでお)。 2016年以降、クリ ヨウジ、または姓名の間に中黒を入れたクリ・ヨウジの名義を併用して活動している。 福井県今立郡鯖江町(のちの鯖江市)出身。父は軍人。陸軍幼年学校の受験に失敗後、旧制福井県立武生中学校(のちの福井県立武生高等学校)へ入学。中学時代に終戦を迎えた。1947年、京都市美術学校の入学試験に合格するが、父親が公職追放となり、学費の目処が立たなくなったために進学を断念し、郷里で様々な職業について家計を助けた。
尾花 仙朔(おばな せんさく、1927年4月9日 -2018… 尾花 仙朔(おばな せんさく、1927年4月9日 -2018年5月22日)は、日本の詩人。 本名・三浦敬二郎。東京に生まれ、幼少期は宮城県七ヶ浜町で育つ。札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)卒。仙台市在住。1957年「ユリイカ」に作品が掲載され、『荒地詩集』に参加。岡崎清一郎編集の詩誌『近代詩猟』『世界像』同人を経て、鈴木漠編集の『海』や塚本邦雄主宰の『玲瓏』に随時寄稿。
瀧本 敦(滝本 敦、たきもと あつし、1927年4月9日 -… 瀧本 敦(滝本 敦、たきもと あつし、1927年4月9日 - )は、日本の植物学者、京都大学名誉教授。 山口県岩国市出身。1950年京都大学農学部農林生物学科卒、同大学院中退、1961年「短日植物の花芽形成を支配する光条件」で農学博士。京大農学部助手、講師、助教授を経て、1967年教授、1991年定年退官、名誉教授となる。日本植物学会・日本植物生理学会名誉会員。日本植物生理学会功績賞を受賞。花を咲かせる開化ホルモンを研究した。
古谷 雅樹(ふるや まさき、1926年4月9日 - 2021… 古谷 雅樹(ふるや まさき、1926年4月9日 - 2021年3月29日)は、日本の植物学者、東京大学名誉教授。 東京生まれ。1949年東京帝国大学理学部卒業。1960年理学博士。イェール大学大学院でPh.D.取得。東京大学理学部助教授、69年教授、87年定年退官、名誉教授、理化学研究所国際フロンティア研究システム、日立基礎研究所勤務。フィトクロム研究を推進した。
村山 定男(むらやま さだお、1924年〈大正13年〉4月9… 村山 定男(むらやま さだお、1924年〈大正13年〉4月9日 - 2013年〈平成25年〉8月13日)は、日本の天文学者。国立科学博物館に長く奉職し、生涯を通じて天文普及活動に尽力した。 東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)で出生。父は村山達三(医師、東京都立駒込病院院長)、母方の祖父は宮入慶之助(寄生虫学者、九州帝国大学医学部名誉教授)。 幼少時から天文学に親しみ、5歳の時に望遠鏡で観望した火星をスケッチした。小尾信彌(天文学者)は、誠之小学校(現:文京区立誠之小学校)の同級生であった。 武蔵高等学校(旧制)を経て東京帝国大学理学部化学科を卒業した。村山自身は東京帝大天文学科への進学を希望していたものの、父の「天文学では食って行けない」という意見に従って化学科に進んだ。
堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月… 堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月9日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、京都市出身の日本画家。本名は塩谷 元次。 日本画家堂本印象の長兄、堂本寒星の養子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉田 たすく(吉田祐よしだ たすく、大正11年(1922年)… 吉田 たすく(吉田祐よしだ たすく、大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」の研究・試織を繰り返し、復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士。 鳥取県倉吉市広瀬町の開業医、伊藤琢郎・久代の子として生まれる。8人兄弟の6男。旧制鳥取県立倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)を卒業し、研数専門学校物理科に入学。
二本松 嘉瑞(にほんまつ かずい、1922年4月9日 - 没… 二本松 嘉瑞(にほんまつ かずい、1922年4月9日 - 没年不明)は、日本の元映画監督。神奈川県鎌倉市出身。出生地は福島県。 松竹が製作した唯一の怪獣映画『宇宙大怪獣ギララ』の監督として知られる。 早稲田大学商学部卒業後、同大学文学部演劇科在籍のまま、1948年に松竹大船撮影所に入社。木下惠介、黒澤明などの助監督を担当した。松竹入社前、早稲田中学校の社会科教師で永六輔を受け持っていた。 1951年の『少年期』では助監督として参加するほか、倉木先生役で出演。これは木下惠介の指名によるもので、木下は脚本の執筆段階から倉木先生役に二本松を起用することを考えていたのだとされる 1960年に渡米し、ハリウッドで合成特殊技術を学ぶ。
村田 宏雄(むらた ひろお、1919年(大正8年)4月9日 … 村田 宏雄(むらた ひろお、1919年(大正8年)4月9日 - 2002年(平成14年)11月)は、日本の社会心理学者。 東洋大学社会学部教授を経て、同大学名誉教授。 大阪府生まれ。1943年東京帝国大学文学部社会学科卒業、最高裁判所事務官を経て、1959年東洋大学社会学部助教授、1962年教授、1989年定年退任、名誉教授、常磐大学教授。 1995年勲三等瑞宝章受勲。妻のいとこに小林信彦がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈… 高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈大正7年〉4月9日 - 1980年〈昭和55年〉7月30日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1938年(昭和13年)岐阜県師範学校を卒業し、1944年(昭和19年)同研究科を卒業した。 小学校訓導、陸軍伍長、岐阜県下国民学校訓導、中学校教諭、岐阜市教育委員会副委員長、日本社会党岐阜県本部書記長などを務めた。1955年(昭和30年)の岐阜県議会議員選挙に岐阜市選挙区から左派社会党公認で立候補して当選した。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)は社会党公認で当選している。衆議院議員補欠選挙に立候補するため、1964年(昭和39年)12月6日付で県議を辞職した。
大館 勲(おおだて いさお、1917年4月9日 - 2000… 大館 勲(おおだて いさお、1917年4月9日 - 2000年6月8日)はアメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手(一塁手)。1950年から1955年の登録名は「大館 勲夫」(読みは同じ)。
木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 20… 木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 2018年4月30日)は、日本の作曲家。兄は映画監督の木下恵介。兄が監督した映画の音楽を数多く手掛けた。 妻は元音楽プロデューサーでiLabシリーズを販売するパントロン・ワンの創業者である木下美智子(関根光致子)。 静岡県浜松市生まれ。映画監督として有名な木下恵介の弟で、妹に脚本家の楠田芳子がいた。 静岡県立浜松第一中学校(現:浜松北高等学校)を卒業後、1934年に上京し諸井三郎に音楽理論を学び、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学ぶ。1940年卒業、新交響楽団(現NHK交響楽団)の機関誌『フィルハーモニー』の編集に携わるが、応召して敗戦まで内地および支那で軍隊勤務する。
山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 20… 山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 2003年1月14日)は、挿絵画家、アートディレクター。 東京生まれ。東京美術学校工芸科図案部卒業後、東京シネマ漫画映画研究所員、チューデザイングループ主宰。児童文学に関する挿し絵、絵本多数。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
向坂 正男(さきさか まさお、1915年4月9日 - 198… 向坂 正男(さきさか まさお、1915年4月9日 - 1987年8月3日)は、日本の経済学者。 福岡県大牟田市生まれ。向坂逸郎の弟。1938年東京帝国大学経済学部卒、企画院、満鉄調査部に勤務。戦後、経済企画庁に入り、1962年総合計画局長。1966年日本エネルギー経済研究所を設立、所長となり、その後会長となる。1981年国際エネルギー政策フォーラムを作り議長となる。他に電源開発調整審議会委員、原子力委員会委員、総合エネルギー調査会委員、石炭鉱業審議会委員などを兼任した。
種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 199… 種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 1996年9月11日)は、東京府出身の実業家。また、サッカー選手としてもハーフバック、フルバックのポジションでプレーした。叔父は種田虎雄。 東京府立五中(現・小石川高校)、旧制水戸高校を経て、東京帝国大学に入学しア式蹴球部に所属。 在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出された。 本来のポジションはハーフバック(現在の守備的MFに相当)だが、1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツ到着後に現地指導者から指導を受けた日本代表が従来の2-3-5システムから3-2-5システムに変更したため、長身で守備的な種田が3バックの中央のフルバック(現在のスイーパーに相当)にコンバートされた。
川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 -… 川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 - 2002年4月16日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。後に日本ラグビーフットボール協会第9代会長。 京都府立京都第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、早稲田大学(以下、早大)に進学。1937年度シーズンには早大の主将を務め、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦の制覇に貢献。また日本代表選手として、1936年のニュージーランド学生代表 (NZU) 戦でキャップ1を獲得した。 その後、1987年〜1992年まで関西ラグビーフットボール協会会長(後に同協会名誉会長に就任)、1992年〜1994年まで日本ラグビーフットボール協会第9代会長を務めた。
戸田 弘(とだ ひろむ、1914年4月9日 - 1980年3… 戸田 弘(とだ ひろむ、1914年4月9日 - 1980年3月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。 愛媛県出身。1938年(昭和13年)に東京帝国大学法科を卒業。同年司法官試補となり、その後に東京や広島などに勤務。広島勤務時代には原爆投下に遭うも、直接被害を被らなかった。 1949年(昭和24年)に現行刑事訴訟法のスタートと共に荒しい時代の刑事裁判に取り組み、最高裁調査官、東京地裁判事等を務め、その後、司法研修所教官、浦和地裁所長、横浜地裁所長、大阪高裁判事、高松高裁長官、東京高裁長官等を歴任した。東京地裁八王子支部の裁判長時代には10年間も裁判記録がロッカーに埋もれていた八王子職安事件について「刑事訴追の利益がない」として公訴を棄却した(控訴審では破棄された)。
角田 文衞(つのだ ぶんえい、1913年4月9日 - 200… 角田 文衞(つのだ ぶんえい、1913年4月9日 - 2008年5月14日)は、日本の歴史学者(古代学専攻)。学位は、文学博士。従四位勲三等瑞宝章。大阪市立大学教授、平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授、財団法人古代学協会理事長を歴任。 1913年、福島県伊達郡桑折町生まれ。成城高等学校在学中から濱田耕作の学問を慕い、京都帝国大学に進学し濱田の指導により考古学を学んだ。 濱田の在職中での病没と、梅原末治との確執がなければ、濱田の後継者となっていたとの説もあるほど将来を期待された学徒であった。 世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。したがって、研究分野は文献史学と考古学の両分野におよんだ。
赤塚 忠(あかつか きよし、1913年〈大正2年〉4月9日 … 赤塚 忠(あかつか きよし、1913年〈大正2年〉4月9日 - 1983年〈昭和58年〉11月28日)は、日本の中国学者。東京大学名誉教授。古代中国哲学・中国文学・金石学に広く業績がある。角川書店『新字源』編者の一人。 1913年、茨城県取手市に生まれた。東京帝国大学支那哲学科で学び、学生時代は宇野哲人や塩谷温に師事した。1936年に大学を卒業。1937年から1941年まで同大学大学院で学びつつ、郁文館中学と神戸商業大学(神戸経済大学)予科に勤務。二度応召して中国大陸に赴き、陸軍大尉として敗戦を迎えた。 戦後、神戸大学と神戸経済大学に勤務。神戸時代には京都大学人文科学研究所の貝塚茂樹の研究会に参加した。
東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)… 東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)4月9日 - 1991年(平成3年)4月18日)は、「いのちの教育」の探求に尽くした日本の教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県出石郡合橋村佐々木(現・豊岡市)にある浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに小学校教師として奉職、多くの著作を著す。1972年(昭和47年)に八鹿小学校校長を最後に定年退職。翌年4月より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務め、1987年(昭和62年)辞任。55年間の教員生活に終止符を打つ。1991年(平成3年)急性硬膜下出血で逝去。東光寺住職。
野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 198… 野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 1984年8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。旧姓高木。
加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月… 加計 慎太郎(かけ しんたろう、1911年〈明治44年〉4月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。蔵座林業社長。通称は八右衛門。加計隅屋23代当主。 広島県出身。加計正文の長男。1937年、法政大学経済科卒業。芸備銀行(現広島銀行)に入る。同行加計支店長に就任。広島県体育協会理事、広島県山県郡体育協会長を兼ねた。 趣味は読書、スポーツ、絵画。宗教は神道。住所は広島県広島市上柳町、山県郡加計町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006… 白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。 1923年、福井市の順化尋常小学校(現・福井市順化小学校)を卒業後、大阪市に移り弁護士・広瀬徳蔵(大阪府会議員を経て立憲民政党代議士)の事務所に住み込みで勤務しながら、成器商業学校夜間部(現・大阪学芸高等学校)に通う。この時期に廣瀬の蔵書を読み漁り漢籍に親しみ独学していった。1930年、京阪商業学校(現・大阪府立芦間高等学校)卒業。 立命館大学専門学部国漢科(夜間)を1936年に卒業。在学中より立命館中学校教諭も務め、1941年には立命館大学法文学部漢文学科に入学。
村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9… 村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9日 - 1942年〈昭和17年〉10月26日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死した。二階級特進により最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)4月9日、長崎県南高来郡島原村新馬場に父円の次男として生まれる。村田家は士族で、祖父・重太郎は戊辰の役に兵士として参加している。重治の幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかったが、相撲と剣道は強かった。中学時代の渾名は「ガジ」であり、当時の級友によれば「決してガジガジの性格から来たものではなく、背が低くてがっしりしていたので、その感じから自然と“ガジ”という渾名が付いたものと思う」という。
宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 197… 宗像 誠也(むなかた せいや、1908年4月9日 - 1970年6月22日)は日本の教育学者、東京大学名誉教授。同僚の勝田守一(教育学)、宮原誠一(社会教育学)と並び、「東大教育の3M(スリー・エム)」と称された。
斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 … 斯波 忠夫(しば ただお、1908年(明治41年)4月9日 - 1988年(昭和63年)5月25日)は、昭和時代の日本の化学者。 東京府出身。東京帝国大学理学部卒業。1953年(昭和28年)東京工業大学教授、1968年(昭和43年)同大学長となる。翌年の1969年(昭和44年)5月、長期学生ストなどの責任を取り辞任。触媒の研究で1964年(昭和39年)石油学会賞を受賞。ほか、石油学会理事・同会長、学術奨励審議会専門委員、触媒学会会長、有機合成化学協会会長などを歴任した。
桜井 志郎(櫻井、さくらい しろう、1907年(明治40年)… 桜井 志郎(櫻井、さくらい しろう、1907年(明治40年)4月9日 - 1976年(昭和51年)3月9日)は、昭和期の農林技官、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は南日。 富山県上新川郡山室村(現富山市)で南日恒太郎の四男として生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。 1931年、東礪波郡油田村三郎丸(砺波町を経て現砺波市)の大地主、12代・桜井宗一郎の養子となり、農林省に入省した。三重県耕地課長、和歌山県農地部長、農林省土地改良課長、同設計課長、同建設部長などを歴任。この間、東京大学講師、日本農業土木学会副会長、国際かんがい排水委員会日本代表なども務めた。
稲葉 秀三(いなば ひでぞう、1907年4月9日 - 199… 稲葉 秀三(いなば ひでぞう、1907年4月9日 - 1996年4月17日)は、日本の官僚、実業家。
平木 謙一郎(ひらき けんいちろう、1907年4月9日 - … 平木 謙一郎(ひらき けんいちろう、1907年4月9日 - 1975年6月12日)は、日本の経営者。福岡県出身。 1930年に東京帝国大学独法学科を卒業し、同年に住友信託に入社。1946年に住友商事に転じ、1949年に取締役、1953年9月に常務、1959年3月に専務、1965年5月に副社長を経て、1966年5月に明電舎社長に就任。1974年11月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1975年6月12日膵臓脳腫のために死去。68歳没。
梅川 文男(うめかわ ふみお、1906年〈明治39年〉4月9… 梅川 文男(うめかわ ふみお、1906年〈明治39年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉4月4日)は、日本の政治家・プロレタリア文学者・労農運動家。三重県松阪市の第6代市長を歴任。 田村元(元衆議院議長・自民党最高顧問)の先輩にあたり、小津安二郎(映画監督)の後輩にあたる。また「堀坂山行」の筆名で多くの詩やエッセイ本を発表している。 1906年(明治39年)4月9日、飯南郡松阪町大字新町(現・松阪市新町)に生まれる。その後、三重県立宇治山田中等学校(現・三重県立宇治山田高等学校)を卒業する。 1924年(大正13年)、松阪第二尋常小学校代用教員となる。1926年(大正15年)、松阪第一尋常小学校に転勤し、準教員となる。
上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996… 上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996年9月7日)は、上田安子服飾専門学校創設者。勲五等宝冠章(1984年)。位階は正六位。大阪府出身。 明治の文人・著作家の上田貞治郎の四女として大阪府泉北郡浜寺村(現・堺市西区)で生まれる。夕陽丘高女卒業。伊東衣服研究所で学び、1941年に上田安子服飾研究所を創設、一時中断の後、戦後に再開し、1948年に「上田安子文化学院」設立。 1949年に大丸顧問デザイナーに就任。1953年、文化服装学院がフランスからクリスチャン・ディオール一行12名(うちモデル7名)を招き、文化服装学院と名古屋・京都・大阪でファッションショーを開催した際、大丸がディオールと独占契約した(1964年まで)。
松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9… 松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9日 - 1990年〈平成2年〉9月19日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県長崎市生まれ。1928年(昭和3年)、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業。同年、長崎税関に入った。長崎税関総務部長、離島振興対策審議会委員を務めた。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で長崎1区に公明党から出馬し、初当選。以後連続2期務める。同年の選挙には立候補せずに引退した。 その他、創価学会副理事長や中央選挙管理会予備委員務めた。 1990年(平成2年)9月19日、心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。
星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月2… 星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月25日)は、戦前の沖縄県の教育者で、沖縄群島政府、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄県石垣市出身。 戦前の教職時代に沖縄民謡「安里屋ユンタ」を基に「新安里屋ユンタ」を作詞したことでも知られる。 1905年(明治38年)4月9日生まれ。1922年(大正11年)に石垣島の白保尋常高等小学校代用教員となる。戦前は教育界に身を置いた。 沖縄戦後は大浜町に就職し、収入役・助役・町長の三役を務めた後、八重山群島議会議員に就任。そして琉球政府発足後の第2回立法院議員総選挙で初当選した。 琉球政府立法院では、当時の保守政党であった沖縄自由民主党の重鎮として活躍する。
中谷 実(なかたに みのる、1904年4月9日 - 1982… 中谷 実(なかたに みのる、1904年4月9日 - 1982年4月)は、日本の経済学者。教育者。 1904年(明治37年)4月9日、大阪府に生まれる。1928年(昭和3年)京都帝国大学経済学部卒業後、同学部講師となり1938年(昭和13年)に助教授、1946年(昭和21年)に教授。1962年 経済学博士 取得、1968年(昭和43年)に京都大学を退官して名誉教授。同年、甲南大学の教授。1972年(昭和47年)から京都学園大学教授、翌年から1980年(昭和55年)まで同大学学長。1982年(昭和57年)4月死去。