石川 哲男(いしかわ てつお、1929年(昭和4年) - )… 石川 哲男(いしかわ てつお、1929年(昭和4年) - )は、昭和(戦後)の裁判官。クリスチャン(日本基督教団)。 1929年(昭和4年)、静岡市生まれ。1946年(昭和21年)、静岡県立静岡中学校四年修了、海軍兵学校77期入学。1949年(昭和24年)、静岡高等学校 (旧制)文科卒業。1953年(昭和28年)、東京大学法学部卒業。大学院特別研修課程在籍(3年)。1956年(昭和31年)、北海道大学法学部勤務(1年)。1960年(昭和35年)、裁判官任官。地方裁判所(前橋・熊本・福岡・大阪・松山・名古屋)、名古屋高等裁判所勤務。1986年(昭和61年)、名古屋高等裁判所退官。日本基督教団静岡教会会員。
吉井 直昭(よしい なおあき、1928年9月28日 - )は… 吉井 直昭(よしい なおあき、1928年9月28日 - )は、日本の裁判官、公証人、弁護士。最高裁判所上席調査官や、東京高等裁判所部総括判事を経て、退官後、日本公証人連合会会長などを務めた。 福岡県立高等学校修猷館を経て、岡山大学法文学部在学中の1952年に旧司法試験合格。1953年に大学卒業後、司法修習を経て、1955年裁判官任官。京都地方裁判所判事補、最高裁判所事務総局総務局付、旭川地方裁判所判事、最高裁判所調査官、東京地方裁判所部総括判事、最高裁判所上席調査官等を経て、1986年宇都宮家庭裁判所所長。1987年神戸家庭裁判所所長。1989年東京高等裁判所部総括判事。1990年日本橋公証役場公証人。
佐藤敏夫(さとう としお、1928年〈昭和3年〉9月8日‐?… 佐藤敏夫(さとう としお、1928年〈昭和3年〉9月8日‐?)は、日本の弁護士、元・検察官、元・裁判官。元・北海道武蔵女子短期大学教授。北海道出身。札幌弁護士会所属。 1951年北海道大学法文学部卒業。同年、司法試験合格。1954年札幌地方検察庁検事。1954年旭川地方検察庁検事。1957年札幌地方裁判所岩見沢支部判事補。1961年東京地方裁判所判事補。1964年札幌地方裁判所判事補を経て、1968年札幌高等裁判所判事を経て、裁判所を退官。1969年弁護士登録。1970年北海道武蔵女子短期大学教養学科教授(~1983年)。1985年北海道弁護士会連合会理事長。また日本弁護士連合会副会長も兼職。その後、2006年ごろ逝去 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
古館 清吾(ふるだて せいご、1928年(昭和3年)5月5日… 古館 清吾(ふるだて せいご、1928年(昭和3年)5月5日 - 2019年(令和元年)11月16日)は、日本の元裁判官・弁護士。元宇都宮家庭裁判所所長。北海道立倶知安中学校卒業。北海道大学法学部卒業。同大学院法学研究科修士課程修了。北海道蘭越町出身。第一東京弁護士会所属。 1958年司法修習修了。1958年山形地方裁判所判事補、その後、仙台法務局や法務省訴訟局訴訟検事、広島法務局訴訟部長などを経て、1971年法務省民事局参事官。1976年東京高等裁判所判事。1977年(昭和52年)東京地方裁判所部総括判事。1983年(昭和58年)横浜地方裁判所部総括判事。1987年(昭和62年)宇都宮家庭裁判所所長。
三好 達(みよし とおる、1927年(昭和2年)10月31日… 三好 達(みよし とおる、1927年(昭和2年)10月31日 - 2023年(令和5年)3月6日)は、日本の裁判官、政治活動家。海軍兵学校75期。位階は従二位。最高裁判所長官、法曹会会長、日本会議会長、皇室の伝統を守る国民の会会長、美しい日本の憲法をつくる国民の会共同代表などを歴任した。 東京府生まれ。日本中学校卒業。海軍兵学校(第75期)に進む。海兵在校中に終戦。海兵ではリベラルとして知られた井上成美校長の薫陶を受けた最後の卒業生の一人となった。旧制東京高等学校卒業。昭和28年(1953年)、東京大学法学部卒業。 1952年、24歳で司法試験合格。司法修習7期。1955年、裁判官任官。東京地方裁判所を振り出しに各地の裁判所等で勤務。
可部 恒雄(かべ つねお、1927年(昭和2年)3月9日 -… 可部 恒雄(かべ つねお、1927年(昭和2年)3月9日 - 2011年(平成23年)2月3日)は、日本の裁判官、弁護士、最高裁判所判事。位階は正三位。 広島県・可部寅蔵の二男。父・寅蔵は広島市猿猴橋町で呉服商を営んでいた。 旧制広島高師附属中学、旧制広島高校、東京大学法学部卒。1952年(昭和27年)判事補任官。水戸地裁所長、最高裁首席調査官、東京地裁所長等を経て、1988年(昭和63年)福岡高等裁判所長官に就任。 1990年(平成2年)から最高裁判所判事を務める。就任あいさつでは「重い職責を担うことになった。気力、体力、勇気をふりしぼり、困難にめげず、最後までがんばりたい」と述べた。 1997年4月2日の愛媛県靖国神社玉串料訴訟大法廷判決では三好達と共に国側主張を支持し反対意見を出した。
佐々木 史朗(ささき しろう、1926年(大正15年)7月1… 佐々木 史朗(ささき しろう、1926年(大正15年)7月18日 - 2003年(平成15年)4月22日)は、日本の裁判官、弁護士。札幌高等裁判所長官、福岡高等裁判所長官。1996年勲二等旭日重光章受章。 裁判官を退官したのちは弁護士になり、1994年のゼネコン汚職事件で逮捕・起訴された清山信二元鹿島建設副社長の弁護人を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
時國 康夫(ときくに やすお、1926年5月11日 - 19… 時國 康夫(ときくに やすお、1926年5月11日 - 1998年8月11日)は日本の裁判官。神奈川県生まれ。キリンビール社長の時國益夫は父。 1950年に東京大学法学部卒業。1952年に宇都宮地裁判事補に就任。1958年から1960年にかけて、ハーバード・ロースクールとミシガン・ロースクールに留学。当時、ハーバードには東京大学から芦部信喜が留学しており、二人は互いに親交を深めて、日本における憲法訴訟論を語り合った。その後、芦部とともに1961年から司法研修所において、憲法訴訟についてのジョイント・セミナーを実施した。 留学の成果を論文で次々と発表し、裁判官としては主に刑事畑を歩く。1966年から旭川地裁判事を務めて猿払事件を担当し、1968年3月25日に地裁判決を出した。
草場 良八(くさば りょうはち、1925年〈大正14年〉11… 草場 良八(くさば りょうはち、1925年〈大正14年〉11月16日 - 2020年〈令和2年〉3月13日)は、日本の裁判官。第12代最高裁判所長官。 横浜地裁や東京地裁に勤務。東京地裁では学生事件を裁き、刑事裁判が専門。その後、最高裁秘書課長として新聞記者への広報活動をした。最高裁経理局長、甲府地裁所長、東京高裁判事を歴任。最高裁事務総長では矢口洪一最高裁長官を補佐して簡裁の統廃合を進め、長年の懸案であった法廷撮影の部分緩和をまとめた。その後、東京高裁長官に就任。 1989年11月27日に最高裁判事に就任。 最高裁判事就任から3ヶ月後の1990年2月に最高裁長官に就任。長官就任の挨拶では「長年にわたって築き上げてきた司法のよき伝統を受け継ぎ、国民から一層、信頼されうる司法の確立のため全力を尽くす」と述べた。
岡田 光了(おかだ みつのり、1925年8月24日 - 19… 岡田 光了(おかだ みつのり、1925年8月24日 - 1998年5月27日)は、日本の裁判官。専門は刑事法。ロッキード事件丸紅ルート第1審の裁判長を務めたことで知られる。 ※以下の出典は(ロッキード事件関連を除き)「岡田光了先生略歴」『清和法学研究』6号(清和大学法学部、1999年3月31日、p.313)による。 1944年に海軍予備生となり、1945年8月に復員した。 1948年に東京大学法学部を卒業する。人事院事務官となるが、在職中に司法試験に合格し、1953年に人事院を退官した。司法修習生を経て、1955年に新潟地方裁判所の判事補となる。1965年に東京地方裁判所判事に転任する。1968年から司法研修所教官を務めた後、1972年からは再び東京地方裁判所に戻り判事、部総括判事(1975年)となる。
山本 進一(やまもと しんいち、1925年(大正14年)2月… 山本 進一(やまもと しんいち、1925年(大正14年)2月5日 - 2013年(平成25年)1月25日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士だった人物。法学博士(明治大学)。明治大学学長。専門は民法全般。 東京出身。1942年、慶應義塾商業学校卒業。1944年、明治大学専門部法科卒業。赤紙で召集を受ける。1945年、復員。1947年、高等試験司法科試験合格。1949年、明治大学法学部卒業。東京地方裁判所判事補に任官。1952年、東京簡易裁判所判事を併任。1953年、退官。明治大学法学部助教授(民法担当)。弁護士登録。1954年、明治大学法学部教授。1962年、博士(法学)。論文の題は「無効行為転換の理論」。
賀集 唱(かしゅう しょう、1924年(大正13年)10月3… 賀集 唱(かしゅう しょう、1924年(大正13年)10月31日 - 2008年(平成20年)7月26日)は、日本の裁判官。元東京高等裁判所判事部総括。兵庫県神戸市出身。 福井地家裁所長や和歌山地家裁所長を歴任、東京高等裁判所判事部総括で退官。退官後は弁護士登録し、帝京大学法学部教授を務める一方、多方面の役職を歴任した。 民事裁判手続・司法制度分野の権威でもあった。 永年にわたる功労により1994年(平成6年)には勲二等瑞宝章を受章。死後、従三位に叙された。 1944年海軍経理学校卒業、1945年海軍主計中尉、1947年京都帝国大学法学部入学、1949年12月 司法試験第二次試験合格、1950年京都大学法学部卒業、司法修習生、1952年司法修習終了、名古屋地方裁判所・名古屋家庭裁判所判事補、1954年東京家庭裁判所判事補・最高裁判所事務総局民事局付、最高裁判所事務総局総務局付、1957年旭川地方裁判所・旭川家庭裁判所判事補、1958年札幌地方裁判所・札幌家庭裁判所判事補、1960年東京地方裁判所・東京家庭裁判所判事補、1962年東京地方裁判所・東京家庭裁判所判事、1963年司法研修所教官兼、1968年大阪高等裁判所判事、1971年東京地方裁判所判事、1972年同部総括、1973年東京高等検察庁検事・法務大臣官房参事官、1975年法務大臣官房司法法制調査部長兼、1978年東京高等裁判所判事、1980年福井地方裁判所・福井家庭裁判所長。
黒川 正昭(くろかわ まさあき 1924年9月1日 - 20… 黒川 正昭(くろかわ まさあき 1924年9月1日 - 2019年12月21日)は、日本の裁判官。 京都府出身。徳島地方裁判所判事などを務めた後に1965年(昭和40年)大阪高等裁判所判事、1967年(昭和42年)札幌高等裁判所判事、1973年(昭和48年)大阪地方裁判所判事、1976年(昭和51年)金沢家庭裁判所所長、1977年(昭和52年)大津地方裁判所署長兼大津家庭裁判所所長などを歴任。その後、大阪地方裁判所所長、広島高等裁判所長官、1986年(昭和63年)から1988年(平成元年)にかけて大阪高等裁判所長官を務めて退官した。2019年(令和元年)誤嚥性肺炎にて死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
野田 愛子(のだ あいこ 1924年(大正13年)7月5日 … 野田 愛子(のだ あいこ 1924年(大正13年)7月5日 - 2010年(平成22年)6月19日)は、日本の裁判官。女性初の高等裁判所長官だった。1994年、勲二等宝冠章受章。叙正三位。
石丸 俊彦(いしまる としひこ、1924年6月28日 - 2… 石丸 俊彦(いしまる としひこ、1924年6月28日 - 2007年4月1日)は、日本の裁判官、法学者。専門は刑事法。元東京高等裁判所総括判事。元早稲田大学法学部客員教授。 16歳で陸軍予科士官学校に入学する。 1944年、陸軍士官学校を卒業し、歩兵部隊の少尉に任ぜられ、ビルマの戦地に送られる。敗北で撤退の後、帰国して本土決戦要員に任じられた状態で日本の敗戦を迎えた。当時の上官は敗戦が決まった後、「諸君らは生きて、この国を立て直して欲しい」と言い残して割腹自決したという。 1951年、早稲田大学法学部(旧制)を卒業、同年司法修習生となる。1953年に判事補に任官した。 以降、裁判官として福岡地方裁判所、東京地方裁判所、最高裁判所調査官、司法研修所教官、裁判所書記官研修所長、佐賀地方裁判所所長等を歴任した。
千葉 和郎(ちば わろう、1923年12月23日 - 201… 千葉 和郎(ちば わろう、1923年12月23日 - 2018年1月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所事務総局刑事局長や、東京高等裁判所部総括判事、福岡高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官等を歴任した。 第二高等学校で寮歌「散りにし花は」を作曲。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 東北大学卒業後、東京地方裁判所判事補、最高裁判所事務総局刑事局第二課長、東京地方裁判所部総括判事、最高裁判所事務総局秘書課長、最高裁判所事務総局刑事局長、大津地方裁判所長、東京高等裁判所部総括判事、横浜地方裁判所長、東京家庭裁判所長等を経て、1985年福岡高等裁判所長官。
齋藤 次郎(さいとう じろう、1923年10月7日 - 19… 齋藤 次郎(さいとう じろう、1923年10月7日 - 1986年6月2日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や長崎地方裁判所長、福岡高等裁判所部総括判事などを務めた。水俣病第一次訴訟の裁判長を務めた。 熊本地方裁判所勤務時には水俣病第一次訴訟に携わり、初めてチッソの過失責任を認める判決を下した。その際、チッソと水俣病患者家族互助会との間で1959年に結ばれた見舞金契約によって支払われた金銭は「お見舞い」であって補償金ではないため、これをもって賠償とするのは金額が低く公序良俗に反するため無効との判断を示し、弁護士費用も含め9億3千万円の賠償を命じた。この額は他の四大公害病訴訟の中では最高額となる。
貞家 克己(ていか かつみ、1923年 <大正12年> 9月… 貞家 克己(ていか かつみ、1923年 <大正12年> 9月13日 - 2003年 <平成15年> 11月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。愛知県出身。位階は正三位。 愛知一中や旧制一高を経て、1948年(昭和23年)東京帝国大学を卒業。司法修習を終えた後、いったん千葉地裁判事補などをし、1953年(昭和28年)10月に法務省入り。参事官、司法法制調査部長、訟務局長、民事局長を務め、「法務省に貞家あり」といわれた存在であった。裁判官としても宇都宮地裁所長、横浜地裁所長、広島高裁長官、大阪高裁長官などを歴任した。法務省訴訟局長から東京高裁判事になった時は周囲から「今様浦島ですね」と冷やかされ、自ら「浦島太郎の独白」と題する随筆を法律雑誌に寄せた。
輪湖 公寛(わご きみひろ、1923年7月11日 - 200… 輪湖 公寛(わご きみひろ、1923年7月11日 - 2003年8月5日)は日本の裁判官。 長野県南安曇郡上野村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科を経て、東京帝国大学卒業。1948年司法修習生となり、1950年長野地方裁判所松本支部判事補等を経て、1971年最高裁判所調査官となる。1975年東京高等裁判所判事、1981年函館地方裁判所長、1983年仙台高等裁判所裁判長。1988年退官。1993年勲二等瑞宝章。 2003年(平成15年)9月19日付の官報号外(第219号)210頁の「弁護士名簿登録・登録換・登録取消 諸事項」において、同年8月5日付で死亡により弁護士名簿登録取消となっている。
勝見 嘉美(かつみ よしみ、1922年〈大正11年〉9月29… 勝見 嘉美(かつみ よしみ、1922年〈大正11年〉9月29日 - 2005年〈平成17年〉6月15日)は、日本の裁判官、法務官僚。主に民事裁判を担当した他、司法行政にも携わり、最高裁判所事務総長、名古屋高等裁判所長官を歴任した。位階は正三位。 山形県生まれ。東京帝国大学卒業。1949年(昭和24年)に司法修習生となる。1951年(昭和26年)に甲府地裁・家裁で裁判官実務を経験した後で、1955年(昭和30年)に最高裁行政局付。1960年(昭和35年)に福岡地裁・家裁へ転出を経て、1963年(昭和38年)に最高裁行政局課長となる。最高裁経理局総務課長などを経て、1971年(昭和46年)に法務省に出向し、法務省参事官や司法法制調査部長等を務める。
大内 恒夫(おおうち つねお、1922年3月24日 - 20… 大内 恒夫(おおうち つねお、1922年3月24日 - 2018年2月8日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。山形県出身。 1943年(昭和18年)東京帝国大学法科を卒業。同年司法官試補となる。東京地方裁判所判事、最高裁訴廷部などに勤務。再び裁判事務に就いた後、1964年(昭和39年)5月に最高裁秘書課長兼広報課長に就任。新聞記者との折衝も仕事の一つだが、懇切丁寧な大内の対応は記者から好評だった。後に最高裁経理局長となり、現最高裁庁舎の建設に参画した。78億円から126億円と膨らんだ建設予算獲得のために大蔵省との折衝をした。国家的事業と考え、法廷内に吸音板を張り巡らして静穏に工夫したり、天井の高い大法廷の暖房にエアカーテンを流すなど最新の注文をつけるなどした。
四ツ谷 巖(よつや いわお、1922年〈大正11年〉2月9日… 四ツ谷 巖(よつや いわお、1922年〈大正11年〉2月9日 - 1993年〈平成5年〉6月27日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。 岐阜県出身。1945年(昭和20年)東京帝国大学を卒業。1945年(昭和20年)11月に司法官試補、1947年(昭和22年)5月に司法修習生になり、1949年(昭和24年)6月に富山地裁を振り出しに裁判官生活を始める。1954年(昭和29年)に最高裁総務局付。この後、札幌・東京の各地裁判事、東京高裁判事、福島地裁所長、東京高裁総括判事を歴任。1984年(昭和54年)12月に広島高裁長官に就任し、1985年(昭和60年)11月に東京高裁長官に就任した。
倉田 卓次(くらた たくじ、1922年1月20日 - 201… 倉田 卓次(くらた たくじ、1922年1月20日 - 2011年1月30日)は、日本の裁判官、公証人、弁護士。 法学博士(大阪大学、1974年、学位論文「民事交通訴訟の研究」)。 昭和40年代から50年代前半にかけて、東京地方裁判所に創設された交通事故事件専門部の部総括代理と民事13部部総括を歴任し、いわゆる「倉田コート」を率いた。 法律書に加え、裁判官生活をめぐるエッセーや幅広い分野の読書をもとにしたエッセーの著者としても知られる。ハードSF研究所客員。その博識ぶりについて、ある裁判官は「彼は文学歴史から異常性愛の世界に至るまで、これ知らないというものはない、一番知らないのは法律だが、それでも俺たちよりは知っている」と評した。
白井 美則(しらい よしのり、1922年1月1日 - 201… 白井 美則(しらい よしのり、1922年1月1日 - 2015年4月19日)は、日本の裁判官、弁護士。元高松高等裁判所長官。元四天王寺大学学長。 香川県三豊郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1947年(昭和22年)高等文官試験司法科合格。1949年(昭和24年)高松地方裁判所判事補。1959年(昭和34年)大阪地方裁判所判事に任官。1974年(昭和49年)徳島地方裁判所・家庭裁判所所長、1976年(昭和51年)大阪高等裁判所総括判事、1978年(昭和53年)京都家庭裁判所所長、1980年(昭和55年)大阪家庭裁判所所長を歴任。 1977年(昭和52年)7月20日、大阪高等裁判所総括判事時に「固定資産価格決定取消等及び固定資産審査決定取消請求控訴事件」では、固定資産課税標準価格についての審査の申出に対してされた固定資産評価審査委員会の審査決定の取消しを求める訴えを、既に係属中の右価格について市長の決定の取消しを求める訴えに併合して提起したときは、前者の訴えの出訴期間の遵守につき、行政事件訴訟法20条を類推適用すべきであるとした。
香川 保一(かがわ やすかず、1921年(大正10年)5月5… 香川 保一(かがわ やすかず、1921年(大正10年)5月5日 - 2014年(平成26年)6月13日)は、日本の裁判官、弁護士。位階は正三位。勲等は勲一等。社団法人民事法情報センター(解散済み)理事長。 札幌高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官、最高裁判所判事などを歴任した。 大阪府南河内郡三日市村(現在の河内長野市)の出身。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1947年に東京大学法学部を卒業するとともに、司法試験へ合格。
宮脇 幸彦(みやわき よしひこ、1921年1月24日 - 1… 宮脇 幸彦(みやわき よしひこ、1921年1月24日 - 1994年5月10日)は、日本の裁判官、法務省民事局参事官(検事)、学習院大学教授(一時、法学部長)、弁護士
宮崎 啓一(みやざき けいいち、1920年10月7日 - 2… 宮崎 啓一(みやざき けいいち、1920年10月7日 - 2006年6月13日)は、日本の裁判官。徳島市生まれ。第二水俣病裁判の裁判長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
安岡 満彦(やすおか みつひこ、1920年5月5日 - 20… 安岡 満彦(やすおか みつひこ、1920年5月5日 - 2002年7月16日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。高知県出身。 旧制高知高校から1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業。同年10月に司法官試補、1944年(昭和19年)1月に軍隊に応召となり、1945年(昭和20年)9月に復員。裁判員生活に入り、東京地方裁判所、秋田地方裁判所などに勤務。次いで司法研修所教官、東京高等裁判所、東京地裁などで裁判事務につき、静岡地方裁判所長を経て、再び東京高裁判事。1979年3月に司法研修所長に就任したが、裁判官の不祥事などが相次ぎ、法曹の卵たちに「予断にとらわれないで着実に進む将棋の王将のようになれ」と説いた。
高林 克巳(たかばやし かつみ、1920年(大正9年)3月3… 高林 克巳(たかばやし かつみ、1920年(大正9年)3月31日 - 2000年(平成12年)9月2日)は、日本の裁判官。位階は正三位。 鳥取県米子市博労町出身。 1943年(昭和18年)東京帝国大学法学部卒業。宮崎地方裁判所、東京地方裁判所裁判官を経て1957年(昭和32年)鹿児島地方裁判所裁判官。1985年3月 定年退官。 1990年、勲二等瑞宝章を受章。2000年9月2日、大腸癌のため死去。死没日付をもって正三位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
矢口 洪一(やぐち こういち、1920年〈大正9年〉2月20… 矢口 洪一(やぐち こういち、1920年〈大正9年〉2月20日 - 2006年〈平成18年〉7月25日)は、日本の裁判官。第11代最高裁判所長官を務めた。父の矢口家治も裁判官。 裁判官生活の3分の2を法服ではなく背広姿で過ごした人は、矢口以外にはなく、事務総長をはじめ、総務・人事・行政・民事・経理と7局のうち、5局までを経験した。普通は、この中の1局でも担当すれば、最高裁行政の専門家として重きをなすのだが、矢口の場合は想像を超える最高裁の表裏のすべてに通じていた。そのため、「ミスター司法行政」の異名を取った。 熊本水俣病(チッソ)、新潟水俣病(昭和電工)、イタイイタイ病(三井金属鉱業)、四日市ぜんそく(昭和四日市石油・三菱化成・三菱樹脂・三菱モンサント(前記3社は現:三菱ケミカル)・中部電力・石原産業)の四大公害訴訟のときは、民事局長として、被害者の立証の難しさを緩和する理論を提唱し、早期解決に尽力した。
牧 圭次(まき けいじ、1919年11月25日 - 2012… 牧 圭次(まき けいじ、1919年11月25日 - 2012年2月26日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。宮城県出身。 1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)1月に司法官試補となるも、同年2月に現役兵として入隊。復員後は裁判官生活に入り、東京地方裁判所や函館地方裁判所などで裁判を経験後、最高裁人事局勤務、刑事局長、千葉地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁事務総長などを歴任した。 東京地裁時代には東大安田講堂事件を担当した際には1969年(昭和44年)6月に騒ぐ被告たちを機動隊を入れて排除し、9人を5日間の監置処分にし、統一公判要求をする弁護側と3時間の論議を行い、8月には弁護団、被告たちに退廷命令を出し、1970年(昭和45年)5月には弁護士1人を15日間の監置処分にするなど果敢な法廷指揮をとった。
伊藤 正己(いとう まさみ、1919年9月21日 - 201… 伊藤 正己(いとう まさみ、1919年9月21日 - 2010年12月27日)は、日本の法学者(英米法・憲法)、裁判官。位階は正三位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京大学・1960年)。東京大学名誉教授、文化功労者。名の表記は「正己」であり、「正已」や「正巳」は誤り。専門書でも誤記されることがある。司法省調査課嘱託、専修大学法学部非常勤講師、法務庁調査意見局調査員、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、最高裁判所判事、日本育英会会長、財団法人国際科学技術財団会長などを歴任した。末延三次門下。弟子に、樋口範雄など。 兵庫県出身の法学者である。専門は英米法、憲法で、とりわけ表現の自由とプライバシーの関係性を研究した。
小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 19… 小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 1998年9月22日)は、昭和(戦後)の裁判官。 1919年(大正8年)8月15日生まれ。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、南満州鉄道に勤務。現地で軍隊に召集され、抑留の後、復員。1947年(昭和22年)司法試験合格。同年に創設された司法修習所第1期出身の裁判官。法律に強い理論派で、厳格な法解釈で知られた。 自衛隊の合憲性が問われた長沼ナイキ事件 控訴審の裁判長。1審で出された初の自衛隊違憲判決を覆し、最高裁の「送り込み人事」、「長沼シフト」と言われた。
真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18… 真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1981年〈昭和56年〉1月10日)は、日本の法制官僚、裁判官、弁護士。内閣法制局長官。 福井市出身。弁護士・真田一夫、政乃夫妻の七男として生まれた。福井県立福井中学校、第三高等学校を卒業。大学在学中に高等試験司法科試験に合格。京都帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)1月、司法官試補となり東京地方裁判所判事に任官。召集され陸軍の戦車隊に配属されたが、海軍短期現役士官を志願し海軍法務官に転じ、終戦時は海軍法務中尉であった。 戦後、裁判官に復帰したが、1947年(昭和22年)法制局に転じ参事官となり、第二部長、第一部長、内閣法制次長などを歴任。
金 正斗(キム・ジョンドゥ、朝鮮語: 김정두、1918年8月… 金 正斗(キム・ジョンドゥ、朝鮮語: 김정두、1918年8月2日 - 1985年4月5日)は、大韓民国の裁判官、弁護士、政治家。大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長、第8代韓国国会議員、民権党総裁権限代行を歴任した。 本貫は慶州金氏。元ソウル高等法院院長の金東建(朝鮮語版)は娘婿、裁判官の潘侹佑は孫娘婿。 日本統治時代の慶尚北道高霊郡出身。京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)、1941年明治大学法科卒。1945年司法要員考試合格。1948年大邱地方法院(朝鮮語版)判事、1951年大邱高等法院(朝鮮語版)判事、大邱地方法院・ソウル高等法院(朝鮮語版)部長判事、1968年第21代大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長、第8代国会議員、慶州金氏宗親会中央会副会長、崇恵殿陵保存会専務理事、新民党統一分科委員長・大邱東地区党委員長、民権党中央党事務総長・慶北第2地区党委員長・総裁代行を務めた。
植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年… 植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年)は、日本の裁判官、弁護士、翻訳者。 1918年生まれ。1941年、司法科試験合格。1948年、東京帝国大学法学部卒業後に裁判官となり、松山地方裁判所長、東京高等裁判所判事、公証人などを務める。 1960年頃から精神科医吉益脩夫の指導の下で、「日本犯罪誌」の編集委員となる。1962年にはオーストリアのナチス法制家のエルンスト・ゼーリッヒの著書を翻訳出版。1964年、第1回刑事政策審議会賞。1988年、第3回日本犯罪学会賞を受賞。弁護士に転身する。2005年に死去。同年日本司法精神医学会が設立され、刑事法学者で精神科医の山上皓が理事長に就任した。
藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 19… 藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 1994年11月10日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や福岡家庭裁判所長、東京高等裁判所部総括判事などを歴任した。福岡県出身。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1… 谷口 正孝(たにぐち まさたか、1917年1月28日 - 1994年6月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所裁判官。法学博士。高等裁判所判事や東京地方裁判所所長を歴任。 鹿児島県および宮崎県出身。鹿児島県の事務官吉田詮則の次男で、母方の谷口家(谷口ワサ)の養子となる。旧制中学・高校は鹿児島市で、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1937年3月旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)文科卒業。1940年九州帝国大学法文学部法科(現・九州大学法学部)法律専攻卒業。同年4月、司法官試補。1942年名古屋地方裁判所判事となり、一貫して刑事裁判官としての道を歩む。1957年、論文「没収及び追徴の研究、無差別没収を中心として」にて九州大学より法学博士号授与。
杉本 良吉(すぎもと りょうきち、1916年11月7日 - … 杉本 良吉(すぎもと りょうきち、1916年11月7日 - 2004年11月25日)は、日本の裁判官。 愛知県美和町出身。1940年東京帝国大学法学部卒業。大阪地裁、法務省勤務を経て、1963年東京地裁判事、1973年東京高裁判事を務め、1981年に退官。1982年大東文化大学教授、1987年には同学長に就任した。 2004年11月25日、心不全のため東京都内の病院で死去、88歳没。 東京地裁判事在任時の1970年、教科書検定の合憲性が争われた家永教科書裁判で検定不合格を憲法違反とした「杉本判決」を下した。行政事件訴訟法の立法担当者でもある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月1… 大橋 進(おおはし すすむ、1916年 <大正5年> 6月13日 - 2003年 <平成15年> 12月10日)は、日本の弁護士、最高裁判所裁判官。位階は従三位。 東京都出身。1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)に司法官試補となり、1944年(昭和19年)5月に大阪地裁を振り出しに裁判官生活に入ったが、間もなく海軍に召集されて海軍法務官となり、中尉で横須賀鎮守府軍法会議付きのとき終戦を迎えた。1946年(昭和21年)4月から東京地裁に勤務、ついで1949年(昭和24年)10月から法務府法制違憲第一局長補佐を2年余り勤め、再び東京地裁に戻った。 1954年(昭和29年)7月に弁護士に転じた。
木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月1… 木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月15日 - 1991年〈平成3年〉8月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。兵庫県姫路市出身。 1934年(昭和9年)旧制姫路高等学校文科乙類卒業[要出典]。1937年(昭和12年)東京帝国大学法科を卒業。同年に司法官試補。裁判官生活は浦和、福岡、水戸、東京、大阪と各地に及び、大阪高裁判事、旭川地・家裁所長を経て、1970年(昭和45年)に大阪地裁所長に就任。その後、1975年(昭和50年)10月に仙台高裁長官、1977年(昭和52年)9月に大阪高裁長官に就任。 1979年(昭和54年)3月1日に最高裁判所判事に就任。裁判官出身の最高裁判事としては珍しく最高裁事務総局勤務が無かった。
寺田 治郎(てらだ じろう、1915年(大正4年)11月4日… 寺田 治郎(てらだ じろう、1915年(大正4年)11月4日 - 2002年(平成14年)3月17日)は、日本の裁判官。第10代最高裁判所長官。位階は従二位。 愛知県出身。旧制姫路高等学校を経て、1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部を卒業。 司法官試補となるも、すぐに大日本帝国陸軍に召集され、法務大尉として終戦を迎えた。復員後は1947年(昭和22年)に京都地裁に勤務した後、1949年(昭和24年)に最高裁民事局勤務、最高裁事務総務局長、大津地裁所長、東京高裁判事を経て、1974年(昭和49年)に最高裁事務総長に就任。1976年(昭和51年)5月に日本共産党スパイ査問事件が国会で取り上げられた時には国会に呼ばれ、「国政調査権が確定判決の当否、事実認定、罪刑の当不当などを調査するのは司法権介入になるか」とただしたのに対し、寺田は1948年(昭和23年)の最高裁裁判官会議の議決から「確定判決の当否を調べるため、国会が証人喚問を行うようなことは的確ではない」と答弁した。
森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 200… 森田 宗一(もりた そういち、1915年6月5日 - 2007年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 東京都出身。昌平中学校、東京帝国大学法学部卒。1942年司法官試補。1949年少年法施行と同時に最高裁判所家庭局付判事補。同局第三課長を経て、1959年東京家庭裁判所判事。1973年に弁護士となる。 青少年の健全育成を唱え、1970年には少年法適用年齢の上限引き下げ改正要綱に反対した。
藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月1… 藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月16日 - 2006年(平成18年)10月6日)は、日本の最高裁判所裁判官、外交官(外務省条約局長、オランダ駐箚大使、タイ王国駐箚大使等)。 鹿児島県出身。川辺郡知覧町(南九州市)生まれ、揖宿郡山川町(指宿市へ合併)出身。馬場家に生まれ、伯父の藤崎家の養子となる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1933年(昭和8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部英文学科卒業。旧制高校の教師になろうと考えていたが就職口がなく、東京帝国大学法学部政治学科に再入学して学び1937年(昭和12年)外務省へ入省。
三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13… 三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。旧姓:和田()、旧々姓:武藤()。従三位。 台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。 東京府青山師範学校附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。
戸田 弘(とだ ひろむ、1914年4月9日 - 1980年3… 戸田 弘(とだ ひろむ、1914年4月9日 - 1980年3月25日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。 愛媛県出身。1938年(昭和13年)に東京帝国大学法科を卒業。同年司法官試補となり、その後に東京や広島などに勤務。広島勤務時代には原爆投下に遭うも、直接被害を被らなかった。 1949年(昭和24年)に現行刑事訴訟法のスタートと共に荒しい時代の刑事裁判に取り組み、最高裁調査官、東京地裁判事等を務め、その後、司法研修所教官、浦和地裁所長、横浜地裁所長、大阪高裁判事、高松高裁長官、東京高裁長官等を歴任した。東京地裁八王子支部の裁判長時代には10年間も裁判記録がロッカーに埋もれていた八王子職安事件について「刑事訴追の利益がない」として公訴を棄却した(控訴審では破棄された)。
中村 治朗(なかむら じろう、1914年2月20日 - 19… 中村 治朗(なかむら じろう、1914年2月20日 - 1993年8月24日)は、日本の裁判官。元最高裁判所判事。 香川県出身。旧制第六高等学校を経て東京帝国大学法学部在学中に高等試験司法科合格。1940年、判事任官。最高裁判所調査官、最高裁判所民事局長兼行政局長、最高裁判所首席調査官など最高裁内部での勤務期間が長かった。英米法に対する造詣が深く、学者的裁判官といわれた。 1972年に青年法律家協会問題が注目された際には、東京高裁判事として、再任拒否問題とは別に青法協問題が解決される必要があるとの立場を取って「①青法協は日本の政治的状況の中では新野党的位置に属する、②裁判官は一定の思想的立場や信条に深くコミットすることを避けるべきで一般市民に比べて思想信条の自由は制約される、③青法協を脱退しても裁判官が失うものは多くはないはずで、裁判独立のため裁判官が総力を上げて戦うのには青法協問題はふさわしい場ではない」と裁判所内部で表明して注目された。
李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月1… 李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月18日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の政治家、裁判官、弁護士、公証人。第12代法務部長官、第4・5代韓国国会議員。 本貫は真城李氏(朝鮮語版)。号は暁汀、日本名は李家炳夏。 日本統治時代の慶尚北道聞慶郡出身。地元で普通学校を卒業後、1928年に京城に上京し雑貨店の店員を務めたが、1931年9月に内地に密航し、同年11月に大阪の日刊新聞の従業員に就職した。1933年4月には甲種中学校である大阪北洋商業学校の夜間部3年に編入し、1935年3月に卒業。同年4月に明治大学専門部法科夜間部に入学し、1938年に卒業した。卒業後はしばらく京城の三中井百貨店で経理・人事管理・商品購入担当職員を務め、1940年には三中井百貨店の東京支社に転職した。
山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月… 山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県杵島郡白石町出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを口にし、栄養失調で亡くなったことで知られる。 1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡福治村(現在の白石町)に、小学校教師の長男として生まれる(→白石町ホームページ)。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学法学部を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。
岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - … 岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - 1993年8月13日)は、日本の裁判官、弁護士。元日本弁護士連合会副会長。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学専門部法律科卒業。 三豊中学卒業後、同郷の先輩の白川朋吉弁護士事務所に書生として勤務しながら法律の勉学に励み、1931年(昭和6年)普通文官試験合格。更に、1935年(昭和10年)日本大学専門部法律科卒業後、1940年(昭和15年)高等文官試験司法科合格。1942年(昭和17年)判事任官。大阪、神戸、姫路、岡山の各地方裁判所判事を歴任。 1947年(昭和22年)岡山県にて弁護士開業。1968年(昭和44年)4月から1969年(昭和45年)3月まで岡山弁護士会会長、1980年(昭和55年)4月から1981年(昭和56年)3月まで日本弁護士連合会副会長を務めた。