山内 久司(やまうち ひさし、1931年〈昭和6年〉11月9… 山内 久司(やまうち ひさし、1931年〈昭和6年〉11月9日 - 2014年〈平成26年〉8月13日)はテレビプロデューサー、元・朝日放送 顧問。朝日放送ドラマ部門チーフプロデューサー担当を務めた他、松田 司の名義でドラマの脚本も執筆した。 大阪市西区出身。京都大学文学部文学科卒業。1955年4月、朝日放送に入社。同期に植草貞夫、澤田隆治、槇洋介がいる。1960年代には脚本家の佐々木守とのコンビによる『お荷物小荷物』を始めとする一連の“脱ドラマ”を、1970年代前半から1980年代にかけては必殺シリーズを世に送り出した。その後は制作部長、制作局長、取締役制作局長、取締役常務、代表取締役専務を歴任。
白石 一郎(しらいし いちろう、1931年(昭和6年)11月… 白石 一郎(しらいし いちろう、1931年(昭和6年)11月9日 - 2004年(平成16年)9月20日)は、日本の作家。「海洋時代小説」「海洋冒険小説」という新分野を切り開いた。 釜山の生まれで、本籍は壱岐市。終戦までは釜山、戦後は佐世保市で育つ。長崎県立佐世保北高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。 大学在学中より、懸賞小説に応募を始め、民放のラジオドラマに投稿した「靴下の穴から」が三席に入選した。卒業後、ゴム会社に就職するが、半年で退職。父の経理事務所で働くかたわら、創作活動に励んだ。1955年、九州時事新聞社の懸賞に応募した「臆病武者」が一席入選、作家デビューを果たす。1957年、「みかん」で山岡荘八奨励賞を受賞、「雑兵」で第10回講談倶楽部賞を受賞。
若林 俊輔(わかばやし しゅんすけ、1931年11月9日 -… 若林 俊輔(わかばやし しゅんすけ、1931年11月9日 - 2002年3月2日)は、日本の英語教育学者、東京外国語大学名誉教授。
横山 貞子(よこやま さだこ、1931年〈昭和6年〉11月9… 横山 貞子(よこやま さだこ、1931年〈昭和6年〉11月9日 - )は、日本の英文学者、京都精華大学名誉教授。本名:鶴見 貞子(つるみ さだこ)。 群馬県富岡市出身。1954年に同志社女子大学英文科を卒業。1956年慶應義塾大学大学院英文科修士課程修了、1957年までイリノイ大学マスコミュニケーション学科に学ぶ。1958年キリスト教教育センター研究員。1959年京都精華大学人文学部講師、1973年助教授、1975年教授。2002年定年、名誉教授。 1960年 5月30日に東京工業大学に教授職の辞表を提出した鶴見俊輔と同年秋に結婚。全学連の唐牛健太郎が活動資金が底をついたため、著名人へのカンパを求めに出した際に鶴見俊輔は10万円出してくれたが貞子は「あの10万円、返して頂戴」と電話している。
水田 珠枝(みずた たまえ、1929年11月9日 - 202… 水田 珠枝(みずた たまえ、1929年11月9日 - 2026年4月18日)は、日本の思想史研究者。名古屋経済大学名誉教授。公益財団法人東海ジェンダー研究所顧問。専門は政治思想史、女性学。 東京府生まれ。1949年津田塾専門学校(現:津田塾大学)英文科卒。1955年名古屋大学法学部政治学科卒、1957年同大大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了、同助手、1962年同朋大学専任講師。1963年東海女子短期大学専任講師、1964年助教授。1965年市邨学園短期大学助教授、1970年教授、1980年市邨学園大学教授、1983年校名変更で名古屋経済大学経済学部教授。1980年「女性解放思想史」で名大法学博士。
花村 えい子(はなむら えいこ、1929年11月9日 - 2… 花村 えい子(はなむら えいこ、1929年11月9日 - 2020年12月3日)は、日本の漫画家・アーティスト。社団法人日本漫画家協会理事、東京工芸大学芸術学部客員教授、フランス国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)の会員。レディースコミックの先駆者で、ミステリのコミカライズも多く手がける。埼玉県川越市出身。 埼玉県川越市で「相模屋庄兵衛」の名で代々続く商家に生まれる。父は花村の祖母が営む相模屋への婿だったが、花村が生まれた後、離婚。母は不在がちで、祖母に育てられた印象が強いと花村は回想している。川越高等女学校に通い、終戦を迎える。その間際に祖母を亡くす。中原淳一に憧れ、女子美術大学へ入学、中退。
小畑 進(おばた すすむ、1928年11月9日 - 2009… 小畑 進(おばた すすむ、1928年11月9日 - 2009年11月26日)は、日本の牧師、神学校教師。関西聖書神学校講師。元東京基督神学校教授、元東京基督教大学講師。 カルヴァン・ メランヒトン・ ノックス・ カイパー・ 植村正久・ 小野村林蔵・ 浅野順一・ 植村環・ 佐波亘・ ウォーフィールド・フルトン・ メイチェン・ ヴァン・ティル・ 岡田稔・ 常葉隆興・ 田中剛二・ 松尾武・ 春名寿章・ 渡邉公平・ 小畑進・ 宇田進・ 丸山忠孝 綱要・ 長老制・ 契約神学・ 全的堕落・ 予定説・ 聖徒の堅忍・ 限定的贖罪 スコットランド・ ウェストミンスター・ ドルト信仰基準
江藤 俊哉(えとう としや、1927年〈昭和2年〉11月9日… 江藤 俊哉(えとう としや、1927年〈昭和2年〉11月9日 - 2008年〈平成20年〉1月22日)は、東京都豊島区生まれのヴァイオリニストである。従四位旭日中綬章。国内外で活発な演奏活動を行ったほか、指導者としても多大な功績を残した。妻は、同じくヴァイオリニストの江藤アンジェラ。 1927年、父俊明、母たかの第2子(長男)として生まれた。父の俊明はNHK教養課職員。「俊哉」の名前は、父が「あやかるように」と、アウアー門下のトーシャ・ザイデルの名にちなんで付けた。1932年、4歳の時に父に連れられ鈴木鎮一を訪れ、鈴木に師事する。これを契機にスズキ・メソードが誕生したと言われ、江藤俊哉は「才能教育第1号」と呼ばれる。
菅原 喜重郎(すがはら きじゅうろう、1926年11月9日 … 菅原 喜重郎(すがはら きじゅうろう、1926年11月9日 - 2019年6月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。位階は従四位。 同志社大学神学部卒業。岩手県東磐井郡東山町(現在の一関市)長を経て、1979年の総選挙に当時の岩手2区から出馬するも落選。翌1980年の総選挙でも落選し、民社党に入党して1983年の総選挙で初当選した。しかし民社党が社会党や公明党・社民連との野党連合路線に向かうことに反発し、1992年3月に民社党を離党。自民党入党を目指して加藤六月グループに入るものの、翌1993年の総選挙では自民党の公認を得られぬまま無所属で戦うことを強いられる。定数4の岩手2区は定数を3に削減された上に民社党も独自候補を擁立、自民党を離党して新生党を結成した小沢一郎の大量得票も影響し落選に終わった。
鈴木 孝夫(すずき たかお、1926年〈大正15年〉11月9… 鈴木 孝夫(すずき たかお、1926年〈大正15年〉11月9日 - 2021年〈令和3年〉2月10日)は、日本の言語社会・社会・環境評論家。慶應義塾大学名誉教授。(財)日本野鳥の会顧問。谷川雁研究会特別顧問。国際文化フォーラム顧問。専攻は言語社会学(社会言語学としばしば同一視されるが、社会学の一分野としての意味合いが強い)。 英語公用語化論、世界環境も積極的に発言した。英語帝国主義批判の主要な論客としても知られた。 1926年東京市青山に生まれる。父親の菫(ただし)は、山脇高等女学校と富士見高等女学校の教頭、校長を歴任した教諭、書道家だった。孝夫は夫婦の4番目の末っ子として生まれた。父親は芸事で弟子を作らなかったが、その点孝夫はその性質を継いでいる。
五條 順教(ごじょう じゅんきょう、大正15年(1926年)… 五條 順教(ごじょう じゅんきょう、大正15年(1926年)11月9日 - 平成21年(2009年)5月16日)は、日本の金峯山修験本宗の僧侶、2代管長、金峯山寺28代管領。 1926年(大正15年)、東南院住職、五條覚澄の長男として吉野に生まれる。旧制五條中学校を経て旧制京都第三中学校に転校。出征して復員後に叡山学院に入学。箱崎文応から四度加行を受ける。叡山学院を卒業後に大正大学文学部史学科に編入、書道部部長になる。 1947年(昭和22年)、大峯修験宗として天台宗から独立する。1948年(昭和23年)から大峯奥駈け修行を22年間続ける。 1952年(昭和27年)、大正大学を卒業して吉野に戻り、東南院の副住職に就任。
東條 敏夫(とうじょう としお、1925年(大正14年)11… 東條 敏夫(とうじょう としお、1925年(大正14年)11月9日 - 2014年(平成26年)10月30日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。陸士59期。 陸軍大将で内閣総理大臣を務めた東條英機の三男。陸軍士官学校在校中に昭和20年(1945年)の敗戦を迎えた。戦後は航空自衛隊に入り、空将補(空軍少将相当)で退官した。
梶原 完(かじわら ひろし、1924年(大正13)11月9日… 梶原 完(かじわら ひろし、1924年(大正13)11月9日 - 1989年(平成元)7月29日)は、日本出身のピアニスト、音楽教育者。日本で演奏活動を始めた後、1954年にドイツに渡り、ヨーロッパ各地で演奏を重ねる。1960年からドイツ西部のベッツドルフにあるアドルフ音楽院でピアノのレッスンを始め、演奏活動を続けるかたわら多くの生徒を育てた。 梶原完は、父梶原國生と母恒子の次男として、1924年11月9日に上海で生まれた。長野県出身の父は満鉄調査部上海事務所に勤めており、音楽を愛する学究肌の人物だった。同じく長野県出身の母は、女子高等師範学校を首席で卒業し、仙台で教師を務めた後に、結婚まで東京の東洋英和女学院でも教えていた。
眞鍋 理一郎(まなべ りいちろう、1924年〈大正13年〉1… 眞鍋 理一郎(まなべ りいちろう、1924年〈大正13年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉1月29日)は、日本の作曲家。東京都神田出身。 父はニコライ学校で学び、神田ニコライ堂で奉職した真鍋理従。幼少期より教会音楽に親しみ、中学校の音楽教師や教会の聖歌隊長などを志す。東京工業大学卒業後、東京藝術大学声楽科(畑中良輔に師事)にて学び、1951年に作曲科へ転科。作曲を池内友次郎に師事した後、池野成の仲介により伊福部昭に師事。イタリアにて映画音楽作曲家のアンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ(イタリア語版)と親交を持った。 藝大卒業後、親戚の伝手により映画音楽家の吉澤博に師事し、その後吉澤の紹介により仁木他喜雄の助手を務める。
山田 勝久(やまだ かつひさ、1923年〈大正12年〉11月… 山田 勝久(やまだ かつひさ、1923年〈大正12年〉11月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月9日 )は、昭和期の政治家。長野県中野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野県下高井郡平野村(現中野市)生まれ。1941年(昭和16年)3月、下高井農学校(のち長野県中野実業高等学校)卒業後、農業に従事した後、海軍水路部修技所普通科を経て、1945年(昭和20年)6月、仙台陸軍飛行学校を卒業し、終戦時には陸軍中尉。 戦後は中野市農業委員会委員から1966年(昭和41年)11月に同市議会議員に選出され、副議長を経て、1977年(昭和52年)8月、中野市長選挙に当選した。北信地域広域行政事務組合長も兼任し、在任中は工業団地や住宅団地の造成、公共下水道終末処理場の建設、商店街近代化整備事業などに尽力した。
中村 茂(なかむら しげる、1920年(大正9年)11月9日… 中村 茂(なかむら しげる、1920年(大正9年)11月9日 - 2012年(平成24年)12月19日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 長野県小県郡殿城村(現上田市)生まれ。1938年名古屋逓信講習所卒業、上田郵便局に奉職。全逓長野地区書記長、全逓信越地方本部執行委員長などを経た後、1972年の第33回衆議院議員総選挙で長野2区から日本社会党公認で立候補して当選。以来連続6期務める。1990年の第39回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。 2012年12月19日、死去。92歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
崔 容根(チェ・ヨングン、朝鮮語: 최용근、1919年11月… 崔 容根(チェ・ヨングン、朝鮮語: 최용근、1919年11月9日 - 1969年8月25日または1973年1月29日)は、大韓民国の教育者、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は江陵崔氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の江原道江陵郡出身。江陵公立農業学校(現・江陵中央高等学校(朝鮮語版))、春川公立農業学校農林科、盛岡高等農林学校林学科卒。 江陵農高教員、水原農科大学(現・ソウル大学校農科大学)講師、江陵公立農業学校校長、東国大学校講師、大韓教育連合会(現・韓国教員団体総連合会)中央代議員を経て、1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙で自由党の候補として2回連続当選し、自由党江陵甲区党委員長、国会財政経済委員長・予算決算委員長を歴任した。
村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1… 村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1989年11月20日)は、日本の政治家。自由民主党所属衆議院議員(3期)。福田派。
史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 - 2019… 史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 - 2019年9月20日)は、台湾の歴史家、台湾独立運動家。 中国国民党の弾圧を避けて日本に亡命し、『台湾人四百年史』を著した。台湾民主化後、帰国。台湾独立運動の指導者の一人で、「独立台湾会」の設立者。左目を失明している。本名は施朝暉(し・ちょうき、シー・ディアウフイ)。 1918年11月9日、日本統治時代の台北州士林にて出生。父の林済川は台湾の豊原出身で、若い頃に日本に留学して台湾文化協会の活動に関わり、また『台湾青年』の編集に携わる経験を持っていた。母は士林の富豪の施家の出身で、5人兄弟のうち史明だけが母の姓に従っている。 1937年に日本へ渡り、早稲田大学で政治学を学ぶ。
二村 忠元(にむら ただもと、1917年11月9日 - 19… 二村 忠元(にむら ただもと、1917年11月9日 - 1982年12月18日)は、日本の工学者。東北大学名誉教授。専門は電気音響工学。 長野県松本市出身。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校理科甲類を経て、1940年(昭和15年)京都帝国大学工学部電気工学科卒業。 東京大学、東北大学で1年間研究に従事した後、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで、創設時の京城帝国大学理工学部助教授を務める。1946年(昭和21年)、東北大学助教授。1951年(昭和26年)、東京大学から理学博士の学位を取得。1955年(昭和30年)、東北大学教授に昇任。 ダイナミックスピーカーの改良、スピーカアレイの設計法、残響可変装置、電気的な残響付加装置など先進的な研究に取り組む。
朴 商黙(パク・サンムク、朝鮮語: 박상묵/朴商默、1917… 朴 商黙(パク・サンムク、朝鮮語: 박상묵/朴商默、1917年11月9日 - 1983年7月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第5代韓国国会議員。 日本統治時代の京畿道華城郡(現・華城市)出身。京城徽文高等普通学校、中央大学法学部卒。京城新聞・国都新聞・自由新聞・大公新聞記者、自由新報編集部次長、商工日報・産業経済新聞編集部長など20年間マスコミ業界で活動したのち政界に進出し、民主党華城郡党委員長、無所属の第5代国会議員、国会国防委員を務めた。 1983年7月28日、ソウル市麻浦区の自宅で肺癌により死去。享年67または68。
萩谷 朴(はぎたに ぼく、1917年11月9日 - 2009… 萩谷 朴(はぎたに ぼく、1917年11月9日 - 2009年1月24日)は、日本の国文学者。放送作家。大東文化大学名誉教授、二松学舎大学名誉教授。日本文学大賞受賞者。 大阪府南区谷町四丁目(現在の大阪市中央区谷町)の医師・萩谷理平治、清江(すみえ)の三男として生まれる。名前の由来は『論語』「剛毅朴訥」に拠る。両親共に済生学舎を経て、母・清江は大阪初の女医で野口英世と同期生。また、済世学舎女子学生の会「淑徳会」明治26年(1983年)発足時の会員名簿26名に、萩谷すみ子、折口ゑい子(折口信夫の叔母で育ての親・ゑい)とその名が見える。 1937年(昭和12年)に旧制浪速高等学校卒業。野間光辰の薫陶を受ける。
上野 豊(うえの ゆたか、1915年(大正4年)11月9日 … 上野 豊(うえの ゆたか、1915年(大正4年)11月9日 - 2016年(平成28年)3月6日)は、日本の実業家。海運・石油輸送大手の上野トランステック名誉会長、横浜エフエム放送会長。元横浜商工会議所会頭、横浜エフエム放送社長。神奈川県横浜市出身。長男は上野トランステック社長の上野孝。 1937年、旧制横浜高等商業学校(現横浜国立大学)を卒業し、合名会社上野運輸商会に入社。渡辺輝一ゼミ出身。終戦時は陸軍大尉として広島に赴任。被爆するが一命を取り留める。1966年、上野運輸商会社長に就任。1975年株式会社上野運輸商会社長。石油輸送の上野グループを国内大手に育て上げ、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルとのつながりも深く、本国のシェル上層部と直接話のできる数少ないひとりと言われた。
加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992… 加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992年3月19日)は、ドイツ文学者、演劇評論家、劇作家。神奈川県立横浜第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、1939年上智大学卒業。ドイツ文学専攻、東京水産大学助教授、横浜市立大学教授を務め、演劇評論のほか劇作・上演も行い、横浜演劇研究所所長を務めた。ほか、1948年に湘南工業短期大学の前身とされる湘南工業専門学校の教員にも就任している。 (秋 現代日本戯曲大系 第3巻 三一書房 1971)
矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9… 矢崎 博信(やざき ひろのぶ、1914年〈大正3年〉11月9日 - 1944年〈昭和19年〉2月17日)は、長野県茅野市出身の洋画家。 「日本のシュルレアリスムの先駆者」とも評される画家。代表作に「高原の幻影」等がある。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。父源蔵と母とらの の長男として生まれる。実家は「信厚館」という生糸の製糸工業を経営していたが博信が子供の頃に倒産している。父矢崎源蔵は郷土史研究家、河合曾良研究者として知られていた(「信州文壇」1932年(昭和7年) - 1941年(昭和16年)という信州文壇社発行の雑誌に記事を連載していた)。 1921年(大正10年)永明村立永明尋常高等小学校(現・茅野市立永明小学校・茅野市立永明中学校)入学、この頃矢崎家に下宿していた担任の絵画教師、清澤の影響を受ける。
曺 在千(チョ・ジェチョン、朝鮮語: 조재천、1912年11… 曺 在千(チョ・ジェチョン、朝鮮語: 조재천、1912年11月9日または11月19日 - 1970年7月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、裁判官、検察官、警察官、政治家。慶尚北道知事、法務部長官、内務部長官、第3~6代韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は逸雲(イルン、일운)。カトリック教徒。政治家の曺国鉉は親戚。 全羅南道光陽郡津月面またはソウルまたは慶尚北道達城郡出身。1933年大邱師範学校講習科卒。全羅北道青蝦公立普通学校教師、全羅北道南原公立普通学校訓導、全羅北道産業部農務科嘱託を経て、1940年中央大学法学科卒業または中退。在学中の1940年8月朝鮮弁護士試験合格、同年10月日本高等文官試験司法科合格。
田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 19… 田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 1982年12月20日)は、日本の政治家。北海道知事。青森県出身。
水越 貫一(みずこし かんいち、1911年11月9日 - 1… 水越 貫一(みずこし かんいち、1911年11月9日 - 1985年7月26日)は、日本の実業家。中部電力副社長を経て、東海電気工事(現:トーエネック)の社長・会長を務めた。藍綬褒章受章。 愛知県碧海郡(現在の安城市)出身。 1932年、彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)を卒業。卒業後は1年間家業を手伝い、1933年4月、岡崎の旧中部電力に入社した。 その後、1937年9月に東邦電力、1942年に中部配電、1951年5月に戦後の中部電力へと移り、電力会社再編の中で一貫して電気事業に従事した。 1954年7月に中部電力秘書課長となり、1956年6月に経理部財務課長、1959年6月に経理部次長、1960年6月に支配人経理部長、1963年4月に支配人財務部長を歴任した。
高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 200… 高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 2000年1月28日)は、日本の脚本家。 東京生まれ。慶應義塾大学卒。在学中から小説『季節の展望』『素質』『新三田派』を発表した。1939年の映画『若き日の感激』で脚本を担当。以後シナリオ作家として活動し、1951年から東映や大映を中心に映画脚本を執筆した。 2000年1月28日、腎不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 … 榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 - 1983年3月12日)は、日本の新聞記者、政治家。『東海新聞』(『東海愛知新聞』の前身)の創立者の一人。東海新聞社の社長を26年間務めた。また、愛知県議会議員を2期務めた。 愛知県額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に生まれる。祖父の事業の失敗から岡崎市の中心部に一家は移住。文選工見習いをしながら家計を助け、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業。 1915年(大正4年)春、竹内京治が社主を務めていた日刊紙『岡崎朝報』に入る。やや遅れて入社したのが太田光二であった。太田は戯作的色合いの強かった同僚記者とは一線を画し、「時事漫談」という硬派の文章を執筆していたという。
湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 197… 湊 守篤(みなと もりあつ、1908年11月9日 - 1972年8月21日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。 東京都出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1951年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年に日興証券副社長に就任し、1964年から1970年11月までに社長を務めた。 経済同友会副代表幹事、東京都教育委員なども歴任し、木川田一隆と共に安定成長論を唱えた。 1972年8月21日、心筋梗塞のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995… 高師 康(たかもろ こう、1907年11月9日 ‐ 1995年3月26日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、新聞記者。埼玉県北足立郡浦和町(後のさいたま市浦和区)出身。選手時代のポジションはフォワード、ハーフバック。高師康夫とも表記される。 1914年、埼玉師範学校附属小学校に入学し、6年時の1919年に同校で初めて開催された校内試合に出場し優勝した。高師は自著の中で「埼玉県の小学生でサッカーらしいサッカーをやったのは、私たちが最初であろう」と記している。 1920年に旧制埼玉県立浦和中学(現、埼玉県立浦和高等学校)へ進学し、4年時の1923年にア式蹴球部を創部。5年時の1924年に東京高等師範学校主催の全国中等学校蹴球大会に出場した。
杉本 三吾(すぎもと さんご、1906年11月9日 - 19… 杉本 三吾(すぎもと さんご、1906年11月9日 - 1978年8月28日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 山梨県出身。1919年9月に西松組(のちの西松建設)に入社し、1930年に攻玉社工学校土木本科を卒業。1946年1月に理事に就任し、1948年3月に取締役、1956年に常務、1964年に専務、1965年に副社長を経て、1971年11月には社長に就任。1977年6月には会長に就任。 1963年に黄綬褒章を受章。 1978年8月28日、心不全のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
星子 敏雄(ほしこ としお、1905年(明治38年)11月9… 星子 敏雄(ほしこ としお、1905年(明治38年)11月9日 - 1995年(平成7年)7月13日)は、日本の政治家。熊本市長(4期)。位階は正五位。 熊本県鹿本郡稲田村(鹿本町を経て現山鹿市)出身。旧制五高を経て1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年満洲に渡り、関東庁に勤務する。その後奉天省、満州国総務庁で勤務し、1945年満州国警務総局長に就任した。同年、ソ連軍が満州に侵入し、星子はソ連軍に拘束され、シベリアに抑留される。1956年帰国。1963年熊本市助役に就任。1970年熊本市長選挙に立候補して当選、4期16年務めた。1986年に引退。1987年、勲二等瑞宝章受章。1995年死去。
吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 196… 吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 1963年1月27日)は、日本の実業家。電通の経営者で、「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。 1903年(明治36年)渡辺勝五郎の次男として、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれる。勝五郎は市内の鉄工所で働いていたが、秀雄が小学校に上がるころに解雇されてしまう。そこで父は家族のことを考え、1910年(明治43年)、単身台湾に渡ることを決意する。翌年、母親サトは幼い子供を連れて勝五郎に続く。秀雄は小学校2年生、兄は小学4年生、妹は5歳と3歳のときであった。しかし、生活が向上することはなく、1913年(大正2年)、勝五郎一人を残して再び小倉に戻る。
吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 19… 吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 1973年4月21日)は、日本の法学者。専門は民法・労働法・社会保障法。一橋大学名誉教授。末弘厳太郎門下。弟子に蓼沼謙一、横井芳弘など。 東京で横田秀雄(大審院院長・民法学者)の子として生まれる。1925年第一高等学校卒業。1928年東京帝國大學法学部法律学科卒業。同法学部助手。1930年東京商科大学附属商学専門部専任講師。1935年東京商科大学附属商学専門部教授。1936年東京商科大学商学部助教授。1936年労働法研究のためドイツ・イタリア・アメリカ合衆国に留学( - 1939年)。1940年東京商科大学学生主事( - 1941年)。1941年東京商科大学商学部教授。
森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 -… 森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉8月23日)は、インターネット放送局・天草テレビのアナウンサー。世界最高齢の女子アナウンサーとして知られた。 熊本県、現在の上天草市松島町で、8人兄弟の3女として生まれた。24歳の時に2歳年上の、地元の男性・森秋義と結婚し、5人の子供をもうけたが、32歳の時に夫は病死する。夫の死後は農業を営みながら、女手一つで子供達を育てた。 2006年(平成18年)6月、102歳で天草テレビの3代目女子アナとしてデビュー。お天気コーナーなどを担当した。2008年(平成20年)12月には麻生太郎首相(当時)と対談も行っている。
矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日… 矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、日本の政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。政治学博士。旧姓横山。 1902年11月9日、鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現・鳥取市向国安)の農家に生まれる。のち、愛媛県今治市出身の司法官・矢部安男の養子となる。美穂小学校、旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学。1926年3月同大学法学部政治学科を卒業、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられ、政治学の創始者たる恩師・小野塚喜平次博士に従って政治学者への道を進むこととなる。
倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 -… 倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者。 日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。 京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。 1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。
島津 フミヨ(しまづ フミヨ、1902年〈明治35年〉11月… 島津 フミヨ(しまづ フミヨ、1902年〈明治35年〉11月9日 - 1967年〈昭和42年〉12月31日)は、昭和期の日本の女性放射線医学者。弟に熊倉正弥。 栃木県喜連川町出身。父熊倉弥五郎、母ソメの三女。姫路の島津愛之と結婚する。 東京府立第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校を卒業し、母校病院のレントゲン科に入局する。1942年4月に放射線医学教室の初代教授となる。1951年には、梯子式連続撮影装置の試作に成功し、心臓外科の発展に大きく貢献した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
岩澤 誠(いわさわ まこと、1902年(明治35年)11月9… 岩澤 誠(いわさわ まこと、1902年(明治35年)11月9日 - 1984年(昭和59年)5月6日)は、日本の弁護士、学校経営者。札幌弁護士会会長。学校法人札幌大学理事長。 千葉県出身。万治郎の次男。 1927年(昭和2年)明治大学法科卒業。北海道庁に入る。 1932年(昭和7年)弁護士を開業。札幌法務局、北海道石炭鉱業連盟、札幌信用組合、東銀、北海道石炭、日本ゴム、北海道購買農協連、北海道販売農協連、北海道漁業協組連合、各顧問となる。1953年(昭和28年)日弁連副会長に就任。 趣味は野球、写真。宗教は真言宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 … 方 定煥(パン・ジョンファン、방정환、1899年11月9日 – 1931年7月23日)は、近代朝鮮の小説家である。本貫は温陽方氏。現在のソウル特別市出身。雅号小波。 善隣商業学校卒業後、東学に入信し、孫秉煕の女婿となる。普成専門学校(高麗大学校)に通い、三・一運動では謄写版の「独立新聞」を配布し逮捕される。釈放後は日本に行き、東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。1923年、朝鮮で最初の児童文化団体であるセクトン会を組織して、子供運動を積極的に展開した。1923年、朝鮮では初めて純粋児童雑誌である『オリニ』を創刊して活動した。 児童のための様々な社会活動を行い、民族啓蒙や児童文学においても先駆的な業績を残した。
稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 19… 稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 1988年4月3日)は、昭和時代の日本の実業家。 京都出身。稲畑勝太郎の長男。 1921年(大正10年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。1937年(昭和12年)稲畑商店(のちの稲畑産業)取締役社長となる。 1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで住友化学工業監査役を務めた。1948年(昭和23年)関西経済同友会代表幹事。1953年(昭和28年)再び住友化学工業監査役に就任。1958年(昭和33年)久保田鉄工監査役に就任。 1959年(昭和34年)再び関西経済同友会代表幹事に就任。1960年(昭和35年)日本国際貿易促進協会関西本部副理事長。
芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年(明治29年)1… 芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年(明治29年)11月9日 - 1986年(昭和61年)2月25日)は、大正末から昭和期の政治家、教育者。長野県駒ヶ根市長(初代)。長男は芦部信喜(憲法学者)。 長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)で、芦部喜一郎、きくよ の四男として生まれた。1919年(大正8年)北海道帝国大学附属水産専門部(現水産学部)卒業後、三菱商事に入社。後に帰郷し、1923年(大正12年)赤穂公民実業学校(現長野県赤穂高等学校)の教諭に転じ、1938年(昭和13年)同校長に就任し1948年(昭和23年)まで在任。1948年(昭和23年)赤穂信用組合(現アルプス中央信用金庫)を設立して専務理事に就任し、1951年(昭和26年)同理事長となり1979年(昭和54年)まで在任した。
小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)1… 小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)11月9日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、陸軍参与官、秋田県会議員、秋田県仙北郡西仙北町長、強首村長。 秋田県仙北郡強首村(のち西仙北町を経て、現在の大仙市)出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業。陸軍に入り、主計少尉となる。除隊後、帰郷し、強首村議、同村長、同農会長を経て、秋田県議、同参事会員となる。1932年(昭和7年)秋田2区(当時)から立憲政友会公認で立候補し、初当選する。以後、4期連続当選。この間、阿部内閣で陸軍参与官を務めた。太平洋戦争により1943年(昭和18年)に応召されたが、終戦後の1945年(昭和20年)9月に復職した。
東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年… 東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記東条 猛、本名竹内 節(たけうち たかし)。新派出身であったが、時代劇にも現代劇にも出演、マキノ・プロダクション、大都映画の作品の脇を固めた助演俳優として知られる。 1896年(明治29年)11月9日、兵庫県印南郡志方村(現在の同県加古川市志方町)に生まれる。 旧制小学校卒業後の満13歳のころ、1910年(明治43年)、壮士芝居出身の縣妻吉(県妻吉)の一座に参加、大阪・道頓堀の朝日座で新派俳優としてデビューする。その後、満19歳となった1926年(大正15年)、京都の日活大将軍撮影所に入社、同年10月に各社競作した『鳴門秘帖』等に出演し、やがて同社を退社して、松竹下加茂撮影所に移籍する。
横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11… 横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11月9日 - 1964年(昭和39年)9月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(8期)。埼玉県多額納税者。武蔵野銀行相談役。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 埼玉県比企郡大河村腰越(現・小川町)出身。横川宗作の長男。旧制早稲田中学を経て[要出典]1917年、早稲田大学大学部文学科哲学科卒業。ドイツに留学し、ベルリン大学で社会学を専攻した。1924年、家督を相続した。 農業、製材業を営み埼玉県多額納税者となった。大河村信用組合長、小川無尽、横川製材各社長、武州本場絹織物工業、比企繭販売利用各組合長などをつとめた。 1927年3月28日、第15回衆議院議員総選挙の埼玉県第3区補欠選挙で衆議院議員に当選。
山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 197… 山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 1972年6月27日)は、日本の小説家、染織家。 「草木染め」の命名者として知られる。 長野県東筑摩郡麻績村で善光寺街道麻績宿本陣臼井家の三男として生まれ、父の生家・山崎家の養子となる。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、国民英学舎を卒業後、京城日報の記者となったが、1922年作品を島崎藤村に賞賛され作家として歩み始めた矢先、昭和の大恐慌で郷里の養蚕業が打撃を受けたため帰郷。植物染を復活させ「草木染め」と名付け、「草木屋」を創設して編著書を刊行、のち月明会を興す。 息子に染色工芸家で群馬県指定重要無形文化財保持者の山崎青樹、孫に同じく染色工芸家の山崎和樹がいる。
小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1… 小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1972年11月7日)は、日本の政治家、実業家。厚生大臣(第27代)。参議院議員(3期)。 広島県尾道市久保町生まれ。1917年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業後、埼玉県川口町(現川口市)に移り住む。1920年に(株)国際重工業を創立し社長となる。発明家としても知られ、農家で使う「籾殻かまど」や「俵締機」などの新製品を開発し業績を伸ばした。取得した特許や実用新案は200以上にのぼるという。その他、川口コークス(株)、(株)寿屋を設立し会長となる。 社業のかたわら、川口鋳物工業協同組合理事長、川口工業健康保険組合理事長を務め、地元経済界の重鎮として活動するとともに、日本鋳物工業会会長、埼玉県経営者協会会長等も歴任した。