原 清(はら きよし、1889年〈明治22年〉5月2日 - … 原 清(はら きよし、1889年〈明治22年〉5月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月26日)は、日本の海軍軍人。逓信省海務院長官。海兵38期首席。最終階級は海軍中将。 教員、原権市の長男として佐賀県で生れる。唐津中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を首席で卒業し、同年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで航海術専修学生として学び、専修学生は優等で卒業した。運送艦「労山」航海長、練習艦隊参謀、第1艦隊参謀、海兵教官を経て、1923年10月、海大甲種21期を卒業した。 「夕張」航海長、呉軍需部員、アメリカ駐在、資源局事務官、給炭艦「野島」特務艦長、海軍省軍務局第2課長、「磐手」艦長、艦政本部総務部第1課長などを経て、1936年12月、海軍少将に進級。
高野 松山(たかの しょうざん、1889年(明治22年)5月… 高野 松山(たかの しょうざん、1889年(明治22年)5月2日 - 1976年(昭和51年)3月5日)は、日本の漆芸家。熊本県出身。本名は重人。 細川藩付の儒学者であった祖父、小学校の校長であった父の長男として生まれる。幼少時より細工に興味を持ち、熊本の工業徒弟学校で漆芸を学んだ。その後は京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)に入学し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)へ転校して同校を卒業する。 東京美術学校では帝室技芸員の白山松哉から蒔絵の技術を習得し、松山という号を授かった。のちに細川護立の援助を得て、目白台の細川邸内に住み込んで「昼は殿様のボディーガード、夜間に制作」という生活を送りながら製作活動に挑む。
関野 聖雲(せきの せいうん、1889年〈明治22年〉5月2… 関野 聖雲(せきの せいうん、1889年〈明治22年〉5月2日 - 1947年〈昭和22年〉10月28日)は、日本の仏師、彫刻家。高村光雲の弟子。本名は関野金太郎。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現在の厚木市小鮎)の大工の家に生まれる。数え16歳で高村光雲の弟子となる。1906年4月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、1911年3月卒業する。在学中の作品「白拍子」が母校に買い取られた。 1913年の第三回東京勧業展覧会において作品が宮内省御用品となる。1915年、第9回文展に初入選。それ以来毎年入選し、文展、帝展で活躍した。1921年3月17日、東京美術学校の助教授となり、後に教授となる。1944年の退官まで後進の指導に尽力した。
柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - … 柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - 1956年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。柴山定次郎の三男として生まれる。茨城県立下妻中学校を卒業し、拓殖大学中退を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第14大隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)6月、輜重兵第14大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員などを経て、1928年(昭和3年)11月、張学良顧問補佐官に就任した。1931年(昭和6年)11月、参謀本部員となり、支那公使館付武官補佐官(北平)、参謀本部付(欧米出張)、輜重兵第18大隊長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、輜重兵大佐に昇進、弘前の輜重兵第8連隊長に着任する。
清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 195… 清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 1958年1月30日)は、日本の医学者、生化学者。 1889年(明治22年)、東京府西多摩郡に生まれる。1915年(大正4年)に京都帝国大学の荒木寅三郞(岡山にあった第三高等学校医学部の元教授)の医化学教室に入り、胆汁酸の研究を始める。1920年(大正9年)にドイツに留学。フライブルグ大学でハインリッヒ・ヴィーラントの下で学ぶ。1923年(大正12年)に岡山医科大学教授となり生化学教室を主宰した。 1927年(昭和2年)、熊胆からのウルソデオキシコール酸(UDCA)の単離・結晶化に成功。成功に至るまでヒキガエル4000匹、イモリ10万匹、さらにクマ、魚、鳥、豚など多くの動物から胆汁を採取したことが伝えられる。
歌橋 憲一(うたはし けんいち、1889年(明治22年)5月… 歌橋 憲一(うたはし けんいち、1889年(明治22年)5月1日 - 1984年(昭和59年)10月10日)は、日本の実業家。ニチバンの創業者として知られている。 歌橋又三郎(洗礼名:アレクサンドル)の子として東京に生まれる。東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)卒業後、1910年(明治43年)父が開店した「薬局歌橋輔仁堂」を後継者として経営する。後に独立し、1918年(大正8年)にニチバンの前身である「歌橋製薬所」を設立した。 製薬所に勤務中、輸入品であったゴム型の絆創膏について学ぶ。これまで負傷した際に用いた包帯に比べ粘着力が大きくなり、父が完成させたチェコ出身のF・J・ピックの製造法を用いた独自のゴム型絆創膏の発明、研究に携わった。
宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)… 宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)5月1日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡八坂村(現杵築市)で、酒造業の家に生まれる。大分県農学校(のち大分県立三重農業高等学校となり閉校)を卒業。 速見郡朝日村(現別府市)の兄が経営していた酒店を引き継ぐ。油屋熊八、梅田凡平らと別府宣伝協会を結成して全国に別府を宣伝した。豊洋水産取締役会長、鬼山地獄社長なども務めた。 1924年(大正13年)別府市会議員に選出され同議長にも就任。1943年(昭和18年)全国市会議長会(現全国市議会議長会)会長に就任。1935年(昭和10年)大分県会議員となり1期在任した。
鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - … 鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - 1959年2月1日)は日本の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。「鳥の公爵」と呼ばれた。
栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28… 栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。 1889年4月28日、茨城県水戸市で父・栗田勤の次男として生まれる。父は漢学者であり、大日本史編集員も務めた。祖父は東京帝大教授の文学博士栗田寛(藤田東湖、会沢正志斎の弟子)。水戸藩士の家系であり、祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。青年時代の栗田は学問は出来、頑張りやその上に高い人格を持っていた。 旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1910年7月18日、海軍兵学校を38期生として149名中28番の成績で卒業。
安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月… 安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月27日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市尹、台中市尹。 熊本県玉名郡伊倉町大字伊倉出身。1903年(明治36年)玉名郡南都尋常高等小学校卒業。1904年(明治37年)7月、熊本県小学校准訓導検定試験に合格し、玉名郡賢木小学校准訓導となる。1907年(明治40年)熊本県師範学校を退学。1912年(明治45年)3月、殖産局林業講習所を卒業する。 ついで、1915年(大正4年)文官普通試験合格後、翌年、新竹市庁に出仕。1920年(大正9年)3月に台湾総督府営林局書記、同年同府属、1932年(昭和7年)台湾総督府地方理事官を経て、台北州基隆郡守となる。
山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月… 山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月24日 - 1937年(昭和12年)12月25日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、教育者。
山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月2… 山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月24日 - 1967年(昭和42年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」「山師太郎」などと呼ばれた。 秋田県平鹿郡大森村(のち大森町、現・横手市)に近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれる。太郎の祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となり、山下姓を名乗る。祖父はまもなく死去し、祖母の手で育てられた。大森小学校4年を修了し、東京の実父母の元で慶應義塾普通部に通った。その後北海道帝国大学農学部(旧札幌農学校、現北海道大学)に入学、北海道に渡った。 北海道帝国大学時代、のちに北海道学芸大学(現北海道教育大学)および帯広畜産大学の学長を務めた農学者の田所哲太郎(秋田県能代の出身)と知り合い、親交を深めた。
猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月… 猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日) 戦間期日本の社会主義者。日本共産党創設(1922年)に参加。その後、『労農』同人に加わり、(第二次)共産党との論争で中心的役割を果たすが29年9月に脱退し、独自の立場から戦略論・組織論を展開。日本資本主義論争には参加せず。人民戦線事件(1937年)で逮捕されるまで政治・経済の現状分析や農村踏査に心血を注いだ。 ・1889年4月、新潟市の芸者・広木チヨの子として生まれる。父は長岡で油問屋を営む猪俣津平。小学校入学と同時に長岡の猪俣家に引き取られ、しばらくして猪俣姓を名乗る。 ・1902年に入学した県立長岡中学校は俳句が盛んなところで、猪俣も「鹿語」(ろくご)の俳号で句作に熱中する。
村上 義温(むらかみ よしあつ、1889年(明治22年)4月… 村上 義温(むらかみ よしあつ、1889年(明治22年)4月22日 - 1954年(昭和29年)10月20日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 石川県出身。1910年(明治43年)、神戸商業高等学校(現在の神戸大学)を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。上海に領事官補として赴任し、以後大使館三等書記官、領事・関東都督府事務官、外務事務官・帝都復興院書記官などを歴任し、その間、長春、南京、ニューヨーク、イギリスに勤務した。1924年(大正13年)より香港総領事、ハンブルク総領事を務め、1931年(昭和6年)からはトルコ大使館参事官となった。1933年(昭和8年)に駐ペルー公使に任命され、1935年(昭和10年)からは駐エクアドル公使を、1936年(昭和11年)からは駐ボリビア公使を兼ねた。
塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952… 塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952年8月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。公選初の名古屋市長(2期)。戦前は衆議院議員(1期)、名古屋市会議員などを務めた。旧姓は井箟。 岐阜県土岐郡稲津村(現・瑞浪市稲津町)出身。幼くして塚本竜三郎の養子となる。稲津小学校、瑞浪高等小学校卒業。1907年、旧制名古屋中学校卒業。 日本陶器、森村組を経て、1920年2月に名古屋新聞政治記者となる。 1921年10月、名古屋市会議員に就任。1922年3月、名古屋新聞編集長となる。1928年2月、名古屋新聞を退社。 1937年、第20回衆議院議員総選挙で当選し、立憲民政党の衆議院議員となる。
和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 19… 和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 1977年12月13日)は、日本の建築家。横浜郵船ビルなどの作品で知られる。 石川県金沢市生まれ。石川県立金沢第一中学校を経て、東京美術学校図案科に進み、小島憲之、大澤三之助、古宇田実、岡田信一郎らの指導を受ける。1912年(明治45年)に卒業後、古宇田実設計の松屋呉服店、鶴屋呉服店の工事監督に従事する。1914年から松屋呉服店建築顧問(1921年まで)。1915(大正4年)年に独立した。1921年にアメリカ各地の建築を視察した。1923年(大正12年)、丸ビルに建築事務所を開いた。 1930年代後半から日本精工川崎工場など工場を多く設計した。
石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日… 石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日 - 1962年〈昭和37年〉12月5日)は、日本の教育者・歴史学者・考古学者。福井県出身。神奈川県横浜市に武相中学校・高等学校(学校法人武相学園)を創設した。 現在の福井県坂井市にあたる旧坂井郡丸岡町に生まれる。15歳で岐阜県内の郵便局に就職するが、教育者になることを志して教員資格を取得し、一家で神奈川県横浜市に転居する。 1905年(明治38年)、17歳で三浦郡葉山町の小学校教員となるが、自らも教養を高めるべく神奈川県尋常師範学校に通う。1911年(明治44年)に同師範学校を卒業し、神奈川県立旧制横浜小学校の教員(訓導)となる。 1914年(大正3年)、25歳の時に沖縄県に招聘され那覇天妃(てんぴ)小学校の校長となる。
湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月2… 湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月20日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、大正・昭和期の日本の政治家、内務官僚。宮城・広島・兵庫県知事や東條内閣の内務大臣を務め、戦後も自由民主党参議院議員として活動した。
飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20… 飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、栄典は従三位勲一等。茨城県出身。陸士21期次席。 総力戦研究所所長として研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。 この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。 自著「続兵術随想」によると、当時陸軍大臣であった東条英機は、殆ど毎日机上演習を見学した一方で、主戦派の塚田攻参謀次長は一度も見学せず、主戦派が大勢を占める参謀本部からは数人の部員だけ見学に来たとのことである。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
石川 芳太郎(いしかわ よしたろう、1888年(明治21年)… 石川 芳太郎(いしかわ よしたろう、1888年(明治21年)5月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 茨城県河内郡、のちの稲敷郡生板村(河内村を経て現河内町)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、高等文官試験に合格した。福島県理事官、内務事務官・地方局勤務、社会局事務官・書記官、青森県書記官・内務部長、北海道庁警察部長、三重県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長を歴任。1932年(昭和7年)、新潟県書記官・内務部長となり、1935年(昭和10年)に退官した。 退官後は1939年(昭和14年)まで京都市助役を務めた。
野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 19… 野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 1978年5月20日)は、日本の発明家、実業家。巴コーポレーションの創業者。紫綬褒章や藍綬褒章を受章。 栃木県河内郡本郷村(現上三川町本郷地区)東汗出身。本郷小学校(現本郷中学校)を経て、1906年真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)卒業。1910年東京高等工業学校(現東京科学大学)機械科卒業、千代田瓦斯入社。1917年巴組鐵工所を創立。立体構造建築の研究開発に従事し、1932年ダイヤモンドトラスを発明。1933年建築組成材骨組法を発明。1938年全国発明表彰大賞受賞。1944年藍綬褒章受章。1948年日本鉄塔協会設立、会長。1956年紫綬褒章受章。
村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 19… 村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 1968年以降没)は福岡県出身の実業家。田中鉱山の社員を経て流山鉄道の社長及び会長を務めた。義兄に中大路氏道。 福岡県、後の小倉市で1888年(明治21年)5月16日に村田政之助の三男として生まれる。1914年(大正3年)に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業すると、東京市京橋区北紺屋町(中央区八重洲)の田中本店に入社した。三郎は千澤専助の四女・経子を妻とし、義父の千澤が1896年(明治29年)に創設した下谷銀行及び東洋貯蓄銀行の取締役にも1920年(大正9年)就任している。社長・田中長兵衛のもと最盛期には国内鉄需要の過半数を生産した釜石製鉄所にも不景気の波が押し寄せ、1920年3月には戦後恐慌が発生。
逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5… 逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月25日)は、昭和時代の日本の政治家、衆議院議員(9期)。 岡山県の農家に生まれる。 1899年臥竜高等小学校中退。1912年逢沢組を設立、1939年逢沢組を改組し中国土木(アイサワ工業の前身)を設立、同社社長に就任。その間、1937年の第20回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から立憲民政党公認で立候補するが落選。1942年の翼賛選挙で非推薦候補として立候補し初当選。以後当選9回。通算25年代議士を務め、御津郡芳田村(現・岡山市)村長、運輸政務次官や岡山商工会議所会頭、岡山県遺族会会長、日本遺族会副会長などを歴任。
野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月1… 野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月14日 – 1968年(昭和43年)7月27日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院議員、参議院議員、福岡県知事。 福岡県出身。衆議院議員・野田卯太郎の長男として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。南満洲鉄道に入社した。 1924年(大正13年)5月の第15回総選挙で千葉県第九区から政友会公認で出馬して初当選。1927年(昭和2年)に父が死去すると、翌年2月の第16回総選挙では父の地盤だった福岡県第三区から出馬し当選。以後1937年(昭和15年)4月の第20回総選挙まで連続6回の当選を果した。この間犬養内閣の鉄道参与官、鉄道会議議員、廣田内閣の司法政務次官、政友会総務などを歴任する。
藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月… 藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月13日 - 1966年3月6日)は、奈良県宇智郡北宇智村近内(現五條市)出身の内務官僚、俳人(俳号:玉骨)。奈良県宇智郡北宇智村初代村長の藤岡長二郎の長男。 自宅「藤岡家住宅」(奈良県五條市)は2006年(平成18年)、国の登録有形文化財に登録された。
丸山 直友(まるやま なおとも、1888年(明治21年)5月… 丸山 直友(まるやま なおとも、1888年(明治21年)5月13日 - 1975年(昭和50年)12月2日)は、明治末から昭和期の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県古志郡長岡(現・長岡市)出身。1909年(明治42年)金沢医学専門学校医科(現・金沢大学医学部)卒、同校嘱託を経て、上京し東京帝国大学医科大学入沢内科の助手となり、その後、東京南胃腸病院副院長となる。1917年(大正6年)長岡市東坂之上町で開業した。1945年(昭和20年)長岡空襲で被災し玉蔵院町(現:城内町)に医院を新築開業した。長岡市医師会長、新潟県医師会副会長、日本医師会代議員、同常任理事、同副会長などを務める。 1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙では旧新潟3区から民主自由党公認で立候補して当選した。
橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)… 橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)5月12日 - 1942年(昭和17年)10月13日)は、日本の教育者、文部官僚。 福井県足羽郡東郷村(現在の福井市)出身。1911年(明治44年)に盛岡高等農林学校農学科を卒業。宮城県立農学校教諭、同農事試験場技手、福井県今立郡立農学校教諭、盛岡高等農林学校助教授などを歴任。その後高等文官試験に合格し、福岡県鞍手郡長、同糸島郡長、同事務官を務めた。1928年(昭和3年)に文部事務官に移り、大臣官房会計課勤務、専門学務局勤務などを経て、1934年(昭和9年)に文部書記官・宗教局宗務課長に就任した。1937年(昭和12年)からは東京聾唖学校校長を務めた。
柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年… 柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年5月12日 - 1956年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は晋州柳氏(朝鮮語版)、号は怡雲(イウン、이운)。ユ・レワン(漢字同、유래완)という表記も見られる。 京畿道楊平郡出身。神戸市立湊川商工実業学校商業科卒、早稲田大学修了。大韓独立普成団組織団長を務めたが、三・一運動の普成団事件で1年間投獄された。その後は私立養成女学校教員、楊平郡楊西学堂教員、楊平公立普通学校学務委員、楊平郡食糧事務嘱託、楊平面内務主任、楊平面協議会員を歴任した。解放後は初代楊平面長、韓国民主党楊平郡支部支部長、南朝鮮過度立法議院代議員、制憲国会議員、社団法人楊平郡畜産協会会長を歴任した。
荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月1… 荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月10日 – 1950年(昭和25年)1月11日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 埼玉県北埼玉郡佐間村(忍町を経て現行田市)で、荒井久之助の二男として生まれる。1907年(明治40年)関直彦の私塾を卒業。東京で足袋見習修行を行い、1917年(大正6年)独立して忍町で足袋製造業を始め、その後、業界屈指の規模に成長した。行田足袋被服工業組合理事長、全日本足袋工業組合連合会理事、日本足袋共同販売取締役、日本足袋製造統制取締役、日本足袋統制 (株) 理事、忍町被服製造取締役会長、行田足袋元売販売社長、行田足袋工業会理事長、日本足袋配給 (株) 理事、全国足袋卸商業協同組合理事長、忍商工会議所会頭、忍町農業会長などを務めた。
梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 19… 梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 1976年5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍軍医中将。医学博士。 宮城県大崎市出身。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1914年、東京帝国大学医学部卒業。その後陸軍軍医学校を卒業し、東京帝国大学伝染病研究所で細菌学・血清学を学ぶ。1924年3月29日、論文「スパスカヤに於けるパラチフスB型菌性食中毒検索例 : 竝原因食(オムレツ)の菌毒汚染動機に関する実験的研究」で医学博士号取得。1939年、満州関東軍軍医部長。1940年、陸軍軍医総監。 731部隊を統括・監督する立場にあったことから戦後ソビエト連邦軍の捕虜となる。
小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月… 小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者。慶應義塾長、帝国学士院会員を歴任。 イギリス古典学派のリカード研究のほか、日本における社会思想研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義への容赦ない批判者として、自由主義の立場から『資本論』の内容をめぐって河上肇や、櫛田民蔵との活発な論戦を展開した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育責任者にもなり、皇室の近代化に努めた。学士院会員、コロンビア大学名誉文学博士、文化勲章受賞、名誉都民、野球殿堂入り。
崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月… 崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月4日 - 1960年(昭和35年)6月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、那覇市長。 沖縄県首里(現在の那覇市)に崎山嗣記の長男として生まれ、幼時を石垣島で過ごした。沖縄県立中学校を卒業後、第七高等学校に進み、1913年(大正2年)に卒業した。さらに京都帝国大学法科大学独法科に学び、1917年(大正6年)に卒業した。翌年に帰郷し、弁護士を開業した。 那覇市会議員、沖縄県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。計4期務めた。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1937年(昭和12年) 第20回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1943年(昭和18年)3月には那覇市長に選出された。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。
加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日… 加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日 - 1956年〈昭和31年〉9月1日)は、大正・昭和期の小説家。号は冬海。建築家の丹下健三は三女の婿。門人に佐藤愛子がいる。 神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)生まれ。高等小学校卒。川尻尋常小学校(現・相模原市立川尻小学校)で訓導(準教員)を務める。親戚に八木重吉がおり、川尻尋常小学校では教え子でもあった。 『文章世界』・『中学世界』誌等への投書家として次第に名を知られ、明治時代末から佐藤義亮に接近。1911年、新潮社に入社し、編集者として『文章倶楽部』などを担当した。 1916年に加藤武雄名義の処女作「土を離れて」を『新潮』誌に発表。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月2… 宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士(大阪弁護士会所属)、税理士、弁理士、歌人。旧姓・井上。お笑いタレント椿鬼奴の祖父。 大阪府大阪市西区出身。3代目、井上嘉助の息子。宮崎良平の養子となる。 1897年、9歳の時に父が亡くなると親戚のいる京都の乾物店に丁稚奉公に出される。丁稚奉公をしながら高等小学校を卒業する。夜学の学習塾にも通う。31歳にして京都帝国大学に入学する。 1922年、京都帝国大学経済学部を卒業。高等試験行政科に合格し、直ちに京都府庁に入り、内務部社会課兼庶務課に勤務する。 山口県庁電気局庶務課長となり、1930年3月に職を辞し、同年5月に弁理士登録、同年9月に計理士登録。
冨山 保(とみやま たもつ、1888年4月28日 - 197… 冨山 保(とみやま たもつ、1888年4月28日 - 1972年12月12日)は、日本の工学者。電気化学専攻。横浜高等工業学校校長を経て、初代横浜国立大学学長や、第9代電気化学協会会長を務めた。正三位勲二等瑞宝章。 茨城県水戸市出身。水戸市橦木町士族。1909年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科電気化学分科研究修了卒業。1913年東北帝国大学理科大学特待学生選定。1914年東北帝国大学理科大学化学科卒業。明治専門学校(のちの九州工業大学)教授、横浜舎密研究所主任等を経て、1926年東洋窒素工業取締役。1928年東北帝国大学理学博士。1929年松尾鉱業顧問。1935年横浜高等工業学校校長に就任。
達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 … 達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 - 1945年11月10日)は、現在の山形県長井市出身で千賀ノ浦部屋・芝田山部屋・出羽海部屋に所属した力士。本名は梅津 源之助。5代君ヶ濱。176cm、94kg。最高位は東前頭2枚目。 1904年5月、元大関大達の千賀ノ浦部屋から梅川の四股名で初土俵。間もなく師匠が亡くなって芝田山部屋(当時の師匠は3代芝田山(最高位幕下の松ヶ枝))に移籍。入幕を目前にしてこれまた師匠が亡くなったため出羽海部屋に移籍。1915年1月新入幕。立ち合いからの突っ張り一本の相撲で幕内を通算13場所務めたが、この間、1917年5月に達ノ矢と改名している。1921年5月引退し、その後は自身との稽古中の負傷が元で死亡した元小結大ノ川の年寄名跡である君ヶ濱を5代目として襲名し、その遺族の扶養を引き受けた。
矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日… 矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日 - 1948年〈昭和23年〉3月2日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(立憲政友会)。 鳥取県西伯郡米子町道笑町(現在の米子市)出身。矢野市郎兵衛の三男あるいは六男。矢野藤十郎の弟。鳥取県立米子中学校を卒業後、1906年(明治39年)より『東京日日新聞』記者となった。そのかたわら早稲田大学政治経済科で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後『中央新聞』を経て、1911年(明治44年)に二六新報社に入社し、社会部長を務めた。1917年(大正6年)に政治部長に転じ、1924年(大正13年)に社長の秋田清が辞任すると、後任の社長に就任した。
上原 政兵衛(うえはら まさべえ、旧姓・松島、1888年〈明… 上原 政兵衛(うえはら まさべえ、旧姓・松島、1888年〈明治21年〉4月25日 - 没年不明)は、日本の商人(原皮毛皮貿易商)、実業家。 福島県西白河郡白河町(現白河市)生まれ。製革業・肥料毛皮貿易商などを営む松島瀧右衛門の四男。1910年、先代上原ゆきの入夫となる。家督を相続する。原皮毛皮貿易商を営む。 1938年、紺綬褒章を賜る。上原商事会長、日本毛皮革、富士製革工業、天津大興物産各社長、日本原皮常務を歴任し、1946年に大興物産社長に就任する。 趣味は骨董。宗教は真宗。墓所は同宗の浅草今戸の本龍寺。住所は東京市本郷区向ヶ丘弥生町、文京区駒込林町、浅草区今戸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
小幡 重一(おばた じゅういち、1888年4月24日 - 1… 小幡 重一(おばた じゅういち、1888年4月24日 - 1947年9月15日)は、物理学者。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月2… 風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月22日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(2期)。 千葉県出身。東京商科大学卒業。茨城県農工銀行頭取を経て、水戸市会議員になり、議長に就任する。議長在職中の1946年、市会から水戸市長に推され、就任する。翌1947年の市長選挙に立候補し、当選する。しかし、同年公職追放となり、半年で市長の座を追われることになった。
坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18… 坂田 道男(さかた みちお、1887年(明治20年)5月18日 - 1973年(昭和48年)1月4日)は、日本の政治家(元衆議院議員)、教育者で八代市長、名誉市民。長男は防衛庁長官、衆議院議長を務めた坂田道太。 熊本県八代郡植柳村(現在の八代市)に生まれる。父は明治新田製造の功労者たる坂田貞である。 八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)時代から秀才の誉れが高かった。1905年(明治38年)9月、第五高等学校第一部独法科に入学する。 1908年(明治41年)7月、同科を卒業し、ただちに東京帝国大学法科大学独逸法科に入学する。 1912年(明治45年)7月、同大学を卒業する。 1913年(大正2年)9月、第五高等学校教授(法制経済・独逸語担当)に任ぜられる。
権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5… 権田 保之助(ごんだ やすのすけ、1887年(明治20年)5月17日 - 1951年(昭和26年)1月5日)は、日本の社会学者。 東京生まれ。明治32年、早稲田中学に入学。東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1921年大原社会問題研究所に入る。1924年にヨーロッパに渡る。のちに日本大学講師、文部省の委託を受けて各地の都市研究に従事する。 1919年(大正8年)に実施した、小額俸給生活者の家計調査は有名。また同時期、京都の映画監督で、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」、ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった文部省の星野辰男(保篠龍緒)とともに協力する。
野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月1… 野口 正義(のぐち まさよし、1887年(明治20年)5月17日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第七大隊付となる。1911年(明治44年)12月26日に工兵中尉に昇進し、1912年(明治44年)11月27日に陸軍砲工学校(18期)高等科を卒業。更に員外学生として在学し、1916年(大正5年)7月10日には東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 1918年(大正7年)7月29日に工兵大尉に昇進し陸軍技術審査部付となる。その後、長らく陸軍技術本部部員に在籍し、在任中の1924年(大正13年)3月15日工兵少佐に、1928年(昭和3年)3月24日工兵中佐に、1932年(昭和7年)8月8日に工兵大佐に昇進。
保坂 玉泉(ほさか ぎょくせん、1887年5月15日 - 1… 保坂 玉泉(ほさか ぎょくせん、1887年5月15日 - 1964年8月28日)は、日本の仏教学者・博士。駒澤大学総長・学長。曹洞宗の僧侶。 新潟県出身。明治35年、新潟県観音寺で得度。大正2年、曹洞宗大学(現∶駒澤大学)卒業。同年、曹洞宗研究生となり法隆寺佐伯定胤に倶舎、唯識、因明を学ぶ。5年に曹洞宗大講師、第1中学林校長を経て、14年に駒澤大教授。中国仏教視察後、1972年から9年間、新潟県観音寺住職。この間、曹洞宗宗会議員、宗務院人事部長、教学部長を歴任。1935年、駒澤大教授に再任。世田谷中学校長、栃木県祥雲寺住職。1957年、駒澤大総長に就任。同年、大教師。 1958年『唯識三類境の研究』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
作田 高太郎(さくた たかたろう、1887年(明治20年)5… 作田 高太郎(さくた たかたろう、1887年(明治20年)5月15日 – 1970年(昭和45年)3月15日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。文部政務次官、文部参与官。弁護士。 広島県沼隈郡藤江村(現在の福山市)出身。1915年(大正4年)、中央大学を卒業。1917年(大正6年)、弁護士試験に合格し、開業した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回に至るまで6回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で文部参与官を、阿部内閣で文部政務次官を務めた。 戦後、日本進歩党に加入するが、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。 その他、常磐採炭株式会社取締役、日英醸造株式会社取締役、大日本醸造株式会社監査役、千代田毛織株式会社監査役、関東航空計器株式会社社長、和田製本工業株式会社社長などを務めた。
大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年… 大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月19日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、政治家。第18代東京市長。衆議院議員(4期)。 茨城県行方郡吉川村(津澄村、北浦村、北浦町を経て現行方市吉川)で大久保佐吉の次男として生まれる。生家は農家。1913年(大正2年)東京高等師範学校(筑波大学の前身)地歴科卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入省、警察畑を歩む。新橋、牛込、神楽坂各警察署長、警視庁特高課長、刑事部長、官房主事、台湾総督府警務局長を歴任。この間、堺利彦、徳田球一らが検挙された第1次共産党事件(1923年)、約1600人が検挙された三・一五事件(1928年)など、共産党員の大量検挙事件の指揮にあたる。