久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日 - … 久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日 - 1976年〈昭和51年〉7月14日)は、日本初の女性弁護士の一人。日本の女性運動において指導的な役割を果した。旧姓・藤原。慶應義塾大学法学部教授の藤原守胤は実兄。 1911年、大阪府にて出生。夕陽丘高等女学校[要出典]、津田英学塾(現・津田塾大学)、明治大学専門部女子部を経て、1936年に明治大学法学部に入学。大学2年の時に結婚し、久米姓となる。 1938年に高等文官試験司法科試験に合格し、中田正子、三淵嘉子と共に日本初の女性弁護士となる。 1946年、明治大学短期大学教授に就任し、1966年まで務める。 1950年、GHQの招待によりアメリカへ視察旅行する。
橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと… 橋岡 俊平(はしおか しゅんぺい、改姓名・岡本曠三(おかもと こうぞう)、1911年7月7日 - 1978年8月7日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。大阪府大阪市出身。 1936年、全日本選手権にバンタム級で優勝を収めた。 同年、ベルリンオリンピックにバンタム級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 日本アマチュアボクシング連盟副会長、関西、近畿、大阪府各アマチュアボクシング連盟各会長を務めた。 1978年8月7日、急性肺炎と腎不全のため67歳で死去した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。
伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日… 伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日 - 1983年(昭和58年)4月25日)は日本の歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。 本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。 生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。
加登川 幸太郎(かとがわ こうたろう、1909年(明治42年… 加登川 幸太郎(かとがわ こうたろう、1909年(明治42年)7月7日 - 1997年(平成9年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。 北海道上川郡当麻町出身。屯田兵・農業、加登川春吉の長男として生まれる。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)を経て、1930年(昭和5年)7月、陸軍士官学校(42期)218名中を皇王族(恒德王・李鍵公)を除いて9番の成績で卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)卒業後、戦車学校教官に就任した。 その後、北支那方面軍参謀を務め、太平洋戦争時には陸軍省軍務局軍事課員(予算班)、第2方面軍、第35軍、第13軍参謀としてニューギニアの戦い、レイテ島、インドシナ、中国を転戦し中佐で敗戦をむかえる。
秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7… 秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7日 - 2001年〈平成13年〉11月22日)は、日本の逓信官僚、実業家。日本電信電話公社総裁。 群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)に生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。卒業後、日本無線電信に入る。 戦後逓信省に入り、1947年(昭和22年)総務局監理課長。1949年(昭和24年)AT&T留学、電気通信省経理局会計課長となる。1952年(昭和27年)日本電信電話公社が発足すると同社に移り、資材部長、経理局長、理事、総務理事を経て1965年(昭和40年)副総裁。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
久保田 久雄(くぼた ひさお、1909年7月7日 - 没年不… 久保田 久雄(くぼた ひさお、1909年7月7日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8]。本名久保田 久夫[4][5]。新劇・新派の子役から松竹蒲田撮影所の子役に転身、「松竹キネマの名子役」に数えられた[3][4][5]。
川口 利朗(かわぐち としろう、1909年 <明治42年> … 川口 利朗(かわぐち としろう、1909年 <明治42年> 7月7日 - 1997年 <平成9年> 2月20日)は、日本の経営者。本州製紙社長を務めた。位階は従四位。静岡県出身。 1936年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1958年5月に本州製紙に転じ、1964年11月に取締役に就任し、1966年に常務、1969年に専務を経て、1970年11月に副社長に就任し、1971年11月には社長に昇格。1974年11月から1982年6月までに会長を務めた。 1979年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1997年2月20日心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933… 小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933年12月24日、満26歳没)は、日本の社会運動家である。日本共産党の党員。1933年(昭和8年)、共産党内で宮本顕治、袴田里見らにより「特高警察のスパイ」の容疑をかけられ、査問を受けていた最中に死亡した(日本共産党スパイ査問事件)。宮本や袴田はこれにより、治安維持法違反のほか、不法監禁致死罪および銃刀法違反の罪に問われた。 1907年(明治40年)、秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。母を幼少時に亡くし、父は小学校5年生のときに死亡、実母の妹イクに育てられた。秋田県立大館中学校に進学。伯父に大杉栄の弟子がいて、影響を受け在学中から公然と天皇制を批判していた。
山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 198… 山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 1982年9月11日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。法政大学名誉教授。 福岡県生まれ。九州帝国大学英文科卒。戦後、法政大学教授を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年… 宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎狂言作者。 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。新作落語をいくつか創作したが、サゲは噺家に一任した。
高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 200… 高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 2006年8月25日)は、主に昭和期に活躍した日本の作曲家。
与謝野 秀(よさの しげる、1904年7月7日 - 1971… 与謝野 秀(よさの しげる、1904年7月7日 - 1971年1月25日)は、日本の外交官。 1904年、与謝野鉄幹と与謝野晶子の二男として生まれる。学校法人暁星学園、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科を卒業し外務省入省、在フランス日本国大使館外務書記生となる。 1935年、球磨川電気社長などを歴任した坂内虎次の娘で11歳年下の道子と結婚。その後2男3女に恵まれる。長男に政治家の馨、次男にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを叙勲した金融家の達、三女に詩人、美術評論家、フランス文学者の文子がいる。 外務省欧亜局所属時に日独伊三国同盟に反対する見解を示す。第二次世界大戦中は、スペイン、スイス、ドイツなどヨーロッパを中心に駐在。
今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 19… 今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 1984年1月19日)は、日本の美術評論家。 山形県生まれ。旧制山形高校を経て東京帝国大学卒。1932年ヨーロッパに渡り、パリ大学、ベルリン大学に学ぶ。1934年帰国、美術評論を始め、1936年美術批評家協会を創立、1952年国立近代美術館次長、1967年京都国立近代美術館館長、1969年まで務めた。
円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7… 円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉1月25日)は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)。 昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史と重なっている。 一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。
山代 吉宗(やましろ よしむね、1901年7月7日 - 19… 山代 吉宗(やましろ よしむね、1901年7月7日 - 1945年1月14日)は、日本の労働運動家。 福島県石城郡磐崎村(現いわき市)生まれ。1922年、明治大学政経科卒業。父親の跡を継いで常磐炭田で飯場頭となった。1926年、日本労働総同盟日本坑夫組合磐城支部を、続いて同常磐地方連合会を結成、このため解雇された。1927年1月に起こった磐城炭礦争議を指導、同年5月の入山炭礦争議を支援した。また労働農民党磐城支部を結成、支部長・中央執行委員に選任された。磐城炭礦争議で敗北、茨城県で地下活動に入った。この頃、日本共産党に入党。田中ウタをハウスキーパー (日本共産党)にする。 1929年(昭和4年)の四・一六事件で検挙。
荒川 惣兵衛(あらかわ そうべえ、1898年〈明治31年〉7… 荒川 惣兵衛(あらかわ そうべえ、1898年〈明治31年〉7月7日 - 1995年〈平成7年〉6月18日)は、英語教師(終戦時に教壇を去る)で、市井の外来語研究者。 愛知県名古屋市出身。東京高等師範学校卒業。名古屋在住だった。漢字表記以外にペンネームとして「あらかわそおべえ」「あらかわそうべゑ」などを用いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 197… 長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 1974年11月20日)は、日本の技術者で実業家。第6代日本光学工業(現ニコン)社長。
高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日… 高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日 - 1978年〈昭和53年〉10月18日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に東京帝国大学経済学部商業科を卒業し、東邦電球取締役を経て、1929年に日本生命保険に入社。1945年に取締役を経て、1948年にオリンパス光学工業常任監査役に就任し、常務、1951年に副社長を経て、1953年6月に社長に就任し、1961年12月までに務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年10月18日脳血栓のために死去。81歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日… 風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日 - 没年不明)は、日本の俳人。本名は山本 直得。別号に南鳳江。河東碧梧桐門下でルビ俳句の提唱者として知られる。東京都出身。 1897年に東京都日本橋区浜町(現在の中央区日本橋)で生まれる。若くして俳句の道を志し、新傾向俳句を提唱していた河東碧梧桐の元へ投句、1917年(大正6年)に碧梧桐の正式な門人となる。以降は一貫して新傾向俳句と、そこから発展した自由律俳句を詠む。碧梧桐主宰の海紅を経て、海紅の東京同人を中心に1924年(大正13年)東京俳三昧を立ち上げ、直得が代表となる。この前年の1923年(大正12年)、師の碧梧桐も海紅を中塚一碧楼に譲り、新たに『碧』を主宰、1925年(大正14年)に東京俳三昧と碧が合流する形で『三昧』を創刊した。
金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7… 金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7月7日 - 1983年(昭和58年)10月6日)は、大正から昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(2期)、栃木県栃木市長。幼名は亀吉で、35歳の時に益太郎と改名した。 栃木県下都賀郡栃木町入舟町(現栃木市入舟町)で、染物屋・金子忠吉(ただよし)の二男として生まれる。1912年(明治45年)3月、栃木町立第一尋常高等小学校高等科を卒業した。 その後上京し、働きながら独学し、山室軍平の導きでキリスト教に入信。雑司ヶ谷で小間物屋を開業したが、労働農民運動に加わった。1926年(大正15年)日本労農党に入党。 1929年(昭和4年)に帰郷して栃木県下の労農運動を大屋政夫、石山寅吉らと指導した。
南条 徳男(南條 德男、なんじょう とくお、1895年7月7… 南条 徳男(南條 德男、なんじょう とくお、1895年7月7日 - 1974年11月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、建設大臣・農林大臣。大東文化大学の理事長・学長も務めた。 北海道胆振支庁室蘭村(現・室蘭市)生まれ。仙台の東北中学校(現・東北高等学校)、第二高等学校を経て、1920年に東京帝国大学法学部独法科を卒業。弁護士となる。東大では岸信介と同期だった。学生時代から日本の人口・食糧問題に関心を持ち、自身の「ブラジルへの100万人移住」構想を実現すべく、立憲政友会に入党する。また当時総裁だった原敬に面会し、移民政策について意見を述べたことがある。1923年には立憲政友会法曹団を結成し幹事長となる。
青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年… 青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年〉7月7日 - 1991年〈平成3年〉)は、新潟県出身の地方自治功労者。月潟村長(1928年~1932年、1946年~1961年)。 1893年(明治26年)7月7日、新潟県西蒲原郡秋津村月潟(現・新潟市南区月潟)に生まれた。青年期には新発田の歩兵第16連隊に入隊して満州警備に派遣された。 1928年(昭和3年)には35歳で月潟村長に就任し、近藤月平らとともに1933年(昭和8年)の新潟電鉄線(後の新潟交通電車線)開業などに尽力した。新潟電鉄の設立者である奥山亀蔵は角兵衛獅子が消失したのを悲しみ、しきりに青柳に角兵衛獅子の復活を促した。
松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月… 松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月29日)は、日本の旧内務省の技術官僚。のちに厚生省の技術官僚として医薬品・食品行政全般にわたり重責を果たした。薬事行政の枢機に参画するとともに東京帝国大学医学部講師を兼任するなど教育・啓蒙にも尽力した。1941年-1948年には国立衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)の第12代所長を務められ、その後、植物化学の成果の医薬的応用をはかるべく、創業者として常磐植物化学研究所を設立した。また、日本大学薬学科の新設に貢献し、初代薬学科長に就任した。 第一次世界大戦当時、医薬品輸入の途絶への対処として国産化のため、臨時製薬調査業務を担当した。
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7… 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。陸軍士官学校26期・陸軍大学校35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。
酒井 利雄(さかい としお、1891年(明治24年)7月7日… 酒井 利雄(さかい としお、1891年(明治24年)7月7日 - 1969年(昭和44年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、福井県会議長、福井県坂井郡鳴鹿村長。 福井県坂井郡鳴鹿村楽間(丸岡町を経て現坂井市丸岡町楽間)で、酒井利右衛門の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続した。土木建築請負業を営む。 鳴鹿村会議員を経て1934年(昭和9年)鳴鹿村長に就任。福井県会議員に選出され、同議長も務めた。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け福井県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)… 山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)7月7日 - 1971年(昭和46年)12月11日)は、昭和期の日本の政治家で、公選2人目の佐世保市長である。 佐世保市出身。戦前に佐世保市議会議員を1期(1933年~1937年)務めた後、市役所職員となり、総務課長、助役を経て、1955年4月の市長選挙で現職の中田正輔を破って第15代佐世保市長に就任、2期8年間に及び市長を務めた。 在職中には佐世保工業高等専門学校、海上自衛隊教育隊の誘致を実現したほか、石岳動植物園の開園、鹿子前への観光道路整備など、観光都市としての基盤整備に努めた。 1963年4月の市長選に3選を目指し出馬したが、元市議会議長の辻一三に阻まれ落選、4年後の1967年4月の市長選にも再度挑戦したが再び辻に敗れた。
稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治2… 稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治22年)7月7日 - 1979年(昭和54年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鳥取県邑美郡古市村(岩美郡美保村古市を経て現鳥取市古市)で、稲田益造、ちせ夫妻の長男として生まれる。1908年(明治41年)鳥取県第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。在学中、日露戦争後の満韓の視察を行った。1908年、第六高等学校に入学したが中退し、1909年(明治42年)早稲田大学に転じた。在学中、雄弁会幹事を務め、南極探検事業、理想選挙、憲政擁護運動の遊説を全国各地で行った。1915年(大正4年)同大政治経済科を卒業。
河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日… 河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日 - 1946年(昭和21年)7月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 鳥取藩士・小学校長、河瀬聰の四男として生れる。鳥取第一中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「天津風」水雷長、臨時海軍防備隊付などを経て、1922年11月、海軍大学校(甲種20期)を卒業した。 横須賀防備隊水雷長、「萩」「桑」の各駆逐艦長、連合艦隊参謀、水雷学校教官、艦政本部員、水雷学校教官、イギリス出張(造兵監督官)、「霧島」副長、第3駆逐隊司令、第6駆逐隊司令、艦政本部員などを経て、1937年12月、海軍少将に進級。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7… 大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。 熊本県玉名郡梅林村(現玉名市)出身(出生地は東京府)。兄は後に剣道十段となった大麻勇次。 熊本中学、第五高等学校、1914年(大正3年)東京帝国大学法科を卒業後、内務省に入省。山梨県属。警察畑を歩み、山形・山梨・神奈川各県の警察署長を務めた。 1924年(大正13年)、同郷の小橋一太(元文部大臣)の推挙により、清浦奎吾首相秘書官を務める。徳川家広によると、細川護立の宴会に出席した大麻のスピーチの巧さが清浦の目に止まったのが秘書官になったきっかけという。同年政友本党から第15回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7… 佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は社寺大工。富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市福野)で代々宮大工であった佐々木家に生まれた。 父であった三代目佐々木嘉平に師事し、独学で技術・知識を身に付け、全国各地で数々の国宝や重要文化財の修復・保存に携わった。昭和46年黄綬褒章を受章。この四代目佐々木嘉平は、棟梁としては佐々木棟慶とも名乗った。戒名は平等院釈棟慶居士。 日本建築文様宝典 2003年 文芸社刊 清水稔次 佐々木健 編
前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7… 前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7日 - 1962年(昭和37年)2月21日)は、明治から昭和期の華族(男爵)。旧名・芳明。 富山前田家第12代当主前田利聲の子として生まれる。1890年5月22日、加賀前田家分家当主前田利武の臨終に際してその養子となり、利功と改名し男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業。中央生命保険(第一生命保険の前身の一つ)社長、国際製菓監査役などを務めた。
藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日… 藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日 - 1934年(昭和9年)12月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、シカゴのノースウェスタン大学に留学し、法学博士の称号を得た。帰国後政友会の院外団に入る。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で初当選。その後、第17回・第18回の総選挙でも当選した。その間、犬養内閣で内務参与官を務めた。
守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12… 守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12月18日)は、日本の教育者、女性活動家で、社会事業家でもある。東京都出身。父は守屋一、母は守屋和佐。父は、旧福岡藩藩士で、長崎に遊学し医学を修めた。西南戦争の後、衛戍病院に勤務した。1893年(明治26年)、東が8歳の時に死去。以後、2人の妹と共に母に育てられる。1900年(明治33年)東京府立高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校)を卒業。小説家の田村俊子と同期になる。その後、仏英和女学校でフランス語を東京音楽学校でバイオリンを習うが家庭の経済困窮から中退。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
永井 準一郎(ながい じゅんいちろう、1882年(明治15年… 永井 準一郎(ながい じゅんいちろう、1882年(明治15年)7月7日 - 1955年(昭和30年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。憲政会系官選大分県知事、千葉市長。 千葉県長狭郡北風原村(吉尾村、長狭町を経て現鴨川市)出身。永井謙蔵の長男として生まれる。第二高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、樺太庁事務嘱託となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し鳥取県属となる。 以後、高知県警部、同警視・警務課長、同巡査教習所長、宮城県伊具郡長、同県栗原郡長、高知県警察部長、新潟県警察部長、徳島県内務部長などを歴任し、1924年7月、大阪府警察部長に就任。
島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日… 島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉2月14日)は、男爵島津長丸(旧宮之城領主)の夫人。男爵島津珍彦(旧重富領主)の娘で、母は島津斉彬の四女・典子。正五位勲四等。不敬罪に問われ検挙された。 明治22年(1889年)華族女学校に入学し、同28年(1895年)卒業。翌年島津久治の遺児・長丸と結婚し、2男4女を産む。夫長丸は教育熱心で、特に女子教育の必要を痛感し、同29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校の前身校のひとつ)を創立した(校長・島津サエ子)。同40年(1907年)治子は同校第3代校長に就任し、経営不振に陥っていた同校の立て直しのため一大改革に着手し、薩摩古来の美風を尊重した良妻賢母の女子教育を推進し、入学者も増加して発展を遂げ、鹿児島の私立学校の先駆的な役割を果たした。
岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日… 岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。北海道釧路市長。 熊本県下益城郡隈庄町(現在の熊本市南区)出身。日本大学に学び、1907年(明治40年)11月に文官高等試験に合格した。熊本県属、同警視、香川県事務官、同理事官・視学官、福島県警察部長などを歴任した。1919年(大正8年)に海軍事務官・臨時南洋群島防備隊民政部附となり、翌年からは台湾総督府に転じ、台北州警察部長、新竹州内務部長、警務局警務課長を歴任した。 退官後の1926年(大正15年)1月18日に釧路市長に選出された。1月20日に就任、市の基盤整備に尽力し、1927年(昭和2年)6月7日に市長を退任した。
寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7… 寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 山形県出身。村会議員・寺岡儀一の五男として生れる。荘内中学校を経て、1899年(明治32年)12月、海軍兵学校(27期)を卒業し、1901年(明治34年)1月、海軍少尉任官。日露戦争では第1艇隊艇長として出征した。 1905年(明治38年)9月、「扶桑」水雷長となり、海兵教官、「厳島」・「常磐」の各水雷長、軍令部出仕などを経て、1910年(明治43年)3月、東郷平八郎大将付副官に就任。翌年3月、「鞍馬」分隊長に着任し、横須賀予備艦隊副官、海軍省人事局員、「比叡」副長などを歴任。
神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日… 神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日 - 1939〈昭和14年〉7月7日)は、日本の生物学者。ホタルの研究で知られる。 1874年(明治7年)7月7日、長崎県北松浦郡佐々村に生まれる。1901年(明治34年)4月、関西学院普通部および高等部を卒業。1901年4月から1907年(明治40年)7月まで東京市牛込区原町の成城学校の英語教師を務める。この頃は心理学を研究しており、1907年9月から1912年(明治45年)6月までアメリカ・マサチューセッツ州のクラーク大学(en:Clark University)に在学、心理学でマスター・オブ・アーツを取得する。 1912年、1913年、1914年(大正3年)の6月から9月の間はマサチューセッツ州のウッズホール臨海実験所で生物学の研究をする。
浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2… 浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2日)– 1939年(昭和14年)10月2日)は、明治後期から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 和歌山県有田郡広村(広町を経て現広川町)で、実業家・7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)の末子として生まれた。1891年(明治24年)慶應義塾普通部を、1894年(明治27年)東京専門学校(現早稲田大学)英語政治科を卒業。円覚寺に2年参禅して イギリスに留学し、1902年(明治35年)ケンブリッジ大学を卒業した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に和歌山県郡部から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、議員歳費を辞退して話題となる。
中川 久任(なかがわ ひさとう、1871年7月7日(明治4年… 中川 久任(なかがわ ひさとう、1871年7月7日(明治4年5月20日)- 1935年(昭和10年)7月14日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧姓・浅野、旧名・倉吉。 東京府出身。浅野家分家・浅野懋績の八男として生まれ、伯爵・中川久成の養子となる。養父・久成の死去に伴い、1897年(明治30年)5月18日、家督を相続し伯爵を襲爵、名を久任と改めた。学習院を卒業。 1909年(明治42年)9月16日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して1911年(明治44年)7月9日まで在任し、さらに1920年(大正9年)5月8日、補欠選挙で再選され、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。
綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年… 綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年7月7日) - 大正12年(1923年)10月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 武蔵国入間郡川越町(現在の埼玉県川越市)出身。東京帝国大学医科大学製薬科や日本薬学校で薬学を学んだ後、郷里に薬局を開き、後には日本薬剤師会埼玉支部長となった。また川越町会議員、入間郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回に至るまで4回当選を果たした。 その他に川越商業会議所副会頭を務め、また日本薬剤株式会社取締役、帝国化学製麻株式会社取締役、中武銀行取締役、関東印刷株式会社取締役、東日本炭鉱株式会社監査役を務めた。
福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2… 福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2年5月25日〉- 1932年〈昭和7年〉6月1日)は、日本陸軍の軍人。陸士旧9期、陸大9期。栄典は従二位勲一等功三級、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)。最終階級は陸軍大将。 大村藩士・福田市兵衛の二男として現在の長崎県大村市で生まれる。大村中学校、有斐学舎を経て、1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、歩兵少尉任官、歩兵第3連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(9期)を卒業。 日清戦争には第1師団副官として出征。参謀本部第2局員、ドイツ留学、1900年(明治33年)12月30日、独国から帰国した(少佐)。
村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月… 村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月25日) - 1921年(大正11年)5月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 尾張国丹羽郡小折村(のち愛知県丹羽郡布袋町、現・江南市)出身。漢学を学ぶ。実業界に身を投じ、愛北物産(資)社長、名古屋米商会所肝煎、(株)鉄道車両製造所取締役、(株)名古屋商品取引所理事長、(株)丹葉銀行副頭取、丹羽郡所得税調査委員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知4区から無所属で立候補して当選する。1898年8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉俱楽部公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙で落選した。
三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5… 三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎
9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月… 9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月7日(安政5年5月27日)- 1910年(明治43年)1月16日)は、明治期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。通称・三左衛門桃渓。 下総国葛飾郡流山村(千葉県東葛飾郡流山町流山、江戸川町、流山町を経て現流山市流山)で、味醂(みりん)醸造業・8代秋元三左衛門の息子として生まれる。伊藤長有などから和漢学を学び、小学校普通小学科を卒業。1875年(明治8年)7月に上京し、亀田保、島田重礼などに漢学を学んで、1880年(明治13年)3月に帰郷した。家業の「天晴味醂」(あっぱれみりん)として知られた味醂醸造業を継承した。その他、八十四銀行頭取、宝酒造監査役などを務めた。