李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月… 李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、法律家、政治家。 本貫は永川李氏(朝鮮語版)。日本名は李家 澔(りのいえ ひろし)。 慶尚北道永川郡にて、大地主の息子として誕生。1923年3月に慶尚北道永川公立普通学校卒業後、翌4月に京城第二公立高等普通学校2学年に編入し、1930年3月に修了した。1930年4月、京都の立命館中学校3学年に編入して1933年3月に卒業。同年4月に佐賀高等学校文科甲類に入学して1936年3月に卒業。1936年4月、東京帝国大学法学部法律学科に進学し、1940年3月に卒業。大学在学中の1939年11月に高等文官試験司法科に合格。
矢口 新(やぐち はじめ、1913年2月7日 - 1990年… 矢口 新(やぐち はじめ、1913年2月7日 - 1990年3月13日)は日本の教育研究者。 東京帝国大学文学部教育学科卒。中央教育研究所、国立教育研究所研究調査部第二研究室長を経て、1968年に財団法人能力開発工学センター設立。以後20数年に渡り、行動を通して行動能力を育てる独自の行動形成システムを実践的に研究。学校教育、産業教育の現場で、学習プログラム、構案教材、訓練シミュレータの開発とその教育実践を指導した。1990年現職(常務理事・所長)で、77歳にて逝去。 1913年、父の任地である朝鮮咸鏡北道新阿山にて出生。 1921年、父の死去により帰国し愛知県名古屋市に住む。東海中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部教育学科で学び、海後宗臣(当時、教育学科助教授)に師事する。
織田 隆弘(おだ りゅうこう、1913年2月7日 - 199… 織田 隆弘(おだ りゅうこう、1913年2月7日 - 1993年12月31日)は、青森県弘前市出身の宗教家。「密門会」の開祖。高野山真言宗の僧侶。 1975年に「即身成仏を目的とした正純密教を実践する」という真言宗易行派密門会(略称:密門会)を創立。1984年には青森市にキリスト教等を含む、宗派を超えた昭和大仏(日本最大の青銅製大日如来像)を建立。平成五年に遷化。 織田は「(自身を)高野山真言宗の大僧正で、説く真言密教は、弘法大師空海の教えを正しく引き継ぐ、正統で、他の密教まがいの新宗教と区別し“正純密教”」と主張している。 また、「正純密教は、宇宙の真理を人格化した大日如来を本尊とする、自然科学をも包含するスケールの大きい教義であったため、その難解さから長らく塵に埋もれていたが、科学技術の進歩・発展により物理理論が身近になった現代において、ようやく人々にとって理解され易い仏教となったといえる。
中野 千代人(なかの ちよと、男性、1913年2月7日 - … 中野 千代人(なかの ちよと、男性、1913年2月7日 - 没年不詳)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックフライ級日本代表。専修大学卒業。 1934年と1936年、全日本選手権にいずれもフライ級で優勝を収めた。 1936年、ベルリンオリンピックにフライ級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
高島 三次(たかしま さんじ、1912年2月7日 - )は、… 高島 三次(たかしま さんじ、1912年2月7日 - )は、日本の実業家。ワーナー・ブラザース映画会社大阪支社長、極東支配人などを務めた。戦前から戦後にかけて、日本における映画文化・外国映画配給の発展に大きく貢献した。位階は従七位、勲六等授与。 大阪市東淀川区出身。1932年、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業した。 1933年、メトロ・ゴールドウイン・メーヤー(現:Amazon MGMスタジオ)の大阪支社に入社し、映画業界での経歴を開始した。その後、1941年に東宝映画(現:東宝)関西支社へ転じた。1943年には映画配給社に勤務し、関西支社および南方支社で活動した。戦時中はシンガポールを中心とする南方地域で、現地向け映画配給に関わったとされる。
小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 197… 小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 1974年1月9日)は、日本の教育者、教育学者。 神奈川県横浜市出身。1943年法政大学文学部国漢科卒。小学校教師を務め、東横学園小学校校長、和光学園主事。日本私立小学校連合会副会長。国語教育が専門。
入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼう… 入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、昭和期の日本の映画女優。 東京市四谷区四谷箪笥町(現・新宿区四谷三栄町)に生まれる。公卿華族・東坊城家(菅原氏)の出身で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員。生母は北村キミ。1922年(大正11年)、父が亡くなり、翌1923年(大正12年)の関東大震災で千駄ヶ谷の東坊城家の住居が半壊し生活に困窮するも、文化学院中学部に入学し油絵を習う。次姉の敏子(1899~1991)が権掌侍「白百合の局」として貞明皇后の女官を長く務めた縁で、宮城の御局から文化学院まで徒歩通学する。
今井 繁三郎(いまい しげさぶろう、明治43年(1910年)… 今井 繁三郎(いまい しげさぶろう、明治43年(1910年)2月7日 - 平成14年(2002年)1月9日)は、日本の画家。羽黒町名誉町民(現:鶴岡市名誉市民)。 羽黒町(旧泉村)戸野に生まれる。 旧制鶴岡中学(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業後、上京。創作に励む傍ら、美術雑誌の編集長を務める。また太平洋戦争の最中には、従軍画家として諸国を巡った。戦後、帰郷。美術団体「白甕社(はくおうしゃ)」の代表を長年務め、庄内の芸術振興や後身の指導に尽力した。 具象、抽象を織り交ぜた奔放な画風で知られ、晩年まで旺盛に創作を続けた。 1990年に鶴岡市山王町にあった豪商の土蔵を買い取り、自作を常設展示する今井繁三郎美術収蔵館を自宅庭に開館した。
米原 昶(よねはら いたる、1909年(明治42年)2月7日… 米原 昶(よねはら いたる、1909年(明治42年)2月7日 - 1982年(昭和57年)5月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党幹部会委員。 鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭は江戸時代は因幡街道の宿場町・智頭宿として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号で呉服類や小間物の商いをしていた。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼや社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世 哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年、第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。
宮下 忠雄(みやした ただお、1909年2月7日 - 199… 宮下 忠雄(みやした ただお、1909年2月7日 - 1990年9月27日)は、日本の中国経済学者。 1909年、長野県上田市で生まれた。名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)に入学し、田中金司に師事した。1929年にに卒業。神戸商業大学(現・神戸大学)に進み、1932年に卒業。 卒業後は東亜同文書院教授に就いた。1941年、母校の神戸商業大学助教授に任命された。同大学が1944年10月に神戸経済大学に改称となったことから、以降同大学助教授。 1947年に教授昇格。1949年、新制大学発足にともない神戸経済大学が神戸大学に包摂となったため、1952年以降は神戸大学経済学部教授。同1952年、学位論文『近代中国銀両制度の研究』を神戸大学に提出して経済学博士の学位を取得。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7… 中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7日 - 1963年(昭和38年)2月26日)は、宮崎県出身の小説家、銀行家。宮崎県立図書館長、宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長。自らが憧れた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。筆名であり、本名は中村治兵衛。 1908年(明治41年)、現宮崎市淀川町に中村常三郎の次男として裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代、佐藤春夫の台湾小説を読んで南方に憧れ、1930年(昭和5年)3月、台湾総督府立台北高等学校を卒業。同年4月、東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の1932年(昭和7年)「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。
田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年>… 田中 健之助(たなか けんのすけ、1908年 <明治41年> 2月7日- 1993年 <平成5年> 1月9日 )は、日本の経営者。位階は正四位。 三重県四日市市出身。1930年に行文行政科に合格し、1931年に東京帝国大学法学部法科を卒業した後に鉄道省に入省した。1952年には日本国有鉄道理事に就任した。 1954年5月に近畿日本鉄道常務に就任し、1961年11月には専務に就任した。一方で、1955年には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1968年5月から1976年6月までに三重交通社長を務め、1976年6月から1978年6月までに防長交通及び防石鉄道社長を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。
大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 19… 大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 1979年1月5日)は、日本の小説家。福岡県出身。第9回芥川賞候補。 1907年福岡県京都郡豊津町生まれ。京都高等女学校(現・福岡県立京都高等学校)卒業。本名は有山千代子。鶴田知也らの同人誌「村の我等」に参加。ブラジルやフィリピンに滞在した経験を持ち、移民や大陸開拓の題材が多い。
池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年… 池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年3月21日)は、日本の経営者。長野県出身。位階は従五位。 1926年に京都大学附属電気工学講習科を修了し、同年3月に日立製作所に入社。 1955年10月に日立運輸代表取締役に就任し、1957年5月に社長に就任し、1967年5月には東京モノレール社長にも就任し、1969年11月には日立運輸東京モノレール社長に就任した。1970年5月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任した。 1977年6月に運輸大臣表彰を受け、1979年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年3月21日食道癌のために死去。82歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階。
加藤 誠平(かとう せいへい、1906年2月7日 - 196… 加藤 誠平(かとう せいへい、1906年2月7日 - 1969年5月7日)は、日本の林学者・造園家・登山家。森林利用学の分野で活躍、索道の技術研究、自然保養林制度制定にかかわり、また観光学や風景学、さらに橋梁の美学についても研究を重ねた人物。学位は、農学博士。東京大学名誉教授。放物線索理論による架空索理論の研究や伐木運材技術についての研究で業績をあげ、1957年日本農学賞受賞。著書に「林業土木学」「森林土木」などがある。元ヒマラヤ登山隊長。1963年夏、東大カラコルム遠征隊長を務めた。登山で全身リューマチにかかり、国立伊東温泉病院に入院し治療を受けていた。 父は宗教学者加藤玄智。東京生まれで、東京高等師範学校附属中学校を経て、1926年(大正15年)に旧制静岡高等学校卒業。
浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日… 浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日 - 1995年〈平成7年〉6月21日)は、日本の俳優。本名:武内 武。 福岡県糟屋郡宇美町馬場出身。福岡市立商業学校卒業。新倉事務所に所属していた。 戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。戦後は映画俳優として、数多くの話題作や名作に出演する。総出演本数は約300本に上る。個性的で幅の広い演技に定評があり、日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍した。 1906年(明治39年)2月7日、福岡県糟屋郡宇美町馬場に、呉服商の父・伴太郎と母・むめの3男1女の三男として生まれる。宇美尋常高等小学校を経て1926年(大正15年)に福岡市立商業学校を卒業。
吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978… 吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978年1月26日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。福井県最後(第36代)の官選知事だが、現地には赴任しなかった。 1906年(明治39年)、徳島県海部郡の海産物商の家に生まれる。熊本時習中学、第七高等学校造士館を卒業。1929年(昭和3年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業、内務省に入省し宮崎県内務部土木課兼地方課に勤務。12月、宮崎県知事官房文書課長。以後、島根県警察部警務課長、同特別高等警察課長、熊本県警察部特別高等警察課長、内務省警保局保安課勤務、北海道庁拓殖部長、愛媛県経済部長、軍事保護院援護局指導課長、防空総本部総務局疎開課長、同施設局人員疎開課長、島根県内政部長、兵庫県経済部長などを歴任する。
波多野 完治(はたの かんじ、1905年2月7日 - 200… 波多野 完治(はたの かんじ、1905年2月7日 - 2001年5月23日)は、日本の心理学者。文学博士。ジャン・ピアジェの発達心理学を中心に学び、アンリ・ワロンなどを紹介、また文章心理学、創作心理学、視聴覚教育などに多数の著作がある。
小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996… 小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、キリスト教徒。獨協大学名誉教授。第14代獨協中学校・高等学校校長。 東京生まれ。水戸高校、東京帝国大学文学部ドイツ文学科卒業。東京大学教養学部教授。定年退官後、1965年、獨協大学教授。1970年から1979年にかけて獨協中学・高等学校校長。1980年、ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章。 学生時代から無教会の内村鑑三、藤井武、塚本虎二の聖書集会に参加、1940年から武蔵野市に武蔵野幕屋を設け日曜聖書講筵を行う。1950年、阿蘇山で聖霊にうたれ開眼し、使徒的次元の原始キリスト道を唱道し、独自の神学をうちたてたとされる。
溝口 周次(みぞぐち しゅうじ、1904年2月7日 - 1… 溝口 周次(みぞぐち しゅうじ、1904年2月7日 - 1986年3月13日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1949年6月に取締役に就任し、1951年1月に常務、1958年6月に専務を経て、1962年6月には社長に就任。1969年6月に会長を経て、1972年6月には相談役に就任。 1968年9月に藍綬褒章を受章し、1974年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年3月13日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 19… 棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 1993年2月18日)は、日本のモンゴル語学・モンゴル文化学者。日本におけるモンゴル語研究の先駆者で、大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)初の日本人モンゴル語専任教員。大阪外国語大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市小川町生まれ。鹿児島市立名山小学校から鹿児島市立清水小学校に移り卒業した後、鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現:鹿児島県立甲南高等学校)を1921年に卒業。官立大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)に進み本科蒙古語部第1期生として1925年3月に卒業。 1927年、鹿児島県の花岡村立古江商業実務学校勤務。1929年、母校・大阪外国語学校蒙古語部講師となり、1935年に助教授に就任し、後に教授に昇任。
高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 197… 高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 1972年7月5日)は、日本の歌手、女優である。本名は「天田 春音(あまだ はるね)」。大正期~昭和初期の浅草オペラでソプラノの歌姫として活躍。 東京都本所区向島にて出生。東京育ちではあるが、祖父は群馬の博徒国定忠治の子分の一人であり左の腕にあたる人物であったという。 鎌倉高等女学校を卒業後、歌手・井上起久子に師事。1920年に演出家の獏与太平に見初められオペラ女優の仲間入りを果たす。初期の芸名は「高井爾美」(読み同じ)。この芸名は井上に付けられたという。なお、芸名の由来は駆け出しの頃大学生のパーティに招かれた際、指輪がないので小道具の指輪をはめて行き、学生に「あっ、高いルビー」と言われたのにちなんだと言われる。
皆吉 爽雨(みなよし そうう、1902年2月7日 - 198… 皆吉 爽雨(みなよし そうう、1902年2月7日 - 1983年6月29日)は、福井県出身の俳人。本名・大太郎。福井市上宝永町に生まれ、丸岡町、三国町に育つ。福井中学校(現福井県立藤島高等学校)卒業。1919年、住友電気工業に入社。「ホトトギス」に投句し高浜虚子に師事する。1922年、「山茶花」創刊に参加。1936年、「山茶花」選者。1945年に上京、1946年に「雪解」を創刊・主宰。1967年、句集『三露』などの功績より第1回蛇笏賞受賞。1979年、勲四等旭日小綬章受章。俳人協会副会長を務めた。墓所は東京都調布市の深大寺。 孫の皆吉司は俳人、画家。
初瀬 音羽子(はつせ おとわこ、1902年(明治35年)2月… 初瀬 音羽子(はつせ おとわこ、1902年(明治35年)2月7日 - 1993年(平成5年)9月19日)は、宝塚少女歌劇団元月組男役・元月組組長の女優。本名:村田八重。旧姓:東海林。秋田県出身。入団時の芸名は初瀬乙羽子(はつせ・おとわこ)。 この芸名は小倉百人一首の第33番:源俊賴の『憂かりける 人を初瀨の 山颪よ 激しかれとは 祈らぬものを (うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを)』から命名された。
小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 199… 小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 1991年3月20日)は、日本の服飾学者、文化女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)色染科卒業。陸軍被服本廠理化学部長、研究部長。戦後は繊維会社に勤務し繊維を研究、1962年文化女子短期大学教授、1964年文化女子大教授兼任。1972年定年退任、名誉教授。 世界各地の民族衣装を研究、1964年ヨーロッパ7か国を回り、57か国で研究、死去の直前まで中国雲南省で研究していた。
野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989… 野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989年11月7日)は、日本の哲学者。皇学館大学名誉教授。 福岡県遠賀郡芦屋町生まれ。愛媛県師範学校教諭、海軍教授、長崎県立短期大学教授を経て、皇学館大学教授・名誉教授。
伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年… 伊志井 寛(いしい かん、1901年2月7日 - 1972年4月29日)は、日本の俳優である。 本名:石井 淸一、旧芸名及び別名:竹本 津駒太夫(たけもと つこまだゆう)、石井 寛(読み同じ)。 1901年2月7日(木曜日)、東京府東京市牛込区神楽坂(現:東京都新宿区)に、落語家4代目三升亭小勝と竹本清之助(本名は富沢つね)の子として生まれる。1906年、5歳で父と死別する。 17歳まで銀座の商家に奉公に出ていたが身に合わず、1919年に文楽座の竹本津太夫の門に入り、竹本津駒太夫名義で初舞台を踏む。ところが満20歳の徴兵検査を機に文楽界を退き、1922年、松竹蒲田撮影所に入社。伊志井寛と改名し、旧劇活動写真の写実化に成功したといわれている1923年公開の野村芳亭監督映画『女と海賊』等に脇役として出演。
岸 勇一(きし ゆういち、1900年(明治33年)2月7日 … 岸 勇一(きし ゆういち、1900年(明治33年)2月7日 - 1978年(昭和53年)12月4日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事。天理大学学長。 奈良県出身。1925年(大正14年)高等試験に合格し、翌年東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、官房審議室土地改良部勤務、総督府事務官・農林局農林振興課長、農政課長、1941年(昭和16年)6月、慶尚南道内務部長を経て、1942年(昭和17年)6月、農林局糧政課長に就任した。その後、咸鏡南道知事を務めた。 1953年(昭和28年)1月から1960年(昭和45年)9月まで天理大学学長、1957年(昭和32年)1月から1964年(昭和49年)10月まで同大学理事長となる。
矢野 一郎(やの いちろう、1899年2月7日 - 1995… 矢野 一郎(やの いちろう、1899年2月7日 - 1995年4月17日)は、日本の実業家(元第一生命会長)、剣道家(剣道範士)。
朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983… 朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983年4月11日)は、日本の実業家。長崎県大村市出身で鎮西学院、関西学院高商を卒業、江商(現兼松)株式会社副社長、相談役を経て、母校である関西学院大学理事、千刈cc理事長、(社)関西ゴルフ連盟常務理事、茨木CC理事・鳴尾GC理事とし関西学院大学、関西ゴルフ界の発展に寄与した人物である。大正11年(1922年)関西学院高商卒業。 関西学院体育会のモットーである「Noble Stubbornness(ノーブル スタボネス)品位ある不撓不屈の精神」は、大正9年に関西学院高商庭球部主将であった朝長が、ライバルの神戸高商(神戸大学)庭球部に完敗した時に庭球部部長であった畑歓三教授に、この悔しさを忘れない為に依頼して作られたモットー、標語である。
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年… 由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年3月28日)は、日本の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。 1897年、奈良県添上郡柳生村(現・奈良市)にて、丹生神社の神官の家系に生まれた。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に進学。教員となり、大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学した。 東京高等師範学校では、三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修めた。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。
大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 19… 大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 1976年1月23日)は、日本の心理学者。 1897年、京都府生まれ。1920年京都帝国大学文学部心理学科を卒業。1940年に「表象体験ノ研究」を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得。京都帝大助手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1941年に教授となった。 戦後は東北大学教授となる。1960年に定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授、関西大学教授を務めた。心理学の研究者として、日本心理学会理事を務めた。
岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977… 岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977年3月23日)は、日本の財政学者。元横浜高等商業学校(現・横浜国立大学)教授、元神奈川大学教授、元和光大学教授。 福岡県出身。1922年東京帝国大学経済学部経済学科卒業。1926年横浜高等商業学校教授、その後満洲建国大学教授となる。財政学が専門であり、満州国財政学や、第一次世界大戦賠償及戦債問題を研究、『日本賠償論』で国家賠償を研究、財政本質学説を研究。ミッドウェー海戦以降、日本軍の戦況が悪化し軍国主義が強まっていく中、リベラルな校風で運営していた田尻常雄校長に代わり1943年から関東軍から転任して横浜高等商業学校校長となり、スパルタ式教育を強化させた。
堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 … 堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 - 1971年(昭和47年)10月17日)は、日本の工業化学者。 北海道大学工学部元教授、藤原工業大学元教授。 父は三光合資会社代表社員の堀卯三郎。長女は社会学者の杉山明子。孫はグロービス経営大学院大学学長の堀義人。従弟は政治学者の潮田江次。妻の甥は政治学者の秋野豊。 日本のエネルギー源を石炭から石油と原子力に転換させた陰の功労者である。 堀卯三郎の長男として東京府に生まれる。 1920年、東京帝国大学工学部応用化学科卒業。大学卒業後は東大講師、農商務省技師、文部省在外研究員を経て、1924年に北海道大学工学部講師となり、翌年教授に就任。
武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7… 武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7日 - 1966年(昭和41年)8月16日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。地理調査所長を経て初代国土地理院長を務めた。 埼玉県本庄市出身。1915年(大正4年)旧制埼玉県立熊谷中学校卒業後、第八高等学校から大学予科第二部乙類を経て1922年(大正11年)3月31日東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同年9月11日山形高等学校教授に任官(高等官七等)。陸軍工兵曹長を経て、1925年(大正14年)5月18日陸地測量師に任官し陸地測量部付となる。1926年(大正15年)3月31日陸軍工兵少尉に昇進し、1930年(昭和5年)4月1日後備役編入となる。
入江為常(いりえ ためつね、1894年2月7日 - 1969… 入江為常(いりえ ためつね、1894年2月7日 - 1969年3月3日)は、日本の貴族院議員。子爵。入江為守の子。 東京府出身。学習院を経て1914年(大正3年)、東京府立一中卒業。家業である歌道を極める道には進まず、東京帝国大学に進学して理学部化学科を卒業。台湾総督府中央研究所技師を経て、1928年(昭和3年)に陸軍技師、次いで理化学研究所技師となった。1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)まで貴族院議員を務めたほか、東京女学館で講師も務めた。 妹の高木邦子は崇仁親王妃百合子の母。弟に入江相政。母・信子は柳原前光伯爵の長女で、柳原白蓮の異母姉、かつ大正天皇の生母・柳原愛子の姪にあたる。
鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1… 鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 197… 田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 1977年8月17日)は、日本史学者。 奈良県吉野郡白銀村(現・五條市)生まれ。奈良師範学校卒。奈良県で中学校教員など。1923年大和史学会、1931年大和国史会を創設。1934年雑誌『大和志』を発刊する。1935年近畿日本鉄道史料編纂室勤務、44年嘱託。1960年「大和条里制と条坊制の研究」で関西大学文学博士。1964年梅光女学院短期大学講師、同教授。1967年梅光女学院大学文学部教授。74年退任。号は節嶺。
干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892年2月7日 - 1… 干潟 龍祥(ひかた りゅうしょう、1892年2月7日 - 1991年10月13日)は、日本のインド哲学者、僧侶。 福井県遠敷郡雲浜村(現在の小浜市)で小浜藩士であった藤倉政夫の次男として生まれる。初名は末吉。真言宗の僧侶の干潟龍範の養子となり、名を龍祥と改める。 1917年、東京帝国大学文学部哲学科卒。1937年東大講師、1940年、九州帝国大学教授、1950年、九州大学教育学部長。1950年「本生経類の思想史的研究」で東北大学文学博士。1955年に九大を定年退官、名誉教授、福岡女子大学教授、1960年学長、1964年退任。1965年に紫綬褒章、1966年に勲二等瑞宝章受勲。1969年、日本学士院会員。
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 195… 中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 下伊那郡竜江村(現飯田市)の地方名望家中原治部衛門の次男として生まれ、旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を卒業後に早稲田大学文科予科に進学した。1912年に坪内逍遙が主催した文芸協会演劇研究所の第1期生として入所し、俳優を目指した。同期には、河竹繁俊、松井須磨子らがいる。俳優を目指していた中原であったが、長男である兄が死去したことを受けて、俳優の夢を断念して1913年、大学予科修了後に帰郷した。
上野 誠一(うえの せいいち、1888年(明治21年)2月7… 上野 誠一(うえの せいいち、1888年(明治21年)2月7日 - 1971年(昭和46年)5月11日)は日本の化学者。研究は油化学分野。特に米糠油の成分や精製法の研究を行い、食用油や菓子・人造バターなどの食品原料や化粧品原料などの工業化に貢献した。大阪大学名誉教授。 1909年に大阪高等工業学校応用化学科を卒業後、農商務省工業試験所に技手として勤務し,1916年に横浜魚油株式会社技師長兼工務部長に就任、1917年9月~1918年1月にアメリカ、カナダに出張し、1918年9月に早稲田大学理工科講師を嘱託され、1923年に大阪高等工業学校講師となり、1929年に大阪工業大学教授に就任した。その後、1945年に大阪帝国大学工学部長(~1946年)に就任した。
高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日… 高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日 - 1970年(昭和45年)12月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県長野市長。 長野県上水内郡高岡村(現・飯綱町高岡地区)出身。1905年(明治38年)旧制長野県立長野中学校(長野県長野高等学校の前身)を卒業後、同郡中郷小学校で代用教員を務め、1910年(明治43年)長野県庁に奉職し、1914年(大正3年)高等文官試験に合格する。 下高井郡・上伊那郡各書記を経て、1918年(大正7年)7月に長野県下水内郡長、1922年(大正11年)3月に同県東筑摩郡長、1926年(大正15年)7月に地方事務官社会課長、地方課長を歴任し、1928年(昭和3年)4月に退官。
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2… 木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2月7日 - 1982年〈昭和57年〉8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家である。 検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。 太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した。 その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時に法務府初代総裁として再入閣。
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)… 安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である。 1886年(明治19年)2月7日に御機師の家柄に生まれ、高等小学校を卒業した後に家業を継いだ。 安斎と同じく宮城県登米町出身の俳人菅原師竹に師事し、17歳頃より俳句を作り始める。 1904年(明治37年)頃に従来の五七五調の形にとらわれない新しい新傾向俳句に惹かれる。その後、俳人、随筆家の河東碧梧桐が選者である新聞『日本』の俳句欄に投句し、新傾向派の俳人として注目された。 菅原と共に新傾向俳句を作り、一時期は新傾向俳句の重鎮として師竹・桜磈子時代と呼ばれ、東北の俳壇で称された。
名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月… 名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月7日 - 1960年(昭和35年)3月30日)は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師、日本画家。 久保田米僊及び久保田金僊の門人。本名は芳之助。春僊、春川、黛子洞、梶蔦亭、青紫亭とも号す。山梨県中巨摩郡明穂村(現・南アルプス市小笠原)で、名取市四郎・みちの五男として生まれる。父・市太郎は両国屋という綿問屋で、雑貨なども商い、峡西地方の金融業・十圓社を興し、第十国立銀行創立の際にも若尾逸平らと共に資金を拠出、山梨県初代県議会議員の一人でもあった。ところが父の事業の失敗により、1歳の時東京に移る。1892年(明治25年)東京市立城東尋常高等小学校に入学。
高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - … 高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本の政治家・実業家。満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。 大阪府島上郡三箇牧村(現在の高槻市)で生まれる。旧制茨木中学を卒業後、農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務。1917年、東洋製罐を創立。1938年、東洋製罐専修学校(後の東洋食品工業短期大学)を設立。1942年、満洲重工業開発総裁に就任。1947年公職追放、1951年同解除。1952年、電源開発総裁に就任。
川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2… 川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2月7日 - 没年不詳)は、大阪府岸和田市長。農学者。 大阪府泉南郡沼野村(現在の岸和田市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学農科大学実科を卒業。栃木県立農学校教諭、和歌山県立農林学校教諭、有馬郡立有馬農林学校教諭を歴任。さらに静岡県農事試験場技師、同茶業組合連合会技師、京都府農業技師、同農事試験場技師を務めた。 帰郷後の1922年(大正11年)、岸和田市会議員に当選。さらに大阪府会議員、同参事会員に選ばれた。 1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで岸和田市長を務めた。 その他、大阪府農会副会長、泉南畜産組合長などを務めた。
戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2… 戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2月7日 - 1966年〈昭和41年〉7月29日)は、昭和時代の神奈川県の郷土史家。福岡県出身。 1882年(明治15年)2月7日、現在の福岡県福岡市博多区に士族の長男として生まれる。娘の戸倉英美によれば「いわゆる貧乏士族」であり、少年時代には、筑豊の炭鉱主・伊藤伝右衛門のもとで丁稚奉公をしたという。1900年(明治33年)3月に赤間関商業学校(現在の下関商業高等学校)を卒業した。 1903年(明治36年)4月に宇和島商業学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)教諭となる。1905年(明治38年)に釜山に渡り、釜山第一公立尋常小学校の訓導となる。