吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 201… 吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。
8月8日生まれ:316人
吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 201… 吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。
長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年(大正6年)8月8… 長谷川 毬子(はせがわ まりこ、1917年(大正6年)8月8日 - 2012年(平成24年)1月29日)は、日本の画家、イラストレーター、実業家。元姉妹社社長で、長谷川町子美術館では理事長、二代目館長を歴任。 漫画家の長谷川町子は実妹。町子のマネジメントや外部との折衝を一手に担い、町子の死後も『サザエさん』の版権管理に大きな影響力を持ち続けた。 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市東多久町)生まれ。その後福岡市に移り、筑紫女学園を卒業する。卒業後の1934年(昭和9年)、父の死に伴い、家族とともに福岡から東京へ移住。洋画家の藤島武二に弟子入り、川端画塾に通う。 家計を支えるために出版社へ挿絵を持ち込んでいたところ、その絵が菊池寛の目に留まったことで、婦人倶楽部に連載された小説「女性の戦い」(1938年(昭和13年)1月 - 1939年(昭和14年)5月連載)の挿絵を担当。
新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 … 新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 - 1944年〈昭和19年〉7月19日)は、静岡県出身の日本の男子競泳選手。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト、100m自由形銅メダリスト。戦前の日本競泳界を牽引した選手のひとり。1941年に佐藤宣子と結婚したため、自身は「佐藤茂雄」とも名乗っていた。なお2人の間に一女が生まれているが、早世している。 静岡県沼津市出身。静岡県立浜松農蚕学校から立教大学へと進学し、1936年ベルリンオリンピック800メートルリレーで金メダルを、100メートル自由形で銅メダルを獲得した。特に800メートルリレーでは遊佐正憲、田口正治、杉浦重雄とチームを組み、新井はアンカーで泳ぎ2位のアメリカを大きく引き離して8分51秒5の世界新記録をマークするなどの圧勝ぶりでもあった。
吉田 雄三(よしだ ゆうぞう、1916年 <大正5年> 8月… 吉田 雄三(よしだ ゆうぞう、1916年 <大正5年> 8月8日 - 1992年 <平成4年> 1月25日)は、日本の経営者、銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 山形県出身。1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1967年4月に日本開発銀行理事を経て、1973年11月に山陰合同銀行に転じ、副頭取に就任し、1975年12月には頭取に昇格した。1983年6月には相談役に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年1月25日、脳出血のために死去。75歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 20… 宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日 - 2006年3月3日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。
堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 -… 堀内 平八郎(ほりうち へいはちろう、1915年8月8日 - 1997年7月4日)は日本の実業家。浜松ホトニクス創業者。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)出身。旧制中校卒業後、浜松高等工業学校に入学し、高柳健次郎に師事する。1937年に卒業後、テレビジョン研究の実用化のためNHK技術研究所に入所し、太平洋戦争中はテレビジョン技術を軍事に応用した暗視管の研究に従事し、1943年日本電子工業嘱託となり、1945年疎開先の天童で終戦を迎えた。 1947年浜松に戻り、東海電子研究所を設立。1949年東海真空工業を創業して誘蛾灯の点灯管の製造を開始したが、農薬の普及に押されて廃業した。その間、光を電気信号に変える光電変換素子の研究を進め、1953年に浜松テレビを創業し社長に就任、1978年に会長、1980年取締役相談役となり、光電変換素子の世界的メーカーに育て上げた。
天藤 真(てんどう しん、1915年8月8日 - 1983年… 天藤 真(てんどう しん、1915年8月8日 - 1983年1月25日)は、日本の推理作家。本名は遠藤 晋。 東京都生まれ。東京帝国大学国文科卒。同盟通信社記者を経て、戦後は千葉県で開拓農民となる。また千葉敬愛短期大学講師も務める。寡作ながらユーモアとウィットに富んだ文体、状況設定の巧みさと読者の意表を突く展開の作風が特徴的である。現在、ほとんどの作品が創元推理文庫に入っている。 1962年、旧『宝石』に投稿した『親友記』が宝石賞に佳作入選して、作家活動を開始。また同年『陽気な容疑者たち』が第八回江戸川乱歩賞の最終候補となり、大下宇陀児らの推薦を得て翌年刊行に至る。1963年、『鷹と鳶』で第二回宝石賞を受賞。
若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、19… 若松 光一郎(わかまつ こういちろう、本名みついちろう、1914年8月8日 - 1995年11月7日)は、日本の洋画家。コラージュの世界的第一人者。 「大地の歌」。グスタフ・マーラーの「大地の歌」を聞きながら、チベットの古代壁画のイメージで描いた150号超を3枚組み合わせた大作である。 東京国立近代美術館、福島県立美術館、いわき市立美術館、郡山市美術館、そしてアートスペースエリコーナに彼の作品が置かれている。
ジュリアーナ・ストラミジョーリ(Giuliana Stram… ジュリアーナ・ストラミジョーリ(Giuliana Stramigioli、1914年8月8日 ローマ - 1988年7月25日 ローマ) はイタリアの日本学者、実業家。ローマ・ラ・サピエンツァ大学教授。『将門記』の研究者。勲三等宝冠章受章。 1914年8月8日、ローマ生。 1936年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学にて学位取得。指導教官はジュゼッペ・トゥッチ。同年、第一回日伊交換留学生として京都帝国大学に留学し、日本語と仏教美術を研究する。2年後イタリアに帰国し、ナポリ大学にて教鞭を執るが、その1年後に国際文化振興会(国際交流基金の前身)の奨学金を得て再び日本に留学する。 1936年から1940年の間、ジャーナリズムの分野で盛んに活動。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 199… 稲井 好広(いない よしひろ、1911年8月8日 - 1990年4月7日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1938年に京都帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に三菱鉱業に入社。1963年5月に取締役に就任し、1965年8月に常務、1971年に専務を経て、1972年6月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1990年4月7日心不全のために死去。78歳没。
やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8… やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、日本の曲独楽師。本名∶田口 亀次。 群馬県館林市出身。芝居小屋の息子で小さい頃から芸事に親しむ。館林中学中退後、1929年に上京し落語家の5代目柳亭左楽に入門する。はじめは噺家を目指し柳亭女楽を名乗る。 のち噺家の道を断念し曲ごまを独学で学ぶ。素人演芸会に出ていたところプロの目に留まり、1942年、本郷の寄席にやなぎ女楽の名で出演。戦後、米軍キャンプの慰問などで日本各地を回った。1965年から落語芸術協会に所属する。 十八番は「衣紋流し」。貴重な膝替わりの芸人として晩年まで寄席出演をしていた。
杉本 甫(すぎもと はじめ、1910年8月8日 - )は、日… 杉本 甫(すぎもと はじめ、1910年8月8日 - )は、日本の実業家で、市川毛織(現・イチカワ)顧問。東京府(現・東京都)出身。
竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月… 竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月8日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代の競泳選手。水球選手。 中泉農学校卒業、静岡県浜名郡豊西村貴平(笠井町を経て現浜松市中央区貴平町)出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場したが準決勝棄権に終わった。さらに、1932年ロサンゼルスオリンピックでは水球に出場し4位に入賞した。 大学卒業後、中泉農学校の教諭となり、水泳部の強化に尽力した。
植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月… 植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、ジャズ、ミステリー、映画評論家で1970年代・サブカルチャーの旗手だった、通称“J・J氏”。 植草は東京市日本橋区小網町(現・東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年東華小学校に入学。10歳あたりから、姉に連れられ地元の映画館「水天館」に通った。1921年渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年9月1日の関東大震災で被災し、これをきっかけに植草家は没落した。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。
玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8… 玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は、昭和時代の実業家。 清の大連にて玉置準三の長男として生まれる。本籍は佐賀県。旧制佐賀高等学校、1930年に九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社。翌年1931年、三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移る。1946年に工事部長、1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると常務取締役となる。1957年11月、初代社長の大久保繁雄に代わり社長に就任。1970年会長兼務。 安全工学協会(現: 特定非営利活動法人安全工学会)の第2代会長(1967年-1978年)や、化学工学協会(現: 公益社団法人化学工学会)の第16代会長(1967年-1969年)、日本プラントメンテナンス協会の初代会長(1981年)を務めた。
長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1… 長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1998年1月3日)は、日本の実業家。元住友化学会長・社長。
蔵田蔵(くらた おさむ、1907年8月8日 - 1974年1… 蔵田蔵(くらた おさむ、1907年8月8日 - 1974年10月13日)は、日本の美術史学者。 福岡県企救郡西紫村(現・北九州市小倉北区)出身。1932年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業して引き続き大学院に進み、1934年に同大学院を修了する。 東京帝室博物館の研究員となり、仏教考古学、金工史を専攻した。1938年に鑑査官補となり、列品課に勤務した。 1945年高松宮家御用掛となるが、1946年博物館(その後国立化に伴い東京国立博物館になる)に戻り、1955年には工芸課長、1964年には学芸部長を歴任した。1965年奈良国立博物館館長に就任、死去まで勤務した。[要出典] この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8… 池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8日-1943年(昭和18年)11月27日)は昭和初期の音楽ディレクター、作曲家。38歳で亡くなるまでの僅かな期間であったが、戦前の日本歌謡史に残る抒情的な佳曲を多数残した。その作風はクラシックや海外の音楽を積極的に取り入れたものであり、ワルツやタンゴを好み、編曲も自らによるものが多い。ペンネームは原野為二、金子史郎、池上敏夫などがある。 1905年(明治38年)8月8日、佐賀県に生まれる。祖父は佐賀(鍋島)藩医の池田陽雲、父は蘭学者・医者・技術者の池田陽一。 佐賀県立佐賀中学校(現:佐賀西高等学校)を卒業し上京、東京高等音楽学院(現:国立音楽大学)にて矢田部勁吉、片山禎太郎に師事し、声楽を専攻。
森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12… 森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12月14日)は、日本庭園の研究者、作庭家。庭園研究家。『作庭記』など古文献の研究と、桂離宮や修学院離宮など多くの日本庭園における実地測量や発掘調査を組み合わせて、研究や庭園の復元整備に取り組んだ。旧大乗院庭園にかかる朱塗りの反橋、日本最古の人工滝である法金剛院の青女瀧などは、森が時代考証や現地調査を経て復元した。法華寺「仔犬の庭」や慈光院の新書院庭園など、古風な作庭も自ら手掛けた。 東京府北多摩郡立川村(現・東京都立川市)生まれ。1932年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。在学中は、田村剛の造園学の講義を聴き造園研究の道に進むことを決める。
古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 -… 古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 - 1997年(平成9年)5月5日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田町長、久保田町名誉町民。位階は従五位。 佐賀県 佐賀郡久保田村久富(久保田町久富を経て現佐賀市久保田町久富)で、古賀銀三郎、トクの長男として生まれる。1917年(大正6年)久保田村立新田尋常小学校卒業。1921年(大正10年)佐賀県立佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)4年を修了し、佐賀高等学校に入学。1924(大正13年)同校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。1928年(昭和3年)同大経済学部を卒業。 卒業後、久留米歩兵第48連隊に入隊し、1929年(昭和4年)に除隊して農業に従事した。
町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年… 町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年10月12日)は、日本の都市計画家、土木技師。第二次世界大戦後の戦災復興都市計画事業や首都建設委員会事務局長として一時期、東京の首都高の計画にも関わる。山口県旧徳山市出身。 旧制山口高等学校理科甲類をへて、1926年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市を経て、1928年(昭和3年)、内務省に入省。大臣官房都市計画課技手から都市計画地方委員会福岡地方委員会技師。その後新設の都市計画局から防空総本部技師を経て、1945年から戦災復興院土地局工務課長。戦災復興都市計画では出身の徳山市に派遣され、指導助言。後1963年にも市長から依頼で、周南団地建設のための「周南住宅地区開発基本計画」作成調査委員会委員長就任している。
三池山 大五郎(みいけやま だいごろう、1903年8月8日 … 三池山 大五郎(みいけやま だいごろう、1903年8月8日 - 1951年3月22日)は、昭和時代の大相撲力士。陸奥部屋所属。本名は松井 善次。最高位は十両9枚目。 福岡県大牟田市出身。陸奥部屋に入門し、1922年5月、「葉颪」の四股名で初土俵を踏む(のち「三池山」に改名)。1928年1月十両に昇進。この場所は2勝8敗1分と負け越した。昭和初期は東京場所と地方場所とで別々に番付が作成されたため、三池山の場合、東京場所では成績が良い反面、地方場所では不振となり、十両に昇進した次の場所の1928年3月では三段目の地位にあった。十両は在位1場所で終わり、復帰することはなかった。1930年10月に廃業。
加藤 康司(かとう やすし、1903年8月8日 - 1978… 加藤 康司(かとう やすし、1903年8月8日 - 1978年2月4日)は、日本の校閲者。 愛知県西加茂郡高橋村(現・豊田市)出身。1926年名古屋新聞(中部日本新聞)に入り、1928年朝日新聞に入って東京本社校閲部次長、1949年出版校閲部長から文芸春秋の出版物校正を担当するなど「校正の神様」といわれた。
佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 200… 佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 2000年3月31日)は、日本の植物学者。佐竹氏一門の佐竹南家第19代当主、男爵。湯沢市名誉市民。日本高山植物保護協会会長。 1902年、秋田県で佐竹南家の佐竹義雄の次男として生まれた。旧名は佐竹義宏。次男であったため、はじめ早川家の養子となったが、兄の義質の急死に伴い佐竹南家の当主となり、男爵位を継承した。 秋田県立橫手中学校(現、秋田県立横手高等学校)を経て、東京帝国大学(現、東京大学)理学部に進む。東京大学に学位論文「Boehmeria japonica (日本産やぶまを屬)」を提出して理学博士号を取得。大学卒業後は東京科学博物館 (現:国立科学博物館) の植物研究部長に就任した。
河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日… 河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日 - 1973年(昭和48年)6月7日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県君津郡上総町(現・君津市)出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。 1929年、姫路市の私立亀山高等女学校教諭に就任。その後、帝国女子専門学校、同附属日本高等女学校教諭に転じた。1940年(昭和15年)東京府立第八中学校教諭に就任し終戦を迎えた。 戦後、労働運動に加わり、東京都教職員組合協議会委員長、教員組合全国連盟委員長、教職員適格審査委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)し、1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬したが落選し、参議院議員に1期在任した。
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 … 佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海兵50期・海大32期。帝国海軍での最終階級は海軍大佐。自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。 現在の愛媛県新居浜市で出生。父は教員・佐薙喜志太。1919年(大正8年)3月、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業(50期。卒業席次は19位)。 1923年(大正12年)9月、海軍少尉に任官。1925年(大正14年)12月、海軍中尉。1926年(大正15年)3月、第4期偵察学生。
気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 … 気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 - 1958年(昭和33年)3月24日)は、日本のキリスト教神学者、牧師、青山学院大学学長。 1901年8月8日、静岡県引佐郡気賀町に、気賀定吉・すみ子の長男として生まれた。気賀小学校、静岡県立浜松第一中学校で学んだ。1916年1月7日に日本基督教団浜松教会にて鵜飼捨吉牧師より洗礼を受け、1919年4月、青山学院神学部に入学。1923年5月、第1回全国学生英語演説大会に青山学院代表として出場し、第1位となった。 1924年3月に青山学院を卒業し、同年4月から本郷中央教会の副牧師となる。1925年4月から日本メソヂスト小樽教会の牧師、1927年4月から日本メソヂスト浅草教会の牧師、1928年4月から日本メソヂスト銀座教会の副牧師を務めた後、同年同月より青山学院神学部の講師となった。
笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月… 笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月8日 - 1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県出身。1928年(昭和3年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 卒業後は東京市牛込区役所に勤務し、書記、社会課、福利課各主任となり、1935年(昭和10年)に退職し、弁護士の業務に従事。社会大衆党新潟県連合会執行委員、全国農民組合新潟県連合会執行委員、日本農民組合新潟県支部連合会書記長などを務めた。その他、新潟県地方通貨安定推進委員会長、新潟県地方労働委員会長、新潟市教育委員、新潟県弁護士会長、日本弁護士連合会理事、同副会長、新潟県市町村教育委員連合会長などを務めた。
倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 197… 倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 1976年5月2日)は、日本のドイツ語学者。成蹊大学名誉教授。中国文学者の倉石武四郎の弟でもある。
大泉 兼蔵(おおいずみ けんぞう、1898年8月8日 - 没… 大泉 兼蔵(おおいずみ けんぞう、1898年8月8日 - 没年不明)は、日本の社会運動家。 新潟県西蒲原郡燕町(現燕市)仙木の貧農の長男に生まれた。小学校卒業後農業に従事。小作農の貧しさから1920年春、仙木に農民組合を組織、1921年日本農民組合(日農)関東同盟に加盟、同組合仙木支部員、新潟県連合会執行委員として農民運動で活動。1925年全日本無産青年同盟と労働農民党に加入。1927年12月、オルグとして新潟に来ていた河合悦三の勧めで日本共産党に入党、中越地区細胞に所属。1928年、三・一五事件で検挙されたが党員であることが発覚せず約1か月で釈放された。のち上京し、1929年2月頃からしばらく自由労働者集団の中に入っていた。
伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - … 伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - 1967年11月6日)は、日本の実業家。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1922年慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。 大同電力に入社。天竜川電力、矢作水力、矢作工業、昭和曹達の各理事を歴任。1943年7月鶴見曹達専務、1948年日東味の精社長、1952年2月東亞合成化学工業常務、1954年東北化学工業社長を経て、1958年鶴見曹達および東亞合成化学工業の社長に就任する。 1959年矢作製作所取締役、1960年寺岡製作所会長、1963年日本アクリル化学社長、東海興業監査役も務めた。 1964年藍綬褒章受章、1966年勲三等に叙せられる。
遠藤 永次郎(えんどう えいじろう、1895年8月8日 - … 遠藤 永次郎(えんどう えいじろう、1895年8月8日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。陸軍技術少将。工学博士。専門は燃料学、造兵学。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館、1918年7月第五高等学校工科を経て、1921年3月九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 1921年6月、陸軍工兵中尉任官。1935年1月、論文「発動機燃料ノ「ノツキング」性及防止ニ関スル研究」により工学博士の学位を得る。1939年8月陸軍航空兵大佐に累進。1940年12月陸軍航技大佐に転科し、1941年7月陸軍燃料廠廠員となる。1944年3月陸軍航技少将に累進し、同月、陸軍燃料廠が改組された陸軍燃料本部の陸軍燃料技術研究所所長に就任。
相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年… 相羽 有(あいば たもつ、1895年8月8日 - 1979年4月6日)は、日本の民間航空業及び自動車業の草分けとして活躍した実業家。1916年(大正5年)羽田の地に日本飛行学校を設立し、後の東京国際空港(羽田空港)の礎を築いた。通称・羽田の父。 日本最初期の自動車学校も開設しており、日本のスチュワーデス(エア・ガール)の生みの親としても知られる。 1895年(明治28年)8月に栃木県宇都宮町伝馬町の呉服商相瀬屋・相羽正吉の四男として生まれる。家は裕福だったが4歳で父を、5歳で母を亡くし、伯父の田中千代吉に養育された。 小学生の頃にはライト兄弟初飛行のニュースに大きな衝撃を受ける。その後、宇都宮商業学校を中途退学し、横浜にあった英国人学校のフェアモント・アカデミーに入学。
岩崎 民男(いわさき たみお、1894年(明治27年)8月8… 岩崎 民男(いわさき たみお、1894年(明治27年)8月8日 - 1978年(昭和53年)1月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。農業・岩崎孝の長男として生まれる。萩中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1926年(大正15年)3月、陸軍兵器本廠付となり陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。1929年(昭和4年)3月、陸軍技術本部付兼陸軍省官房付に発令され、兵器本廠付(陸軍省調査班)に転じた。
原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971… 原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971年2月3日)は、日本の歌人、小説家。 長崎県生まれ、大村中学校卒業、第一高等学校中退、東京外国語学校イタリア語専修を経て、1920年早稲田大学英文科卒。吉江喬松、島崎藤村に師事し、歌人、詩人となる。近代琵琶作詞、小説一編のほかイタリア文学の翻訳もある。
木下 源吾(きのした げんご、1891年〈明治24年〉8月8… 木下 源吾(きのした げんご、1891年〈明治24年〉8月8日 - 1965年〈昭和40年〉11月26日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 北海道出身。明治大学専門部中退。第7師団の御用商人としてシベリアに渡り、後に新聞記者となる。1925年、政治研究会旭川支部の結成に参加。1926年、旭川市会議員。労働農民党、社会大衆党の中央委員を経て、1945年、日本社会党初代北海道委員長に就任。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙で北海道選挙区から出馬して当選(任期3年)し、1950年の参院選でも再選されたが、1956年の参院選では社会党の公認争いから社会党道本部から除名処分を受けながら再選を目指すも落選に終わった。
務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974… 務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974年7月5日)は、日本の哲学者。東京教育大学名誉教授。位階は従三位。 台北帝国大学教授、東京文理科大学(後の東京教育大学)教授、同大学長。学長と桐朋学園理事長・校長を兼務、その後慶應義塾大学教授などを歴任。 京都帝国大学在学中に西田幾多郎に師事し、留学中にはフッサールからも哲学を学んだ。西田門下ではあるが、京都学派とも西田左派とも一線を画し、独自のヒューマニズム哲学を展開する。一方、京都大学教授・上原麻有子が代表を務めるサイト「京都学派アーカイブ」では、「西田・田辺に学びながら独自の思想を育み、時には師に影響を与えることもあった」ことから、務台は京都学派の一員として紹介されている。
3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、… 3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、1890年〈明治23年〉8月8日 - 1949年〈昭和24年〉9月11日)は、日本の実業家、政治家、群馬県多額納税者。貴族院議員。群馬県新田郡太田町会議員。従五位勲二等。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)出身。1917年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。 1926年、家督を相続し前名・直一から名を改め、三代目澁澤金蔵を襲名した。太田町会議員となる。 1937年、鉄道大臣秘書官に任ぜられた。金融業を営み、金山図書館長、太田織布、新田銀行、上毛実業銀行、群馬中央銀行、太田建物、同電気館、同合同運送等諸会社重役であった。また富士産業取締役を務めた。
佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 … 佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級 鹿児島県桑原郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第23期卒業。青島の戦いに従軍し戦傷を受けた。1937年(昭和12年)7月20日に歩兵第80連隊補充隊長に就任し、11月1日に陸軍歩兵大佐に進級。1938年(昭和13年)5月に歩兵第23連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団)に転じ、日中戦争に出動。武漢作戦では漢口に一番乗りの戦果を挙げ、岳州を根拠地として贛湘作戦などにも参加した。1940年(昭和15年)8月1日に熊本陸軍教導学校長に転じた。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
春日 弘(かすが ひろむ、1885年(明治18年)8月8日 … 春日 弘(かすが ひろむ、1885年(明治18年)8月8日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現・山ノ内町)出身の日本の実業家。 住友本社理事、取締役。住友金属工業初代社長。ダイキン工業初代会長。JOC日本オリンピック委員会委員。1964年東京オリンピック大会組織委員会委員及び同財務委員。日本陸上競技連盟2代目会長。ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督。ローマオリンピック日本選手団長。大阪府公安委員長。正四位勲二等瑞宝章。国際陸連IAAF功労賞。 長野県会議員(第1回県議選から第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の長男として生まれる。春日与市は、約12キロに及ぶ引き水工事である屏風堰を松代藩に一切費用を頼らず自己・有志資金のみで建造 した北信濃の名士で、その長男の春日喜一郎の代では、所有する田畑は60町歩(180000坪)、山林は現在の佐野の8割に達していた。
櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880… 櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。 石川県鳳至郡柳田村(現:鳳珠郡能登町)で桜井源次の長男として生まれる。1911年3月、早稲田大学政治経済学科を卒業。1915年4月、日本タイプライター株式会社(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント)を創立し常務となる。その他、北陸毎日新聞社長・副社長、北日本耐火煉瓦社長、日本観光社長などを務めた。 1913年7月から1915年4月まで石川県会議員となる。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙に石川県郡部区から立憲同志会に属して出馬し当選。
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879… 寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、18… 真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。X線に「レントゲン」の名を初めて使用し日本に定着させたことでも知られ、医聖(いせい)と呼ばれた。族籍は東京府士族。 愛媛県新居郡大町村(現・西条市大町)に生まれる。真鍋虎吉の長男。1882年(明治15年)、家督を相続した。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現・松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。
中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 … 中村 税(なかむら みつぐ、明治9年(1876年)8月8日 - 昭和40年(1965年)11月26日)は、日本の実業家。元小松製作所代表取締役社長。俳優の中村伸郎は養子。 宮城県遠田郡涌谷町出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、日本郵船に入社。日本郵船ロンドン支店長、猪苗代水力電気調度課長、東京電燈役員などを経て、戦後恐慌下で経営再建にあたるため、小松製作所專務取締役に招聘され、1934年から小松製作所社長。1946年から小松製作所会長。 俳優の中村伸郎は養子。
丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872… 木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872年8月8日) - 昭和23年(1948年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)出身。上田甚助の長男として生まれ、木村家の婿養子となった。東京法学院(現在の中央大学)で学び、雑誌「濃州」を発刊した。のち日刊に改め、美濃新聞社、美濃大正新聞社の経営にあたった。大垣町会議員、安八郡会議員、大垣市会議員、大垣市会副議長、岐阜県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。