小久保 均(こくぼ ひとし、1930年4月16日 - )は大… 小久保 均(こくぼ ひとし、1930年4月16日 - )は大韓民国慶尚北道生まれの作家。1937年両親の故郷広島に引き揚げる。広島大学文学部卒業。1972年「折れた八月」で直木賞候補に、1977年「夏の刻印」で芥川賞候補になる。小久保は言う、「広島は小説の材料に事を欠かない所だ」と、小説を始めようとする人に訴える。そして「お前はここが悪いのだ」と、手厳しい。<要出典>
大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16… 大歳 克衛(おおとし かつえ、1929年(昭和4年)4月16日 - 2014年(平成26年)6月8日)は、広島県出身の洋画家である。広島市立大学名誉教授、尾道市立大学名誉教授。中国文化賞を受賞。 1929年(昭和4年)4月16日、安佐郡緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に生まれる。1948年(昭和23年)、旧制崇徳中学校を卒業。1954年(昭和29年)には東京芸術大学油絵科卒業。梅原龍三郎に師事する。1956年(昭和31年)より国画会に出品し初入選。1958年(昭和33年)、「海の詩」などで国画会新人賞を受賞する。翌年には安井賞候補にも選ばれる。 1962年(昭和37年)には国画会会員となり、1964年(昭和39年)より1年間パリに滞在。
大原 照子(おおはら しょうこ、1929年(昭和4年)4月1… 大原 照子(おおはら しょうこ、1929年(昭和4年)4月16日 - 2015年(平成27年)1月23日)は、日本の料理研究家である。栃木県宇都宮市出身。 東京女子経済専門学校(現在の新渡戸文化短期大学)卒業後、留学のため渡英する。その後4年間各国の多くの料理を研究し、帰国後料理研究家としての活動を始めた。大原が調理した料理はユニークなものであり、きょうの料理(NHK)等多くの料理番組に出演し料理雑誌にも紹介され知れ渡った。 後に大原が経営するクッキングスタジオを主宰し、1991年(平成3年)には東京都港区青山にて「英国骨董おおはら」が開業し、オーナーを務めた。 ・『洋風のおかず』(1972年) この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
秋元 大吉郎(あきもと だいきちろう、1927年(昭和2年)… 秋元 大吉郎(あきもと だいきちろう、1927年(昭和2年)4月16日 - 2023年(令和5年)12月19日)は、日本の政治家、俳人。元千葉県流山市長。 千葉県東葛飾郡流山町(現流山市)出身。旧制東葛飾中学校卒業。流山市議会議員1期、千葉県議会議員2期を経て、1983年(昭和58年)流山市長に当選し、2期務めた。2005年、旭日小綬章受章。 俳人としても知られ、1949年(昭和24年)蕾俳句会結成、高梨花人師より手解きを受く。日本ペンクラブ会員。 2023年12月19日、老衰のため死去。96歳没。
朝倉 昌(あさくら しょう、1927年4月16日 - 201… 朝倉 昌(あさくら しょう、1927年4月16日 - 2016年3月16日)は、日本の生物物理学者。理学博士。細菌鞭毛の形成に関する研究で1973年に朝日賞を受賞。名古屋大学名誉教授、元日本生物物理学会会長。大沢文夫 の直弟子。 1954年、大澤文夫とともに枯渇相互作用のモデル(朝倉-大沢理論とよばれる)を提唱し、溶液中に分散したコロイド粒子間にはたらく引力相互作用の存在を理論的に予言した。 その後、生体運動の分子機構に研究テーマをシフトし、細菌の鞭毛タンパク質であるフラジェリンのインビトロでの重合・脱重合に成功し、生物物理学的に研究した。さらに鞭毛の多型の発見などを通し、タンパク質の多型、細菌運動の分子機構の解明で、世界をリードした。
山田 直稔(やまだ なおとし、1926年4月16日 - 20… 山田 直稔(やまだ なおとし、1926年4月16日 - 2019年3月9日)は、日本の実業家。 ワイヤーロープの販売を行う浪速商事株式会社の経営を行う傍ら、羽織、袴に金色の帽子、金色の扇子という格好でオリンピックや大相撲を観戦したことから「オリンピックおじさん」としても知られた。 富山県東礪波郡井波町(現南砺市)出身。富山市立工業学校(現在の富山県立富山工業高等学校)を経て、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)建築学科に進む。 山田は大学生だったときに阿部定事件の犯人だった阿部定と出逢い、『あんたね、男は人生一代だよ!』と激励されたことを生前に語っている。 大学卒業後にワイヤーロープ業界に入り、1960年に浪速商事株式会社を設立する。
榎原 一夫(えばら かずお、1926年〈大正15年〉4月16… 榎原 一夫(えばら かずお、1926年〈大正15年〉4月16日 - 2000年〈平成12年〉7月24日)は、日本の政治家。1971年から1991年まで大阪府吹田市長を務めた。藍綬褒章、勲三等旭日中綬章。 大阪府出身。1948年(昭和23年)3月、旧制摂南工業専門学校(現:大阪工業大学)土木科卒業後、吹田市役所入り。市職員組合委員長など歴任した。 1971年(昭和46年)、吹田市長選に社会党と共産党の推薦で立候補し、自民党と民社党推薦で現職の山本治雄と新人1人をやぶり初当選を果たした。 ※当日有権者数:163,775人 最終投票率:66.27%(前回比:-pts) 同年5月14日に就任した。 同和行政の進め方をめぐり、1期目の途中で社会党が与党を離脱した。
樋口 美世(ひぐち みよ、1925年4月16日 - )は、日… 樋口 美世(ひぐち みよ、1925年4月16日 - )は、日本の歌人。 茨城県出身。駒澤大学文学部国文学科卒業。 少女時代より作歌を始める。結婚で一時中断した後、駒澤大学国文学科に学ぶ。1957年に「女人短歌」に入会し編集委員を務める。1965年「地中海」入会。1980年より81年まで日本歌人クラブ幹事。歌集に「形」「翼がほしき」「白昼」「零るる刻」など。日本歌人クラブ、現代歌人協会所属。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月1… 戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月16日 - 2000年(平成12年)4月17日)は、日本の画家、民俗研究家、作家。兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。息子は作家の戸井十月。 早稲田高等学院在学中に学徒出陣で中国に赴任。敗戦により捕虜となった後に復員し、早稲田大学に復学するが中退。1946年に共産党に入党し、1950年に脱党。 人形劇団プークでの民主主義的文化活動などを経て画家となる。それと並行して日本の民俗史や民衆史などを研究。特に秩父事件の研究では第一人者とされている。 人形劇団プークのリーダーだった、川尻東次・川尻泰司兄弟の妹・錦子と結婚。 2000年4月17日、胃がんにより死去。
野村 実(野村 實、のむら みのる、1922年〈大正11年〉… 野村 実(野村 實、のむら みのる、1922年〈大正11年〉4月16日 - 2001年〈平成13年〉5月18日)は、日本の海軍軍人、軍事史学者。滋賀県出身。 専門は日本海軍史。防衛大学校教授、名古屋工業大学教授、軍事史学会会長を歴任した。学位は文学博士(慶應義塾大学)。最終階級は海軍大尉。 滋賀県彦根市生。旧制彦根中学校を経て海軍兵学校入校(第71期)。1942年(昭和17年)卒業(次席)。 空母「瑞鶴」、戦艦「武蔵」乗組、軍令部第1部付(作戦記録係)で太平洋戦争を経験、海軍兵学校教官で終戦を迎える。 終戦後は復員庁で極東国際軍事裁判海軍被告人弁護事務を担当。海軍大尉の経歴のため公職追放となる。
谷崎 義衛(たにざき よしえ、1922年4月16日 - 20… 谷崎 義衛(たにざき よしえ、1922年4月16日 - 2023年7月16日)は、日本の物理化学者。工学博士。東京工業大学、長岡技術科学大学名誉教授。新潟県長岡市出身。 延伸高分子膜法による偏光吸収スペクトルの測定技術の確立およびその結果の理論的解析のパイオニア。 主な著書に化学の話シリーズ4「気体の話」など。 1950年、東京工業大学理学部化学科卒業。 1959年、東京工業大学助手。 1961年、東京工業大学工学博士。 1963年、東京工業大学助教授。 1969年、東京工業大学教授。 1978年、長岡技術科学大学教授。 1988年、長岡技術科学大学名誉教授。 1991年、東京工業大学名誉教授。
安田 健(やすだ けん、1922年4月16日 - )は、日本… 安田 健(やすだ けん、1922年4月16日 - )は、日本の農学者。 北海道夕張市生まれ。本籍・石川県志雄町。1946年北海道帝国大学(現・北海道大学)農学部卒業。1961年『わが国稲作技術の地域的展開に関する文献的研究』で九州大学農学博士。1950年から農業発達史調査会(盛永俊太郎編集長、東畑精一会長)で稲作史の部門を担当。朝日新聞東京本社企画部に勤務。山階鳥類研究所でトキの研究。1959年『日本農業発達史』(農業発達史調査会)で朝日賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
酒井 文徳(さかい ふみのり、1921年4月16日 - 19… 酒井 文徳(さかい ふみのり、1921年4月16日 - 1995年12月28日)は日本の医学者(腎臓生理学、薬理学、毒性学)。 長野県東筑摩郡片丘村北内田(現松本市内田)に生まれる。旧制福島県立白河中学、旧制松本高等学校理科乙類を経て1945年(昭和20年)東京帝国大学医学部卒業。 東京大学医学部副手、東京医科歯科大学医学部助教授(薬理学教室)、東京大学医学部助教授(薬理学教室)を経て、1966年(昭和41年)東京大学医学部薬理学第2講座教授。1975年(昭和50年)に東京大学医学部長、1977年(昭和52年)に第50回日本薬理学会会長、1980年(昭和55年)に第23回日本腎臓病学会会長、1982年(昭和57年、東京大学名誉教授、日本学術振興会理事、1986年(昭和61年)第4回国際トキシコロジー学会会長、1987年(昭和62年)に日本学術振興会理事長に就任。
山崎 隆三(やまざき りゅうぞう、1920年4月16日 - … 山崎 隆三(やまざき りゅうぞう、1920年4月16日 - 2011年3月10日)は、日本の農業経済学者。経済学博士(大阪市立大学・論文博士・1962年)。大阪市立大学名誉教授。孫はフリーアナウンサーの伊東紗冶子。 大阪市出身。1942年大阪商科大学卒。兵役ののち、大阪商大事件で拘束。1946年大阪商大助手。1949年大阪市立大学経済学部助教授。1962年教授。同年「地主制成立期の農業構造」で大阪市立大学より経済学博士の学位を取得。1982年定年退官、名誉教授。名城大学商学部教授。1993年退職、名誉教授。
青木 英夫(あおき ひでお、1920年4月16日 - 201… 青木 英夫(あおき ひでお、1920年4月16日 - 2014年)は、日本の文化史家。 東京出身。上智大学文学部史学科卒。東京大学大学院西洋史博士課程満期退学。米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校歴史科大学院修了。民族学博士、Ph.D.。江馬務、岡田章雄に師事した。ビューティ・サイエンス学会会長。1999年日本風俗史学会長、顧問、名誉会員。日本生活文化史学会顧問、国際服飾学会理事。戸板学園理事長。
内海 喩(うつみ さとり、1919年4月16日 - 2003… 内海 喩(うつみ さとり、1919年4月16日 - 2003年3月15日)は、日本の化学者。理学博士。専門は分析化学。特に微量陰イオンの定量法の研究で知られる。元東京工業大学理工学部分析化学教室教授。日本大学名誉教授。 香川県出身。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京文理科大学(現在の筑波大学)卒業。1992年、勲四等旭日小綬章を受章。2003年3月15日、急性心筋梗塞のため83歳で死去。
上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 -… 上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 - 1996年5月10日)は、福岡県出身の部落解放運動家。部落解放同盟中央執行委員長。 福岡県三井郡御原村大道(現・小郡市二タ)の被差別部落で貧農の家庭に生まれる。農業だけでは食べていけないため、父は靴修理の行商に出、母は廃品回収業で生計を支えた。御原尋常小学校(現・小郡市立御原小学校)高等科卒業後、国鉄への就職試験に3度失敗し、家出生活を送っていたところ、騙されて北海道のタコ部屋に売り飛ばされ、重労働を経験。1934年、松本治一郎に救われて九州鉄道(西鉄)に入社。出征と復員の後、西鉄労働組合の役員となる。1940年4月、福岡二十四連隊第二機関銃隊に入隊。
大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16… 大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の洋画家。風景を幻想的に描く作風で知られた。 大森朔衞 (おおもりさくえ) 1919年香川県小豆島、高松市で育つ。幼少期より絵に親しみ、石井柏亭が審査員の中国四国少年水彩画展で金賞受賞。12歳で画家になる決意をする。13歳の夏休みの早暁、屋島で五剣山の日の出を描く藤島武二に遭遇。14歳で大原美術館を訪問した。 親は画家になることを反対したが、17歳で上京、日本美術学校に入学。親の援助がないため、学費や生活費を稼ぎながらでは続かず中退する。1940年の独立展をはじめとして、次々と団体展に入選する。
勝守 すみ(かつもり すみ、1916年4月16日 - 198… 勝守 すみ(かつもり すみ、1916年4月16日 - 1982年3月17日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 富山県富山市生まれ。富山県立富山高等女学校を経て、1937年に奈良女子高等師範学校文科を卒業し、金蘭会高等女学校教諭。1938年に富山市立富山高等女学校教諭となる。1940年東京文理科大学入学。国史学を専攻し、同期に津田秀夫らがいる。1942年に卒業。1943年、群馬師範学校助教授を経て、1946年同校教授。1951年に群馬大学学芸学部講師となり、1953年助教授、1972年に同大学教育学部教授。 勤務地である群馬県の地域史研究に務め、関東長尾氏や太田道灌の研究を進めた。
中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1… 中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1999年2月3日)は、昭和期の小説家。 長野県長野市出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、第二早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)を経て早稲田大学文学部仏文科卒業。吉江喬松にフランス文学を学んだ。高等学院時代に八木義徳、辻亮一、多田裕計らとともに同人誌『黙示』を創刊。『黙示』に載せた小説「或る尼僧の話」を丹羽文雄に評価され、以後師事する。1937年、丹羽の推挙により『早稲田文学』に処女作「古い絆」を発表、文壇デビューを果たす。初期の作品は僧侶を題材としたものが多かった。 大学卒業後、1938年から早稲田大学出版部に勤務するが、翌年応召され、松本市の歩兵第50連隊を経て、盛岡市の陸軍予備士官学校に入る。
遊部 久蔵(あそべ きゅうぞう、1914年4月16日 - 1… 遊部 久蔵(あそべ きゅうぞう、1914年4月16日 - 1977年12月12日)は、日本の経済学者。古典学派とマルクスの価値論および経済学史を研究。 東京府(現・東京都)出身。慶應義塾大学卒。東洋経済新報社、東亜研究所、戦後は慶應義塾大学助教授。1953年に教授、経済学部長。1977年、在職中に死亡。享年63。
杉本 尚雄(すぎもと ひさお 1914年4月16日 – 1… 杉本 尚雄(すぎもと ひさお 1914年4月16日 – 1970年8月10日 )は、日本の歴史研究者。 熊本県鹿本郡出身。1934年熊本師範学校を卒業し、1935年東京高等師範学校文科に入学。1938年に同校を卒業し、東京文理科大学国史学専攻に入学。1941年に同学を卒業。東京高等師範学校助教授などを経て、1944年東京第二師範学校教授。その後、熊本師範学校教授となり、1949年に熊本大学助教授、1960年に同教授。 専門は日本中世史で、武士団の祭祀組織や九州地方の宮座組織、肥後菊地氏の研究を進め、1961年「中世の神社と社領」により、東京教育大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不… 石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(投擲)選手。女子円盤投・砲丸投の元日本記録保持者。山中高等女学校在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに円盤投とやり投で出場した。広島県初の女子オリンピック選手である。 現在の広島県廿日市市出身。山中高等女学校に進む。 1931年、日本陸上競技選手権大会の円盤投・砲丸投で優勝。1931年11月の明治神宮競技大会で、円盤投の日本記録を出したという。1931年には砲丸投で10.14mを出し、「10mの壁」を突破した。 1932年ロサンゼルスオリンピックに出場、円盤投で7位、やり投で8位。 山中高等女学校卒業後は、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)に進学。
今井 栄文(いまい よしふみ、1911年4月16日 - 19… 今井 栄文(いまい よしふみ、1911年4月16日 - 1984年11月19日)は、日本の経営者。山梨県出身。 1937年に高文行政科に合格し、逓信省に入省し、1938年に東京帝国大学法科を卒業。1960年7月に運輸省航空局長、1963年6月に運輸大臣官房長を経て、1964年2月から1965年6月までに海上保安庁長官を務めた。1965年6月に新東京国際空港公団副総裁に就任し、1967年10月から1974年7月までに総裁を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章。 1984年11月19日腎不全のために死去。73歳没。
迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - … 迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日 - 1965年12月23日)は、日本の経済学者。日本大学経済学部教授。 和歌山県出身。旧制第一高等学校時代に社会主義運動に参加し、同校を中退。その後、法政大学経済学部に入り、1936年卒業。1938年以降法政大学講師、助教授、教授。1953年日本大学経済学部教授。國學院大學政経学部兼任教授。1960年「社会主義経済の理論」で経済学博士(日本大学)。 1965年12月23日、心臓麻痺のため日本大学駿河台病院で急逝、54歳。全日本労働総同盟(同盟)の機関誌『同盟』に1965年9月号(第85号)から「マルクス経済学批判」を連載中だった。
太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 20… 太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 2009年10月8日)は、日本の建築史学者。九州大学名誉教授。東京府生まれ。 1935年早稲田大学理工学部卒業。1957年「平安、鎌倉時代における住宅建築史の研究」で早大工学博士。東京帝室博物館研究員、九州大学工学部教授、1977年定年退官、名誉教授、早稲田大学文学部客員教授、1983年退任。87年春、勲三等瑞宝章受勲。1988年『寝殿造の研究』で角川源義賞受賞。 2009年、心筋梗塞のためサイパンの三男宅で死去。98歳没。 『家屋雑考』ベースの寝殿造を学び、それを乗り越えて寝殿造の研究大きく発展させたのが太田静六である。特に「東三条殿の研究」、「堀河殿の考察」、「鳥羽殿の考察」については現在も評価は高い。
八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文… 八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文学者、俳人。 愛媛県生まれ。松山中学校、松山高等学校卒、1934年東京帝国大学文学部英文科卒。外務省嘱託、世界経済調査会主事、1946年明治大学文学部教授、1981年定年。俳句は1933年臼田亜浪に師事し「石楠」に拠る。1981年から『河原』に参加、俳号は八木絵馬。
杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月… 杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月16日 - 1995年5月28日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。東京都出身。 1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に小西六写真工業に入社。 1941年に社長に就任し、1968年4月までに務めた。 1955年に紺綬褒章を受章。 1995年5月28日肺炎のために死去。86歳没。
中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月… 中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月16日 - 1978年 <昭和53年> 10月20日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県浜松市出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三十五銀行(のちの静岡銀行)に入行。 1958年10月に取締役に就任し、1961年に常務、1970年4月に専務を経て、1973年11月から1978年6月までに頭取を務めた。 1978年10月20日内臓障害のために死去。69歳没。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月… 神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月16日 - 1986年(昭和61年)8月25日)は、日本の農業経済学者。京都大学名誉教授。専門は農業経営学で、農家家計経済、農村社会学的日本農民論、近代経済学的農業経営論を主に研究。農学博士。 鹿児島県姶良郡清水村(現:霧島市)の後の国分清水地域出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1931年(昭和6年)3月に第五高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1934年(昭和9年)3月に京都帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、同年9月より朝鮮総督府技手。旧制五高・京大在学中は学生野球選手で、京大では関西六大学リーグ優勝を経験。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部教務嘱託、同年7月京都帝国大学農学部助手就任、1941年(昭和16年)3月京都帝国大学農学部講師嘱託。
泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1… 泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1967年11月1日) は、剛柔流を学んだ空手の達人。神奈川県川崎市に本部を置き、東京、大阪、大田、神奈川県に支部を持つ泉武館道場の創始者。 沖縄県那覇市で武家のもとに生まれる。 東恩納寛量の高弟許田重発(那覇テ)に師事し、宮城長順(剛柔流の創始者)と修身を受けた。 日本本土で剛柔流や比嘉世幸の伝統を広め、空手道を広めるために南米に渡り、新館県を設立。先輩学生には、荒川武仙(倫武館)、市川素水(素水館)、高頭勉(太田仙館支部長)、原田彪太朗(誠心塾)、ケネス村上(ハワイ・仙室)、吉丸京社が含まれる。 泉武館道場は1939年に設立された。 泉武館道場は泉川寛文に受け継がれ、後に泉武会と改称。
篠原 武司(しのはら たけし、1906年(明治39年)4月1… 篠原 武司(しのはら たけし、1906年(明治39年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月30日)は、昭和の鉄道技術者・官僚。元国鉄西部総支配人兼門司鉄道管理局長・鉄道技術研究所長・日本鉄道建設公団総裁。
高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 20… 高峯 一愚(たかみね いちぐ、1906年4月16日 - 2005年1月18日)は、日本の哲学者で西洋哲学研究・翻訳者。東京都立大学名誉教授。 1906年、富山県氷見市生まれ。1930年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。台北高等学校教授となった。 太平洋戦争後は日本に戻り、旧・東京都立大学教授となった。1970年に東京都立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は帝京大学教授。2005年1月18日に多臓器不全のため品川区の病院で死去した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。
有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月… 有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月16日 - 1990年(平成2年)9月27日)は、元三菱瓦斯化学株式会社社長、同社会長、元日本瓦斯化学工業株式会社社長、元株式会社有沢製作所社長、同社会長 その他、沢製作所株式会社会長、東邦天然ガス株式会社取締役、三菱製紙株式会社顧問、天然ガス鉱業会顧問を歴任した。墓所は多磨霊園。
有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年… 有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。最終階級は海軍大佐。 東京都出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦した海軍主計中佐・有泉庚午の長男として生まれる。静岡中学校を経て、1923年(大正12年)7月、海軍兵学校(51期)を卒業。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校(乙種学生)で学ぶ。 1931年(昭和6年)4月、「呂号第六十四潜水艦」乗組となり、装甲巡洋艦「浅間」分隊長、「伊号第五十一潜水艦」「伊号第百五十六潜水艦」「伊号第七十潜水艦」の各水雷長を経て、1937年(昭和12年)7月、海軍大学校(甲種35期)を卒業。
淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月… 淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1967年〈昭和42年〉7月7日)は、日本の文芸評論家。フランス文学者。 京都府紀伊郡伏見町(現・京都市伏見区)生まれ。本名・三吉。淀野家は伏見過書町で手広く鉄工所を営んでいた。京都府立京都第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を卒業後、1922年に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科甲類に入学。野球部に入り、一高三高戦で三塁手として活躍した。三高劇研究会に所属し、卒業した先輩の梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂と知り合う。 1925年、三高卒業後に東京帝国大学文学部仏文科に入学。前年に同校に進んでいた梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂の創刊した同人誌『青空』の6月号・通巻4号から同人参加した。
本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16… 本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16日 - 1991年(平成3年)8月29日)は、日本の刀剣学者。文学博士、号は薫山(くんざん)。古刀研究の権威であり、本間美術館初代館長、日本美術刀剣保存協会会長などを務めた。山形県飽海郡(後の酒田市)出身。 1904年(明治37年)4月16日生。酒田本間家出身(9代当主・本間光弥の甥)。本間家は俗謡にうたわれたほどの日本有数の豪商。曽祖父の本間家7代当主・本間光美が大の刀好きで、幼少の頃より光美の日本刀の手入れを間近に見て育つ。外祖父も刀の目利きとして知られ、父も順治を目利きにすべく激励し、本家当主である伯父や従兄弟も大いに援助した。 國學院大學在学中、国文学と日本美術史を学ぶかたわら刀剣の鑑識を本格的に学びたく、遠縁で愛刀家の三矢宮松に相談し、今村長賀の高弟である刀剣鑑定師の神津伯(本職は海軍省水路部技師)に弟子入り、5年間修業する。
為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)… 為成 養之助(ためなり ようのすけ、1904年(明治37年)4月16日 - 1995年(平成7年))は日本の裁判官、弁護士。 大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)出身。1927年(昭和2年)3月東京帝国大学法学部法律学科卒業、同年12月高等試験司法科合格、1928年(昭和3年)4月司法官試験合格、司法官試補、1930年(昭和5年)12月予備判事、1932年(昭和7年)長崎地方裁判所転任で判事任官、1933年(昭和8年)2月まで同地裁民事部判事。 為成は任官後すぐに革新政党の集会に行き、それは警察官に中止だと叫ばれ散会させられたが、自らは警官に頭を殴られ警察署に留置された。1930年夏、試補だったときに同じく判事の尾崎陞や日本共産党党員と交流して赤化、滝内礼作と研究会を結成、毎月1円か2円から10円、7円から10円、10円から12円の資金提供をして完全に赤化、長崎に転任してからは日本労働組合全国協議会(全協)加入や地裁職員を中心とする全日本無産者芸術家連盟(ナップ)関係の文化グループを結成、『赤旗』を持ち込んだりして共産党の党勢拡大を図った。
竹中 龍雄 (たけなか たつお、1904年4月16日 - 1… 竹中 龍雄 (たけなか たつお、1904年4月16日 - 1989年2月16日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授。 島根県浜田市生まれ。1921年東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)修了。1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。上田貞次郎に師事。同年同大学補手。1930年大阪商科大学(現大阪公立大学)助手。1931年同講師。1932年同助教授。1944年同教授。1947年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1950年神戸大学経営学部教授。1952年郵政審議会委員。1955年経営学博士。1958年電気料金制度調査会委員。1960年塩業審議会専門委員。1962年電気事業審議会専門委員。
山崎 宏(やまざき ひろし、1903年4月16日 - 199… 山崎 宏(やまざき ひろし、1903年4月16日 - 1992年11月12日)は、日本の東洋史学者。東京教育大学名誉教授。宏の字はムの部分がヒとなる。 1903年、新潟県で生まれた。新潟師範学校、東京高等師範学校を経て、東京文理科大学を卒業。 修了後は、東京高等師範学校に勤務。後に東京文理科大学、1949年に同大学が新制大学として東京教育大学となると、同大学教授として教鞭をとった。1950年、学位論文『隋朝仏教政策の研究』を東京文理科大学に提出して文学博士号を取得。1967年に東京教育大学を定年退官して名誉教授となった。その後は立正大学の教授を務めた。1976年に同大学を退職。1992年に死去。
上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年… 上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年)4月16日 - 1987年(昭和62年)3月21日)は、大正・昭和期の朝鮮における公立普通学校教員、社会活動家。 慶尚南道泗川郡昆明公立普通学校に勤務して朝鮮人の生活の苦しさをみるうち日本による朝鮮の植民地支配に疑問をもち朝鮮の独立を支持する考えになっていった。朝鮮人の苦しさを解消するための方法を考え、教え子と教育労働者組合の勉強会を自発的に行うなどしていたところ、1930年12月5日、教育労働者組合の結成を画策したとして治安維持法違反で逮捕された。 愛媛県西宇和郡千丈大村川之内(現在の愛媛県八幡浜市川之内)で、父・景吉(けいきち)、母・淑(きよ)の長男として誕生した。
中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、19… 中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、1900年〈明治33年〉4月16日 - 1988年〈昭和63年〉3月27日)は、日本の西洋史学者、アッシリア学者、京都大学名誉教授。日本における古代メソポタミア研究の先駆けの一人で、特にシュメール行政・経済文書の研究で優れた業績を残した。 出身は岡山県倉敷市浅口郡西阿知町(現・倉敷市西阿知地区)。1919年(大正8年)に岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、1922年(大正11年)に第六高等学校、1925年(大正14年)3月に京都帝国大学文学部(西洋史学専攻)を卒業した。同大文学部助手ののち、翌1926年(大正15年)3月、新設の広島高等学校教授に任命された。
小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月1… 小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月16日 - 1988年(昭和63年)9月7日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のスキー選手・指導者。第3代全日本スキー連盟会長。 1911年、郷里でレルヒ少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制高田中学校を経て、1923年早稲田大学商学部卒。中学・大学を通じクロスカントリースキーの選手として活躍し、1923年の第1回全日本スキー選手権大会にも出場している。大学卒業後、安田銀行(現・みずほ銀行)に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に大日本体育協会のスキー部員となり、さらに1925年に全日本スキー連盟が設立されると常務委員となる。
松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年… 松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月8日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、医学博士。 山形県北村山郡長瀞村(東根町を経て現東根市または河北町)で、松澤幾太郎(後年、敬之と改名)の長男として生まれる。1926年(大正15年)北海道帝国大学医学部を卒業した。同年、同大学附属病院で勤務した。 1934年(昭和9年)至誠堂病院第4代病院長に就任。その他、山形県保険医指導委員長、同県社会保険審査会審査委員長、日本医師会代議員、同理事、第2代山形県医師会長、山県市医師会長、秋田鉄道医会副会長、山形県医療機関整備審議会会長、国民健康保険審査会委員長、山形県教育委員会委員長、都道府県教育委員会連絡協議会副会長、山形県打毬会会長などを務めた。
土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16… 土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本の演出家。伯爵を継いだが剥奪された。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した。東京生まれ。本名は久敬(ひさよし)。 東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた。祖父久元は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している。母は加藤泰秋の三女・愛子。 土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている。
崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16… 崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16日 - 1980年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員。 漢字表記は崔援浩とも。 慶尚南道金海郡(現・釜山広域市江西区菉山洞)出身。私立普成中学校、中央大学理科専門部、中央大学商科卒。日本統治時代には金海青年会会長、女子夜学会・労働夜学会設立者、衡平社員、洛東江工事促進期成会代表、金海郡洛東江河口地域海水防止会委員を歴任した。解放後は朝鮮開拓株式会社社長、韓国民主党慶南道党部副委員長、国民会金海郡支部副委員長、大韓民族青年団金海郡団部委員長、大同青年団慶南道団部後援会会長、金海農場長、金海産業組合理事、慶南帆船組合長、民主国民党慶尚南道党委員長、民主党慶尚南道党最高委員、慶尚北道商工局長を務めた。
大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月1… 大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月16日 - 1972年(昭和47年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。貴族院伯爵議員。旧姓・徳川。 男爵・徳川厚の二男として生まれ、伯爵・大木遠吉の養子となる。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部を卒業。養父の死去に伴い、1926年(大正15年)6月15日に伯爵を襲爵した。 大学卒業後、三井銀行に入行。1929年(昭和4年)東工学園理事長に就任し、1931年(昭和6年)東京工業学校を設立し校長となり、校名変更後の東京高等工科学校の校長も務めた。1967年(昭和42年)日本工業大学を設立し理事長に就任。 1940年(昭和15年)11月30日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 197… 河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 1974年1月26日)は、日本の俳優であり、詩人・編集者出身で写真家としても知られる。本名同じ。詩人としての筆名は河原 森月(かわら しんげつ)。萩原朔太郎とともに詩誌『侏儒』を創刊し、新劇俳優としては「築地小劇場」「第二次芸術座」の設立に参加、写真の世界では「ヴェス単の名手」として知られる。 1897年(明治30年)4月16日、兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年は1899年(明治32年)、生地は群馬県前橋市堀川町(現在の同市表町)である旨が記されている。 生後に東京に移り、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)の旧制・公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校、現在の品川区立品川学園)に入学、同校を卒業して、東京市芝区(現在の東京都港区)の旧制・正則中学校(現在の正則高等学校)に入学する。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4… 岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。 1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民。1985年、岡山県名誉県民。1987年、中国洛陽市名誉市民。 岡山県賀陽郡大和村(上房郡賀陽町を経て現・加賀郡吉備中央町)に、農業・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。 尋常小学校1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・総社市)に移り住む。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1916年第一高等学校に入学する。一高時代はボート部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。