丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5… 丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5月25日 - 1988年〈昭和63年〉)は、昭和期の実業家、政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)で、丸茂米作、きち の四男として生まれた。生家は製糸業で、旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)卒業。1927年(昭和2年)丸茂製糸場に入社。1932年(昭和7年)同郡永明村(現・茅野市)に丸茂製糸工場を設立した。 1941年(昭和16年)永明村翼賛壮年団長に就任。1942年(昭和17年)永明村会議員となった。以後、ちの町消防団長、茅野町消防団長、茅野町議会議員などを歴任。
中村 清(なかむら きよし、1903年(明治36年)5月25… 中村 清(なかむら きよし、1903年(明治36年)5月25日 – 1993年(平成5年)11月15日)は、日本の内務官僚、政治家。三重県副知事、衆議院議員(2期)。 三重県志摩郡鵜方村、のちの阿児町鵜方(現志摩市阿児町鵜方)で、中村市太郎の二男として生まれる。専検合格を経て、1929年、東京商科大学本科を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、内務省に入省し警視庁属兼警部に任官し保安部工事課に配属された。 以後、沖縄県警察部特別高等課長、茨城県警察部特別高等課長、警視庁警視、麻布鳥居坂警察署長、岡山県商工水産課長兼知事官房秘書課長、同人事課長、千葉県警察部特別高等課長、京都府警察部特別高等課長、島根県経済部長などを歴任。
岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970… 岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)。 1902年(明治35年)5月25日(日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。深川区で硝子腐食工場を営む中溝兵三郎の次男として生まれ、三十銀行の頭取兼支配人、中溝秀周の養子となった。祖父は佐賀藩の勘定方を務めていた。義父秀周は安政元年1月12日に生まれ、慶応2年12月に兄の権之助の後に家督を継いだ。維新後に実業家となり、千寿製紙破産後の整理委員も務めた。義母は同藩士で江藤新平の部下であった馬渡雅一の長女のうき。
笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日 - 1976… 笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日 - 1976年11月20日)は、日本の作家。 佐賀県唐津市生まれ。唐津中学中退後、1921年荏原中学を卒業し、1924年頃、東洋大学中退。唐津日日新聞社を経て、1925年に春秋社に入社、中里介山『大菩薩峠』の刊行(角川文庫版の巻末解説も担当)や、八住利雄を担当する。1931年、時事新報社入社、文芸部・社会部に在籍した後1934年退社、文芸主任だった。1936年、週刊朝日に「海舟と按摩」を発表し作家デビュー。1939年、海音寺潮五郎らと同人誌『文学建設』を創刊し、1941年「会津士魂」で第1回野間文芸奨励賞を受賞する。戦後は中里介山についての書籍を出版するなどした。
朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5… 朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5月25日戸籍上は7月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月29日)は、日本の部落解放運動家、会社経営者。元「解同」(部落解放同盟)中央執行委員長。 京都府愛宕郡田中村字西田中(現在の京都市左京区田中馬場町)で生まれた。朝田が生まれた西田中は被差別部落で、古くは川崎村といった。 父は滋賀県大津市出身の幾之助、母はみゑ、長兄は幾松、次兄は伊助といった。父は和鞋の製造、販売の早瀬円蔵商店勤務を経て肥屋、汲み取りをやって1907年頃から共同浴場の経営をしていた。 1908年、養正小学校へはいった。1914年、小学校を卒業して寺町五条下ルの篠本靴店へでっち奉公へ出た。
小林 實(こばやし みのる、1901年 <明治34年> 5月… 小林 實(こばやし みのる、1901年 <明治34年> 5月25日 - 1982年 <昭和57年> 11月28日)は、日本の経営者。位階は従四位。 京都府出身。1922年に京都府立城丹農事講習所を卒業し、郡是製絲(現在のグンゼ)に入社。1955年1月に取締役に就任し、1961年1月に常務を経て、1969年1月に専務に就任し、1970年1月に社長に昇格した。1975年1月に会長を経て、1977年2月から相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1982年11月28日消化管出血のために死去。81歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月2… 杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。
佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月… 佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月25日 - 1985年〈昭和60年〉12月24日)は、日本の政治家。元衆議院議員、第5代日本社会党委員長。 宮城県本吉郡(現在の登米市津山町柳津石貝)に農民の子として生まれる。両親が家出をしているときに出来た子どもだったため、11歳になるまで戸籍に登載されず、小学校教育も十分に受けることは出来なかった。若いころは炭焼きなど、故郷で重労働に従事した。1924年(大正13年)、一念発起して、仙台市に出て、製糸工場の臨時人夫をして金をため、東京に出る。その後、苦学しながら日本大学専門部政治科を卒業した。 1928年(昭和3年)、勤務先の自転車会社でストライキを指導して解雇される。
西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 -… 西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 - 1983年4月23日)は日本の実業家。シーリージャパンの創業者。諱は光源(こうげん)。 1900年(明治33年)北海道樺戸郡新十津川町にて、西村源蔵の2男4女の次男として生まれる。九歳の時、両親を失い、函館市在住の叔父、河村織右エ門(八代目)に預けられる。少年時代は河村家の四人の子供と一緒に養育された。長じて、九代目河村織右エ門(現在は十代目河村織右ヱ門がコドモわた株式会社を経営)を支えて、(資)河村ふとん(後のコドモわた(株))の総支配人を務め、道内最大手の寝具メーカーの地位を築いた。 早稲田大学専門部政経科卒。1936年(昭和11年)(資)河村ふとんから独立、ミシン業に転進、函館市五稜郭町にて日本ミシン(株)を設立。
塩田 良平(しおだ りょうへい、1899年〈明治32年〉5月… 塩田 良平(しおだ りょうへい、1899年〈明治32年〉5月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の国文学者。随筆家。元二松学舎大学学長。近代文学が専門で、代表的な著書に「近代日本文学論」「山田美妙研究」「樋口一葉研究」「明治女流作家論」「明治文学論考」「日本文学論考」、随筆集「妻の記」「おゆき」「夜開花」などがある。また、多くの文庫本に解説を書いている。
今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 195… 今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 1957年1月9日)は日本の陶芸家。国画会会員。本名:今西末太郎 1897年、奈良県丹波市町(現在の天理市)の茶貿易商今西安太郎の次男として生まれる。 1915年、奈良県立旧制郡山中学(現在の郡山高校)を卒業。在学中より親交のあった大和・安堵村の富本憲吉のもとで教えを受け作陶をはじめる。 その後、長崎県波佐見中尾山に仕事場を構え、九州伊万里ほか全国地名の窯場を遍歴し古陶磁器文様の研究を行い、更に、朝鮮・満州・中国各地の窯場を視察し、独自の作風を打ち立てる。特に古窯からの「くらはんか」系の破片研究に努め、柳宗悦に”今の所今西君ほど實物を澤山見てゐる人は他にないと思ふ。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25… 吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25日 - 1987年(昭和62年)9月17日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員、陸軍司政長官。 福岡県出身。吉松民次郎、友子の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、鉄道省に入省して直方駅助役に就任。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大臣官房文書課勤務、大鉄運輸課旅客掛長、大阪運輸事務所長、広鉄庶務課長、運輸局配車課長、鉄道調査部第一課長、札幌鉄道局長、東京鉄道局長などを務め、1943年(昭和18年)2月、陸軍司政長官に発令された。1945年(昭和20年)に退官した。
田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 194… 田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 1943年8月14日)は、日本の画家。 田口掬汀の三男として秋田県角館町に生まれる。麻布中学校、東京美術学校洋画科卒業。在学中は藤島武二に、1923年からは石井柏亭に師事。第2回中央美術社展に「薔薇」が初入選。第10回二科展に「漁夫の娘」が入選。1929年から1932年までフランス留学。 1932年、二科会会員に推挙。 1943年8月14日、胸部疾患のため死去。46歳没。 息子は作家の高井有一。高井の『夢の碑』に、河西珊吾として登場する。 歌手の淡谷のり子の学費を捻出するなどサポートなどをしていた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
加藤 晃(かとう あきら、1896年(明治29年)5月25日… 加藤 晃(かとう あきら、1896年(明治29年)5月25日 - 1988年(昭和63年)5月10日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、関東弁護士会連合会理事長を歴任。 1967年(昭和42年)に勲三等旭日中綬章を受章する。
高田 休廣(たかだ やすひろ、1895年5月25日 - 19… 高田 休廣(たかだ やすひろ、1895年5月25日 - 1942年1月5日)は、昭和前期日本の官僚。高田 耕甫(たかだ こうほ)の筆名により「東京市歌」を作詞したことで知られる。山形県米沢市出身。 1895年(明治28年)、元会津藩士・高田休烈の五男として山形県米沢市に生まれる。三兄は裁判官で、静岡地方裁判所浜松支部長等を歴任した高田豊。 1921年(大正10年)、東京帝国大学英法科を卒業し東京府庁に入庁。1923年(大正12年)、東京市懸賞公募の「東京市歌」(作曲:山田耕筰)で応募作が一等入選となるが、石川県警察部に出向していたため不在であった。 関東大震災の後に帰京、文部省に入省し学務局農業教育課長、社会教育局青年教育課長、資源局官房文書課長、宗教局長、督学官等を歴任する。
山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月… 山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月25日 - 1977年(昭和52年)1月30日)は、日本の陸軍軍人、指揮者、クラリネット奏者。最終階級は陸軍軍楽少佐。陸軍戸山学校軍楽隊長、初代警視庁音楽隊長。 明治27年(1894年)、長崎県壱岐郡香椎村勝本浦(現・壱岐市勝本町勝本浦)に生まれる。大正元年(1912年)陸軍戸山学校軍楽科に入学してクラリネットで軍楽隊生活に入り、大正9年(1920年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科卒業。昭和5年(1930年)からフランスに留学し、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団で軍楽隊の演奏法、指揮法を身につける。その後ドイツにも留学する。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - … 小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - 1985年2月5日)は、日本の実業家。朝日新聞社元常務。全国高校野球の生みの親でもある。京都府京都市出身。 京都第二中学、旧制三高を経て、1918年に京都帝国大学工学部卒業。1921年に朝日新聞社に入社。印刷部長、印刷局長、常務などを歴任し、特に印刷部門でアメリカから高速度輪転機を導入したり、他社よりも先駆けて扁平活字を考案し採用した。 京都二中時代は捕手を務め、のちに京都市長となる高山義三とバッテリーを組んだ。第三高校では主将となり、高山と相談した上で、大阪朝日京都通信部主催で、中等野球の京津大会の開催を実現させた。これが契機となり、全国中等学校優勝野球大会が始まった。
梅津 芳三(うめづ よしぞう、1892年(明治25年)5月2… 梅津 芳三(うめづ よしぞう、1892年(明治25年)5月25日 - 1977年(昭和52年)5月17日)は、日本の内務官僚。神奈川県横須賀市長。 岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)出身、盛岡中学卒業。東京帝国大学法科大学英法科在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。大分県属、高知県警視、同理事官、兵庫県理事官、群馬県書記官・警察部長、山梨県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神戸市助役となり、神戸市中央卸売市場長事務、神戸海港博覧会事務を執った。さらに1934年(昭和9年)には横浜市助役に就任した。その後、京浜地区魚類配給統制協会専務理事を務めていたが、1943年(昭和18年)に横須賀市長に選出され、1947年(昭和22年)まで務めた。
綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日… 綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日 - 1963年2月21日)は、青森県南津軽郡尾上町(現在の平川市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士。本名は斎藤 由之丞(さいとう よしのじょう)。身長173cm、体重90kg。最高位は張出前頭筆頭格。得意手は右四つ、吊り、投げ。 1913年1月に追手風部屋に入門して、同年1月場所に前相撲で初土俵を踏んだ。1916年1月場所には部屋付き親方であった湊川親方(関脇・綾浪源逸)の独立に伴い湊川部屋に移籍した。1919年1月場所に新十両、1922年1月場所で新入幕を果たした。右四つからの吊りや投げを得意とした相撲巧者だったが、取り口は地味だった。
成島 勇(なるしま いさむ、1891年 (明治24年)5月2… 成島 勇(なるしま いさむ、1891年 (明治24年)5月25日 - 1956年(昭和31年)2月11日)は、日本の農家、政治家。衆議院議員。 千葉県出身。成島巍一郎の三男として生まれ、成島あゑの養子となる。1915年、東北帝国大学農学科を卒業。台湾製糖会社に入社し、その後、帰郷して農業を営む。 富勢村会議員、千葉県会議員、富勢村長、郡農会議員、県販購利用組合特別議員などを務めた。1937年4月の第20回衆議院議員総選挙で立憲民政党所属で千葉県第一区から出馬して当選。その後、第22回総選挙まで連続3回の当選を果たした。1947年に公職追放となり、同年の総選挙には妻の憲子が身代わり立候補した。 その他、農地開発営団設立委員、農林省委員、農商務省委員、日本進歩党民情部長、同政務調査会長、同総務委員会副会長、朝日乳業 (株) 取締役などを歴任した。
安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)… 安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)5月25日 - 1978年(昭和53年)10月6日)は、大正から昭和時代の銀行家。実業家。 安居院栄三郎の三男として兵庫県に生まれ、1914年(大正3年)叔父・音吉の家督を継ぐ。1917年(大正6年)京都帝国大学法科政治科を卒業し、三菱銀行に入社する。その後、日本橋支店副長、本店内国課副長、四谷・小樽・大森・横浜各支店長を経て参事となった。1944年(昭和19年)退職。後に興亜石油常務取締役を務め、1978年(昭和53年)に老衰により東京都大田区北千束の自宅にて死去した。 ほか、淡路産業相談役、東京銀座ライオンズクラブ会長、東興商会社長、同相談役などを歴任した。
森田 重次郎(もりた じゅうじろう、1890年5月25日 -… 森田 重次郎(もりた じゅうじろう、1890年5月25日 - 1988年5月12日)は、日本の政治家。位階は従三位。衆議院議員(7期)。 青森県上北郡上北町(現東北町)出身。幸次郎の長男。1911年、青森師範卒業。1937年、衆議院議員に当選。戦後、公職追放されたが、1952年の総選挙で当選して国政に復帰し、衆議院議員を通算7期務めた。 1973年4月の春の叙勲で勲四等から勲一等に叙され、瑞宝章を受章する。 1988年5月12日、死去。97歳没。同月17日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位に叙された。
吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 - 19… 吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 - 1962年3月16日)は、彫刻家、日本芸術院会員。 石川県出身。1907年(明治40年)、石川県工業学校の師である板谷波山を慕い上京。1912年(明治45年)東京美術学校彫塑科卒、1918年(大正7年)文展特選、1919年(大正8年)帝展特選、1922年(大正11年)帝展審査員、1931年(昭和6年)文部省の命により古代彫刻研究のため一年間フランス、イタリア、北アメリカに留学。1935年(昭和10年)多摩美術短期大学彫刻科教授、1943年(昭和18年)日本美術及工芸会理事。 戦後は、1950年(昭和25年)日本芸術院賞受賞、日展運営会参事、1955年(昭和30年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。
月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - … 月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - 1969年8月25日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者。秋田県仙北郡美郷町の浄土真宗本願寺派圓徳寺の住職、西本願寺(京都市下京区)の勧学。 明治21年(1888年)5月25日、秋田県仙北郡金沢村米ノ口生まれ。旧制横手中学校(現秋田県立横手高等学校)を卒業後、京都の佛教大学攻究院に進んでここを修了した。その後、金沢町米ノ口の正流山圓徳寺(浄土真宗本願寺派)の15世住職となった。 大正15年(1926年)9月、高野山大学教授となり、のち龍谷大学教授、西山専門学校教授などを務め、昭和10年(1935年)西本願寺司教となった。大学ではサンスクリット語・チベット語による文献研究にもとづいて原始仏教を教授した。
飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治… 飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年〈明治20年〉5月25日 - 1938年〈昭和13年〉9月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)出身。農業・飯塚理八の長男として生まれる。富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。 1919年(大正8年)11月から1920年(大正9年)11月までシベリア出兵に従軍し、ニコリスク・ウスリースキー(現・ウスリースク)付近の戦闘で戦功を挙げ、功五級金鵄勲章を受章した。1920年8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第66連隊中隊長に就任。
平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 194… 平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 1947年2月10日)は、歌人、詩人である。本名は平野久保(ひさやす)。 埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。1890年一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於菟を5歳まで預かった。 本郷区立駒本尋常高等小学校(現・文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を1901年卒業の年、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。
有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)… 有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)5月25日 - 1970年(昭和45年)4月6日)は、日本の明治時代・大正時代・昭和時代の医学者・政治家。位階は正三位。勲等は勲二等。北海道帝国大学名誉教授。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。旧姓・栗山。BCGの研究者としても知られる。 現在の福井県坂井市(旧坂井郡三国町)で旧福井藩藩医栗山英哉の次子として生まれ、1888年に有馬家の養嗣子となった。旧制福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)、第四高等学校を経て、1908年東京帝国大学医科大学卒業。その後、同大学青山内科に入局。1914年朝鮮総督府医院内科に勤務。1916年朝鮮総督府医院第2内科科長。
白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月2… 白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月25日 - 1957年(昭和32年)3月5日)は、日本の内務官僚。
柿原 政一郎(かきはら せいいちろう、1883年(明治16年… 柿原 政一郎(かきはら せいいちろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1962年(昭和37年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。宮崎市長。高鍋町長。 宮崎県児湯郡高鍋村(現在の高鍋町)出身。1904年(明治37年)に第六高等学校を卒業した後、東京帝国大学文科大学哲学科で学んだ。1907年(明治40年)に倉敷紡績に入社し、大原孫三郎の秘書となる。高鍋製糸株式会社社長、中国民報社理事、大原社会問題研究所評議員・出版部主任などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は中国民報社社長や広島臨港土地株式会社取締役などを務めたが、1935年(昭和10年)には宮崎市長に選出された。
佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5… 佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に東京府で生まれた。野州名鑑によると、栃木県足利市通二丁目に金物商の佐竹金之助の次男として生まれたとある。成城中学校から陸軍士官学校第18期、東京帝国大学建築学科卒業。1930年(昭和5年)8月1日、陸軍工兵大佐進級と同時に工兵第7大隊長に就任し、1932年(昭和7年)6月に陸地測量部三角科長、1933年(昭和8年)8月に陸軍築城部部員を歴任した。 1935年(昭和10年)3月15日に陸軍少将に進級し、澎湖島要塞司令官に着任。
宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日… 宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日 - 1946年(昭和21年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。大蔵官僚。 千葉県印旛郡、のちの白井村(白井町を経て現白井市)出身。宇賀平兵衛の四男として生まれた。1904年(明治37年)第一高等学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省専売局で主事、副参事、参事、事業部塩脳課長を歴任した。1924年(大正13年)、台湾総督府専売局長に転じ、1928年(昭和3年)に退官した。1931年(昭和6年)には台北州知事に起用された。その後、台湾電力株式会社理事に就任した。
釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月2… 釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月25日 - 1949年(昭和24年)6月23日)は、衆議院議員(立憲民政党)、福島市長。 福島県双葉郡幾世橋村(現在の浪江町)出身。浪江郵便局で通信事務員として働いた後、早稲田大学高等予科で学んだ。福島新聞社で記者、主筆を務めた後、福島民友新聞社副社長を経て、1936年(昭和11年)に福島新聞社社長に就任した。 また福島県会議員に4度選出され、1931年(昭和6年)からは議長を2度務めた。1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。 1945年(昭和20年)から2年間福島市長を務めた。戦後、公職追放となり、追放中の1949年(昭和24年)に死去した。
今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月2… 今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日 - 1951年(昭和26年)6月30日)は、衆議院議員、弁護士。法学博士。 愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ。今井角次の二男。1897年に愛媛県立松山中学校を、1900年に第一高等学校を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。さらに同大学院で国際法を専攻。修了後、東京地方裁判所判事に任命された。1908年、清の招聘で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した。 1914年、帰国して判事を退官し、大阪で弁護士の業務に就く。同年12月24日に法学博士の学位を授与された。1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した。
川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月… 川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 1878年(明治11年)5月25日、愛媛県士族の川島右一の長男として生まれる。 松山市外側尋常小学校、愛媛県尋常中学校を経て、1898年(明治31年)、陸軍士官学校(10期)卒業。1908年(明治41年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。 二・二六事件後、予備役に編入。終戦直後の1945年(昭和20年)9月8日、死去。
黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25… 黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25日 - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の小説家、記者。本名は直道。滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)生まれ。 1878年(明治11年)6月2日、滋賀県甲賀郡水口町に生まれる。上京した後、東京専門学校(現:早稲田大学)にて学び、同郷出身で近江国水口藩の藩医の出であった巖谷小波に師事。 小波と共に1885年(明治18年)に発足した文学同人結社の硯友社で活動し、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』に参加、執筆する。 1895年(明治28年)創刊で小波が編集していた、博文館発行の児童文学誌『少年世界』やそれに続くシリーズに参加、多くの児童文学作品を発表する。
神谷 良平(かみや りょうへい、1877年(明治10年)5月… 神谷 良平(かみや りょうへい、1877年(明治10年)5月25日 - 1935年(昭和10年)2月17日)は、日本の医師。千葉市長。 千葉県市原郡千種村(現:市原市)出身。千葉中学校を経て、1902年(明治35年)、千葉医学専門学校を卒業し、同校附属病院医員となった、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)まで函館区立病院産科婦人科医長を務めた。その後、郷里に医院を開業したが、1910年(明治43年)に千葉町に移転した。1917年(大正6年)より千葉町会議員、同市会議員、同議長、千葉県会議員を歴任した。 1928年(昭和3年)、千葉市長に就任した。
相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 … 相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 – 1955年(昭和30年)11月20日)は、金沢市長。 石川県士族相良豊の長男として生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務属となる。その後、高等文官試験に合格し、愛媛県参事官、長崎県参事官、群馬県事務官・第一部長兼第三部長、宮城県事務官、和歌山県内務部長、山形県内務部長を歴任した。1917年(大正6年)より樺太庁内務部長を務めた。 1922年(大正11年)、金沢市長に選出され、2期8年在任した。
吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日… 吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日 - 1942年(昭和17年)11月11日)は、日本の宮内官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省に勤務した後、宮内省に入り、宮内書記官・帝室林野局主事、調度頭を務めた。その後、台湾総督府逓信局長に転じた。 退官後は共同信託株式会社常務取締役、八王子電気株式会社監査役、小谷商店監査役を務めた。
浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月… 浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月25日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は、日本の発明家。日本で初めてオフセット輪転機を完成させた。 石川県江沼郡三谷村出身。1900年(明治33年)に上京し、芝浦製作所、中村鉄工所などに勤務し、1910年(明治43年)に自動紙差装置を発明した。1914年(大正3年)に日本最初のオフセット輪転機であるH型オフセット輪転機を完成させた。1917年(大正6年)に東京ギヤー製作所を設立し、自動車などの歯車の制作を開始した。1921年(大正10年)に浜田印刷機製造所(後のハマダ印刷機械)を設立し、オフセット印刷機、新聞輪転機を改良した。
堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉… 堀内 次雄(ほりうち つぎお/つぐお、1873年〈明治6年〉5月25日 - 1955年〈昭和30年〉5月12日)は、明治から昭和時代の医学者、大日本帝国陸軍軍医。 堀内直学の長男として丹波国多紀郡篠山北新町(現・兵庫県丹波篠山市北新町)に生まれ、1888年(明治21年)7月、家督を相続する。 1894年(明治27年)第二高等学校医学部(現・東北大学医学部)を卒業し、陸軍に入り、三等軍医となる。1896年(明治29年)台北病院医務嘱託、台北県医院医員、台湾総督府医院医員、台湾総督府医学校助教授、同校舍監、同校教授、同医院医長を歴任する。1912年(大正元年)多紀郡出身者として初めて医学博士の学位を授かる。
窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 194… 窪田 四郎(くぼた しろう、1873年5月25日 - 1944年9月14日)は、日本の実業家。同じく実業家の内田信也は実弟。 茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)生まれ。実業家の内田信也は実弟。1896年高等商業学校(現:一橋大学商学部)卒業、三井物産入社。1907年に堺セルロイド(現:ダイセル)専務取締役。1910年北海道炭礦汽船幹事。1913年波佐見鉱業専務取締役。1914年窪田事務所を設立し、南洋諸島との貿易に従事。1918年富士製紙(後の王子製紙)社長。早川電力社長、如水会理事、日魯漁業(現:マルハニチロ)社長などを歴任。1927年東京米穀商品取引所理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月2… 東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月25日) - 昭和14年(1939年)9月3日)は日本の政治家、出版事業家。従四位勲二等。所属政党は立憲政友会。別名、東牧堂(あずま ぼくどう)。 大和国十津川(現・奈良県吉野郡十津川村)に東義次の長男として生まれる。東家は旧十津川郷士であった。郷校文武館(現・奈良県立十津川高等学校)を経て東京法学院(現・中央大学法学部)に在学中、1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、十津川村の住民を指導して北海道新十津川村(現在の新十津川町)への移民事業に挺身。1891年(明治24年)、自らも北海道に移住して開拓事業を推進した。森源三、五十嵐久助とともに菊亭農場の管理人となり、農場解体後は土地の譲受者となった。
中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2… 中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2年4月14日) - 1939年(昭和14年)12月27日)は、日本の歴史家。 独学で地史研究・文筆力を養い滋賀県内各郡志の編纂に携わる。 中川泉三は、1869年(明治2年)4月14日に近江国坂田郡大野木村(現滋賀県米原市大野木)で宮川藩士中川洸平次の長男として生まれた。12歳の時に父が死去し、母の手一つで育てられ、母からは常に「友に劣るな、寡婦の子とそしりを受けるな。」と叱咤激励された。小学高等科卒業後、家業の農業に従事する傍ら、独学で学問を修め母校の代用教員まで務めた。 特に漢詩文に興味を持ち小野湖山・土屋鳳州らから添削指導を受けた。
佐々木 藤太郎(ささき とうたろう、1867年5月25日(慶… 佐々木 藤太郎(ささき とうたろう、1867年5月25日(慶応3年4月22日)- 1948年(昭和23年)5月16日)は、日本の官僚、実業家。第2代朝鮮慶尚南道長官。 長門国厚狭郡のちの厚西村(現山口県山陽小野田市)で、佐々木磯右衛門の二男として生れる。1889年5月、山口県収税属に任用。その後、東京府収税属に転じた。 1894年3月、内閣属に転じ内閣恩給局に勤務。同年7月、明治法律学校(現・明治大学)を卒業。1896年12月、第3回文官高等試験行政科試験に合格し、1897年6月、大蔵省試補に任用され収税局に配属される。その後、松山税務監督局長、仙台税務監督局長などを歴任。 1908年4月、大韓帝国の招聘受けて渡韓、同年7月、統監府書記官に就任。
青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応… 青地 雄太郎(あおち ゆうたろう、1865年5月25日(慶応元年5月1日) - 1926年(大正15年)12月24日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(4期)。 青地半三郎の長男として駿河国志太郡前島村(静岡県志太郡青島村、青島町を経て現藤枝市)に生まれる。1884年(明治17年)11月、家督を相続した。静岡中学校に学ぶ。静岡の朝陽義塾、掛川の冀北学舎を経て東京専門学校に入学し、1886年(明治19年)同校政治経済科を卒業する。1889年(明治22年)青島村初代村長に就任し、現在の東海道本線藤枝駅の青島への誘致、役場や学校の建設、伝染病予防のための隔離病舎の建設などに尽くした。ほか、地方金融の整備のため青島実業銀行(のち頭取)を創立し、物流集散のため青島運送合資会社を立ち上げた。
土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月… 土居 通夫(どい みちお、1837年5月25日(天保8年4月21日) - 1917年(大正6年)9月9日)は、幕末の宇和島藩士、明治時代の実業家、大阪財界指導者、衆議院議員。関西法律学校名誉校員。大阪市の本邸跡は日本銀行大阪支店になっている。 伊予宇和島藩士の大塚南平祐紀のの六男として生まれる。4歳のとき藩士・松村彦兵衛清武の養子となり保太郎と改名。少年時代には三好周伯に書道を学び、藩校明倫館で大阪の越智士亮の弟子である金子春太郎に漢学を学ぶ。12歳からは、窪田清音から免許皆伝を許可された窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に入門、竹馬の友である児島惟謙と共に剣術修業に励み、16歳正月に初伝目録を授与された。
岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4… 岡村 貢(おかむら みつぎ、1836年5月25日(天保7年4月11日) - 1922年(大正11年)1月7日)は、明治期の政治家、実業家。第十三大区長、南魚沼郡長、衆議院議員。法師温泉創業者。その生涯から「上越線の父」と言われている。田中角栄が最も尊敬した郷土の先達と言われる。幼名は大次郎。 昭和6年には、以下のような歌が小学校で合唱されたという。 光り輝く文化の花は 上越線をば開通せしむ 花も蒔かずば咲かれもすまい 蒔いた父こそ岡村貢 明治十余のその昔より 清水、三国の草踏みわけて 一生涯と全財産を 捧げて祈る涙の跡よ