小畑 正治(こばた まさはる、1934年4月3日 - 202… 小畑 正治(こばた まさはる、1934年4月3日 - 2025年1月22日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 呉三津田高校では、1951年の春の甲子園に出場。1回戦で明治高校と対戦するが、11回延長の末1-4で敗れた。高校の先輩に広岡達朗、1学年下には実業家の碓井優がいる。 1951年に呉市出身で南海ホークスの監督であった鶴岡一人が視察に訪れ、スカウトされるが、もともと大学進学を志望しており、プロ野球界へ進むつもりがなかった。しかし、大日本帝国海軍であった父親が退役し、健康状態も悪く働くことが困難な状態で、経済的に大学進学を断念、両親や兄姉を金銭面で支えるため、悩んだ末に、卒業後の予定を繰り上げ、高校を中退し、南海ホークスに入団することにした。
岩瀬 博(いわせ ひろし、1934年4月3日 - 2014年… 岩瀬 博(いわせ ひろし、1934年4月3日 - 2014年 )は、日本の国文学者。大谷女子大学(現大阪大谷大学)名誉教授。 広島県呉市出身。1959年國學院大學文学部国文科卒、1966年同大学院博士課程中退、大谷女子大学助教授、教授。2005年定年、名誉教授。
小島 秀哉(こじま ひでや、1934年〈昭和9年〉3月19日… 小島 秀哉(こじま ひでや、1934年〈昭和9年〉3月19日 - 2012年〈平成24年〉7月17日)は、日本の俳優。本名、小嶋 秀哉(読み同じ)。広島県呉市出身。松竹・関西演劇部所属。桃山学院高等学校卒業。血液型B型。 曾我廼家十吾に弟子入り。 1953年に松竹新喜劇へ入団し、「藤山寛美に次ぐナンバー2」と目された。 1977年に退団後、小沢昭一主宰の芸能座に参加。なお、退団は藤山との不仲が噂されたが、藤山の娘・直美主演の舞台に数多く出演していた(2009年の松竹新喜劇結成60周年記念公演にも出演)。 1978年、『ダイナマイトどんどん』で野球の試合前に「ダイナマイト〜!」と気合を入れる主人公の相棒・留吉役で出演。
有馬 真喜子(ありま まきこ、1933年11月12日 - )… 有馬 真喜子(ありま まきこ、1933年11月12日 - )は、女性問題の評論家、ジャーナリスト。 国民生活センター会長、財団法人横浜市女性協会顧問、特定非営利活動法人ユニフェム日本国内委員会理事長。所属団体は日本記者クラブ、日本エッセイストクラブ、京都大学人類学研究会。 本名は酒井 真喜子 (さかい まきこ)。夫は元朝日新聞編集委員・元東洋大学教授の酒井寛。元夫は明電舎元社員・日本共産党元常任幹部会委員の有馬治雄。父は陸上自衛隊武器学校初代校長や東急車輛製造取締役を歴任した海軍軍人・実業家の谷本政一。 広島県呉市出身。1957年、津田塾大学学芸学部英文学科を卒業し、朝日新聞社に入社。朝日新聞社初の女性記者となった。
保田 博(やすだ ひろし、1932年5月14日 - )は、日… 保田 博(やすだ ひろし、1932年5月14日 - )は、日本の大蔵官僚。元大蔵事務次官、初代国際協力銀行総裁。 広島県呉市(江田島)出身。父は呉海軍工廠技官。呉市立二河国民学校を経て、呉第一中学校(のちの呉三津田高校)入学。高校時代テニス選手で広島県ベスト4だったが、肋膜炎を患い高校3年夏に休学。翌年、留年に直面し下級生の組に編入されるのがイヤで都立日比谷高校の編入学試験に挑戦し合格した。日比谷高へ転校した後、東京大学文一入学。 東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業後、法学部第1類(私法コース)へ内部学士入学し、国家六級職試験を通り、1957年、大蔵省入省。入省同期に、次官候補のライバルだった的場順三(内閣官房副長官、国土事務次官、内閣官房内閣内政審議室長)、内海孚(財務官)、森田一(衆議院議員、運輸大臣)、大山綱明(日本関税協会理事長、全国清涼飲料連合会会長、関税局長)、中田一男(OMCカード会長、北海道開発次官)、亀井敬之(泉州銀行頭取、大臣官房審議官)、山崎高司(日本総研副理事長、IMF理事、駐英公使)など。
広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年〈昭… 広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年〈昭和7年〉2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。 現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。 実兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を打った広島カープの元選手である。 辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても批評を下すことがある。 1932年2月9日、広島県呉市にて6人兄弟(男5人、女1人)の末っ子として生まれる。
熊本 哲之(くまもと のりゆき、1931年(昭和6年)6月4… 熊本 哲之(くまもと のりゆき、1931年(昭和6年)6月4日 - 2018年(平成30年)5月2日)は、日本の政治家。東京都世田谷区長(2期)、東京都議会議長(第35代)、東京都議会議員(6期)を務めた。 広島県呉市生まれ。中央大学法学部卒業。衆議院議員秘書を経て、1977年東京都議会議員選挙に立候補し、初当選。6期24年にわたって都議を務める。1988年、当時の鈴木俊一東京都知事の下で都庁舎の新宿への移転が行われるにあたり設置された新都庁舎建設特別委員会の委員長に就任。1995年、青島幸男都政下では地方分権推進特別委員長に就任し、同年9月には東京都議会議長に就任(1997年7月まで)。 1999年、都議を任期途中で辞職し、世田谷区長選挙に自民党・自由党推薦で立候補したが、現職の大場啓二に敗れた。
森井 忠良(もりい ちゅうりょう、1929年7月25日 - … 森井 忠良(もりい ちゅうりょう、1929年7月25日 - 2011年4月23日)は、日本の政治家。衆議院議員、厚生大臣(第78代)を務めた。勲二等旭日重光章。 広島県呉市生まれ。1953年早稲田大学法学部を卒業、日本電信電話公社入社。 全電通呉分会委員長、呉市議、広島県議を経て、1972年12月衆議院議員総選挙旧広島県第2区に日本社会党公認で立候補し初当選。旧広島2区は谷川和穂、池田行彦、中川秀直ら、有力政治家がひしめく全国有数の激戦区だったが以後当選7回。 1986年7月衆参同日選で落選。1990年2月衆院選に返り咲き当選を果たし社会党も善戦した。 1993年念願の政権交代が実現。 1994年4月、細川内閣が退陣し羽田内閣が成立するも、村山富市委員長たち社会党執行部による連立与党から離脱表明に反発。
神山 繁(こうやま しげる、1929年1月16日 - 201… 神山 繁(こうやま しげる、1929年1月16日 - 2017年1月3日 )は、日本の俳優。広島県呉市出身。オフィス佐々木所属。海軍経理学校卒業。元妻は女優の文野朋子(1987年に死別)。晩年は京都府に在住していた。
岡田 善雄(おかだ よしお、1928年3月10日 - 200… 岡田 善雄(おかだ よしお、1928年3月10日 - 2008年1月16日)は、日本の医学者(細胞工学)、医師。位階は従三位。勲等は勲一等。大阪大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪大学微生物病研究所教授、大阪大学細胞工学センターセンター長、財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長などを歴任した。 広島県呉市出身の細胞生物学者である。バイオテクノロジーの基本技術である「細胞融合現象」を発見した細胞工学のパイオニアとして知られている。大阪大学名誉教授。 大阪大学微生物病研究所助手となった後の1955年、ウイルスをがん細胞に注射したところ、見たこともない巨大細胞ができた。「生物の細胞は互いに細胞膜で隔てられ、受精などを除いて合体はありえない」という生物学の常識を覆す大発見の瞬間だった。
広岡 富夫(ひろおか とみお、1928年2月20日 - 20… 広岡 富夫(ひろおか とみお、1928年2月20日 - 2009年9月26日[要出典])は、広島県呉市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツで活躍した広岡達朗は弟。 呉二中から広島県庁に入り、軟式野球チーム「オール県庁」で強打の捕手として活躍していた。バッテリーを組んでいた渡辺信義が1951年に広島へ入団していて、広岡も「周囲からカープへ入ったらどう?」と言う声が起こって欲も得もなく、1952年に広島カープへ入団。公務員からプロ入団という珍しいケースであり、弟の達朗によると「子供のころから器用で、運動神経も私よりはるかにまさっていたがまさかプロになるとは思わなかった。私のプロへの道筋は、細々と芽生えていたんだ」と語っている。
石丸 和人(いしまる かずと、1928年2月17日 - )は… 石丸 和人(いしまる かずと、1928年2月17日 - )は、日本のジャーナリスト、翻訳家。 広島県呉市出身。1953年東京大学文学部独文科卒、毎日新聞社入社、外信部副部長、ワシントン支局長、編集委員、論説委員、1983年山形新聞社入社、論説委員。姫路獨協大学教授、2003年定年。
武田 正彦(たけだ まさひこ、1927年7月15日 - 20… 武田 正彦(たけだ まさひこ、1927年7月15日 - 2007年2月15日)は、日本の弁護士、実業家。 広島県呉市出身。1953年(昭和28年)- 東京大学法学部卒業。1956年(昭和31年)- 神戸家裁判事補。1959年(昭和34年)- 神戸簡裁判判事。同年アメリカミシガン大学ロー・スクール留学。1961年(昭和36年)- 福岡家裁判事補、判事。1964年(昭和39年)- 弁護士登録。以来、主に渉外、特許事件を担当する。1972年(昭和47年)- ピエール・カルダンの日本代理店「ピエール・カルダン・ジャパン」(PCJ)を設立。社長、カルダンブランドを日本に定着。その後、長くカルダン本社国際戦略のアドバイス役を務めた。
川崎 展宏(かわさき てんこう、本名ではのぶひろ、1927年… 川崎 展宏(かわさき てんこう、本名ではのぶひろ、1927年1月16日 - 2009年11月29日)は、日本の俳人・国文学者。広島県出身。 呉市生まれ。父は海軍士官。1953年、東京大学文学部国文学科卒業。1958年、同大学院満期退学。米沢女子大学、共立女子大学を経て、明治大学法学部教授。 東京府立第八中学校(現・東京都立小山台高等学校)で加藤楸邨に教わり、のちに俳句を楸邨に師事、「寒雷」に参加する。1970年、森澄雄の「杉」創刊に参加、編集を務める。1980年、超結社の同人誌「貂」を創刊、2003年まで代表を務め、2004年より名誉代表となる。1991年、句集『夏』で読売文学賞受賞。1998年、句集『秋』で詩歌文学館賞、評論『俳句初心』で俳人協会評論賞受賞。
美能 幸三(みの こうぞう、1926年7月31日 - 201… 美能 幸三(みの こうぞう、1926年7月31日 - 2010年3月17日)は、日本の実業家。元ヤクザ。広島県呉市の美能組初代組長。広島県呉市出身。広島抗争の中心人物の一人であり、後にそのいきさつを描いた『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物である。詳細は広島抗争、『仁義なき戦い』の項を参照。 大正15年(1926年)7月31日、広島県呉市に生まれる。父親は退役軍人で海軍工場に勤め、母親は小学校の教員だった。呉第二中学校(現在の広島県立呉宮原高等学校)2年で退学し、毎日ぶらぶらとしていたが、昭和17年(1942年)に大日本帝国海軍に志願し大竹海兵団に入団、ラバウル、硫黄島を転戦しトラック島で終戦を迎え、浦賀に上陸し昭和20年(1945年)11月26日、復員。
井上 忠(いのうえ ただし、1926年3月25日 - 201… 井上 忠(いのうえ ただし、1926年3月25日 - 2014年9月20日)は、日本の哲学者。博士(学術)(論文博士・1996年)。東京大学名誉教授。古代ギリシア哲学が専門だが、言語哲学や自然科学との関係の上に哲学研究を行った。2006年瑞宝中綬章受勲。 広島県呉市生まれ。広島県立呉第一中学校を経て、1943年、第一高等学校に入学。田中小実昌は呉第一中学の同級。1945年春、戦中の特例で2年で一高を卒業し、東京大学法学部政治学科に入学。1948年、法学部を卒業後、文学部哲学科に入学。出隆の指導のもと今道友信や加藤信朗の後輩として古代哲学を専攻、同大学院特別研究生満期退学。1957年、東京大学教養学部専任講師となる。
田中 小実昌(たなか こみまさ、1925年〈大正14年〉4月… 田中 小実昌(たなか こみまさ、1925年〈大正14年〉4月29日 - 2000年〈平成12年〉2月26日)は、日本の小説家、翻訳家、随筆家。直木賞・谷崎潤一郎賞受賞。 東京市千駄ヶ谷生まれ。父・田中種助はバプテストの神学校を出た東京市民教会の牧師。40歳の種助と46歳の母・マサ子の長男として生まれる。父の転勤で4歳から広島県呉市東三津田町で育つ。7歳のとき、父が呉三津田の山に「アサ会」という十字架のない独自のキリスト教教会を創立。 実家近くの広島県立呉第一中学(現・呉三津田高校)を受験するが失敗し、旧制西南学院中学に入学。母親の意向で一年後に呉第一中学の編入試験を受け2年から転校した。同級に井上忠。
小原馨(こはら かおる、1925年 - 1954年9月9日)… 小原馨(こはら かおる、1925年 - 1954年9月9日)は、日本のヤクザ。小原組初代組長。広島県呉市出身。 少年時代から地元では有名な不良であり、戦争末期の広海軍工廠内で賭場を開帳し、不良工員達のリーダーとなった。1946年8月14日夜、戦後初となる広町盆踊りの会場で土岡組の大西政寛に日本刀で左腕を切り落とされる。同年、小原組を結成。1947年5月22日、兄貴分の桑原秀夫と口論の末、日本刀で斬りつけられる。桑原は小原の配下により刺殺された。小原は仲裁の為に同行していた大西政寛とともに逮捕された。1951年、山村組若頭佐々木哲彦と兄弟盃を交わす。この頃より、小原・山村組連合と土岡組の抗争は激化したが、1952年6月に土岡組組長土岡博が射殺された事で一応は終結した。
野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 200… 野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 2009年7月30日)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手)・監督・コーチ。
砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月… 砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月27日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。 広島県呉市出身。呉市立吾妻小学校(現・呉市立明立小学校)在学中の1930年(昭和5年)、音楽を学ぶために一家で東京移住。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業。1942年(昭和17年)東京音楽学校入学。1944年(昭和19年)東京音楽学校本科声楽科卒業(戦時中のため、卒業時期短縮で9月卒業)。平原寿恵子に師事。1947年(昭和22年)藤原歌劇団公演のプッチーニ『ラ・ボエーム』ムゼッタでデビュー。翌年にかけてビゼー『カルメン』のミカエラ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、プッチーニ『蝶々夫人』などを演じて一躍同劇団のプリマドンナになる。
増岡 博之(ますおか ひろゆき、1923年2月3日 - 20… 増岡 博之(ますおか ひろゆき、1923年2月3日 - 2011年7月24日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(8期)、厚生大臣(第64代)を歴任。元鉄鋼ビルディング代表取締役会長。 広島県呉市出身。増岡組創業者・増岡登作の次男。1948年(昭和23年)早稲田大学政治経済学部卒業。 1948年(昭和23年)増岡組に入り、取締役東京営業所長、1952年(昭和27年)専務。1959年(昭和34年)呉商工会議所会頭に選ばれる。 池田勇人元首相の地盤を継いで1967年(昭和42年)衆議院議員に初当選。以来通算8期。運輸政務次官、自民党交通部会長、衆議院運輸委員長、大蔵委員長の他、議院運営委員会理事、国会対策副委員長などを歴任し、1984年(昭和59年)第2次中曽根内閣の厚生大臣に就任。
大西 政寛(おおにし まさひろ、1923年〈大正12年〉 -… 大西 政寛(おおにし まさひろ、1923年〈大正12年〉 - 1950年〈昭和25年〉1月18日)は、日本のヤクザ。土岡組若頭。広島県呉市広小坪出身。「悪魔のキューピー」と呼ばれた。 1923年(大正12年)、広島県賀茂郡広村小坪(現:呉市広小坪)に出生。1925年(大正14年)に父母が離婚。同年に父が死亡し、以降、祖母に育てられた。 1930年(昭和5年)に尋常小学校へ入学。1935年に祖母が死去すると、当時幼馴染と再婚していた母のもとへと引き取られた。翌1936年に尋常小学校高等科1年へ進級。同年、尋常小学校高等科の教師を文鎮で殴打し、即日退校を命じられた。退校後、義父の紹介でカシメ(鉄骨と鉄骨の接合部分を熱したボルトで締め付ける職人)の向井組の若衆となった。
明田 弘司(あけだ こうし、1922年12月 - 2015年… 明田 弘司(あけだ こうし、1922年12月 - 2015年8月12日)は広島県呉市出身の写真家。原子爆弾の被害から復興する広島市を撮り続けた。 呉市の劇場「弁天座」の4男として生まれる。戦時中、軍属として航空写真に従事。終戦後2ヶ月で帰国したが、呉市の生家は空襲で焼失、広島市の勤めていた会社は原子爆弾で焼失。大竹市の母方の実家に身を寄せることになったが、そこは営業写真館だった。 1947年(昭和22年)に全日本写真連盟に加盟。1948年(昭和23年)に広島市で現在のヒロシマ・フォト・サービスを開業し、DPEと占領軍キャンプでのオーストラリア兵との撮影を業務とした。原子爆弾は全日写連の指導者たちや、会員の写真機材や暗室などの大半を一瞬で奪い取ってしまった。
岩佐 嘉親(いわさ よしちか、1922年〈大正11年〉7月2… 岩佐 嘉親(いわさ よしちか、1922年〈大正11年〉7月21日 - 2014年〈平成26年〉2月17日)は、日本の探検家、研究者。 広島県呉市生まれ。1942年関西高等工業学校(現:大阪工業大学)卒業。1965年太平洋文化研究所を設立して所長となる。1959年より1995年までの間に50数回にわたってポリネシアを中心とした南太平洋海域の民俗学的な調査をする。 太平洋地域の言語の入門書・会話集も多数執筆した。サモア語やフィジー語など、類書がほかになく、その言語を学習する者にとって、日本語で書かれたものとしては唯一の教材であるものもある。オセアニアの諸語だけでなく、パプア・ニュー・ギニアのトク・ピシンについても入門書を執筆している。
山内 リエ(やまうち リエ、1922年2月15日 - 200… 山内 リエ(やまうち リエ、1922年2月15日 - 2000年10月8日)は、日本の陸上競技選手。女子三段跳、走高跳、走幅跳の三種目の元・日本記録保持者。戦中、戦後に世界的な好記録を連発しながら、戦争によってオリンピック参加の道を閉ざされた悲運の女性アスリートである。広島県呉市出身。 小学校5年の春、陸上競技を始める。呉精華高女に進学するが、当時この学校のグラウンドは狭く、走高跳の助走を取るスペースもなく、近くの小学校で我流で練習を積む。跳躍技についての正式な指導を受けたのは女学校4年の時、郷土の先輩・織田幹雄の講習会に参加したのが最初。 1936年、女学校3年15歳の夏を過ぎると、恵まれたバネで飛躍的に記録が伸び、11月に広島市で行われた大会で、走高跳の当時日本最高記録1m52を楽々と飛び、1m55の日本新記録をマーク。
道仏 訓(どうぶつ さとし、1921年12月2日 - 200… 道仏 訓(どうぶつ さとし、1921年12月2日 - 2005年7月25日)は、昭和期のプロ野球選手・パシフィック・リーグ審判。広島県呉市出身。
稲垣 泰彦(いながき やすひこ、1921年7月31日 - 1… 稲垣 泰彦(いながき やすひこ、1921年7月31日 - 1982年2月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 広島県呉市生まれ。1939年に広島県立呉第一中学校を卒業し、広島高等学校文科に進学。同校2年生だった1940年の夏、東京中野在住だった兄の家に滞在していたときに、隣家に住んでいた宝月圭吾を紹介され、進学先の相談をしたところ、東京帝国大学を勧められ、同大学への進学を決めたという。1942年に高校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。同期入学に永原慶二、安田元久、山口啓二らがいる。翌年、海軍に入隊し、その間の1944年9月に卒業。1947年、東京帝国大学大学院を退学。 同年、東京帝国大学史料編纂所に入所、1966年助教授、1969年教授。
藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 19… 藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 1993年12月25日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手(投手)・監督。
柚木 進(ゆき すすむ、1920年9月28日 - 1997年… 柚木 進(ゆき すすむ、1920年9月28日 - 1997年10月22日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手(投手)。1940年代後半-1950年代に南海ホークスのエースとして活躍した。
多賀谷 真稔(たがや しんねん、多賀谷眞稔、1920年1月5… 多賀谷 真稔(たがや しんねん、多賀谷眞稔、1920年1月5日 - 1995年4月9日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員、同党書記長。広島県呉市出身。正三位勲一等旭日大綬章。
葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日… 葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の歌人・実業家。 広島県呉市出身。東京工業大学電気工学科卒。1938年(昭和13年)、『多磨』に入会し、北原白秋に師事。1950年(昭和25年)、岡部桂一郎、金子一秋、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。翌年、伊藤麟、片山貞美、草柳繁一、杉本二木雄、深作光貞、森比左志、山崎方代らが加わる。1953年(昭和28年)、宮柊二の『コスモス』創刊に参加、のち編集人。1981年(昭和56年)、歌集『玄』で第32回読売文学賞受賞。日新運輸倉庫(現・日新)取締役を務めた。
黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26… 黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26日 - 1980年(昭和55年)1月8日)は、日本の詩人。 東大経済学部卒。戦後の『智恵子抄』とも言える恋愛詩集『ひとりの女に』(1954年)と、妻の入院中、父娘2人の生活をうたった絶唱『小さなユリと』(1960年)で現代詩を誰にもわかる平明なものにした。ほかに『時代の囚人』(1965年)など。 広島県呉市出身。呉海兵団の副団長であった父・勇吉(海軍兵学校第21期)の退役に伴い、3歳からは、父の故郷・鹿児島で育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制) 、第七高等学校造士館 (旧制) を経て東京大学経済学部卒業。戦時中、会社から派遣されたり現地召集で南洋の島々で過ごした。
塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - … 塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - 2009年8月20日)は広島県呉市出身のプロ野球選手(外野手。主に中堅手)・野球指導者・監督。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は… 原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は広島県出身のプロ野球選手。
保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広… 保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広島県出身の元プロ野球選手。
奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日… 奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日 - 2001年〈平成13年〉11月19日)は、日本の実業家、政治家。元広島県呉市市長。呉信用金庫理事長。寿工業相談役。 広島県呉市出身。1931年、阿賀高小卒、同年に広島海軍第十一航空廠に勤務。1935年、東亜航空工業に転じ、のち取締役。 1945年、寿組社長。1946年、寿農機具製作所社長。1947年、奥原商店取締役。寿工業取締役、常務顧問をつとめた。 1951年、呉市議会議員に当選。1952年、同市議会議長。1961年11月に呉市長に当選。1978年、呉信用金庫入庫、同理事長。 趣味は囲碁、読書、ゴルフ。住所は呉市西中央5丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1… 藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5… 沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5年〉3月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。辰栄工業会長。 広島県呉市出身。沢原亮吉の長男。沢原俊雄の孫。1941年、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。1948年3月より1952年3月まで呉市公安委員並びに委員長を務める。1963年7月より1978年7月まで広島県公安委員並びに委員長を務める。呉三田会会長を務める。 趣味は洋楽。宗教は真宗。住所は広島県呉市長ノ木町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没… 浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没年不明)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手、二塁手、三塁手)。パ・リーグ審判。
奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15… 奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2008年〈平成20年〉7月24日)は、日本の実業家。寿工業会長。呉商工会議所会頭。 広島県呉市出身。高小卒。1935年、広島県呉市阿賀町に奥原工作所を創設。1943年に奥原工作所を改組、東亜航空工業と改称。1952年、寿工業株式会社へ商号変更。東亜航空工業、呉繊維、寿工業各社長を務める。 1965年9月、トヨタカローラ山口取締役。1971年9月、サンデーサン(現・ジョリーパスタ)取締役。1974年8月、山口トヨペット取締役。1985年、郷原ゴルフ観光社長。黒瀬観光会長を務める。勲四等に叙せらる。トヨタオート広島代表取締役名誉会長となる。
清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 -… 清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 - 2008年)は、日本海軍の軍人。 海兵60期。最終階級は海軍少佐。戦艦大和の沖縄特攻に従事した乗組員における生存者の一人だった。 広島県呉市出身。早くして両親を失い、兄弟と共に東京の親戚宅に身を寄せるが、関東大震災で被災し再び呉に戻る。 1925年、広島県立呉中学校(在学中に広島県立呉第一中学校へと改称、現広島県立呉三津田高等学校)に入学し、引き続き規定よりはやく飛び入学で4年から[要出典]海軍兵学校に60期生として入学。 卒業後練習艦隊の「八雲」で渡米したことを皮切りに、「高雄」「扶桑」「五十鈴」「妙高」「呉竹」「江風」「三日月」「追風」「朝雲」「大鯨」「龍田」「磐手」といった様々な艦に勤務した。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5… 有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の言語学者、日本語学者。日本語の音韻史や音韻論に関して業績を遺した。上代特殊仮名遣に関する有坂の法則で知られる。 大学卒業後、矢継ぎ早に論文を出し、当時の学界の第一線に立った。しかし、その活躍は卒業後のわずか10年間のみであり、その10年もほとんどの時間を病院・診療所で過ごしている。33歳以降は論文の数は激減し、闘病の末43歳で没した。橋本進吉から、東京帝大の国語学主任教授の後任と白羽の矢を立てられながら、辞退したのも病身の故であった。 有坂が昭和5年12月に東京帝国大学へ提出した卒業論文は、言語学科主任教授の藤岡勝二教授ひとりが目にしたと思われ、現存はしないようである。
渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4… 渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4日 - 1939年(昭和14年)8月21日)は、広島県呉市出身の歌人。 呉一中(現:広島県立呉三津田高等学校)、広島高等師範学校(現:広島大学)卒業。芥川龍之介に影響を受けた文学青年で、マルクス主義にも関心を持った。異父兄・高橋彰三の影響で短歌を始める。1935年(昭和10年)、伊藤左千夫を中心にして1908年(明治41年)に作られた短歌誌『アララギ』に入会し、土屋文明に師事した。しかし当初の渡辺の作品は牧歌的で、島木赤彦や文明の模倣でしかなかった。 呉市立高等女学校(現:呉三津田高等学校)の国語教師として奉職中だった1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、中国に第五師団歩兵第十一連隊陸軍少尉として送られる。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 … 小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。 1906年、東京・神田で生まれた(広島県呉市出身)。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。 アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。 1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学、九州大学、京都大学などで非常勤講師を務めた。
呉錦 三郎(くれにしき さぶろう、1906年4月6日 - 1… 呉錦 三郎(くれにしき さぶろう、1906年4月6日 - 1944年5月16日)は、広島県呉市出身で出羽海部屋に所属した昭和時代の元大相撲力士。本名は金谷 三郎。最高位は十両6枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、1922年1月で初土俵を踏む。1931年1月十両に昇進したが、2勝9敗と負け越し、同地位にあった翌3月も2敗9休と連続で負け越して幕下に落ちた。1933年5月十両に復帰し6勝5敗と勝ち越し、翌1934年1月は全休で再び幕下に落ちてからは十両に復帰できなかった。1940年1月に廃業。1944年死去。 1933年に沖ツ海福雄がフグ中毒で急死したとき同席していたが、彼は一命をとりとめた。
松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983… 松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983年2月26日)は、広島県呉市出身の技術者、実業家。ダイワ精工創業者。 1923年山陽中学校卒。広島でカメラ店を経営するが上京し1953年、カメラの距離計の製造を主とする「松井製作所」を創業。1955年からは釣り具のリールの製造を開始、釣り用品の需要増大に伴い、リールを本格的に生産するため1958年、東京都中野区に資本金200万円で「大和精工」を設立した。さらにスポーツ用品の製造も開始。1960年、リール生産工場を東京都東久留米市前沢に新設、1962年本社もここへ移転した。 1964年、グラスロッド(ガラス繊維強化プラスチック製の釣り竿)の生産工場を新設、1965年にはオリジナル仕様のダイワブランド・リールを開発、販売を開始した。