本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 198… 本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 1984年7月1日)は、日本の植物学者。東京大学名誉教授。昭和天皇の植物研究の相手も務め、伊豆や那須に同行した。熊本県熊本市出身。 1897年(明治30年)1月20日、熊本県熊本市に生まれた。熊本県立熊本中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)5月に東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、同時に東京帝国大学助手に任じられた。 1931年(昭和6年)3月に博士(理学)の学位を授与され、1934年(昭和9年)4月に東京帝国大学助教授に就任した。1940年(昭和15年)7月には史蹟名勝天然紀念物調査会臨時委員となり、1942年(昭和17年)9月には史蹟名勝天然紀念物調査会委員となった。
桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年1月20日 - 1… 桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年1月20日 - 1980年3月25日)は、日本の小説家。並木宋之介の筆名も持つ。
幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 193… 幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 1933年6月17日)は、日本の英文学者。 島根県浜田市顕正寺生まれ。1920年早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遙、島村抱月の指導を受ける。のち千葉師範学校で5年間教え、辞任後は雑誌「文芸研究」(1928)「イギリス文学」(バイロン社、1929)「日本女性」を編集した。
久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月2… 久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月20日 - 1983年(昭和58年)7月29日)は、日本の政治家、実業家。愛知県常滑市長(5期)、西浦町長、西浦町議会議員、常滑市名誉市民。 愛知県常滑市出身。1911年(明治44年)、西浦町立第一尋常高等小学校卒業。西浦町議会議員、西浦町長、常滑市参与、常滑市助役などの公職を歴任した。 1959年(昭和34年)常滑市長に初当選。1979年(昭和54年)まで5期20年にわたり市政を担った。 市長在職中、老朽校舎解消のため4中学校、8小学校のすべてを鉄筋構造に改築し、さらに屋内運動場やプールも積極的に建設した。1968年(昭和43年)9月に愛知県陶磁器試験場(現在の「あいち産業科学技術総合センター 産業技術センター 常滑窯業試験場」)を移転新築、1970年(昭和45年)に常滑市陶磁器会館を建設し、業界の振興と発展に大きく寄与した。
平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20… 平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20日 - 1964年(昭和39年)4月19日)は、山梨県出身の登山家、郷土史家。 山梨県北巨摩郡穂坂村(現・韮崎市)に、父「延富」、母「ふで」の長男として生まれる。1909年(明治42年)4月に山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが1911年(明治44年)3月に中退し同年4月に東京の目白中学校に転入。同校卒業後の1914年(大正3年)に早稲田大学政治経済学科に入学し1917年(大正6年)に卒業とともに帰郷。 1921年(大正10年)に穂坂村村会議員に当選、また北巨摩郡農会議員を務めるなど村治や新興産業発展につくし、特に地域の開発に熱心で広く各地の山野を跋歩し、未知の景勝、山岳などを調査研究し、甲斐山岳会の設立を提唱して実現。
実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月2… 実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月20日 - 1962年(昭和37年)2月15日)は、日本の独文学者、翻訳家。 1895年に実吉安純の六男として東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、水戸高等学校(旧制)、府立高等学校などで教師生活を経て、1949年旧・東京都立大学教授となる。後に桐朋学園大学教授、立正大学教授。トーマス・マンなど近代ドイツ文学の紹介で貢献的な役割を果たした。 一時期は伯爵・日野資秀の三女と結婚し、婚姓から「日野 捷郎」という名前で著作活動をした。義兄日野資謙の死去に伴い、1925年6月1日に伯爵を襲爵するも、1931年2月27日に隠居し、同年4月10日に離婚したため復姓した。
西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27… 西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1982年〈昭和57年〉6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。位階は正四位。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。
一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月2… 一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1938年(昭和13年)10月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。旧姓・西。 東京府出身。西大助の二男として生まれ、1897年に一戸氏を再興。第一高等学校を卒業。1917年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省し農商務属となる。 以後、臨時産業調査局事務官兼農商務大臣秘書官、製鐵所副参事、農商務事務官、同書記官、内務省社会局事務官、同書記官、台湾総督府事務官兼同秘書官、岐阜県書記官・学務部長、内務省社会局書記官・労働部労政課長などを歴任。 1932年6月、愛媛県知事に就任。
高木 正得(たかぎ まさなり、1894年〈明治27年〉1月2… 高木 正得(たかぎ まさなり、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1948年〈昭和23年〉11月5日[矛盾 ⇔ 高木正得])は、日本の昆虫学者、華族。爵位は子爵。貴族院子爵議員。次女は崇仁親王妃百合子。 旧河内丹南藩の最後の藩主・高木正善の子として生まれる。1920年(大正9年)2月、父・正善の死去により、家督を相続し、子爵となる。1922年(大正11年)、東京帝国大学理学部動物学科を卒業する。その後、東京帝国大学大学院で昆虫学、寄生虫学を専攻。1932年(昭和7年)4月7日、補欠選挙で貴族院議員に当選し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職、この間司法参与官も歴任。公務の傍ら、チョウやカミキリムシを研究した。
国井 善弥(國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日… 国井 善弥(國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日 - 1966年8月17日)は、昭和の日本の武術家。鹿島神流第十八代宗家。福島県いわき市常磐関船町宿内出身。本名は道之。昭和の今武蔵と呼ばれた。 祖父の16代国井新作、父の17代国井英三により、幼少期から家伝の鹿島神流(鹿島神伝直心影流)を教わる。父の命で19歳で外に出て佐々木正之進から新陰流剣術、栖原邦泰から馬庭念流剣術、妙道流柔術を師事。鹿島神流を大成させる。 その後、第1次世界大戦に徴兵され、卓越した武術が軍内で評判となり、陸軍戸山学校の教官に任じられる。中山博道らと共に古流武術を組み直し、戸山流片手軍刀術を開発。成果を上げたことにより校庭に本人の銅像が建立された。
芦乃家 雁玉(あしのや がんぎょく、1894年1月20日 -… 芦乃家 雁玉(あしのや がんぎょく、1894年1月20日 - 1960年12月30日)は、漫才師。本名: 三井 寒三郎。難波新地の生まれ。享年66。愛称は風貌から「タコ壺」、または「雁さん」。 「雁玉」「雁」という字は尊敬する歌舞伎役者の二代目實川延若の替紋の五つ雁金に由来。 幼少から芸事が好きであった。俄役者の東明幸三郎を兄に持つ。袋物商に奉公しながら、勝手に春の家雁玉を名乗り天狗連で活躍する。1916年頃に晩年の笑福亭吉右衛門(当時は5代目笑福亭吾竹)に見出され弟子に迎え入れられ落語や音曲の修業を積む。1917年頃に雁玉と名乗り独立。 その後、玉子家春夫と名乗り軽口に転向、安来節、万歳の一座に入る。
金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日… 金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日 - 1974年(昭和49年)5月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸士27期次席。最終階級は陸軍少将。功四級。 1894年(明治27年)に長野県塩尻市で生まれた。名古屋陸軍幼年学校台賜、中央幼年学校および陸軍士官学校第27期をいずれも恩賜で卒業。原隊は工兵第18大隊。陸軍砲工学校高等科卒業後、兵器局、整備局勤務を経て、1939年(昭和14年)3月9日に工兵第3連隊長(第11軍・第3師団)に就任し、8月1日に陸軍工兵大佐に進級した。日中戦争に出動し、冀東作戦、宜昌作戦、漢水作戦などを連戦した。1941年(昭和16年)3月に陸軍築城部部員に転じた。
大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 19… 大野 正直(おおの まさなお、1893年1月20日 - 1951年10月20日)は、日本の大正から昭和前期にかけて活動した弁護士。 愛知県海部郡佐屋村(現在の愛西市)出身。愛知県第三中学校(現在の県立津島高校)を経て日本大学に入学し、1920年(大正9年)に弁護士試験合格、岡崎正也法律事務所に3年間在籍ののち帰郷し、1923年(大正12年)に名古屋市で個人事務所を開設する。 以降、名古屋市会議員を務めるなど中京圏の法曹界における重鎮とされ、スポーツ全般への造詣の深さから1936年(昭和11年)に新愛知新聞社が結成した職業野球チームの名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)設立に当たっては社外から会長として迎えられた。
南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - … 南 洋一郎(みなみ よういちろう、1893年1月20日 - 1980年7月14日)は、日本の児童文学・冒険小説・ノンフィクション作家、翻訳家。教員としては東京府東京市牛込区余丁町尋常小学校などで訓導を務めた。 東京府西多摩郡東秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。本名は池田宜政(いけだ よしまさ)。南洋一郎以外にも荻江信正(おぎえ のぶまさ)などの筆名や本名を用い、数々の著作を発表した。 東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒業。1915年にカトリックの洗礼を受ける。 12歳で父を亡くし、高等小学校卒業後、学校からの紹介で小石川の商家に住み込み奉公へ出る。働く合間に独学で学んでいたが、約1年で体調を崩してしまい、帰郷する。
原 惣兵衛(はら そうべえ、1891年(明治24年)1月20… 原 惣兵衛(はら そうべえ、1891年(明治24年)1月20日 - 1950年(昭和25年)1月30日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、姫路市長。 兵庫県赤穂郡上郡村(現上郡町)出身。父親の事業の失敗により1902年(明治35年)に大阪へ転居する。1912年(大正元年)6月、大阪の陸軍第4師団輜重兵第4大隊に入隊。在営満期で除隊。 1919年(大正8年)、日本大学専門部法律科を卒業。1920年(大正9年)に弁護士試験に合格し、東京弁護士会に所属した。1921年から1923年にかけて日本大学の海外留学生としてベルリン大学とミュンヘン大学に留学し法学・国家学を学んだ。在独中は在独日本人会常任理事を務めた。
小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)… 小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)1月20日 - 1986年(昭和61年)2月26日)は、大正から昭和期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市で、小林市之助の四男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学政治経済学科を卒業した。 大阪現株取引(株)支配人、大阪市福島商業学校講師、逓信省海運事業調査嘱託などを務め、下岡忠治が朝鮮総督府政務総監に就任した際に随行して同秘書(朝鮮総督府嘱託)となった。その他、神戸電機製作所監査役、石産製作所監査役、日本輸出農産物(株)設立委員なども務めた。 1937(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。
田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20… 田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20日 - 1977年(昭和52年)6月28日)は、日本の海軍軍人。海兵39期次席・海大23期首席。最終階級は海軍中将。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)出身。岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業後に第一高等学校に進んだが中退し、海軍兵学校に入校した(兵39期)。入校席次は11位/150名、卒業席次は次席/149名で恩賜の短剣を拝受。 田結は艦船勤務を経てイギリス駐在となるが、主要国への駐在任務は海軍大学校甲種学生を卒業後に行われるのが慣例で、井上成美などの例はあるものの、異例の人事であった。 帰国後、海大23期を首席/22名で卒業して恩賜の軍刀を拝受。
山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 19… 山田 霊林(やまだ れいりん、1889年1月20日 - 1979年7月15日)は、曹洞宗の僧侶・禅思想家。駒澤大学総長を務めた。 岐阜県高山市天性寺町生まれ。別名号・鷲峰霊林、仏真宏照禅師。1915年曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。曹洞宗宗学研究生、1918年 - 1925年總持寺宗学研究員。雑誌『禅の生活』の編集主幹となり、講話やラジオ放送に活躍した。1926年世田谷中学校教頭、1938年校長、1941年駒澤大学学監、1942年同大教授、1953年曹洞宗宗学研究所副所長、1960年北米開教総監、1961年「道元禅の基本的性格とその正修行」で駒澤大学文学博士、1964年駒大総長に就任。1968年永平寺副貫首、1975年永平寺75世貫首となる。
三須 精一(みす せいいち、1889年(明治22年)1月20… 三須 精一(みす せいいち、1889年(明治22年)1月20日 - 1948年(昭和23年)12月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍滋賀県。海軍士官・三須宗太郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)1月30日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業して千葉県立高等園芸学校(千葉高等園芸学校)に進学、1916年(大正5年)卒業した。1918年(大正7年)関東庁嘱託となる。以後、内外農事取締役、日本輸出農産物設立委員などを務めた。 1928年(昭和3年)1月26日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
山口 義一(やまぐち ぎいち、1888年(明治21年)1月2… 山口 義一(やまぐち ぎいち、1888年(明治21年)1月20日 - 1935年(昭和10年)4月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 大阪府堺市出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1917年(大正6年)、堺市長選挙に推されたが、市会での得票数が対立候補の斎藤研一と同数だったため、年下の山口が譲らざるを得なかった。 その後、京都帝国大学大学院で社会政策を学んだが、1919年(大正8年)に退学。翌年の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回当選を重ねた。普通選挙や貴族院改革を主張した。田中義一内閣で大蔵参与官に就任した後、政友会幹事長を務めた。 また堺スコップ株式会社、坂自転車株式会社の役員も務めた。
田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 19… 田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 1986年1月9日)は日本の実業家。三菱商事の社長・会長、三菱本社の社長を務めた。 新潟県佐渡郡相川町(現:佐渡市相川)出身。儒学者、佐渡奉行所地役人の田中葵園は祖父。 1908年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。1940年三菱商事会長、1943年三菱商事社長。 占領軍指令により追放された岩崎小弥太前社長の後継として、1945年に三菱本社に社長就任し、財閥解体による三菱本社清算まで、最後の社長を務めた。 1954年には旧三菱商事の後継会社である光和産業と東京貿易、不二貿易の大合同を実現。 1986年葉山町の自宅で死去、享年99。
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひで… 尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。 鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎合併症、湿性咽喉カタル。 種田と並ぶ「自由律俳句の雄」。活動の場を荻原の主宰する『層雲』に求め、僧形に身をやつし、貧窮のうちに病没した点でも共通している。 一高俳句会に属し、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)在学中も『ホトトギス』や『國民新聞』に投句していたが、いずれも定型律で、ほどなく句作からも離れた。
下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1… 下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年(明治18年)1月20日 - 1966年(昭和41年)4月25日)は、日本の政治家、内務官僚、統計学および社会学者。経済学博士。貴族院議員、参議院議員、吉田茂内閣の文部大臣を歴任した。
鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1… 鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1970年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
田崎 信蔵(たざき しんぞう、1885年〈明治18年〉1月2… 田崎 信蔵(たざき しんぞう、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1942年〈昭和17年〉4月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府若江郡、のちの中河内郡八尾村(八尾町を経て現八尾市)出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。卒業後は法政大学で学んだ。京都商工信用組合常務理事、(株)小川合金製作所取締役、京都建築工匠組合長、京都勧業無尽(株)取締役となり、京都市会議員、同副議長となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において京都2区から革新倶楽部公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では京都1区から革新党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。
松井 貞太郎(まつい ていたろう、1884年(明治17年)1… 松井 貞太郎(まつい ていたろう、1884年(明治17年)1月20日 - 1952年(昭和27年)9月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。奈良県奈良市長。貴族院多額納税者議員。 奈良市出身。松井元淳の長男として生まれる。奈良県立五條中学校(現・奈良県立五條高等学校)、第四高等学校(現・金沢大学)大学予科第一部を経て、京都帝国大学法科に入学するが中途退学する。 製墨業を営み、1921年(大正10年)10月に奈良製墨同業組合長に就任。ついで産業銀行監査役などを経て、1927年(昭和2年)2月に奈良市町総代協会長に当選。さらに同年4月に奈良市学務委員、6月に奈良実業協会総務委員長に推された。
都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964… 都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964年1月20日)は、日本の神学者、牧師、明治学院院長。 都留音平の息子として大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)に生まれる。長崎市のアメリカ・オランダ改革派教会系のミッションスクールの東山学院で学び、一致長崎教会で瀬川浅から洗礼を受ける。 明治学院高等部、神学部で学び井深梶之助、熊野雄七らの影響を受け、1907年に卒業する。スコットランドのオーボルン神学校に留学し、旧約学を学ぶ。1911年に帰国し、明治学院で旧約学を教えた。1913年、按手礼を受けて牧師になる。 1921年から4年間明治学院高等部長を兼任する。関東大震災の時に2名の朝鮮人学生をかくまう。
竜ヶ嵜 枩太郎(りゅうがさき まつたろう、1884年1月20… 竜ヶ嵜 枩太郎(りゅうがさき まつたろう、1884年1月20日 - 1947年2月19日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で阿武松部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は齋藤 松太郎。167cm、90kg。最高位は西小結。 紫雲竜吉之助に見出され入門した。1904年5月初土俵、1909年6月十両昇進。1910年1月入幕し、1913年5月小結に昇進した。ところがそれから不振に陥り、幕内中位から下位に沈み、1918年1月限り廃業。その後は満洲、朝鮮半島で料亭を経営。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)… 田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)1月20日 - 1974年(昭和49年)12月2日)は、大正時代から昭和時代の日本の銀行家、実業家。満州中央銀行や朝鮮銀行の総裁を務めた。 旧鹿島藩士で沖縄県学務課長や師範学校長、佐賀県藤津郡郡長などを務めた田中馨治の三男として佐賀県藤津郡高津原村(後に南鹿島村、現在は鹿島市高津原)に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学政治学科を卒業する。1909年(明治42年)に日本銀行に入行し、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけてロンドン代理店監督役付を務め、第一次世界大戦の賠償会議に委員として参加する。1929年(昭和4年)ロンドン代理店監督となる。
田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月2… 田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月20日 - 1962年(昭和37年)11月12日)は、日本の教育心理学者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した。 岡山県出身。心理学者として初めて文化功労者、紫綬褒章を受賞。勲二等旭日重光章。 1882年1月20日、岡山県赤磐郡で生まれる。岡山県師範学校、東京高等師範学校を卒業後、山梨県師範学校の教諭を3年ほど勤めるが、恩師の松本亦太郎が京都帝国大学に実験心理学の講座を開設したことを知り、同大学哲学科に入学する。1913年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。
牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1… 牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1961年6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。所属政党は立憲政友会→政友本党→立憲民政党→同交会。 現在の長崎県壱岐市出身。1906年早稲田大学政治経済科卒。朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞(英語版)社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任、1936年には列国議会同盟会議(開催国ハンガリー)に日本議員団の団長として参加した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。
平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1… 平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1950年12月10日)は、日本の裁判官。 広渡寺住職、飯能学校教員を務めた平山鳳琳の長男。母は飯能焼の絵付師腰塚小四郎の娘。埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)出身。飯能小学校高等科、麻布中学校、第一高等学校、東京帝国大学法科を経て、裁判官になった。 浦和地方裁判所判事、那覇地方裁判所長、横浜地方裁判所長、鳥取地方裁判所長、松江地方裁判所長などを勤めた。高等官一等正四位勲三等。69歳で死去した。
森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月20日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義活動家。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 岡山県後月郡高屋村(現:岡山県井原市高屋町)出身で、岡山県立農事講習所を卒業後に岡山県職員に採用される。ある日行われた会議の場で戦時国債の不買を呼びかける演説を行ったとして免官となり、1906年(明治39年)2月に日本社会党の結成に参加する。翌年にはジャーナリストの宮武外骨の支援によって「大阪平民新聞」を創刊して社会主義運動に加わるが、1909年(明治42年)に幸徳秋水ら同志と倫理観で意見が対立し、岡山に帰郷した。
木島 茂(きじま しげる、1880年〈明治13年〉1月20日… 木島 茂(きじま しげる、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月9日)は、日本の内務官僚。滋賀県彦根市長。広島県三原市長。彦根市名誉市民。 広島県豊田郡忠海町(現在の竹原市)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。翌年、高等文官試験に合格し朝鮮総督府事務官、新潟県北魚沼郡長、福島県耶麻郡長、高知県警察部長、長崎県警察部長、山梨県内務部長、警視庁書記官・警務部長、大阪府内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)に退官した後は弁護士を開業していたが、1937年(昭和12年)に初代彦根市長に選出され、1941年(昭和16年)まで務めた。 戦後の1946年(昭和21年)6月には三原市長に就任したが、11月に退任、間もなく公職追放となった。
尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月2… 尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1946年〈昭和21年〉10月1日)は、日本の法学者(専門は法制史)、明治文化研究者。学位は法学博士。大審院判事。号は雨花子。 1880年1月20日、石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現:明治大学法学部)に学び、1899年に卒業。同年、第1回判事検事登用試験に合格し、1924年、司法官試補。福井地方裁判所、東京控訴院・名古屋控訴院の判事を務める。1924年から1942年まで大審院判事。 判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。
宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)… 宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)1月20日 – 昭和38年(1963年)9月6日)は、大正・昭和期の経営者・財界人。日清紡績社長・会長、日本工業倶楽部理事長、東京市会議員。 栃木県安蘇郡飯田町(現・佐野市)に、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男として生まれる。宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)時代は舎監いじめなど問題行動が多く、灸を据えるためか、10ヶ月ほど休学して東京の商店に丁稚奉公させられたことがある。この時の経験が、後に働く者の立場を重視する姿勢を涵養したものと思われる。 第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1906年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、住友別子鉱業所(現・住友金属鉱山)に入社する。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 … 坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 - 1942年2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、高知県高岡郡宇佐村(現・土佐市)に生まれた。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1920年(大正9年)8月、陸軍兵器本廠付となり、1921年(大正10年)4月、歩兵大佐に昇進。同年7月、歩兵第55連隊長に就任。1922年(大正11年)8月、第8師団参謀長に転じ、教育総監部第1課長に移る。1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級し第3師団司令部付となる。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月… 渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月20日 - 昭和13年(1938年)7月20日)は、文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。 渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。
永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日… 永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日 - 1923年(大正12年)11月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、弁理士。 広島県甲奴郡階見村(現在の神石郡神石高原町)に永屋要平の二男として生まれる。広島県師範学校を卒業後、日本大学で法学を学び、1910年(明治43年)に卒業した。卒業後は東京で弁護士となり、花井卓蔵弁護士の補助を務めたこともある。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。 その他、日本人造絹糸株式会社監査役を務めた。
河津 暹(かわづ すすむ、1875年(明治8年)1月20日 … 河津 暹(かわづ すすむ、1875年(明治8年)1月20日 - 1943年(昭和18年)3月28日)は、日本の経済学者・社会政策学者。法学博士・東京帝国大学名誉教授。しばしば音読みで「せん」とも称される。 河津祐之の長男として東京府(現在の東京都)に生まれる。本家の伯父・河津祐賢の家督を継ぎ、旧制二高(現・東北大学)を経て1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)政治学科を首席で卒業(いわゆる第1回「銀時計組」)、東京帝国大学大学院(経済学専攻)に入学した。 翌1900年6月、欧州(イギリス・ドイツ)留学に出発し、留学中の1901年3月、東京帝大法科大学助教授に就任した。
近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月2… 近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月20日 - 1942年(昭和17年)6月8日)は、日本の実業家、衆議院議員。号は井堂。秋田県出身。小牧近江(翻訳家・社会運動家)、島田晋作(衆議院議員)は子。 秋田県南秋田郡一日市村(現八郎潟町)の生まれ。旧姓名は畠山留吉。16歳のとき、土崎港(現在の秋田市土崎港)の商人近江谷家の養子となる。最終学歴は、秋田中学校中退。1889年(明治22年)栄治(のちに栄次)の名を襲名すると、20代の青年にして地元経済の基盤作りに取り組み始める。 私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了。改修後の港は近江谷が招請した廣井勇にちなんで「廣井波止場」と名づけられたが、「近江谷波止場」とも呼ばれた。
田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年〈明治6年〉1月… 田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年〈明治6年〉1月20日 - 1935年〈昭和10年〉8月27日)は「天下の糸平」と呼ばれた相場師・田中平八の孫。英国ケンブリッジ大学に留学し、帰国後ラグビーを日本に伝えた。 生糸や洋銀の相場で巨額の富を得た田中平八。その長女・登羅(とら)と、婿であり糸平不動産や田中鉱山を興した田中菊次郎(北村菊次郎)の間に長男として生まれた。 当時の進学予備校であった神田淡路町の共立学校(現・開成中学)に一時在籍し、学習院尋常中等科(現・学習院中等科)へ入学。1887年(明治20年)に留学準備のため横浜のヴィクトリア・パブリックスクールに入学。ここで後に共にラグビーを日本に伝えるエドワード・B・クラークと出会う。
日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日… 日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日 - 1921年(大正10年)6月1日)は、日本の構造家、建築系構造工学者、京都帝国大学工学部教授。 専門は建築材料学・構造建築学・材料強弱学などで、鉄筋コンクリート建築の権威と呼ばれた。 福井県士族日比登の二男として生まれる。磯部尚は実弟である。明治18年、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学。明治30年、帝国大学工科大学土木科を卒業し工学士となり、京都帝国大学理工科大学助教授となる。 明治35年土木工学硏究のためドイツに留学、明治37年帰国し工学博士の学位を取得。大正3年7月京都帝国大学工学部工科大学教授。 京都大学旧工学部建築学教室本館(総合研究15号館)等の構造設計を手がける。
佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20… 佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20日 - 1951年(昭和26年)1月25日)は、日本の宗教家、真言宗の僧侶。真言宗総本山醍醐寺第九十六世座主、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、京都専門学校校長(現・種智院大学学長)。 (西院流(にしのいんりゅう) * 保寿院流・仁和御流・西院流を仁和三流と称す 《前座主大僧正惠眼大和尚嘆德文》 [昭和二十六年二月十四日、眞言宗醍醐派管長佐伯恵眼大僧正の本葬儀に讀まれたもの。(漢文) ] 夫れ以るに、佛教は實相の門なり、固より寂滅の樂あり。人間は爲の境なり、豈に常住の想を作さむや。 伏して惟れば、故の醍醐派管長・醍醐寺座主・三寶院門跡・大僧正惠眼大和尚は、早く二親の撫育を辭して、西國の密室に入る。
岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20… 岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20… 光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20日 - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の検察官、政治家。検事総長、貴族院議員。 佐賀県出身。1902年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し司法省に入る。司法省人事局長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長等を歴任し、1935年検事総長となる。1936年に(佐賀人が複数関与した)二・二六事件が起こった日に登庁せずに待合「梅乃井」に身を潜めたことについて東京区検・地検検事が検事総長弾劾に立ち上がり、少壮検事約50人が総長辞職を求める連判状が取りまとめられた。この影響もあり同年12月に退官した。 1939年貴族院議員。 1945年死去。
内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月2… 内田 司馬彦(うちだ しばひこ 1870年(明治3年)1月20日 – 1928年(昭和3年)12月29日)は、日本の裁判官。 1870年、熊本県山本郡山本村(現・熊本市北区植木町)にて出生。 明治法律学校卒業後、佐賀、名古屋、京都などの地方裁判所検事を経て、松江、福井、鹿児島の各地方裁判所検事正を歴任。後に大審院検事となる。 1928年、死去。59歳。
金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1… 金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1月20日〈慶応2年12月15日〉 - 1897年〈明治30年〉1月20日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ。アイヌ学校愛隣学校の教師。アイヌで最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物で、アイヌ初の伝道者である。 幌別アイヌの長老である金成喜蔵(アイヌ名:カンナリキ)の長男で、金成マツ(同名:イメカヌ)・ナミ(同名:ノカアンテ)姉妹の従兄で、知里幸恵・高央・真志保姉弟の従伯父である。 1877年(明治10年)5月に常盤小学校に入学し、ただ一人アイヌ生徒として教育を受けた。聖公会の宣教師のジョン・バチェラーにアイヌ語を教えていく中で、キリスト教に入信して、1885年(明治18年)にバチェラーより、アイヌとして最初の洗礼を受けた。