伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月… 伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月12日 - 2007年〈平成19年〉7月2日)は、日本の政治家、東大阪市長。日本社会党と日本共産党の推薦で革新市政を12年間担った。 岡山県岡山市出身。旧制大阪府立八尾中学校(現・府立八尾高等学校)を経て、大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大学)卒。大阪教職員組合委員長、日本社会党大阪府本部書記長となる。 1967年(昭和42年)4月の大阪府議会議員選挙に日本社会党から立候補(布施市選挙区)も次点。 1970年6月の東大阪市長選挙に日本社会党と日本共産党の推薦で立候補。現職の初代市長で自由民主党の辰巳佐太郎を破り初当選した。 1967年4月の東京都知事選挙で社会党・共産党推薦の美濃部亮吉が初当選するなど革新自治体ブームの最中であり、同2月に誕生 したばかりの人口50万人を抱える全国15番目の大都市 に革新市政が生まれた衝撃は大きく、翌1971年の大阪府知事選挙で黒田了一革新府政が誕生するきっかけとなった。
岩井 弘融(いわい ひろあき、1919年3月12日 - 20… 岩井 弘融(いわい ひろあき、1919年3月12日 - 2013年8月4日 )は、日本の社会学者、東洋大学名誉教授。犯罪社会学、社会病理学専攻。 佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学 (1949-2011)助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
細川 巌(ほそかわ いわお、1919年3月12日 - 199… 細川 巌(ほそかわ いわお、1919年3月12日 - 1996年1月1日)は、日本の化学者、仏教学研究者。 福岡市生まれ。1944年広島文理科大学化学科卒業、広島師範学校助教授、47年教授。1949年福岡学芸大学久留米分校助教授。東京大学へ内地留学し、1955年「浅海底土の化学的研究」で東京大学理学博士。58年福岡学芸大学教授、1968年東京水産大学教授併任。75年福岡教育大学を退職、名誉教授。 「ひかり幼育園」を設立し、仏法に基づく幼児教育を行い、特に浄土真宗系の仏教研究を進めた。92年勲三等瑞宝章受勲。
大塚 雅春(おおつか まさはる、1917年〈大正6年〉3月1… 大塚 雅春(おおつか まさはる、1917年〈大正6年〉3月12日 ‐ 2000年〈平成12年〉5月1日)は、日本の小説家、歌人。 高知県香美郡土佐山田町(現香美市)生まれ。本名は忠雄。1934年、高知県立高知工業学校(建築科)卒業。前職は大阪汽車会社社員。 1949年、大衆文芸賞受賞、長谷川伸主宰の雑誌『大衆文芸』でデビュー。主に歴史小説・時代小説を執筆。 妻は歌人の大塚布見子で、妻の主宰する歌誌「サキクサ」に参加した。孫は劇団アマヤドリの所属俳優・大塚由祈子。
内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 199… 内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 1997年1月30日)は、長崎県長崎市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
山崎 勲(やまざき いさお、1917年3月12日 - 199… 山崎 勲(やまざき いさお、1917年3月12日 - 1999年10月31日)は、日本の経営者、銀行家。関西相互銀行社長を務めた。 熊本県出身。1940年に神戸商業大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1967年11月に取締役に就任し、1972年1月から1974年5月までに常務を務めた。。銀泉社長、大和ハウス工業監査役を歴任し、1978年12月には関西相互銀行社長に就任。1986年6月に会長を経て、1994年6月には関西銀行相談役に就任。 1987年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1999年10月31日脳梗塞のために死去。82歳没。
谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年(大正5年)3月1… 谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年(大正5年)3月12日 - 1987年(昭和62年)12月13日)は、日本の理論物理学者。1939年に物理学者の坂田昌一と共に中性中間子が非常な短時間で2つあるいは3つのγ線になることを発表した。兵庫県出身。 1949年に日本人で初めてノーベル賞(ノーベル物理学賞)を受賞した湯川秀樹に師事し、1942年に坂田昌一、井上健と共に中間子とミュー粒子は別種であり、中間子はミュー粒子より重く、中間子が自然崩壊してミュー粒子に変化するという二中間子説を提唱した学者として知られている。 1916年3月12日、兵庫県に生まれ、大阪帝国大学(現:大阪大学)を卒業する。 名古屋帝国大学(現:名古屋大学)にて助教授を務め、神戸大学で教授となる。
松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日 - 1995… 松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日 - 1995年8月1日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。 1936年のベルリンオリンピック日本代表。福井県福井市出身。176cm。 1915年、福井県福井市に生まれる。府立五中、成城高校を経て、京都帝国大学経済学部に進学する。高校の途中まではサッカーの選手だったが、16歳でバスケを始め、3年の秋には日本代表に選出された。 京大在学中は籠球部に所属し、大学3年時の1936年にはベルリンオリンピックに出場した。 大学卒業後は神戸学士クラブに所属し、高校、大学、社会人のすべてで全国制覇を経験した。 現役引退後は日本バスケットボール協会の理事や副会長を務めたほか、1979年夏季ユニバーシアードの団長や日本オリンピック委員会の委員等を歴任した。
土方 重巳(ひじかた しげみ、1915年3月12日 - 19… 土方 重巳(ひじかた しげみ、1915年3月12日 - 1986年1月5日)は日本の画家。 多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)卒業。 飯沢匡作のNHK人形劇のデザインなどで知られる。 兄は人形劇団プーク創立メンバー、元東京新聞編集局長のジャーナリスト・土方正巳。サインは「hidi.」と1字ずつ筆記体だった。 兵庫県生まれだが、父が日本郵船勤務で幼時は各地を転々とする。 成城学園から東京開成中学(旧制)を経て1933年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)図案科に入学。1935年、3年生のときに帝美分裂に伴い多摩美へ。 1938年に卒業、東宝映画(現:東宝)入社、ポスターや広告などを描く。 1944年に応召、横須賀海兵隊に配属。
綿引 紳郎(わたひき しんろう、1915年3月12日 - 2… 綿引 紳郎(わたひき しんろう、1915年3月12日 - 2017年5月2日[要出典])は、日本の法学者。元国士舘大学長。元学校法人国士舘理事長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。
猪瀬 征次郎(いのせ まさじろう、1914年(大正3年)3月… 猪瀬 征次郎(いのせ まさじろう、1914年(大正3年)3月12日 - 2002年(平成14年)8月4日)は、昭和から平成時代の政治家。栃木県今市市長。 栃木県出身。旧制今市中学校卒業。 1959年(昭和34年)から1964年(昭和39年)まで今市市議会議員、同年今市市長に初当選するも、任期途中の1966年(昭和41年)に辞任。1979年(昭和54年)再び同市議となり、1987年(昭和62年)当時の今市市長の福田儀が建設業者から賄賂を受け取ったとして事前収賄罪容疑で逮捕され、市長を辞職。出直し市長選挙に立候補し、市長に再選した。市長再選前は米穀商をしており、栃木県米穀商組合役員も務めていた。1991年(平成3年)落選した。
吾郷 寅之進(あごう とらのしん、1914年3月12日 - … 吾郷 寅之進(あごう とらのしん、1914年3月12日 - 1983年6月28日)は、日本の国文学者。文学博士(東北大学・1976年)(学位論文「中世小歌と小歌集の成立に関する研究」)。奈良教育大学名誉教授。 島根県大田市生まれ。旧制福岡県立嘉穂中学校、旧制第五高等学校を経て、1938年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。1950年奈良学芸大学助教授、1959年教授、1966年校名変更で奈良教育大学教授、1976年「中世小歌と小歌集の成立に関する研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。1979年奈良教育大学を定年退官、名誉教授、武庫川女子大学教授。同志社大学学長で国文学者の植木朝子は孫。
藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月… 藤倉 修一(ふじくら しゅういち、1914年〈大正3年〉3月12日 - 2008年〈平成20年〉1月11日)は、日本のアナウンサー、放送評論家。 昭和中期のラジオ全盛期にNHKに勤務し、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる。 現在の東京都大田区出身。家は御徒町で綿布問屋を営んでいた。常陸山谷右エ門を親類に持ち、幼時から相撲を愛好して育つ。法政大学卒業後の1940年、奢侈品等製造販売制限規則が公布されたため綿布問屋を継ぐことを諦め、NHKに放送員(アナウンサー。ただし、当時のアナウンサーは取材や企画などの担当を兼任していた)として入局。東京中央放送局を経て、1941年から1943年にかけて福島放送局に勤務。
国井 重典(くにい しげのり、1913年〈大正2年〉3月12… 国井 重典(くにい しげのり、1913年〈大正2年〉3月12日 - 1953年〈昭和28年〉12月27日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第7代市長。 1913年(大正2年)山形県飽海郡酒田町(現・酒田市)に鐙谷一郎の4男として生れ、 国井家の養子となる。1930年(昭和5年)山形県立酒田中学校(山形県立酒田東高等学校)を卒業する。 1936年(昭和11年)に早稲田大学法学部を卒業。卒業後は 鶴岡水力電気株式会社に入社する。 1946年(昭和21年) 加藤精三市長の下で鶴岡市助役に就任し、 鶴岡市消防長も務める。 1951年(昭和26年)4月、鶴岡市会議員に当選する。 1952年(昭和27年)10月に 鶴岡市長に当選する。
住友 彰(すみとも あきら、1912年3月12日 - 201… 住友 彰(すみとも あきら、1912年3月12日 - 2011年8月16日)は、日本の土木技術者。専門はトンネル工学。 福岡市に生まれる。1930年福岡県中学修猷館を経て、1935年九州帝国大学工学部土木工学科を卒業。 1935年内務省技師となり、下関工事事務所に勤務。1937年下関市と門司市(現・北九州市)の海底を結ぶ関門国道トンネルの調査工事の下関側責任者となり、戦中の工事休眠期間中は他事務所へ転任。工事が再開されると、併任のまま関門国道工事に携わる。戦前、戦中から、1958年の完成まで、21年間にわたって一貫してトンネル工事の調査から設計施工までを幹部として関わり、関門国道トンネルの完成に尽くした。
大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月… 大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月12日 - 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正二位。勲等は大勲位。 池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交正常化に貢献。首相就任までに椎名裁定、三木おろし、大福密約といった苦難があり、更に首相就任後も四十日抗争やハプニング解散で体力を消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。田園都市構想や一般消費税構想は実現しなかった。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。 衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第85・86・95・96代)、通商産業大臣(第29代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)を歴任。
上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 199… 上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 1993年10月19日)は、日本の内科医、医学博士、東京大学病院長。5代目横綱審議委員会委員長。 1910年東京市浅草区に生まれる。旧制第一高等学校を経て、1934年東京帝国大学医学部卒。1950年東京慈恵医大教授。1958年東京大学教授。1967年同大学病院長。1970年東京女子医大教授。1972年から1984年まで中央鉄道病院院長を務めた。ほかに日本心臓財団名誉会長なども歴任した。1964年ベルツ賞佳作賞受賞。 また、横綱双葉山の主治医でもあり、それが縁で1966年に横綱審議委員となり、1990年から1993年まで委員長を務めた。1993年5月に体調不良を理由に同委員長辞任を申し出て、受理され、10月19日に腎不全のため死去した。
古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日… 古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日 - 1996年(平成8年)8月27日)は、昭和時代の政治家。福岡県柳川市長(5期)。 福岡県三潴郡久間田村(現柳川市)出身。 1938年(昭和13年)満州国政庁役員に就任。 1943年(昭和18年)満州国興安省参事官。 1956年(昭和31年)福岡県大川市助役。 1959年(昭和34年)柳川市長就任、以後1979年(昭和54年)までの5期連続で柳川市長に就任する。
内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2… 内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2000年12月5日)は、東京府出身の裁判官、弁護士、教育家。子爵、正三位勲一等瑞宝章。 旧信州高遠藩主内藤子爵家の第15代当主として東京府豊多摩郡内藤新宿町に生まれる。内藤頼直、大河内輝声の孫、内藤頼輔の子。旧制学習院幼稚園・初等科・中等科・高等科を経て、1931年、東京帝国大学法学部卒業。東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任。1973年に退官し、弁護士となる。 弁護士業の傍ら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1975年から1991年まで多摩美術大学理事長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めた。
守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 199… 守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 1996年7月17日)は、日本の弁護士、左翼活動家、経済学者。 東京出身。本籍・岡山県小田郡矢掛町。父は第11・12代岡山市長、衆議院議員の守屋松之助。妻としの兄は同志社大学名誉教授の和田洋一 (文学研究者)。1929年東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に加入。1930年弁護士開業。1932年日本共産党に入る。野呂栄太郎、平野義太郎らの指導で経済学を研究、講座派の一員として野口八郎の筆名で活動。1933年検挙され投獄。1934年倉敷絹織に入り法律問題の仕事に従事。1938年人民戦線事件などで検挙、投獄される。1940年出獄して大日本紡績連合会に入り、綿スフ統制会から繊維統制会価格課長。
油井 賢太郎(ゆい けんたろう、1906年(明治39年)3月… 油井 賢太郎(ゆい けんたろう、1906年(明治39年)3月12日 - 1984年(昭和59年)7月23日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 福島県福島市で、実業家油井徳蔵の息子として生まれる。1925年(大正14年)横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を卒業した。 卒業後、横浜正金銀行に入行。以後、福島栄町郵便局長、九笹機業場監査役、福島絹織物元卸商業組合理事、福島絹人絹織物元配給常務取締役、福島県繊維品価格査定委員会第1部長、油井商店社長、不二社長、福島県織物元配給社長、信夫精器取締役、福島絹業取締役、中央防火塗装社長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に福島県地方区から出馬して当選し、その後、自由党に所属して参議院議員を1期務めた。
佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12… 佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12日 - 1984年(昭和59年)10月11日)は、日本の写真家、歌人。熊本県熊本市出身、私立女子英学塾(後の津田塾大学)卒業。旧姓は梅村。 1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで桜蔭高等女学校(後の桜蔭学園)の教員を務めた後、1947年(昭和22年)、英語教室「津田英語会」創立共に、同会の講師となった。私生活では1928年(昭和3年)に結婚し、二男二女をもうけた。1942年(昭和17年)に東京都世田谷区に移住した。 1950年代頃より、世田谷の自宅を訪れる野鳥を寄せ親しみ、主婦としての家事の合間を縫って観察を続けた。1955年(昭和30年)に日本野鳥の会に入会した。
志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982… 志村 喬(、1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982年〈昭和57年〉2月11日)は、日本の俳優。本名は島崎 捷爾()。身長163cm。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。 兵庫県朝来郡生野町出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。映画出演本数は400本以上に及び、特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。 1905年(明治38年)3月12日、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所の冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ)と、母・喜与の次男として口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父・雄次は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。
内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38… 内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38年)3月12日 - 1989年(平成元年)10月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡石地町長。 新潟県刈羽郡石地町(朝日町、西山町を経て現柏崎市西山町石地)で、素封家・内藤鷲郎(内藤久寛養子)の長男として生まれる。1930年(昭和5年)早稲田大学経済科を卒業した。 1931年(昭和6年)9月、新潟県会議員に当選し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に新潟県第3区から立憲民政党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その他、石地町長、新潟県町村長会副会長、刈羽郡町村長会長、新潟県大陸開拓協会副会長、大政翼賛会刈羽郡支部長、柏崎税務署管内家屋賃貸価格調査委員、青少年団長、帝国在郷軍人会石地分会長、石地町農会長などを務めた。
小塚 新一郎(こづか しんいちろう、1903年3月12日 -… 小塚 新一郎(こづか しんいちろう、1903年3月12日 - 1977年9月5日)は、日本の哲学者である。 富山県出身。東京帝国大学卒業、ベルリン大学へ留学し、1931年(昭和6年)哲学博士の学位を取得する。東京藝術大学学長を1961年(昭和36年)から1969年(昭和44年)まで務めた。学長退任後、国立教育会館館長、愛知県立芸術大学第二代学長を務め、在任中に逝去。
慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3… 慶光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3月12日 - 平成2年〈1990年〉3月20日)は、昭和時代から平成時代にかけての日本の神職。伊勢神宮大宮司。 1903年(明治36年)、三重県に生まれた。生母は京都府士族籍の女性清水ウタである。慶光院家は伊勢神宮の式年遷宮再興に尽力した慶光院院主の遺跡を継いだ慶光院盈子が維新後に興した家である。父・利敬が二条斉敬の息子であることから、俊は鎌足の直男系男子孫にあたる。俊は、利敬の最初の息子ではあったが庶子であったため家督を継ぐことは無く、のちに分家する。 1916年(大正5年)、三重県立第四中学校に入学。同級生にはのちに日本を代表する映画監督となる小津安二郎がいた。
井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 19… 井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 1978年6月6日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 静岡県出身。1927年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1947年17月に常務に就任し、1948年11月には社長に昇格。1965年5月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年6月6日、脳血栓のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
木倉 和一郎(きくら わいちろう、1902年(明治35年)3… 木倉 和一郎(きくら わいちろう、1902年(明治35年)3月12日 - 1994年(平成6年)1月10日)は、日本の政治家(衆議院議員・千葉県議会議員)、初代佐倉市長、千葉県弓道連盟初代会長。経済界でも活躍。 1902年(明治35年)、現在の千葉県佐倉市に生まれる。1920年(大正9年)に旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業。1929年(昭和4年)に東京帝国大学経済学部(現在の東京大学経済学部)を卒業。 1929年、千葉県の佐倉町会議員となり、1932年(昭和7年)には千葉県会議員となった。1934年には32歳の若さで佐倉町長に就任。 1940年に召集され陸軍高射学校に入隊し、千葉陸軍高射学校の将校として配属された。
銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月1… 銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月12日 - 1935年1月5日)は、千葉県銚子市出身で出羽海部屋(入門時は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は網中 仙太郎(あみなか せんたろう)。最高位は西前頭14枚目。 1902年3月12日に千葉県銚子市で生まれ、1922年1月場所において中立部屋から千ヶ岩の四股名で初土俵を踏む。1928年1月場所で新十両昇進を果たすが、師匠の死によって二子山部屋を経て出羽海部屋へ転籍した。幕下に陥落していた1930年1月場所から銚子灘と改名し、同年5月場所で十両に復帰し、1931年1月場所で新入幕を果たした。翌年に勃発した春秋園事件によって脱退するも1933年1月場所で復帰、十両格別席となり、翌年5月場所を最後に現役を引退、年寄・稲川を襲名した。
ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sug… ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した。 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた。 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった。
渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月1… 渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月12日 - 1926年〈大正15年〉4月6日)は、大正時代に活動した日本の民間パイロット。日本の定期郵便飛行における初の犠牲者であり、また関西初の滑空飛行を行った人物とされる。 兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)に生まれる。志方尋常高等小学校卒業後播州鉄道会社勤務を経て1922年(大正11年)12月13日に日本航空輸送研究所に入所し、1923年(大正12年)2月21日付で飛行機操縦士免状(三等)の交付を受けて同社の郵便飛行事業に従事した。1924年(大正13年)11月27日に二等飛行機操縦士に昇格し、定期郵便飛行のほか機体組立整備や操縦士養成、郷土訪問飛行(1925年(大正14年)3月21日)、播丹鉄道全通奉祝全線飛行(同3月22日)などを行った。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 19… 蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 1932年10月16日)は日本の建築家。司法省技師。日本における表現主義建築の傑作とされる小菅刑務所(現東京拘置所)と、建畠大夢が建設した北軽井沢大学村に現存する洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)が代表作。 明治31年(1898年)、岡山市で旧佐賀藩の漢学者の次男[要検証 – ノート]として生まれる。岡山県立第一中学校、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学に進学。大正11年(1922年)3月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業制作は「住宅」。同期には岸田日出刀、土浦亀城、田辺平学、長谷川輝雄などがいる。
中川 潤治(なかがわ じゅんじ、1898年〈明治31年〉3月… 中川 潤治(なかがわ じゅんじ、1898年〈明治31年〉3月12日 - 1959年〈昭和34年〉4月3日)は、昭和時代の政治家。新潟県高田市長。新潟県議会議員(1期)。 1923年(大正12年)3月、東京帝国大学農学部を卒業し、同年12月に帝国農会に出仕する。1931年(昭和6年)11月、同会を辞職。その間、1927年(昭和2年)2月に陸軍歩兵少尉に任官し、1931年(昭和6年)後備役に編入した。 1935年(昭和10年)12月に高田市会議員に当選し、翌年の1936年(昭和11年)11月、再選と同時に同市助役に就任。ついで1938年(昭和13年)10月、高田市長に就任した。1942年(昭和17年)に再選。
遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月… 遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月12日 - 1988年(昭和63年)11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 鳥取県出身。鳥取中学校(鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)5月、陸軍経理学校(14期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第8連隊付となる。1922年(大正11年)10月、第19師団経理部員に就任し、歩兵第47連隊付を経て、1929年(昭和4年)5月、経理学校高等科(甲種1期)を優等で卒業し、さらに員外学生として東京帝国大学経済学部に派遣され1929年4月から1932年(昭和7年)3月まで聴講した。この間、1930年(昭和5年)3月、一等主計に昇進。
朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12… 朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の独立運動家、教育者、政治家。制憲国会議員。氏名の漢字表記は朱基容、朱基溶、朱基鎔などもある。 本貫は新安朱氏。牧師の朱基徹は従弟、独立運動家・教育者の李昇薫は岳父。 慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山の刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。
小菅 健吉(こすげ けんきち、1897年〈明治30年〉3月1… 小菅 健吉(こすげ けんきち、1897年〈明治30年〉3月12日 - 1977年〈昭和52年〉5月30日)は、日本の教育者。栃木県出身。盛岡高等農林学校を卒業。高等農林学校時代、同窓生であった宮沢賢治と学内の文芸同人誌『アザリア』のメンバーとして親交を持った。 栃木県塩谷郡氏家町(現さくら市)に小菅宗吉・ミワ夫妻の三男として誕生。宮沢賢治より7ヶ月後で、早生まれの同学年となる。 1915年、栃木県立農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を経て、盛岡高等農林学校(現・岩手大学)農学科第二部(後に農芸化学科に改称)に入学する。1917年(大正6年)7月、、1917年(大正6年)、宮沢賢治、保阪嘉内、河本義行らと同人誌『アザリア』を創刊した。
田中 利勝(たなか としかつ、1897年(明治30年)3月1… 田中 利勝(たなか としかつ、1897年(明治30年)3月12日 - 1961年(昭和36年)11月2日)は、日本の社会運動家、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)。 栃木県上都賀郡足尾町(現日光市)で、田中秀助、サヨ夫妻の二男として生まれた。1911年、足尾尋常小学校卒業と同時に足尾銅山の坑夫となる。 1918年米騒動を契機に社会運動に関心を持ち、1919年、足尾銅山に結成された大日本鉱山労働同盟会に加わり役員に就任。同年11月、坑夫の待遇改善運動のため入獄し、1920年、東京控訴院で執行猶予の有罪判決を受けて足尾銅山を解雇された。同年9月、福島県安積郡郡山町に移り、郡山電気(後の東部電力)に入社。
後藤 正志(ごとう まさし、1896年〈明治29年〉3月12… 後藤 正志(ごとう まさし、1896年〈明治29年〉3月12日 - 1929年〈昭和4年〉7月4日)は大分県出身の技師であり飛行家。1929年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を計画したが、ロッキー山脈越えに失敗し墜落死した。 大分県西国東郡田原村下沓掛(現杵築市)で後藤武利の長男として生まれ、幼少期に母を亡くす。父の意向もあり、南部高等小学校を出ると教員養成の私立学校である習説校で学んだ。正志は数学に強く、機械類を好んだという。父は病を得ながらも白鬚田原神社の前に日用品店を開いたが経営は上手くいかず、金銭的に厳しい状況が続いた。 習説校を卒業した正志は立石にある馬上金山の機械部に入る。
金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明… 金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明治29年)3月12日 - 1944年(昭和19年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 岡山県和気郡備前町出身。貧しい農家に生まれる。貧農の家に育った金光は非常に勉強好きな少年で近所の人から”二宮金次郎”と呼ばれていた。学校の成績はとびぬけていたが、家が貧しいので高等小学校卒業後に上級学校へは進めなかった。 20歳のとき、金光は徴兵検査を受け、現役兵として、1916年(大正5年)12月、野砲兵第10連隊に入隊した。勉強家であった金光はそこで伍長、軍曹と進級し、少尉候補者の試験を受け合格し、1926年(大正15年)12月に陸軍士官学校に入学。
大槻 正男(おおつき まさお、1895年3月12日 - 19… 大槻 正男(おおつき まさお、1895年3月12日 - 1980年12月8日)は、日本の農業経済学者。 宮城県出身。1921年東京帝国大学農学部卒。京都帝国大学農学部助教授、教授となり、1955年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授を務めた。農地審議会委員、米価審議会委員などを務めた。1978年日本学士院会員。子にフランス文学者の大槻鉄男がいる。
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)… 植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。 経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。 東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。父の仕事の関係で、幼少期を札幌で過ごす。札幌区創成尋常小学校、慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894… 浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894年)3月12日 - 昭和51年(1976年)11月6日)は、大正・昭和期の園芸学者。東京大学名誉教授。農学博士。園芸学会会長、学術会議委員などをつとめた。岐阜県恵那郡岩村町出身 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年… 桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年> 3月12日 - 1991年 <平成3年> 7月5日)は、日本の経営者。日本化成工業社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県姫路市出身。1918年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、同年に旭硝子に入社。1940年5月に日本化成工業(のちの三菱化成)に転じ、1943年9月に取締役に就任し、1946年12月に常務を経て、1950年6月には社長に就任。1958年3月にから1959年9月に会長を務めた。 1964年4月には科学技術学園理事長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1991年7月5日肺炎のために死去。
藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 19… 藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 1967年4月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。 1893年3月12日、新潟県中頸城郡潟町村大字土底浜(現・上越市大潟区土底浜)に、酒造家の藤縄正朔、妻ミカの次男として生まれる。女6人男3人の9人兄弟である。姉には、女子裁縫学校を創設し初代校長となった藤縄ヒサ、改称し、高田実科女学校(共に学校法人古川学園上越高等学校)二代校長となった古川フジなどがいる。藤縄家は代々土底浜の漁師であったが、正朔の代から酒造業を始めた。正朔は、晩酌のかたわらに藤縄たちを呼び、「人間、生を受けたからには、自ら働き、自らの手で業を興せ。決して人に頼ってはならない。
岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 19… 岩田 藤七(いわた とうしち、1893年3月12日 - 1980年8月23日)は、ガラス工芸家。東京・日本橋生まれ。岩田久利は子。岩田糸子は久利の妻、イワタルリは孫。
生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1… 生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1930年5月19日)は、日本の詩人。ハインリヒ・ハイネなど、外国文学の翻訳も多い。妻生田花世は平塚らいてう主宰の「青鞜」同人作家。本名は清平。 明治25年(1892年)3月12日、鳥取県西伯郡米子町(現米子市)に生まれる。家業は酒造業。明治36年(1903年)米子角盤高等小学校中退。生家の没落により進学できず、1908年、17歳の時に上京して生田長江の書生となり、文学とドイツ語を学ぶ。 1914年、生田花世と同棲を始める(事実婚)。大正6年(1917年)に最初の詩集『霊魂の秋』を刊行。美男子でロマンティックな詩を書く春月は、1920年から1923年にかけての『文章倶楽部』のアンケートでは夏目漱石を凌ぐ人気だった。
河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月… 河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。 三条実美の四男として東京に生まれる。河鰭家当主・河鰭公篤の養子となる。養父の死去に伴い、1922年4月29日、子爵を襲爵した。東京帝国大学文学部卒業。大正天皇の侍従。1949年昭和女子大学教授、1969年学長。1960年に日本風俗史学会の設立に参加。1961年「近世に於ける公家服飾の史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。墓所は多磨霊園。
葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1… 葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1964年9月6日)は、日本の俳優である。出生名中澤 次良(なかざわ じろう)、本名根石 次郎(ねいし じろう)。 1890年(明治23年)3月12日、北海道函館市、現在の十字街交番 (同市豊川町7番13号)のあたりに生まれる。同地に仕立屋「丸高」を営む中澤喜三郎・マツ夫妻の次男として中澤家に生まれ、根石家を継ぐ。11歳下の弟に俳優光岡龍三郎(本名中澤喜一、1901年 - 1961年)がいる。叔父が山崎函館新聞(現在の北海道新聞)の支局長だったが、その縁で、道内亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に移り、弟は同地で生まれている。 旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)に在学中から芝居に熱中し、同校を卒業した1905年(明治38年)ころ、函館新派革新劇団に参加して、函館地区を巡業する。