池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月… 池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう、大正4年(1915年)6月12日 - 平成11年(1999年)6月25日)は、日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。九州大学医学部名誉教授。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。甥は臨床心理学者の池見陽。 福岡県糟屋郡粕屋町生まれ。旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、九州帝国大学医学部卒業。戦後、アメリカの医学が日本に流入した際、心身医学の存在を知る。昭和27年(1952年)にはアメリカミネソタ州のメイヨー・クリニックに留学し、帰国後、日野原重明、三浦岱栄らと共に昭和35年(1960年)日本心身医学会を設立し、初代理事長になる。翌昭和36年(1961年)九州大学に国内最初に設立された精神身体医学研究施設(現在の心療内科に当たる)教授に就任し、内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化、実用化に尽力した。
中村 時雄(なかむら ときお、1915年6月12日 - 20… 中村 時雄(なかむら ときお、1915年6月12日 - 2001年3月20日)は、日本の政治家である。衆議院議員、松山市長を歴任した。
木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日… 木津 三郎(きづ さぶろう、1914年(大正3年)6月12日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県三郷市長(第4代 – 第6代)。 実子は現三郷市長の木津雅晟。 埼玉県北葛飾郡早稲田村(現・三郷市)出身。埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)、東京専修学院卒。卒業後は早稲田村役場に奉職する。その後は三郷村、三郷町、三郷市に勤務し、市制施行後に収入役、助役となる。1982年、三郷市長選挙に立候補して当選する。市長を1994年までの3期務めた。1995年、勲四等旭日小綬章を受章した。
寺前 武雄(てらまえ たけお、1913年〈大正2年〉6月12… 寺前 武雄(てらまえ たけお、1913年〈大正2年〉6月12日 - 1998年〈平成10年〉10月25日)は、日本の政治家。北海道北見市長(1975年 - 1987年、3期)。 北見市生まれ。1927年(昭和2年)、北海道庁野付牛中学校(旧制)卒業。札幌の司法書士事務所や弁護士事務所に勤務。1938年(昭和13年)兵役に就く。1945年(昭和20年)終戦により復員。その後、北見市農業共済組合に入る。同組合長を経て、1951年(昭和26年)に地元・北見市の市議会議員選挙に無所属で出馬し、初当選。以後、市議会議員を連続6期当選した。1959年(昭和34年)5月8日、第5代同市議会副議長に選出された。
今澄 勇(いまずみ いさむ、1913年(大正2年)6月12日… 今澄 勇(いまずみ いさむ、1913年(大正2年)6月12日 - 1997年(平成9年)11月17日)は、昭和期の日本の政治家、経済評論家。衆議院議員(8期)。 山口県出身。山口高等商業学校(現山口大学)卒業。1945年、日本社会党の結党に参加した。 1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に旧山口1区(定数4)から社会党公認で立候補し、トップで初当選した。 1951年の社会党の左右分裂では右派社会党に参加、1955年に両派は統一するも1959年に脱党し、1960年1月の民社党の結成に参加した。委員長西尾末広の下で党政策審議会長に就任。同年11月の第29回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で4番目の得票数で当選し、返り咲き。
高橋 安人(たかはし やすんど、1912年(明治45年)6月… 高橋 安人(たかはし やすんど、1912年(明治45年)6月12日 - 1996年(平成8年)10月29日)は、日本の機械工学者。工学博士(東京帝国大学)、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授、豊橋技術科学大学名誉教授。当初は伝熱工学を専攻していたが、太平洋戦争後は日本の制御工学の草分けとして活躍した。世界の先端技術を日本に広めるとともに、日米の懸け橋としても功績がある。 名古屋帝国大学助教授、東京大学生産技術研究所教授、カリフォルニア大学バークレー校教授、豊橋技術科学大学教授を歴任。1978年にRufus Oldenburger Medal(英語版)、1994年に計測自動制御学会最初の功績賞を受賞。
影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月… 影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月12日 - 1979年〈昭和54年〉5月25日)は、日本の右翼活動家、思想家、歌人。 愛知県豊橋市生まれ。家は神官。父は影山庄平。豊橋中(現在の愛知県立時習館高等学校)卒、國學院大學哲学科中退、在学時代から右翼運動に入り、1931年(昭和6年)全国大日本主義同盟、日本学生連合に参加、32年生産党常任中央委員、33年神兵隊事件で検挙。36年に維新寮を結成、39年これを大東塾と改め塾長となった。40年7月皇民有志決起事件で検挙、42年禁錮5年の判決を受けたが、43年には特赦となった。44年11月応召。1946年5月帰国。54年4月3日大東塾再建。
日影 丈吉(ひかげ じょうきち、1908年6月12日 - 1… 日影 丈吉(ひかげ じょうきち、1908年6月12日 - 1991年9月22日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。本名は片岡十一。幻想的な作風で、代表作として長篇小説「真赤な子犬」「内部の真実」「応家の人々」、短篇小説「猫の泉」「吸血鬼」、探偵右京慎策の活躍するハイカラ右京シリーズなど。 1908年(明治41年)に東京府東京市深川区深川木場町(現在の東京都江東区木場一丁目)で、魚問屋の父と魚小売商の母の間に第三子として生まれる。4歳の時に父が亡くなり、その魚問屋のあった日本橋に移る。1917年に深川に戻り、神田の明治中学に入学、中学時代は金剛社の探偵小説の叢書を愛読し、『童話』誌に投稿して入選したこともあった。
藤本 智董(ふじもと ちとう、1906年(明治39年)6月1… 藤本 智董(ふじもと ちとう、1906年(明治39年)6月12日 - 1984年(昭和59年)4月13日)は、日本の哲学者、倫理学者。福岡教育大学教授。福岡大学教授。
任 哲鎬(イム・チョロ、朝鮮語: 임철호、1905年6月12… 任 哲鎬(イム・チョロ、朝鮮語: 임철호、1905年6月12日または1908年 - 1990年8月19日または1999年8月19日)は、大韓民国の弁護士、政治家。第11代農林部長官、第4代韓国国会議員を歴任した。 忠清南道扶余郡出身。明治大学法学部卒。高等試験司法科合格。弁護士、中央女子中高等学校財団理事、豊文女子中高等学校財団理事、大韓民国考試行政法・憲法担当委員、李承晩大統領法律秘書官、農林部次官、韓日会談代表(1951年)、自由党ソウル市副委員長・中央党組織部長・中央委員会副議長(1952年)、第11代農林部長官(1955年)、大韓蚕糸会長、国会議員・副議長などを歴任した。1950年代後半は李起鵬の側近で、李の後任の国会議長に取り沙汰されたが、副議長在任中に発生した4・19革命以降は不正選挙関連の反革命勢力として糾弾され、5・16軍事クーデター以降は革命裁判によって拘束・投獄された。
奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1… 奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。 1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌区(現・札幌市)で生まれる。後に陸上選手となる南部忠平は幼稚園からの幼なじみ。北海道庁立札幌第一中学校3年修了時に上京。同郷の先輩である梁田貞の世話により、成城中学校と東京音楽学校分教場夜間部に入り、また村井満寿から個人レッスンを受ける。1922年(大正11年)に東京音楽学校に入学するが、翌1923年の関東大震災により国内での勉学を断念し、同校を中退。その後渡欧して、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画『狂乱のモンテカルロ(ドイツ語版)』主題歌「モンテ・カルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画『会議は踊る』主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。
山本 猛夫(やまもと たけお、1903年6月12日 - 19… 山本 猛夫(やまもと たけお、1903年6月12日 - 1989年7月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 東京都生まれ、もしくは岩手県盛岡市出身。1923年、日本大学政治科卒業。時事新報社、毎日新聞社政治部記者を務めたのち、東洋鋼材工業社長、東京製糖社長となる。1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1947年、第23回衆議院議員総選挙岩手1区に民主党から出て、初当選。以後5期務めた。1950年、衆議院懲罰委員長。同年7月、第3次吉田第1次改造内閣郵政政務次官。1951年、第3次吉田第2次改造内閣郵政政務次官。1952年、衆議院議事進行係。1956年、松浦董子(旧華族・元久邇邦久の妻)と結婚。
山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 - 1… 山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 - 1975年3月16日)は第20代日本銀行総裁。大蔵次官。東京出身。
秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月… 秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月12日 - 1981年〈昭和56年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 奈良県出身。1926年(大正15年)東京農業大学を卒業した。 東洋製糖取締役、東和醸造監査役、全国農業共済協会顧問、奈良県花卉園芸組合連合会長、奈良県至誠会顧問、奈良県農地解放者同盟会長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から立候補して当選した。その後、26回、28回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員に通算4期在任した。自由民主党に所属して、自民党奈良連合会顧問、第1次池田内閣大蔵政務次官などを務めた。
内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977… 内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977年7月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 広島県御調郡御調町(現尾道市)生まれ。1921年(大正10年)に広島師範学校を卒業し広島県内で教員として勤務の後、1939年(昭和14年)に日立造船向島工場に入社。日立造船では因島工場総務部長などを務める。1953年(昭和28年)には因島市議会議員に当選。 1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙で広島3区から出馬するも落選。1958年(昭和33年)第28回衆議院議員総選挙にて初当選を果たし民主社会党の結党に加わる。1968年(昭和43年)衆議院交通安全対策特別委員長。1971年(昭和46年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。
5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治… 5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治31年〉6月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名:鈴木 梧郎(旧姓:斎藤、旧名:五郎)。日本芸術協会会長を務めた。出囃子は『野毛山』。実子は曲芸師の鏡味健二郎。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。 群馬県佐波郡境町の銘仙織元「藤本屋」の斎藤松右太・かんの三男として生まれる。第5子であったことから五郎と名付けられる。母は1904年(明治37年)に死去。自身は太田中学校、陸軍士官学校と進学し、軍人になることを望んでいたが、父が米相場に手を出して失敗したことにより、進学の道は諦めることとなった。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 192… 潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 1927年10月13日)は日本の歌人。本名は長谷川桐子。旧姓は太田。姉の若山喜志子も歌人。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。大正4年(1915年)三浦半島に療養中の姉・喜志子を見舞い、翌年まで滞在した。大正4年から歌作を始め、義兄の若山牧水に師事し、詩歌雑誌「創作」に作品を発表する。同7年(1918年)に上京し、翌年、喜志子・牧水夫妻の仲人により、牧水の弟子である長谷川銀作と結婚したが、同10年(1921年)ころから結核に罹患し、療養を続けながらも創作を続けたが、31歳で夭逝した。遺歌集に「潮みどり歌集」が刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月… 新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月12日 - 1968年(昭和43年)6月13日)は、日本の彫刻家である。 新海竹太郎の甥として山形県山形市に生まれる。家系は仏師であり、竹蔵の曾祖父母は同業に従事していた。1912年(大正元年)に上京し、その後は伯父の竹次郎から塑像を学び、1915年(大正4年)に自身の作品が第9回文展に初入選される。後には多くの作品が文展および帝展に出品され、1924年(大正13年)には自身の作品が再興された院展にも出品された。これによって翌1925年(大正14年)には日本美術院の院友となり、1927年(昭和2年)には日本美術院の同人に推薦され院展彫塑部に所属する。
和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月1… 和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月12日 - 1968年 <昭和43年> 8月13日)は、日本の経営者。丸善石油(現在のコスモ石油)社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県豊岡市出身。1914年に旧制豊岡中学校を卒業。満鉄での勤務を経て、1930年に丸善石油に転じ、1951年11月に専務に就任し、1952年10月には社長に昇格し、1963年までに務めた。 1959年に紫綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1968年8月13日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
原 乙未生(はら とみお、1895年6月12日 - 1990… 原 乙未生(はら とみお、1895年6月12日 - 1990年11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。日本の戦車開発の黎明期に中心的役割を果たし「日本戦車の父」と呼ばれている。 福岡県出身。原亨陸軍大尉の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を優等で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第5連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を優等で卒業し、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部機械工学科で学び、戦車設計をテーマにした卒論で1922年(大正11年)3月に卒業した。 1923年(大正12年)3月、陸軍中尉に昇進。
平沼 弥太郎(彌太郎、ひらぬま やたろう、1892年(明治2… 平沼 弥太郎(彌太郎、ひらぬま やたろう、1892年(明治25年)6月12日 - 1985年(昭和60年)8月12日)は、日本の林業家、実業家、政治家。参議院議員(1期)、埼玉県入間郡名栗村長。 埼玉県秩父郡名栗村(のち入間郡名栗村、現:飯能市)で、山林地主・平沼源一郎の長男として生まれる。1912年、京華中学学校を卒業し、その後、山林業を継承した。 合資会社平沼材木店代表社員、埼玉県木材社長(戦時統制会社)、埼玉県山林会副会長、全国山林会連合会常任幹事、埼玉県森林組合連合会会長、中央林業協会理事などを務めた。 その他、実業界では、飯能銀行会長、埼玉銀行頭取、全国銀行協会理事、名栗水電社長、経済団体連合会理事などを務めた。
山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6… 山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6月12日 - 1982年〈昭和57年〉9月19日)は、日本の哲学者。京都学派の哲学者。文化功労者。京都大学名誉教授。元京都学芸大学学長。西田幾多郎の弟子の一人。形而上学者として比較哲学の著しい貢献。主書は『ロゴスとレンマ』(1974)である。 奈良県生まれ。旧姓中川。京都帝国大学で西田幾多郎に師事した後、ドイツのフライブルク大学に留学しエトムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーに師事。留学中に左右田喜一郎の推薦により東京商科大学(後の一橋大学)助教授に就任。後に京都大学教授等を歴任。蔵書や自筆ノートは山内文庫として一橋大学附属図書館に収められている。
辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 19… 辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 1983年7月15日)は、日本の地理学者・地形学者。地形学を中心とした日本における地理学の確立に努め、長く日本の地理学をリードしてきた人物として知られ、日本の地理学の歴史には欠かせない人物である。 神奈川県小田原市の生まれ。13歳で神奈川県立第二中学校に入学。三年後に東京開成中学校に転校。18歳の時同校を卒業し、1908年(明治41年)19歳で第一高等学校理科に入学する。この頃、従兄の辻村伊助の影響もあって早くから山や登山に興味をもち、中学4年の頃山岳会に入会し会員となった。1911年(明治44年)、飛騨山脈の高峯で多数のカール(圏谷)や堆石(モレーン)を見つけ、それらが氷河作用によるものと考え、論文を発表した。
山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6… 山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、工学者。北海道帝国大学教授。阜新製作所社長。満州炭鉱理事。衆議院議員山田喜之助の長男。 東京府の弁護士・山田喜之助の長男。1909年7月、石川県金沢の第四高等学校を卒業後、9月東京帝国大学工科大学機械工学科に進学。1912年7月、大学を卒業し、鉄道院に奉職。1913年、家督を相続した。 その後、官を辞して明治鉱業に入社した。欧米各国に留学した。1925年8月、北海道帝国大学に開設された工学部の教授(鉱山工学教室・鉱山機械学担当)に就任した。1938年3月、北海道帝国大学教授を退官して満州炭鉱株式会社の技師に転じた。
黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月1… 黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月12日 - 1967年〈昭和42年〉2月9日)は、日本の教育者。横浜中学校・高等学校創立者。青森県今別町名誉町民。位階は従四位。 青森県東津軽郡一本木村(現今別町)奥平部で旧弘前藩士の黒土形衛の二男として生まれた。父は維新後に始めた商売に失敗し、津軽半島北端の地に移り海藻を採るなどして生計を立てた。12歳で父と死別し、翌年に青森地方裁判所の給仕となった。その後、進学するために弘前にある寺の住職を務めていた伯父の養子となり、東奥義塾に入学した。1908年(明治41年)に東奥義塾を卒業して東京高等師範学校博物学科に進み、1912年(明治45年)に卒業した。
岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 19… 岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 1930年12月29日)は、童画家。兵庫県洲本に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。1906年、東京市立第一中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。1930年12月、腸チフスにより死去。弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月… 内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)、建築家。「耐震構造の父」と称されている。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。
二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886… 二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886年(明治19年)6月12日 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、日本の実業家。伊藤忠財閥の2代目当主である。従三位勲一等瑞宝章。幼名は精一(せいいち)。 父・初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した伊藤本店を発展させ、伯父・六代目伊藤長兵衛が創業した伊藤長兵衛商店と合併し、伊藤忠商事と丸紅という2つの総合商社の基礎を築いた。 二代目忠兵衛はカタカナの使用を推進するカナモジ運動の草分けとしても知られ、1920年(大正9年)1月からカナモジカイの創立委員となり、日向利兵衛(東洋製糖)、片岡安、下村海南、平生釟三郎らとともにこの運動の有力メンバーとなり、1938年(昭和13年)10月には財団法人カナ文字会の理事となる。
田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月1… 田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月12日 - 1956年(昭和31年)10月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟→東方会)、産婦人科医。 滋賀県犬上郡南青柳村(現在の彦根市)の今村家に生まれ、田中貞蔵の養子となった。1907年(明治40年)に愛知医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)を卒業し、さらに京都帝国大学産婦人科教室で研究を重ね、坂田郡米原町(現在の米原市)に産婦人科医院を開業した。坂田郡会議員、滋賀県会議員、同参事会員を歴任。 1926年(大正15年)の衆議院滋賀6区(小選挙区)の補欠選挙で初当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで5回当選を果たした。
古島 義英(ふるしま よしひで / ぎえい、1885年(明治… 古島 義英(ふるしま よしひで / ぎえい、1885年(明治18年)6月12日 - 1962年(昭和37年)8月31日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 埼玉県南埼玉郡三箇村(菖蒲町を経て現久喜市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本大学法律科を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格し、司法官試補を経て弁護士となる。1926年(大正15年)の東京市会議員選挙に立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党から出馬し、当選する。以来通算7回当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では翼協非推薦で立候補して落選した。その間に第1次吉田内閣の司法政務次官、裁判官弾劾裁判所長、臨時法制調査会委員長、裁判官訴追委員会長等を歴任する。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1… 橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。 1880年、長崎県諫早で生まれた。長崎中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。大学では白鳥庫吉、市村瓚次郎の指導を受け、羽田亨、原田淑人らと同学であった。1908年に卒業した。 1909年、早稲田大学文学科講師に就いた(1919年まで)。1910年からは慶應義塾にも出講し、1920年に慶應義塾大学教授となった。1944年に同大学を退任し、名誉教授となった。慶応大学在職中には、1935年から1年間東京文理科大学講師、1939年に東洋大学講師(翌年教授に昇格)を兼任した。1941年4月、学位論文『支那古代暦法史研究』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 -… 下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合の創始者、また労働運動や農民運動の指導者。下中芳岳ともいう。 1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村(現・丹波篠山市)に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦女新聞』の編輯に携わる。1910年に中等教員検定試験教育科に合格し、1911年 - 1918年、埼玉県師範学校の嘱託教師となる。1919年(大正8年)、啓明会を結成(翌1920年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。
三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月1… 三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月12日 - 1947年〈昭和22年〉8月14日)は、日本の経済学者、実業家、政治家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。研究者、財界人、政治家として活躍した。 山形県山形市旅籠町三浦新兵衛の四男として生まれる。のちに、一族の宗家である四日町の豪商三浦権四郎の養嗣子となった。 旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現:一橋大学)卒。1903年(明治36年)からイギリス・ドイツに留学し、ライプツィヒ大学でランプレヒトに師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。
赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 195… 赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 1954年12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 19… 古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 1967年9月17日)は、大正・昭和初期の外交官。古谷綱武と古谷綱正は子息。 愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市宇和町明間)の庄屋・古谷綱紀の次男として生まれた。同志社を卒業後、米国ミシガン大学に学ぶ。国民新聞社勤務を経て、1902年に外交官及領事官試験に合格した。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。1928年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。
岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月1… 岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月12日 – 1936年(昭和11年)5月22日)は、日本の農商務官僚、衆議院書記官長。東京株式取引所理事長。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)に勝部又一郎の二男として生まれ、衆議院議員岡崎運兵衛の養子となった。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務省山林局事務官、群馬県事務官、福井県事務官、農商務省参事官、同書記官、大阪鉱務署長、農商務省大臣官房文書課長などを歴任し、1915年(大正4年)に衆議院書記官長に就任した。 退官後は東京株式取引所理事・理事長を務めた。その他に第三国立銀行取締役、大社宮島鉄道取締役、松陽新報社社主などを務めた。
金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1… 金沢 庄三郎(かなざわ しょうざぶろう、明治5年5月7日(1872年6月12日) - 昭和42年(1967年)6月2日)は、日本の言語学者、国語学者。本来の名前は金澤 庄三郎である。雅号は濯足(たくそく)で、その出典は屈原の詩集『楚辞』の中の「漁夫」である。 大阪生まれ、東京帝国大学卒。アジアの各言語の比較研究を行った。北海道(アイヌ語)、大韓帝国(朝鮮語)、琉球、シベリア(ロシア語)、満洲(満洲語、蒙古語)などでフィールドワークを行い、さらに中国語も修めた。また、國學院大學教授を務め、東京帝国大学、東京外国語学校、駒澤大学にも出講した。 日本語と朝鮮語を対象とした、「日韓両国語同系論」(1910年(明治43年))や「日鮮同祖論」(1929年(昭和4年))は、朝鮮半島併合を理論的に正当化するため、併合推進者が頻繁に引用した。
佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治… 佐竹 直太郎(さたけ なおたろう、1871年6月12日(明治4年4月25日) - 1946年(昭和21年)12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県郡上郡、後の西和良村(現郡上市)出身。1891年、岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)卒。農業を営む。高田町議、養老郡議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、同議長、所得調査委員、高田町助役、養老郡農会議員、地方森林会議員、土地収用審査委員、真利銀行、西濃貯蓄銀行、養老遊園各(株)取締役となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年… 石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年6月12日(慶応2年4月29日)- 1923年(大正12年)12月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 因幡国智頭郡、のちの鳥取県智頭郡智頭村(八頭郡智頭村を経て現智頭町)に生まれる。石谷伝九郎の長男。石谷家は智頭四軒衆と呼ばれた素封家のひとつで、山林経営によって江戸時代の大庄屋から智頭の筆頭地主となった豪家。 慶應義塾を卒業し、家業を継いだ。町会議員、県会議員となって活躍した。 1898年(明治31年)には衆議院議員に初当選し、その後も2回再選された。1903年(明治36年)春、日本美術院長の岡倉天心が智頭町にある豊乗寺の国宝調査に訪れた際、国米泰石の技量の高さを岡倉天心に示したところ、国米泰石は岡倉天心に招かれて日本美術院に入ることとなった。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864… 後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864年6月12日) - 昭和2年(1927年)1月11日)は、日本の実業家、政治家。町会議員、郡会議員、県会議員。旧姓小林。山陰鉄道敷設最大の功労者である。 出雲国能義郡布部村宇波(現・島根県安来市)出身。広瀬の山村塾・県立松江中に学び、小学校教師を勤めた。 明治20年(1887年)鳥取・米子の名門商家後藤家の養子となる。養子のため当主が代々襲名する市右衛門を名乗ることはなかった。当時後藤家の経済はやや苦しかったが、為替倉庫業・質業などで次第に業績をあげた。刻煙草製造業も経営していたが、煙草専売法施行後、松江との競争に勝って岡山専売局の出張所誘致に成功し、その働きによって山陰の煙草元売捌権を得た。
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2… 田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる。 淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。 1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。
荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年… 荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年5月6日)- 1934年(昭和9年)2月14日)は、幕末から明治期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県会議長、秋田県北秋田郡大葛村長。諱・富延、号・葛渓、檗堂。大葛鉱山支配人・荒谷家13代当主。 出羽国秋田郡大葛村(秋田県北秋田郡大葛村、比内町大葛を経て現大館市比内町大葛)で、大葛鉱山支配人の荒谷家12代当主・荒谷忠一郎の二男として生まれた。10歳で父を失い家督を相続して大葛鉱山支配人を継承したが、1870年(明治3年)大葛鉱山は久保田藩有となった。 その後、大館の儒者・中田錦江に師事し漢学を修めた。さらに上京して1875年(明治8年)慶應義塾を卒業した。