川口 陸男(かわぐち むつお、1922年5月8日 - 197… 川口 陸男(かわぐち むつお、1922年5月8日 - 1979年1月13日)は、日本の経営者。日清製油(現在の日清オイリオグループ)社長を務めた。 神奈川県横浜市出身。1948年に横浜工業専門学校電気工学科を卒業し、同年に[[]]に入社。1971年5月に取締役に就任し、1973年に常務、1974年に専務を経て、1977年2月に社長に就任。 1979年1月13日、肝硬変のために在任中に死去。56歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
杉浦 守邦(すぎうら もりくに、1921年5月8日 - 20… 杉浦 守邦(すぎうら もりくに、1921年5月8日 - 2015年12月4日)は、日本の医師、医学史家、山形大学名誉教授。位階は従四位。 1945年、京都府立医科大学卒。1955年、「教職員結核の疫学的研究」で同大医学博士。同大学助手、滋賀県教育委員会学校衛生技師、山形県教育委員会学校保健課長。1965年、山形大学教育学部教授。1969年から1981年まで、同大学保健管理センター所長。1987年、定年退官、名誉教授、京都蘇生会総合病院副院長、2004年、同名誉院長。 1996年に勲三等旭日中綬章を受けた。 『江戸期文化人の死因』で、間宮林蔵の死因を梅毒と推定した。
山田 修(やまだ おさむ、1921年〈大正10年〉5月8日 … 山田 修(やまだ おさむ、1921年〈大正10年〉5月8日 - 2017年[要出典])は、日本の教育者、教育評論家。 群馬県多野郡藤岡町(現:藤岡市)出身。農家の二男として生まれる。 美土里小学校尋常高等小学校卒業後、高津仲次郎の設立した多野実業公民学校に入学し農業や養蚕を学ぶも月謝が払えず2年で中退、月謝が不要な熊谷陸軍飛行学校に入り、1938年卒業後は教官を打診されていたが、中国戦線を志願し、41年まで北京の南苑飛行班に属した。整備班長はのちに東大野球部監督となる神田順治中尉だった。乗機は九七式軽爆撃機や九七式重爆撃機で、上海や南京とを行き来して内地から送られてきた機体の回送を任務としており、南寧作戦では物資輸送に従事したこともある。
河村 章(かわむら あきら、1920年5月8日 - )は、福… 河村 章(かわむら あきら、1920年5月8日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
籾山 政子(もみやま まさこ、1918年〈大正7年〉5月8日… 籾山 政子(もみやま まさこ、1918年〈大正7年〉5月8日 - 1989年〈平成元年〉4月11日)は、日本の科学者、医学地理学者、生気象学者。医学地理学の草分けとされ、病気の多発時期をグラフ化した「季節病カレンダー」の作成者として知られており、疾病と季節と地理の因果関係を追求することで、新しい研究分野を開拓した人物である。籾山姓は出生名であり、結婚後の本名は坂元政子。 東京府東京市(現・東京都区部)で出生した。東京府立第五高等女学校から日本女子大学校英文科に入学、元来の地理好きに加えて、女学校の地理教員の影響を受け、その後の方針が地理学に定まった。大学の公開講座で、前もって用意していた質問を講師にぶつける熱心さで、東京帝国大学の研究室で学ぶ異例の許可を得た。
市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 198… 市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 1986年11月18日)は、日本の都市計画家、教育者。工学博士。建築行政官、戦後は日本大学教授として、商業地の研究のほか都市計画調査や計画立案基礎づくりにつとめるほか、都市計画分野の人材育成に当たった。 中央建築士審査会試験委員のほか、日本建築学会では関東支部長、評議員、文献委員会委員長、総務理事、副会長、建築学大系編集委員、そのほか日中建築技術交流会常務理事、学校施設基準規格調査会専門委員、日本都市計画学会評議員などを歴任した。
山田 尚達(やまだ なおみち、1915年(大正4年)5月8日… 山田 尚達(やまだ なおみち、1915年(大正4年)5月8日 - 2014年(平成26年)1月21日)は日本の小児科学者、北海道大学名誉教授、北星学園大学文学部教授、北海道公安委員会委員長、医学博士。 東京都出身。趣味は陸上競技・音楽・登山。 1939年(昭和14年)東京大学医学科卒業。1954年(昭和29年)信州大学教授、1959年(昭和34年)北海道大学教授、1979年(昭和54年)同大学名誉教授、同年、北星学園大学教授。 2014年1月21日、急性心不全のため札幌市の病院で死去、98歳。 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
浅井 太郎(あさい たろう、1914年5月8日 - 没年不明… 浅井 太郎(あさい たろう、1914年5月8日 - 没年不明)は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)。
上田 稔(うえだ みのる、1914年5月8日 - 2011年… 上田 稔(うえだ みのる、1914年5月8日 - 2011年9月17日)は、日本の官僚、政治家及び技術士(建設部門)。京都府京都市出身。自由民主党参議院議員(4期)。京都帝国大学工学部卒業。1986年、勲一等瑞宝章受章。従三位。
桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1… 桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)。日本映画データベースにおける「柱章太郎」は、単純な誤記である。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した。 1914年(大正3年)5月8日、東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に入社する。
林 大 (はやし おおき、1913年5月8日 - 2004年… 林 大 (はやし おおき、1913年5月8日 - 2004年3月30日) は、日本の国語学者。国立国語研究所所長、国語学会代表理事などを務めた。 林古渓の長男として、東京市に生まれた。1934年に浦和高等学校を卒業し、東京帝国大学に入った。文学部国文学科で橋本進吉に師事し、1937年に卒業した。 1946年に文部省教科書局嘱託となる。1949年からは、国立国語研究所と文部省調査普及局国語課に兼務した。1960年には国立国語研究所第一研究部部長、1966年には同第四研究部部長に任ぜられた。 1967年からは文部省初等中等教育局視学官、1972年からは同主任視学官として、学年別漢字配当表および学習指導要領国語科編の改訂にたずさわった。
目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002… 目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1937年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、東洋紡での勤務を経て、1944年9月に東洋ゴム工業に入社。1959年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1977年5月に会長に就任し、1983年6月には相談役に就任。 1977年に紺綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1… 李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1月3日)は、日本の実業家である。三亜薬品工業(現在の日本ベーリンガーインゲルハイム)創業者・社長、東亜興行創業者・社長。東京韓国商工会議所初代会長、在日韓国商工会議所初代会長を歴任した。日本名は高橋 康友(たかはし こうゆう)、おもに映画界では日本名を名乗った。大韓民国勲章(朝鮮語版)冬柏章受章者。 1913年(大正2年)5月8日、日本統治時代の朝鮮・慶尚南道昌原郡東面(現在の大韓民国慶尚南道昌原市義昌区東邑)に生まれる。 長じて東京に移住し、星薬科大学を卒業する。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後も東京に残り、翌1946年(昭和21年)には、中野区鷺宮に三亜薬品工業株式会社を設立、胃腸薬「イモール」の製造販売を行った。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月8日 - 2003年〈平成15年〉7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、外務大臣(第106代)、建設大臣(第41代)、国土庁長官(第6代)、農林大臣(第44代)、通産大臣(第23-24代)、自由民主党政務調査会長(第20・25代)、自由民主党幹事長(第21・22代)。日蓮宗全国檀信徒協議会会長。位階は従二位、勲等は勲一等。 商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを歴任した櫻内幸雄は父、中国電力会長を務めた櫻内乾雄は兄にあたる。 東京生まれ。幼稚舎から慶應義塾に学び、慶應義塾大学経済学部卒業、鐘紡に入社する。
古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 201… 古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 2011年8月22日)は、日本の倫理学者、歌人。東京大学名誉教授、国際武道大学名誉教授。日本弘道会元副会長。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月8日 - 2003年(平成15年)7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、通産大臣、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自由民主党幹事長などを歴任。元日蓮宗全国檀信徒協議会会長。従二位勲一等。
池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年(明治44年)5月8… 池田 芳蔵(いけだ よしぞう、1911年(明治44年)5月8日 - 2001年(平成13年)8月13日)は、日本の実業家。兵庫県出身。大英帝国勲章KBE。 三井物産の社長・会長、日本放送協会(NHK)の会長を歴任した。 神戸二中、旧制第三高等学校を経て1936年に東京帝国大学経済学部卒業。中学から大学まで野球部に所属。 1936年に三井物産に入社し、食料部門を歩む。穀物油脂部長、1954年-1958年ニューヨーク支店次長、1961年-1963年台北支店長、1963年-1965年ロンドン支店長、1965年-1967年取締役ロンドン支店長、1967年業務部長、1968年常務取締役、1971年副社長を経て、1973年社長、1979年会長に就任し、1982年退任。
斎藤 恒行(さいとう つねゆき、1910年〈明治43年〉5月… 斎藤 恒行(さいとう つねゆき、1910年〈明治43年〉5月8日 - 1984年〈昭和59年〉11月9日)は、日本の水産学者。魚の鮮度判定指標(k値)の開発者。日本における水産科学、特に水産食品化学の権威として知られ、魚の鮮度・旨みの化学的分析に大きな功績を残した。理学博士。 1910年(明治43年)、群馬県伊香保町(現・渋川市)に生まれる。群馬県立渋川中学(現在の群馬県立渋川高等学校)、旧制成城高等学校を経て、1935年(昭和10年)北海道帝国大学理学部化学科を卒業。北大では田所哲太郎に師事。 北海道大学講師、助教授を勤めたのち、1951年(昭和26年)に北海道学芸大学教授に就任。1953年(昭和28年)に北海道大学水産学部教授となる。
栗原 俊夫(くりはら/くりばら としお、1909年〈明治42… 栗原 俊夫(くりはら/くりばら としお、1909年〈明治42年〉5月8日 - 1989年〈平成元年〉1月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、群馬県議会議員(2期)、群馬県多野郡小野村長。日本社会党所属。囲碁4段、将棋3段、柔道3段。妻は1932年のロサンゼルスオリンピックに陸上競技80メートルハードルで出場した中西みち。 1909年(明治42年)、群馬県多野郡小野村(現・藤岡市)の農家に、栗原徳次郎・タカの長男として生まれる。群馬県立藤岡中学校、旧制藤岡高等学校を経て1932年(昭和7年)京都帝国大学(京都大学)法学部を卒業。 一時天龍・大ノ里の新興力士団に勤め、その後大阪時事新報社に入社し経済記者として活動した。
福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1… 福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1月11日)は、日本の社会運動家、著述家。兵庫県出身。東京女子大学中退。旧姓は波多野、是枝。 1907年、大浦事件の裁判長を務めた波多野高吉と高等女学校教師はまの間に生まれた。1924年、北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会を結成し、女子学生運動を指導した。 1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長だった是枝恭二と結婚。翌年、三・一五事件で検挙された。1934年2月、治安維持法再犯として起訴され、服役した。 戦後は1955年に日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。
申 奎植(シン・ギュシク、朝鮮語: 신규식、1907年5月8… 申 奎植(シン・ギュシク、朝鮮語: 신규식、1907年5月8日または1910年 - 2003年6月10日)は、大韓民国の官僚、政治家。第3・4代韓国国会議員。 本貫は高霊申氏(朝鮮語版)、号は雪巌。儒教の信者。 全羅北道(現・全北特別自治道)扶安郡舟山面出身。福知中学校、早稲田大学専門部政経科卒。米軍政庁農務部農産局総務課長・農産局副局長・農経局農政課長、内務部長官秘書室長、国防部長官高級副官・秘書課長、関税庁長、除隊将兵補導会(現・韓国在郷軍人会)副会長、中央管財庁長署理、三南中学校(朝鮮語版)校長、第4代国会農林委員長を務めた。 2003年6月10日、老衰により死去。享年101。 2003年に死去した時点で生存中の議員経験者のうち最高齢であった。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。
門叶 宗雄(とが むねお、1906年5月8日 - 1969年… 門叶 宗雄(とが むねお、1906年5月8日 - 1969年12月4日)は、日本の内務・防衛官僚。官選最後の島根県知事、警視総監、防衛事務次官。旧姓・川村。位階は従三位。 秋田市出身。秋田藩士の川村宗治の二男として生まれ、母方の門叶家を継承した。奉天中学校、弘前高等学校 (旧制)を経て、1930年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年10月、高等試験行政科試験に合格。1930年5月、内務省に入り京都府警部補として警察部警務課に配属された。 1932年1月、京都府警察部特別高等警察課に勤務。以後、京都府属・内務部地方課勤務、佐賀県警察部特別高等警察課長、静岡県警察部刑事課長、内務事務官・警保局勤務、内閣情報部情報官、情報局第四部第一課勤務、内務大臣秘書官兼内務事務官、警保局警務官、山梨県書記官・警察部長、茨城県部長・経済部長、同県部長・警察部長、内務省警保局警務課長、同経済保安課長などを歴任し、終戦を迎えた。
市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年… 市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年)5月8日 - 1978年(昭和53年)1月15日)は、歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分する剣劇俳優であった。戦後は芸名を百々木 直(ももき なお)と名乗った。本名は上田 直正(うえだ なおまさ)。 広島県広島市に生まれる。 1911年(明治45年)、『近江源氏戦陣館』の小四郎で初舞台を踏む。12歳のとき、市川中車の門下となりちんこ芝居(小青年歌舞伎)の一座を組織して各地を巡業、葉村屋一派、中村扇雀一座などにも加入出演した。 1922年(大正11年)9月、17歳のときに、帝国キネマ演芸(帝キネ)小坂撮影所へ入社、同年、中川紫郎監督の『異端者の恋』や『大江戸の武士』に出演し、映画俳優としてデビュー。
櫻内 乾雄(さくらうち きみお、明治38年(1905年)5月… 櫻内 乾雄(さくらうち きみお、明治38年(1905年)5月8日 - 昭和52年(1977年)4月3日)は、日本の実業家。中国電力会長を務めた。 父は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを務めた櫻内幸雄。弟は衆議院議長を務めた櫻内義雄。 東京市芝区に生まれる(島根県能義郡広瀬町(現安来市)出身)。櫻内家は旧藩時代、広瀬藩士として松平家に仕えた武士の家系だった。曽祖父の四郎左衛門以前の系譜については、明らかでない。四郎左衛門の役は側用人であり、理財の道に長け、広瀬藩の財政経済については、もっぱら指導的な役割を担当した。 明治中学校(明治大学付属明治高等学校・中学校)、静岡高等学校を経て昭和5年(1930年)、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し大学院に入る。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 20… 川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 2005年1月23日)は、日本の公衆衛生学・健康学者。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館理科乙類を経て、1931年京都帝国大学医学部卒業。1935年「晝光照明学の根本命題」で京大医学博士。京都市立衛生試験所、京都大学教養部助教授、教授、1970年定年退官、名誉教授。京都府衛生研究所長。京都栄養学院長。日本水質保健研究所所長。日本生活医学研究所所長。1977年勲三等旭日中綬章受章。長命を保ち多くの一般啓蒙書を著した。体育生理学の研究の一環として「どうすれば身長は伸ばせるか」を研究し、発育開発協会より通信教育講座「川畑式背伸び法」を開講した。
谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年… 谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年1月21日)は、日本の美術史家。日本近世美術史専攻。東京国立博物館勤務。 1905年、三重県安濃郡安西村の素封家・駒田家生まれ。父の姉の家を継ぎ谷家へ養子に入る。第八高等学校卒業後、1930年3月東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、同年4月東京帝国大学文学部副手、1932年7月東京帝国大学史料編纂所嘱託を経て、1942年3月京城帝国大学助教授に任官したが、1946年8月大学廃止により退官帰国した。 引き揚げ後は、1946年より美術研究所研究員、1949年5月東京芸術大学美術学部講師、1952年神戸大学文理学部教授となり、1952~1958年まで東京芸術大学教授を兼任した。
相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986… 相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986年11月7日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 山形県鶴岡市に相良守一の次男として生まれる[要出典]。荘内中学校を経て[要出典]、1925年水戸高等学校理科甲類卒業。1929年東京帝国大学文学部心理学科卒業、同文学部副手。1936年成城高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部心理学科助教授、1952年同教授。1952年『逆向抑制の心理学的研究』で文学博士。1964年定年退官、名誉教授。1964年東京女子大学文理学部教授、1969年同大学退職。このほか、湘南工科大学、文教大学の各教授を務めた。 1961年から1964年まで日本心理学会会長を務める。
松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5… 松本 喜太郎(まつもと きたろう、1903年(明治36年)5月8日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は、大日本帝国海軍の技術大佐。勲四等瑞宝章受章。
吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1… 吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1988年7月28日)は、日本の実業家、政治家、牧師。第二次世界大戦の戦時下で衆議院議員を1期務めたが、政府批判をして投獄された。獄中で聖書に出会い、戦後キリスト教に入信、公職追放に指定されて牧師となった。追放解除後には若松市長となり、5市合併によって北九州市が成立した際には市長職務執行者を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 俠客出身の実業家で、衆議院議員も務めた吉田磯吉の養子として育ち、小倉中学校(後の福岡県立小倉高等学校の前身)、長崎高等商業学校に学んだ。 東京商科大学を卒業後、三菱鉱業勤務を経て、大倉高等商業学校(後の東京経済大学)講師となった。
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5… 西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月8日)- 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 長野県上水内郡古牧村平林(現長野市)出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、松本高等学校理科を経て1923年、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、翌1924年、同大法学部政治学科を卒業。農林省に入り農林属となる。 以後、農林事務官、農林書記官、大阪営林局長、農林省山林局長などを歴任。1944年2月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。農商省農政局長に移り、さらに馬政局長官、農林省開拓局長を務めた。
岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 197… 斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 1970年7月5日 )は、日本の英語学者。福井大学名誉教授。旧姓:菅原 宮城県生まれ。京都帝国大学選科卒業。 愛知県一宮中学校、福井県大野中学校、福井中学校各教諭、小浜中学校長、大野中学校長を経て昭和12年福井高等工業学校講師。24〜34年福井大学教授、同名誉教授。 晩年、東北学院大学教授を務めた。 7〜17年個人雑誌「英語学研究」を発刊、海外の論文を紹介した。 著書「Living English Readers」、「近代英語後期」「双解英和辞典」「米語辞典」「日本語に及ぼしたオランダ語の影響」などがある。福井市名誉市民。
津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1… 津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1979年5月1日)は、日本の技術者。 和歌山県出身。1912年(明治45年)に東京高等工業学校電気科を卒業し、吉村商会、東洋無線電信電話社長、吉村木工所監査役を務めた。 日本で初めて真空管式無線機の実験に成功した。 妻の八重は、共立電機常務取締役を務めた石黒慶三郎の長女。長女は佐治守夫に嫁いだ。
宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
水崎 格(みずさき いたる、1890年(明治23年)5月8日… 水崎 格(みずさき いたる、1890年(明治23年)5月8日 - 1969年(昭和44年)[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。新竹市長。旧姓は高木。 長野県松本市に生まれる。本籍は新潟県高田市。早稲田中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍経理学校を卒業する。同年7月、陸軍主計候補生となり、同12月、歩兵第55連隊に入隊、1912年(大正元年)12月、陸軍三等主計に任ぜられ、1915年(大正4年)予備役に編入した。 1920年(大正9年)4月、第9師団留守経理部勤務、浦塩派遣軍倉庫勤務を経て、1923年(大正12年)台湾総督府財務局主計課勤務に転じる。台北州郡属、府属を経て、1936年(昭和11年)12月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任。
田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日… 田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日 - 1962年(昭和37年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。大阪商船副社長、大阪商工会議所会頭、貴族院勅選議員。 奈良県添上郡奈良町角振新屋町11番地(現奈良市)で、田島基光の五男として生まれる。1913年(大正2年)7月、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 卒業後、宇治川電気に入社した。語学の才があり勧誘を受け、1916年(大正5)12月に大阪商船に転じた。あふりか丸事務員、ロンドン在勤員、ケープタウン在勤員、ニューヨーク支店長を務め、1937年(昭和12年)1月、本社遠洋課長に就任した。1939年(昭和14年)1月、取締役に昇進し、専務取締役を経て、1944年(昭和19年)11月、副社長に就任した。
名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958… 名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958年12月4日)は、日本の実業家。華南銀行総理、台湾銀行東京調査部調査部長・本店調査課長。立教学院財務理事。 1890年(明治23年)、静岡県出身。1914年(大正3年)、立教大学商科(後の商学部)卒業。 大学卒業後、台湾銀行に入行。同行本店調査課長を務める。 1944年(昭和19年)、華南銀行の親銀行である台湾銀行が財務強化のため資本金の増資を行い、華南銀行創設者の一人でこれまで総理を務めていた林熊徴(林本源の子孫)を会長とし、台湾銀行からきた名倉喜作が華南銀行の新たな総理に就任する。2人の常務も台湾銀行出身者となり、台湾銀行による経営の強化が図られた。
太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8… 太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8日 - 1970年(昭和45年)7月4日)は日本の会計学者、公認会計士。一橋大学名誉教授、元・中央大学教授。商学博士(一橋大学)。監査法人太田哲三事務所(EY新日本有限責任監査法人の前身)の創設者で、日本公認会計士協会の初代会長。実業界では長浜ゴム工業(のちの三菱樹脂)社長を2年間務め、その後は三菱化成(三菱ケミカルホールディングスの前身)監査役を最晩年まで務めた。従三位・勲二等瑞宝章。 弟子に番場嘉一郎(一橋大学名誉教授)・黒澤清(横浜国立大学名誉教授)・岩田巌(元一橋大学教授)・不破貞春(元明治大学教授)・飯野利夫(一橋大名誉教授)・山邊六郎(元横浜国立大学教授)・井上達雄(中央大学名誉教授)・新井益太郎(成蹊学園名誉理事、成蹊大学名誉教授)・関口重之(元青山学院大学教授)等がいる。
横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8… 横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8日 - 1974年(昭和49年)7月20日)は、岡山県岡山市旭町出身のジャーナリスト、政治家。岡山新聞社長。旧姓・佐藤。位階は正五位。 1889年5月8日、岡山市旭町に生まれる。佐藤武一郎の二男。1916年、横山家の養子となる。1919年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業、同年、中国民報(現・山陽新聞)へ入社。記者として働く。岡山毎夕新聞、岡山新聞各社長をつとめた。 1921年、岡山市会議員となる。1925年、憲政会岡山支部を創設。その後、市会議長、岡山県会議員を務める。 1951年、岡山市長に当選。1955年まで1期務める。 退任後は、岡山市政顧問、三恵工業会長を歴任した。
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月… 川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県岐阜市生まれ、出生時の本名は中野 隆一(なかの りゅういち)、後に川﨑へ改姓。 岐阜県庁勤務の中野金之助と妻あゆの長男として生まれ、幼少期から母方の祖父である川﨑千虎に大和絵を学び、さらに千虎が佐賀県有田町にあった佐賀県有田陶芸学校の校長になるとその専科で絵画と図案を学んだ。1902年(明治35年)の千虎没後は千虎門下の小堀鞆音に師事し、東京美術学校卒業後は教員を経て創作活動に専念した。 初期には千虎や鞆音の系譜を継ぎ、大和絵を基調とした叙情的な作品を描いたが、次第に人間的な色合いの濃い作風へと変わり、晩年は身近な自然や動物などの素朴な主題を描く。
何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年1… 何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年10月10日)は、日本の中国語学者、アジア主義者、社会活動家、エスペランティスト。 東京大学新聞研究所の所長であった何初彦は長男。 苗字の「何」をもじって、エスペラントで"S-ro Kio"、フランス語で"Monsieur Que"(いずれも英語でいえば"Mr. What"、後者は日本語の「無宿」にも掛けている)と名乗った。 東京府出身。日本の造船学の発展に寄与した海軍軍人の赤松則良の三男として生まれ、後に唐通詞の出身であった何礼之の養孫になっている。1930年には「財政整理ノタメ」何家を離れ、赤松家に復籍した。 学習院中等科・高等科で学ぶ。
桂山 勘五郎(かつらやま かんごろう、1882年5月8日 -… 桂山 勘五郎(かつらやま かんごろう、1882年5月8日 - 1926年8月5日)は、新潟県西頚城郡能生町(現在の糸魚川市)出身で尾車部屋、朝日山部屋、再度尾車部屋に所属した力士。本名は笠原 嘉三(舟三とも)。165cm、79kg。最高位は西前頭6枚目。 入門前は金融業に就いていたが、元大関大戸平廣吉の尾車門人となり、陣立の四股名で1900年5月初土俵。1909年6月十両昇進、1910年1月新入幕。その後1911年10月に大坂相撲に加入したが、復帰して桂山に改名、6枚目まで躍進する。再び陣立に改名したのち、1915年6月を以て廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)… 持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)5月8日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。持永房種の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。 1907年(明治40年)12月、歩兵中尉に昇進し、1913年(大正2年)7月、兵科を憲兵科へ転科し憲兵中尉となる。1914年(大正3年)4月、憲兵大尉、1920年(大正9年)8月、憲兵少佐に進み東京憲兵分隊長に就任。1922年(大正11年)8月、弘前憲兵隊長に就任。
松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月… 松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月8日 - 1904年(明治37年)7月23日)は、詩人、評論家。本名・悟、別名・暗濤蒼浪庵。最初の 「君が代」批判論者として知られる。西川文子の前夫。 1879年(明治12年)、熊本県八代郡高田村(現・八代市平山新町)にて松岡喜三(蔵)の五男(9人兄弟の末子)として生まれる。本名は悟(さとる)。同志社尋常中学校ついで同志社高等学部を卒業し、早稲田大学に入学。北村透谷、田中正造、安部磯雄らの影響を受け、詩や評論を雑誌「社会主義」に発表した。貧困問題、足尾銅山鉱毒事件などに強い関心を持ち、社会主義運動の先駆けとして活動する。1904年(明治37年)、25歳で結核により没した。
永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日… 永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日 - 1955年4月4日)は、大正から昭和前期の新聞記者、教育者、翻訳家。朝日新聞社外報部長。号は朴公。 1879年(明治12年)生まれ。島根県出身。弟の永井瓢斎(本名、栄蔵)も新聞記者、俳人である。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 若い頃に、松江の中学校で英語教師を務めるが、この時の生徒に文部省の国定教科書「サクラ読本」の生みの親である井上赳がいる。 1912年(明治45年)、外務大臣官房報告課嘱託となり、翻訳に務めた。 1914年(大正3年)、東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)に入社し、外報部に所属する。論説班員も兼務し、1924年(大正13年)朝日新聞社外報部長に就任した。
秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日… 和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日)- 1947年(昭和22年)7月30日)は日本の内務官僚、政治家。沖縄県知事、郡山市長、松阪市長。 1872年(明治5年)4月2日、高知県香美郡に生まれる。1899年(明治32年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業し、1901年(明治34年)に文官高等試験に合格する。 内務省に入省。警視庁警部。北海道庁警視、香川県事務官・第四部長、島根県事務官・警察部長、佐賀県事務官・警察部長、大分県・鳥取県・沖縄県内務部長を経て、1921年(大正10年)に沖縄県知事に就任し、1923年(大正13年)に退官する。 1929年(昭和4年)に福島県郡山市長(-1937年(昭和12年))、1937年(昭和12年)に三重県松阪市長(-1941年(昭和16年))を務める。
高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月1… 高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月19日)- 1916年(大正5年)9月24日)は、日本の新派俳優である。 東京の千住の生まれ。初めは鉄道の駅員を務めていたが、後に俳優に転向し芸能界入りし新派に属した。1892年(明治25年)、川上音二郎が創設した一座に入門し、初めて舞台に立つ。1896年(明治29年)には活動の場を大阪に移り、同派の俳優であった喜多村緑郎らと共に「成美団」を結成した事で、一躍有名となった。「角座」や「朝日座」等関西における新派を生み出した。 1904年(明治37年)に東京に戻った後は「本郷座」を創設し、同派の座長となる。高田の演技が特徴を持った事により、庶民からは「新派(新演劇)の團十郎」と呼ばれた。