栃木野 竹三郎(とちぎの たけさぶろう、1923年3月10日… 栃木野 竹三郎(とちぎの たけさぶろう、1923年3月10日 - 没年不明)は、出羽海部屋に所属した元力士。本名は岩井 竹三郎(いわい たけさぶろう)。現在の栃木県鹿沼市出身。175cm、84kg。最高位は東十両7枚目。得意技は突っ張り、左四つ。 1940年5月場所に初土俵。1947年11月場所に十両昇進し、連続して3場所務めたが勝ち越すことはできず、1949年1月場所に25歳で廃業した。激しい突っ張りで攻め立てる闘志に満ちた取り口が身上であったが、左四つでも相撲が取れた。
正野 三郎(しょうの さぶろう 1922年(大正11年)3月… 正野 三郎(しょうの さぶろう 1922年(大正11年)3月10日 - )は埼玉県与野市(現さいたま市)出身の実業家・文筆家。 知己であった与野市議会議員(のちに埼玉県議会議員)の井原弥一郎(元与野市長・井原勇の実兄)と共に食品スーパーマーケット経営の(株)与野フードセンターを創業。 与野フードの専務や社長・会長等を歴任する一方で、日本全国の中小スーパーを組織化。ボランタリーチェーンである協同組合セルコチェーン(全国セルコグループ)を設立し20年近く代表を務めた他、全国スーパーマーケット協会の副理事長も務めた。 現役の経営トップだった時代だけではなく経営の一線から退いた後も文筆活動に精力的に取り組み、食品小売業の経営哲学や井原弥一郎初代社長・与野フード従業員らとのエピソード等を多く含んだ与野フード社史も兼ねた自伝・回顧録や、少年時代の円阿弥(えんなみ)地域での思い出を基に執筆した児童書など5冊の書籍を出版した。
藤井幸雄(ふじい ゆきお、1922年3月10日 - 1997… 藤井幸雄(ふじい ゆきお、1922年3月10日 - 1997年7月20日)は、日本の気象学者。 北海道帯広市出身。1942年中央気象台附属気象技術官養成所(現気象大学校)本科卒、中央気象台に入り、気象庁予報課、気象研究所に勤務、応用気象研究室長。そのかたわら東京医科歯科大学で学び、1980年「食中毒発生の気象学的考察」で医学博士号を取得した。インテルハーツ生気象事業部長、エンペックス気象計 (株) 開発部勤務。 1997年7月20日、拡張型心筋症のため死去。
愛知山 春雄(あいちやま はるお、1922年3月10日 - … 愛知山 春雄(あいちやま はるお、1922年3月10日 - 1986年10月22日)は、愛知県幡豆郡一色町(現・西尾市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は高橋 春長(たかはし はるなが)。最高位は東前頭4枚目(1947年6月場所)現役時代の体格は172cm、105kg。得意手は右四つ、寄り、下手捻り、頭捻りなど。孫は知立を拠点に活動をしているラッパー、ビートメイカーのC.O.S.A.。 16歳の時に上京し、元小結・緑嶋が率いる立浪部屋へ入門。1938年5月場所で初土俵を踏んだ。 当初から故郷の愛知県に因んだ「愛知山」の四股名で相撲を取り、廃業まで1度も改名する事は無かった。 序ノ口に付いて以来、順調に出世し、1944年5月場所で新十両に昇進。
久米 康生(くめ やすお、1921年3月10日-2015年)… 久米 康生(くめ やすお、1921年3月10日-2015年)は、和紙研究家。 徳島県名西郡石井町生まれ。筆名・芳水康史。1943年東京帝国大学文学部東洋史学科中退。1946年より毎日新聞記者、76年に定年退職後、和紙の研究に専念。雄松堂出版顧問。1989年和紙文化研究会代表、2011年名誉会長。
大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年〈大正9年〉3月10… 大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年〈大正9年〉3月10日 - 2013年〈平成25年〉3月23日)は、日本の女性編集者・エッセイスト。暮しの手帖社社主・元社長で同社の雑誌『暮しの手帖』を創刊した。妹の大橋芳子も同社創業メンバーの一人で、エッセイスト。 父の大橋武雄は岐阜県大垣市出身。武雄は父親を結核で早くに亡くし、10歳の時に東京・深川の材木商をしていた親戚の大橋谷吉の養子となり、府立一中を経て北海道帝国大学農学部卒業後1919年4月中越製布(現・日本製麻)に就職。母、宮原久子は京都生まれ小樽育ちで、父の宮原満吉は新潟で油田を掘り当て財を築いた実業家だった。久子は女子美術学校を卒業後、北海道時代に知り合った武雄と1919年5月に結婚。
住野 敏郎(すみの としお、1920年3月10日 - 200… 住野 敏郎(すみの としお、1920年3月10日 - 2001年3月9日)は、日本の実業家。オートバックスの創業者。大阪府大阪市天王寺区出身。 1938年に大阪城東商業高校を卒業し、同年に日本自動車に入社した。1948年に大阪市に富士商会を設立し、1958年にオートバックスセブンの前身である大豊産業を設立した。1974年に社員の反対を押し切って、大東市に日本で初めてカー用品専門店1号店をオープンした。 1978年に大豊産業をオートバックスセブンに変更し、店舗数は急速に拡大し、1989年には株式上場を果たした。1975年にフランチャイズ店の展開にも着手し、1990年には台湾にも出店し、海外にも積極的に展開した。
佐藤 敬治(さとう けいじ、1920年(大正9年)3月10日… 佐藤 敬治(さとう けいじ、1920年(大正9年)3月10日 - 2009年(平成21年)9月16日)は、昭和から平成期の政治家、教員。衆議院議員(6期)、大館市長。 秋田県大館市出身。1944年(昭和19年)東京帝国大学文学部社会学科を卒業。秋田県立大曲高等学校教諭を経て、1951年(昭和26年)大館市長に初当選。以降4期務めた。 1972年(昭和47年)日本社会党公認で第33回衆議院議員総選挙において旧秋田1区で初当選。6期務めた。1993年(平成5年)に政界から引退した。 2009年9月16日、死去。89歳没。死没日付をもって正八位から正四位に叙され、旭日重光章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小泉 袈裟勝(こいずみ けさかつ、1918年3月10日 - … 小泉 袈裟勝(こいずみ けさかつ、1918年3月10日 - 1998年)は、日本の計量史研究者。度量衡、計測の研究に尽力した。 長野県北佐久郡浅科村(現佐久市)生まれ。1938年東京物理学校卒業。1939年商工省中央度量衡検定所に入所し、光波干渉式標準気圧計を開発、1968年工業技術院計量研究所第4部長となる。1971年退官とともに日本計量機器工業連合会常務に就任し、1976年同専務理事。1988年春、勲四等瑞宝章受勲。1992年「ものさし」で経済学博士(京都大学)。日本計量史学会副会長も務めた。
浅山 浩三(あさやま こうぞう、1917年3月10日 - 2… 浅山 浩三(あさやま こうぞう、1917年3月10日 - 2008年10月19日)は、日本の経営者。福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)出身。 1939年に法政大学経済学部を卒業し、同年に福岡日日新聞社に入社。1943年に西日本新聞社を経て、1958年にテレビ西日本に転じ、1965年5月に取締役に就任し、1972年3月に常務、1973年5月に専務を経て、1975年5月に社長に就任。1979年6月に取締役相談役に就任し、フジテレビジョン取締役、日本民間放送連盟理事なども歴任した。 1979年4月に藍綬褒章を受章。
瀬井 清(せい きよし、本名:薛 永順、1916年3月10日… 瀬井 清(せい きよし、本名:薛 永順、1916年3月10日 - 1973年2月26日)は、中華民国・福建省福州市出身のプロ野球選手(内野手)。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
山野 幸吉(やまの こうきち、1916年〈大正5年〉3月10… 山野 幸吉(やまの こうきち、1916年〈大正5年〉3月10日 - 1998年〈平成10年〉7月8日) は、日本の内務・自治官僚。初代沖縄・北方対策庁長官。位階は正四位。 島根県松江市出身。松江高等学校を卒業し、1941年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部を卒業。翌1942年、内務省に入省し神奈川県属となる。 短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月、同校を卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 戦後、内務省に復帰し、静岡県商工課長、自治省公務員課長、千葉県総務部長、総理府特別地域連絡局長などを経て、1970年5月、沖縄・北方対策庁長官に就任した。
執印テル(しゅういん てる、1915年(大正4年)3月10日… 執印テル(しゅういん てる、1915年(大正4年)3月10日 - 2007年(平成19年)9月25日)は、昭和時代の日本のジャーナリスト、政治家。出水市出身(旧高尾野町・執印氏9人兄弟の7番目・次女)。
妹尾 左知丸(せのお さちまる、1915年3月10日 - 2… 妹尾 左知丸(せのお さちまる、1915年3月10日 - 2007年6月22日)は、日本の病理学者。 岡山県岡山市に生まれる。第三高等学校を経て1940年に京都帝国大学医学部を卒業した。直後より同病理学教室の助手となるが、1941年より1945年まで従軍のため大学を離れ、戦後に復帰。1947年に三重県立医学専門学校(現・三重大学医学部)の病理学教室主任教授となる。1955年に岡山大学医学部の病理学教室へ移る。同年、森永ヒ素ミルク中毒事件の原因を突き止め、岡山県を通じて当時の厚生省(現・厚生労働省)に報告した。岡山大学においては顕微分光測光による血液細胞の分化や血球系幹細胞の研究、鉄の代謝吸収に関する細胞生物学的研究をすすめた。
日野 道夫(ひの みちお、1914年〈大正3年〉3月10日 … 日野 道夫(ひの みちお、1914年〈大正3年〉3月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。 北海道函館市出身。北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)卒業。いむらプロに所属していた。 中学校卒業後、新協劇団を経て劇団俳優座に入り、移動演劇の芙蓉隊に参加する。1946年3月、俳優座第一回公演『検察官』の舞台に立つ。後に劇団民藝を経てフリーとなり、この間にもジャンルを問わず多くの作品に出演していた。 2004年に公演された舞台『アマデウス』以降の作品が見当たらず、以後の消息は不明である。没年不詳。
高橋 正則(たかはし まさのり、1914年3月10日 - 2… 高橋 正則(たかはし まさのり、1914年3月10日 - 2006年1月)は、日本の評論家。 山口県阿武郡出身。慶應義塾大学法学部卒。同盟通信社記者を経て、戦後、新夕刊新聞編集局次長、民社党政策審議会嘱託、東京政治研究所事務局長。1969年、第32回衆議院議員総選挙に民社党公認で東京5区から立候補したが落選した。 1973年駒澤大学法学部教授、学部長、1985年常磐大学人間科学部教授、富士社会教育センター理事長、顧問。1985年から1993年まで『月刊自由民主』に「マスコミ批判」「マスコミ批評」「マスコミ時評」を連載した。 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮﨑勤の父親が東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)で発行していた地域新聞『秋川新聞』(勤の逮捕により廃刊)には、廃刊の約半年前から「論説」や「疑獄物語」といった記事を寄稿・連載していた。
前田 昌保(まえだ まさやす、1914年3月10日 - 生没… 前田 昌保(まえだ まさやす、1914年3月10日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手・指導者。1936年ベルリンオリンピックに出場。1956年メルボルン、1960年ローマの2大会でオリンピック日本代表チームのコーチを務めた。 立教大学に入学。1933年から1936年にかけてバスケットボール部主将を務めた。1934年には第10回極東選手権競技大会(マニラ)に出場した。 1936年、立教大学経済学部商学科を卒業。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 第二次世界大戦後は立教大学でバスケットボールの指導に当たるとともに、1956年メルボルンオリンピック、1960年ローマオリンピックで日本代表チームのコーチを務めた。
野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1… 野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1998年1月12日)は、日本の経済学者。専門はソヴィエト経済。一橋大学名誉教授。元経済理論学会代表幹事。 1i913年、愛知県で生まれた。大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業後、満鉄調査部に入社。 満鉄調査部では石堂清倫とともに資料課に属し、基礎理論が中途半端なまま、関東軍の要望にこたえて総合調査をおこなう経調派・綜合課グループに批判的な立場をとった。そしてそこでの研究、調査内容が軍部に批判的なものであったため、満鉄調査部事件で逮捕され、1945年に懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。 敗戦後は満鉄の後身である中長鉄路調査局に上級調査員として勤務。
山本 二三丸(やまもと ふみまる、1913年3月10日 - … 山本 二三丸(やまもと ふみまる、1913年3月10日 - 2011年12月3日)は、日本のマルクス経済学者、立教大学名誉教授。 愛知県豊橋市出身。第一高等学校卒、1936年東京帝国大学経済学部卒。1954年「再生産論」で立教大学経済学博士。1936年東京貯蓄銀行書記、1938年東亜研究所所員、1940年日本鉄鋼連合会書記、1941年鉄鋼統制会書記、日本鋼管書記、1946年立教大学経済学部助教授、1948年教授となり、1978年定年退任、名誉教授。愛知大学教授を務めた。マルクス経済学の厳密な検証において功績があったが、現実の世界経済、世界の社会主義国の崩壊など、理論と現実の乖離は大きく、大きな課題を残して2011年12月3日、98歳で逝去。
佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1… 佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1983年1月23日)は、日本の陸上競技選手。 秋田県鹿角郡小坂村(現在の小坂町)に生まれる。1929年に大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、小坂鉱山花岡支社に入社し、明治神宮大会の男子100mで優勝する。 翌年、東京高等師範学校に進み、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝し、ついで1931年には一般対抗学生選手権の4×100mリレーの学生チームの第2走者として、41秒6で当時の日本記録を樹立した。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれたが、怪我のために辞退した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは男子100メートルに出場した。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
横地 治男(よこち はるお、1912年3月10日- 2007… 横地 治男(よこち はるお、1912年3月10日- 2007年3月28日)は、日本の実業家、柔道家。島根県隠岐の島町名誉町民。 島根県隠岐郡出身。島根県立隠岐商船水産学校(現・島根県立隠岐水産高等学校)を卒業し陸軍に入隊、少尉で終戦を迎えて満州から復員した。復員後は防錆用の塗料販売業を手掛け、1956年に大日本化学商事(現ダイニッカ)として法人化。リッカーが経営破綻した際には一時期事業管財人を務めている。 実業界での活動の傍ら1975年には東京都世田谷区に柔道の私塾「講道学舎」を創立。オリンピック選手をふくめ、約200名の選手を輩出した。また、全日本柔道連盟顧問も務めた。 2007年3月28日、不整脈のため東京都目黒区の病院で死去、95歳没。
原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - … 原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - 1980年6月25日)は、日本のジャーナリスト、ロシア語翻訳家、国際問題評論家。 戦前は同盟通信社の記者の傍らロシア文学を翻訳、戦後は時事通信社の記者として主としてロシア問題を論じていたが、1959年、社命によりボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を初めて日本語に翻訳した。 秋田県生まれ。1933年、青山学院文学部英語師範科卒業。 1939年、同盟通信社入社。1945年、時事通信社に入社し、外信部長、モスクワ特派員、時事研究所長などを歴任。1971年退職。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
田坂 興道(たさか こうどう 、1912年3月10日 - 1… 田坂 興道(たさか こうどう 、1912年3月10日 - 1957年3月23日)は日本昭和時代の東洋史学者。 明治45年(1912年)、山口県に生まれる。東京大学文学部東洋史学科卒業。東方文化学院研究員をへて昭和30年中央大学教授となる。アラビア語、ペルシャ語などの原史料にもとづくイスラム史研究をこころざす。遺稿に「中国における回教の伝来とその弘通」。昭和32年(1957年)3月23日死去。享年45。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没… 重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没年不明)は、日本の歯科医師、政治運動家・『日本世直し党』党首。 かつて党本部所在地として届け出ていた神奈川県大和市の住所には歯科医院が存在している。
小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10… 小山 初代(おやま はつよ 1912年(明治45年)3月10日 - 1944年(昭和19年)7月23日)は、小説家太宰治の内縁の妻。芸者としての名は紅子。太宰からはハツコと呼ばれていた。 「HUMAN LOST」(1937年)や「姥捨」(1938年)や「東京八景」(1941年)など多数の太宰作品に登場する一連の女性のモデルとなった。 父・小山藤一郎と母・キミ(旧姓:吉沢)の長女として北海道室蘭市に生まれる。1922年(大正11年)、父が失踪したため、母子家庭となり、一家で青森に移住。母は置屋「野沢屋」で裁縫師として働いた。 1925年(大正14年)3月、南津軽郡大鰐町の大鰐尋常小学校を卒業し、母の勧めで料亭「玉屋」(野沢屋の後身)に仕込妓(芸妓の使い走り)として住み込みで働く。
水原 玲子(みずはら れいこ、1911年3月10日 - 19… 水原 玲子(みずはら れいこ、1911年3月10日 - 1935年10月12日)は、日本の女優である。本名、吉野 美智子(よしの みちこ)。 1911年(明治44年)3月10日、広島県広島市下柳町(現在の同市中区銀山町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)に進学するが、同校を中途退学して大阪に移り、道頓堀の「カフェー赤玉」の女給に入り、人気を得る。梅田新道の「パリジャン」に移籍するが、1930年(昭和5年)9月、帝国キネマ演芸が広津和郎の小説『女給』を映画化すべくヒロインを探していたところ、白羽の矢が当たり、同社太秦撮影所現代劇部に入社する。主役の『女給』と脇役の『春遠からず』(いずれも監督曾根純三)が同時進行で撮影され、前者が翌1931年(昭和6年)1月10日、後者が同年1月5日に公開されて前者が大ヒットとなり、満19歳のデビュー作にして「女給出身のスター」と話題になった。
小高根 二郎(おだかね じろう、1911年3月10日 - 1… 小高根 二郎(おだかね じろう、1911年3月10日 - 1990年4月14日)は、日本の詩人、作家。 東京出身。東北帝国大学卒。会社勤務のかたわら、保田與重郎らの『コギト』同人となり、伊東静雄と親しかった。1938年1月、上京し、病臥中の立原道造に古いマリア観音を贈った。詩集を刊行。戦後は1956年、同人誌『果樹園』を創刊し主宰、伝記、企業小説などを書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
橋本 芳契(はしもと ほうけい、1910年3月10日 - 2… 橋本 芳契(はしもと ほうけい、1910年3月10日 - 2001年4月18日)は、仏教学・宗教学者。 富山県生まれ。1934年東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒、1962年「維摩経の研究」で東京大学文学博士。石川師範学校教授、金沢大学法文学部助教授、教授、1975年定年退官、名誉教授、福井県立短期大学教授。 2001年4月18日、心筋梗塞のため死去。
大石 八治(おおいし はちじ、1908年〈明治41年〉3月… 大石 八治(おおいし はちじ、1908年〈明治41年〉3月10日 - 1976年〈昭和51年〉7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期、自由民主党)。 1908年(明治41年)静岡県榛原郡吉田町に生まれる。1926年(大正15年)静岡県立榛原中学校を卒業。1929年(昭和3年)横浜高等商業学校を卒業。1934年(昭和9年)日本共産党に資金提供していたとして治安維持法違反の疑いで逮捕。 1951年(昭和26年) 静岡県議会議員に初当選。4期務め、静岡県議会議長も歴任。1960年(昭和35年)第29回衆議院議員総選挙に自由民主党から静岡1区へ立候補するも落選。 1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙静岡1区初当選。
長谷山 行毅(はせやま こうき、1908年(明治41年)3月… 長谷山 行毅(はせやま こうき、1908年(明治41年)3月10日‐ 1977年(昭和52年)11月23日) は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。参議院議員(1期)、秋田県雄勝郡田代村長。 秋田県雄勝郡田代村(現羽後町田代)で生まれた。1932年(昭和7年)慶應義塾大学法学部を卒業し、その後、同大学院を修了した。 1937年(昭和12年)検事に任官し、東京地方裁判所検事局、札幌地方裁判所検事局などで勤務した。戦後に帰郷して、1947年(昭和22年)田代村長に就任し、秋田県町村会副会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で秋田県地方区から自由党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> … 清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> 3月10日 - 1993年 <平成5年> 3月7日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従四位。 熊本県出身。1933年に東京帝国大学法学部を卒業。満州国政府、大蔵省での勤務を経て、1955年に経済企画庁審議官に就任。 1956年3月に十八銀行頭取に就任し、1983年10月には会長に就任。1989年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に退いた 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1993年3月7日肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月1… 橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月10日 - 没年不明)は、日本の教育者・政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(1期)。 新潟県出身。出生名は市橋喜一。佐渡トキ保護会会長で「トキ博士」の異名を持つ佐藤春雄は実弟。 1931年(昭和6年)に東洋大学文学部を卒業し、陸軍科学研究所に勤務した。橋本家に婿入りし、劇場の橋本座の経営者も務めた。相川町立相川高等女学校や組合立佐渡高等女学校で教諭を務めた。 1949年(昭和24年)2月には両津町加茂村組合立両津高等学校(現・新潟県立佐渡中等教育学校)の校長事務取扱を命じられ、同年6月には両津高校が新校地に移転した。 1950年(昭和25年)に両津町議会議員に当選すると、1952年(昭和27年)には議員選出の両津町教育長に就任し、両津高校の県立移管に尽力した。
松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1… 松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 鳥取県境港市出身。1927年に山口高等商業学校を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1960年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務、1969年に副社長を経て、1973年10月には社長に就任。 1976年6月16日心筋梗塞のために在任中に死去。68歳没。
石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 200… 石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家・翻訳家。位階は従四位。日本芸術院会員。 「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」「うさこちゃん」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。 埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。 1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学。
由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 20… 由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 2004年10月24日)は、日本の経営者。北越製紙社長を務めた。 石川県出身。1931年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1960年6月には北越製紙専務に就任し、1972年6月に副社長を経て、同年12月には社長に就任した。1977年7月に会長を経て、1981年6月には相談役に退いた。 2004年10月24日、老衰のために死去。97歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - … 玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - 1996年7月4日)は、日本のドイツ文学者、教育功労者。 山口県生まれ。1930年京都帝国大学文学部独逸文学科卒、1933年関西学院大学予科教授として就任後、文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任。関西学院大学における独文学科設立の尽力者でもある。1967年には兵庫県教育功労者として表彰を受け、1974年関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した。 日独文化協会の会員、ドイツ・テュービンゲン大学への留学歴もあり、同じ京都帝国大卒で関西学院院長だった久山康、玉林とともに関西学院大学独文学科発足に尽力した村井勇吾らと独文学の翻訳や教本出版にも積極的に取り組んだ。
瀨古 新助(せこ しんすけ、1907年3月10日 - 199… 瀨古 新助(せこ しんすけ、1907年3月10日 - 1990年10月15日)は、日本の土木工学者。逓信省技官から大学教授に転身し、後半生は実業家となった。 1937年に日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業し、同年逓信省電気局に入省する。後に興亜院(1938年設置)に移った。興亜院に向かう際の出迎役であった大来佐武郎と意気投合し、その後小沢久太郎とも交友を深めた。 1942年、日本大学専門部工科(現日本大学工学部)教授に就任(1944年に日本大学旧工学部助教授、1946年に同教授となる)。教職員適格審査委員会の委員としてGHQと大学との折衝に尽力した。 しかしながら、工学部教授に就任した1946年に大学を辞す。
大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975… 大貫 賢(おおぬき けん、1906年3月10日 - 1975年2月7日)は、東京都出身のプロ野球選手、審判員、俳優。のち婿入りし桐林と改姓したが、球界では大貫姓を使い続けた。 荏原中学校を中退し、1923年に芝浦協会へ入団。当時は山本栄一郎がいたため控え投手だったが一度チームが解散し、その後宝塚運動協会として再結成した際には山本が肩の故障で退団したこともあってエースとなり投打の中心選手として活躍した。 宝塚運動協会解散後は宝塚ファミリーランドの経理係を務めていたが、まもなく退職し、満州に渡る。満州時代の詳しい経歴は不明だが、全奉天や大連実業、奉天日満実業などでプレーしていたことが確認されており、「各地のチームの助っ人をしていたのでは」と佐藤光房は推測している。
入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、19… 入鹿山 且朗(いるかやま かつろう、旧名・入鹿山 勝郎、1906年(明治39年)3月10日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、日本の医学者・衛生学者。熊本大学名誉教授。水俣病の原因物質特定に貢献した。専門は気候衛生学、疫学、食品衛生。医学博士。 1906年、鹿児島県日置郡吉利村(現・日置市)に生まれる。祖父は小松帯刀の侍医で、父も医者。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)、静岡高等学校 (旧制)を経て、1932年京都帝国大学医学部卒業。戸田正三教授の衛生学に入室。1936年11月、「衣服の熱学的研究」で京都帝国大学より医学博士。 1936年11月、大阪市立衛生研究所に入る。1938年の厚生省発足と同時に入局して衛生局技官。
綾田 整治(あやだ せいじ、1906年 <明治39年> 3月… 綾田 整治(あやだ せいじ、1906年 <明治39年> 3月10日 - 2003年 <平成15年> 5月10日)は、百十四銀行元頭取・会長。位階は正五位。 香川県大川郡長尾町(現在のさぬき市)出生。 東京帝国大学経済学部卒業後、高松百十四銀行に入行。 1944年に取締役営業部長、1948年に専務と昇進を重ね、里見信三の死去を受けて第5代頭取(代表者としては8代目)に就任。46歳での頭取就任は全国最年少であった。トップ在任時には、現本店ビルの竣工や東京証券取引所第一部上場を成し遂げたほか、同行を11都府県にまたがる広域地銀に育て上げ、2003年逝去するまで相談役として在任した。死没日付をもって叙正五位。
大八洲 晃(おおやしま あきら、1906年3月10日 - 1… 大八洲 晃(おおやしま あきら、1906年3月10日 - 1975年4月27日)は、富山県西礪波郡(現・高岡市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は坂本 多喜知(さかもと たきち、旧姓:東爪)。最高位は西前頭10枚目(1936年5月場所)。現役時代の体格は192cm、120kg。得意手は左四つ、寄り。 入門前に松竹で映画俳優をしていたという異色の経歴の持ち主。ほぼ同時期に立浪部屋に入門した双葉山と出世を争い、その体格から双葉山よりも有望視されていた。しかし、相手を引っ張り込むだけで技能に乏しい取り口だったため伸び悩んだ。 双葉山は幕下時代に大八洲に「右目が全然、見えないんだ」と打ち明けたが、それは引退するまで2人だけの秘密となった。
南沢 十七(みなみざわ じゅうしち、一部文献にある「なんざわ… 南沢 十七(みなみざわ じゅうしち、一部文献にある「なんざわ としち」は誤り、1905年3月10日 - 1982年9月26日)は日本の探偵小説・科学小説家、翻訳家。ペンネームの「十七」は17歳のときに父親を亡くしたことによる。代表作に『緑人の魔都』などがある。 本名である川端 男勇(かわばた まさお)名義では科学者の伝記の翻訳や、ノンフィクションの執筆を行った。別名義に本名をもじった川端 勇男(いさお)や、巳貴 千尋、米田 華舡 がある。雑誌『科学画報』の編集長を務めた。 中国研究家の米田祐太郎は叔父。 宮城県仙台市出身。三田中学(現・三田学園高校)を卒業(一説によれば幼児の頃に満州に渡って成人まで滞在していたという)。
森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991… 森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991年7月26日)は、新潟県出身の詩人、小説家である。 旧制中学校教師の父の転任に伴い、富山県高岡市に移り少年期を過ごす。1912年、福井市に移住。1916年、福井中学に入学。同級生に深田久弥、上級生に中野重治がいたが、この時点で親交は無かった。1920年中学を4年修了で第四高等学校へ進学。ここにも中野がいたが依然親交は持たなかった。1925年、東京帝国大学に入学。漸く中野と親交を持ち、同時にプロレタリア文学に傾倒する。1928年に大学を中退。1932年、『プロレタリア詩のために』を出版。1941年、石川県小松市へ疎開。1942年、『海の扇』で新潮社文芸賞を受賞する。
溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月… 溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月10日 - 1992年(平成4年)11月3日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大佐、海将。 漢学塾主・溪口廉造の四男として生まれる。兄は溪口豪介大佐(海兵41期)、妻は山下源太郎大将(海兵10期)の娘。広島高師付中を経て、海軍兵学校に進む。海兵(51期)及び海大(甲種33期)をともに恩賜組で卒業した。太平洋戦争中は大使館附武官補佐官としてドイツに駐在。1945年(昭和20年)4月13日、ソ連軍突入直前のベルリンで「出来得る限り多数の独潜水艦を東亜へ回航すべくドイツ側と折衝せよ」という本国訓令を受けた。ドイツ側と折衝したが、結論は「回航するだけの油がない」であった。
牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月… 牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。 熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。
服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治… 服部 二柳(はっとり にりゅう、本名:辰雄、1904年(明治37年)3月10日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の南画家。服部双柳子、服部双柳、二柳散人とも。奇人の南画家として知られる。
大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月… 大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月10日 - 1994年〈平成6年〉8月18日)は、臨済宗の禅僧。また、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、直心影流剣術の「法定」の指導も行った。山岡鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、山岡鉄舟についての著書もある。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
寺本 恵真(てらもと えしん、1903年3月10日 - 19… 寺本 恵真(てらもと えしん、1903年3月10日 - 1970年1月12日)は、日本の真宗大谷派の僧侶。教育者。学校経営者。札幌大谷短期大学初代学長。
大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 … 大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 - 1981年2月23日)は、日本の漢文学者。 北海道苫前郡苫前町生まれ。1926年北海道函館師範学校卒、同付属小学校訓導、1932年早稲田大学高等師範部国漢科卒、聖学院中学校教諭。1940年早稲田高等学院講師、1945年教授。1949年早大教育学部助教授、1952年教授、1970年「陶淵明研究」で早大文学博士。1973年早大を定年、名誉教授、女子聖学院短期大学教授。1977年定年、勲四等瑞宝章受勲。