森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1… 森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1996年1月1日)は、日本の音楽評論家、文筆家、翻訳家。山口県、現在の宇部市出身。早稲田大学露文科中退。シベリウスの曲に感銘を受け、叙事詩『カレワラ』を約8年間かけて翻訳した。1937年、フィンランド政府より白バラ一等勲章を贈られる。1945年春、郷里に帰り、山口大学・山口芸術短期大学で美学・音楽史を教える。1970年、勲四等瑞宝章叙勲。妻は森本ヤス子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治2… 秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治28年〉3月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。 山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。 三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1… 山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1973年12月17日)は、日本のフランス文学者。早稲田大学などで教鞭を執りながら、多くの訳業を遺した。日本芸術院会員。 1894年(明治27年)、父通義、母テウの次男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷田町に生まれた。父は陸地測量部長を経て初代の陸軍砲工学校長を務めた陸軍工兵大佐であった。暁星小学校・同中学校を経て、1911年、東京外国語学校仏語科に進んだ。中学時代、永井荷風と上田敏の訳詩によりヴェルレーヌやボードレールを知り、原書を輸入して読み、また、作歌・詩作も試みた。 1915年(大正4年)、東京外国語学校を卒業し、家庭の事情で、希望の京都帝国大学文学部でなく、[要出典]法学部に入って、文学部上田敏教授の講義をその急逝までの1年余聴いて、直接の薫陶も受けた。
藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 19… 藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 1985年11月29日)は、日本の経済学者。大阪経済大学学長(第3代)、同理事長を歴任。大阪市立大学経済学博士、同名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。 大阪市立大学名誉教授で元大阪経済法科大学学長の藤田整は子息。 香川県三野郡本山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1921年京都帝国大学経済学部卒業、同大学院に進み河田嗣郎に師事。1922年より文部省在外研究員として欧州に留学。羽仁五郎、大学同窓の三木清らと同時期にドイツ・ハイデルベルク大学で学び交流をもった。 1924年彦根高等商業学校教授、1927年京都帝国大学農学部農林経済学科講師。
仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 19… 仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 1966年6月16日)は、日本の作家。本名、柴田オキツ。 長崎県南高来郡大三東村(後の有明町、現在の島原市)に生まれる。1907年長崎県立長崎高等女学校に入学し、三宅古城に和歌を学ぶ。卒業後すぐに結婚してしばらく京都に住んだ後、別府に移住。1925年詩人の北川冬彦と知り合い、東京へ出奔する。1929年『詩神』に「託児所風景」を発表して新進女流作家として注目される。1931年『磁場』創刊に参加し、宮本のりの筆名で「鎌」を発表する。翌年、『麵麭』創刊に参加し、筆名を仲町貞子とする。1936年小説『梅の花』を出版。その間北川と別れ、文芸評論家の井上良雄と結婚。
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 19… 小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年… 川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年〉3月22日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。土浦中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。陸軍歩兵学校勤務となる。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官に就任した。1937年(昭和12年)3月、陸軍通信学校教育部長に異動。同年9月、歩兵第6連隊長に戦死した前任者の後任として着任し日中戦争に出征。南京攻略戦、徐州会戦、武漢作戦に参加した。
柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月2… 柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月22日 - 1980年(昭和55年)1月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家。東京市出身。東洋音楽短期大学初代学長、前東京音楽大学理事長。 1891年(明治24年)東京市生まれ。麹町小学校、東京府立第四中学校を経て、1916年(大正5年)東京音楽学校 (旧制)卒業。1927年(昭和2年)、東京市の視学制度により視学官としてアメリカ合衆国の教育事情を視察するために渡米。1951年(昭和26年)から東洋音楽学校校長を務めた。その後、東洋音楽短期大学発足に伴い、同大学の初代学長に就任。東京音楽大学に改組されてからは理事長を務めた。この間、日本音楽文化協会理事や上野学園大学教授、早稲田大学講師、東京芸術大学同声会会長などを歴任。
古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22… 古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22日 - 1983年(昭和58年)6月7日)は日本の教育者。千葉県市川市の学校法人市川学園の創立者として知られる。 1891年、古賀米吉は福岡県三井郡(現在の小郡市)で生まれた。9歳のときに父が亡くなり、貧乏な母子家庭で育ったという。1915年に[要出典]福岡師範学校二部を卒業したが、経済的理由で上級学校に進めなかったという[要出典]。卒業後は小学校教諭となり、教師として働く傍らで学資を貯めていたという[要出典]。 27歳のときに上京し、1922年に[要出典]旧制東京外国語学校英語科(現在の東京外国語大学英文科)を卒業した。その後[いつ?]、府立四中(現在の都立戸山高校)の英語教師、主任として働きながら自身も進学し、1930年に39歳で東京帝国大学文学部社会学科を卒業したが、その後府立四中を退職した。
二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月2… 二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月22日 - 1909年(明治42年)8月18日)は、日本の伯爵。北白川宮能久親王の庶子で、後にその父子関係が確認されて華族に列せられた。旧姓は山本。 北白川宮能久親王の庶子として栃木県に生まれる。生母は側室の申橋カネ。申橋家は栃木県平民で、日光輪王寺宮元家司に申橋姓がある。 1891年(明治24年)、能久親王の信任が篤かった浅間牧場主事の黒岩有哉に密かに預けられ、群馬県吾妻郡長野原町で3年間を過ごしたのち、1894年(明治27年)から応桑村小学校(当時、現・長野原町立応桑小学校)に学んだ。当時は、快活で明朗大胆な性格だった。 1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。
小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 19… 小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 1959年12月22日)は、日本の実業家・運輸官僚。南海電気鉄道元社長・会長。 千葉県出身。東京帝国大学政治学部卒業後、1915年に鉄道院入りし、配車課長、貨物課長を歴任した後、1934年に退官。南海鉄道へ中途入社し、運輸部長、専務取締役を歴任した後、関西急行鉄道との合併で近畿日本鉄道副社長に就任。 1947年に南海電気鉄道発足に伴い社長に就任するが、南海野球(当時のプロ野球球団・南海ホークスの運営会社)会長となり、1950年に南海電鉄社長に復帰してその後は会長も歴任。南海会館をはじめ動物園・水族館・四国航路など関連事業に尽力し、太平洋野球連盟会長、新日本放送(現:毎日放送)監査役などを務めた。
山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年(明治21年)3月… 山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年(明治21年)3月22日 - 1962年(昭和37年)3月8日)は、日本の実業家で、世界初の小型ディーゼルエンジンを開発したヤンマー(現・ヤンマーホールディングス)創業者。 産業用エンジンメーカー大手のヤンマー創業者。1888年(明治21年)滋賀県出身。尋常高等科卒業後、1903年(明治36年)3円60銭を手に持ち奉公に出、1905年(明治38年)大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。1906年(明治39年)独立し、1912年(明治45年)中古ガスエンジンブローカー業を開業し、1921年(大正10年)農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。
小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月2… 小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。 明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、東京の神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で、日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。
中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月… 中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在する。 一部の作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれている。長調の曲はほとんどがヨナ抜き音階で書かれている。また、童謡には「兎のダンス」や「蛙(かはづ)の夜回り」のようなピョンコ節がかなりある。その作品群は独特の曲調から俗に「晋平節」と呼ばれ親しまれている。 長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了後、1903年(明治36年)に尋常高等小学校の代用教員となる。
吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)… 吉村 萬治郎(よしむら まんじろう、1886年(明治19年)3月22日 - 1969年(昭和44年)5月23日)は、古河合名会社(古河財閥)副総帥、古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、富士通信機製造(現在の富士通)創業者・初代社長。古河財閥創始者・古河市兵衛の大甥(兄弟姉妹の孫のこと)。 京都府生まれ。古河市兵衛の大甥であり、市兵衛の実兄(木村万治郎)の孫に当たる。父親は木村長兵衞。古河家親族の中川末吉らと共に財閥解体まで古河財閥の要職を歴任した。古河財閥総帥の古河虎之助は義兄(妻の兄)。
福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 19… 福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 1936年5月5日)は、福井県出身の詩人、小説家、翻訳家。本名は渙(きよし)。別号に冬浦。早稲田大学卒業。東京日日新聞、万朝報などの記者を務め、のち日本女子高等学院などで教職に就いた。南アジア研究者の福永正明は、大甥である。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月2… 南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月22日 - 1976年(昭和51年)1月26日)は、明治末から昭和期の林業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。 鹿児島県日置郡市来郷伊作田村(東市来村伊作田、東市来町伊作田を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業。早稲田大学を中退。 帰郷して父の鉱山業に従事。1930年(昭和5年)家督を相続。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任。1932年(昭和7年)東市来村長に就任。
松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)… 松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)3月22日 - 1961年(昭和36年)6月15日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員。 1884年(明治17年)3月22日、和歌山県伊都郡九度山村(現:九度山町)に松山常治・さわの長男として生まれる。奈良県立五条中学校、第三高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学土木工学科入学。在学中に日本組合基督教会霊南坂教会で洗礼を受けクリスチャンとなる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学土木工学科を卒業後に渡米し、橋梁設計などを学ぶ。日本に帰国したのち、1915年(大正4年)朝鮮に渡り、干拓・開墾事業に従事。南海拓殖株式会社や鮮満拓殖株式会社などを設立し、水田開拓事業で成功を収めた。
浦野 謙朗(うらの けんろう、1882年〈明治15年〉3月2… 浦野 謙朗(うらの けんろう、1882年〈明治15年〉3月22日 - 1964年〈昭和39年〉8月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県西加茂郡四郷村(上郷村、猿投村、猿投町を経て現豊田市四郷町)に浦野錠平の長男として生まれる。生家は浦野酒造場(後の浦野合資会社)を営む庄屋の浦野家。 1901年(明治34年)3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を卒業。同年12月、志願兵として歩兵第六聯隊に入隊。1902年(明治35年)11月、除隊。1904年(明治37年)6月、応召。陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍した。1905年(明治38年)6月、歩兵中尉に昇進し、その功により勲六等単光旭日章を受けた。
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月2… 小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に総理を辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。
藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月2… 藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月22日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、日本の実業家。アイザワ証券グループ創業者。 新潟県生まれ。1905年(明治38年)日本法律学校(現在の日本大学)卒業。出版会社・金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。 1933年(昭和8年)10月に藍澤商店(のちの藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うため、日本証券投資を設立し社長に就任する。 1947年(昭和22年)7月に日本証券取引所の解散を受け、証券会社の出資で平和不動産を設立されると初代社長に就き、1957年から61年まで東京証券取引所理事長を務める。
小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日… 小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。海南中学校を経て、1897年(明治30年)12月、海軍兵学校(25期)を卒業し、1899年(明治32年)2月、海軍少尉任官。日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。1909年(明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任。 1909年10月、「香取」航海長心得となり、呉鎮守府参謀兼望楼監督官、海軍省軍務局局員兼教育本部員(二部)、「出雲」副長心得を歴任。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3… 森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる。新治郎とちくの次男。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し、1898年(明治31年)に卒業した。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された。
福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4… 福島 藤助(ふくしま とうすけ、1871年3月22日(明治4年2月2日) - 1925年(大正14年)7月6日)は、青森県弘前市の醸造家、実業家。福島酒造会社(のちに福島醸造株式会社)、富名醸造株式会社、陸奥製糸株式会社、株式会社北日本農園、弘前印刷株式会社の創業者。 藤助が大工から酒造業に転業した1896年(明治29年)は、日清戦争後の好景気の波が青森県弘前市にも押し寄せているさなかであった。国の流れは軍備の強化へと向かい、同年9月に第8師団(日本軍)の弘前設置が正式に決定、翌年10月10日に師団司令部が設置された。廃藩によって沈滞していた弘前の経済界や市民は、これを大歓迎した。また、1894年(明治27年)12月1日には青森‐弘前間の鉄道が開通し、師団設置のための資材の輸送などに大いに貢献した。
落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明… 落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明治3年2月21日) - 1926年(大正15年)6月4日)は、明治期から大正期の日本の外交官。ポーツマス会議・パリ講和会議に随員として、またローザンヌ近東和平会議やローマでの移民国際会議には首席全権となるなど、重要な国際会議に日本を代表し出席した。奉天総領事館の総領事や、イタリア国特命全権大使等も歴任し、ローマからの帰国途上船中で病没した。 落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平と母といの長男として生まれた。父は京都で岩垣月洲に学んでおり、学友には坂下門外の変を起こした河本正安がいた。
荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869… 荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869年3月22日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、和歌山県生まれの浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者。日本のサンスクリット語研究、サンスクリット文献に基づいた仏教研究の先駆者であり、大成者である。 1869年(明治2年)、和歌山県に生まれ、当時浄土宗の重鎮であった荻原雲台の養子となる。1896年(明治29年)、浄土宗学本校(のち真言宗豊山・智山派、天台宗と合同し宗教大学を経て現・大正大学)を優秀な成績で卒業。1898年(明治31年)よりドイツのカイザー・ヴィルヘルム二世大学に留学、サンスクリット語研究の泰斗エルンスト・ロイマンに師事する。
上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年… 上田 兵吉(うえだ へいきち、1869年3月22日(明治2年2月10日) - 1931年(昭和6年)9月6日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。旧姓は杉崎。 歩兵第24旅団長、第17師団参謀長を歴任し、最終階級は陸軍少将従三位勲二等功四級男爵。義父は朝鮮駐剳軍司令官・台湾守備軍司令官を務めた上田有沢陸軍大将。 名東郡加茂村で、杉崎組蔵の三男として生まれる。徳島中学校を卒業し、陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月20日に第2期士官候補生として陸軍士官学校を卒業し、1892年(明治25年)3月21日、歩兵少尉に任官される。同期には菅野尚一大将・森岡守成大将・鈴木孝雄大将らがいる。
右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3… 右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3月22日) - 大正9年(1920年)1月11日)は大正時代の劇作家、歌舞伎狂言作者、小説家。 豊後国(現・大分県)臼杵に臼杵藩士の子に生まれる。右田年英の実弟。柳塢亭、矮亭主人と号す。明治10年代、11歳時には上京、三田英学校や漢学塾に学んだ後、高畠藍泉に師事する。めざまし新聞、都新聞において多くの戯曲の脚本、艶種(つやだね)や雑報などを執筆した。その後、東京朝日新聞に入社して主に小説を書いた。明治38年(1905年)には栗島狭衣らと文士劇の劇団、若葉会を結成する。明治42年(1909年)に帝国劇場が開場されるのに伴い、立作者となって多数の戯曲を執筆した。
南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年… 南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年2月25日)- 1931年(昭和6年)7月3日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家、華族(男爵)。官選群馬県知事、貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧名・烏丸千佳之二。 山城国京都烏丸通中立売(現京都市上京区)出身。公家・烏丸光徳の三男として生まれ、男爵・南部甕男の養子となり、1893年(明治26年)5月23日に南部に改姓の届出を行った。 1892年(明治25年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、内務省に入省し内務省試補・土木局勤務となる。 1893年11月、香川県参事官に就任。以後、第四回内国勧業博覧会事務委員、兼内務省第二課長、内務書記官・土木局勤務、土木局長事務取扱、同局治水課長などを歴任し、1903年(明治36年)1月、内務省土木局長に就任。
小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年… 小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年3月1日) - 1929年(昭和4年)2月26日)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国海軍の造船技師。海軍造船総監を務め、最終階級は海軍造船少将。 兄は画家の小山正太郎。 越後長岡藩士・小山良運の二男に生まれる。長岡洋学校を経て、工部大学校造船学科を1883年(明治16年)に卒業した。1884年、小野浜造船所に入り、[要出典]1888年に海軍大技士となる。1890年、呉鎮守府造船部製造科主幹となる[要出典]。1891年に従七位に叙せられる。 1896年に造船監督官となり、ドイツ帝国に留学して造船学を学ぶ。 1898年に正六位に叙せられた。
小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政… 小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政5年2月8日) - 1936年(昭和11年)2月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県遠敷郡松永村長。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の長男として生まれた。1894年(明治27年)家督を相続した。漢学、算術を修めた。 1876年(明治9年)敦賀県属となり地租改正を担当し、滋賀県でも担って1881年(明治14年)に退官。若狭国敦賀郡人民総代となり復県の誓願を行う。福井県属となり勧業事務を担当し、養蚕、製糸、羽二重製造を奨励した。1890年(明治23年)農商務省に転じて大日本蚕糸会の設立に尽力し、同会幹事を務め、1894年(明治27年)に退官した。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2… 神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。
加藤 杲(かとう あきら、1854年3月22日〈安政元年2月… 加藤 杲(かとう あきら、1854年3月22日〈安政元年2月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉9月20日)は、明治時代後期から昭和時代戦前の政治家。銀行家。和歌山県和歌山市長。旧姓は茨木、旧名は六之助。 和歌山城下出身。紀州藩家臣の茨木藤助の三男として生まれ、のち加藤仁左衛門の養子となる。1880年(明治13年)和歌山区書記となり、和歌山市収入役、助役を経て、1897年(明治30年)9月から1914年(大正3年)11月まで和歌山市長を務める。その間、1890年(明治23年)3月に和歌山県会議員に当選し、再選を経て1898年(明治31年)9月まで務めた。 財界では、1916年(大正5年)紀陽貯蓄銀行取締役となり、1920年(大正9年)頭取に就任。
谷村 計介(たにむら けいすけ、1853年3月22日(嘉永6… 谷村 計介(たにむら けいすけ、1853年3月22日(嘉永6年2月13日) - 1877年(明治10年)3月4日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は伍長。幼名は諸次郎。 嘉永6年(1853年)2月13日、日向国諸県郡倉岡村(現宮崎県宮崎市)の郷士坂本利右衛門、ウメの次男として生まれる。生後三カ月で母ウメが急死。しばらく近所の間でたらい回しにされたが、最終的に当時九歳だった姉のワサが親代わりとなり、一里も離れたところへ計介を抱いて「もらい乳」に出かけたり、重湯を飲ませたりして育てた。 4歳の時、谷村平兵衛の養子となるが、平兵衛は1821年(文政4年)に死亡していたため形のみの縁組であり、その後も実家で育てられた。
武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年… 武内 維積(たけうち いせき、1846年3月22日(弘化3年2月25日)- 1903年(明治36年)11月7日)は、明治期の日本の検察官、内務官僚。官選佐賀県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。幼名は検一郎。 播磨国揖西郡龍野(現兵庫県たつの市)出身。武内宇三郎の二男として生まれる。林田藩儒・河野鉄兜に学んだ。 1883年12月27日、検事に任官。その後、内務省に転じ、内務権少書記官、大阪府少書記官、同書記官、大分県書記官、愛媛県書記官、宮城県書記官などを歴任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第8区から出馬するが落選。 1897年4月、第2次松方内閣により佐賀県知事に任じられた。
桜井 昭悳(さくらい あきのり、1845年3月22日(弘化2… 桜井 昭悳(さくらい あきのり、1845年3月22日(弘化2年2月15日) - 1917年(大正6年)2月16日)は日本基督教会の牧師である。 神官宇都宮若狭の長男として、伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市若宮)に生まれる。神官になるのを嫌い、上京する。海軍に入隊し、海軍少尉に昇進する。 1872年に平野ちかと結婚する。妻の感化でキリスト教に入信する。1876年にディビッド・タムソンより洗礼を受ける。 海軍を辞め、北海道開拓使の御用船の船員になるが、北海道伝道のために献身し、日本基督教会の牧師になる。函館で開拓伝道を行った。 その頃、東京で桜井女学校を開いていた妻ちかが、函館女子師範学校の英語教師になり、共に伝道をする。
加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年… 加納 鉄哉(かのう てっさい、1845年3月22日〈弘化2年2月15日〉 - 1925年〈大正14年〉10月28日)は、幕末から明治時代に活動した彫刻家。本名は光太郎。 美濃国厚見郡岐阜(現・岐阜県岐阜市)に生まれ、幼少の頃から芸術に知識が深かった父より南画や彫刻等を学ぶ。1858年(安政5年)には禅寺に修行のため出家し、仏画や根付の制作に携わり鶴洲から彫刻を学んだ。明治維新直後の1868年(明治元年)に還俗し、尾張にて鉄筆画の技法について研究した後に上京しその技法を用いた絵画や彫刻の制作を行う。 1881年(明治14年)に開催された第2回内国勧業博覧会には鉄哉の作品が出品され、その後は日本および中国の古美術品の研究に携わった。
大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天… 大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天保11年2月19日〈1840年3月22日〉 - 1912年〈大正元年〉11月23日)は、幕末から明治初期の地方官僚。幕末の志士(彦根藩郷士)。姓は伊賀。字は厚龍、雅号に菱陀。幕臣・小栗忠順の処刑に関与したことで知られる。上野国岩鼻県知県事として強権を振るったことで「首切り龍太郎」の異名をとり恐れられたが、住民から罷免要求が出され半年で免職となった。 大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた。父の周倫は厚斎と号する医者で、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった。
熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(… 熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(天保3年2月20日) - 1902年(明治35年)8月3日)は、明治時代の政治家。実業家。養蚕家。衆議院議員。官選初代岐阜市長。岐阜県会議長。 美濃国恵那郡付知村(岐阜県恵那郡付知村、付知町を経て現中津川市付知町)で、製糸業・熊谷孫六の息子として生まれた。和漢学を学ぶ。 岐阜県会議員、同常置委員、同副議長、同議長を歴任した。また、近隣町村と合併して人口不足を解消し私財を投じるなどして岐阜市の市制を実現し、同市の初代市長に就任した。 実業家としては資金貸与、濃南各会社社長、岐阜米糸取引所理事長、東京硝子、日本運輸各取締役を務めた。ほか、蚕業試験場を設立し蚕糸改良に尽力した。
真名 杏樹(まな あんじゅ、3月22日 - )は、日本の女性… 真名 杏樹(まな あんじゅ、3月22日 - )は、日本の女性作詞家。東京都出身。 作曲家・船村徹の長女として東京に生まれる。 10代から作詞・作曲を始め、高校卒業後に詞・曲のデモテープをいとこのスタジオで作り始める。楽曲の一つが白鶴酒造のCMイメージソングに選ばれ、当時電通の社員だった新井満の勧めで、自ら作詞・作曲を手掛けたシングルレコード「優しい時の流れに」がビクター音楽産業から本名の ″福田三月子″ 名義でリリースした。同じ頃にコマーシャル音楽の制作会社に入社し、ディレクター見習いとして働き始め、江崎グリコ、大阪ガス、象印など多くのCM音楽を手掛ける。その後、戸川純のアルバム『極東慰安唱歌』に詞を書いてみないかと声が掛かり、「極東花嫁」を提供したことがきっかけで、作家事務所・株式会社フロムイーストに所属し作詞家としてプロデビューを果たす。
熊谷 奈美(くまがい なみ、本名同じ、3月22日 - )は、… 熊谷 奈美(くまがい なみ、本名同じ、3月22日 - )は、関西を中心に活動するタレント、リポーター、女優。兵庫県西宮市出身。昭和プロダクション所属。 血液型A型。愛称は「奈美ちゃん」。 2学年年下の弟が1人おり、名前は「健一」。 高校生の頃から女優を志し、芝居の勉強を始める。その後上京し、劇団ひまわりに所属。多数の舞台に出演する。 数年間の活動の後、関西に戻り、ロケのリポーターを中心に活動中。その傍ら、演劇などの出演を中心に女優業も続けている。 両親が移住した縁から丹波篠山ふるさと大使にも任命されており、2021年には一日市長に就任。 2011年、Eフラットプロモーションからアルティスタ(株式会社プレステージ)に移籍。
若桑 一人(わかくわ かずと、3月22日生)は、日本の漫画原… 若桑 一人(わかくわ かずと、3月22日生)は、日本の漫画原作者、脚本家。別名義で九和 かずと(くわかずと)、三条 和都(さんじょうかずと)。 大阪府出身。大阪電気通信大学高等学校、花園大学文学部卒業。 『少年サンデー』1993年前期原作大賞で大賞を受賞。作品名は「百戦無敵!」。当時のペンネームは若桑正人。後に若桑一人に変更。
向井 成一郎(むかい せいいちろう 、3月22日 生まれ )… 向井 成一郎(むかい せいいちろう 、3月22日 生まれ )は、北海道新冠町出身の男性シンガーソングライター、音楽プロデューサー、作詞作曲家、ボイストレーナー 北海道の広大な牧場で生まれ育つ。彼独特の甘い声はマシュマロボイスの異名をもち、ソロ活動の他、様々なスタジオワーク/ツアーサポート(鈴木雅之、DREAMS COME TRUE、米倉利紀、光永亮太他)にも参加している。 1995年YOSAKOIソーラン祭りエンディングテーマ「僕は僕のままさ」を作詞作曲、本格的に音楽活動開始 1998年「北極星」を制作。YOSAKOIソーラン祭りのエンディングテーマに採用される 2004年3月には韓国ソウル市内でストリートライブ敢行。