伊藤 郷平(いとう ごうへい、1906年10月6日 - 19… 伊藤 郷平(いとう ごうへい、1906年10月6日 - 1984年8月28日)は、日本の地理学者、理学博士。第4代愛知教育大学長。 愛知県地方計画委員会会長、矢作川流域開発研究会会長などを務め、地域開発計画の立案、推進に大きな業績を残した。 長野県伊賀良村(現・飯田市北方)に生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1930年(昭和5年)東京高等師範学校を卒業。1936年(昭和11年)、東京文理科大学理学部地理学科を卒業。 東京府青山師範学校、東京女子師範学校、立正大学などで教鞭をとり、東京都視学官となる。戦後、長野県須坂高等学校長を務め、1951年(昭和26年)に愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授となる。
庄司 総一(しょうじ そういち、1906年(明治39年)10… 庄司 総一(しょうじ そういち、1906年(明治39年)10月6日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、昭和期の小説家・詩人・台湾文学者。筆名は、阿久見謙。同人雑誌『新表現』創刊・主催者。 山形県飽海郡北平田村漆曽根(現・酒田市)生まれ。 医師の子として生まれ、父親の仕事の都合で北海道、大連、台湾と居を変えながら、台南市の台南一中を卒業した。慶應義塾大学文学部英文科に進み、西脇順三郎の薫陶を受ける。阿久見謙の名で『三田文学』・『新三田派』に創作を発表しながら、内台共婚を題材にして描いた小説『陳夫人』で第1回大東亜文学賞を受賞した。次いで日本文学報国会の会員となり、皇民化運動の一翼を担った。
荒木 巍(あらき たかし、1905年10月6日 - 1950… 荒木 巍(あらき たかし、1905年10月6日 - 1950年6月4日)は、日本の作家。本名・下村是隆(ぜりゅう)。他の筆名に下村 恭介。 東京府東京市浅草区浅草永住町(現在の東京都台東区元浅草)生まれ。東京帝国大学支那文学科卒業。 1933年「その一つのもの」が『改造』の懸賞に当選。同年高見順らと『日暦』を創刊、1936年武田麟太郎主宰の『人民文庫』の創刊に参加した。
赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治3… 赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治38年)10月6日 – 1960年(昭和35年)2月13日)は、昭和期の農政家、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 徳島県板野郡大津村吉永(現鳴門市大津町吉永)で、赤沢時太郎、サキの長男として生まれる。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部法科を卒業した。 1933年(昭和8年)産業組合中央会徳島県支会主事補に就任。その後、徳島県農業会長、全国農業会理事、大津農業協同組合長、徳島県農業協同組合連合会理事、同会長、全国農業協同組合連合会理事、徳島県信用農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員、全国農業共済組合連合会理事、徳島民報社監査役、日本ガイドショップ社長、石岡電機顧問などを務めた。
瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 198… 瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 1988年8月14日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。本名は鈴木忠直。 東京府生まれ。1929年、東京商科大学(現一橋大学)卒。金子鷹之助ゼミでノヴァーリスを学んだ。在学中伊藤整と知り合い終生の親友となる。出版社に勤め、1930年、伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得て評論活動を始める。1932年、イポリット・テーヌの『文学史の方法』を翻訳、岩波文庫から刊行。唐木順三、藤原定らと季刊『理論』を創刊、1933年、最初の著書『現代文学』を上梓、1934年、埼玉県立商業学校教師、1935年、川越中学校教師、1937年から化粧品会社に勤め、執筆活動を一時休止。
下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1… 下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1998年3月17日)は、日本の教育学者、京都大学名誉教授。教育人間学を提唱した。 広島県安佐郡戸山村にて下程直太郎の長男として誕生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。1968年定年退官、名誉教授。 松蔭女子学院大学学長 (1968.4 - 1970.3)。
鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月6日 - 1984年〈昭和59年〉2月10日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 福岡県甘木市(現朝倉市)出身。創価学会八女支部長を務める。 1959年、福岡県議会議員選挙に、福岡市早良区選挙区から無所属で立候補し、当選する。 1962年7月1日、第6回参議院議員通常選挙に、全国区から公明政治連盟公認候補として立候補し、当選する。 1964年11月17日、公明党結成に参加する。 1969年12月27日、第32回衆議院議員総選挙に福岡3区から立候補し、当選する(以降2期)。 1972年12月10日、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、落選する。
實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 19… 實川 清之(じつかわ きよし、1903年10月6日 - 1980年9月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 1903年、千葉県山武郡千代田村(現:芝山町)で農家の子として生まれる。父伊三郎は、村の信用組合理事のほか、村会議員や村役場助役などの公職を勤めたが、實川がまだ幼い頃に肺結核により他界した。本業の農業を人任せにしていた、大酒飲みの伊三郎は、實川家の資産を半減させてしまっていた。 千代田尋常高等小学校ののち旧制成田中学校で学ぶが、3年生のときに生徒によるストライキに関わり、退学。その後上京して日本大学中学校に転入し、ここでも身体検査に反対して停学処分を受けている。 1922年に中学を卒業して日本大学法文学部社会学科に入るが、社会主義運動に参加して千葉県での農民組合結成や日本学生社会科学連合会の活動家として軍事教練反対などの活動を行い、1926年に治安維持法違反で逮捕・収監され、授業料を納められず大学中退となる。
西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 -… 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 - 1967年5月16日)は、日本の実業家、政治家。西川産業会長、参議院議員(4期)、北海道開発庁長官(第18代)。東京日本橋・西川ふとん店13代。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の子。 現在の滋賀県近江八幡市出身。滋賀県立八幡商業学校を経て、1924年、早稲田大学専門部商科を卒業。アメリカに留学し、コーネル大学、ニューヨーク大学で学ぶ。 家業を継ぎ、日本蚊帳統制組合理事長、西川産業社長、近江蚊帳製造社長、滋賀ビル・日本橋西川ビル社長、滋賀銀行取締役などを歴任。 戦時中は日中戦争、太平洋戦争に召集され陸軍主計大尉。 1947年8月、猪飼清六の辞職に伴う滋賀地方区の第1回参議院議員補欠選挙に日本自由党から出馬し当選(任期3年)。
上林 暁(上林 曉、かんばやし あかつき、1902年(明治3… 上林 暁(上林 曉、かんばやし あかつき、1902年(明治35年)10月6日 - 1980年(昭和55年)8月28日)は、日本の小説家で、昭和期を代表する私小説作家の一人。高知県出身。本名は徳廣 巌城(とくひろ いわき)。『薔薇盗人』で登場、その後私小説に活路を拓き、『聖ヨハネ病院にて』などの病妻物で高い評価を受けた。代表作は『薔薇盗人』『聖ヨハネ病院にて』『春の坂』『白い屋形船』『ブロンズの首』など。日本芸術院会員。 高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口(現・黒潮町)に生まれた。山沖之彦はいとこの妻のおいにあたる。 高知県立第三中学校(現・高知県立中村高等学校)時代には、雑誌『文章世界』に影響を受け、友人らと語らって回覧雑誌『かきせ』を発行し、この頃に小説家になる希望を持った。
堀川 芳雄 (ほりかわ よしお、1902年10月6日 - 1… 堀川 芳雄 (ほりかわ よしお、1902年10月6日 - 1976年3月18日)は、日本の植物学者。蘚苔類の分類学的研究で知られる。理学博士(東京帝国大学・1934年)。元広島大学教授。 熊本県玉名郡出身で、熊本県立玉名中学校、広島高等師範学校、東北帝国大学を卒業した。広島高等師範学校の教授となり、1934年に東京帝国大学より理学博士の学位を取得した(学位論文は「Monographia hepaticarum australi-japonicarum (南日本産苔類植物誌)」)。 日本各地や樺太、ミクロネシアで採集研究を行い、1936年に"Studies on the Hepaticae of Japan"(「日本産苔類の研究」)を発表した。
安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6… 安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6日 - 平成2年(1990年)4月12日)は、日本の実業家。東京瓦斯の最高実力者として20年以上も君臨。日本瓦斯協会会長も務めた。 安西直一の長男として千葉県夷隅郡清海村(現・勝浦市)に生まれる。。米沢高等工業学校応用科学科を経て1928年(昭和3年)に東北帝国大学法文学部卒業、東京瓦斯に入社。 入社後の1938年(昭和13年)から3度にわたって応召、陸軍主計将校として軍務につく。1946年(昭和21年)に東京瓦斯取締役に就任。以後、1947年(昭和22年)同社常務、1953年(昭和28年)副社長、1967年(昭和42年)社長、1972年(昭和47年)会長、1989年(平成元年)相談役。
西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 19… 西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 1984年6月15日)は、日本の元ラグビー選手及び同監督。
古野 清人(ふるの きよと、1899年10月6日 - 197… 古野 清人(ふるの きよと、1899年10月6日 - 1979年3月1日)は、日本の宗教社会学者。 1899年、福岡県生まれ。1921年(大正10年)3月、第三高等学校卒業。1926年、東京帝国大学文学部宗教学科を卒業。卒業後は、1928年11月から翌2月まで東京帝国大学付属図書館嘱託となる。1929年3月からは帝国学士院事務嘱託として勤務していたが、1940年10月に南満州鉄道東亜経済調査局嘱託となる。1943年1月18日に勅令第20号「民族研究所官制」によって民族研究所が文部省傘下の研究施設として設立されると移籍し、第3部(中部・西部アジア)・第5部部長(東南アジア・インド太平洋圏)を兼任した。
兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6… 兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6日 - 1969年(昭和44年)9月18日)日本の音楽家、教育者。バイオリニストで元東京芸術大学教授の兎束龍夫は実弟。 長野県上田市松尾町の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれる。1912年(大正元年)3月上田尋常小学校卒業。1919年(大正8年)3月旧制東京芝高輪中学校卒業、4月旧制青山学院入学。在学中に東京楽器研究所入所(山田耕筰主宰)セロ科3年修了。その後も山田耕筰のもとで学ぶ。東洋音楽学校(現東京音楽大学)中退。 1921年(大正10年)志願兵として高田輜重大隊入隊。1922年(大正11年)関東大震災で山田耕筰のオーケストラが解散となり上田へ帰郷。
林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月… 林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月6日 ‐ 1958年(昭和33年)2月14日) は、大正から昭和期の農民運動家・政治家。衆議院議員。 愛媛県周桑郡小松村新屋敷(小松町新屋敷を経て現西条市小松町新屋敷)で、明勝寺住職・林田孝純の二男として生まれた。幼くして父が死去し母に養育された。小松小学校、西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て大谷大学に進学。1922年(大正11年)全国水平社創立大会に参加し、大学を中退して帰郷し水平運動を起こした。 1922年設立の日本農民組合に1923年(大正12年)に加わり農民運動を推進し、1925年(大正14年)別子銅山大争議を支援した。
西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 1… 西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 10月6日 - 1971年 <昭和46年> 10月22日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。位階は従四位。 新潟県出身。1922年に京都帝国大学工学部土木学科を卒業し、1926年12月に西松組(のちの西松建設)に入社。1936年に代表幹事を経て、1937年10月に副社長に就任し、1947年5月には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年10月22日、急性心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
千 嘉代子(せん かよこ、1897年〈明治30年〉10月6日… 千 嘉代子(せん かよこ、1897年〈明治30年〉10月6日 - 1980年〈昭和55年〉9月7日)は、日本の茶人。茶道裏千家家元の14代千宗室の妻。 宮城県仙台市に生まれる。旧姓は伊藤。実家は造り酒屋と仙台平の織元を営む素封家。 1915年(大正4年)東華高等女学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。 実家が東北の有力な裏千家流支援者であったことがきっかけで、1917年(大正6年)、今日庵裏千家十四代家元千宗室(淡々斎宗室)と結婚。家元夫人として、茶道の普及発展とともに、国際茶道文化協会理事長などを務め、茶の湯の国際普及にも尽くした。また、文化活動にも尽力した。 今日庵理事、茶道裏千家淡交会名誉理事長、国際茶道文化協会理事長を歴任。
島津 季子(しまづ すえこ、1897年〈明治30年〉10月6… 島津 季子(しまづ すえこ、1897年〈明治30年〉10月6日 - 1982年〈昭和57年〉5月15日)は、日本の元華族。島津忠弘男爵夫人。宮内大臣・岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。 女子学院卒業後、島津忠義の六男・忠弘と結婚した。忠弘との間に一男二女をもうけた。長男の斉視は家を継ぎ、長女の弘子は農学者松平近義(伯爵亀井茲常の三男)の妻、次女の淑子は東宮女官長になった。 1982年5月15日没、墓所は東京都港区の瑞聖寺。
矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日… 矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家。参議院議員(1期)。号・孤山。 福岡県三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内)で矢野巽の息子として生まれる。福岡県立八女中学校を経て、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた。
白石 光治郎(しらいし こうじろう、1897年(明治30年)… 白石 光治郎(しらいし こうじろう、1897年(明治30年)10月6日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安北道知事。朝鮮総督府逓信局長。朝鮮総督府農商局長。 白石房次郎の長男として愛知県名古屋市に生まれる。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。平安北道、慶尚南道各警察部長、総督府事務官警務局勤務、平安南道内務部長、逓信局電気課長、総督府事務官官房外務部勤務兼任外務事務官を経て、平安北道知事に就任。1943年(昭和18年)7月、朝鮮総督府逓信局長兼高等海員審判所長に任じた。その後、朝鮮総督府農商局長に就任した。
大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉1… 大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉10月6日 - 1987年〈昭和62年〉10月16日)は日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、A級戦犯松井石根の補佐弁護人。第二次世界大戦後に法務庁(現:法務省)の初代人権擁護局局長を務めた。日弁連副会長、国際法曹協会会長などを歴任。岡山県笠岡市出身。 1893年(明治26年)岡山県浅口郡大島村(現:笠岡市)に生まれる。1907年、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期には、京大医学部名誉教授となる井上硬や、キリスト教伝導師の松田壽比古がいた。同校を卒業し、1912年(大正元年)第六高等学校文科甲類に進学、その後、1914年(大正3年)に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学へ進学した。
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 … 村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月… 土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月6日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。旧姓・八木。 岡山県西西条郡西苫田村上河原(現津山市上河原)出身。八木喜次郎の五男として生まれ、津山市一宮、叔父・土居弥之助の養子となる。津山中学校 、第六高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し山口県属となる。 以後、山口県警視、1923年(大正12年)4月奈良県理事官、愛知県理事官、1927年(昭和2年)2月に欧米出張を命ぜられ1929年(昭和4年)1月に帰朝し、山口県学務部長、内務省社会局事務官、同書記官、岐阜県書記官・警察部長、青森県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、福岡県書記官・経済部長、大阪府経済部長兼大阪府工業奨励館長などを歴任。
村島 喜代(むらしま きよ、1892年10月6日 – 198… 村島 喜代(むらしま きよ、1892年10月6日 – 1982年3月11日)は日本の女性政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1911年新潟県立長岡女子師範学校(現・新潟大学)卒。津田女子英学塾に学ぶ。その後新潟に戻り、新潟県立高等女学校家庭寮寮監などを務める。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して2位で当選した。在職中は進歩党婦人部長を務めた。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で民主党公認で新潟1区から立候補したが落選した。落選後は新潟家庭裁判所調停委員などを務めた。1982年新潟市で死去。
原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6… 原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6日 - 1962年(昭和37年))は、昭和時代前期の政治家。神奈川県平塚市長。神奈川県多額納税者。 原田勝右衛門の長男として平塚に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、家業を継ぐ。1938年(昭和13年)10月21日、平塚市長に就任した。ほか、相模瓦斯常務取締役、平塚江陽銀行取締役、大政翼賛会県支部協力会議員、同市支部長などを歴任した。戦後、公職追放となった。
中御門 経恭(なかのみかど つねやす、1888年〈明治21年… 中御門 経恭(なかのみかど つねやす、1888年〈明治21年〉10月6日 - 1954年〈昭和29年〉2月28日)は、日本の政治家、華族。貴族院侯爵議員。 男爵・中御門経隆の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、中御門侯爵家は当主・経明の死後、男子の相続人が無く娘の萬千子が継承したため爵位を返上。そのため、1899年(明治32年)10月に経恭が従姉妹・萬千子の養子となり家督を相続し、同年10月20日、特旨により侯爵を叙爵した。1913年(大正2年)10月5日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1914年(大正3年)、京都帝国大学理工科大学化学科を卒業。
栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6… 栗山 茂(くりやま しげる 1886年〈明治19年〉10月6日 - 1971年〈昭和46年〉2月3日)は、日本の外交官、最高裁判所判事(任期は1947年8月4日 - 1956年10月5日)。 福井中学、東京府立一中、第一高等学校(旧制)を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学卒業。 1913年(大正2年)外交官領事官試験に合格し、1914年(大正3年)外務省入省。在フランス日本国大使館一等書記官としてフランス駐在。フランス語が堪能で、鋭い国際的視野を持っていたが、辛口の論客として知られていた。1919年(大正8年)パリ講和会議と1921年(大正10年)ワシントン会議で全権委員随員を務める。 1933年(昭和8年)に外務省条約局長、1937年(昭和12年)に駐スウェーデン大使、1939年(昭和14年)に駐ベルギー大使兼ルクセンブルク公使に就任。
大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10… 大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10月6日 - 1958年(昭和33年)3月17日)は、昭和の日本の実業家。三菱石油社長や千代田化工建設初代社長・会長を歴任した。 大久保為昭の四男として長崎県に生まれる。1912年7月東京帝国大学政治科卒業後、三菱合資会社に入社。1918年三菱鉱業(現三菱マテリアル)、翌年三菱商事に入社し、香港・大阪・シンガポールなどで支店長を務めた。1944年6月三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移ると、同年11月より同社社長を務める。1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると初代社長に就任。1957年11月、同社会長となり、玉置明善が次代社長となった。
西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10… 西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10月6日 - 1943年〈昭和18年〉3月14日)は、口語歌人。本名:西出一(つかさ)。 大聖寺耳聞山(現・石川県加賀市)出身。父の孫一は橋立(現加賀市)で代々北前船業を営む西出家の9代西出孫左衛門の長男であったが、家督相続を許されず、大聖寺に分家した。 朝風は石川県立金沢第一中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)から慶應義塾(普通部)に進学し、後に中退した。 明治30年代から口語歌を発表。1910年(明治43年)には同じ詩人の西出うつ木と結婚し、1914年(大正3年)「新短歌と新俳句」を創刊。1915年(大正4年)、金沢の北国新聞社に入社し、紙上で、若い歌人に口語短歌への影響を与えた。
田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 19… 田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 1972年7月1日)は、日本の遺伝学者、育種学者。九州大学名誉教授。 長野県東筑摩郡片丘村(現塩尻市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)在学中、動物学教室でウィリアム・ベイトソンの『メンデルの遺伝の法則』をに感銘を受け遺伝学を志す。1911年に同大助教授となり、1913年、日本で初めて遺伝学を講義する。1917年、「蚕の遺伝学的研究」で農学博士号を得る。欧米留学後の1924年には九州帝国大学農学部教授となる。 安藤広太郎らと7名で1915年、日本育種学会(1920年に日本遺伝学会に改組)を創設、1939年日本遺伝学会会長、1949年には国立遺伝学研究所の第一部長に就任した。
野田 清一郎(のだ せいいちろう、 1883年〈明治16年〉… 野田 清一郎(のだ せいいちろう、 1883年〈明治16年〉10月6日 - 1968年〈昭和43年〉5月10日)は、日本の電気工学者。大阪工業大学初代学長・名誉教授。京都帝国大学元助教授・工学博士。 専門は、電気回路・電気工学(特に電動機)、電力工学・電線力学、教育工学。 1883年、岡山県岡山市旭町に生まれる。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1906年(明治39年)9月に京都帝国大学理工科大学入学。「電気の鬼」と評された青柳栄司の指導のもと、電気工学の研究に打ち込んだ。1908年(明治41年)7月に同大学電気工学科を卒業するとともに講師に着任し、1910年(明治43年)には助教授となった。
滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 19… 滋野 清武(しげの きよたけ、1882年10月6日 - 1924年10月13日)は、明治・大正期の飛行家である。父・滋野清彦の男爵を襲爵。「欧州の空で戦った侍飛行家」とも評され、フランス陸軍航空隊のエース部隊のパイロットとして活躍しレジオン・ドヌール勲章、クロワ・ドゥ・ゲール勲章を受勲。通称をバロン滋野。 1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋に生まれた(東京生まれとも)。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。父の軍功に応えるべく、学習院を中退して広島陸軍地方幼年学校に入学するが、生来芸術家肌であったために神経衰弱を患って中退する。千葉県安房郡館山町上須賀の別荘で遊興したのち、家庭教師だった山田耕筰の勧めで上野の東京音楽学校予科に入学し、本科器楽科でコルネットを習得した。
香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6… 香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6日 - 1950年〈昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 佐賀県出身。陸士14期、陸大24期。 佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した。 第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
杵村 直三郎(きねむら なおさぶろう、1879年〈明治12年… 杵村 直三郎(きねむら なおさぶろう、1879年〈明治12年〉10月6日 - 没年不明)は、日本の銀行の重役、鳥取県多額納税者。中国貯蓄銀行、山陰銀行各監査役。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。杵村善市の二男。農業を営む。1918年に家督を相続する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は囲碁、書画、骨董。宗教は禅宗。住所は米子市日野町。 杵村家は屋号を杵築屋と称し、酒醤油醸造業並びに質商を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日… 櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日 – 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の裁判官。宮城控訴院長、広島控訴院長。
高橋 元四郎(たかはし もとしろう、1874年(明治7年)1… 高橋 元四郎(たかはし もとしろう、1874年(明治7年)10月6日 - 1933年(昭和8年)6月22日)は、日本の政治家、実業家。 栃木県上都賀郡西方村(現・栃木市)出身。渡邊文平の次男。上京して田村順之助や星亨の書生となり、明治法律学校卒業後、故郷に戻って高橋家の養子となる。印刷業に従事し、後に鹿沼印刷会社社長に就任。また、政治家として、栃木県会議員、同副議長などを経て、1924年に衆議院議員に当選(以来、当選3回)。立憲民政党に所属し、党会計監督、栃木県支部長などを務めた。
田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈… 田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈明治7年〉10月6日 - 1963年〈昭和38年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家(吾妻郡会議員、沢田村長)、群馬県多額納税者。田村旅館(現四万たむら)12代目当主。 群馬県・先代茂三郎の長男。慶應義塾で学び、福澤諭吉に直接薫陶を受ける。1896年、慶應義塾正科を卒業。1905年、父茂三郎の退隠により家督を相続し、茂登馬を改め襲名する。 1911年から1915年まで第9代沢田村長を務めた。1919年からは吾妻郡会議員となる。郡会では鉄道敷設を県会・帝国議会へ陳情し、のちに長野原線の開通として結実することとなった。 温泉旅館業を営む。
小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6… 小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6日 - 1962年〈昭和37年〉9月26日)は、日本の逓信官僚。栃木県出身。 東京帝国大学卒業。逓信省に入り、逓信局長などを歴任。1936年第2代NHK会長に就任。戦後、NHK会長のため公職追放となる(1951年追放解除)。 1956年文化功労者。墓所は多磨霊園(12-1-2)。息子の元妻は映画評論家の小森和子。
宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6… 宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 高知県香美郡夜須村西山(現・香南市夜須町西山)に生まれる。周馬・政の長男。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から東京成城中学校に転校し、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。第3軍に属し、日露戦争に出征。 1913年(大正2年)台湾総督府陸軍副官、1920年(大正9年)8月に津連隊区司令官、1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)8月に歩兵第45連隊長に任ぜられた。
菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年10月6日(明… 菊本 直次郎(きくもと なおじろう、1870年10月6日(明治3年9月12日) - 1957年(昭和32年)10月28日)は、日本の実業家。三井銀行取締役会長や寿重工業取締役会長、日本パルプ工業取締役を歴任。松尾芭蕉の研究家としての顔も持つ。 1870年(明治3年)、藤堂家旧臣菊本保有の次男として伊賀国阿拝郡上野萬町(現・三重県伊賀市)に生まれる。 1892年(明治25年)12月、慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)を第一期生として卒業。翌年、三井銀行に入行。 1918年(大正7年)1月、三井銀行常務取締役に就任。 1934年(昭和9年)、三井銀行取締役会長に就任。当時、三井銀行では社長制から会長制へ変わったため、菊本は初代会長となった。
門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、186… 門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1958年(昭和33年)4月24日)は、明治から昭和時代前期の実業家。実兄に千代田生命保険、日本徴兵保険創立者兼社長で勅撰貴族院議員の門野幾之進がいる。 志摩鳥羽藩の家老・門野亘理の二男として鳥羽(現三重県鳥羽市)に生まれる。1884年(明治17年)慶應義塾大学部理財学および法律学を修了後、1891年(明治24年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、アメリカのペンシルバニア鉄道に入る。4年間に渡る鉄道敷設工事に従事したのち退社し、欧米の工業事情を視察後、1896年(明治29年)帰朝した。山陽鉄道で新線工事長として勤務後、大倉喜八郎の知遇を得て、1897年(明治30年)大倉組に入り、ロンドン支店長を長く務めたのち1909年(明治42年)に大倉組副頭取、1914年(大正3年)大倉土木(現大成建設の前身)会長となり、1937年(昭和12年)まで在任した。
平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月… 平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1945年(昭和20年)6月2日)は、日本の天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた。兄に海軍教授・海軍大学校教官の平山順。寺尾寿に師事した。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に同学科の第1回卒業生となった。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ。
関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日… 関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日)- 1943年(昭和18年)7月7日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、栃木県足利郡北郷村長。 下野国足利郡江川村(栃木県足利郡北郷村大字江川を経て現足利市江川町)で、輸出織物業・関田政七郎の長男として生まれる。1886年(明治19年)明治法律学校(現明治大学)に入学し1889年(明治22年)まで学んで帰郷した。 家業の輸出織物業を継承。足利機業組合評議員、足利織物同業組合長、両毛織物同業組合連合会長、足利瓦斯社長、日本大博覧会評議員などを務めた。 政界では、栃木県会議員、同参事会員、同議長、北郷村長、教育諮問会員、県立工業学校商議員、地方森林会議員などを務めた。
穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年1… 穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年10月6日) - 昭和7年(1932年)1月31日)は、日本の歌人。夫は法学者の男爵穂積陳重。父は「日本経済の父」子爵・渋沢栄一。 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農渋沢市郎右衛門の嫡男だった栄一と最初の妻・千代の長女として生まれる。明治15年(1882年)、旧宇和島藩伊達家家令を務めていた西園寺公成のとりなしで、同藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男・穂積重遠(結婚翌年に誕生)を始めとする4男3女を産み育て(1人夭折)「良妻賢母の鑑」といわれた。婦人会活動も盛んで、大日本赤十字社や愛国婦人会の会員だったほか、慈恵委員慈恵会では幹事、出征軍人家族慰問婦人会では理事を務めた。
水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1… 水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1861年10月6日〉 - 1918年〈大正7年〉8月11日)は、明治・大正時代における日本の実業家、政治家である。信濃毎日新聞記者から政界に入って長野市会議員や衆議院議員(当選2回)を歴任し、実業界では長野市所在企業の役員や日本建築用製紙社長を務めた。 水品平右衛門は、文久元年9月3日(新暦:1861年10月6日)、水品平内の長男として生まれた。水品家は善光寺門前町の岩石町(現・長野市岩石町)に居を構える旧家で、綿商を家業とする。「平右衛門」のは当主が代々襲名した名である。 水品は加藤天山の門で学んだのち長野県師範学校に入り、さらに東京の尺振八塾で英学、明治法律学校で法学を専攻した。
細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文… 細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文久元年9月3日〉 - 1924年〈大正13年〉5月25日)は、明治から大正時代の政治家、蚕種業者。長野県小県郡城下村長、上田市長。 信濃国小県郡諏訪形村(現・上田市諏訪形)で吉兵衛の二男として生まれた。生家は代々庄屋を務め酒造業などを営んでいた。松平(しょうへい)学校を卒業。家業の酒造業から蚕種製造業に転じ、1873年(明治6年)上田初の製糸場を設立する。その後、蚕種製造のみとし小県郡蚕種検査所主事を務めた。ついで、1890年(明治23年)城下村会議員に選ばれ、1893年(明治26年)同村長に就任し、小学校の増築や高等科新設などに尽力した。
安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年1… 安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年10月6日) - 大正10年(1921年)12月10日)は、日本の社会教育家、政治家、自由民権運動家、日本基督教団高知教会長老、板垣伯銅像記念碑建設同志会・初代理事長。板垣退助の遊説に同行し、岐阜遭難事件に際して「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を直接聞いた人物の一人。坂本龍馬の親族。「愛山」と号した。 安藝家の遠祖は、長宗我部氏に滅ぼされた安藝國虎の次男・安藝三郎左衛門家友で、土佐郡十六村成山(現・伊野町)に居をかまえ、土佐和紙を創始した。山内一豊の土佐入領に際し、自製の七色紙を献上。その功により給田一町歩と幡多郡代官役、並に御用紙方役に任命され、製紙の技法向上に務めた。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(185… 村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(1853年10月6日) - 昭和4年(1929年)2月15日)は、安芸国(現広島県)出身の官僚、大日本帝国海軍軍人。貴族院議員、男爵、勲一等旭日大綬章。