鮫島 純子(さめじま すみこ、1922年〈大正11年〉9月2… 鮫島 純子(さめじま すみこ、1922年〈大正11年〉9月26日 - 2023年〈令和5年〉1月19日)は、日本の著述家、絵本作家。戦中戦後の体験、ポジティブな生き方などを綴った著作がある。 日本資本主義の父とされる実業家・渋沢栄一の孫にあたり、2024年(令和6年)発行の新一万円札に用いられた渋沢栄一の肖像画の確認を行った。 1922年(大正11年)、東京市滝野川町西ケ原(現・東京都北区西ケ原)に、渋沢栄一の三男で実業家の渋沢正雄と、備前岡山藩9代目藩主池田茂政の次女鄰子の間に生まれる。名前の「純子」は祖父・栄一による命名であり、本人は「この名前を書くたびに心の純度を保ちたいと思った」と語っている。
隈丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 20… 隈丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 2007年6月8日)は、福岡県久留米市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学経済学部卒業。第二次世界大戦終戦直後の時代に、日本男子テニス界をリードした名選手のひとりである。彼は1949年から1952年まで全日本テニス選手権男子シングルス4連覇を達成し、1951年と1952年に男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手を務めた。現役選手時代の体格は、身長174cm・体重57kgほどであった。 隈丸がテニスを始めたきっかけは、佐藤次郎が1934年4月5日にマラッカ海峡で投身自殺した新聞記事の号外だったという。しかし、彼の近くには専門のテニスコーチがいなかったため、技術解説専門書の日本語訳を読みながら独学でテニスを勉強した。
梶岡 忠義(かじおか ただよし、1920年9月26日 - 2… 梶岡 忠義(かじおか ただよし、1920年9月26日 - 2003年3月23日)は、昭和中期(1940年代後半-1950年代前半)のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。現役時代は阪神タイガースで活躍し、引退後は阪神の投手コーチを務めた、大阪府大阪市出身。 成器商業学校から専修大学へ進学。専修大学時代は4番(ないし5番)エースとして、東都大学リーグで6季連続優勝に貢献した。専修大学卒業時に阪神から声がかかったが、学徒出陣となり満州へ行くこととなる。1946年に満州から帰国し、発足した中央工業の野球部に入る。 翌1947年2月1日に南海から勧誘されるが、阪神への義理を通し、自ら電話で阪神に連絡をとり、阪神に入団する。
亀長 友義(かめなが ともよし、1920年9月26日 - 2… 亀長 友義(かめなが ともよし、1920年9月26日 - 2011年1月17日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(2期)、全国農業共済協会長。 徳島県三好市池田町生まれ。徳島県立池田中学校卒業。第六高等学校在学中は江尻宏一郎(元三井物産社長)と柔道部に所属した。 東京帝国大学法学部卒業後、1943年 農林省入省(馬政局嘱託)。食糧庁総務部企画課長、水産庁生産部長、林野庁林政部長、農林経済局長、大臣官房長、食糧庁長官を経て、1972年 農林事務次官に就任。退官後は大日本水産会長に就任。 1977年の第11回参議院議員通常選挙徳島県選挙区で自由民主党から出馬し、初当選。2期務める。 1989年の第15回参議院議員通常選挙で連合の乾晴美にやぶれ落選。
加藤 寛嗣(かとう かんじ / ひろつぐ、1920年(大正9… 加藤 寛嗣(かとう かんじ / ひろつぐ、1920年(大正9年)9月26日 - 2002年(平成14年)3月17日)は、第14代四日市市長。三重県四日市市塩浜地区馳出町出身。 三重県四日市市の旧家の加藤寛の長男で、三重県知事の田中覚は従兄弟であった。ハワイ州で生まれた。1944年(昭和19年)9月に東京帝国大学経済学部を卒業し、津海軍工廠に配属され終戦を迎えた。1945年(昭和20年)11月、三菱銀行に入行した。1946年(昭和21年)4月、日本肥料株式会社四日市工場に転じた。東海瓦新化成株式会社、三菱油化株式会社旭工場総務部長を経て、1967年(昭和42年)12月に三菱油化を退職した。 その間、1947年(昭和22年)に四日市市議会議員に当選し、以後12年間に各委員長、副議長を歴任した。
杉村 敏正(すぎむら としまさ、1918年9月26日 - 2… 杉村 敏正(すぎむら としまさ、1918年9月26日 - 2011年9月13日)は、日本の法学者。専門は行政法。学位は、法学博士(京都大学・1982年1月23日)(学位論文「法の支配と行政法」)。京都大学名誉教授。 1918年(大正7年)大阪府出身。1939年(昭和14年)大阪高等学校 (旧制)文科を卒業後、京都大学政治学科へ入学。卒業後は、同大助手を経て1947年(昭和22年)助教授、1954年(昭和29年)京都大学法学部教授に就任。 その後は京都大学法学部長・大学院法学研究科長(在任:1972年10月22日~1974年10月21日)、龍谷大学法学部教授、宮崎産業経営大学法学部教授を務めた。国民主権・平和・人権尊重を基調とする法理論体系の構築に取り組んだ。
堀田 進(ほった すすむ、1918年9月26日 - 2011… 堀田 進(ほった すすむ、1918年9月26日 - 2011年11月17日)は、長く神戸大学医学部教授を務め、特にデング熱や日本脳炎のウイルスについて研究した、日本の微生物学者。 大阪府三島郡茨木町(後の茨木市)生まれ。 1942年、京都帝国大学医学部を卒業して医師免許を取得、木村廉が主宰していた微生物学講座に副手を経て助手として入局し、1943年には世界で初めてデングウイルスの分離に成功した。 第二次世界大戦後は、1948年9月に京都帝国大学医学部講師となり、1949年6月に京都大学医学部講師に移行した。また、同年8月には「デング熱の研究」により京都大学から医学博士号を取得した。同年、日本ウイルス学会の前身となった「ヴィールス談話会」発足に参加し、機関誌の発行に貢献した。
郷田 實(ごうだ みのる、1918年 <大正7年> 9月26… 郷田 實(ごうだ みのる、1918年 <大正7年> 9月26日 - 2000年 <平成12年> 3月21日)は、日本の政治家。元宮崎県東諸県郡綾町長。在任期間は6期24年(1966年~1990年)。位階は従五位。 宮崎県綾町出身。拓殖大学南方専門科卒業。兵役から復員後、綾町農協に就職。1954年に綾町助役、1966年から1990年まで綾町長を務めた。 自然を生かした町おこしの成果で全国的に知られる。長女の郷田美紀子は薬剤師、環境保護団体代表。 1996年、勲四等旭日小綬章を受章。2000年3月21日、心不全のため死去。死没日付をもって従五位に叙された。 死後、ドキュメンタリー映画『未来からの町づくり先駆者 郷田實』が製作された。
平松 小いとゞ(ひらまつ こいとど、1916年(大正5年)9… 平松 小いとゞ(ひらまつ こいとど、1916年(大正5年)9月26日 - 1944年(昭和19年)6月7日)は、日本の俳人。 和歌山県新宮市出身。父・竈馬の影響下、高濱虛子に師事、時にユーモアを交えた繊細で家庭的な温もりを持つ作風であったが、学徒動員で出兵、中国河南省での作戦に従軍、戦闘中に敵軍の銃弾に斃れた。《紙白く書き遺すべき手あたゝむ》は、出兵に際しての遺書とも取れ、命日は「白紙忌」と名付けられた。 1916年(大正5年)9月26日、父・平松竈馬(「ホトトギス」俳人、本名義彦、俳号はいとどとも、いとゞとも記される)、母・おとえの長男として、和歌山県東牟婁郡新宮町磐盾に生まれる。本名は一郎。
澤田 允茂(さわだ のぶしげ、1916年9月26日 - 20… 澤田 允茂(さわだ のぶしげ、1916年9月26日 - 2006年4月14日)は、日本の哲学者、慶應義塾大学名誉教授。日本哲学会会長、日本科学哲学会会長を歴任。ヘーゲル批判を行ったことでも知られる。 1916年、東京府生まれ。愛媛県立松山中学校を経て、1934年3月、久留米市の福岡県立中学明善校を卒業。同年4月、慶應義塾大学に入学し、日吉の予科1期生となった。1940年3月、慶應義塾大学文学部西洋哲学科を卒業し、高等部の助手となった。 同年12月に陸軍に応召し麻布第3連隊に入隊。中国北部へ送られ、1941年1月、河南省の首都開封近隣に駐屯する第35師団の機関銃中隊に配属された。夏頃、保定に設けられた予備士官学校に入ったが、病気入院で卒業できず、乙種幹部候補生として原隊復帰し、軍曹となった。
井上 茂(いのうえ しげる、1916年〈大正5年〉9月26日… 井上 茂(いのうえ しげる、1916年〈大正5年〉9月26日 - 2002年〈平成14年〉5月21日)は、日本の法学者。専門は法哲学。第8代お茶の水女子大学学長。日本法哲学会理事長(1975年11月 - 1979年11月)。 兵庫県に生まれる。1935年福岡県中学修猷館、1938年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1942年9月東京帝国大学法学部法律学科を卒業。その後、3年間兵役に就いた後、1945年11月、東京大学大学院(法理学専攻)に進む。東大では尾高朝雄の最初の門下生であった。 1949年5月、お茶の水女子大学講師となり、その後、同大学にて、1953年5月、助教授、1959年7月、教授(1982年2月まで)、1967年10月、文教育学部長(1969年9月まで)、1976年6月、大学院人間文化研究科長(1979年2月まで)を経て、1979年2月、お茶の水女子大学学長に就任し、1982年2月まで務めている(同月、お茶の水女子大学名誉教授の称号授与)。
小野 順造(おの じゅんぞう、1916年9月26日 - 19… 小野 順造(おの じゅんぞう、1916年9月26日 - 1989年6月28日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 取締役、常務、専務を経て、1968年6月に副社長に就任し、1977年2月には社長に昇格。1986年2月から会長を務めた。 1989年6月28日肺炎のために死去。72歳没。
坂寄 俊雄(さかより としお、1916年9月26日 - 19… 坂寄 俊雄(さかより としお、1916年9月26日 - 1997年6月3日)は、日本の社会福祉学者。立命館大学名誉教授。 神奈川県生まれ。1942年京都帝国大学経済学部卒業。大阪社会事業短期大学助手、立命館大学経営学部助教授、教授、学部長、立命館常務理事。1982年定年、名誉教授、日本福祉大学教授。
三瀦 信吾(みつま しんご、1916年9月26日 - 200… 三瀦 信吾(みつま しんご、1916年9月26日 - 2003年1月6日)は、日本の法学者。高崎経済大学名誉教授。専門は、法哲学・明治憲法史・防衛法史・皇室典範を研究。東京都港区出身。 父は法学者で東京帝国大学法学部教授を務めた三潴信三。弟は経済学者で筑波大学名誉教授の三潴信邦。姉の夫は法学者で東京大学名誉教授の山田晟。妻の兄は思想史学者で学習院大学名誉教授の筧泰彦。妻の父は法学者の筧克彦。 1941年、東京帝国大学法学部を卒業した。財団法人皇学会研究員。1942年、臨時召集された。1945年、復員した。善隣協会専門学校 (旧制)兼任講師。1949年、東京大学大学院(旧制)修了。明治大学法学部助教授。
河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月… 河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月26日 - 1970年(昭和45年)3月24日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。明治大学出身。
安田 博(やすだ ひろし、1914年 <大正3年> 9月26… 安田 博(やすだ ひろし、1914年 <大正3年> 9月26日 - 1981年 <昭和56年> 4月22日)は、日本の経営者。大阪ガス社長を務めた。位階は従三位。 京都府八幡市出身。1937年に大阪商科大学を卒業。阪神電気鉄道での勤務を経て、1945年に大阪ガスに転じ、1963年8月に取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、1974年9月に社長に就任した。 日本ガス協会副会長、関西経済連合会常任理事、大阪商工会議所副頭取も務めた。 1974年10月に藍綬褒章を受章した。 1981年4月22日、脳内出血のために死去。66歳没。死没日付をもって従七位から従三位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
千早 猛彦(ちはやたけひこ、1913年(大正2年)9月26日… 千早 猛彦(ちはやたけひこ、1913年(大正2年)9月26日 - 1944年(昭和19年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は、戦死による後二階級特進で海軍大佐。 1913年(大正2年)9月26日、台湾で台湾総督府官吏である父・千早清次郎の次男として生まれる。兄に千早正隆海軍中佐がいる。鹿児島二中を卒業。中学時代の猛彦は体が弱く運動は余り得意ではなかったが、兄に続いて海兵を志願した。しかし中学三年時に担任にこれを明かすと軍事教練の度にへばる事を叱責され発奮、山岳部に所属し体を鍛えた。五年進級時には軍人志望組の級長となり、二年間つとめた。 1934年(昭和9年)11月、海軍兵学校を卒業(第62期)。
堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月2… 堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月26日 - 昭和54年(1979年)6月8日)は、日本の柔道家、政治家。元鳥取県議会副議長。元県柔道連盟米子支部顧問。 堀安家は松江城主堀尾吉晴の末裔である。 鳥取県米子市出身。堀安憲の長男。立命館大学卒業。 昭和30年(1955年)から約10年間にわたって県公安委員長。昭和42年(1967年)県議初当選以来、連続三期当選。昭和52年(1977年)7月~昭和54年(1979年)4月県議会副議長。 代々堀安家は制剛流俰を伝える家であり、堀安成文は制剛流15代目であった。 大学在中柔道主将、卒業後講道館で柔道を錬磨し五段を授けらる。邸内に礎道館を設立、広く柔道の普及興隆に尽力。
尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 19… 尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)は、日本の作曲家、指揮者。 東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。
永田 亮一(ながた りょういち、1911年9月26日 - 1… 永田 亮一(ながた りょういち、1911年9月26日 - 1997年1月13日)は、日本の政治家。位階は従三位。衆議院議員(10期)。 兵庫県三原郡倭文村(現南あわじ市倭文長田)に東京市長などを務めた永田秀次郎の長男として生まれる。1935年慶應義塾大学経済学部卒業。 王子製紙勤務等を経て、1952年の総選挙で旧兵庫2区から立候補し当選。以後、衆議院議員を通算10期務め、自由党→日本民主党→自由民主党に属した。外務政務次官・衆議院外務委員長などを歴任するが、大臣の経験はなかった。 岸信介と行動を共にし、岸派の分裂と共に藤山派に参加。更に水田派から田中派に所属を変えるが、同じ淡路島を地盤とする原健三郎が船田派から中曽根派に転籍すると政治力に圧倒され末期には当落を繰り返した。
前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1… 前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1988年12月10日)は日本の造園家。造園史家。農学博士。 東京に野尻爻六・すね夫妻のもとに生まれる。豊山中学校を卒業し、國學院高等師範部に進学し、渡辺世祐、高柳光寿の指導を受け、1931年に卒業。博文館に勤めた後、東京市に任用になり、井下清課長のもとで公園行政ともっぱら公園機関紙の編集に関わる。 1970年、第1回日本公園緑地協会北村賞受賞。1983年に「宗教緑地論 : 社寺境内地の歴史的評価と公園緑地政策におけるその役割」により、東京農業大学から農学博士の学位を授与される。おもな著書に東京公園文庫シリーズがある。
中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9… 中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9月26日 - 1969年(昭和44年)2月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 山口県、現在の美祢市出身。小学校卒業後、中央鉄道教習所運転高等科を卒業し日本国有鉄道に就職。国鉄機関士、華中鉄道機関士、運輸省技官、教官などを歴任。 労働運動に加わり、日本国有鉄道機関車労働組合(のち国鉄動力車労働組合)副委員長、同委員長、機労政治連盟議長、全交通運輸労組協議会副議長などを歴任。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して初当選(補欠、任期3年)し、1962年(昭和37年)7月の第6回通常選挙で全国区から出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 20… 玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 2013年)は、日本の物理学者・科学史家。
吉藤 幸朔(よしふじ こうさく、1909年 <明治42年> … 吉藤 幸朔(よしふじ こうさく、1909年 <明治42年> 9月26日 - 1995年 <平成7年> 3月11日)は、日本の法学者。元通産官僚。位階は正四位。 吉藤の主要著作である『特許法概説』は、1968年に初版が発行されたもので、実務に重点を置き、通常の法律書とやや異なる構成を採るものの、日本の特許法についての基本書とされる。以後、改訂を加えて1994年12月には第10版に達し、吉藤の没後も、熊谷健一の補訂により1998年11月発行の第13版まで刊行が続けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月2… 岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月26日 - 1980年〈昭和55年〉8月25日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 日本火災海上保険、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1949年12月に日本電装取締役に就任し、1951年10月に常務、1955年12月に専務、1962年8月に副社長を経て、1967年2月に社長に就任。1973年2月には会長に就任した。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年8月25日、肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 194… 柴田 安子(しばた やすこ、1907年9月26日 - 1946年7月27日)は、日本の画家。旧姓最上。最上広胖の娘。 1907年、秋田県大曲市で生まれる。但し、父広胖は1900年より貴族院議員になってすでに東京麹町に邸宅を構えていたので東京生まれの可能性が高い。母か禰。幼名義枝。父の帰省に伴い、度々秋田県角間川の尋常高等小学校に一時編入した。 1919年、安子に改名。 1921年、鎌倉女学校入学。 1923年、震災後東京にもどり、千代田高等女学校に編入、在学中から松岡映丘に師事。 1931年に由利本荘市出身の東洋史学者柴田宜勝と結婚。 1938年には新美術人協会を設立。しかしその同年、甲状腺の異常が見つかり手術を行った。
新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - … 新保 幸太郎(しんぽ こうたろう、1906年9月26日 - 2005年4月26日)は、日本の医学者。専門は病理学。学位は、医学博士(北海道帝國大學)。元札幌医科大学学長。 北海道瀬棚郡瀬棚町(現在の久遠郡せたな町)生まれ。1926年北海道庁札幌第一中学校卒業。北海道帝国大学予科修了。1933年北海道帝国大学医学部卒業。同医学部副手に就く。1936年同医学部助手。1937年同医学部講師。1938年同医学部病理学第一講座助教授。1944年樺太医学専門学校病理学講座教授。1946年樺太医学専門学校校長事務取扱。1950年札幌医科大学医学部病理学講座教授。1961年同附属癌研究所所長。1965年札幌医科大学学長に就任。
県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9… 県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9月26日 - 1922年(大正11年)7月12日)は日本の詩人。福岡県出身。 福岡県福岡市生まれ。生後間もなく父の赴任先である旧・満州に一家で転居。1912年福岡に戻り、1913年には東京へ転居した。日本橋区箱崎小学校に入学するが、1914年に麹町区麹町小学校へ転入し卒業、1919年明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校・中学校)に入学。この頃、独学で詩作活動を始める。明治中学在学中の1921年、学校遠足の帰りに雨に濡れ体調を崩し3週間病床に伏し、一旦は回復するも再び入院。その後、通学出来るまでに回復するが、担当医師の勧めで千葉県安房郡北条町(現:館山市)北条に療養のため転居。
能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日… 能代 清(のしろ きよし、1906年(明治39年)9月26日 - 1976年(昭和51年)10月18日)は、日本の数学者。理学博士。専門は複素解析。北海道帝国大学講師、旧制第一高等学校教授、名古屋帝国大学教授、ハーバード大学客員教授、名古屋大学名誉教授、東京理科大学教授を務める。1956年(昭和31年)、「函数論における集積値集合の研究」で第9回中日文化賞を受賞。
岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 198… 岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。 1905年、北海道小樽市で生まれた。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)卒業後渡米し、オタワ大学社会学部で学んだ。1929年に卒業。 1931年、新聞連合社(のち同盟通信社を経て、現:共同通信社)に就職。一方でトロント大学大学院経済史専攻に進み、1932年に修了。満州事変後のリットン調査団に随行して中国各地を回り、国際連盟のジュネーヴ本部などに勤務した。戦時期には東方社の理事に就任したほか、1942年から1945年にかけて文部省民族研究所研究員として在外研究にあたった。
高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1… 高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1993年7月26日 )は、日本の経営者。三井金属鉱業社長を務めた。静岡県浜松市出身。 旧制静岡県立榛原中学校、旧制第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1951年に三井金属鉱業に転じ、1952年に取締役に就任し、1956年に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1964年5月には社長に昇格した。1970年4月に会長に就任し、1974年5月までに務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1… 浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1987年7月23日)は、日本の陶芸家。日展参事。中国宋代の青白磁を基調に現代的感覚を加えた作風で知られた。第9回日展出品作「暢」により日本芸術院賞を受賞した。 京都市東山に、三代浅見五良助の次男として生まれる。本名は柳三。1923年に京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主として祖父の二代五良助に学び、1929年の第10回帝展で「三葉紋花瓶」が初入選した。 戦後は1945年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、1947年の第2回日展「象嵌 干柿の図皿」で特選、1951年の第7回日展「鶏頭ノ図花瓶」で再び特選を受け、翌年無鑑査となった。
中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)… 中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)9月26日 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、日本の教育者、政治家。岸和田市長を3期12年(1961年 - 1973年)務めた。 青年期には陸上競技(跳躍競技)選手として活躍し、棒高跳の日本記録をたびたび更新した。1928年アムステルダムオリンピックでは棒高跳と十種競技に出場、棒高跳で6位入賞を果たしている。 大阪府で生まれる。大阪府立岸和田中学校(現在の大阪府立岸和田高等学校)卒業。関西学院に在籍したのち、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進学卒業、東京高等師範学校研究科を卒業。 1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。
森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年… 森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年4月26日)は、日本の歴史学者。専門は対外関係史。中央大学文学部教授などを歴任した。 1903年、長野県下高井郡豊郷村(現:野沢温泉村)生まれ。旧制麻布中学校、第二高等学校を経て、1929年に東京帝国大学文学部国史学科卒業。 1941年から史料編纂官を務めた後、満洲建国大学助教授となり、1943年同教授。1945年敗戦により帰国。 1945年に『日宋貿易の研究』によって東京帝国大学文学博士号を取得。1947年から九州帝国大学法文学部教授を務めた。1952年からは横浜市立大学文理学部教授、1953年東京都立大学人文学部教授、1959年より中央大学文学部教授。
今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976… 今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976年)は、日本の会計学者。 島根県松江市出身。1931年東京商科大学卒。1962年「原価管理の基礎理論と生産技術との関連性に関する研究」で中央大学商学博士。1937年三菱化成工業勤務、1942年海軍省嘱託、日本原価計算協会常務理事、1946年物価庁参与、経済安定本部委員、1949年千葉工業大学教授、1951年中央大学教授、1963年成蹊大学教授。1975年退職。
北村 又左衛門(きたむら またざえもん、明治35年(1902… 北村 又左衛門(きたむら またざえもん、明治35年(1902年)9月26日 - 昭和60年(1985年)12月23日)は、日本の林業家、政治家。北村林業会長、また帝国議会の衆議院議員を務めた。その他、全国林業組合長などを歴任した。 奈良県出身。前名は太郎。昭和3年(1928年)法政大学卒業。 昭和17年(1942年)の翼賛選挙に奈良全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選、昭和20年(1945年)12月まで在職した。 戦後、公職追放となり、昭和26年(1951年)6月解除と共に同年10月大丸監査役に就任する。 妻は百五銀行取締役土井八郎兵衛の長女・利子。長女は白鶴酒造相談役嘉納信治の妻であり、灘の名門嘉納家の大閨閥につながっている。
大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 -… 大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 - 1974年4月14日)は、日本の演劇評論家、演出家。 秋田県出身。慶応義塾大学在学中に劇作家や演出活動を行っていた小山内薫の指導を受けて演劇研究会を結成。1926年(大正15年)に卒業した後は松坂屋宣伝部に勤めながら演劇評論を発表。新派、新劇、文学座などの演出を行っていた久保田万太郎に師事し、1932年(昭和7年)には築地座結成に参加して文芸部に入った。 1939年(昭和14年)、築地小劇場が株式組織化した際には、新協劇団、新築地劇団関係者らとともに発起人となった。一方、同年からは新派との関りを深め、戦後の一時期には新国劇の文芸部に籍をおいたものの、長きにわたり新派を中心に演出活動を行った。
大越 隆三(おおこし りゅうぞう、1900年(明治33年)9… 大越 隆三(おおこし りゅうぞう、1900年(明治33年)9月26日 - 1943年(昭和18年)2月8日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。嘉義市尹 福島県出身。1925年(大正14年)3月、東北帝国大学理学部を経て、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格後、1930年(昭和5年)4月に台湾総督府警務局保安課に出仕し、1933年(昭和8年)12月に地方警視に進み、屏東警察署長を経て、1934年(昭和9年)9月に台中州警務課長となり、1935年(昭和10年)9月、同州警務部高等警察課長に転じた。 ついで、台北州勧業課長を経て、1939年(昭和14年)7月に台南州嘉義市尹に就任した。
華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月… 華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月26日 - 1972年(昭和47年)8月10日)は、昭和期の官僚、外交官、政治家。衆議院議員。旧姓・江口。 山形県で江口親明の二男として生まれ華山儀一郎の養子となる。山形高等学校を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部を卒業。同年、内閣統計局に入局し統計局属に任じられ、同年12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、統計局書記官・庶務課長、興亜院書記官・総裁官房勤務、大東亜書記官・大臣官房会計課長、北京大使館参事官兼総領事などを務めた。戦後、参議院常任委員会専門員、山形県副知事などを歴任した。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に山形県地方区から日本社会党公認で出馬して次点で落選。
大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉… 大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1940年〈昭和15年〉7月28日)は、日本のマルクス経済学者。筆名に成瀬 光雄がある。 神奈川県横浜市で大森啓助の子として生まれる。1922年(大正11年)東京府立四中から一高を経て、東京帝国大学経済学部卒。卒業と同時に同学部助手。1924年(大正13年)東京帝大助教授。 1928年(昭和3年)4月、赤化教授への政府の弾圧が徹底的であり、早晩退職を余儀なくされるとして、先手を打つように辞表を提出して辞職。以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。 1933年(昭和8年)に『唯物弁証法読本』を出版。 1937年(昭和12年)の人民戦線事件で検挙される。
長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月2… 長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月26日 - 没年月日不明 )は日本の哲学者。元八幡大学教授。岡山県出身。 備前岡山の池田家家老 日置健太郎を母方の祖父とする名門の家に生まれる。父親、長崎常は札幌農学校で内村鑑三と共にクラーク博士に学んだ農務省官僚であった。なお、常は九州法学校創設時に宇賀田順三と親交があった人物。母キヨは日本画壇の女流画家。 明は岡山一中から慶応義塾、松本高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し伊藤吉之助に師事する。卒業後西南学院専門学校、九州専門学校で教鞭を執る。1947年、宇賀田順三の要請により 戸畑専門学校開校時に教授に就任。1948年から1956年まで八幡大学教授(1954年に法経学部長就任)。
植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月… 植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1999年〈平成11年〉5月4日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。衆議院議員(2期)。 奈良県奈良市般若寺町で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業した。 牧場、牛乳商を経営。奈良県獣医師会長を務めた。 政界では、奈良市会議員、同議長、奈良県会議員、同副議長を務めた。1940(昭和15年)11月、大政翼賛会奈良県支部常務委員に就任。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け奈良県全県区から立候補して当選した。この間、拓務省委員、大東亜省委員、翼政会政調厚生・農林兼務委員などを務めた。
佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 198… 佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 1986年12月2日)は、日本の実業家。 山梨県出身。1924年に東京帝国大学政治科を卒業し、同年に満鉄に入社し、東京支社長などを歴任し、1945年までに勤務した。 1964年5月から京浜急行電鉄社長に就任し、1969年11月から会長に就任した。社長在任中は都営地下鉄浅草線との相互乗り入れなど鉄道の輸送力増強に力を入れ、湘南モノレールの開業にも携わった。 1967年から1969年までに日本民営鉄道協会副会長を務め、満鉄会理事長や日本経済団体連合会理事やホテルパシフィック東京社長・会長、日本ホテル協会理事なども務めた。 1974年に勲二等瑞宝章を受章した。
那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日… 那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。陸軍中佐・那須仙太郎の長男として生まれる。名古屋明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し歩兵第33連隊中隊長に就任。 1930年(昭和5年)8月、陸軍戸山学校教官に就任。1931年(昭和6年)3月、陸軍省軍務局課員(兵務課)となり、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級。
福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 196… 福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 1967年12月25日)は、阪神電気鉄道社長。奈良県出身。 広島高等師範学校卒業後は、一時教職を務めるが、九州帝国大学法文学部に入学し、1929年に卒業し、阪神電気鉄道に入社した。 主に電灯、電力部門の営業を担当していたが、1942年4月に同部門が関西配電に譲渡されたのを機に同社に移籍し、1944年に阪神に復帰した。その後は、庶務部、取締役、常務取締役を歴任し、1957年に阪神百貨店の専務取締役に就任した。 1965年に藍綬褒章を受章。 1960年5月に阪神に戻り、副社長を経て、1967年11月18日に社長に就任したが、同年12月25日に脳出血のために在職中のままに死去。
平田 佐矩(ひらた すけのり、1895年(明治28年)9月2… 平田 佐矩(ひらた すけのり、1895年(明治28年)9月26日 - 1965年(昭和40年)12月6日)は、富田一色平田家の4代目当主。平田紡績の4代目社長。2代目平田佐次郎の三男。富洲原町会議員を経て、第11代四日市市長も務めた。実業家(平田紡績社長)に加えて趣味として和歌や短歌を創作する歌人・俳句を創作する俳人などの文芸活動をする文化人でもあった。四日市コンビナートを誘致して四日市市(四日市港周辺の臨海部)を重工業化させた功労者である反面、四日市ぜんそくを発生させた四日市公害の責任者でもある。 三重県三重郡富洲原村(現在の四日市市富田一色地区)出身で平田紡績家当主の2代目平田佐次郎の三男として出生する。
高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明… 高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明治27年)9月26日 - 1956年(昭和31年)6月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県神門郡今市町(簸川郡今市町を経て現:出雲市)に父・徳助の長男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学大学部政治経済学科を卒業後、山下汽船に入社。その後、報知新聞記者、東京朝日新聞記者を務めた。 政界を志し法制局事務嘱託に就任。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補し当選。農林大臣秘書官、日本大豆統制常任監査役を務めた。1940年(昭和15年)帝国油糧統制筆頭理事、太陽商社取締役となる。1946年(昭和21年)山陰日日新聞社長に就任。
成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975… 成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975年1月7日)は、日本の経営者。新東京国際空港公団総裁を務めた。 東京都出身。1914年に東亜同文書院大学商務学科を卒業。中国貿易で活躍し、1934年に満州国建国に携わり、1936年に東洋パルプ専務、1939年に日本米穀副理事長を経て、その後は全国米穀商組合連合会理事長、朝鮮食糧営団理事長、中央食糧営団総裁、全国米穀小売組合連合会会長などを歴任。戦後は、1955年に農地開発機械公団理事長、1961年10月に愛知用水公団理事長を経て、1966年7月から1967年10月までに新東京国際空港公団総裁を務めた。 1975年1月7日、心臓衰弱のために死去。
笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26… 笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26年)9月26日 - 1990年(平成2年)9月8日[要出典])は、日本の内務官僚、拓務官僚、朝鮮総督府官僚。 新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在の新潟市西蒲区)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学工科大学土木科を卒業。さらに東京帝国大学法学部政治科に学んで、1920年(大正9年)に卒業した。内務省土木局勤務、静岡県安倍郡長、静岡県理事官、内閣拓殖局書記官、拓務書記官、拓務省管理局第二課長、同第一課長、同地方課長、拓務局奨励課長、大臣官房文書課長、朝鮮総督府咸鏡南道知事を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後は、北鮮合同電気株式会社社長を務めた。
斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9… 斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。 1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。 1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。