飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日… 飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 1913年(大正2年)2月12日、山口県都濃郡富田村 (現周南市)で旧家の一人息子として生まれた。1925年(大正14年)4月、徳山中学校 (現山口県立徳山高等学校)に進学、1931年(昭和6年)4月、海軍兵学校に入学し、1934年(昭和9年)11月17日、同校(62期)を125名中5番の成績で卒業した。少尉候補生として艦隊勤務や遠洋航海など実務練習を経て、1936年(昭和11年)4月、海軍少尉に任官、軽巡洋艦「那珂」に配属された。
武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年〈明治45年〉2月… 武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年〈明治45年〉2月12日 - 1976年〈昭和51年〉10月5日)は、日本の小説家。浄土宗僧侶。大正大学教授。幼名覚。 第一次戦後派を代表する作家で、戦前期は左翼運動から離脱後、泰淳と改名。得度した。その後大陸(中華民国)に出征。除隊後、評伝『司馬遷』を経て小説に転じ、『蝮のすゑ』で認められた。その後も思想的重量感を持った作品を発表し、幾屈折もする人間生存の諸相を描き出した。 妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大農学部教授の大島泰雄。伯父に僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭がいる。 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。
有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 20… 有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 2009年4月15日)は、日本の医学者。医学博士(1946年、東京帝国大学)。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、昭和9年(1934年)日本大学専門部医科修了。日本大学内科及生化学教室での研修後、駿河台日本大学病院内科助手、昭和13年(1938年)同病院医局長、昭和15年(1940年)医学部講師、昭和21年(1946年)助教授、昭和26年(1951年)教授。昭和29年(1954年)内科学第三講座開設に伴い主任教授に就任。昭和43年(1968年)駿河台日本大学病院長。昭和45年(1970年)医学部総合企画委員長、昭和49年(1974年)医学部長。
南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911… 南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は浜口 桂子(はまぐち けいこ)。
天野 良英(あまの よしふさ、1910年〈明治43年〉2月1… 天野 良英(あまの よしふさ、1910年〈明治43年〉2月12日 - 2001年〈平成13年〉3月3日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸上幕僚長たる陸将。 陸士43期、陸大52期。第6代陸上幕僚長、第3代統合幕僚会議議長。息子は第26代西部方面総監の天野良晴。 宮城県登米郡宝江村大字田沼新井田(現・登米市中田町宝江新井田)出身。旧制宮城県立佐沼中学校から1927年(昭和2年)4月に陸軍予科士官学校に入校。1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校卒業(第43期)。同期には次の陸幕長の吉江誠一をはじめ広瀬栄一、藤原岩市など。1931年(昭和6年)11月、歩兵第17連隊で満州事変に従軍。
吉田 隆子(よしだ たかこ、1910年2月12日 - 195… 吉田 隆子(よしだ たかこ、1910年2月12日 - 1956年3月14日)は、日本の作曲家。阪隆、吉田たか子、西加奈子、吉原澄、吉原澄子の名義で活動していたこともある。 東京府荏原郡目黒村大字目黒(現・東京都目黒区上目黒・駒場)580番地に生まれる。父の吉田平太郎は陸軍少将で陸軍騎兵実施学校校長。兄に飯島正がいる。 4歳から山田流箏曲を習う。青山師範学校附属尋常小学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)入学。1919年、父の渡満に伴い一家で東京市芝区高輪南町に転居、南高輪尋常小学校(現・森村学園初等部)に転校。 日本女子大学附属高等女学校(現・日本女子大学附属中学校・高等学校)入学。納所弁次郎からピアノを習う。
丁 明燮(チョン・ミョンソプ、朝鮮語: 정명섭、1910年2… 丁 明燮(チョン・ミョンソプ、朝鮮語: 정명섭、1910年2月12日または12月3日 - 1997年2月25日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。海南郡守、長興郡守、霊光郡守、和順郡守、第3・4・6代韓国国会議員などを歴任した。 本貫は羅州丁氏(朝鮮語版)。号は不輝(プルィ、불휘)。 中農の息子として全羅南道羅州郡出身。1929年、光州高等普通学校4年在学中に光州学生運動に参加し、1931年に卒業した。1938年中央大学法学部卒、1944年同大学院修了。しばらく同大学院で勤めた後、光復後に帰郷し、郷里で朝鮮建国準備委員会羅州郡委員長を務めたなど、各種社会団体で活動した。
瀧山 養(たきやま まもる、1910年(明治43年)2月12… 瀧山 養(たきやま まもる、1910年(明治43年)2月12日 - 2009年(平成21年)4月7日)は、日本の鉄道官僚、土木工学者(工学博士・東京大学)。第62代土木学会会長、日本国有鉄道技師長・理事・顧問、鹿島建設専務取締役等を歴任した。戦前・戦後の激動の時代で、鉄道が輸送機関の主力であったときに鉄道技師として鉄道の発展に貢献。海外引揚や戦災復興都市計画、十河信二国鉄総裁のもと新幹線建設に尽力した。勲二等。 大阪府生まれ。後に東京市に転居し、東京市立麹町小学校、第四高等学校を経て、1932年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。高等文官試験行政科に合格し、帝大卒業後鉄道省に入省。入省後は、東京改良事務所や新潟鉄道局、建設局停車場課、華北交通などに配属。
二代目 江川 マストン(にだいめ えがわ マストン、1910… 二代目 江川 マストン(にだいめ えがわ マストン、1910年2月12日 - 1998年9月6日)は、日本の曲芸師、軽業師である。初代についてはほとんど知られていない。「江川の玉乗り」で知られる。本名迫 與三郎(さこ よさぶろう)。 1910年(明治43年)2月12日、東京府東京市浅草区仲町(現在の東京都台東区浅草)に初代空中軒マストンの長男として生まれる。 「江川の玉乗り」は、1884年(明治17年)に区画整理により東京の「浅草公園六区」に見せ物小屋等が成立し始めたころから、関東大震災までの期間、常打ち小屋「大盛館」(現在の浅草新劇場の位置)で興行が行われた曲芸の一座で、幕末からのキャリアを持つ興行師・江川作蔵がこれを率いた。
佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982… 佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982年9月22日)は、日本の俳優、映画監督。本名は石崎 由雄(いしざき よしお)。旧芸名に島津 元。 渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、愛称は「サブリどん」。日活を経て松竹に入社し、上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、戦前松竹の看板スターとして活躍した。戦後は監督業にも進出し、『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表した。1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せた。主な作品に『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。女優の黒木しのぶは妻、俳優の石崎二郎は長男、ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫に当たる。
塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治4… 塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治41年〉2月12日 - 2003年〈平成15年〉10月16日)は、昭和時代前期を代表する歌手である。 福島県いわき市出身。上田中学、早稲田大学卒業後、千葉運輸事務所に勤務する。中野忠晴が吹き込んだ『鉄道精神の歌』のその普及のため同曲を歌唱したところ、上司にその美声を認められ、キングレコードに推薦されることとなる。 1937年(昭和12年)、キングレコードから歌手デビュー。同年9月発売の「軍国子守唄」、1939年(昭和14年)4月テイチクレコード発売の「九段の母」が大ヒット。その後は、軍国調の歌を多数吹き込む。 戦後もしばらくは歌手活動を行っていたが「自分の時代は終わった」と昭和20年代後半に歌手を止め、実業家に転進。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年… 薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年)2月12日 - 2000年(平成12年)6月2日)は、日本の天文学者・科学史学者(中国科学史)。京都大学名誉教授。初めは天文学の研究者であったが、新城新蔵の影響を受けて古代中国の暦法の研究へ転じた。 兵庫県神戸市生まれ。甲陽中学校、旧制大阪高等学校(現大阪大学)理科丙類を経て、昭和4年(1929年)京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。 1929年、京都帝国大学副手、1935年(昭和10年)東方文化学院(現京都大学人文科学研究所)京都研究所嘱託、後に同研究員。1948年(昭和23年)京都大学研究員、1949年(昭和24年)同大人文科学研究所教授として、共同研究などにより中国科学史研究を世界的水準で進め高めた。
手嶋 恒三郎(てしま つねさぶろう、1906年2月12日 -… 手嶋 恒三郎(てしま つねさぶろう、1906年2月12日 - 1993年11月2日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長、会長を務めた。宮城県出身。 1927年に小樽高等商業学校を卒業し、1928年8月に千代田火災海上保険に入社。1948年8月に取締役に就任し、1954年4月に常務、1958年6月に専務を経て、同年9月には社長に就任。1977年7月に会長に就任し、1980年7月に取締役相談役を経て、1983年7月には相談役に就任。 1969年6月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年11月2日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 20… 米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 2000年1月23日)は日本の小説家、医師。本名は庄三郎。 1905年2月12日、奈良県吉野郡下市町生まれる。 1932年(昭和7年)、大阪帝国大学医学部卒業。1937年(昭和12年)、日華事変により応召、野戦病院付き軍医として華北、華中を転々し、翌年帰国。1945年(昭和20年)、奈良県立医学専門学校(現奈良県立医科大学)創設により、同校教授となり、1948年(昭和23年)、退職して診療所を開業する。 1931年(昭和6年)、投稿した『生きてゐる皮膚』が『新青年』に採用され、同年に他二編、翌年に一編を『新青年』に発表。他に『サンデー毎日』や『大阪時事新報』などにも作品を執筆していた。
田辺 茂一(たなべ もいち、本名の読みは「しげいち」、190… 田辺 茂一(たなべ もいち、本名の読みは「しげいち」、1905年2月12日 - 1981年12月11日)は、日本の出版事業家、文化人。紀伊國屋書店創業者。東京府(現:東京都新宿区)出身。 当時の東京市・新宿にて、紀州備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれる。祖先は紀州和歌山の出身。 私立高千穂小学校在学中であった、1915年の大正天皇の即位大典の日、父に連れられて入った丸善で洋書に魅せられて、書店経営を志すに至る。卒業後、慶應義塾専門部予科に入学。同級に演出家の大江良太郎がいた。1926年3月、慶應義塾高等部(現・慶應義塾大学)を卒業。1927年1月、紀伊國屋書店(現・新宿3丁目の本店)を創業、当時の店舗は二階建てだった。
石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 20… 石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 2000年1月14日)は、日本の兵法研究者、文学博士、弓道家(弓道範士十段)、本多流師範。國學院大學教授、國學院大學弓道部元師範。号は榊舎弓人。 広島県生まれ。学生時代に今まで余り史学者が手掛けてこなかった分野を研究したいと模索していた時に、休職中だった海軍大佐の有馬成甫(のち海軍少将)と知り合い、兵法学について関心を持つ。1934年國學院大學国史学科を卒業すると、有馬の推挙で多くの兵法文献を所蔵する江田島の海軍兵学校教育参考館に嘱託研究員として就職する。海軍兵学校教育参考館には、伊予松山藩の野沢文庫、上泉流を主体とする鳥取池田藩の鷲見文庫など膨大な兵書文献を所蔵していた。
大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 19… 大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 1999年8月18日)は、日本の官僚、琉球政府の政治家。元琉球政府行政主席(1959年10月21日 - 1964年11月1日)。
加藤 多喜雄(かとう たきお、1903年2月12日 - 19… 加藤 多喜雄(かとう たきお、1903年2月12日 - 1991年4月19日)は、日本の化学者。東北大学名誉教授。理学博士(東北大学、1935年)。弟に地球物理学者の加藤愛雄、生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄、孫に数学者の加藤文元がいる。 1903年、千葉県夷隅郡大多喜町に生まれる。出生地に因んで多喜雄と命名される。科学者として名高い加藤四兄弟の長男である。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年に東北帝国大学理学部化学科を卒業。1935年に学位論文「アルカリ金属の研究」で東北帝国大学より理学博士の学位を取得。同大学助手を経て、1929年に東京工業大学助教授、1944年に東北大学工学部教授となり、1945年より東北大学非水溶液化学研究所教授を兼務。
中島 正信(なかしま しょうしん、1902年(明治35年)2… 中島 正信(なかしま しょうしん、1902年(明治35年)2月12日 - 1973年(昭和48年)7月25日)は、早稲田大学名誉教授、早稲田精神昻揚会会長、早稲田船上大学研究会会長、早稲田大学新聞会会長。専攻は商業英語、国際経済論、世界経済論。 1902年2月12日、山口県豊浦郡神玉村に生まれる。 山口県立豊浦中学校、早稲田大学第一高等学院文科を経て、1923年4月に早稲田大学商学部に入学する。1926年3月に卒業後、東京材木輸入協会に入り、貿易実務に従事する。 1930年4月から早稲田大学商学部助手となり、同年7月からアメリカ合衆国のコロンビア大学へ留学する。 1937年4月から早稲田大学専門部商科教授、1941年4月早稲田大学商学部教授となる。
野間 清六(のま せいろく、1902年2月12日 - 196… 野間 清六(のま せいろく、1902年2月12日 - 1966年12月13日)は、日本の美術史家。日本美術史、彫刻史を研究。 1902年、滋賀県生まれ。青山立愍の二男として生まれた。幼名は次郎。3歳の時に野間家の養子となった。1930年、東京帝国大学美学美術史学科を卒業。 卒業後の1931年、東京帝室博物館(のち東京国立博物館)の鑑査官補となった。1938年、同館鑑査官に昇進。1941年より東京国立博物館美術課長。1951年にサンフランシスコで日本古美術展(サンフランシスコ講和条約締結記念展、デ・ヤング記念博物館)が開催された際にはそれに伴い渡米。また同1951年より国立博物館普及課長、1957年より学芸部長。
清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日… 清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日 - 1994年(平成6年)12月24日)は、昭和中期から平成期の実業家。小林一三に長年仕え、阪急の大番頭と呼ばれた。阪急電鉄より1947年に分社独立した後の阪急百貨店(現在のエイチ・ツー・オー リテイリング)初代社長であり、のちには阪急百貨店会長、阪急電鉄会長を歴任した。東宝社長・会長も歴任、東宝中興の祖と呼ばれた。 1901年(明治34年)、実業家・清水栄次郎の次男として大阪府大阪市阿倍野区に生まれる。清水家は砂糖商や鉱山業、銀行業などで財を成した戦前の地方財閥で、父の栄次郎も慶應義塾に学んだ後、材木業などで巨利を得た大阪財界人として知られる存在である。
小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 19… 小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 1983年8月16日)は、日本の社会学者、新聞学者。立教大学名誉教授、立教大学社会学部長、国立世論調査所初代所長、日本世論調査協会会長、日本広報協会理事長。世論調査を日本で初めて行った第一人者として知られるとともに、日本の新聞学の基礎も築いた。 1899年2月12日、北海道小樽市に生まれる。 1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。翌1925年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学新聞研究室の第1回生であり、研究室の助手などを務めた。1935年には、三省堂から「新聞学」を出版。 1938年、立教大学教授に就任する。翌1939年、厚生省人口問題研究所研究官、1943年には、文部省民族研究所員兼企画院調査官を歴任する。
今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - … 今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - 1954年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。自由党吉田派。
伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12… 伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12日 - 1988年〈昭和63年〉10月2日)は、日本の内務官僚、政治家。長野県知事(官選第31代)、群馬県知事(公選第2代)、参議院議員(1期)。 1898年(明治31年)、群馬県吾妻郡中之条町に、伊能八平の三男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、東北帝国大学農科大学予科へ進学。1923年(大正12年)東北帝国大学理学部地質学科を卒業。1924年(大正13年)高等文官試験行政科に合格、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省入省。警視庁警部補からキャリアを積み、警視庁警衛課長を務めた。
小林 利一(こばやし りいち、1898年(明治31年)2月1… 小林 利一(こばやし りいち、1898年(明治31年)2月12日 - 没年不明)は、大正から昭和にかけての満鉄職員、鉄道官僚。朝鮮総督府交通局長を務めた。 大分県速見郡別府町で小林豊蔵の次男として生まれる。1922年11月大学の卒業を待たずして高等文官試験行政科に合格し、1923年3月東京帝国大学政治学科を卒業。満鉄に入り、経理課勤務、京城鉄道学校講師を務めたのち、1925年、朝鮮総督府鉄道局に転じて書記になった。1926年3月には鉄道局副参事、1927年5月には鉄道局参事、1932年6月には鉄道局経理課長に就任。その後、鉄道局理事、京城地方鉄道局長を経て、1942年11月に鉄道局総務課長に就任。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年〈明治30年〉2月… 大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年〈明治30年〉2月12日 – 1971年〈昭和46年〉6月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(5期)。日本初の女性代議士の一人。 京都府出身。1915年(大正4年)、私立信愛高等女学校(現大阪信愛学院高等学校)卒業。卒業後、故郷の舞鶴市で参政権獲得など婦人運動に加わった。のちに国民同志会に入り、1931年(昭和6年)から2年間渡米した。帰国後に満洲国へ渡り、新聞社の顧問などをしたが、間もなく日本に戻った。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選し、日本初の女性代議士の一人となった。当選後は日本社会党に入り、社会革新党を経て右派社会党で活動した。
板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1… 板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1923年1月17日)は、東京出身の登山家。日本登山界草創期に活躍、山岳地におけるスキー利用の先駆者にもなったが、25歳で遭難死した。子爵板倉勝弼の庶子。 1897年(明治30年)2月12日、備中松山藩最後の藩主板倉勝弼(前年10月に死去)の七男(庶子)として生まれる。学習院初等科、中等科を経て学習院高等科を卒業(松方三郎と同級生)。中等科より登山を始めた。1919年に北海道帝国大学農学部に入学、大学時代にはスキー部に所属した。在学中の1921(大正10)年に、加納一郎らと日本最初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊。 1922年に佐幌岳にスキー登山、大雪山系の旭岳に初登頂したほか、槍ヶ岳北鎌尾根を松方三郎らと登攀、新聞には初登頂(実際の初登頂はウォルター・ウェストン)と報道され、新進気鋭の登山家として知られるところとなった。
木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9… 木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、日本の文学評論家、明治文化史の研究家、小説家。小説家の阿部知二とはいとこ同士にあたる。 岡山県勝南郡勝間田村(現:勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。高等小学校卒業後の3年間独学、その後早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉らがいた。1917年卒業。 隆文館、次いで早稲田で同級だった直木三十五らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も宮崎安右衛門『乞食桃水』、西田天香『懺悔の生活』などのベストセラーを企画した。
半田 敏治(はんだ としはる、1892年2月12日 - 19… 半田 敏治(はんだ としはる、1892年2月12日 - 1967年9月13日)は、日本の官僚、哲学者、陸軍軍人。 陸軍大阪衛戍病院院長を務めた軍医半田久雄・房子の長男として福岡県に生まれる。母・房子は、代々福岡藩の藩医を務めた原家の当主12代原三信(当主は代々「三信」を襲名している)の長女であり、13代原三信(原三信病院設立者)は伯父、14代原三信は従兄にあたる。敏治10才の時に房子は急逝している。 1909年福岡県立中学修猷館を卒業し、第七高等学校第一部甲類(英法)に入学するが、同年12月父に無断で高校を退学し、陸軍士官学校へ入学、1912年5月卒業する(24期生)。陸士の同期には甘粕正彦がおり、甘粕が満洲で亡くなるまで親交を続けた。
直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 -… 直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 - 1934年2月24日)は、日本の小説家、脚本家、映画監督。本名は植村 宗一(うえむら そういち)。弟は東洋史学者の植村清二。エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称:直木賞)は、彼に由来する。 1891年2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。 父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。 1920年、久米正雄、吉井勇、田中純、里見弴らによって創刊された『人間』の編集を担当。
野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 19… 野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 1964年8月14日)は、日本の戦前期を代表する写真家のひとり。埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。特に、ポートレイトやヌード写真に長ける。初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちにストレートな表現に移行した。 1889年2月12日に埼玉県浦和宿(のち浦和市)の銀行家の家系に生まれる。慶應義塾大学卒業。戦前の1929年(昭和4年)に、国画会に「裸婦作品」などを出品した。岸田劉生、梅原龍三郎、万鉄五郎、富本健吉らの後援者だった。また、岸田劉生、梅原龍三郎らの美術コレクターでもあり、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は、自邸にて)するとともに、美術家たちへの資金的な援助も行った。
藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月1… 藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月12日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。馬山府尹。 静岡県磐田郡見付町(磐田町を経て現磐田市)出身。1916年(大正5年)法政大学法科を卒業し税務所属となる。ついで大蔵省属、大阪府属を経て、朝鮮総督府属となり、1929年(昭和4年)12月、平安南道大同郡守に就任する。1934年(昭和9年)6月、京城府学務課長に転じ、1936年(昭和11年)7月30日、馬山府尹となった。1942年(昭和17年)10月、退官し、大日本婦人会朝鮮本部総務部長兼厚生部長に就任した。
大場 鑑次郎(おおば かんじろう、1888年(明治21年)2… 大場 鑑次郎(おおば かんじろう、1888年(明治21年)2月12日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、関東州庁長官。旧姓・金子。 山形県南村山郡椹沢村(現在の山形市)出身。農業・金子慶治の三男として生まれ、大場徳太郎の養子となる。山形県立山形中学校、第二高等学校を卒業。 1911年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し愛媛県試補となる。 1913年7月、愛媛県警視に就任。以後、北海道庁理事官・視学官、高知県理事官、関東庁事務官・警務局保安課長、同局高等警察課長兼保安課長、同局保安課長、東京府内務部長、福岡県書記官・内務部長などを経て、1931年5月、台湾総督府文教局長に就任し1932年3月まで在任。
風見 章(かざみ あきら、1886年〈明治19年〉2月12日… 風見 章(かざみ あきら、1886年〈明治19年〉2月12日 - 1961年〈昭和36年〉12月20日)は、日本の政治家。位階は正三位。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属し、衆議院議員を9期務めた。第1次近衛内閣で内閣書記官長、第2次近衛内閣で司法大臣を歴任。茨城県豊田郡水海道町(現在の常総市)出身。水海道市名誉市民。 茨城県豊田郡水海道町高野の農家に、二男三女の末子として生まれる。1898年、旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)に入学(風見は入学者中最年少であり、周囲は年上ばかりだったという)。その後、家からの距離が遠かったため旧制下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に転入する。
中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月1… 中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。
長 世吉(ちょう つぎよし、1884年(明治17年)2月12… 長 世吉(ちょう つぎよし、1884年(明治17年)2月12日 - 1963年(昭和38年)10月8日)は、貴族院書記官長、貴族院勅選議員。 大分県出身。父は漢学者で書家の長三洲、兄は歴史学者の長寿吉。1914年(大正3年)に京都帝国大学法科大学政治科を卒業した。京都府属、同久世郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、法制局参事官、臨時議院建築局事務官、同書記官、大蔵省営繕管財局書記官を兼ねた。貴族院庶務課長を経て、1931年(昭和6年)に貴族院書記官長に就任し、営繕管財局参与も兼ねた。 退官後の1938年(昭和13年)4月2日に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
吉家 敬三(よしいえ けいぞう、明治16年(1883年)2月… 吉家 敬三(よしいえ けいぞう、明治16年(1883年)2月12日 - 没年不明)は日本の実業家。元鴨川化工会長。 父吉家捨蔵は長野県多額納税者で農業を営んだ。長男光夫の妻道子は王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の三女。 長野県上高井郡小布施村(現小布施町)に生まれた。吉家捨蔵の長男。 明治38年(1905年)早稲田大学専門部法律科修了。大正5年(1916年)亀井染料に入り大正15年(1926年)満州鉱山薬社長に就任し後南満火工品社長を兼ね昭和16年(1941年)鴨川ニッケル(後の鴨川化工)会長に挙げられた。
畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12… 畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12日 - 1966年(昭和41年)6月24日)は、日本の彫刻家。 現在の富山県高岡市に生まれる。1901年(明治34年)に富山県工芸学校彫刻科を卒業し、東京美術学校彫刻科へ入学する。1906年(明治39年)に同校を卒業した翌年、農商務省海外実業練習生としてフランスへ渡り、エコール・デ・ボザール最初の日本人学生として、1910年(明治43年)まで木彫を学んだ。帰国後の1911年(明治44年)、第5回文展に出品した「歳三十」が入選、以後帝展の初期まで毎回入選を重ねる。1912年(大正元年)から東京美術学校に勤め始め、雇(助手)、嘱託、助教授と昇進を重ね、1921年(大正10年)に教授に就任した。
正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12… 正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月9日)は、日本の歌人。元日清製粉社長である正田貞一郎の妻。父は5代・正田文右衛門。 上皇后美智子の祖母で、今上天皇の曽祖母にあたる。 1880年(明治13年)、5代・正田文右衛門の長女として生まれる。弟に敏一郎(のち6代文右衛門)がいる。 1897年(明治30年)12月8日、後の日清製粉社長となる正田貞一郎と結婚。夫となった貞一郎の父(正田作次郎)はきぬの祖父(4代文右衛門)の弟で、つまり夫は父の従弟にあたる。貞一郎との間に5男5女を儲ける。なかでも三男の英三郎は、長女美智子が民間から皇室へと初めて嫁いだことで知られる。
坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 … 坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 - 1969年12月16日)は、日本の陸軍軍人、教育者、関東学院院長。学校法人関東学院の基礎作りに貢献した。 旧会津藩士の父・中村富造、母ミエの二男として、秋田県鹿角郡大湯村(現・鹿角市十和田大湯)で生まれる。母方の祖父は白虎隊士中二番隊長の日向内記。両親は斗南藩領(現・青森県むつ市)に移ったものの困難な生活を余儀なくされ、廃藩後に大湯村に永住することとなった。一家の生活は苦しく、1892年(明治25年)毛馬内小学校高等科(現・鹿角市立十和田小学校)第3年で中退し、大湯村の不老倉銅山で働いた。しかし、勉学の志止みがたく、1896年(明治29年)故郷を出て東京に向かい、東京、横浜、浦賀などを転々としたが、最後は足尾銅山で1898年(明治31年)まで働いた。
小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月1… 小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月12日 - 1938年(昭和13年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少将。第5代岡崎市長。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業した後は、歩兵第33連隊に属し、1902年(明治35年)には陸軍大学校に入学した。陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発し、第3師団に属して出征し、負傷した。1907年(明治40年)、陸軍大学校に復学し、翌年に卒業した。卒業後は参謀本部に勤務するかたわら、山縣有朋元帥の副官を務めた。1910年(明治43年)、少佐に昇進するとともに、イギリス・フランス・ドイツに留学し、飛行機・自動車の調査にあたった。
小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 -… 小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 - 1952年(昭和27年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大分市長、別府市長。弁護士。 大分県大分郡、のちの阿南村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で医者の家に生まれる。大分中学校を経て、1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。弁護士を開業し、後に大分弁護士会長を務めた。大分市会議員、同参事会員、大分県会議員、同参事会員、同議長に選出された。1935年(昭和10年)、別府市長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回でも再選された。その間、1938年(昭和13年)に大分市長に選出された。
西村 伊亮(にしむら いすけ、1874年2月12日 - 19… 西村 伊亮(にしむら いすけ、1874年2月12日 - 1951年1月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京法学院で学ぶ。農業を営み、滋賀県会議員、近江米取引所理事長、同監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1951年に死去した。
渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(… 渡辺 勝三郎(わたなべ かつさぶろう、1872年2月12日(明治5年1月4日) - 1940年(昭和15年)9月24日)は、日本の内務省官僚。岡山県井原町(現井原市)出身。従三位勲二等。 岡山藩士・小姓格、渡辺徳一郎の三男として生まれる。岡山中学、早稲田専門学校、共立学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となり県治局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。奈良県参事官、広島県参事官、福島県書記官、和歌山県・香川県の各第一部長兼第三部長、香川県・京都府の各内務部長などを歴任。 1908年(明治41年)7月から1914年(大正3年)4月まで徳島県知事を務め、内務省地方局長に転じた。
三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日(明治3年… 三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日(明治3年12月23日) - 1919年(大正8年)2月11日)は、日本の教育者、元第二高等学校校長、元皇子傅育官長。 1871年2月12日(明治3年12月23日)に、村上(現新潟県村上市)に、村上藩士・三好義雄の次男として生まれる。村上中学に学び、1891年(明治24年)第一高等学校卒業、1895年(明治28年)東京帝国大学(現東京大学)哲学科を卒業する。 その後、京都真宗大学教授、新発田尋常中学校長を務め、また長野尋常中学(現長野県長野高等学校)を創設、初代校長となる。暖房費を節約して「神聖なるピアノ」を購入などのエピソードを残す。1900年(明治33年)、仙台の第二高等学校(現東北大学教養課程の前身)教授、のちに第5代校長となり、同校の「雄大剛健」の校風を樹立した。
北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年… 北原 多作(きたはら たさく、明治3年1月12日(1870年2月12日) - 大正11年(1922年)1月12日)は、日本の海洋学者、水産学者。日本における水産行政、水産学研究、海洋測器開発の先駆者として知られる。 明治3年(1870年)、美濃国山県郡北野村(現在の岐阜県岐阜市三輪)の各務家において生まれる。幼い時に父を亡くした後、岐阜中学を経て青山学院へと進むが、その間は学費の捻出の為に学僕を務めた苦学生であった。明治27年(1894年)7月に東京帝国大学理科大学動物学科選科を卒業する。在学中は箕作佳吉の指導により、霞ヶ浦の水族調査を行っている。また、明治26年(1893年)にはウシモツゴの和名の基となった岐阜市での方言名「う志もろこ」の名を初めて報告した。
堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(… 堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(明治2年1月2日) - 1934年(昭和9年)10月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1889年、東京高等工業学校卒。京橋区議、東京府議、同市部会議員、同議長となる。千代田護謨、東京製靴、東京商船各(株)専務取締役、原安商会、秋葉商店、茨城鉄道、大谷石材鉄道、栗山電燈、稲敷電気各(株)取締役社長などを務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において茨城3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。在職中の1934年10月に死去した。
内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年… 内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年1月17日〉- 1942年〈昭和17年〉6月2日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使、駐トルコ大使。 豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。 退官後は日土協会会長、日土貿易協会顧問を務めた。