行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月1… 行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月18日 - 1974年(昭和49年)4月27日)は、日本の医師、医学博士、柔道整復師。 大阪医科大学(現・大阪大学医学部)卒。日本初 の柔道整復師養成施設である大阪接骨学校(昭和7年)と、行岡外科病院(大阪接骨学校附属行岡外科病院)(昭和9年)を設立する。 大阪府柔道整復師会 会長(1933年、1957年5月)、社団法人 大阪府医師会会長(1954年4月)、大阪府保険医協会理事長(1953年4月)、大阪市会議員(1951年以降連続6期)などを歴任。 大阪接骨学校(現:行岡医学技術専門学校・大阪行岡医療専門学校長柄校)の創設者。 1974年大阪市議のまま急性心不全のため、阪大病院で死去。
楳垣 実(うめがき みのる、1901年〈明治34年〉2月18… 楳垣 実(うめがき みのる、1901年〈明治34年〉2月18日 - 1976年〈昭和51年〉2月29日)は、日本の言語学者。専門は、比較語学・方言・隠語。外来語辞典や隠語辞典を編纂したことで知られるが、語源についての随筆もある。 京都府生まれ。1923年同志社大学文学部英文学科卒業。1924年長野県木曽中学校(現長野県木曽高等学校)嘱託。同志社大学教授、太平洋戦争では南支に従軍。和歌山大学教授、1952年帝塚山学院短期大学教授、1966年定年、関西外国語大学教授。1972年紫綬褒章受勲。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岩田 徳三郎(いわたとくさぶろう、1901年2月18日 - … 岩田 徳三郎(いわたとくさぶろう、1901年2月18日 - ?)は、日本の射撃競技(クレー射撃)選手。1956年メルボルンオリンピックにクレー・ピジョン(トラップ)種目で出場。クレー射撃でオリンピックに参加した最初の日本選手の一人。また、1954年アジア競技大会(マニラ)ではトラップ種目で銀メダルを獲得している。 法政大学卒業。17歳から狩猟をはじめたという。スポーツとしての射撃に魅せられたのは戦後といい、1952年(昭和27年)の国体でトラップ個人および団体で優勝。1953年(昭和28年)は公式戦においてはじめてスキートで100点満点を出した。1954年(昭和29年)のアジア競技大会(マニラ)ではトラップで銀メダル。
小宮 義孝(こみや よしたか、1900年2月18日 - 19… 小宮 義孝(こみや よしたか、1900年2月18日 - 1976年2月4日)は、日本の寄生虫学者。 埼玉県出身。旧制熊谷中学校、第一高等学校をへて、1925年東京帝国大学医学部卒、同衛生学教室助手。国崎定洞の影響を受けて社会医学を志す。1931年上海自然科学研究所に入所、寄生虫を研究。1932年「鐵筋コンクリート建病室に於ける換気に関する研究」で医学博士(東京帝国大学)。 戦後は、1949年群馬大学医学部教授、1952年目黒寄生虫館評議員、1966年国立予防衛生研究所長、1967年日本寄生虫学会名誉会員。1964年第8回野口英世記念医学賞を受賞。 戦前はマルクス主義者で、戦後も早くから中華人民共和国をたびたび訪れた。
石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 -… 石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 - 1979年8月22日)は、日本の英語学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1965年)(学位論文「英文法論」)。東京教育大学名誉教授。 福岡県福岡市出身。東京高等師範学校卒。旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)教諭をへて東京教育大学教授、1959年定年退官、名誉教授、日本大学教授、1968年大妻女子大学文学部長。1965年「英文法論」で日本大学より文学博士の学位を取得。 1979年8月22日、肝硬変のため東京女子医科大学病院で死去。81歳。
金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 19… 金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 1983年2月27日)は、日本の解剖学者、人類学者。 1897年、香川県仲多度郡榎井村(現:琴平町)に生まれた。幼少期を四国で過ごしたが、小学6年の時に岡山に移った。松江中学校を経て、第三高等学校に進んだ。西洋文学や日本の古典文学に関心を持っていたが、父の反対もあり文系ではなく医学部進学を目指すようになった。1919年7月に卒業し、京都帝国大学医学部解剖学科に入学。1923年7月に卒業した。 卒業後は、足立文太郎教授が率いる解剖学教室助手に採用された。足立は日本における軟部人類学の先駆け的な存在であり、その助手を務めつつ、足立の勧めにより同大学の病理学者清野謙次や文学部考古学教室の濱田耕作の指導も受けた。
塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年… 塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年)2月18日 - 1964年(昭和39年)10月27日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員、通信院総裁・逓信院総裁、官選清水市長。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市)出身。和田開蔵の長男として生まれ、山林技師・塩原谷五郎の養子となる。旧制長野中学、第八高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)4月、国家主義的学生団体興国同志会(国本社の前身)の結成に参画した。 大学卒業後、官界に入り逓信局書記兼逓信属・東京逓信局兼電気局勤務となる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。
鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 -… 鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 - 1971年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。清水市長。 静岡県清水市(現静岡市)出身。1914年早稲田大学商科卒。清水市議、同参事会員、静岡県議、同副議長などを経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に静岡県(当時は大選挙区制)から立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた後、清水市農地委員、同委員長を歴任し、1955年の清水市長選挙に立候補して当選した。 市長在職中は市内に住宅が増設され、日本平にテレビ塔とロープウェイが開設。1957年には静岡で国体が開かれ、天皇、皇后の視察を受けた。このほか、石岩ふ頭(富士見ふ頭)の完成や大型漁船の建造も進められた。
松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1… 松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家である。衆議院議員(6期)。 大阪府南河内郡黒山村出身。1922年(大正11年)、京都帝国大学経済学部卒業。桃山学院中学校の英語教諭、大阪府立黒山実業学校の教頭などを経て、経済界に転身した。神国海上火災KK(日本興亜損害保険の前身会社)、大阪タクシーKK、大阪メーターKK等を経て、1946年(昭和21年)、日本社会党に入党、日本社会党大阪府連合常任執行役員となる。 1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙で大阪第3区より衆議院議員に初当選、日本社会党中央委員に就任。大阪メーターKKを退職。1950年(昭和25年)東京相互タクシーKKを設立し、代表取締役に就任。
大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1… 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」。
別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 19… 別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 1958年9月19日)は、日本の実業家、工学博士、登山家。住友電気工業初代社長を務めた。 東京都で別宮音五郎の子として生まれる。1917年に東京帝国大学工学部電気科を卒業し、逓信省で電気試験所技師を務め、東京工業大学教授も務めた。 1930年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職し、常務、専務、社長を歴任した。 東京電機大学教授、日本科学技術情報センター理事長、日本電気学会会長なども歴任した。登山が趣味で日本山岳会会長も務めた。 1958年9月19日、狭心症のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年〈明治25年〉2月… 平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年〈明治25年〉2月18日 - 1987年〈昭和62年〉5月10日)は、日本のテンペラ画家。北海道小樽市出身(東京府生まれ)。雅号は大暲(たいしょう)、後に光彩(こうさい)。 戦後の混乱期に発生した大量毒殺事件である帝銀事件の犯人として逮捕され、死刑が確定するが刑の執行も釈放もされないまま、逮捕から死までの39年間を獄中で過ごした。 平沢は一流の画家であった。二科展に3回、文展に16回、光風会には毎年入選し、「帝展無鑑査」(過去の輝かしい実績を評価され審査員の鑑査なしに無条件で出品できること)であった。 実力派の画家としての地位を確立していた平沢は、1948年1月26日に帝国銀行(後の三井銀行。
美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日… 美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市出身。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。道事務官、税関監視官、税関事務官、専売局事務官、咸鏡北道警察部長、慶尚北道警察部長、慶尚南道警察部長を歴任し、1931年(昭和6年)に欧米各国に出張した。帰国後、平安南道内務部長を経て、1932年(昭和7年)に京畿道内務部長となり、さらに京城税務監督局長に転じた。1936年(昭和11年)より平安北道知事となった。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮マグネサイト開発社長、咸南鉄道会長を経て、戦後は三幸建設工業に入り、副社長、顧問を歴任した。
小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年… 小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年9月25日)は岐阜県大垣市出身の日本のピアニスト。東京音楽学校(現東京芸術大学)教授。戦前日本を代表する女流ピアニストである。 小倉末は、1891年に小倉周一(元大垣藩士小寺専助五男)、紫登の三女として生まれた。幼い頃からドイツ人の義姉マリアよりピアノの手ほどきを受け、1910年3月に神戸女学院を卒業 (4期) した。その前後ですでに演奏活動を行っており、1905年から1911年までに東京音楽学校に学び、その間学内外で演奏を行った記録が残っている。 また、末は「日本最初の婦人ゴルファー」ともいわれている。15歳の時にゴルフ場を作ったアーサー・ヘスケス・グルームの持つ山荘で休憩する姿の写真が、神戸の六甲ゴルフ倶楽部のアルバムに「Miss sueko ogura」の書き込みと共に残されている。
杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 19… 永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 1970年5月1日)は、日本画家。本名は永田良亮。 1889年(明治22年)2月18日、茨城県北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生れる。1907年、茨城県立龍ケ崎中学校(現 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。荒木寛畝、寺崎広業、結城素明に師事。1913年に東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科を卒業後、国華社に入り古画研究に従事した。1920年に渡欧して仏画模写などに約1年間たずさわった。1924年の日華連合展では国賓として北京に招かれ、出品作は袁世凱中華民国大統領が買い上げた。第6回帝展出品作「花柘榴・立葵」はフィラデルフィア万博に出品され、同地美術館に収蔵。
渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 19… 渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎。別名・孤星、素風。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る。浅草尋常高等小学校に入学、小学校時代、友人であった小宮山豊作や久保田万太郎の影響で文学に関心を持つ。東京府立第三中学校を経て早稲田大学英文科に入学し、片上伸に師事する。 1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 19… 林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 1935年12月20日)は日本の実業家・新聞記者。本名:林 茂(はやし しげる、旧姓:板井)。十勝毎日新聞の創業者として知られる。 大分県臼杵にて板井増次・コトの次男として生まれる。海外への憧れを抱いて海軍・陸軍士官学校を受験するも慢性結膜炎の既往症があり不合格、軍人以外での海外渡航の道を模索して東京の英語学校へ入学し英語学習に打ち込む。 1908年に板井家と同じく臼杵の名家である林家の長女・林波津女と養子縁組をし、林家の援助で中央大学法科へ進学。当初北海道帯広へ移住した林家の家業を継ぐことに戸惑いを感じるも「十勝の開発に身を投じる事が海外移住に勝る使命」と考えを変え、1910年に大学を中退し波津女と義父が住む帯広へ移住。
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月… 奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日)は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。
天谷 丑之助(あまがい うしのすけ、1888年〈明治21年〉… 天谷 丑之助(あまがい うしのすけ、1888年〈明治21年〉2月18日 - 1974年〈昭和49年〉7月15日)は、日本の政治家。茨城県土浦市長(3期)。位階は正五位。勲四等旭日小綬章。 茨城県出身。旧制土浦中学校(現・茨城県立土浦第一高等学校・附属中学校)を経て、1909年に早稲田大学商学部を卒業する。1919年に茨城県会議員となり、この間、1927年から真鍋町長も務めた。1931年10月に第36代茨城県会議長となる。1935年10月に議長を退任する。1936年の第19回衆議院議員総選挙では原脩次郎の後継者として茨城3区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。 戦後の1947年、土浦市長選挙に立候補して当選した。
石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月… 石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月18日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 高知県土佐郡神田村(鴨田村大字神田を経て現高知市)で、石本正直、菊枝の長男として生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、9月に歩兵第1連隊留守隊長に就任した。1938年(昭和13年)に台湾歩兵第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級し、留守第11師団司令部附となった。 同年10月に第40歩兵団長に転じ、日中戦争に出動。宜昌作戦に参加した。1940年(昭和15年)に第4歩兵団長に転じ、1941年(昭和16年)に第62独立歩兵団長を経て、1943年(昭和18年)に釜山要塞司令官兼釜山陸軍軍需輸送統制部長に就任した。
市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月1… 市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月18日 - 1970年(昭和45年)3月17日)は、日本の英語学者・随筆家。学位は、文学博士。東京大学名誉教授、日本学士院会員、語学教育研究所所長。号は清庵。日本人としては初となる東京帝国大学英文科の教授となり、日本の英語学の礎を築いた。 英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられていた。 1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。
松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18… 松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18日 - 昭和10年(1935年)9月11日)は、日本の経済学者。大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授在任中、死去した。 静岡県駿東郡楊原村村上香貫生まれ。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)を経て、1904年東京高等商業学校(現・一橋大学)予科入学。1910年同校専攻科卒業。關一に師事。 同年大阪高等商業学校(現・大阪公立大学)講師。1917年同校教授。1920年叙正七位。1922年叙従六位。1928年叙従五位。1929年大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授兼同大学高等商業部教授兼務。1930年同大学評議員併任。 1932年叙正五位、商学博士。
石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 195… 石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 1953年5月27日)は、日本の技術者、実業家、工学博士。日本カーボン創立者・初代代表取締役社長。電気化学協会第11代会長。炭素協会初代会長。 長野県生まれ。1910年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科卒業。学科の1年先輩に冨山保(のちに初代横浜国立大学学長)がいた。同年設立された東京カーボン工業所に技師長として入り、電極の国産化に成功。1915年には原富太郎ら横浜財界の支援を得て独立して日本カーボンを設立。日本における安定的炭素工業企業の先駆けとなった。同社初代代表取締役社長。1930年工学博士(京都帝国大学)。1933年の電気化学協会創立に参画し、同協会関東支部長も務めた。
大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年… 大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年〉2月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。香川県丸亀市長。 1905年(明治38年)関西大学専門部法律学科を卒業し、大阪府属となる。1909年(明治42年)香川県属に転じ、1919年(大正8年)高松市助役職務管掌を経て、1920年(大正9年)高松市助役に就任し、爾来15年間勤続する。1934年(昭和9年)7月、助役を辞し、同月25日に丸亀市長に当選した。
飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月1… 飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月18日 - 1977年(昭和52年)9月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県刈羽郡山横沢村(小国村、小国町を経て現長岡市)出身。山横沢村長・飯田貞一の長男として生れる。組合立小国高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となる。騎兵第22連隊付などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年(大正2年)12月、参謀本部付勤務となり、独立第18師団副官として青島の戦いに参加。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀に就任。
高島 基江(たかしま もとえ、1882年2月18日 - 19… 高島 基江(たかしま もとえ、1882年2月18日 - 1969年3月28日)は日本の実業家。東洋高圧工業社長、帝国燃料興業総裁、満州合成燃料理事長。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月1… 西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月18日 – 1956年(昭和31年)8月11日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 和歌山県東牟婁郡那智村(現在の那智勝浦町)で、西田業平の息子として生まれる。和歌山県立田辺中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。卒業後、海軍で経理官として勤務し、中主計(主計中尉)に任命されたが、間もなく官を辞した。その後、和歌山市で元代議士の阪本弥一郎とともに弁護士事務所を開いた。 その後、和歌山市会議員に当選し、1929年(昭和3年)から1931年(昭和6年)まで議長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
石倉 俊寛(いしくら しゅんかん、1880年(明治13年)2… 石倉 俊寛(いしくら しゅんかん、1880年(明治13年)2月18日 - 1975年(昭和50年)3月20日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家。大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍主計少将。島根県松江市長。旧姓は青戸。 青戸林平の三男として島根県に生まれ、石倉益蔵の養子となる。島根県第一尋常中学校(島根県立松江北高等学校の前身)、和仏法律学校(現・法政大学)を経て、1901年(明治34年)12月に海軍主計候補生となった。呉経理部第一課長を経て、1926年(大正15年)12月、軍令部出仕と共に海軍主計少将に進み、翌年の1927年(昭和2年)3月、待命し翌月予備役編入となった。雷型駆逐艦「朧」乗組として日露戦争に出征し、日本海海戦では「出雲」乗組として参戦した。
浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月… 浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月18日 - 1950年(昭和25年)12月31日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、治水家、実業家。千葉県多額納税者。市川町名誉町長、葛飾瓦斯専務取締役、耕地整理組合長、東葛飾郡農会長、市川市農会長などを務めた。 先代・浮谷権兵衛(本楽)とヨシの長男善次郎として千葉県葛飾郡市川新田(現・市川市)に生まれ、17代権兵衛を襲名する。浮谷家は農業を営み、当主は権兵衛を名乗り、父は市川町長を務めたことがあった。錦城中学校、明治法律学校を卒業後、東葛飾郡市川町会議員、同郡会議員を歴任。1905年(明治38年)千葉県真間川周辺の水害を防ぐため土地改良事業を提唱する。
佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878年〈明治1… 佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878年〈明治11年〉2月18日 - 1951年〈昭和26年〉8月18日)は、新潮社の創立者。雑誌「新潮」を発行した。哲学館(現在の東洋大学)を卒業。筆名に橘香、妖堂、浩堂など。 1878年(明治11年)に秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)に佐藤為吉、とく夫妻の四男として生まれる。両親は荒物屋を営み、彼の幼名は儀助であった。父親の為吉は商人には珍しく読書好きな人物で、熱心な仏教徒だった。義亮は1883年(明治16年)小学校に入学、優等生で二段進級を許された年もあった。14歳で角館高等小学校を卒業すると奉公に出されることになっていたが、向学心に燃える義亮は進学の許しを父に幾度と無く請い、為吉は仕方なく官費の師範学校ならばと進学を許可した。
男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - … 男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - 1943年12月1日)は、秋田県由利郡鳥海町(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋(入門時は秀ノ山部屋)に所属した大相撲力士。本名は三船 専造(みふね せんぞう)。得意手は左四つ、吊り、寄り。現役時代の体格は176cm、98kg。最高位は前頭12枚目(1908年1月場所・5月場所)。 元天津風雲右エ門の秀ノ山部屋に入門し、1900年5月場所初土俵。1905年5月場所新十両。十両昇進まで負け越しは1場所だけで「太刀山の再来」と評された。1908年1月場所新入幕。幕内は4場所だけと目立った活躍はなかった。その後は十両と幕下を前後しながら次第に陥落していった。
瀬之口 傳九郎(せのくち でんくろう、瀬之口 伝九郎とも、1… 瀬之口 傳九郎(せのくち でんくろう、瀬之口 伝九郎とも、1876年〈明治9年〉2月18日- 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、日本の考古学者・宮崎県職員。宮崎県出身。 現在宮崎県都城市となっている同県北諸県郡山田町に生まれる。宮崎県尋常師範学校を卒業し、小中学校の教師を務めたが、並行して宮崎県内の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)や史跡の保護に参画し、1932年(昭和7年)から宮崎県庁に「史蹟主事」として勤務。県内の遺跡の保護活動に尽力した。そのほか、宮崎県域から九州南部にかけての遺跡について多くの調査に参加し、同地域の歴史・考古分野の論文・著書を多数発表した。 1941年(昭和16年)の宮崎県児湯郡新富町における旧日本陸軍飛行場(現在の航空自衛隊・新田原基地)建設に際しては、一部が破壊されることになった新田原古墳群石船支群の緊急発掘調査を実施し、対象となった古墳を移築するなどの手段で遺跡保護に努めた。
河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月… 河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月18日 - 1959年(昭和34年)6月27日)は、日本の政治家・実業家。号は嘯月、三江。子に河西俊夫。息子の岳母の兄は貴族院議員 小林八右衛門。弟の岳父は貴族院議員 市川文蔵。 山梨県巨摩郡十日市場村(現・南アルプス市十日市場)に生まれる。十日市場村は近世から毎年2月には市立が行われ各地から商人が集った地で、河西家も十日市場村の「山久」の屋号を称する有力商家で、長百姓として村政にも携わっている。父は河西家当主の兵一郎。豊太郎は次男であるが長男は豊太郎出生の前年に死去しており、豊太郎は長男として育てられた。 幼少期に父の兵一郎は死去し、豊太郎は三恵小学校、東八代郡南八代村(現・笛吹市八代町南)の加賀美平八郎の私塾成器社に学ぶ。
原岡 永江(はらおか ながえ、1873年〈明治6年〉2月18… 原岡 永江(はらおか ながえ、1873年〈明治6年〉2月18日 - 1945年〈昭和20年〉4月11日)は、日本の実業家、政治家、香川県の大地主。衆議院議員(当選1回)。族籍は香川県平民。 香川県綾歌郡富熊村(現・丸亀市綾歌町富熊)出身。素封家・原岡勇次郎の長男。農業を営む。香川県会議員、同参事会員、富熊村農業会長、宇多津塩田社長となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において香川県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員は1期務め、1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1934年に私財を投じて富熊小学校に大講堂を建築して寄贈した。1945年4月11日に死去した。
井上 幾太郎(いのうえ いくたろう、 1872年2月18日(… 井上 幾太郎(いのうえ いくたろう、 1872年2月18日(明治5年1月10日) - 1965年5月7日)は、日本の陸軍軍人。初代陸軍航空部本部長、帝国在郷軍人会会長。陸士4期・陸大14期。最終階級は陸軍大将。 山口県厚狭郡芦河内村(万倉村、楠町を経て現宇部市芦河内)出身。井上清蔵(農業)の二男。山口町開導学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)を卒業し、工兵第5大隊附。工兵第5大隊長・上原勇作工兵少佐(後に元帥陸軍大将)の知遇を得る。1894年(明治27年)3月、陸軍工兵少尉に任官。日清戦争に出征し、釜山 ー 京城の電信線敷設に従事した後、鴨緑江渡河作戦に参加。1895年11月に陸軍砲工学校に入校し、要塞戦術への関心を高める。
須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年… 須藤 憲三(すとう けんぞう、明治5年1月10日(1872年2月18日) - 昭和9年(1934年)1月7日)は、日本の医師、医学者、医学博士、旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立し、1923年に栄養部長に大橋タカ子を登用している。日本の脚気史に於いては、臨時脚気病調査会委員を務めたことで知られる。 「栄養」の提唱者でもある。「森鷗外、尾崎行雄などの支持を得て「栄養」に改めた」との説もある。 羽前国置賜郡赤湯村(現山形県南陽市の赤湯温泉)の町人宿「あぶらや」の主人富右ヱ門(一真)と母いわの長男として生を受ける。
三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年… 三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年1月18日)- 1936年(昭和11年)11月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。 愛知県碧海郡刈谷町大字熊字元屋敷(現在の刈谷市)出身。材木商の三浦桂助の長男。いったんは三浦家の家業を継ぎ、1887年(明治20年)頃に家業を整理して上京。日本橋にある株屋の社員となり、株式仲買店を経営して財を成した。1909年(明治42年)9月5日には第10回衆議院議員総選挙の補欠選挙に出馬して当選。1913年(大正2年)1月には第11回衆議院議員総選挙に出馬して2選。三浦は豊田自動織機の工場を刈谷町に誘致するなどした。 1910年(明治43年)には三浦と才賀藤吉が主たる発起者となり、碧海軽便鉄道会社(軌間762mmで動力蒸気による鉄道)を設立。
堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年… 内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年1月25日)- 1965年(昭和40年)10月4日 )は、日本の裁判官、海軍法務官、政治家。最終階級は海軍法務中将。貴族院議員。旧姓は平井。山口県出身 長門国豊浦郡、のちの山口県豊浦郡内日村(現下関市 )で、清末藩士・平井貢蔵の二男として生まれ、1892年(明治25年)11月、下関市清末の内田護の養子となった。 関西法律学校(後の関西大学)、和仏法律学校(後の法政大学)卒業後、1890年(明治23年)12月、文官高等試験に合格。1891年(明治24年)1月、司法官試補に任官し千葉地方裁判所詰となる。以後、千葉区裁判所検事、弘前区裁判所判事、栃木区裁判所判事、前橋区裁判所判事を歴任。
笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応… 笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応3年1月14日〉 - 1911年〈明治44年〉6月12日)は日本の牧師、教育者である。 津軽(弘前)藩士の家に生まれ、1885年(明治18年)に東奥義塾を卒業し、1885年8月に本多庸一より洗礼を受ける。同年9月からアメリカに渡り、デポー大学で学び哲学博士号を取得する。 1893年(明治26年)に帰国し、1894年(明治27年)より長崎市の出島メソジスト教会牧師に就任する。 そして、鎮西学館(のちの鎮西学院)の哲学講師を務めた。1904年(明治37年)鎮西学館の副館長になる。 そして、1906年(明治39年)日本人初の鎮西学館の館長に就任する。
中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(… 中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(慶応2年1月4日) - 1944年(昭和19年)10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。 官僚 教育者 実業家
荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、慶応2年1月4日〈18… 荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、慶応2年1月4日〈1866年2月18日〉- 1935年〈昭和10年〉12月23日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、群馬県邑楽郡三野谷村長。旧姓・島田。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 下野国足利郡村上村(栃木県足利郡村上村、吾妻村を経て現佐野市村上町)で島田次郎次の三男として生れ、群馬県邑楽郡三野谷村上三林(現館林市上三林)の豪農・荒川家の養子となる。漢学、国学を修めた。 1889年(明治22年)三野谷村収入役に就任。以後、三野谷村会議員、学務委員などを務めた。1896年(明治29年)群馬県会議員に選出され、1907年(明治40年)9月まで在任。
堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月1… 堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月18日) - 昭和21年(1946年)6月22日)は、日本の内務官僚、甲府市長。 富山県出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業。北海道庁属、拓殖務省参事官、内務省事務官・参事官、島根県書記官、同事務官、東京府事務官、神奈川県事務官を歴任し、1914年(大正3年)に樺太庁内務部長に就任した。退官後、中央生命保険相互会社取締役となった。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで甲府市長を務めた。
荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2… 荘 清次郎(しょう せいじろう、1862年2月18日(文久2年1月20日) - 1926年(昭和元年)12月25日)は、日本の実業家。三菱合資会社専務理事。族籍は東京府士族。 肥前大村藩士・荘新右衛門の長男。若年にして東京に出て、一ッ橋英語学校に学び、後大学予備門に入る。1885年、東京大学卒業、法学士の称号を得る。1886年、米国に渡航し、エール大学に入り、1887年にマスター・オブ・ローの学位を受く。米国諸州を巡遊する。欧州に渡り実業を視察して帰朝、直に三菱会社に入る。 1892年、大阪に第百十九国立銀行の支店を設置されるとその支配人に挙げられ、1895年、三菱会社の神戸支店設置と共にその支店長に転じ、1900年、同社庶務部長となる。
多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年… 多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年1月20日〉- 1943年〈昭和18年〉7月2日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長(校長)、日本聖公会の聖職者・司祭。立教大学が築地から池袋に移転する際には、会計責任者として押川方義(東北学院創設者、前・東北学院院長)とともに校地の購入交渉を行った。 現在の大阪府岸和田市で生まれた。1883年(明治16年)に米国聖公会のテオドシウス・ティングより受洗し、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)でティングの薫陶を受け、1887年(明治20年)より、関西を中心として伝道師・牧師として働く。 1892年(明治25年)、大阪の川口居留地で米国聖公会が運営する照暗女学校(St.Agnes' School)を京都に移転することが決定し、京都府より「私立照暗女学校」の設立認可を受ける。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。
小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月1… 小田 亮(おだ りょう、安政7年1月27日(1860年2月18日) - 1932年(昭和7年)9月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。旧姓・津田、号は怡山。 安芸国高田郡本村(広島県高田郡本村、美土里町を経て現安芸高田市)出身。津田家に生まれ、小田家の養子となった。1883年(明治16年)、広島県医学校(のち、広島医学専門学校→広島医科大学、現在の広島大学医学部)を卒業し、翌年に内務省医師試験に合格して開業した。小田家は有間屋という売薬業を営んでおり、その経営にもあたった。山県郡医会会長、同私立衛生会会長、同市立教育会長を歴任。1893年(明治26年)、広島県会議員に選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。