野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 199… 野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 1993年11月22日)は、日本のドキュメンタリー映画監督・評論家、詩人。本名は、亘 真吉(わたり しんきち)。野田 眞吉表記もある。 息子に、映像民俗学者で駒沢女子大学教授の亘純吉、キャメラマン・映画プロデューサー・オフィスエムエイピー(野田の映像作品のビデオ等を販売している)代表の亘真幸(亘眞幸)。息子たちは、野田の制作映画にスタッフとして参加もしている。 父は南宗派の画家の野田青石。宇宙機エンジニアの野田篤司は青石の曾孫であり、遠縁にあたる。 1916年(大正5年)1月28日生まれ。愛媛県八幡浜市矢野町出身。 1937年、早稲田大学文学部仏文科卒業。
菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914… 菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914年1月28日 - 1989年3月18日)は、日本の脚本家。山梨県甲府市出身。日本ペンクラブ、日本シナリオ作家協会、日本演劇協会、日本文芸家協会所属。 ★印は黒澤明監督作品。
三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日… 三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日 - 1994年〈平成6年〉10月7日)は、日本の作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家である。本名、繁田 裕司(しげた ひろし)。東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。 昭和前期から平成前期まで活躍した。芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着した。「三木トリロー」名義での活動歴もある。 ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。甥(鮎郎の長男)の三木睦郎は「笑点」の放送作家。
神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 … 神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 - 1983年6月23日)は、現在の東京都中央区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は神谷 信義(かみや のぶよし)。現役時代の体格は170cm、135kg。最高位は東前頭4枚目(1941年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 中央商業学校(現・中央学院大学中央高等学校)卒業後、春日野部屋に入門し、1932年5月場所、「神武山」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月場所で十両に昇進。1939年1月場所、新入幕。入幕2場所目の5月場所、四股名が初代天皇の神武天皇からきているため、「神東山」に改名。幕内の中位から下位で取り、1946年11月場所で十両に落ち、この場所13戦全敗を記録した。
竹本 常松(たけもと つねまつ、1913年1月28日 - 1… 竹本 常松(たけもと つねまつ、1913年1月28日 - 1989年1月23日)は、日本の化学者。 生物活性アミノ酸並びに昆虫変態ホルモンの権威。日本薬用植物友の会名誉会長。 1913年(大正2年)大阪府岸和田市に生まれる。1933年(昭和8年)大阪薬学専門学校 (旧制)を卒業後、東京帝国大学医学部に勤務し生薬を研究。1949年(昭和24年)大阪大学教授、1960年(昭和35年)東北大学医学部薬学科教授。後に徳島文理大学に移って薬学部長を務めた。
由利 あけみ(ゆり あけみ、1913年(大正2年)1月28日… 由利 あけみ(ゆり あけみ、1913年(大正2年)1月28日 - 2010年(平成22年)1月25日)は、昭和期の歌手、声楽家(メゾソプラノ、アルト歌手)。本名・窪谷梅子(旧姓・加藤)。 広島県出身。高等女学校卒業後、建築家を目指して日本女子大学に進むが、兄の勧めで東京音楽学校を受験して合格、同校卒業。卒業後は女学校の教師になるが、歌手に転向する。 1936年(昭和11年)デビュー。1937年(昭和12年)コロムビアレコードに入り「夜のセレナーデ」で歌謡界にデビュー。間もなく移籍したテイチク時代のヒット曲としては、「歌の慰問袋」、「黒いパイプ」などがある。 1939年(昭和14年)ビクターレコードに移籍。
飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 201… 飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 2012年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期、公明党)、参議院議員(1期)、神戸学院大学教授。俳人。 愛知県名古屋市出身。1939年京都帝国大学法学部卒。同年満洲に渡り、総務庁協和会に勤める。1946年帰国し、翌年運輸省に入る。内閣調査室に出向、海上保安庁に戻ってからは、海上保安大学校の首席教授を最後に1969年に退職し神戸学院大学教授に就任した。 1974年の兵庫県知事選に公明党推薦で立候補するが落選、1976年の総選挙において兵庫3区から公明党公認で立候補して当選し2期務める。この間1977年4月18日の衆院法務委でロッキード事件の灰色高官を擁護する質問をした。
鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 198… 鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 1986年12月24日)は、英文学者、推理作家、早稲田大学名誉教授。 大阪府出身。早稲田大学文学部英文科卒業、旧制大学院修了。1939年、早稲田大学理工学部講師。1954年、早稲田大学文学部教授。1982年定年退職、名誉教授。その後は跡見学園短期大学教授、同大学学長を務めた。 1951年、探偵作家クラブ新年会の犯人当てゲームで2年連続して正解した実績を買われ、同ゲームのために「痴人の宴」を書き下ろし、同作が千代 有三の筆名で『宝石』に掲載されて探偵作家としてデビューする。 1954年、日本初のSF商業誌『星雲』を創刊された際、同年に組織された日本科学小説協会の参与となった。
東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1… 東園 基文(ひがしその もとふみ、1911年〈明治44年〉1月28日 - 2007年〈平成19年〉4月12日)は、日本の華族、宮内官僚。東園家14代当主。初名は伊達 宗文。 東園基光子爵の相続人となる。1934年(昭和9年)9月19日、家督を継承し、子爵を襲爵した。戦後は、宮内庁掌典長や神社本庁統理などを務めた。 伊達邦宗伯爵三男として宮城県仙台市に生まれる。学習院を経て北海道帝国大学農学部に進学した。同大学では馬術部に所属し、1931年に出場した第3回全日本学生馬術選手権大会で優勝したほか、第2代主将を務めた。 1934年大学を卒業し、東宮傅育官任官。同年大日本帝国陸軍騎兵少尉。1940年皇后宮事務官。
井口 愛子(いぐち あいこ、1910年1月28日 - 198… 井口 愛子(いぐち あいこ、1910年1月28日 - 1984年12月1日)は、日本のピアノ教育家・ピアニスト。東京府東京市日本橋区(現東京都中央区)出身。本名は、佐藤愛子(旧姓:井口)。 とくに基礎教育が専門分野であった。 音楽之友社・新音楽辞典による。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
小川 由加里(おがわ ゆかり、1910年(明治43年)1月2… 小川 由加里(おがわ ゆかり、1910年(明治43年)1月28日 - 1981年(昭和56年)8月26日)は、日本の彫刻家。本名は、小川緑。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)出身。高等小学校卒業後に指物師に入門。のちに自営独立し、1936年には知人に依頼されて木彫の聖観音像を制作。1937年元陸軍中将市瀬源助により蓼科高原横谷渓谷に護国の霊地を築くこととなり、金沢国有林の原木から斎戒沐浴半年かけて横谷観音堂『横谷聖観世音菩薩』像を制作し奉納鎮座された。1938年に上京して日本美術学校(のちの日本美術専門学校)に入学。池田勇八、吉田久継、岡野聖雲らに師事。1939年の第3回文展に『胸像』を出品して初入選。
児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 198… 児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 1986年10月20日)は、日本の歌手、教育者。 1909年(明治42年)1月28日、広島県広島市向洋(現:広島市南区向洋新町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一中学校(現:広島国泰寺高校)を1年で中退し、15歳になる1924年(大正13年)に渡米しパシフィック大学音楽科で学び、7年間をアメリカで暮らす。21歳になる1930年(昭和5年)の帰国後、日本青年館で音楽会を開催する。その後、イタリアに留学し、在欧5年でオペラを本格的に学んだ。1933年(昭和8年)、ミラノ音楽院を修了。 帰国後、25歳になる1934年(昭和9年)、ビクターの専属となる。
末吉 悌次(すえよし ていじ、1909年1月28日 - 20… 末吉 悌次(すえよし ていじ、1909年1月28日 - 2003年1月)は、日本の教育学者。長崎県生まれ。広島文理科大学教育学科卒。文学博士(広島文理科大学・1953年)(学位論文「社会的教育学の性格」)。広島大学教育学部教授、74年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28… 乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28日 - 1993年(平成5年)9月20日)は、日本の実業家。乾家5代目当主、乾汽船社長、広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長などを務めた。旧姓は高橋。 名古屋の旧家高橋家、高橋彦治郎(後に彦次郎に改名)の七男として生まれる。父彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。 幼少の頃から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習う。愛知一中、名古屋高等商業学校を卒業。 三井物産時代、四代目乾新兵衛こと日本鉄線鋼索の経営者乾新治の一人娘の道子と結婚。乾家に入るが、義父の急死で、33歳で乾汽船の社長に就任し、乾倉庫などの事業を引き継ぎ「関西のうるさ型」と言われ活躍した。
増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年)1月28… 増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年)1月28日 - 1995年(平成7年)6月17日)は日本の東洋史学者。専攻は清代史。 1907年、東京都生まれ。東京帝国大学文学部東洋史学科に進み、1930年に卒業。卒業論文は「清代の広東貿易について」。 卒業後は日本大学、東京外国語大学、明治学院大学、武蔵高等学校等で講師を務めた後、武蔵大学教授を経て、金沢大学法文学部教授に就任。1972年に金沢大学法文学部教授を定年退官。
藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 -… 藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 - 1992年8月15日)は、日本の医学者、細菌学者、医学史研究者。大阪大学名誉教授。神戸学院大学名誉教授。 1950年に集団食中毒の原因として腸炎ビブリオを発見した。適塾を主とした近代医学史の研究でも知られる。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎の甥。祖父藤野升八郎から三代続けての医家。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小原 嘉登次(こはら かとじ、1906年 <明治39年> 1… 小原 嘉登次(こはら かとじ、1906年 <明治39年> 1月28日 - 1999年 <平成11年> 9月22日)は、日本の実業家、佐賀県議会議員(11期)。佐賀県議会議長。位階は従四位。 佐賀県藤津郡吉田村(のち嬉野町、現・嬉野市)の材木商の長男に生まれる。 吉田高小卒業。実業家を目指して大阪に出て、吉田村の焼き物の行商などをして修行を重ね、フィリピンに渡ってマニラ麻の栽培やホテル勤めをするなどして帰国。1937年に吉田村議に初当選した。 1943年に嬉野温泉の旅館を買収し、「和多屋別荘」を興した。宴会客の確保へ大広間整備、客室ごとの風呂場設置、花火大会の開催などアイデアを次々と打ち出して旅館業を発展させるとともに、佐賀県経済人としての地位を築く。
吉橋 鐸美(よしはし たくみ、1905年1月28日 - 没年… 吉橋 鐸美(よしはし たくみ、1905年1月28日 - 没年不明)は日本の大蔵官僚。名古屋財務局理財部長、名古屋財務部長、東海財務局長(初代)、近畿財務局長、名古屋証券取引所理事長などを歴任。 愛知県出身。1929年12月に高等試験司法科に合格し、1930年10月には高等試験行政科に合格。関西大学法文学部法律学科卒業。1932年1月 大蔵省入省(専売局書記・大阪地方専売局)。1946年11月 銀行局監査課長。1947年9月 名古屋財務局理財部長。1949年6月1日 名古屋財務部長。1950年5月4日 東海財務局長。1952年3月1日 近畿財務局長。1953年11月2日 退官。同年11月 地方銀行協会常務理事。
稲村 松雄(いなむら まつお、1905年1月28日 - 19… 稲村 松雄(いなむら まつお、1905年1月28日 - 1996年11月12日)は、日本の英語教育学者。 東京府八王子に織染工場の子として生まれる。静岡高等学校卒業、1929年東京帝国大学文学部英文科卒業。1931年静岡高等学校教授、1950年静岡大学教授、1952年学習院大学教授、1975年定年、名誉教授。1974年『ランダムハウス英和大辞典』で日本翻訳出版文化賞受賞。
星川 清孝(ほしかわ きよたか、1904年1月28日 - 1… 星川 清孝(ほしかわ きよたか、1904年1月28日 - 1993年7月11日)は、日本の漢文学者。学位は文学博士。 佐賀県小城郡小城町生まれ。1926年旧制大阪高等学校文科乙類卒業、1929年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。松本高等学校教授、水戸高等学校教授を経て、茨城大学教授、1970年定年退官し名誉教授。桜美林大学教授、1979年に定年退休。 1959年「楚辞の研究」で、九州大学・文学博士の学位を取得、1962年同著で第14回読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。
中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37… 中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37年〉1月28日 - 1947年〈昭和22年〉5月30日)は、日本の詩人、ロシア文学者。 茨城県真壁郡紫尾村大字酒寄(真壁町を経て現桜川市)で、開業医・中山清、りう の三男として生まれた。生後ひと月余りで母りうが亡くなり、紫尾村を離れて父の実家の大宝村へ移って育つ。同郷の詩人・横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌を発行し、ロシア文学を翻訳・研究。また、詩人としては、日夏耿之介を介して北原白秋の知遇を得て、作品上でも私的にも親交があった。さらに、詩を書く他にも、横瀬夜雨や長塚節の遺稿集の編集などを行った。
齋藤 昇(さいとう のぼる、1903年〈明治36年〉1月28… 齋藤 昇(さいとう のぼる、1903年〈明治36年〉1月28日 - 1972年〈昭和47年〉9月8日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は正三位。 運輸大臣、厚生大臣、警察庁長官を務めた。参議院議長を務めた斎藤十朗は子息。 三重県阿山郡東柘植村(現在・伊賀市)出身。父・角蔵、母・のぶへの長男として生まれる。 上野中学、八高を経て、東京帝国大学入学。 1925年(大正14年)に東京帝大農学部農学科を卒業し、1926年(大正15年)高等試験に合格した。1927年(昭和2年)、内務省に入省した。1928年(昭和3年)に東京帝大法学部政治学科を卒業する。地方局属、地方局行政課長、大臣官房文書課長、防空総本部総務局長等を歴任した。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
堀江 薫雄(ほりえ しげお、1903年(明治36年)1月28… 堀江 薫雄(ほりえ しげお、1903年(明治36年)1月28日 - 2000年(平成12年)8月27日)は、日本の銀行家、経済学博士。東京銀行頭取を務めた。 徳島県麻植郡鴨島町に生まれる。旧制徳島中学校、 第五高等学校を経て1928年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後、横浜正金銀行に入行、海外各支店に勤務した。終戦後、GHQの命令により、横浜正金銀行改組室長に任命されて整理にあたり、東京銀行を創立した。1946年、取締役となり、常務取締役、副頭取、頭取、会長を歴任し、1967年に退任した。 1952年にサンフランシスコで行われた対日講和条約の調印では吉田茂首相の経済演説の原稿を書くとともに、その講義を一週間続けて行った。
吉村 廉(よしむら れん、1903年1月28日 - 1988… 吉村 廉(よしむら れん、1903年1月28日 - 1988年1月21日)は、佐賀県東松浦郡浜玉町出身の日本の映画監督。 佐賀県立唐津中学校(旧制)、東京写真専門学校卒業。1925年、助監督として日活京都大将軍撮影所へ入所。その後、太秦撮影所では内田吐夢監督の助監督を務め、1931年に『作業服』で監督デビューを果たした。 歌謡曲を題材とした、歌謡映画を多く監督したが、1965年(『 大日本チャンバラ伝 』を監督した後)監督業から引退した。
井村 重雄(いむら しげお、1903年(明治36年)1月28… 井村 重雄(いむら しげお、1903年(明治36年)1月28日 - 1972年(昭和47年)3月22日)は、日本の医師、政治家。金沢市長(2期)。衆議院議員(3期)。
伊藤 清(いとう きよし、1903年(明治36年)1月28日… 伊藤 清(いとう きよし、1903年(明治36年)1月28日 - 1980年(昭和55年)2月16日)は、日本の内務官僚、国会職員。官選島根県知事。位階は従三位。 東京府出身。伊藤徳次郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県属となる。 以後、和歌山県課長、大阪府課長、京都府課長、東京府課長、厚生省児童課長、和歌山県総務部長などを経て、兵庫県部長・内政部長となる。 1945年9月、島根県知事に就任。戦後の復興に尽力。1946年1月、東京都次長に転じた。後に公職追放となる。 その後、特別調達庁契約局長、参議院事務局内閣委員会調査室長、東京家庭裁判所参与を務めた。
隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 -… 隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 - 1978年1月25日)は、美術史家。近代日本美術の研究に貢献。 鹿児島県鹿児島郡中郡宇村大字中(現在の鹿児島市鴨池)出身。1924年旧制第七高等学校理科卒業。1928年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、1931年大学院西洋美術史専攻中退。1932年帝国美術院附属(1947年から国立博物館附属)美術研究所入所。1951年美術研究所第二研究部長となり、1952年の改組によって東京文化財研究所(1954年東京国立文化財研究所と改称)美術部第二研究室室長、1966年退職。1966年から1974年まで東京家政大学教授。その他、文化財保護審議会専門委員、東京国立近代美術館評議員も務めた。
高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月… 高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。 愛媛県伊方町出身。母親を少年時代に亡くす。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。1922年12月、「今から俺はダダを全世界に宣伝するのだ」と言ってタクシーの運転手をステッキで殴る事件(発狂事件)を起こして逮捕される。 1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
植木 庚子郎(うえき こうしろう、1900年〈明治33年〉1… 植木 庚子郎(うえき こうしろう、1900年〈明治33年〉1月28日 – 1980年〈昭和55年〉3月11日)は、昭和期の政治家、大蔵官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。法務大臣(第15、28代)、大蔵大臣(第76代)、衆議院議員(9期)。 福井県丹生郡天津村清水山(後の清水町清水山、現在の福井市清水山町)に、清水伊右衛門の長男として生まれる。後に植木信一の養子となる。福井県立福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)を首席で卒業後、第一高等学校を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科を卒業、大蔵省に入省する。税務監督局兼主税局属。 主計局調査課長、主計局予算課長、主計局長、専売局長官を歴任するが、1946年公職追放により退職する。
大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28… 大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1900年1月28日、高知県で大石寛の長男として生れる。中学海南学校(同級生に横山一郎が首席でいた)を経て、1920年7月、海軍兵学校(48期)を卒業。1921年6月、海軍少尉任官。1923年12月、海軍中尉に昇進し、砲術学校普通科学生を拝命。1925年12月、海軍大尉に昇進し、海軍大学校航海科に入学。1926年12月、「浦風」航海長に就任。1928年12月、練習艦隊参謀に就任。1929年12月、「迅鯨」航海長に就任。1930年4月、「対馬」航海長に就任。
尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 195… 尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 1956年5月15日)は、日本の法学者(法哲学)。日本学士院会員。第3期日本学術会議副会長。 漢学者で銀行家である尾高次郎の三男として生まれる。大韓帝国の釜山市生まれ。1916年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した後、第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。初め外交官を志すも、親の反対により諦め、京都帝国大学文学部に進学し、文学部卒業後は大学院で哲学を研究する。京都帝国大学では西田幾多郎、米田庄太郎に師事した。 1927年、兄・豊作と共に、東京社会科学研究所を設立し、所長に大塚金之助を、常務理事に田辺寿利を、所員に杉本栄一や高島善哉を招くなどした。
臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 19… 臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 1980年2月9日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 栃木県栃木市出身。1921年に東京高等工業学校窯業学科を卒業した。 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドを経て、現在のノリタケ)での勤務を経て、1924年に伊奈製陶に転じ、1933年に取締役、1948年9月に常務を経て、1963年12月に社長に就任した。1968年10月、相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章した。 1980年2月9日、脳梗塞のため死去した。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - … 池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - 1986年3月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)、社団法人内外事情研究所理事長。 山形県飽海郡観音寺村芹田(現酒田市観音寺)出身。1922年日本大学新聞創刊。1926年日本大学政治学科を卒業後、読売新聞記者となる。論説委員を経て三木武吉の知遇を得て報知新聞に入社。常務などを歴任後、同盟通信社理事となる。 1942年の翼賛選挙に非推薦候補として初当選。戦争末期には護国同志会に参加。思想検事の大御所である塩野季彦の司法大臣時代には秘書官も務めた。 戦後、護国同志会のメンバーとともに日本協同党の結成に参加。
尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月2… 尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月28日 - 1977年〈昭和52年〉6月28日)は、昭和期の露天商、関東尾津組組長。 東京府本所相生町(現在の東京都墨田区)に鍛冶職人の子として生まれる。母は水戸藩の士族の娘であったが、尾津が2歳のときに出奔し消息不明になる。 独力で府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)に合格するが、継母の反対により入学を許されず、激怒した尾津は家を飛び出した。 職を転々とした後、的屋組織飯島一家に属す。右翼団体「皇国決心団」を組織し、摂政宮(後の昭和天皇)の車列警備を妨害したブラジル公使に抗議しブラジル公使館に殴り込みをかけるなどの売名行為を行った後、新宿で関東尾津組を結成。
足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日… 足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日 - 1974年(昭和49年)4月2日)は、日本の政治家。鳥取県境港市長(初代)。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現境港市福定町)出身。 京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)卒業。郡是製紙の技師として占領下の中国に渡り、帰国した昭和16年(1941年)から5年間、余子村長に、昭和29年(1954年)に境港町長に、昭和31年(1956年)市制施行に伴い初代の境港市長にそれぞれ就任した。 市長を退任するまで村長、町長を含め18年間、地方行政の長として境港市の基盤づくりに努めた。 足立について、次男の足立純一によると
清水 泰(しみず ゆたか、1894年〈明治27年〉1月28日… 清水 泰(しみず ゆたか、1894年〈明治27年〉1月28日 - 1969年〈昭和44年〉9月13日)は、国文学者。 山梨県北巨摩郡安都那村(現・北杜市)生まれ。水上勘三郎の次男として生まれ、清水有文の養子となった。1925年京都帝国大学(現・京都大学)文学部国文科卒。龍谷大学教授、1941年立命館大学教授。1964年退任、名誉教授。1962年「継子物語の研究」で京都大学文学博士。 弟に水上達三がいる。
宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 … 宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 - 1934年2月27日)は、日本の文芸評論家、英文学者。 埼玉県出身。早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。島村抱月に師事し、各国文学の翻訳を行うほか現代日本文学の評論も行い、1927年早大教授。 1934年2月27日、死去。42歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
森部 隆輔(もりべ りゅうすけ、1891年(明治24年)1月… 森部 隆輔(もりべ りゅうすけ、1891年(明治24年)1月28日 - 1978年(昭和53年)8月6日)は、日本の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員、参議院議員。 福岡県上座郡福成村大字長淵(のち朝倉郡大福村大字長淵、現朝倉市長渕)で、篤農家・森部隆造、ウメノ夫妻の三男として生まれた。1911年、東京高等農学校を卒業した。 1916年、長淵信用購買販売組合を設立して組合長に就任。福岡県農会常任幹事、福岡県会議員(5期)、同副議長、上座銀行頭取、産業組合中央会福岡県支会副会長、福岡県農会長、福岡県青果統制会社社長、帝国耕地協会理事、福岡県農業協会理事長、福岡県養蚕組合連合会長などを歴任。1942年4月、第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け福岡県第一区から出馬して当選。
岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1… 岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1943年4月28日)は日本の記者、労働運動家。木曜会、新人会の参加者。クロポトキンとレーニンにちなむ黒田 礼二(くろだ れいじ)の筆名で知られる。 高知県長岡郡大篠村(現・南国市)出身。第一高等学校卒業。東京帝国大学の新人会(前期新人会)に参加。また、麻生久らの木曜会に参加する。1916年に東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、満鉄東亜経済調査局に勤務し、ロシア革命について研究。1920年の第2回ILO総会に政府代表嘱託として参加後、大阪朝日新聞モスクワ特派員、ベルリン特派員などを歴任。1922年のプロフィンテルン第2回大会において山本懸蔵の通訳として活躍。
橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月… 橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月28日 – 1944年(昭和19年)1月27日)は、衆議院議員(立憲民政党)、内務官僚。 福岡県福岡市出身。1908年福岡県立中学修猷館を経て、東京帝国大学文科大学哲学科で社会学を専攻し、1918年(大正7年)に卒業した。警視庁属となり、警部、警視と昇進した。本所警察署、向島警察署、日比谷警察署、四谷警察署の署長を歴任し、監察官に昇った。1927年(昭和2年)に退官した後は、東京市会議員に選ばれ、市参事会員も務めた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、頼母木桂吉東京市長のもとで第二助役を、大久保留次郎同市長のもとで第一助役を務めた。
白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889… 白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889年1月28日 - 1961年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、教員、独立運動家、政治家。二・八独立宣言を主導したほか、第7代東亜日報社社長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏、号は芹村(クンチョン、근촌)。白仁傑(朝鮮語版)の10代孫で、父は白道鎮、独立運動家の白麟洙は従兄。実業家・漢陽大学校創設者の金連俊(朝鮮語版)は娘婿、元漢陽大学校総長の金鍾亮(朝鮮語版)は外孫。 朝鮮国全羅北道(現・大韓民国全北特別自治道)高敞郡星内面(朝鮮語版)出身。5歳の時に田愚(朝鮮語版)の下で漢学を学んだ後、同郷で友人である金性洙・宋鎮禹とともに白羊寺清流庵(朝鮮語版)で修業をし、韓承履の下でも学んだ。
岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月2… 岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月27日)は、大正から昭和前期の政治家。衆議院議員(4期)、鹿児島市長(第13代)。号・五山。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下平之馬場町(現・鹿児島市平之町)で、岩切仲二の長男として生まれた。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 その後鳥取県属、同警視、鹿児島市助役、大蔵大臣秘書官を務め、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から立憲政友会で立候補して初当選。以後通算4期務めた。その後、同郷の床次竹二郎が政友会を離党し、政友本党を結成するとそれに従い、政友本党が憲政会と合流し、立憲民政党が結成されると同党に入党した。
川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月… 川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1968年〈昭和43年〉9月12日)は、大正・昭和の労働運動活動家・政治家。後に日本共産党国会議員団長となる。娘は洋画家の川上律江。 岡山県哲多郡(現・新見市)出身。 1907年(明治40年)県立農学校を卒業後、代用教員や岡山県職員を務め、後に大阪府の社会課主事に転じる。1927年(昭和2年)に昭和文化学会に参加して以後、共産党シンパとしての活動を強め、翌年には検挙を受ける。また、1937年(昭和12年)の人民戦線事件でも検挙されて懲役2年の実刑判決を受けている。この間、マルクス経済学を学び、社会主義系の雑誌や研究所の立ち上げに関与した。
緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 197… 緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 1970年2月6日)は、日本の医学者、細菌学者。 東京府出身。父は衛生学者、細菌学者である緒方正規。1916年に東京帝国大学医科大学を卒業。その後、父のもとで細菌学を学び、東大副手、助手を務め、1919年に千葉医学専門学校の教授となった。1922年にドイツに留学した。帰国後の1924年に千葉医科大学の教授となった。その後は、帝国女子医学専門学校教授、東邦大学医学部教授、日本歯科大学教授を歴任した。 1927年にウサギの睾丸にツツガムシ病患者の血液を接種し、睾丸から睾丸へ継代することにより、ツツガムシ病の病原を患者から研究室に確実に持ち込むことに初めて成功した。
濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年… 濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年) – 昭和40年(1965年)5月9日)は、大正から昭和前期時代にかけての日本画家。本名栄次郎。帝国絵画協会、国民美術協会評議員を歴任。 1886年(明治19年)富山県婦負郡四方町(現富山市)に生まれる。1900年富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)へ入学、1902年中島秋圃が同校に赴任すると秋圃宅に下宿して日本画の教授を受ける。1905年東京美術学校日本画科に進み、寒声の号で雑誌の挿絵を画く。1910年同校師範科に進む。当初は結城素明、後に紹介推薦で川端玉章の門に入るも画風に疑問をもち脱退する。その後寺崎広業に師事し、和漢の古画の模写に努める。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 195… 小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 1959年8月30日)は、日本の政治家。岡山県阿哲郡新見町(現・新見市)生まれ。近藤鶴代は妹。 新見の旧家・近藤家に生まれ、8歳の時に真庭郡八束村(現・真庭市)の小谷家の養子となる。岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)卒業後、1906年に上海の東亜同文書院入学(第5期生)。古河鉱業(現・古河機械金属)を経て、1914年に青島で『大青島報』(後の『青島大新民報』)を創刊、1916年には貿易会社「天佑公司」を創立した。帰国後、1928年に衆議院議員に当選し、1945年の日本の敗戦後に公職追放された。岡山では親切運動を展開した。
大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月… 大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月28日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の鉄道官僚。樺太庁豊原市長。 富山県下新川郡道下村(現在の魚津市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。鉄道院書記、同参事補、同参事、鉄道省参事を務め、仙台鉄道局庶務課長、札幌鉄道局教習所長、室蘭運輸事務所長を歴任した。1930年(昭和5年)に樺太庁鉄道事務所長に就任した。 退官後、富山県で弁護士を開業し、1940年(昭和15年)には魚津町(現在の魚津市)の町長に就任した。 1942年、豊原市長に就任。終戦後はソ連軍との折衝に尽力し、1947年(昭和22年)に引き揚げた。