佐藤 タツエ(さとう タツエ、1933年〈昭和8年〉11月1… 佐藤 タツエ(さとう タツエ、1933年〈昭和8年〉11月10日 - 2003年〈平成15年〉12月31日)は、日本のアイヌ文化伝承者。かつて東京都に存在したアイヌ料理専門店「レラ・チセ」の元店長。継父は同じくアイヌ文化伝承者の山本多助。 北海道帯広市で、アイヌ民族として誕生した。幼少時に父が死去し、母の再婚相手が山本多助であった。 離婚後に仕事を求めて、1964年(昭和39年)に上京。北海道には各地にあった生活館のような拠り所が関東にはなかったことで、アイヌの権利回復を目的とし、東京周辺のアイヌたちと共に、1973年(昭和48年)に「東京ウタリ会」、1980年(昭和55年)に「関東ウタリ会」を結成した。
萱島 興三(かやしま こうぞう、1932年(昭和7年)11月… 萱島 興三(かやしま こうぞう、1932年(昭和7年)11月10日 - 2018年(平成30年)6月)は、昭和から平成時代の計算機科学者、実業家。 1955年(昭和30年)京都大学工学部電気工学科を卒業後、日立製作所に入社する。 入社後約1年間、推計学やORの研究に従事したのち、上司の高田昇平、島田正三らの下でパラメトロンを使った電子計算機HIPAC MK-1の開発を行い、1957年(昭和32年)12月にこれを完成させた。その後、日立製作所戸塚工場へ異動し、1962年(昭和37年)8月にコンピュータ事業部が設立されるとHIPAC 101、103の製品化を指揮した。また、RCA/Spectra 70シリーズの国産化、Spectra 70/35 (HITAC 8300) の共同開発、高橋茂の下でHITAC 8000シリーズの事業化などに貢献した。
渡辺 直彦(わたなべ なおひこ、1931年11月10日 - … 渡辺 直彦(わたなべ なおひこ、1931年11月10日 - 2002年5月14日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所教授。文学博士。専門は日本古代史。 広島県出身。1958年、國學院大學文学部史学科を卒業、1963年、國學院大學大学院文学研究科を単位取得し、國學院大學文学部助手に着任。同年、東京大学史料編纂所に転任し、1979年助教授、1982年教授、『大日本史料』第2編の編修に従事した。1985年に史料編纂所を退職後は、駒澤大学文学部教授を1996年に退職するまでつとめた。 主著である『日本古代官位制度の基礎的研究』によって、1973年に國學院大學より文学博士の学位を取得、また三矢博士記念賞を受賞した。
斉藤 忠利(さいとう ただとし、1930年11月10日 - … 斉藤 忠利(さいとう ただとし、1930年11月10日 - 2003年7月21日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 千葉県四街道町(現在の四街道市)出身。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)、東京大学文学部を経て東京大学大学院を修了。一橋大学教授、日本女子大学教授を経て一橋大学名誉教授。一橋大学探検部初代顧問。 2003年7月22日、72歳で急性呼吸不全のため死去。
三橋 美智也(みはし みちや、本名・北沢 美智也、1930年… 三橋 美智也(みはし みちや、本名・北沢 美智也、1930年〈昭和5年〉11月10日 - 1996年〈平成8年〉1月8日)は、北海道上磯郡上磯町峩朗(現在の北斗市)生まれ、函館市育ちの流行歌手。愛称は「みっちゃん」「ミッチー」。 民謡で鍛えた伸びやかな高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、昭和30年代の日本の歌謡界黄金期をリードし、数多くのミリオンセラーを連発。販売枚数は日本人で唯一、1億枚に達したとされている、昭和歌謡界を代表する男性歌手の一人。特に全盛期の昭和30年代前半は「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇った。 セメント会社の作業員だった父は三橋が3歳の誕生日前日に落盤事故で亡くなる。
黒木 和雄(くろき かずお、1930年11月10日 - 20… 黒木 和雄(くろき かずお、1930年11月10日 - 2006年4月12日 )は、日本の映画監督。代表作に『竜馬暗殺』『祭りの準備』『TOMORROW 明日』などがある。 母親の実家・三重県松阪市生まれ。兵庫県神戸市、宮崎県飯野町(現えびの市)を経て、5歳のときに父の仕事先満州に家族と渡り、少年時代は満州で育つ。1942年日本に戻り、中学から祖父母の住む宮崎県えびの市で育った。宮崎県立小林中学校(旧制)、宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。高校時代の恩師の勧めで同志社大学法学部に進学。卒業後、岩波映画製作所へ入社。1958年の『東芝の電気車輛』で監督デビュー。その後も主にPR映画を監督するが、火力発電所の宣伝映画でありながら前衛的な表現に訴えた『海壁』(1959年)や『ルポルタージュ 炎』(1960年)、アラン・レネ監督の影響を受けた北海道のPR映画『わが愛 北海道』が異色のドキュメンタリーとして注目される。
國分 康孝(こくぶ やすたか、1930年11月10日 - 2… 國分 康孝(こくぶ やすたか、1930年11月10日 - 2018年4月19日)は、日本の心理学者。東京成徳大学名誉教授。カウンセリング心理学専攻。 大阪府出身(本籍は鹿児島県)。東京陸軍幼年学校、東京高等師範学校、東京教育大学(教育学)、同大学大学院修士課程(ガイダンス・カウンセリング)、メリル・パーマー研究所、ミシガン州立大学大学院博士課程(カウンセリング心理学)に学ぶ。Ph.D.。霜田静志・友田不二男・モーガンに教育分析を、アルバート・エリスからはスーパービジョンを受ける。 認知行動療法の源流のひとつであるアルバート・エリスの論理療法を日本に紹介したほか、1967年頃にはアメリカから構成的エンカウンターグループを「構成的グループエンカウンター」の名称で日本に紹介、普及を主導した。
宮津 昭彦(みやつ あきひこ、1929年11月10日- 20… 宮津 昭彦(みやつ あきひこ、1929年11月10日- 2011年1月10日)は、昭和・平成期の俳人。神奈川県横浜市生まれ。横浜商工実習学校商業部(現・神奈川県立商工高等学校)で担任であった大野林火の指導を受けたのをきっかけに俳句をはじめる。卒業後は大阪住友海上保険(のちの三井住友海上火災保険)に入社、同時期に林火の「濱」同人。濱賞、濱同人賞を受賞、林火死去後の1998年より「濱」副主宰を務める。林火の句風を受け継いだ叙情性のある句風。1997年、句集『遠樹』で第37回俳人協会賞受賞。俳人協会副会長も務めた。2011年1月10日死去、81歳。
平井 正(ひらい ただし、1929年11月10日 - )は日… 平井 正(ひらい ただし、1929年11月10日 - )は日本のドイツ文学者。元立教大学教授。
岡 仁詩(おか ひとし、1929年11月10日 - 2007… 岡 仁詩(おか ひとし、1929年11月10日 - 2007年5月11日)は、日本の元ラグビー選手。元ラグビー日本代表監督。日本ラグビーフットボール協会理事。同志社大学ラグビー部元監督、同大名誉教授。同大FWで活躍。同志社ラグビーの象徴ともされる存在である。
常見 英夫(つねみ ひでお、1929年11月10日 - 2… 常見 英夫(つねみ ひでお、1929年11月10日 - 2003年2月2日)は、日本の経営者、銀行家。足利銀行頭取を務めた。 群馬県出身。1950年に東京大学法学部を卒業し、同年に足利銀行に入行した。1980年6月に取締役に就任し、1982年12月に常務、1987年6月に専務、1989年12月に副頭取を経て、1992年6月には頭取に昇格。1997年2月から同年12月までに相談役を務めた。 2003年2月2日、心不全のために死去。73歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西田 勝(にしだ まさる、1928年11月10日 - 202… 西田 勝(にしだ まさる、1928年11月10日 - 2021年7月31日 )は、日本の文芸評論家、平和運動家。 1928年11月10日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれる。1945年3月、県立清水中学校(現・清水東高)卒業。1947年3月、浜松工業専門学校応用化学科(現・静岡大学工学部)中退。1950年3月、旧制静岡高等学校文科甲類を卒業。1953年3月、東京大学文学部国文学科卒業、1955年3月、同大大学院(旧制)を退学。法政大学文学部非常勤講師を経て1971年4月、同学部助教授、1973年4月、教授となる。1994年3月、退職。同年4月、「西田勝・平和研究室」を設立。 1953年4月、新たな日本近代文学像を求めて小田切秀雄らと日本近代文学研究所を創立、「幻の雑誌」といわれた『驢馬』や『種蒔く人』などの散逸していた号冊を収集しての復刻版を出し、その延長として「近代文学図書館」の構想を立て、日本近代文学館の創設に尽力した。
西村 武典(にしむら たけのり、1928年(昭和3年)11月… 西村 武典(にしむら たけのり、1928年(昭和3年)11月10日 - 2012年(平成24年)2月11日)は、日本の政治家。熊本県牛深市長(8期)、牛深市議会議員(3期)。 熊本県出身。1946年、熊本県立熊本商工学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)卒。家業の酒屋を継ぎ、牛深市議を3期務める。1973年、牛深市長に初当選。市長を3期務めたが、3期目途中の1980年に辞職。1984年に市長に復帰、天草市に合併する前の2006年までに5期務めた。2012年2月に死去した。
田良島 昭(たらしま あきら、1928年11月10日 - 故… 田良島 昭(たらしま あきら、1928年11月10日 - 故人)は日本の建築学者、建築家。専門は設計計画、建築計画。鹿児島大学助教授、第一工業大学教授を歴任。 鹿児島県南さつま市の旧日置郡金峰町出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校、旧一中49回生)を経て、鹿児島県立工業専門学校(鹿児島大学工学部の前身)建築科を1949年卒業(第2回卒業生)。鹿児島工専助教授の東洋一(後に東京都立大学教授)の推薦により、1951年~1955年に東京大学工学部建築学科丹下健三研究室で、研究生として建築計画・都市計画を専攻。丹下のもとで、成城の丹下邸や旧東京都庁の設計に携わる。1955年芦原義信研究所勤務。
たかし よいち(高士 与市、1928年11月10日 - 20… たかし よいち(高士 与市、1928年11月10日 - 2018年1月7日)は、日本の児童文学作家。鹿児島女子短期大学名誉教授、久留米信愛女学院短期大学教授・図書館長。 熊本県熊本市出身。東洋語学専門学校(現在の熊本学園大学)中国語科卒業。熊本大学図書館司書を経て、教科書会社校正員、児童雑誌編集者を勤めた。 1962年『狩人タロの冒険』を処女出版。1965年『埋もれた日本』で第5回日本児童文学者協会賞、1977年『竜のいる島』で国際アンデルセン賞優良作品賞およびサンケイ児童出版文化賞、2008年『天狗』で赤い鳥文学賞受賞。考古学、古生物学などに基づく児童向け図書を数多く刊行し、児童文学に新たな分野を開いた。
嵯峨 隆一(さが りゅういち、1928年11月10日 - … 嵯峨 隆一(さが りゅういち、1928年11月10日 - 1955年4月2日)は、日本の男性声優。カトリック信徒。 旧制明星中学校、上智大学経済学部卒業。ラジオ東京放送劇団3期生。東京府出身。 弁護士の大塚春富の次男として生まれる。妹は女優の大塚道子。1950年に洗礼を受け、カトリック信徒となる。 大学時代は演劇部で活動し、卒業後は親の勧めもあり髙島屋飯田に入社するが、演劇の夢を諦められず、1953年5月に退職。6月から11月まで演劇の講習を受けた後、12月に行われたラジオ東京放送劇団の採用試験を受けて合格。劇団の先輩である寺島信子、湊俊一とプロデューサーを囲む会という研究会を作り演技の勉強を続け、寺島と親しくなる。
高垣 葵(たかがき まもる、1928年11月10日 - 20… 高垣 葵(たかがき まもる、1928年11月10日 - 2015年10月1日)は、日本の脚本家。 東京都出身。北海道大学文学部卒。戦後、民間放送発足時から、ラジオ・テレビ・舞台の数多くの作品を発表。代表作は『1丁目1番地』『空中都市008』など多数。のち、若手俳優養成劇団「劇団ノルテ」を結成したほか、ドキュメンタリーも数多く手がけており、 1993年、ラジオ『死刑の構図』(ニッポン放送)では各賞を受賞。2015年10月没。父は児童文学作家・小説家の高垣眸、長男は音楽家の高垣薫。 1928年(昭和3年)11月10日、東京都青梅市で生まれる、本名高垣克。1949年(昭和24年)4月北海道大学文学部国文科に入学、1951年(昭和26年)NHK札幌放送劇団に1期生として入団。
鎌田 典三郎(かまた のりさぶろう、1928年11月10日 … 鎌田 典三郎(かまた のりさぶろう、1928年11月10日 - 1999年3月20日)は、日本の音楽家、音楽教育者。秋田県生まれ。 秋田県南秋田郡払戸村(1956年琴浜村に合併後、町制施行で若美町となり、2005年に男鹿市に合併)生まれ。朝鮮清州師範学校音楽科卒。海軍生活の後、当時の男鹿町の小学校で教鞭をとる。 同じく秋田出身の石井漠に見出されて上京し、1951年、東京都大田区の大田区立西六郷小学校に赴任した。 1955年、放課後、音楽室で歌唱指導を始めたのを元にし、ウィーン少年合唱団を模して、合唱団を結成した。これが、西六郷少年合唱団(のちの西六郷少年少女合唱団)である。 1960年代、各合唱コンクールにおいて、優秀な成績を修めた。
増井 金典(ますい かねのり 1928年11月10日 - 2… 増井 金典(ますい かねのり 1928年11月10日 - 2026年5月3日)は、日本の国語学者。滋賀県甲賀市出身、大津市在住。立命館大学大学院修士課程修了。幼少期より言葉に関心を持ち、ある時、自分の名前の由来(「金」は父親の名前から、「典」は出生日が昭和天皇即位の御大典だったことから)を知って一層関心を高めた。滋賀県内の中学校・高等学校の国語教師を経て、1987年より滋賀女子短期大学(現滋賀短期大学)で語源や滋賀県内の方言の研究に努める。現在滋賀短期大学名誉教授。2000年には方言研究で滋賀県文化功労賞を受賞した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮下 創平(みやした そうへい、1927年〈昭和2年〉11月… 宮下 創平(みやした そうへい、1927年〈昭和2年〉11月10日 - 2013年〈平成25年〉10月7日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正三位。 厚生大臣(第81代)、環境庁長官(第31代)、防衛庁長官(第51代)、衆議院議員(8期)を歴任した。 長男は第68代農林水産大臣の宮下一郎。 長野県上伊那郡伊那里村(現伊那市長谷市野瀬)の農家に生まれる。旧制伊那中学(現伊那北高等学校)から陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に進むが、第二次世界大戦敗戦により旧制松本高等学校に入学。1953年に東京大学法学部(東洋政治思想史:丸山ゼミ)を卒業し、大蔵省に入省する。入省同期に、吉野良彦(元大蔵次官、主計局長)、津島雄二、水野繁(元国税庁長官)、大場智満(元財務官)、宮本保孝(元理財局長、銀行局長)らがいる。
藤原 哲太郎(ふじわら てつたろう、1927年11月10日 … 藤原 哲太郎(ふじわら てつたろう、1927年11月10日 - 2016年2月28日)は、日本の政治家。民社党衆議院議員(1期)。杉並区議の木梨盛祥は甥。 静岡県出身。1955年中央大学経済学部修了。日本社会党に入り、党職員を務めた後、民主社会党に転じる。民社党都議会議員を経て、1983年の第37回衆議院議員総選挙に東京都第4区から民社党公認で立候補して当選。1期務めた。1986年の第38回衆議院議員総選挙で落選した。 政界引退後、財団法人東京都軟式野球連盟のちの公益財団法人東京都軟式野球連盟副会長を経て顧問。荻窪中央町会長、杉並区軟式野球連盟会長、杉並区体育協会会長に就任。荻窪青少年育成委員会会長にも就任し、荻窪少年野球大会を通じて青少年の健全育成に尽力したため、藤原哲太郎の名前を末永く継承すべく、平成28年までに2度にわたり荻窪地区少年野球大会では小学生高学年の部の優勝トロフィーとして、「藤原哲太郎杯」が贈呈されている。
三島 敏夫(みしま としお、1926年11月10日 - 20… 三島 敏夫(みしま としお、1926年11月10日 - 2014年8月17日)は、日本のハワイアン歌手、演歌歌手。
伊豆 利彦(いず としひこ、1926年11月10日 - 20… 伊豆 利彦(いず としひこ、1926年11月10日 - 2017年12月8日 )は、日本の国文学者。日本近代文学専攻。横浜市立大学名誉教授。 福岡県直方市生まれ。1950年東京大学文学部国文学科卒業。横浜市立大学文理学部助教授、教授。1992年定年退官、名誉教授。日本文学協会に属し、左翼的立場から日本近代文学を研究する。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
高桑 義高(たかくわ よしたか、1925年11月10日-20… 高桑 義高(たかくわ よしたか、1925年11月10日-2006年5月17日 )は、日本の経営者。サッポロビール社長、会長を務めた。北海道函館市出身。 1949年に東京商科大学を卒業し、同年に大日本麦酒(のちのサッポロビール)に入社した。1973年に経理部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1983年3月には社長に就任した。1989年3月に会長に就任し、1991年3月から相談役を務めた。 1996年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2006年5月17日下咽頭がんのために死去。80歳没。
冨永 茂穂(とみなが しげほ、1925年11月10日 - 2… 冨永 茂穂(とみなが しげほ、1925年11月10日 - 2017年10月29日)は日本の政治家。鹿児島県串木野市長(2期)。 鹿児島県串木野市(いちき串木野市)羽島出身。小学3年生のとき家族とともにブラジルへ渡り、5年後に帰国。1948年に旧制鹿児島県立工業専門学校(現鹿児島大学工学部)機械科を卒業。商事会社員、参議院議員秘書を経て、1951年串木野市役所に入職。串木野市の水道課長、市長公室長、企画課長、新港対策室長、総務企画室長などを経て、1985年10月18日串木野市収入役に就任。1987年6月9日串木野市助役に就任し、1991年6月9日再任。 1995年串木野市長に初当選し(無所属で1月15日当選)、2月5日に1期目就任。
工藤 冲(くどう とおる、1925年11月10日 - )は、… 工藤 冲(くどう とおる、1925年11月10日 - )は、日本の経営者。大分県出身。 1948年に九州大学法学部政治学科を卒業し、同年に野村證券に入社。1965年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1974年11月に野村不動産専務を経て、1978年12月に副社長に就任し、1981年12月には社長に昇格。1985年12月には監査役に就任。
坪井 正道(つぼい まさみち、1925年11月10日 - 2… 坪井 正道(つぼい まさみち、1925年11月10日 - 2020年7月16日)は、日本の化学者。専門は物理化学。学位は、理学博士(1953年)。東京大学名誉教授。 東京府(現・東京都)出身。1947年東京帝国大学理学部化学科卒業。1953年理学博士の学位を取得。1954年8月より2年間アメリカ合衆国ミシガン大学に出張。1958年日本化学会進歩賞を受賞。1959年7月東京大学理学部助教授。1961年4月東京大学薬学部教授。1967年12月「核酸の構造化学的研究」で松永賞を受賞。1976年4月日本化学会賞を受賞。1986年3月定年退官。同年4月明星大学教授。1987年いわき明星大学教授。同年6月「核酸の分子構造とその多形性に関する研究」で日本学士院賞を受賞。
里見 泰男(さとみ やすお、1925年11月10日 - 20… 里見 泰男(さとみ やすお、1925年11月10日 - 2010年10月24日)は、日本の経営者。大成建設社長を務めた。 神奈川県出身。1950年に早稲田大学理工学部工業経営学科を卒業し、同年に大成建設に入社。1979年6月に取締役に就任し、1981年1月に常務、1983年6月に専務を経て、1984年11月に副社長に就任し、1985年6月には社長に昇格。1993年6月に副会長に就任し、1994年6月に取締役相談役に就任。 2010年10月24日に急性心不全のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
工藤 弘安(くどう ひろやす、1924年〈大正13年〉11月… 工藤 弘安(くどう ひろやす、1924年〈大正13年〉11月10日 - 2012年〈平成24年〉2月9日)は、日本の総理府技官、統計学者。元行政管理庁行政管理局統計主幹、元成城大学経済学部教授。 新潟県新潟市旭町通2番町(現 新潟市中央区旭町通2番町)の新潟医科大学解剖学第一教室初代教授・工藤得安の長男として出生。 1942年(昭和17年)3月に新潟中学校を卒業、1944年(昭和19年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、10月に東京帝国大学第一工学部航空学科に入学、1946年(昭和21年)3月に応用数学科に転科、1948年(昭和23年)6月に卒業。 1948年(昭和23年)7月から東京大学第一工学部応用数学科森口研究室で研究、美濃部亮吉に見込まれ、11月から内閣統計委員会事務局に勤務、1949年(昭和24年)5月に統計官に就任、1955年(昭和30年)5月から総理府統計局に勤務、1959年(昭和34年)5月から行政管理庁統計基準局に勤務、1971年(昭和46年)4月に行政管理庁行政管理局国際統計管理官に就任、1972年(昭和47年)3月に同局統計企画課長に就任、1977年(昭和52年)9月に同局統計主幹に就任。
堀之内 久男(ほりのうち ひさお、1924年11月10日 -… 堀之内 久男(ほりのうち ひさお、1924年11月10日 - 2010年3月31日)は、日本の政治家。郵政大臣(第62代)、農林水産大臣(第13代)、衆議院議員(8期)、宮崎県都城市長(2期)等を歴任。
志摩 直人(しま なおと、1924年11月10日 - 200… 志摩 直人(しま なおと、1924年11月10日 - 2006年9月14日)は詩人、競馬評論家。 徳島県出身。関西学院大学文学部英文学科卒、同大学院美学研究科修士課程修了。 詩を数多く発表するとともに競馬に対する造詣も深く、競馬中継(関西テレビ)では1960年代からメイン解説者として出演。競馬に関する詩を番組内で数多く取り上げた。 競馬詩集「風はその背にたてがみに」は競馬書籍として空前のベストセラー商品となった。 競走馬テンポイントのファンでもあった。 2004年、JRA50周年功労賞を獲得。 2006年9月14日、心筋梗塞のため死去。81歳没。 同年、関西テレビの第67回菊花賞の中継内において馬場鉄志アナウンサーが「この実況を志摩先生に捧げたいと思います。
奥井 潔(おくい きよし、1924年11月10日 - 200… 奥井 潔(おくい きよし、1924年11月10日 - 2000年12月16日)は、日本の英文学者・英語教師。東洋大学名誉教授。駿台予備学校英語科講師。 1924年台湾生まれ。1943年学徒出陣。チモール島へ出征。海軍に所属し、回天要員の生き残りと自ら語っていた。復員後、東京大学文学部英文科にて中野好夫の指導を受け、1952年卒業。1954年から半世紀近くにわたって駿台で教鞭をとり続けた。文学的な文章の読解を得意としており、その講義はしばしば受験用の英文解釈の域を超えて、人生論・道徳論などに及び、多感な年齢の受験生への啓蒙的役割を果たした。駿台で授業を受けた四方田犬彦によれば、「旧制高校の教授はかくや」という独特の雰囲気を持ち、効率一点主義の講師陣の中にあって異彩を放っていたという。
北見 俊郎(きたみ としろう、1924年11月10日 - 2… 北見 俊郎(きたみ としろう、1924年11月10日 - 2014年2月7日)は、港湾経済学者。 神奈川県生まれ。1954年立教大学大学院満期退学、コロンビア大学大学院、1989年「「港湾政策」の形成と課題」で青山学院大学経済学博士。青山学院大学経営学部助教授、教授、経営学部長、1993年定年、名誉教授、静岡産業大学教授、関東学院大学教授。北見港湾総合研究所代表。日本都市学会賞受賞。日本港湾経済学会は北見俊郎賞を創設した。
藤田 富雄(ふじた とみお、1923年11月10日 - 20… 藤田 富雄(ふじた とみお、1923年11月10日 - 2010年2月2日)は、日本の宗教学者、宗教哲学者。立教大学名誉教授。 1923年、山口県光市生まれ。1949年に東京大学文学部宗教学科を卒業し、1954年に東京大学大学院を修了した。立教高校で教諭を務め、1957年に『現代の意識 ヘーゲルを超えるもの』を村山書店から出版した。翌1958年、この作品によって日本宗教学会の姉崎記念賞を受賞した。 1959年から立教大学講師、1961年から助教授、1968年から教授を務めた。1976年から1986年まで立教大学ラテン・アメリカ研究所長を務めた。その後、神奈川大学教授を務めた。日本宗教学会、日本ラテンアメリカ学会、比較思想学会に所属した。
沢田 実(さわだ みのる、1923年(大正12年)11月10… 沢田 実(さわだ みのる、1923年(大正12年)11月10日 - 1976年(昭和51年)7月6日)は、日本の政治家。参議院議員(1期、公明党)。 岐阜県出身。法政大学修了。川崎航空機、昭和電工などに勤めた後、岐阜市で繊維製品卸業を営む。その後、岐阜県議会議員を経て、1968年の第8回参議院議員通常選挙において公明党公認で全国区から立候補して当選する。1974年の第12回参議院議員通常選挙には出馬しなかった。この他、公明党中央委員、公明党岐阜県本部長などを歴任した。1976年死去。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、正五位に叙される。
和田 繁(わだ しげる、1922年11月10日- 2021年… 和田 繁(わだ しげる、1922年11月10日- 2021年6月21日 )は、日本の経営者、経済学者。イズミヤ社長を務めた。 大阪府出身。1947年に関西学院大学経済学部を卒業し、同年に同大学教授に就任し、1978年4月には商学部長、1991年4月に名誉教授を歴任。宮内義彦も彼のゼミに所属していた。その一方で、1956年にイズミヤ監査役に就任し、1960年に取締役、1971年に取締役相談役を経て、1998年5月に社長に就任。2001年2月には会長に就任。 1998年11月に勲三等旭日中綬章を受章 2021年6月21日、老衰のために死去。98歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 喬(すずき たかし、1920年11月10日 - 201… 鈴木 喬(すずき たかし、1920年11月10日 - 2010年10月29日)は、熊本県の歴史研究家。地名研究家としても知られる。 鈴木喬は、父・鈴木登(1888年 - 1954年、京都帝国大学文学部史学科出身)が京都市視学であったので、京都大学医学部附属病院で生まれた。満2歳で父が第五高等学校教授に招請されて、熊本で育つ。碩台幼稚園、白川小学校時代を通じて本を読むのが好きであった。熊本中学校(現県立熊本高等学校)時代は3年にわたって結核を患う。日本大学文学部史学科卒業。1945年の東京大空襲は辛うじて逃れたが、熊本大空襲で自宅が被爆、父親の多くの史料が焼失した。 戦後は新制中学で教職につき、熊本市立白川中学校、熊本市立出水中学校などに勤務する。
渡部 賢宗(わたべ けんしゅう、1920年11月10日 - … 渡部 賢宗(わたべ けんしゅう、1920年11月10日 - 1998年3月4日)は、日本の仏教学者・僧侶。専門は禅学。駒澤大学文学博士。北海道出身。 北海道中富良野町祥雲寺住職を経て、1953年駒澤大学仏教学部卒業。1955年同大学院人文科学研究科修士課程修了。その後、曹洞宗宗学研究所研究員、駒澤大学仏教学部助手を経て、1959年駒澤大学仏教学部専任講師。1960年同仏教学部助教授。1964年駒澤大学の北海道教養部が創設されると助教授として着任。1968年同北海道教養部教授。1972年駒澤大学にて「道元禅師の戒学儀軌の基礎的研究」で文学博士を受く。1976年苫小牧駒澤短期大学学長・駒澤大学附属苫小牧高等学校校長・駒澤大学苫小牧学園理事長(〜1980年)。
福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、1920年11月10日 … 福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、1920年11月10日 - 2012年2月21日)は、日本画家、日本芸術院会員、日本美術院理事。名誉三鷹市民。位階は従三位。山形県米沢市生まれ。本名は福王寺雄一。 代表作は、『島灯』『ヒマラヤの花』等。息子の福王寺一彦も日本画家。
竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 -… 竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 - 1993年2月14日)は、日本の脚本家、小説家。 山梨県塩山市(現甲州市)出身、1926年七里小学校(現・塩山南小学校)入学、甲府市貢川尋常小学校に転校、山梨師範学校(現・山梨大学)、日本大学卒業。山梨県北都留郡沢松国民学校、中巨摩郡竜王町の村立竜王小学校など県内の学校で教師となる。この頃、児童劇『桂川』の脚本を手がけNHKラジオで放送される。 時事新聞社山梨支社に事業部長兼文化部長として入社。芸術や文化活動の分野を担当する。演劇雑誌テアトロに戯曲を投稿。1955年頃上京し、東芸に所属し本格的に脚本を書きはじめる。 1956年5月28日、山梨県甲府市朝気で開業していた眼科医の雨宮一枝と結婚。
松井 栄造(まつい えいぞう、1918年(大正7年)11月1… 松井 栄造(まつい えいぞう、1918年(大正7年)11月10日 - 1943年(昭和18年)5月28日)は、昭和初期の旧制中等学校野球(現・高校野球)、大学野球の選手(投手、外野手)。左投げ左打ち。
赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 20… 赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 2012年5月18日)は、日本の精神科医。クリスチャンとして「医学と福音」をライフワークのテーマとし精神医学と神学の関係を研究した。また日本ルーテル神学大学や東京神学大学などの神学校で精神医学を講じた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1938年(昭和13年)第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1943年(昭和18年)東京大学医学部卒業。大槻外科入局、副手。医学博士。 1946年(昭和21年)、国立療養所清瀬病院外科医長。1953年(昭和28年)、東芝林間病院副院長兼外科医長。1961年(昭和36年)、浜松の社会福祉法人聖隷病院院長。1958年、シカゴ大学で「医学と宗教の関係」を研究。
藤島 茂(ふじしま しげる、1917年11月10日 - 19… 藤島 茂(ふじしま しげる、1917年11月10日 - 1973年3月24日)は、東京出身の建築家、随筆家。 1941年東京帝国大学工学部建築学科卒、鉄道省に入省。戦後、国鉄本社施設局建築課課長補佐として駅舎の設計営繕を担当し、技師長室調査役、大分鉄道管理局長。1953年から1954年までフランス国鉄に留学、1961年駅内トイレに関する随筆『トイレット部長』を刊行するとベストセラーとなり、映画化される。1962年『駅前広場計画論、特に駅本屋平面計画との関連について』で、東京大学より工学博士を授与される。随筆続編を『文藝春秋』に掲載。1967年国鉄外務部長。一級建築士。 建築史家の藤島亥治郎の甥に当たる。
鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1… 鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1997年3月30日)は、日本の歌手。山口県大島出身。 沈没した戦艦陸奥の記念館や、作詞家星野哲郎の出身地で有名な山口県大島出身。岩国中学卒業後、日本大学芸術科に進み、同時に声楽を勉強するために東洋音楽学校にも籍を置く。東洋音楽学校在籍時に、渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」などのヒット曲でも知られる細田義勝に見初められ、1938年(昭和13年)5月ビクターより「晴れの土俵」でデビュー。8月「カタカナ忠義」発売。この「カタカナ忠義」は国内よりアメリカ在住の日系人たちの間で評判を取り、米国でヒットする。 その後、細田がテイチクに移籍したのに行を共にする。
平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小… 平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小二郎、1916年11月10日-1986年9月14日)は、日本の喜劇俳優。吉本新喜劇の男優。広島県府中市中須出身。吉本興業所属。岡八朗、花紀京、山田スミ子、木村進、桑原和男らとともに吉本新喜劇の黄金時代を担った看板座長。
小林 祐二(こばやし ゆうじ、1916年11月10日 - 2… 小林 祐二(こばやし ゆうじ、1916年11月10日 - 2002年2月28日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 岡山県出身。1941年に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に旭化成に入社。1963年5月に取締役に就任し、1972年10月に常務、1974年11月に専務を経て、1975年5月から1978年3月までに副社長を務め、1978年6月には蝶理社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1987年6月から常任相談役を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年2月28日肺炎のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
湊 正雄(みなと まさお、1915年11月10日 - 198… 湊 正雄(みなと まさお、1915年11月10日 - 1984年4月16日)は、日本の地質学者。北海道大学名誉教授。
西村 恒三郎(にしむら つねさぶろう、1915年11月10日… 西村 恒三郎(にしむら つねさぶろう、1915年11月10日 - 1996年7月11日)は、日本の経営者。住友重機械工業社長、会長を務めた。 東京都出身。1939年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友機械工業(現在の住友重機械工業)に入社した。1965年5月に取締役に就任し、1967年1月に常務、1969年6月に専務、1971年7月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1996年7月11日、肝不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
13代坂田 泥華(13だい さかた でいか、1915年11月… 13代坂田 泥華(13だい さかた でいか、1915年11月10日 - 2010年2月24日)は山口県長門市深川にて代々継承されている萩焼の伝統名跡名家陶芸家の名。本名を一平。山口県長門市出身。萩商卒。12代坂田泥華(本名:浩三)の長男。 坂田家は萩焼の始祖である李勺光(りしゃくこう)の流れをくむ家柄で、深川萩四家の一つ。(深川萩四家とは現在、坂田泥華窯の他、坂倉新兵衛窯、田原陶兵衛窯、新庄助右衛門窯の四窯元がある)1950年(昭和25年)萩焼深川(ふかわ)窯の当主13代泥華を名のる(窯は長門市深川にある)。戦後の昭和萩陶芸史を語る上で、萩焼を担う中心人物の一人で特に井戸茶碗に研鑽を積み、「泥華井戸」と称されるおおらかで伸びのある独自の優雅な作風を確立。
滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 19… 滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 1993年7月11日)は、日本の映画評論家、ジャーナリスト、脚本家である。株式会社通信合同社代表。中川信夫との共同のペンネームは猿沢 丈介(さるさわ じょうすけ)。リアルタイムで作品を追い続けた、伊藤大輔、山中貞雄研究の第一人者である。 1914年(大正3年)、大阪市に生まれる。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)卒業。 1933年(昭和8年)、マキノ・プロダクションの元宣伝部長・都村健らとともに、京都に合同通信社を興す。同社がのちに株式会社通信合同社となる。 1935年(昭和10年)、前年に市川右太衛門プロダクションに入社した、9歳上の友人・中川信夫と共同で脚本を執筆、『恥を知る者』『御用唄鼠小僧』を中川が監督した。