船越 英二(ふなこし えいじ、1923年〈大正12年〉3月1… 船越 英二(ふなこし えいじ、1923年〈大正12年〉3月17日 - 2007年〈平成19年〉3月17日)は、日本の俳優。東京都出身。専修大学経済学部卒業。 俳優の三島謙は兄(本名:船越榮太郎)、女優の長谷川裕見子は妻、長男に俳優の船越英一郎がいる。本名:船越 榮二郎(ふなこし えいじろう)。 新宿で生地問屋「船越商店」を開いた呉服商・船越栄一の次男として誕生し、四谷第五小学校から帝京中学校に入学する。当初は美術学校か写真学校への進学を希望するが、父の勧めで1941年(昭和16年)には専修大学経済学部に入学し1944年(昭和19年)に学徒出陣で繰り上げ卒業する。香川県三豊郡豊浜町(現・観音寺市)の陸軍船舶学校に入り、翌年の8月に見習士官として終戦を迎えた後、父の勧めで地元新宿に写真屋を開いた。
永澤 満(ながさわ みつる、1923年3月17日 - 202… 永澤 満(ながさわ みつる、1923年3月17日 - 2020年5月8日)は、日本の化学者。名古屋大学名誉教授。豊田工業大学名誉学長。日本学士院賞受賞。 東京出身。1946年東京工業大学工学部応用化学科卒業。1954年東京工業大学工学博士。1951年名古屋大学講師着任。名古屋大学助教授を経て、1958年から3年間フルブライト・プログラムでシカゴ大学、ワシントン大学で在外研究に従事。1962年名古屋大学教授に昇格。1978年豊田工業大学設立計画アドバイザー。1980年名古屋大学工学部長。1986年退官、豊田工業大学教授。豊田工業大学図書館長、豊田工業大学副学長を経て、1996年豊田工業大学学長。2003年豊田工業大学シカゴ校学長。
坂 松蔵(ばん まつぞう、1922年3月17日 - 2004… 坂 松蔵(ばん まつぞう、1922年3月17日 - 2004年2月12日)は、日本の実業家。大成建設の副社長、海外法人の社長などを務めた。 滋賀県長浜市出身。1939年に県立長浜商業学校を卒業し、1941年12月に彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業した。1942年、大成建設に入社した。 入社後は主に経理・財務部門を歩み、同社の経理部経理課長、財務部資金課長などを務めた。大成海外建設の取締役・事務本部長も務めており、大成建設の海外事業に関わる管理部門も担当していた。 1979年に大成建設の取締役に就任した。その後、同社取締役・人事部長を務めた。1983年時点では常務・管理本部長となり、管理部門全般を管掌した。
北畑 静子(きたはた しずこ、1922年〈大正11年〉3月1… 北畑 静子(きたはた しずこ、1922年〈大正11年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉7月13日)は、日本のロシア児童文学の翻訳家。 福島県相馬郡原町()(現・南相馬市原町区)生まれ。本名・静()。父は逓信省無線電信技師の北畑平五郎(1894年 - 1944年)。3歳のとき父の転勤に伴い東京府荏原郡大井町へ転居して、以降少女時代を過ごす。品川区立原小学校を経て、1939年3月普連土女学校卒業。GHQ民事検閲局を経て、1953年1月28日国立国会図書館に勤務。司書となり、勤務の傍ら日ソ学院に通いロシア語を学ぶ。雑誌に短編を翻訳して以来、ソ連やチェコスロバキアの児童文学を紹介。1979年同人の一人として同人誌『イワン』(露: Иванушка)創刊、主宰者の役割を果たす。
牧 よし子(まき よしこ、本名;大木 よし子、1921年3月… 牧 よし子(まき よしこ、本名;大木 よし子、1921年3月17日 - )は、東京都出身の女優。山脇学園高等女学校卒。趣味は朗読。
竹内 道雄(たけうち みちお、1921年3月17日 - 20… 竹内 道雄(たけうち みちお、1921年3月17日 - 2004年2月27日)は、日本の官僚。大蔵事務次官。
森田 信(もりた しん、1921年3月17日 - 1985年… 森田 信(もりた しん、1921年3月17日 - 1985年8月)は日本映画のプロデューサー。母親は森田たま。 東京大学文学部卒業後、海軍四期予備学生となる。1950年に東宝撮影所製作部に入社。1962年にプロデューサーに昇格。その後渡辺プロダクション担当のプロデューサーとして活躍。1967年に電通に転属。定年退職後、田中友幸の勧めで東宝映画の企画担当になる。1985年8月、癌のため死去。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
土居 健郎(どい たけお、1920年3月17日 - 2009… 土居 健郎(どい たけお、1920年3月17日 - 2009年7月5日)は、日本の精神科医・精神分析家・評論家。東京大学名誉教授。学位は医学博士(東京大学・1960年)。 日本人の心理特性として「甘え」の概念を精神分析に導入し、その精神構造を解明した『「甘え」の構造』(1971年)は、日本人論に新局面をもたらした。他の著書に『表と裏』(1985年)、『時のしるし』(1990年)など。 1920年、東京生まれ。府立高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学医学部に入学。1942年に卒業し、陸軍軍医となった。 戦後、アメリカ・メニンガー精神医学校、サンフランシスコ精神分析協会に研修留学。自身、キリスト教カトリック教会の信徒であった。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
佐瀬 勇次(させ ゆうじ、1919年3月17日 - 1994… 佐瀬 勇次(させ ゆうじ、1919年3月17日 - 1994年3月25日)は、将棋棋士。千葉県山武郡松尾町(後の山武市)出身。石井秀吉七段門下。1990年引退。棋士番号41。 戦前のアマ名人戦の県代表となる。1938年入門。軍隊生活を経験し、復帰後の1944年に四段となる。1946年より順位戦に参加。 1974年、日本将棋連盟専務理事。 現役生活44年間対局不休、無遅刻の記録を続けながら1990年3月に引退。生涯成績は458勝599敗。 1994年3月、尿毒症のため死去。享年75。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
長島 敦(ながしま あつし、1918年3月17日 - 200… 長島 敦(ながしま あつし、1918年3月17日 - 2004年10月15日)は、日本の検察官。最高裁判所判事。栃木県出身。伯父の長島毅は大審院長。 1941年(昭和16年)京都帝国大学法科を卒業。1942年(昭和17年)に司法官試補。検事になったのは起訴猶予になった容疑者が立ち直った例をみたのがきっかけ。その後海軍法務科士官となり、大尉で終戦。 第一線で被疑者の取調べなど検察の実務経験は短く、約3年間しかない。それ以外は法務省で秘書課長や青少年課長など事務、政策立案作業に携わった。1956年(昭和31年)から日米法律学者の交換計画でアメリカのスタンフォード大学に2年間留学した。1970年(昭和45年)4月にアジア極東犯罪防止研究所の所長に就任し、日本人として初の所長となる。
室 淳介(むろ じゅんすけ、1918年3月17日 - 200… 室 淳介(むろ じゅんすけ、1918年3月17日 - 2000年11月16日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 兵庫県生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業。早大教授、1988年定年、名誉教授。
内藤 良平(ないとう りょうへい、1916年〈大正5年〉3月… 内藤 良平(ないとう りょうへい、1916年〈大正5年〉3月17日 - 1996年〈平成8年〉12月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県秋田市で生まれる。1933年(昭和8年)秋田市商業学校(現秋田市立秋田商業高等学校)を卒業した。 1935年(昭和10年)鉄道省(のちの日本国有鉄道)に入省。仙台鉄道局秋田運輸事務所、新潟鉄道局秋田管理部総務課などに勤務。国鉄労働組合中央委員、同秋田支部書記長、秋田県労働組合会議議長、同事務局長、護憲連合秋田県代表委員などを務めた。秋田市議会議員に選出され2期在任し、同総務財政委員長、秋田県地方労働委員も務めた。 1949年(昭和24年)日本社会党に入党。
太田 絢子(おおた あやこ、1916年3月17日 - 200… 太田 絢子(おおた あやこ、1916年3月17日 - 2009年10月31日)は、昭和・平成期の歌人。歌誌『潮音』主宰を務めた。歌人・漢文学者の太田青丘は夫。『潮音』現主宰の木村雅子は娘。旧姓・近藤。 北海道利尻町生まれ。実践女子専門学校(現実践女子大学)国文科卒。在学中は高崎正秀の指導を受ける。同校助手を経て、北海道岩見沢農業高等学校、北海道小樽潮陵高等学校などの教員を歴任。小樽市を第二の故郷として愛した。 1950年(昭和25年)、歌誌『新墾』及び『潮音』に入社。後に『新墾』選者も務める。1957年(昭和32年)、師の小田観螢の媒酌により、太田青丘の後妻に入り、北海道を離れ鎌倉市に住む。1996年(平成9年)に夫の太田青丘の没後、『潮音』主宰を継承。
石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2… 石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2013年1月27日)は、歌人、編集者、出版人。短歌新聞社元社長。 新潟県三条市生まれ、栃尾市育ち。本名は清作。1940年、同郷の詩人内藤鋠策と『抒情詩』を復刊する。1943年応召を受け、中国、仏領インドシナなどで従軍。戦後、郷里新潟県で「越後短歌」を創刊。 1953年東京で短歌新聞社を創立、月刊短歌情報誌『短歌新聞』を発刊。1977年に月刊短歌総合誌『短歌現代』を創刊した。以後、2011年12月の廃業まで一貫して社長を務めた。名歌集を安価で読める「短歌新聞社文庫」、新鋭歌人による「現代歌人叢書」「現代女流短歌全集」の創刊や、短歌現代新人賞の創設、『短歌現代』編集長に高瀬一誌を起用するなどの施策を打ち出し、戦後短歌に大きな影響を与えた。
鈴木 新夫(すずき あらお、1915年3月17日 - 198… 鈴木 新夫(すずき あらお、1915年3月17日 - 1980年5月10日)は、日本の洋画家。主に具象画の制作を行った。
八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 199… 八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 1994年)は、日本の教育者。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。兄は演出家の八田元夫。 東京出身。東京帝国大学大学院理学部動物学科卒業。
大久保 忠正(おおくぼ ただまさ、1914年3月17日 - … 大久保 忠正(おおくぼ ただまさ、1914年3月17日 - 2002年8月20日)は、日本の経営者。藤田観光社長を務めた。 東京都出身。1939年に東北帝国大学法文学部法律学科を卒業。日本興業銀行、神島化学工業での勤務を経て、1969年6月に同和鉱業に転じ、取締役にも就任し、1975年5月に常務を経て、1979年3月にに藤田観光副社長に就任し、、1981年3月には社長に昇格。1985年3月に会長に就任し、1990年11月に取締役相談役を経て、1991年3月から相談役を務めた。 2002年8月20日肺炎のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
会田 綱雄(あいだ つなお、1914年(大正3年)3月17日… 会田 綱雄(あいだ つなお、1914年(大正3年)3月17日 - 1990年(平成2年)2月22日)は、日本の詩人。東京市本所区出身。代表的な詩に『伝説』がある。 日本大学社会学科を卒業した後、1940年に志願して中国に渡り南京特務機関嘱託となる。南京にて詩人の草野心平を知る。後に上海に移り、『黄鳥』『亜細亜』の作品を発表する。 1947年、同人雑誌である『歴程』の同人となる。 1957年、詩集『鹹湖』を発表し、第一回高村光太郎賞を受賞する。同じく詩人である知念栄喜は、「残酷な生命の条理を自然の中に溶解し、原罪意識を夢幻的な物語として構成する特異な個性の詩人」と述べている。1964年、詩集『狂言』を思潮社から、1970年、67部限定の詩集『汝』を母岩社から出版。
武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 19… 武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 1998年7月25日)は、日本の社会評論家・社会思想家。学位:経済学博士(中央大学より1961年取得 / 論文タイトル「経済倫理 : 経済学と世界観」)。 社会民主主義思想、カール・ヤスパース哲学などを研究した。鈴木三郎・草薙正夫らと共に、1951年設立となったヤスパース協会創立者の一人である 福島県生まれ。幼少期に両親を失い、長崎の長兄のもとに移り育つ。長崎の旧制高等商業学校を経て、1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。横浜専門学校(現神奈川大学)教授、日本外政協会、日本国連協会の調査課長を務め、國學院大學教授、中央大学教授、早稲田大学客員教授を歴任した。
田中日淳(たなか にちじゅん、 1914年(大正3年)3月1… 田中日淳(たなか にちじゅん、 1914年(大正3年)3月17日 - 2010年(平成22年)7月18日)は、日蓮宗の僧。第48代日蓮宗管長・大本山池上本門寺第81世貫首。立正大学仏教学部卒業。北海道出身。 北海道爾志郡乙部町出身。母親の願いにより乙部町本昭寺の久遠院日啓(浅野本淳)に就いて出家。1929年(昭和4年)に15歳で上京、大本山池上本門寺塔頭の照栄院に寄在しつつ立正大学仏教学部を卒業した。またその際に、久遠院日啓の願いにより照栄院住職であった観是院日教(石川日教、後の池上本門寺第77世貫首)の弟子となった。 第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)に応召され、仙台市の予備士官学校を卒業後、見習士官になり航空兵に転科。
石井 みどり(いしい みどり、本名:折田 ハナ、1913年3… 石井 みどり(いしい みどり、本名:折田 ハナ、1913年3月17日 - 2008年3月6日) は、日本の舞踊家。 1913年3月17日、栃木県宇都宮市日野町にて質屋の長女として生まれる。出生名は五十嵐ハナ。ハナは女学校時代に地元で開かれた石井漠の舞踊公演に感銘を受け舞踊家を志した。 1929年、栃木県立宇都宮第一高等女学校(現栃木県立宇都宮女子高等学校)を卒業。この年9月、16歳で石井漠舞踊研究所に入門、現代舞踊の草分け・石井漠に師事。 翌1930年、抜きんでた才能を認められ師の相手役として「石井みどり」の名を与えられ華々しくデビュー。1935年に独立、石井みどり舞踊研究所を開設し、公演活動をはじめる。
三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 199… 三春 重雄(みはる しげお、1910年3月17日 - 1996年1月8日)は、宮城県志田郡古川町(現・大崎市古川)生まれ、旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)、法政大学出身、日本の政治家。元・宮城県議会議員、日本社会党宮城県本部委員長、日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)宮城連合会長、河北新報社厚生部部長などを歴任。第46代内閣総理大臣の片山哲は義理の叔父にあたる。 仙台市博物館にある「魯迅の碑」設置にも尽力をした。
高木 健太郎(たかぎ けんたろう、1910年3月17日 - … 高木 健太郎(たかぎ けんたろう、1910年3月17日 - 1990年9月24日)は、日本の医学者で参議院任期中に亡くなった。生理学の世界的権威。名古屋大学名誉教授、名古屋市立大学名誉教授。参議院議員 1980年-1990年 (2期)。
伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17… 伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)4月10日)は、日本の考古学者。東北地方の縄文・弥生・古墳時代、古代・中世・近世史、樺太(サハリン)の先史時代研究に大きな業績を残した。東北大学名誉教授。 1957年に東北大学考古学講座初代教授に就任した。東北地方の原始・古代文化を考古学的手法により解明し、「東北の考古学の父」と呼ばれた。伊東は、山内清男とともに東北の古い縄文土器の編年を確立し、特に青森県垂柳遺跡の発掘において、東北地方の稲作農耕を明らかにする研究を進めた。 戦前には、通説として「東北の古代文化は遅れていた」、「東北地方は鎌倉時代まで石器時代が続いた」とされていた。
服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 200… 服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 2008年8月2日)は日本の作曲家。日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めた。 同姓の服部良一やその息子の服部克久などとの縁戚関係はない。 東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、三井生命保険に入社したが40日で退社。学生時代にはマンドリンクラブに所属。1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。その後、菅原明朗に師事した。 1932年、帝国音楽学校講師となる。 1933年、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)3月1… 前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)3月17日 - 1989年(平成元年)9月19日)は、日本の宮内官僚、華族(侯爵)。旧加賀藩前田家第17代当主。 第16代当主・前田利為の長男で、母は渼子(前田利嗣長女)。父の戦死に伴い1943年(昭和18年)1月15日、家督を継承し侯爵を襲爵。同日、貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業した。1936年(昭和11年)宮内省に入省し式部官兼主猟官に就任。以後、兼内大臣秘書官、帝室博物館嘱託、臨時内大臣府御用掛なども務めた。 1947年(昭和22年)10月29日、金沢市に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、前田家の成巽閣が宿泊所となった。
松本 敏夫(まつもと としお、1908年(明治41年)3月1… 松本 敏夫(まつもと としお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)7月24日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。 兵庫県伊丹市出身。1917年(大正6年)、小西酒造修武館に入門し、富山円に剣道を学ぶ。伊丹中学校を卒業後関西学院に進学。 1927年(昭和2年)、第4回明治神宮体育大会剣道競技大学、高専校の部で優勝。 1929年(昭和4年)、関西学院を卒業。同年、第5回明治神宮体育大会剣道競技青年団の部で優勝。 南海鉄道勤務を経て、関西学院書記となる。 1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会府県選士の部に兵庫県代表として出場。 1964年(昭和39年)、関西学生剣道連盟会長に就任。
今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17… 今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉3月29日)は、日本の教育者、数学者、科学史家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。イギリスの動物学者・ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』を翻訳したことでも知られる。 東京都出身。東京帝国大学理学部数学科を卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)や慶應義塾大学、法政大学などで教鞭を執る傍ら、1933年(昭和8年)に日本共産党へ入党。1940年1月の「唯研事件」第2次一斉検挙をはじめ、戦前は3度の逮捕・投獄を余儀なくされたが、その間も数学・科学史関連の著書・訳書を多数発表した。 戦後は読売新聞論説委員を経て、1946年には民主主義科学者協会(民科)設立に関わり、常任幹事や事務局長に就く。
平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年(明治40年)… 平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年(明治40年)3月17日 - 1970年(昭和45年)12月12日))は、衆議院議員(日本社会党)、歴史学者。選挙には「びょうどう ぶんせい」の読みで出馬した。 神奈川県横浜市出身。1929年、新潟高等学校卒業。東京帝国大学文学部卒業。東京で新聞・雑誌記者として勤めたのち、中国大陸に渡り高橋公館、興亜院華北連絡部に勤務。のち、新民学院や北京大学(農学院)教授などを歴任し、東洋史の研究に従事する。第二次世界大戦後、長野県北佐久郡軽井沢町の浅間山麓に入植し、農民運動を始め、全日本農民組合中央常任委員、同国際部長、同長野県連合会委員長、日本社会党長野県本部統制委員長、私学新報社長などを歴任した。
李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - … 李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - 没年不詳)は、大韓民国の校長、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字は不明だがイ・インチュル(이인출)という名もある。 本籍地の慶尚北道迎日郡神光面(現・浦項市)に生まれた。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、明治大学法学部卒。新聞社と雑誌社を経営していた。1948年の初代総選挙では慶州乙選挙区より大韓独立促成国民会の公認で立候補して当選した。このほか、安康中学校の校長を務めていたが、朝鮮戦争の際に北朝鮮により拉致され、以後消息不明。
小山 荘之助(こやま そうのすけ、1906年3月17日 - … 小山 荘之助(こやま そうのすけ、1906年3月17日 - 1993年11月26日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱航空機名古屋製作所に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年8月にはキャタピラー三菱社長に就任し、1970年1月までに務めた。 1993年11月26日、急性心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 199… 遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 1997年6月)は、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)出身の詩人・児童文学作家。児童文学同人誌『若木』を主催。 1947年(昭和22年)から1967年(昭和42年)まで三好町立三好中学校で教員を務めながら画家としても活動した遠藤稲子は妹。遠藤栄の詩「逝く春」をイメージした油彩の大作「逝く春」なども描いている。 1906年(明治39年)3月17日、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)に生まれた。父は駐在所の巡査を務めていた遠藤寅吉、母はたい。姉に君代、妹に稲子がいる。明治末期には新城町からたいの故郷である岡崎市に転居し、1912年(大正元年)に岡崎で尋常小学校に入学した。
櫻田 武(さくらだ たけし、1904年(明治37年)3月17… 櫻田 武(さくらだ たけし、1904年(明治37年)3月17日 - 1985年(昭和60年)4月29日)は、昭和の経営者。日清紡績(現・日清紡ホールディングス)元社長。日清紡績"中興の祖"。日経連会長、名誉会長を務め、"ミスター日経連"とも呼ばれた。「財界四天王」の一人。広島県福山市赤坂町出身。福山市名誉市民。 1904年、商家の櫻田斉・仲子の長男として沼隈郡赤坂村(現在の福山市赤坂町)に生まれる。広島高師附属中学校、第六高等学校を経て1926年(大正15年)に東京帝国大学法学部を卒業。紙恭輔は広島高師附属中学の一級上。六高柔道部で同郷で、後に「財界四天王」とともに呼ばれる生涯の盟友・永野重雄に誘われ高専柔道界の王座を築く。
秋田 露子(あきた つゆこ、本名:松本さく子、1904年(明… 秋田 露子(あきた つゆこ、本名:松本さく子、1904年(明治37年)3月17日 - 没年不明)は元宝塚少女歌劇団花組主演娘役クラスの人物である。大阪府池田町(現・池田市)出身。 この芸名は小倉百人一首の第1番:天智天皇の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役) 秩父晴世 - 打吹美砂 - 楓茂美 - 玉野ひかり - 日下輝子 - 櫻野美也子 - 玉野ひか留 - 美山しぐれ - 桃山千歳 - 桂木ゆたか - 睦千賀&桂木ゆたか - 御幸沙智子&歌川波瑠美 - 歌川波瑠美 - 藤園さとみ - 銀あけみ - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 磯野千尋 - 一原けい - 梨花ますみ - 高翔みず希 - 悠真倫 - 紫峰七海 - 花野じゅりあ - 芽吹幸奈 - 冴月瑠那 - 美風舞良 - 航琉ひびき - 紫門ゆりや(現役) 紅羽真希(現役)
金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 … 金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 - 1982年(昭和57年)2月24日)は、日本の銀行家。位階は従三位、勲等は勲二等。 富士銀行頭取、会長。第6代プロ野球コミッショナー。ドラフト制度導入に尽力したことで知られる。 旧制新潟県立小千谷中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。帝大時代は大正デモクラシーの時代でもあり、蠟山政道、福岡誠一らと社会改良に関して語り合う一本筋の通った青春時代を送った。 1924年(大正13年)安田銀行に入行(後に富士銀行に改称)。49年副頭取、 57年頭取、63年会長、75年顧問。 明治生まれの硬骨のバンカーとして知られ、会長に退いてからは財界で活躍し、大の巨人軍ファンであったことから、政財界人で後援組織「無名会」を結成し、会長を務めた。
津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年… 津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、実業家。 津上嶮路の四男として、福岡県糸島郡北崎村(現・福岡市)に生まれる。津上製作所(現・ツガミ)創業者津上退助は実兄。1920年福岡県中学修猷館、1922年3月第五高等学校理科乙類を経て、1925年3月九州帝国大学工学部機械工学科を卒業。 卒業後、三菱鋼業に入社。1928年津上製作所に転じ、1929年技師長となる。1940年名古屋帝国大学工学部教授、および愛知県工学試験所部長を兼ね、1945年津上製作所取締役に選ばれ、1947年常務に進む。1964年5月津上文化機器販売社長に就任。 機械学会(現・日本機械学会)評議員、長岡市商工会議所理事、日本小型工作機械工業会(現・日本精密機械工業会)会長なども務めている。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。
堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 19… 堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 1974年4月13日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)、厚生大臣。 三重県松阪市出身。堀木利右衛門の三男として生まれる。目白中学、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年4月に鉄道省に入り、鉄道局書記となり東京鉄道局庶務課文書掛に勤務。鉄道局副参事・新橋運輸事務所営業主任、東京鉄道局運輸課旅客掛長などを歴任。1929年(昭和4年)7月に在外研究員に発令され、1931年(昭和6年)8月まで欧州に出張した。 帰国後、新橋運輸事務所長、大阪鉄道局運輸課長、運輸局旅客課長などを経て、1938年(昭和13年)4月、鉄道大臣秘書官兼大臣官房文書課長に就任し、中島知久平に仕えた。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
北野 吉登(きたの よしと、1895年3月17日 - 198… 北野 吉登(きたの よしと、1895年3月17日 - 1981年4月22日)は、日本の実業家。北野建設創業者。 長野県上高井郡保科村(現長野市)生まれ。保科高等小学校卒業。父の民蔵が明治35年(1902年)に創業した製糸業の「北野商店」を手伝うが、生糸相場暴落を機に、木材や土木建築の請負を開始し、事業の基礎を固める。早くから事業の一体性を考慮し、山林の経営にも着手した。昭和5年(1930年)上高井郡木材業組合長、続いて長野県木材業組合長を務める。同21年(1946年)北野建築工業を設立し、同23年(1948年)現行の北野建設に改称する。昭和38年(1965年)社長を北野次登に譲り、会長となる。長野県建設業協会副会長を務め、アメリカやヨーロッパ各地の建設業を視察し、事業を全国的に躍進させ、海外にも進出した。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1… 松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1983年5月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人・軍医。最終階級は陸軍軍醫少将。 東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)卒業。陸軍士官学校、陸軍軍医学校教官などを経て、第23軍軍医部長となる。形成外科医の他、疫病の研究や口腔外科医として戦地にて活躍した。 父は長州藩の武士・医者・官軍である松本 三省(まつもと さんせい)(別名、源 道秀)。親戚に日本画家の松林桂月がいる。 明治27年(1894年)3月17日、山口県に生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、陸軍軍医学校に入校。軍医として文部省歯科病院で修業し、三内多喜治主幹のもと陸軍軍医学校教官となる。
岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年… 岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年〉3月17日 - 1979年〈昭和54年〉5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江市で岡崎竜次郎の三男として生まれる。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動。
宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年… 宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年)3月17日 - 1959年(昭和34年)5月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)、宮下民雄の長男として山形県米沢市福田町に生まれる。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1938年(昭和13年)、陸軍歩兵大佐に昇進。1941年(昭和16年)、陸軍少将に進級。1943年(昭和18年)6月、第32歩兵団長に就任し太平洋戦争に出征、中国で従軍した。独立歩兵第1旅団長、第1国境守備隊長を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第157師団長に着任し、青森県三本木(現在の十和田市)で本土決戦に備えたが、交戦することなく終戦を迎えた。
門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月… 門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 広島県世羅郡三川村(現:府中市)出身。1911年(明治44年)、旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)を卒業。広島県佐伯郡書記を経て、内務属として内務省に入省。1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、岐阜県養老郡長、岐阜県社事兵事課長を務めた。1928年(昭和3年)より朝鮮総督府に転じ、忠清北道学務課長、同地方課長、馬山府尹、京畿道内務課長、平壌専売支局長、大邱府尹、全羅北道内務部長、京城地方専売局長などを歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮海苔株式会社社長を務めた。
井田 友平(いだ ともへい、1889年(明治22年)3月17… 井田 友平(いだ ともへい、1889年(明治22年)3月17日 - 1965年(昭和40年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、妻沼町名誉町民。メヌマポマードの製造販売で知られた。 埼玉県幡羅郡弥藤吾村新田、のちの大里郡妻沼町大字弥藤吾1520番地の1(現:熊谷市)で、農業・井田定吉、フク夫妻の長男として生まれる。父方は代々、教師の家系である。幡羅高等小学校を卒業し、太田村上江袋の能泉寺塾で漢学を修めた。家業の手伝いをしていたが、父の失敗で井田家は土地家屋を失ったため、17歳の春に上京して石鹸雑貨行商の見習奉公についた。 1910年3月、独立して本所区本所緑町四丁目に井田京栄堂を設立して石鹸雑貨卸商を営む。
秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3… 秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3月17日 - 1946年(昭和21年)4月12日)は、国語教育学者で戦時中文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった。 秋田喜三郎は、1887年(明治20年)3月17日滋賀県栗太郡上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)に生まれた。同郷の上田上村には2歳年下で後に京都帝国大学理学部(天文学)教授で多くのアマチュア天文学者を育てた山本一清がいる。一清の祖父は漢学者山本栗斎で、父は滋賀県内尋常小学校等で実際の教育の場に立った山本清美である。喜三郎はその青年期まで、すぐ近くに当時県内でも有数の教育者がいる中で育った。 1910年(明治43年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)を卒業、同附属小学校訓導となり、1920年(大正9年)には奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大学附属小学校)に転じ、この間、国語教育実践の理論確立につとめ1914年(大正3年)『読方教授の新研』を発表し、以降多くの国語教育に関する著書を記した。
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉… 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1959年〈昭和34年〉6月16日)は、日本の大蔵・法制官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験行政科試験に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。 1914年(大正3年)法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。