高田 正二郎(たかだ しょうじろう、1913年1月13日 -… 高田 正二郎(たかだ しょうじろう、1913年1月13日 - 1989年7月4日)は、日本の洋画家、グラフィックデザイナー。 東京都日本橋区の寿司屋の次男として生まれる。 東京都立第三中学校在学中に日本パステル画会に入会、洋画家の矢崎千代治(やざき ちよじ)に師事。1929年卒業。 1930年頃に従兄で彫刻家の吉田久継(よしだ きゅうけい)や東京美術学校教授の島田佳矣(しまだ よしなり)、同助教授の千頭庸哉(ちかみ ようさい)にデザインや鉛筆画を学ぶ。 1931年、東京美術学校図案科入学。和田三造、広川松五郎に師事。 1932年に東京湾汽船、キッコーマンの広告懸賞に入選したのを皮切りに各コンクールで入賞・受賞を重ねる。
白石 大二(しらいし だいじ、1912年〈明治45年〉1月1… 白石 大二(しらいし だいじ、1912年〈明治45年〉1月13日 - 1989年〈平成元年〉8月30日)は、日本の国語学者。文部官僚。 愛媛県今治市生まれ。1935年東京帝国大学文学部国文科卒。文部省に入り、文部省調査局国語課長。早稲田大学教育学部教授。1982年定年退任。現代仮名遣いの策定に関わり、国語行政を先導した。
神林 正教(かんばやし まさのり、1911年1月13日 - … 神林 正教(かんばやし まさのり、1911年1月13日 - 1996年7月22日)は、日本の経営者。長野県埴科郡松代町(長野市)出身。 旧制屋代中学(長野県屋代高等学校)を経て、1935年に東京商科大学を卒業し、同年に日綿実業に入社。 1961年6月に取締役に就任し、常務などを経て、1966年に社長に就任した。1977年に会長に就任し、1983年から相談役に就任した。 日本繊維製品輸出組合理事長、日本繊維製品貿易協会理事長、大阪貿易協会会長などを歴任した。 1969年に産業功労賞を受賞し、1970年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等瑞宝章を受章した。 1996年7月22日脳梗塞のために死去。
今井 林太郎(いまい りんたろう、1910年1月13日 - … 今井 林太郎(いまい りんたろう、1910年1月13日 - 2003年9月8日)は、日本の歴史学者、神戸大学・大手前大学名誉教授。専門は日本古代・中世史。 大阪府生まれ。大阪府立今宮中学校を卒業し、1928年第三高等学校文科に入学。同校で中村直勝の講義を受け、日本史を専攻することにする。1931年に卒業すると、京都帝国大学では三浦周行の定年退官が決まっていたこともあり、「中世に於ける社寺と社会との関係」に惹かれて平泉澄のいる東京帝国大学へ進学する。同期入学に北山茂夫、久保田収や箭内健次らがいる。卒業論文では「中世における庄園の農民」をテーマとしようと黒板勝美に相談したところ、「歴史のいろいろな記録には殆んど出てこない、そんなものを調べてみても無駄だ」という意見であったというが、黒板の承認を得て清水三男の論文「中世に於ける若狹太良莊の農民」などに学びながら、卒業論文「中世における荘民について」をまとめた。
高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月1… 高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月13日 - 不明)は、広島県広島市出身の実業家・経営者である。萬国製針二代目社長・会長を歴任。父は萬国製針創業者の高橋誠太郎。 1908年1月13日に広島県広島市で生まれる。1926年に旧制崇徳中学校を卒業し、家業を継ぐべく萬国製針商会に入社する。1936年に同会代表者となる。1945年8月6日に原子爆弾の被害により、工場・設備の一切を失い、自宅も焼かれ、長男を始め近親者の10名が亡くなった。高橋自身、原爆を恨み、アメリカに対する憎悪の念を燃やしながら終戦を迎えたとされる。アメリカに対する憎悪は、やがてアメリカへの積極的な針の輸出という企業化精神へと転化されていった。
乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13… 乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13日 - 2000年(平成12年)9月19日)は、日本の教育者(英語・ドイツ語科)、牧師、軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第9代当主。板垣退助の孫。日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師。 1908年(明治41年)1月13日、高知県貫属士族・乾正士の長男として、高知県土佐郡潮江村412番屋敷に生まれる。母は、長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地)高野直作の長女・八重野。父乾正士は板垣退助の次男にあたる。乾姓を称したのは、退助が戊辰戦争の際、乾姓から板垣に復姓したが、旧来の乾姓が無くなるのを惜しみ正士を後嗣の無い分家の土佐藩士・乾正厚の家督を相続させる形で残そうとしたため。
菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 19… 菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 1989年12月10日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。 1927年9月に関西商工無尽に入社し、1953年3月に関西大学専門部法科を卒業。1959年4月に取締役に就任し、1957年11月に近畿相互銀行常務、1960年11月に専務、1963年8月に副社長を経て、1967年5月には頭取に就任。1979年6月には相談役に退いた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年12月10日肺炎のために死去。81歳没。
山田 久就(やまだ ひさなり、1907年1月13日 - 19… 山田 久就(やまだ ひさなり、1907年1月13日 - 1987年12月15日)は、日本の外交官、政治家。位階は正三位。 第9代環境庁長官。衆議院議員(4期)。 父は高岡新報(現在の北日本新聞)元社長の山田久太郎。 1907年京都市生まれ。富山県東礪波郡広塚村(後の福野町、現在の南砺市)出身。旅順中学校、第四高等学校卒業。1929年に東京帝国大学法学部を卒業した後、外務省に入る。同期に朝海浩一郎(駐米大使)や大野勝巳(駐英大使)など。外務事務次官や駐ソ連特命全権大使等を務めた後、1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧東京8区から立候補し当選する。 1973年に外務政務次官となり、1977年発足の福田赳夫改造内閣において環境庁長官となる。
井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)… 井上 東治郎(いのうえ とうじろう、1906年(明治39年)1月13日 - 1980年(昭和55年)9月29日)は、日本の農業指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・升。 宮城県柴田郡村田町で升健蔵の長男として生まれ、井上ちせの養子となった。1924年(大正13年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。新聞販売業を営んだ。 村田町農会長、全国治水砂防協会評議員、同県支部長、宮城県森林組合連合会長、同県蒟蒻栽培生産組合連合会副会長、全国蒟蒻原料配給統制協議会常任理事、宮城県蒟蒻原料統制 (有) 取締役社長、商工組合中央会理事、宮城県蚕糸連盟評議員などを務め、農民の福祉の向上に尽力した。
古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973… 古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)は、日本の出版人、筑摩書房の創業者、初代社長。
石渡 満子(いしわた みつこ、1905年(明治38年)1月1… 石渡 満子(いしわた みつこ、1905年(明治38年)1月13日 - 1974年(昭和49年)8月27日)は、日本の裁判官、弁護士。女性として日本で最初に裁判官となった。 神奈川県(京都府との説もある)にて、旧名主であり官吏の家の4人姉妹の長女として出生。1922年東京女子高等師範学校附属高等女学校本科卒業、1926年東京女子高等師範学校卒業。卒業と同時に結婚する。8年後に離婚し、法曹を志し、明治大学に進学し、1944年に卒業。1945年司法試験に合格。1948年婦人法律普及会を結成。 1949年女性初の判事補として東京地方裁判所に赴任。1950年婦人人権擁護同盟を組織。1961年判事となり、関東各地の地方裁判所に赴任。
宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 198… 宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 1982年5月10日)は、昭和期の日本の海洋物理・水産海洋学者。 1905年、高知県土佐郡小高坂村で生まれた。1921年に高知県立第一中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に進んだ。1924年、東京帝国大学物理学科に入学し、寺田寅彦や藤原咲平の指導を受けた。1927年に同大学を卒業。 卒業後の1927年(昭和2年)4月、農林省水産講習所(後の東京水産大学、現在は東京海洋大学)技師に採用された。1928年(昭和3年)2月から翌年11月まで、兵役のため、幹部候補生として浜松高射砲第一連隊に入隊。除隊後に復職するが、水産講習所の組織再編により、1929年10月より農林省水産試験場技師となり、海洋調査部に勤務。
名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月1… 名取 武光(なとり たけみつ、1905年〈明治38年〉1月13日 - 1987年〈昭和62年〉10月3日)は、日本の考古学者。 1905年(明治38年)1月13日、長野県諏訪郡富士見村に生まれる。 1919年(大正8年)4月、長野県立諏訪中学校に入学する。 1925年(大正14年)4月、北海道帝国大学予科に入学し、卒業後の1928年(昭和3年)4月、同大学農学部生物学科に進学する。 大学卒業後の1931年(昭和6年)4月、同大学農学部付属博物館に就職する。また、同年12月26日、中山きよと結婚した。 1933年(昭和8年)、北海道史跡名勝天然記念物調査委員となる。 1949年(昭和24年)8月8日、北海道大学理学部助教授となる。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月… 羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉12月30日)は、大正、昭和期の日本の政治家、社会運動家。日本社会党参議院議員。「参議院の良心」と呼ばれた論客であった。 明治37年(1904年)1月13日長野県下伊那郡鼎村(現・飯田市)に米屋の長男として生まれる。飯田の松濤義塾に学び、家業のかたわら青年運動に参加する。山川均と出会い社会主義運動に加わるようになる。大正11年(1922年)秋、「下伊那文化会」を発展させ、自由青年連盟(Liberal Younger's League)を結成し、機関誌『第一線』を発行する。大正13年(1924年)治安警察法違反で検挙、起訴され、禁固4か月の判決を受ける。
愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 -… 愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 - 1944年11月11日)は、愛媛県宇和島市出身で押尾川部屋に所属した元大相撲力士。本名は宮川 初義。最高位は十両2枚目。 大阪相撲の押尾川部屋に入門。東西合併により、1927年5月三段目に付出され、その場所で三段目優勝を果たす。1931年5月十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、1932年1月場所の番付では幕下に落ちた。ところが、番付発表直後に起きた春秋園事件により、大量の幕内十両の脱退者が出たため、一転して十両残留となった。以後6場所連続十両の地位にあった。1934年1月に幕下に落ち、翌5月三段目まで陥落したところで廃業した。1944年死去。
池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984… 池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984年7月5日)は、日本の著作家、池田書店創業者。 山形市生まれ。東京保母伝習所卒業。1929年(昭和4年)高山菊次と結婚、1935年(昭和10年)に教材社を創業、高山晴洲の筆名で執筆活動を始める。 1946年(昭和21年)離婚、1949年(昭和24年)2月23日に池田書店を創業する。1960年(昭和35年)出版の『性生活の知恵』は、英語版80万部も含めて400万部以上のベストセラーに、性に関する啓蒙書を多く出すほか、『下村湖人全集』などを刊行する。近藤信緒(こんどう・のぶお)の筆名で自らも多くの著書を著し、1949年(昭和24年)出版の『人に好かれる法』は、50万部以上のベストセラーとなった。
橋本 正武(はしもと まさたけ、1903年〈明治36年〉1月… 橋本 正武(はしもと まさたけ、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1983年〈昭和58年〉7月11日)は、日本の武道家(剣道、居合道)、林野技術官僚。 茨城県多賀郡十王町(現日立市)で生まれる。曾祖父、祖父は1864年(元治元年)、天狗党の乱に参加。父熊之介は私塾輔仁学舎で水戸学を学び、水戸東武館で剣道を修めた。その弟の統陽は東京美術学校で彫刻を学びながら有信館で剣道、居合を修行していた。 1920年(大正9年)、県立水戸農学校を優秀な成績で卒業し、進学するために叔父の統陽を頼って上京。統陽の口利きで有信館の二階の部屋を与えられ、予備校に通いながら中山博道に剣道、居合を学ぶ。 1921年(大正10年)、東京帝国大学農学部林学実科に入学。
増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月… 増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉10月11日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。香川県知事(官選第37代、公選初代)、参議院議員(4期、自由民主党)、行政管理庁長官(第25-26代)、北海道開発庁長官(第23-24代)、防衛庁長官(第26・29-30代)。 愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で増原定蔵の次男として生まれる。 宇和島中学校、第一高等学校を経て1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。高等試験に合格して内務省に入省。京都属。 和歌山県保安課長、特高課長、北海道庁警視保安課長、兵庫県警務課長、山形県警務部長など警察畑を歩いたのち1946年(昭和21年)6月、香川県知事に就任した。
土方 浩平(ひじかた こうへい、1903年1月13日 - 1… 土方 浩平(ひじかた こうへい、1903年1月13日 - 1981年1月11日)は日本の演出家、人形劇団主宰者。俳優としての活動歴もある。 現在の北海道小樽市色内町に生まれる。1903年4月、翌1904年5月の大火に罹災。時計店を営んでいた生家は門別(現・日高町)に移り、1908年秋には両親の故郷である山形県酒田市に移る。このころ、神社の祭りで初めて人形芝居(活動人形)を観て魅せられる。土方が(尋常小学校)2年生の8月に父が死去して、時計店は廃業となる。その後、寺に預けられたり、1914年夏から1915年春まで親戚の伝で東京上野に洋菓子店の小間使として出される等、家庭は困窮した。帰郷して約半年後の1915年8月、兄とともに上京した。
清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 198… 清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 1981年9月14日)は、大分県生まれの作曲家。 大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で清瀬善三の二男として生まれる。生家は、地元で一、二を争う素封家。少年のころからヴァイオリンを嗜み、1919年、旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。以後、鹿児島にこもり、ほぼ独学で作曲を学ぶ。1930年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加。1932年から3年間クラウス・プリングスハイムに理論を師事する。1940年、皇紀2600年記念として委嘱を受け、「日本舞踏組曲」を作曲。
清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 -… 清水川 元吉(しみずがわ もときち、1900年1月13日 - 1967年7月5日)は、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は長尾 米作(ながお よねさく)。最高位は東大関。 1900年1月13日に、青森県北津軽郡三好村(現:青森県五所川原市)で農家を営む家に長男として生まれる。隣家は江戸相撲の名大関だった柏戸利助の生家で、米作少年の父親も地方相撲の強豪だったことから、米作自身も宮相撲で活躍、1916年の夏に二十山の一行が巡業へやってきた際に父親に伴われて入門、1917年に上京して同年1月場所で初土俵を踏んだ。「清水川」の四股名は、故郷を流れる川と宮相撲で大関を務めていた時に名乗っていた名前から付けた。
坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 19… 坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 1974年4月19日)は、日本の写真家。特に民藝品や仏像の撮影に才能を発揮した。その遺作「沖縄・昭和10年代」は戦前の沖縄各地で撮影した貴重な写真が掲載されており、テレビ放送等で資料として使用されている。 戦前では、築地小劇場の舞台写真が有名。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13… 山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13日 - 1991年〈平成3年〉5月3日)は、日本の元大蔵次官。位階は正三位。
佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 19… 佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 1994年10月12日)は、日本の国語学者。
船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年〈明治31年〉1月1… 船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年〈明治31年〉1月13日 - 1970年〈昭和45年〉3月14日)は、日本の法学者(ローマ法)、教育者、政治家。教育者として作新学院院長。政治家として衆議院議員(当選3回)、行政管理庁長官、賠償庁長官。叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の次男で、衆議院議長となった船田中は兄、自治大臣や運輸大臣などを歴任した藤枝泉介は実の弟にあたる。また夫人の船田文子は主婦連副会長をつとめた。 1898年1月13日、船田兵吾(作新学院創設者)の次男として、栃木県宇都宮市に生まれる。一高を経て1921年東京帝国大学法学部英法科卒業。1924年から1926年までローマ法研究のためフランス・ドイツ・イタリア・イギリスに留学。
尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月1… 尾形 郷一(おがた ごういち、1896年〈明治29年〉1月13日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の剣術家。流派は無雙神傳英信流、無双神伝抜刀術兵法第18代宗家、神伝流始祖宗家、貫心流剣道免許皆伝、全国居合道連盟初代会長。全日本居合道連盟3代会長。居合道十段、剣神位。剣道九段範士。 徳島県鳴門市大津町大代生まれ。幼少の頃から剣道の修行に励み、貫心流剣道の免許皆伝を允可される。45歳のとき無双神伝抜刀術兵法17代宗家植田平太郎竹生より本格的に居合道を学び始める。昭和19年12月31日、大日本武徳会会長東條英機から居合道練士の称号を拝受する。 1949年(昭和24年)7月25日、無双神伝抜刀術兵法18代宗家を継承する。
伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13… 伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13日 - 1947年〈昭和22年〉8月5日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家である。 1895年(明治28年)1月13日、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれる。 東京に移り、旧制・早稲田大学を卒業、満18歳になる1913年(大正2年)、有楽座に加わり、劇作者兼演出家となる。新文芸協会、のちに森英次郎、山田隆弥らの舞台協会で新劇を演出した。 1920年(大正9年)、戯曲集『危急』を上梓、翌1921年(大正10年)、ショーレム・アッシュの戯曲『夜』を翻訳して上梓している。 舞台協会に属していた1923年(大正12年)、日活向島撮影所と同協会が提携、3作を製作することとなり、うち『忘れな草』、『三つの魂』にオリジナル脚本を書き下ろし、いずれも田中栄三が監督した。
小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月… 小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月13日 - 1962年(昭和37年)7月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、読売新聞社専務取締役。 栃木県下都賀郡絹村延島(現小山市)出身。小林長蔵の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、同特別高等課長、兼警察講習所教授、朝鮮総督府事務官、台湾総督府事務官・警務局保安課長、警視庁書記官・官房主事、内務省警保局勤務、福岡県内務部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。
古田 正武(ふるた まさたけ、1888年(明治21年)1月1… 古田 正武(ふるた まさたけ、1888年(明治21年)1月13日 – 1939年(昭和14年)9月8日)は、日本の司法官僚・検事、満州国国務院司法部次長・満州国参議府参議。 岐阜県土岐郡日吉村(現在の瑞浪市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補として東京地方裁判所に勤務した。1916年(大正5年)、東京地方裁判所検事となり、司法書記官、警察講習所教授、大審院検事を歴任した。 1933年(昭和8年)、満州国に招かれて司法部総務司長に就任し、1936年(昭和11年)からは司法部次長を務めた。 その後、日本に帰国して司法省刑事局長を務めた墓所は多磨霊園
武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 19… 武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 1965年1月7日)は、日本の心理学者。 岡山県出身。1921年東京高等師範学校卒、27年東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院在籍、29年東京文理科大学助教授、教授。31-33年ドイツ・ロストック大学に学ぶ。1942年「学習心理の研究」で東京文理科大学より文学博士の学位を取得。神奈川大学教授、大妻女子大学教授、講談社児童相談所長。
河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月… 河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月13日 - 1955年〈昭和30年〉1月22日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(第48代)、文部大臣(第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員、衆議院議員。 旧美作鶴田藩士の奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村(現南会津町)、旧会津藩出身の農学者河原田盛美の養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家の家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。 旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎、鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。
木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 194… 木田 保造(きだ やすぞう、1885年1月13日 - 1940年4月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家、建設業者。木田組(後の木田建業)の創始者。深礎工法の発明者。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
生田 清三郎(いくた きよさぶろう / せいざぶろう、188… 生田 清三郎(いくた きよさぶろう / せいざぶろう、1884年(明治17年)1月13日 - 1953年(昭和28年)11月7日)は、朝鮮総督府官僚。 徳島県名西郡石井町に坪井定三郎の三男として生まれ、生田彦平の養子となった。徳島中学校を経て、1905年(明治38年)、中央大学を卒業し、高等文官試験と弁護士試験に合格した。統監府属、朝鮮総督府事務官、殖産局水産課長、同商工課長、監察官、平安北道知事などを歴任した。1925年(大正14年)に内務局長に就任し、中枢院書記官長と日本赤十字社朝鮮総督府副総長を兼ねた。 1929年(昭和4年)に退官した後は、多獅島鉄道株式会社社長に就任した。 1945年(昭和20年)には京城府尹、京畿道知事を務めた。
有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1… 有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1973年4月14日)は、鹿児島銀行役員、実業家、弁護士。 8歳にして父を亡くし、有川矢九郎(貞実)宅にて寄食しながら島津奨学資金等の援助により、大正2年7月10日東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。 大正2年8月14日、東京青山高樹町住み海軍少将縦四位勲三等功四級、有川貞白の三女愛子と結婚する。 株式会社泰昌銀行(東京)、 古河合名会社(東京)、 株式会社第百四十七銀行 (現、鹿児島銀行)大阪副支店長、 大島支店長、 沖縄支店長、昭和8年8月本店支配人営業部長を歴任。 昭和14年1月、監査役に就任後、銀行合併により職を辞する。 沖縄電気株式会社監査役に選任される。
鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日… 鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(5期)。千葉県市原郡出身。 東京府師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業後、小学校の訓導となる。その後、政治を志して浅草区会議員となる。東京市会議員を経て1920年の衆議院議員選挙に千葉1区から立候補し初当選。以後5回連続当選を果たした。 また、実業家としても活躍し、鈴木商会株式会社社長、大日本土地株式会社社長、鈴木隆同族株式会社社長などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月… 北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月13日 - 1931年〈昭和6年〉12月9日)は、日本の教育者。 長野県諏訪郡四賀村(現在の諏訪市)出身。長野県師範学校を経て、1906年(明治39年)に東京高等師範学校を卒業した。福井県師範学校を経て、東京女子高等師範学校教授・同附属高等女学校教諭・同附属小学校主事を務めた。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までドイツに留学し、帰国後は東京女子高等師範学校附属高等女学校主事となった。ドイツから帰国後、作業教育を提唱した。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1… 大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1952年2月25日)は、日本の建築家、営繕官僚。公共建築の中心的人物。中央諸官庁及び地方庁舎に数多く携わる。東京生まれ。妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括した。旧文部省庁舎なども設計。一方、江戸時代の建築・法制などを研究し、その研究書を著す。著書に『世界の議事堂』などがある。工学博士・経済学博士。 麹町生まれ。父は元旗本であった。第一高等学校を経て、1903年、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河民輔の横河工務所に入所。帝国劇場などの設計に関与した。 1905 (M38)年、東京帝国大学工科大学講師。
岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 … 岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 - 1960年3月28日)は、愛知県中島郡(現・一宮市)出身の地質学者。初めて台湾の鉱物を採集した事で知られる。北投善光寺に彼の頌徳碑が現存する。 著書に『台湾鉱物調查報告』(1911年)、『台湾産北投石調查報告文』(1916年)、『福岡県鉱物誌』(1944年)などがある。 子供のときに受けた理科の授業に影響を受け鉱物に興味を持つようになる。 1899年4月に台湾へ渡航し、台湾総督府国語学校の教諭として現地台湾人の教育に当たる。翌年、角板山への鉱物採集旅行後、台湾の鉱物に関する研究を開始する。明治38年(1905年)北投温泉の公衆浴場瀧乃湯にて入浴をした帰りに北投石を発見する。
中村 亨(なかむら とおる、1876年(明治9年)1月13日… 中村 亨(なかむら とおる、1876年(明治9年)1月13日 - 1957年(昭和32年)6月17日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、東京府北多摩郡調布町長。 神奈川県多摩郡上石原村(北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、自由民権運動家中村克昌の長男として生まれる。二松学舎(現二松學舍大学)で学んだ。農業を営む。 1913年(大正2年)調布町会議員に就任。調布町助役、同町長、北多摩郡会議員、同参事会員を務めた。1924年(大正13年)東京府会議員に選出され、同参事会員、営業税調査委員、北多摩郡教育会副会長などにも在任した。 秋本喜七の地盤を受け継ぎ、1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(東京府第7区、立憲政友会公認)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13… 三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13日 - 1946年(昭和21年)12月15日)は、日本の実業家。芝浦製作所(現東芝)会長や、三井物産社長を務めた。別名・守之助。三井永坂町家7代当主。 東京出身。三井伊皿子家当主三井高生(1843-1914)の三男で、鳥居坂家(三井永坂町家)6代当主・三井高潔(三井篤次郎、三井物産社長)の養子。妻は住友家当主・住友友親の娘で住友友純養妹の楢光。三井高寛や三井高信は兄。横浜商業学校卒業。1899年三井物産船舶課(のちの三井船舶)課長。1904年芝浦製作所(現東芝)会長。1909年三井銀行取締役。1921年から三井物産社長を務めたが、池田成彬三井合名理事による改革で1934年に退任させられ、専門の役員と交代した。
奥村 三樹之助(おくむら みきのすけ、1875年1月13日 … 奥村 三樹之助(おくむら みきのすけ、1875年1月13日 - 1939年6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1896年、東京法学院卒。横浜燃料、名古屋コークス、横浜石炭同業組合副組合長となる。 1915年の第12回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から無所属で立候補したが落選した。1917年の第13回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1919年に衆議院議員を辞職した。1939年死去。
佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月1… 佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の政治家、実業家。青森県北津軽郡五所川原町会議員。五所川原通運、木造合同運送各社長。佐々木銀行監査役。津軽鉄道社長、青森県議会議員佐々木啓二の祖父。 青森県北津軽郡五所川原町平井町の人。峰五郎の長男。初代佐々木嘉太郎の甥。分家する。 西北運送業界の先駆者。初代日通五所川原支店長。宗教は禅宗。趣味は謡曲。住所は青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日… 横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日 - 1938年(昭和13年)4月14日)は、日本の政治家・衆議院議員(公友倶楽部)、貴族院議員、石川県多額納税者、資産家、実業家。温泉電軌、横山鉱業部、ボルネオ護謨各社長。共同生命保険、金沢電気瓦斯各取締役。尾小屋鉱山監査役。金沢倉庫相談役。金沢商業会議所会頭。族籍は石川県士族。 加賀八家横山氏一門で、石川県士族の横山隆興(11代当主横山隆章三男)の長男。金沢市生まれ。1895年、東京物理学校を卒業。以来専ら自家経営の鉱業に従事し、1906年、満韓巡遊の途に上り親しく鉱業を視察する。1912年、金沢市で開催された第2回帝国菓子飴大品評会会長に就任する。
河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1… 河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1月13日 - 1943年(昭和18年)2月21日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 岐阜県厚見郡富茂登村(岐阜市富茂登釜屋町を経て現:岐阜市大仏町)で、御寿司元(鮎寿司)・河崎喜久夫の長男として生まれ、1904年(明治37年)11月に家督を相続した。1889年(明治22年)神戸私立英学校を卒業した。 大阪に出て、毛織物類、羊毛、毛糸類の貿易及羊毛紡績業に従事。また、大阪地方裁判所商事調停委員、大阪織物同業組合長、日本輸出綿織物連合会大阪支部長、岐阜商工会議所会頭、大阪商業会議所議員、京都土地建物社長、日宝石油社長、日本毛糸紡績取締役社長、朝日毛糸紡績取締役社長、東洋毛織工業取締役社長、東洋毛糸紡績取締役社長、共同毛織取締役社長、日本整毛工業取締役社長、新興人絹取締役社長、河崎商事取締役社長、東華紡績取締役、島津製作所監査役などを務めた。
坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月1… 坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月13日 - 1930年〈昭和5年〉6月12日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 鳥取県米子市尾高町の木綿問屋に生まれる。坂口平吉郎の五男。兄平兵衛の養子となり、1920年、家督を相続する。煙草元売捌・製糸業を営む。銀行会社の重役として知られる。 有限責任米子信用組合初代組合長、坂口合名会社代表社員、米子電車軌道、米子製鋼所、八頭木材各社長、米子銀行副頭取、山陰電気副社長、米子坩堝、山陰日日新聞各取締役、日本製絲、皆生温泉土地各監査役などをつとめる。 住所は鳥取県米子市尾高町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1… 相島 勘次郎(あいしま かんじろう、慶応3年12月19日(1868年1月13日) - 昭和10年(1935年)4月4日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。俳人としても活動し、虚吼と号した。 常陸国筑波郡小田村(現在の茨城県つくば市)出身。慶應義塾大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1900年(明治33年)から1902年(明治35年)までのアメリカ留学を経て、1906年(明治39年)に大阪毎日新聞社が東京に毎日電報社を創設すると副主幹となり、1911年(明治44年)に大阪毎日新聞社が東京日日新聞社を買収するとやはり副主幹として編集にあたった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。