平井 蒼太(ひらい そうた、1900年8月5日 - 1971… 平井 蒼太(ひらい そうた、1900年8月5日 - 1971年7月2日)は愛知県出身のミステリー作家、豆本作家、性風俗文献蒐集家。薔薇蒼太郎、牡丹耽八、書鬼海二等、多数の変名を持つ。 平井太郎(江戸川乱歩)の次弟として名古屋市に生まれる。本名:平井通。 1917年11月、長兄太郎の鳥羽造船所入社に伴い、末弟敏男と共に鳥羽へ移住。1919年に兄弟で上京。東京市本郷区団子坂にて、長兄太郎や末弟敏男と共に古書店「三人書房」を経営。のち大阪へ移り関西大学専門部経済科を修業。1921年から電気部試験係として大阪電気局に勤務。1931年にカリエスを病み、休職して滋賀県甲賀郡寺庄村(現在の甲賀市)なる妻の実家で静養。
二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8… 二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家。キッコーマン中興の祖。同社社長として、個人醸造家の集合体を近代経営化し業界トップ化した。旧名は飯田勝次。 千葉県海上郡富浦村(現旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。飯田庄作の弟である。 成東中学(現千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、野田醤油(現キッコーマン)に入社。大学では上田貞次郎ゼミに参加。上野喜左衛門(南国殖産創業者、元参議院議員)とは大学時代からの親友。入社後まもなく、労働争議を解決し、親友上野が橋渡し役となり、先代茂木啓三郎の養子となり1935年に家督を相続した。
武永 貞一(たけなが ていいち、1898年〈明治31年〉8月… 武永 貞一(たけなが ていいち、1898年〈明治31年〉8月5日 - 没年不詳)は、日本の実業家、政治家。元武永明文舎印刷工場経営主、今市水道取締役。 元首相竹下登の伯父。元島根県会議員竹下勇造の実兄。 旧制島根県立杵築中学校(現・島根県立大社高等学校)卒業。1925年(大正14年)より1955年(昭和30年)まで今市町議から出雲市議を連続つとめ、また同商工会議所会頭等を歴任。 趣味は書画、骨董、旅行。宗教は真宗。
大野 純一(おおの じゅんいち、1898年8月5日 - 19… 大野 純一(おおの じゅんいち、1898年8月5日 - 1982年1月31日)は、日本の経済学者。専門は財政学。初代小樽商科大学学長。 北海道滝川町出身。1919年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。1922年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。同年小樽高等商業学校講師。同年小樽高等商業学校助教授。 1924年小樽高等商業学校教授。1927年から1931年までドイツに留学。1945年小樽経済専門学校図書館主幹。1946年から校長を務め、1947年には男女共学制度を施行。1949年から初代小樽商科大学学長。1950年小樽セーリング協会会長。 1952年に小樽商科大学短期大学部を設置。1962年定年退官、小樽商科大学名誉教授。
大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1… 大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1936年6月8日)は、大阪府堺市出身で小野川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は中辻 佐太郎。173cm、94kg。最高位は西前頭11枚目(ただし番付削除の為、番付上の最高位は東前頭12枚目) 大坂相撲の小野川部屋に入門、1913年5月場所初土俵。1917年6月新十両、1918年1月新入幕。1月場所前に入営し、2年間の軍隊生活を経て1920年1月に断髪姿で帰参。1923年5月に大関に昇進した。しかし、その時に起きた紛擾事件(龍神事件)に関与して一時脱退、その後一度十両格で復帰するも再び脱退し、そのまま東西合併を迎えた。 その後東京の出羽海部屋にうつり、1928年1月十両格付出で東京の初土俵という形で角界に復帰した。
荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日… 荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日 - 1972年(昭和47年)6月12日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡駒形村長。 福島県耶麻郡駒形村(塩川町を経て現喜多方市)で、荒木與三郎の息子として生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を中退し、その後は独学した。 18歳で福島民報記者となり、福島民友などを経て、1920年(大正9年)1月に上京し東京日日新聞の地方部記者となる。その後、やまと新聞、時事新報を経て、1925年(大正14年)4月、中外商業新報の編輯局長付となり、同論説委員を務めた。1929年(昭和4年)9月、夕刊会津タイムス社を設立し社長に就任。
大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(… 大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(明治29年)8月5日 - 1952年(昭和27年)4月9日)は、日本の活動弁士、漫談家。 漫談という言葉をつくり、自らを漫談宗家、漫談家元と名乗った文字通り漫談家の草分け。もく星号墜落事故犠牲者のひとりとしても知られる。 東京市日本橋出身。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。
澄川 道男(すみかわ みちお、1896年〈明治29年〉8月5… 澄川 道男(すみかわ みちお、1896年〈明治29年〉8月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月18日)は日本の海軍軍人。海兵45期。最終階級は少将。勲三等旭日章、勲二等瑞宝章、金鵄勲章功四級、仏国金鵄勲章レジオンドヌール勲章三級。 1896年(明治29年)8月5日、山口県吉敷郡山口町(現:山口県山口市)で出生、旧制山口中学(現在の山口県立山口高等学校)では後に総理大臣となった岸信介と首席の座を競った。1914年(大正3年)海軍兵学校入学、卒業後は主として航空畑、参謀畑を歩んだ。1937年(昭和12年)フランス国大使館附武官(駐在武官)。海軍大佐時代には水上機母艦「瑞穂」艦長(1940年10月15日 - 1941年9月5日)、航空母艦「飛鷹」艦長(1942年11月21日 - 1943年8月15日)を務めている。
石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8… 石田 千太郎(いしだ せんたろう、1894年(明治27年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の逓信官僚、政治家。朝鮮総督府逓信局長、愛知県議会議員(5期)、朝鮮石炭株式会社社長などを歴任した。 愛知県丹羽郡犬山町(現在の犬山市)出身。1914年(大正3年)、逓信官吏練習所を卒業し、通信書記補、逓信属を務めた。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、翌年に朝鮮総督府属となった。同理事官、平安北道地方課長、同秘書課長、林野調査委員会事務官、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚南道警察部長、殖産局鉱山課長を歴任。1938年(昭和13年)、平安南道知事に就任し、さらに厚生局長を経て、1942年(昭和17年)に逓信局長となった。
西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1… 西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1966年8月10日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。陸軍中将・西山福太郎は実兄。 神奈川県淘綾郡吾妻村(令和現在の中郡二宮町)の出身。実家は井筒屋の屋号で宝永年間より街道沿いの旅宿を営んでいたが、明治維新後は交通機関の発達などもあり父の代で廃業。以後は養蚕業及び網元を生業とした。弥太郎は父・豊八、母・ヒロのもと十二人兄弟の十男として1893年(明治26年)8月に生まれる。兄弟が多かった為、弥太郎を含む4人以外は他家に養子入りし、実家は後に二男(長男は夭折)の斧三郎が継いだ。1908年(明治41年)春に満14歳で高等小学校を卒業すると、母方の親戚がやっていた横浜の金物店に手伝いとして入る。
矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5… 矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5日 - 1966年(昭和41年)1月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日… 田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日 - 1965年 <昭和40年> 9月2日)は、日本の商人(米穀並びに酒類商)、実業家、政治家。位階は従六位。 神奈川県三浦郡田浦町(現横須賀市)出身。田川平三郎の二男。1916年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。米穀並びに酒類商を営む。神奈川県会議員に当選し、2期つとめた。 横須賀酒類商業組合理事長、横須賀タクシー会長、湘南商事、神奈川県容器各社長、田浦土地建物、神奈川無尽、神奈川県油工業、神奈川県食糧工業各取締役、神奈川県食糧営団専務理事などをつとめた。1965年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 自由主義者で、福沢諭吉の「独立自尊」を信奉しており、子供には干渉しなかった。
藤田 八郎(ふじた はちろう、旧姓・吉田、1892年〈明治2… 藤田 八郎(ふじた はちろう、旧姓・吉田、1892年〈明治25年〉8月5日 - 1976年〈昭和51年〉7月6日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。 三重県出身。吉田徳善の八男。藤田徳三郎の養子となる。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1919年(大正8年)に判事となった。東京地裁、東京控訴院などを経て、1937年(昭和12年)7月に大審院判事になった。1941年(昭和16年)2月に大阪地裁所長、1944年(昭和19年)3月に札幌控訴院院長に就任。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)に最高裁発足と同時に裁判官出身者として56歳で最高裁入りした。
鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)… 鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)8月5日 - 1969年(昭和44年)12月12日)は、日本の政治家、実業家。 明治25年(1892年)、静岡県敷知郡篠原村(のち浜名郡篠原村、現・浜松市中央区)に生まれる。 明治大学を経て画商として名を成し、東京・銀座の代表的な画廊の一つ、青樹社画廊を経営する。 昭和22年(1947年)の第23回衆議院議員総選挙では日本自由党から出馬し、当選を果たす。 同年、設立された東京電気自動車の外山保より、義父である鈴木に資金要請の相談が入り、画廊の顧客でもあったブリヂストン社長の石橋正二郎から出資を得ることとなった。石橋が400万円、鈴木その他が300万円を出資し、資本参加することとなり、昭和24年1月、鈴木が経営上の全責任を負う社長に就任し、石橋は会長に就任。
横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 -… 横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 - 1969年(昭和44年))は、日本の水産学者である。甲殻類の分野で大きな成果あげ、有名なボタンエビを発見した人物として知られている。長崎大学水産学部教授を務めた。長兄は、日本競馬会常務理事の横屋潤。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の三男として生れる。猷の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。兄である長男横屋潤は日本競馬会(現:日本中央競馬会)の設立と常務理事を務め、次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)… 藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)8月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員、医学博士。 兵庫県姫路市出身。1913年(大正2年)岡山医学専門学校を卒業。1915年(大正4年)耳鼻咽喉科医院を開業する。その後、ベルン大学を卒業して医学博士となる。 姫路市本町に藤森病院を開業し院長に就任、藤森医療財団理事長となる。また兵庫県医師会姫路市支部長、姫路市公職適否審査委員などを務め、姫路市議会議員にも選出された。ほか日本医療法人協会理事長、日本耳鼻咽喉科学会評議員、日本気管食道科学会顧問、社会保障制度審議会委員を歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
和田 小六(わだ ころく、1890年(明治23年)8月5日 … 和田 小六(わだ ころく、1890年(明治23年)8月5日 - 1952年(昭和27年)6月11日)は、日本の工学者。長距離飛行の世界記録を打ち立てた航研機の開発など、東京帝国大学航空研究所長として日本の航空工学の発展に貢献した。東京工業大学学長、東京帝国大学教授、千葉工業大学3代目顧問などを務めた。 父は木戸孝正で、木戸孝允は義理の祖父に当たる。妻は吉川重吉の娘で、獅子文六の妻の妹。長女・正子の夫は都留重人、次女・綾子の夫は新日本電気会長肥後一郎。長男・和田昭允は東京大学名誉教授で東京大学理学部長、日本学術会議第4部長、理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長を務めた。 1890年(明治23年)8月5日、木戸孝正・壽栄子夫妻の次男として東京府で生まれた。
松尾 孝之(まつお たかゆき、1890年8月5日 - 194… 松尾 孝之(まつお たかゆき、1890年8月5日 - 1946年5月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。室蘭市長。 北海道出身。1917年日本大学法律科卒。内務省警保局に勤め、夕張警察署長を最後に1928年退官。同年夕張町長に就任した。1932年の第18回衆議院議員総選挙で無所属で立候補して当選。当選後は立憲政友会に入った。その後2回立候補して落選、1937年の第20回衆議院議員総選挙後に繰り上げ当選した。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して落選した。 戦後の1945年11月24日、室蘭市長に就任したが、病のため1946年5月25日に死去した。
杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月… 杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月5日 - 1952年(昭和27年)8月25日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者。本名は杉山 直樹(すぎやま なおき)。別名として杉山 長谷雄、杉山 はせをという表記も見られる。 愛知県名古屋市出身。1913年(大正2年)東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケル、ハインリヒ・ヴェルクマイスター、アレクサンドル・モギレフスキーらにヴァイオリンや作曲を師事した。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永、高勇吉、芝盂泰、多忠亮らと室内楽運動を展開。暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えた。
鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日-… 横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日- 1950年(昭和25年))は、日本の農林官僚であり農林技師である。種馬師となり、東京競馬場長に就任。後年は日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事となった。日本競馬会の理事長安田伊左衛門を補佐した。名馬であったダイオライト購入にも携わる。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の長男として生れる。潤の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。弟の次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役、三男横屋猷は長崎大学水産学部教授を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月… 新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県八幡市長。神奈川県小田原町長。茨城県日立市長。 熊本県熊本市出身。1900年(明治33年)に第五高等学校に入学し、1903年(明治36年)に卒業。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。群馬県警視、同事務官、栃木県理事官、宮崎県警察部長、岩手県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。1921年(大正10年)からは石川県内務部長を務めた。 退官後の1926年(大正15年)には八幡市長に就任した。1935年(昭和10年)には小田原町長に選ばれ、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで日立市長を務めた。
塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、188… 塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、1882年〈明治15年〉8月5日 - 1963年〈昭和38年〉6月24日)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者、地主。香川県三豊郡仁尾町長。仁尾塩田(現・仁尾興産)社長。 衆議院議員を務めた塩田忠左衛門の三男。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)出身。塩田忠左衛門の三男。1903年4月、慶應義塾大学部理財科卒業。慶應では福沢諭吉に師事してその薫陶を受けた。貿易商森村組(現・日本陶器)に入社した。 1908年10月、森村組を退社して帰省。1925年、家督を相続し前名・賢二郎を改め襲名した。農業、金銭貸付業を営んだ。1927年1月、仁尾塩田株式会社の取締社長に就任した。
太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-… 太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-1940年(昭和15年)2月26日)日本のスポーツジャーナリスト。筆名は太田四州、太田志蹴。 1881年(明治14年)8月5日に香川県に生まれる。高松中学校を卒業し、1902年(明治35年)に和仏法律学校(現在の法政大学)法律科を卒業する。 『二六新報』、『読売新聞』、『国民新聞』などに大学野球の記事を書き、1921年(大正10年)から雑誌『運動界』を主宰する。スポーツジャーナリストの草分け的人物であり、神宮球場の建設など、学生野球の発展に尽力した。1940年(昭和15年)2月26日に死去、享年60。 1972年(昭和47年)、野球の啓蒙に尽瘁し、生涯を野球批評のために貫き、文筆をもって学生スポーツの健全な発展に献身した功績により野球殿堂(特別表彰)入りする。
金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月… 金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月5日 - 昭和38年(1963年)4月13日)は、金光教の三代金光様。 明治13年8月5日今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光宅吉(いえよし)喜代(きよ)の長男。父金光宅吉の死にあたり、明治26年12月29日から、広前の取次の座を任され、金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。 明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。
宮本 半蔵(みやもと はんぞう、1880年〈明治13年〉8月… 宮本 半蔵(みやもと はんぞう、1880年〈明治13年〉8月5日 - 1966年〈昭和41年〉5月17日)は、日本の柔術家である。 1880年8月5日(明治13年)福島県福島市吉井田に生まれた。 元々は丹治半蔵と言う名前であったが、宮本家の婿養子となったことで宮本姓となった。 宮本半蔵は福島県で天神真楊流を学んでいた。1895年(明治28年)神田錦町に天神真楊流の道場「柳真館」を開いていた吉田千春を紹介されて15歳で上京した。 紹介されての上京だったが、既に吉田千春の書生は津田繁三郎が務めていた状況だったので、人形町の竹岡宇三郎が世話をして神田向柳原に天神真楊流道場を開いていた戸澤徳三郎の書生となった。
日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956… 日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956年6月10日)は日本の牧師、聖書学者で「新約聖書全巻註解」を独力で執筆出版した。号は柿軒(しけん)。 1879年(明治12年)宮崎県児湯郡美々津町に日高新一の子として生まれる。1885年(明治18年)頃、6歳の頃より教会学校に通い、延岡藩校亮文社、鹿児島簿約義塾で学ぶ。1899年(明治32年)に鹿児島日本基督教会の牧師宗像慶二郎より洗礼を受ける。 1899年長崎の東山学院の3年に編入学する。その時の同級生に益富政助、都留仙次がいた。宣教師のヘンリー・スタウト、A・ピータースよりオランダ改革派のカルビニズム(カルヴァン主義神学)を学ぶ。 1903年(明治36年)に上京して植村正久の一番町教会(現・日本基督教団富士見町教会)の会員になる。
工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5… 工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5日 – 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。徳島市長。最終階級は海軍主計大佐。 徳島県麻植郡西尾村(現在の吉野川市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。海軍に入って、中主計、大主計、主計少監、主計中監、主計大佐と累進し、海軍省経理局第二課長・海軍大学校教官、広海軍工廠会計部長を歴任した。1924年(大正13年)、予備役編入。 1928年(昭和3年)、東京市主事・商工課長に就任。1932年(昭和7年)に品川区長となり、1936年(昭和11年)からは下谷区長を務めた。 1937年(昭和12年)、徳島市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。
市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日… 市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日 - 1928年(昭和3年)9月27日)は、日本の憲法学者、政治家。京都市長。 1875年(明治8年)8月5日、高知県高岡郡蓮池村芋岡(現:土佐市)に生まれる。1894年(明治27年)高知尋常中学校、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。 東京帝国大学講師になる。1903年(明治36年)京都帝国大学助教授に、1909年(明治42年)京都帝国大学教授に就任。翌年、法学博士の学位を受く。昭和2年(1927年)京都市長に選任されたため、大学を退官し、名誉教授となる。昭和3年(1928年)9月27日、53歳で死去。墓は京都市上賀茂大乗寺境内。
米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5… 米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5日 – 1938年(昭和13年)12月16日)は、逓信官僚。 奈良県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、同大学院で学び、1902年高等文官試験に合格した。逓信省通信書記、通信事務官、一等郵便局長、長野郵便局長、逓信管理局事務官、関東都督府事務官、逓信省参事官、九州逓信局長などを歴任した。1924年(大正13年)、逓信次官に就任した。 退官後、第15回衆議院議員総選挙に出馬したが、当選を果たせなかった。 その後、逓信協会会長を務めた。
工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 … 工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 - 1953年6月16日)は、大正・昭和期の日本の政治家。行政管理庁長官(第3代)。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 青森市出身。日本大学法学部を卒業後、二六新報、日本新聞にて記者を務める。日露戦争では従軍記者を務め、日露戦争後は日比谷焼打事件に連座したこともある。 その後ロンドン大学に学び、日大歯科医専講師などを経て青森に帰郷し、普選運動を展開する。1924年の第15回衆議院議員総選挙に憲政会から立候補し、青年団体などの支持を集め初当選する。以後通算当選7回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1931年の第2次若槻内閣で文部参与官、1938年の第1次近衛内閣にて厚生政務次官を歴任する。
東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月… 東 乙彦(ひがし おとひこ、1870年8月5日(明治3年7月9日) - 1936年(昭和11年)10月13日)は、日本の陸軍軍人。陸士4期、陸大14期。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲二等。 山口県岩国藩士の東文吉の三男として生まれる。十代のころは兄の勝平とともに川下小学校に出入りしており、1885年(明治18年)ごろに一時同校の訓導をしていた齋藤精輔の立ち上げた「数学同好会」に参加していた。 1893年(明治26年)陸軍士官学校卒業後、近衛砲兵連隊に勤務。翌年1894年(明治27年)、砲兵少尉に任命され、同年に日清戦争に従軍する。1900年(明治33年)陸軍大学校を第14期生として卒業したのち参謀本部に勤務。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
前田 卓(まえだ つな、慶応4年6月17日〈1868年8月5… 前田 卓(まえだ つな、慶応4年6月17日〈1868年8月5日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月6日)は、明治から昭和時代にかけての女性。前田案山子の次女。夏目漱石の『草枕』の那美のモデルとなった女性である。孫文や黄興ら中国の革命家が日本で作った「中国革命同盟会(のちの中国同盟会)」を支援したことでも知られる。 熊本県玉名郡小天村(現・玉名市天水町)に生まれる。父は小天村の広大な土地を所有する裕福な郷士の出身で、武芸にすぐれ熊本藩主細川慶順(維新後、韶邦)の護衛などをつとめていた前田覚之助(維新後、案山子と改名)である。前田案山子は小天村に戻り、改革に取り組んだ、2代藩知事、細川護久に共鳴し、村に学校を作り、衆望を集め、自由民権運動の熊本における中心的人物となり、明治23年、第1回衆議院選挙で国会議員となる人物である。
堀 卯三郎(ほり うさぶろう、1867年8月5日(慶應3年7… 堀 卯三郎(ほり うさぶろう、1867年8月5日(慶應3年7月6日)- 1923年(大正12年)12月20日)は、日本の実業家・聖職者。 日本鉄工株式会社取締役、三光合資会社代表社員。日本メソヂスト下谷教会日曜学校長。族籍は山形県平民。 長男は工学者の堀義路。孫は社会学者の杉山明子。曽孫はグロービス経営大学院大学学長の堀義人。 医師・堀東順の三男として山形県鶴岡町に生まれ、後に令兄・義水の養嗣子となる。16歳のときに父・東順が亡くなったため上京し、東京専修学校(現・専修大学)に学び理財科を卒業する。 日本メソヂスト下谷教会に通い始め、1886年(明治19年)に同教会で洗礼を受ける。 1893年(明治26年)頃、ミッションより派遣されて教会日曜学校のために働いていた潮田宇多婦人伝道師(婦人運動家・潮田千勢子の娘)と結婚。
阪本 弥一郎(さかもと やいちろう、慶応元年6月14日(18… 阪本 弥一郎(さかもと やいちろう、慶応元年6月14日(1865年8月5日) - 大正12年(1923年)1月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)。弁護士。 備後国深津郡福山町(現在の広島県福山市)出身。英吉利法律学校(のち東京法学院、現在の中央大学)で学び、在学中の1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、翌年に卒業した。1893年(明治26年)より和歌山市に弁護士事務所を開業した。1898年(明治31年)には和歌山市会議員に選ばれた。1900年(明治33年)より弁理士や破産管財人も務めた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6… 大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6年7月7日〉- 1945年〈昭和20年〉1月20日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正二位勲三等侯爵。通称は彦熊、彦之進。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、大久保正助(利通)と満寿子夫妻の長男として生まれる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に随行して渡米し、普通学研修のためフィラデルフィアの中学校に入学。1874年(明治7年)に帰国して開成学校に入学した。 1878年(明治11年)、19歳の時に父・利通が紀尾井坂の変で暗殺される。同年、父の勲功により華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に侯爵を叙爵。
加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月… 加瀬 代助(かせ だいすけ、1857年8月5日(安政4年6月16日) - 1907年(明治40年)9月23日)は、東京生まれの教育者であり、東京物理学講習所(後の東京物理学校、現東京理科大学)の創立者の一人である。 1857年(安政4年)6月16日、江戸(現・東京)に生まれた。東京帝国大学を卒業した。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の創立者の一人となる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7… 鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7年7月12日)- 1945年(昭和20年)8月20日)は、明治時代から昭和時代の医師、軍医。 三河国田原藩士の鈴木方舊の三男として生まれる。1879年家督を継ぐ。東京医学校を卒業。1883年、愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)の校長に就任。後に海軍に入り、軍医となって軍医学校長などを歴任。1900年、海軍軍医総監となる。横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府の医務部長を歴任した。海軍軍医中将となり、1902年に医学博士となる。1906年、予備役に編入となる。 1907年、東京市麻布区飯倉にて肺結核専門の鈴木医院を開業する。1911年には鎌倉七里ヶ浜に鈴木結核療養所を設立した。
河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年… 河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年7月12日) - 1925年(大正14年)1月26日)は、日本の政治家。河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。 静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。 1854年、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。父である河井重高は上張村の庄屋であった。 静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山の鉱毒事件の解決に取り組んだ。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家の田中正造と知り合う。1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている。
北田 豊三郎(きただ とよさぶろう、嘉永5年6月20日(18… 北田 豊三郎(きただ とよさぶろう、嘉永5年6月20日(1852年8月5日) - 大正14年(1925年)1月25日)は、堺市長、衆議院議員。 和泉国堺出身。1874年(明治7年)より、副戸長、学区取締、学区取締幹事、戸長、和泉郡・大鳥郡書記を歴任した。1881年(明治14年)、大阪府会議員に当選し、1891年(明治24年)には副議長、1892年(明治25年)には議長に就任した。また1889年(明治22年)には堺市会議員に当選し、議長に選出されている。 1893年(明治26年)、堺市長に就任。学校建設、商品陳列所・米穀取引所設立に尽力した。1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5… 野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5年6月20日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐。正五位勲三等功四級。 特記のない場合『旧岡藩勤王家略伝』による
岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3… 岡崎 運兵衛(おかざき うんべえ、1850年8月5日(嘉永3年6月28日)- 1919年(大正8年)12月17日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・高橋、幼名・権作、雅号・雲隣。 出雲国神門郡稗原村(現島根県出雲市)で、豪農・高橋佐十郎の二男として生まれ、10歳で松江堅町の豪商・先代岡崎運兵衛の養子となる。江戸の昌平坂学問所で学び、帰郷後、藩儒・澤野修輔、中村守手などに師事し、さらに南画を天野漱石に学んだ。慶応3年(1867年)養父の死去に伴い18歳で家督を継承し、運兵衛を襲名した。 維新後、自由民権運動に加わり自由党に入党。松江町会議員、松江市会議員、同議長、島根県会議員、同副議長、同議長を歴任。
南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、嘉永元年7月7日〈1… 南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、嘉永元年7月7日〈1848年8月5日〉 - 1920年〈大正9年〉10月7日)は、日本の実業家、名望家。第四十国立銀行頭取や、日本製粉社長を務めた。 上野国で館林藩家老の岡谷瑳磨介の第3子として生まれ、のちに同藩の南條源太左衛門の養子となる。御番頭支配中小姓、半隊司令士、歩卒隊長を経て1871年中尉に任命される。退官後、大蔵省銀行局の簿記学講習所(のちの高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校)で学ぶ。同窓にのちにともに日本製粉設立に参画した旧館林藩士の笠原圓蔵がいた。 1878年に館林町で群馬県初の銀行である第四十国立銀行を設立し、1891年に頭取に就任した。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6… 加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。
七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年… 七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年7月11日) - 1900年(明治33年)1月29日)は幕末・明治時代の浄土真宗の僧侶である。号は松花子。 1835年(天保6年)、現在の越後国三島郡(現新潟県長岡市)飯塚にある浄土真宗本願寺派明鏡寺第13代住職井上宗鏡の次男として生まれる。このころは「天保の大飢饉」によって全国で多くの餓死者が出て、百姓一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱とその影響による生田万の乱、能勢騒動が起こり、世の中は騒然としていた。 1845年(弘化2年)11歳で得度、14歳で僧朗勧学の門に入り、15歳から宣界司教の德水社に入り修学。20歳から九州に移り、豊前の月珠勧学について宗学を研鑽。
森川 久美(もりかわ くみ、8月5日 - )は、石川県金沢市… 森川 久美(もりかわ くみ、8月5日 - )は、石川県金沢市在住の少女漫画家。同人誌時代は山田茉莉の名前で東京女子大学漫画研究会の同人誌『やっはるーっ』にて活動していた。元宝塚歌劇団星組トップスターの紫苑ゆうのファンである。