日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)… 日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)は日本の映画監督、脚本家。宮崎県出身。通り名は「はんめい」。妻は元東宝専属女優の川合玉江。 主に時代劇やアクション映画などの監督を務めた。 宮崎中学校卒業後、衣笠貞之助に師事。 1936年(昭和11年)、松竹下加茂撮影所に入社。 1941年(昭和16年)、東宝に移籍。 1950年(昭和25年)、『淑女と風船』を中野潔と共同監督。 1954年(昭和29年)、『透明人間』(小田基義監督)以後、映画脚本家としても活躍。 1955年(昭和30年)、『姿なき目撃者』で正式に映画監督デビュー。 1959年(昭和34年)、東宝を退社。 1960年(昭和35年)、第二東映に入社。
土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年1… 土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年12月13日)は、日本の陸軍軍人、スパイ、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ビルマ作戦に従事。 1916年、宮崎県都城市出身。陸士49期。1937年、歩兵第四十五聯隊第一中隊所属、小隊長見習士官。日中戦争に少尉として従軍、正定城攻略戦では日本刀を手に白兵戦を敢行する。機関銃や迫撃砲攻撃の最中、手榴弾を投げる敵に太刀をふるった(証言者の福田清造伍長も銃剣で二人倒す程であった)。固安城の攻撃では第九十一師五百四十五団の敵歩兵2,200人を相手に突撃した。
広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 198… 広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 1982年10月11日)は、日本の柔道家(講道館九段)。 身長170cmに満たない小柄な体格ながら、戦前の明治神宮競技大会、昭和天覧試合、日本選士権大会、全日本東西対抗大会、戦後の全日本選手権大会等の主要大会で永く活躍。後に大阪府警察の柔道師範として後進の指導に当たり、今日の府警柔道の礎を築いた。 宮崎県出身。身長150cm・体重70kgの小躯ながら支釣込足や巴投、肩車の名手として名を馳せた尾崎伊助8段に柔道の手ほどきを受け、旧制都城中学校(のちの県立都城泉ヶ丘高校)を経て武徳会武道専門学校に進学すると、磯貝一や田畑昇太郎ら範士、阿部謙四郎等の先輩に学び、終生の得意技となる払腰・釣込腰・一本背負投等に磨きをかけた。
黒木清次(くろき せいじ、1915年5月2日 - 1988年… 黒木清次(くろき せいじ、1915年5月2日 - 1988年8月22日)は、日本の作家、詩人。 宮崎県西諸県郡須木村(現小林市)生まれ。宮崎師範学校(のち宮崎大学)卒。小学校教員となる。1938年に富松良夫らと同人誌『龍舌蘭』を創刊。太平洋戦争中は上海に渡り、『上海文学』を創刊する。43年「棉花記」で芥川賞候補。戦後、宮崎市の日向日日新聞社(現・宮崎日日新聞社)勤務、のち同社社長(1977~1982)。
大迫 倫子(おおさこ りんこ、1915年1月22日 - 20… 大迫 倫子(おおさこ りんこ、1915年1月22日 - 2003年10月4日)は、日本の作家。
児玉 英水(こだま ひでみ、1914年 - 1945年)は日… 児玉 英水(こだま ひでみ、1914年 - 1945年)は日本の舞台プロデューサー。宮崎県西都市出身。 西都市三宅に、教育者の長男として生まれる。法政大学法学部入学後、1939年のノモンハン事件に出征、九死に一生を得て帰国する。帰国後、東宝に入社、日劇の企画に配属。翌年上演される紀元2600年奉祝、第81回日劇ステージショー、「民族舞踊・日向」の、プロデューサーを任され、1940年11月、1か月にわたるロングランで、17万人もの観客を集める大成功をもたらした。1943年に報道班員としてマニラに渡り、終戦を前にした1945年7月20日、31歳で戦死した。 満映のスター李香蘭が初めて日本の舞台を踏んだ際(1941年2月11日:「歌う李香蘭」)、押し寄せたファンが日劇を取り巻く、いわゆる日劇七回り半事件が発生、警察官が出動して取り締まりに当たる騒ぎになったが、公演期間中エスコートしたのが英水であり、それを機会に李香蘭と交流することとなる。
五代 夏夫(ごだい なつお、1913年3月25日- 2016… 五代 夏夫(ごだい なつお、1913年3月25日- 2016年9月30日)は、日本の作家。 宮崎県(現日向市)生まれ。本名・松尾強。満州建国大学研究院修了。満州国政府に勤務、戦後文筆家となり、1964年「那覇の木馬」で文学界新人賞受賞、芥川賞候補。鹿児島を拠点に地方文化人として活動を続ける。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
河野 扶(かわの たすく、1913年(大正2年)- 2002… 河野 扶(かわの たすく、1913年(大正2年)- 2002年(平成14年)8月14日)は、日本の洋画家。
有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、… 有田 正憲(ありた まさのり、1912年 - 没年不明)は、宮崎県都城市出身の右翼、特殊株主、政治運動家(笹川良一秘書)、天理教布教師。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月1… 瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田 秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。 宮崎県宮崎市に生まれる。瑛九の生家は宮崎市内で眼科医院を営んでいるが、極度の近視のため家業を継ぐことはできなかった。1925年、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)を中退して上京。日本美術学校卒業。 1934年に生涯の友人となる画家の山田光春(当時は教員)と出会う。1935年に中央美術展に初入選した。山田らと芸術家クラブふるさと社を結成した。この頃より美術評論家の外山卯三郎や、画家の長谷川三郎と親交を深める。
坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 199… 坂元 親男(さかもと ちかお、1911年2月2日 - 1998年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。 宮崎県北諸県郡高崎町(現都城市)出身。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校・附属中学校)を経て、1932年、京都高等蚕糸学校(現:京都工芸繊維大学)卒業。宮崎県議会議員を5期務めた後、1969年の衆院選に自由民主党公認で出馬し初当選。1972年の衆院選で落選。1976年の参議院議員補選に宮崎県選挙区から無所属で出馬し当選。その後自民党に復党。参議院当選3回。自民党では番町政策研究所(三木武夫→河本敏夫派)に所属。1988年12月から翌年の6月まで竹下改造内閣の北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官を務めた。
森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 -… 森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。
上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8… 上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8月29日 - 2011年(平成23年)12月27日)は、日本の内務官僚、建設官僚、政治家。参議院議員(2期)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。旧制高鍋中学校卒。1936年に宮崎県庁に入り、1941年に内務省に転じる。1945年、内務省国土局内務理事官。1957年、国土地理院総務部長になる。建設省大臣官房福利厚生課長を経て、1965年、建設大学校校長。退官後、全国建設研修センター理事長、日本道路公団顧問を経て、1974年の参院選で宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。2期務めた。この間、1977年から1978年まで科学技術政務次官、1981年から1982年まで参議院地方行政委員長に就任。
高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 19… 高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 1998年6月2日)は、宮崎県生まれの詩人、政治家。 中原中也と親交が深かったことで知られる。旧制成城高等学校時代に後輩の吉田秀和と同居を始め、吉田のフランス語の家庭教師だった中也と知り合った。当時高森は21歳、中也は24歳だった。高森は同人誌「白痴群」などで発表されていた中也の詩をすでに読んでいたため、二人はすぐに仲良くなり、1932年5月には京都・奈良を二人で旅行。8月には山口県に帰省中だった中也を高森が訪問した後に二人で高森の実家の宮崎へと向かい、そのまま九州旅行をした。中也の死後も積極的に回想などを綴り、研究にも協力した。中也が藁の上で寝転んでいる有名な写真は、中也が宮崎を訪れた際に高森の手で撮影されたものである。
斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 20… 斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 2000年9月30日)は、日本の平和運動家。 宮崎県延岡で、7人兄弟中の3姉妹の長女として生まれた。父は教員で、各地の学校で校長を務めた。 1930年に、東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科を卒業した。在学中は幼児教育を専門とした倉橋惣三に師事し、またテニスに打ち込んだ。その後、結婚して東京・中野に定住したが、戦時中の1944年には山形県に疎開していた。 1950年代に、PTA活動に参加するようになったことをきっかけに、社会問題への関心を深め、1954年の第五福竜丸の被爆事件を機に、安井郁らが組織した主婦学習グループ「杉の子会」に加わり、原水爆禁止運動、平和運動に関わり始め、1955年に『朝日新聞』への投書をきっかけに投稿者らの女性グループ「草の実会」に参加して、1967年には「草の実会」を母体に平和研究グループを組織し、原水爆禁止運動などに取り組んだ。
中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7… 中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7日 - 1963年(昭和38年)2月26日)は、宮崎県出身の小説家、銀行家。宮崎県立図書館長、宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長。自らが憧れた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。筆名であり、本名は中村治兵衛。 1908年(明治41年)、現宮崎市淀川町に中村常三郎の次男として裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代、佐藤春夫の台湾小説を読んで南方に憧れ、1930年(昭和5年)3月、台湾総督府立台北高等学校を卒業。同年4月、東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の1932年(昭和7年)「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。
石神 啓吾(いしがみ けいご、1907年(明治40年)8月3… 石神 啓吾(いしがみ けいご、1907年(明治40年)8月31日‐ 2001年(平成13年)8月21日) は、昭和期の政治家。衆議院議員(1期)、宮崎県東諸県郡高岡町長。 宮崎県東諸県郡高岡村(高岡町を経て現宮崎市)で、教育者・石神徳蔵の息子として生まれた。旧制宮崎県立都城中学校を経て、第七高等学校造士館で学んだ。 宮崎県会議員に選出され、同参事会員も務めた。 戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本社会党所属で立候補して落選。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で旧宮崎県第2区から立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に立候補したが落選した。
岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月… 岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月19日 - 昭和52年(1977年)10月21日)は、昭和時代に活躍した日本の音楽家(作曲家)。 1929年(昭和4年)、玉川学園教師、1940年(昭和15年) 、日本放送合唱団で指揮を5年とった後、1942年(昭和17年)からは興亜工業大学(現・千葉工業大学)の音楽担当教員(正科目)などを務めた。戦後は国立音楽大学の設立に携わるとともに文部省図書編集委員として、音楽教科書、音楽学習の指導要領の作成に携わった。また日本基督教団讃美歌委員としても活躍。多くの讃美歌を残す。父は組合教会牧師岡本松籟。教会においてオルガンの音を聴きつつ育った。
黒木 博(くろき ひろし、1907年2月10日 - 2001… 黒木 博(くろき ひろし、1907年2月10日 - 2001年12月24日)は、日本の政治家。宮崎県知事。宮崎県宮崎市出身。宮崎県立高鍋農学校(現・宮崎県立高鍋農業高等学校)、宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学)卒。 宇都宮高等農林学校卒業後、宮崎県庁に入庁。農林大臣秘書官、県副知事などを務めた後、県知事選挙に出馬し当選。 以来、約20年間で通算6期連続当選したが、6期目の当選後まもなくトンネル工事に絡んだ3000万円の賄賂を受け取った容疑で1979年に逮捕され、辞職した(黒木事件)。一審では有罪判決が下ったが、二審で逆転無罪判決、後に無罪が確定した。ただし、裁判では賄賂性は否定されたものの建設業界から3000万円を授受したことと3000万円の使途に関する黒木の供述は信用できないことは認定された。
本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮… 本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮崎県において埴輪の複製の制作に従事し、多数の作品を残した女性。「はにわ製作の先駆者」と評される。1955年には、宮崎市に本部はにわ製作所を開業して、以降、土産物などとして販売される埴輪を多数制作した。 1963年に開園した宮崎市の平和台公園にある「はにわ園」には、本部が制作した複製の埴輪およそ400基が配置された。 本部マサは、下穂北村(後の西都市の一部)に生まれた。父親の大次郎は、林業経営の傍ら商家でもあったが、古墳の遺跡や出土品への関心をもっており、西都原古墳群の発掘調査にも関わりがあったため、マサは幼い頃から出土品に触れる機会があった。
椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月… 椎井 康雄(靖雄、しい やすお、1906年(明治39年)1月15日 - 1989年(平成元年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県宮崎郡佐土原町(現宮崎市)出身。1920年(大正9年)宮崎商業学校(現宮崎県立宮崎商業高等学校)を卒業した。 1937年(昭和12年)昭和水産合資会社常任理事に就任。その他、対満薬品工業社長、ツシマ化粧品社長、宮崎県運搬業組合長、社団法人華陽会理事会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で宮崎県地方区に日本社会党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、参議院議員に1期在任した。その後、1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に立候補したが落選した。
村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1… 村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1998年7月8日)は、日本の陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者。ベルリン五輪代表。 宮崎県宮崎市出身。小柄ながらも力強い走法で選手として活躍、引退後も毎日マラソンの設立や後進の育成など陸上界の発展に尽力した。 旧制宮崎中学校テニス部時代にロードレース大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始めた。 1925年(大正14年)中学卒業後、都城歩兵第23連隊に入隊。1927年(昭和2年)に除隊し宮崎県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに中央大学法学部法律学科に進学。 中央大学在学中の1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。
可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没… 可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は森 実雄。最高位は十両4枚目。 宮崎県延岡市出身。出羽海部屋に入門し、1926年1月「嶋和泉」の四股名で序ノ口に就く。番付を上げ、1932年1月には幕下上位だったが、春秋園事件による大量の脱退者が出たため、その穴埋めのため十両に昇進した。2場所続けて勝ち越すことなく同年5月に幕下に落ちた。この場所から「可愛嶽」と改名した。1933年1月再び十両に上がったが、2場所続けて負け越して幕下に落ち、1934年1月に廃業した。
中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月2… 中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の政治家。大阪市長(1963年 - 1971年)。元衆議院議員の中馬弘毅は長男。 1904年11月20日宮崎県児湯郡三納村(現:西都市)に中馬重顕の長男として出生。1916年宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)入学。1920年攻玉社中学校(現:攻玉社中学校・高等学校)に編入し、1922年卒業。 1926年第一早稲田大学高等学院卒業。1929年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。大阪市役所に奉職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年に助役となり、大阪市立大学の開設、ジェーン台風被災者の救援活動に尽力した。
是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - … 是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - 1934年6月10日)は、日本の戦前の政治運動家。 鹿児島県鹿児島郡谷山村(現鹿児島市)生まれ。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島県立第一鹿児島中学校から宮崎県立宮崎中学校に転校、4年修了で第七高等学校へ進学。 七高在学中の1922年に村尾薩男、喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝国大学文学部社会学科に進学、新人会、学生連合会、学生社会科学連合会の中心的指導者の一人であった。 1925年10月、共産主義者グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男と3人で学生運動に対するフラクションを構成した。
坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月… 坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月1日 - 1990年(平成2年)1月16日)は、毎日新聞社元常務取締役(大阪本社代表)、毎日放送(MBS)元社長・会長、テレビ東京(TX)元取締役、宮崎放送(MRT)元取締役。 宮崎県延岡市出身。旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、京都帝国大学卒業後、1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞社へ入社。1943年(昭和18年)に大阪毎日新聞と東京日日新聞は新聞統制で東西で異なっていた題号を「毎日新聞」に統一し、両紙の発行元であった大阪毎日新聞社は社名を「毎日新聞社」に改めてから、バンコク特派員、広島支局長、郷里である宮崎支局長、宮崎放送取締役を務め、毎日新聞社常務取締役(大阪本社代表)に就任した。
坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 -… 坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 - 1995年2月4日)は、日本の教育・保育学者。岡山大学名誉教授。 宮崎県都城市生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒、姫路師範学校教諭、1943年岡山師範学校女子部長、1945年11月大阪第一師範学校女子部長、文部省初等教育課長、1949-51年岡山師範学校校長、岡山大学教育学部長(-56年)・教授、1958年名誉教授、お茶の水女子大学教授、59年お茶の水女子大学附属幼稚園長、1969年青山学院大学教授、洗足学園大学教授、1974年十文字学園女子短期大学学長。1984-94年旭出学園 (特別支援学校) 校長。 1959年NHK放送文化賞受賞。
富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年… 富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年11月)は、日本の詩人、作詞家、文芸評論家。 教育家富松柏の長男として宮崎県都城市姫城町に生まれる。母方の親戚に有馬馨がいる。 6歳のとき脊髄カリエスにかかり身体障害者となる。翌年には生母を亡くし、伯母に背負われて小学校に通った。1917年に高等小学校を卒業、1919年にキリスト教の洗礼を受ける。1925年に文芸誌「盆地」を刊行し、1929年に詩誌「白」を主宰。いずれもガリ版刷りであった。1930年に友人坂元彦太郎の助力により第一詩集『寂しき候鳥』を出版。1938年、黒木清次らと「竜舌蘭」を創刊。 独学で美術論、音楽論、宗教論を書き、またフランス語を学び訳詩もした。
甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28… 甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28日‐ 1979年(昭和54年)9月13日) は、昭和期の満洲国官僚、放送関係者、政治家。衆議院議員(3期)。 宮崎県東臼杵郡北方村(北方町を経て現延岡市)で生まれた。城小学校、延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)、第五高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 同年3月、満洲に渡り鉄嶺自治指導委員長を経て、満洲国国務院民政部事務官、総務庁人事科長、遼陽県参事官兼地籍整理局事務官、瀋陽県支局弁事、遼陽副県長、瀋陽副県長、総務庁参事官、黒河省開拓庁長、拝泉県副県長、総務庁参事官・官房弁事、中華民国山西省顧問などを務めた。
稲田 安良(いなだ やすよし、1901年〈明治34年〉4月2… 稲田 安良(いなだ やすよし、1901年〈明治34年〉4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月26日)は、陸軍歩兵(大佐)。正五位、勲四等。 1901年(明治34年)4月27日、北諸県郡山之口(現都城市)において稲田安彦の長男として生まれる。父・稲田安彦は元陸軍中尉であり、都城中学校の兵式体操の教官を務めていたこともある。1916年(大正5年)9月、都城中学校の第2学年から広島陸軍地方幼年学校に入校し、同校を経て、同年12月7日に陸軍士官学校本科を卒業(陸士第35期生)した。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第64連隊附となる。 1925年(大正14年)5月、歩兵第13連隊附に補せられる。
石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 -… 石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 - 1990年10月30日)は、日本の歴史学者。 宮崎県日向市生まれ。宮崎県立延岡中学校、専修大学卒業。「日州新聞」「大阪毎日新聞」などの記者を経て1940年、宮崎県立上代日向研究所特別委員となる。戦後は宮崎県文化財専門委員として考古学や地方史研究に携わる。歴史研究のかたわらラジオ番組で郷土史の講義を行う。1960年宮崎県文化賞を受賞。
川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8… 川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚、台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、基隆市尹。 宮崎県南那珂郡吾田村に生まれる。1917年(大正6年)宮崎県立宮崎中学校、1921年(大正10年)旧制第五高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科英法を卒業し、朝鮮総督府に奉職。翌年の1925年(大正14年)11月、一時退官し、東京日日新聞に入社。 同月、高等試験行政科に合格し、1929年(昭和4年)3月、台湾総督府に出仕。財務局税務課勤務、同年12月に警部を経て、1930年(昭和5年)1月に地方理事官に進み、澎湖庁庶務課長、同年12月に台南市助役、1931年(昭和6年)5月に台南州新営郡守、1932年(昭和7年)4月に台北市助役を経て、1933年(昭和8年)10月、嘉義市尹に就任した。
後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月… 後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1928年〈昭和3年〉2月29日)は、日本の航空黎明期の民間パイロット。一等操縦士・一等飛行士免許の取得、航空機による旅客輸送、日本一周飛行などにおいて日本初を記録したが、太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死している。 1896年(明治29年)、宮崎県延岡市南町で裕福な商家の四男に生まれる。幼少期より機械に関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現:宮崎県立延岡高等学校)に入るころには蒸気機関つきの精米機や、水上自転車を製作した。航空機に関心を持つようになったのもこの頃という。 1914年(大正3年)、延岡中学校卒業後に上京、三井物産の自動車部門(ヤナセの前身)で無給の工員として働くが、飛行士白戸栄之助に出会ってその助手となり、複葉水上飛行機・白戸式「巌号」を完成させる。
中瀬 泝(なかせ のぼる、1896年(明治29年)3月6日 … 中瀬 泝(なかせ のぼる、1896年(明治29年)3月6日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。宮崎県椎葉村出身。 旧制宮崎県立都城中学校より海軍兵学校第45期入校。席次は入校時100名中7番、卒業時89名中9番。 中瀬はロシア革命の結果誕生したソ連に脅威を抱いた日本海軍が、ソ連専門家として育成した最初の人物である。2度目のソ連駐在直前には軍令部第3部第7課勤務となるが、第7課はソ連関係の諜報を担当する部署である。 太平洋戦争開戦時は、全海軍士官の人事を掌握する海軍省人事局第一課長を務めている。航空戦艦「伊勢」艦長在任中は、囮部隊である小沢艦隊の一員としてレイテ沖海戦に参戦した。
黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月2… 黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月26日)は、日本の新聞記者、文筆家。黒木晩石(くろぎばんせき)の筆名で知られる。 宮崎県美々津(現日向市)に生まれる。1916年宮崎中学校卒業。1922年早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞に入社、統一部長、論説委員。「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行、誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが50年間主宰。1939年軍事報道のため大陸に渡る。1942年報知・読売両新聞社合併により読売新聞記者、論説委員。1951年読売新聞を退社、帰郷し名前を晩石と号して著述に専念した。
田鍋 友時(たなべ ともじ、1895年〈明治28年〉9月18… 田鍋 友時(たなべ ともじ、1895年〈明治28年〉9月18日 - 2009年〈平成21年〉6月19日)は、かつて男性長寿世界一であった宮崎県の男性。エミリアーノ・メルカド・デル・トロの死去以来、世界最高齢男性となり、ギネスブックに認定された。 宮崎県都城市生まれ。両親は薩摩島津氏の出身でいとこ同士であったが、同人が幼少の時期に離婚している。 18歳の時に大阪の専門学校へ入学し測量を学んだ後、同地の貿易会社に4年勤務した。その後帰郷して都城市役所に5年ほど勤務した後は農業を営んでいた。亡くなった時点で子供が8人(5男3女)、孫が25人、曾孫が53人、玄孫が7人おり、晩年は五男夫婦と3人で暮らしていた。
鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日… 鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、日本の教員。日本で最初の女性校長とも言及されるが、鳥原より先に校長となった女性が複数確認されている(後述)。 宮崎市出身。宮崎県最初の訓導の一人である鳥原定静を父として生まれる。 1915年(大正4年)、宮崎県立宮崎県師範学校女子部(のちの県立宮崎女子師範学校→官立宮崎師範学校、現在の宮崎大学教育文化学部の前身)を卒業し、教員となる。25歳であった1920年(大正9年)7月3日に、宮崎県師範学校附属小学校(現・宮崎大学教育文化学部附属小学校)訓導から大淀町立古城尋常小学校(現・宮崎市立古城小学校)の校長に着任した。
三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5… 三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5月28日 - 1978年(昭和53年))は、日本の歴史学者、政治家。 宮崎県日向市生まれ。広島高等師範学校を卒業。京都大学経済学部卒業。中国や台湾に渡り教鞭をとる。終戦後宮崎へ引き揚げる。町長・市長を歴任。日向市名誉市民に選ばれる。 著書に『黒田の家臣物語』『日知屋物語 三尾良次郎作品集』がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
吉薗 周蔵(よしぞの しゅうぞう、1894年〈明治27年〉5… 吉薗 周蔵(よしぞの しゅうぞう、1894年〈明治27年〉5月12日 - 1964年〈昭和39年〉10月)は、日本の諜報員。元帥陸軍大臣上原勇作個人付き陸軍特務を務めた人物。 「吉薗周蔵手記」という、陸軍特務時期の活動内容を記した手記を残している。これを元にした落合莞爾の研究に対し、偽史研究者の原田実は手記そのものが公開されていないという問題点を指摘した。 1894年(明治27年)5月12日、宮崎県西諸縣郡小林村(現在の宮崎県小林市)生まれ。父は吉薗林次郎、母はキクノ。吉薗家は山林を持ち、米作やたばこ等の商品作物栽培の他に薩摩節生産なども行なっている富農であった。 周蔵は算数、数学、物理の能力に長けており、数学は独学で知識を深めていた。
黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16… 黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1972年〈昭和47年〉5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1892年10月8日、宮崎県宮崎郡宮崎町(現在の宮崎市)に生まれる。旧制宮崎県立宮崎中学校を経て、海軍兵学校第43期に成績順位100名中第6位で入学。1915年12月16日、成績順位96名中第40位で卒業。 1938年12月15日、京城在勤海軍駐在武官兼朝鮮総督府御用掛嘱託。1940年8月1日、兼京城監理長。1941年12月、太平洋戦争開始。 1942年6月25日、海軍軍令部出仕。7月15日、海南警備府附。7月20日、第16警備隊司令。1943年(昭和18年)9月10日、横須賀鎮守府附。
岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日… 森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日 ‐ 1955年(昭和30年)8月6日) は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林町長。由巳雄と表記される場合がある。 宮崎県西諸県郡小林村(小林町を経て現小林市)で、森長興の長男として生まれた。旧制宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 司法官試補に任官し東京地方裁判所で勤務。1921年(大正10年)弁護士を開業した。宮崎市会議員、宮崎県会議員、小林町長に在任。その他、小林町農会長、同農業会長なども務めた。 1936(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
平島 敏夫(ひらしま としお、1891年(明治24年)11月… 平島 敏夫(ひらしま としお、1891年(明治24年)11月4日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の政治家、弁護士、教育者。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期、自由民主党)、南満洲鉄道副総裁、2代目大東文化大学学長。 宮崎県児湯郡高鍋村(現高鍋町)出身。平島重綱の長男。幼少時より秀才の誉れが高く、高鍋学校(現宮崎県立高鍋高等学校)、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)から学校推薦で第一高等学校に進学。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。内務属、長崎県理事官、南満洲鉄道秘書役、同参事、台湾総督府秘書官兼事務官などを務め、弁護士を経て司法大臣秘書官となる。
田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 19… 田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 1969年9月14日)は、日本の農林官僚、政治家。宮崎県知事を1期務めた。 宮崎県南那珂郡福島町(現・串間市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第五高等学校、東京帝国大学法学部・農学部卒。1921年(大正10年)農商務省に入省。戦前は革新官僚として、産業組合の創立や農地改革(当時は実現せず)などに携わり、水産局長、山林局長を経て退官。 1951年(昭和26年)4月1日、第2回宮崎県知事選挙に出馬。吉見房見共に法廷得票数に達せず、決選投票。同年5月18日、宮崎県知事選決選投票で当選、宮崎県知事となる。 1953年(昭和28年)に郵政省は宮崎県に新しい民放局の周波数を割り当てたがものの、当初地元では民放設立の動きが全くなく、鹿児島県の南日本放送がこの機会を利用し宮崎市に中継局をつくろうと運動を始めていた。
押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18… 萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18日 - 1956年〈昭和31年〉2月18日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。宮崎県児湯郡高鍋町出身。陸士22期、陸大32期。 天津駐屯歩兵隊(昭和11年5月30日からは支那駐屯歩兵第2連隊)長、歩兵第136旅団長などを歴任し、太平洋戦争開戦後は、留守第6師団長から新設された第46師団の師団長となるが師団が南方に渡る前に予備役、その後召集され再び留守第6師団長。 退役後、1945年に宮崎市長に就任したが、連合国軍の進駐にともない辞職した。その後、公職追放となり、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、通州事件に関する証言をおこなっている。
藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11… 藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11日 - 1963年〈昭和38年〉9月19日)は、日本の道路技術者、内務官僚、政治家。 宮崎県都城市生まれ。1914年(大正3年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。同年、兵庫県技師となった。1917年(大正6年)、明治神宮造営局技師に転任した。折下吉延とともに、明治神宮外苑の銀杏並木道路を手がける。1922年(大正11年)、東京帝国大学講師となり道路工学や都市計画施工法を担当した。1924年(大正13年)には内務省土木試験所の内務技師も兼任するようになる。1931年(昭和6年)に日本大学工学部講師となった。1932年(昭和7年)に工学博士を取得した。
二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1… 二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1968年11月17日)は、日本の政治家、外交官。宮崎県知事(公選第3代)。宮崎市長(第9代)。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 宮崎県東諸県郡高岡町(現宮崎市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、1915年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年外交官及領事官試験に合格し外務省に入省、1923年退官。1928年に衆議院議員に当選。1933年には在郷軍人の国家主義団体である明倫会を結成し宣伝部長に就任。1941年駐タイ公使を経て、1945年宮崎市長となる。1947年の公選制となっての最初の県知事選では、得票数1位となるも法定得票数に届かず、安中忠雄との決選投票となるが、投票直前に公職追放された。
伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24… 伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24日‐ 1966年(昭和41年)12月23日) は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、北郷町名誉町民。旧姓・関山。 宮崎県南那珂郡、のちの北郷村(北郷町を経て現日南市)で関山宗被の二男として生まれた。1906年(明治39年)宮崎県立農学校(現宮崎県立宮崎農業高等学校)を卒業した。1918年(大正7年)南那珂郡油津町(現日南市)の伊東スマエ(先代善衛門長女)の入夫となり家督を相続した。 南那珂郡農会技手を経て、北郷村会議員、南那珂郡会議員を務め、1923年(大正12年)宮崎県会議員に選出され4期在任した。この間、県会では県当局に迎合せず堂々と論戦を行った。
佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - … 佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - 1964年1月5日)は、日本の政治家、教育者、事業家。衆議院議員(4期)。研心学園(現・目白研心中学校・高等学校)設立。政治家として、また教育者として近代日本における私学教育の振興に大きく寄与。 父・米四郎、母・カクの長男として宮崎県東臼杵郡南方村(現・延岡市中三輪町)で生まれ、傳次郎と名付けられる。父は渡し守を生業としており、赤貧の中で苦学をして延岡中学校から一高、東京帝大と進学した。1910年に家督を相続し、重遠と改名。妻は内務大臣などを歴任した床次竹二郎の二女・フユ。