高橋 光子(たかはし みつこ、1928年8月15日 - 20… 高橋 光子(たかはし みつこ、1928年8月15日 - 2026年1月24日)は、日本の小説家。上条由紀名義で70年代から80年代にかけて少女小説も手掛けた。東京都武蔵野市在住。日本文藝家協会会員。 愛媛県川之江町(現・四国中央市)生まれ。川之江高等女学校在学中は勤労動員で日本陸軍の秘密兵器「風船爆弾」を作っていた。 卒業後はテレビ、ラジオの脚本の仕事を経て、1965年「蝶の季節」で文學界新人賞受賞、同作で芥川賞候補、1972年「遺る罪は在らじと」で二度目の候補。また上条由紀の名で 集英社コバルト文庫を中心に少女小説を執筆、1993年『高畠華宵とその兄』で潮賞ノンフィクション部門優秀賞受賞。 日本文藝家協会会員、「群青」同人。
久世 公堯(くぜ きみたか、1928年8月15日 - )は、… 久世 公堯(くぜ きみたか、1928年8月15日 - )は、日本の自治官僚、政治家。
池田 龍雄(いけだ たつお、1928年(昭和3年)8月15日… 池田 龍雄(いけだ たつお、1928年(昭和3年)8月15日 - 2020年11月30日)は、日本の画家。 佐賀県西松浦郡二里村(現伊万里市二里町)に生まれる。父は清、母はチサ、五男二女の長男。 1935年(昭和10年)4月には佐賀県二里尋常高等小学校に入学する。同年秋には福岡日々新聞社(現在の西日本新聞社)主催の児童スケッチ大会において三等銅メダルを受賞している。幼少期には『子供の科学』に親しみ、自然科学に関心を持ったという。 1941年(昭和16年)4月には佐賀県立伊万里商業学校へ入学する。1943年(昭和15年)には海軍航空隊に入隊し、第13期海軍飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に配属される。
鹿取 広人(鹿取廣人、かとり ひろと、1928年8月15日 … 鹿取 広人(鹿取廣人、かとり ひろと、1928年8月15日 - 2018年11月26日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 埼玉県生まれ。1954年東京大学文学部心理学科卒業。同大学院博士課程満期退学。東京女子大学講師、1965年東京大学教養学部助教授、1967年「認知過程成立の条件 幾何学図形の同視と構成を支える諸条件の分析」で文学博士、のち教授、1989年定年退官、名誉教授、帝京大学教授、放送大学教授。専攻は知覚・認知心理学、発達心理学。
藤富 保男(ふじとみ やすお、1928年8月15日 - 20… 藤富 保男(ふじとみ やすお、1928年8月15日 - 2017年9月1日)は、東京府小石川区(現・文京区)生まれの詩人。 詩誌『gui』同人。獨逸学協会中学(現・獨協高等学校)、東京外国語大学モンゴル語学科卒。日本現代詩人会、日本文藝家協会会員。 1950年、北川冬彦の詩会「時間」に参加。またカミングス研究会で新国誠一と知り合い、新国と共に詩的実験を試みるグループ、芸術研究協会(ASA)を設立。視覚と音律から日常の言語を再構築する独特の詩法をもち、ユーモラスな作風を得意とする。代表的な詩集に『コルクの皿』『正確な曖昧』『新聞紙とトマト』など。詩集は30冊を超えるほか、翻訳書、編著書も多数。 サッカーが得意であり、アマチュアチームの指導者や、実業団や関東大学リーグの審判を務めていた経験を持つ。
阿部 猛(あべ たけし、1928年8月15日 - 2016年… 阿部 猛(あべ たけし、1928年8月15日 - 2016年5月27日)は、日本の歴史学者。東京学芸大学名誉教授・元学長。 山形県生まれ。1951年東京文理科大学史学科卒業。1966年「律令国家経済の解体過程に関する研究」で東京教育大学より文学博士の学位を授与される。北海道学芸大学講師、助教授、北海道教育大学助教授、東京学芸大学教授、1979~1985年同学長、1992年定年退官、名誉教授、帝京大学教授、1999年退職。 平安時代史が専門だが、近代まではばひろく執筆活動を行った。また、1989年には父親の阿部萬蔵との共編による『枕詞辞典』を出版した。2003年11月瑞宝中綬章受章。
青木 國太郎(あおき くにたろう、1928年8月15日 - … 青木 國太郎(あおき くにたろう、1928年8月15日 - 2020年12月2日)は、日本の政治家。東京都日の出町の元町長(5期)。日本初の75歳以上の医療費無料化など、福祉政策を積極的に推し進めたことで知られる。 東京府西多摩郡大久野村(現・東京都日の出町)に生まれる。1943年7月、海軍特別年少兵として第二次世界大戦に参戦。 1948年5月、大久野村役場に入庁。1982年10月、日の出町助役に就任。 1990年、日の出町長選挙に立候補し初当選。4月16日、町長就任。 バブル崩壊後、日の出町は大型開発の頓挫で税収が伸び悩み、合計特殊出生率も0.79と落ち込んでしまう。青木は、2005年から15歳以下の医療費無料化、町で使える1万円のクーポン支給を開始した。
粟津 則雄(あわづ のりお、1927年(昭和2年)8月15日… 粟津 則雄(あわづ のりお、1927年(昭和2年)8月15日 - 2024年(令和6年)4月19日)は、日本の文芸評論家、フランス文学者、美術評論家、詩人、翻訳家。日本芸術院会員。「歴程」同人。法政大学名誉教授。 1927年、愛知県西尾市生まれ。京都府立第一中学校、第三高等学校で学び、卒業した。1948年、東京帝国大学文学部仏文科に入学。1952年に東京大学を卒業し、その後はフランス文学の翻訳、美術評論等を多く手掛けた。 1964年に法政大学経済学部助教授となり、後に教授昇格。1997年に法政大学を定年退職して名誉教授となった。草野心平と1960年代に出会って以降、生涯にわたって交友が深く、後にいわき市立草野心平記念文学館長を務めた。
金谷 英一(かなたに えいいち、1927年8月15日 - )… 金谷 英一(かなたに えいいち、1927年8月15日 - )は、日本の建築生産・建築環境工学者。建築設備士。工学博士(京都大学)。大阪工業大学名誉教授。元建築学教室担当。空気調和・衛生工学会特別会員・元理事。 専門は、建築環境工学、建築生産/建築設備。 1951年京都大学工学部建築学科卒業。1954年京都大学大学院工学研究科特別研究生前期修了(指導教授:建築環境工学の第一人者で日本建築学会会長を務めた前田敏男)、のちに工学博士(京都大学)。1955年大阪工業大学工学部建築学科に講師として着任、建築学教室を担当。1964年同学科助教授を経て、1974年同学科教授。1995年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部建築学科にて40年の長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築環境工学および建築生産/建築設備の研究育成に貢献した。
佐藤 昭夫(さとう あきお、1927年8月15日 - 200… 佐藤 昭夫(さとう あきお、1927年8月15日 - 2007年10月23日)は日本の教育者、政治家。元参議院議員(日本共産党公認、2期)。 愛知県名古屋市出身。京都大学理学部を卒業後、京都市立日吉ヶ丘高等学校教諭を務める傍ら、1958年京都教職員組合役員に就任。 1977年の参院選に京都府選挙区から立候補し初当選。1983年の参院選でも再選を果たすが、1989年の参院選で次点に終わる。 2007年10月23日、肺炎のため京都府宇治市の病院で死去。80歳。
神阪 昂哉(こうさか たかや、1927年8月15日 - )… 神阪 昂哉(こうさか たかや、1927年8月15日 - )は、日本の銀行家、経営者。近畿銀行社長を務めた。 奈良県出身。1947年に法政大学専門部政経科を卒業し、1950年に近畿相互銀行に入行。1968年に取締役に就任し、1975年5月に常務、1979年6月に副社長を経て、1983年6月には社長に就任。1993年6月からは会長を務めた。
岩尾 秀嶺(いわお しゅうれい、1926年8月15日 - 2… 岩尾 秀嶺(いわお しゅうれい、1926年8月15日 - 2010年12月20日)は、日本の理論物理学者。 長野県上水内郡[要出典]出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、名古屋大学理学部物理学科を卒業した。その後、大阪市立大学(現・大阪公立大学)大学院理学研究科、およびロチェスター大学大学院博物学をそれぞれ修了した。[要出典] シラキュース大学、ジェノヴァ大学、ベルン大学、東京教育大学(現・筑波大学)勤務を経て、金沢大学理学部助教授に就任、のち同大学理学部教授に昇進した[要出典]。定年退官後、同大学名誉教授。 名古屋自由学院短期大学(のちの名古屋芸術大学短期大学部)教授も務めた[要出典]。
三好 潤子(みよし じゅんこ、1926年8月15日 - 19… 三好 潤子(みよし じゅんこ、1926年8月15日 - 1985年2月20日)は、日本の俳人。本名、三好みどり。 大阪府大阪市に生まれる。 1939年に大阪市三先尋常小学校を、1947年に大阪女学院(ウヰルミナ女学院)を卒業する。小学校在学中の1935年には急性虫垂炎や右腎結核を、女学院在学中には中耳結核や急性肝炎を患い、生涯病に悩まされる。 また1938年1月8日には自宅が大阪市港区夕凪橋の自宅を延焼により失い、1941年に再建。その自宅を旅館「夕凪橋」として母が経営することとなったが、1947年に5人組の強盗に押し入られる。自身は2階におり難を逃れたため、機転を利かせて逮捕に協力。このことから、母とともに警察から表彰されたが、その時の築港警察署の司法主任が後に師事することとなる榎本冬一郎であった。
水野 忠彦(みずの ただひこ、1926年8月15日 - 19… 水野 忠彦(みずの ただひこ、1926年8月15日 - 1998年3月1日)は、長野県出身のプロ野球選手。
神内 良一(じんない りょういち、1926年(大正15年)8… 神内 良一(じんない りょういち、1926年(大正15年)8月15日 - 2017年(平成29年)6月27日)は、日本の実業家、資産家。消費者金融大手・プロミスの創業者で、有限会社神内ファーム21(現神内ファーム21株式会社)の代表取締役を務めた。 1926年、香川県の農家(小作農)の三男に生まれた。当時小作農は苦労して作った作物の半分を地主に納めなければならなかったため神内は「農業で成功し、地主の何倍もの大農家になってやる」と子どもながらに想っていたという。15歳の時、香川県立木田農業学校(現香川大学農学部)に進学。 19歳で太平洋戦争終戦を迎えた。北海道の開拓実習訓練所のことを知り、香川県から北海道まで汽車を乗り継ぎたどり着いた。
上床 珍彦(うわとこ うずひこ、1926年(大正15年)8月… 上床 珍彦(うわとこ うずひこ、1926年(大正15年)8月15日 - )は、日本の実業家。元東洋エンジニアリング社長、同会長。 上床国夫・佐恵子の長男として鹿児島県に生まれる。1950年(昭和25年)東京大学工学部応用化学科を卒業し、同年4月に東洋高圧に入社。1961年(昭和36年)5月、東洋エンジニアリングに転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1987年(昭和62年)6月、同社長に就任した。1994年(平成6年)6月、代表会長となった。 ほか、第13期石油学会会長やエンジニアリング振興協会理事長を務め、1993年(平成5年)3月には関東天然瓦斯開発取締役に就任した。同年4月に藍綬褒章を受章した。
佐倉 尚(さくら たかし、1926年8月15日 - )は、日… 佐倉 尚(さくら たかし、1926年8月15日 - )は、日本の行政管理官僚。 1950年、東京大学第一工学部計測工学科卒業後、行政管理庁に入庁。1965年、行政管理庁行政監察局副監察官。1966年、中部管区第二部管区監察官。1967年、行政管理庁統計基準局。1968年、行政管理庁統計基準局統計審査官。1970年、行政管理庁行政監察局監察官。1972年、行政管理庁行政監察局調整課長。1974年、行政管理庁長官官房総務課長 。1975年、四国管区行政監察局長。1976年、行政管理庁行政監察局監察審議官。1978年、行政管理庁行政監察局長。1980年6月、行政管理庁行政管理局長。1983年4月12日、行政管理事務次官。
牧原 純(まきはら じゅん、1926年8月15日 - 201… 牧原 純(まきはら じゅん、1926年8月15日 - 2015年3月26日)は、日本の演劇評論家、チェーホフ研究家、翻訳家。 東京生まれ。本名、島地 純(しまじ じゅん)。東京外国語大学ロシア語学科卒。文化放送でラジオ・ドラマ演出など、放送関連の仕事をし、同局の編成局長や営業局長などを務める。その後チェーホフ関係の翻訳を行う。 2015年3月26日、呼吸不全のため死去。88歳没。
山口 健二(やまぐち けんじ、1925年8月15日 - 19… 山口 健二(やまぐち けんじ、1925年8月15日 - 1999年6月12日)は、日本の政治活動家、アナキスト、作家。日本社会党と日本共産党に双方に入党し、共産党では志田派として中核自衛隊にも参加したが、後に両党から除名された。 1925年横浜市に生まれる。横浜第二中学校卒業後、1942年東京美術学校油画科入学、1943年第一高等学校文科入学、1944年旅順高等学校入学。旅順高等学校での学生生活が関東軍指揮下であることに反発し、朝鮮人の友人三人とともに脱走し、満州、朝鮮半島を南下し、日本本土に戻る。戦時下には太宰治に私淑し、1942、3年頃太宰の自宅を訪問し面会。 長野県で終戦を迎え、第一次日本アナキスト連盟に参加。
浜田 陽太郎(はまだ ようたろう、1925年8月15日 - … 浜田 陽太郎(はまだ ようたろう、1925年8月15日 - 1998年4月28日)は、日本の教育学者。教育社会学、教育史などを研究。第13代・14代立教大学総長。 台湾生まれ。甲陽中学校、東京文理科大学卒業。野間教育研究所、信濃教育会教育研究所に勤めた。1965年、東京教育大学助教授となり、1973年、立教大学文学部教授。1986年から1994年まで同大学総長。日本私立大学連盟会長と野球部長も務めた。
岩内 克己(いわうち かつき、1925年8月15日 - )は… 岩内 克己(いわうち かつき、1925年8月15日 - )は、日本の映画監督。若大将シリーズを多く監督した。
杉浦 喬也(すぎうら たかや、1925年8月15日 - 20… 杉浦 喬也(すぎうら たかや、1925年8月15日 - 2008年1月16日 )は、日本の運輸官僚、実業家。第10代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1985年 - 1987年)。従三位勲一等。 東京市大森区で生まれ、4歳のとき父親が死亡し母親が美容師となって生計を立てた。東京府立電機工業学校(現在の東京都立産業技術高等専門学校)、旧制第一高等学校、東京大学経済学部卒業。1951年に運輸省へ入省。入省同期に、山地進(日本航空社長・会長、運輸省鉄道監督局長)、妹尾弘人(海上保安庁長官)などがいる。1969年鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になる。このころ自由民主党の有力な運輸族であった三塚博・加藤六月らと親しくなる。
村木 与四郎(むらき よしろう、1924年8月15日 - 2… 村木 与四郎(むらき よしろう、1924年8月15日 - 2009年10月26日)は日本映画の美術監督。東京府出身。第9代日本映画・テレビ美術監督協会理事長。村木忍は妻。
神川 信彦(かみかわ のぶひこ、1924年8月15日 - 2… 神川 信彦(かみかわ のぶひこ、1924年8月15日 - 2004年9月3日)は、日本の政治学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 国際政治学者神川彦松の長男として、1924年8月15日に生まれる。三重県出身。弟に神川正彦。1947年9月東京帝国大学法学部政治学科を卒業した後、法学部大学院特別研究生となる。1951年4月東京都立大学 (1949-2011)講師、1952年助教授、1962年法経学部教授。1969年法学部長。1988年3月定年退官、名誉教授。 1967年『グラッドストン』で毎日出版文化賞受賞。2001年秋、勲三等旭日中綬章受勲。妻は高橋重威の長女。
星野 眞吾(ほしの しんご、1923年〈大正12年〉8月15… 星野 眞吾(ほしの しんご、1923年〈大正12年〉8月15日 - 1997年〈平成9年〉12月29日)は、昭和期から平成期にかけて活動した日本の画家である。妻は、同じく画家の高畑郁子(創画会会員)。 愛知県豊橋市魚町に生まれ、同県豊川市牛久保町で育った。豊橋第二中学校(現・豊橋東高等学校)在学中から、水彩画・油彩画を描くようになった。また、この時期に中村正義と出会った。 1944年(昭和19年)に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)図案科を、1948年(昭和23年)に京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業。同窓生11人と「グループ・パンリアル」(翌年、「パンリアル美術協会」に改称)の設立に参画した。
彭 明敏(ほう めいびん、1923年8月15日 - 2022… 彭 明敏(ほう めいびん、1923年8月15日 - 2022年4月8日)は、台湾の国際法学者。総統府資政(中国語版)(上級顧問)。元台湾大学教授・政治学系主任。台湾独立運動の代表人物で、李登輝と総統選を争ったこともある。 台中市大甲で高雄市鳳山区客家の家系に生まれる。建成小学校、高雄中学、関西学院、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部入学。第三高校でフランスの自由思想を学び、またフランス文学に興味を持ち、東大では政治学を専攻した。 東京帝国大学在学中に日本政府に徴兵され、長崎に向かう途中の船上で米軍の爆撃を受け左腕を失った。長崎到着後は兄宅で療養していたが、原爆投下に遭った。終戦後、台湾に戻り、1948年に台湾大学政治系を卒業した。
小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不… 小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不詳)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)。 長野商業では、1939年の夏の甲子園に出場し、ベスト4まで進むが準決勝で下関商業に敗れた。 1941年に東京巨人軍に入団するが、同年はわずか4試合の出場に留まった。1942年に主将の水原茂が9月初旬に応召を受け離脱したため、正三塁手がいない状況となる。1ヶ月ほど強肩を買われて青田昇が三塁手を務めるが暴投を乱発して外野手に戻ったことから、小池が後釜の三塁手を務める。この年は50試合に出場するが、5月半ばから10月半ばの5ヶ月に亘って43打席連続無安打に抑えられるなど、シーズンでわずか7安打しか打てず.077の低打率に終わった。
堀田 勝二(ほった かつじ、1922年8月15日 - 200… 堀田 勝二(ほった かつじ、1922年8月15日 - 2001年11月13日)は、日本の弁護士。 1954年に東京大学法学部法律学科卒業。1956年に弁護士登録。 司法研修所教官、第一東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長を歴任した後、1992年に公安審査委員会委員長に就任。公安審査委員会委員長時代にオウム真理教事件が発覚し、オウム真理教破壊活動防止法問題に携わった。オウム問題対処後に公安審査委員会委員長を辞任した。 2001年11月12日に心不全で死去した。
橋本 不美男(はしもと ふみお、1922年8月15日 - 1… 橋本 不美男(はしもと ふみお、1922年8月15日 - 1991年12月25日)は、日本の国文学者。王朝和歌が専門。早稲田大学名誉教授。 東京生まれ。1944年9月日本大学法文学部国文科卒業。宮内庁書陵部図書調査官、早稲田大学教授。1990年定年退任。王朝和歌が専門。 『宮内庁書陵部蔵 御所本 三十六人集 全36巻』(橋本不美男 編)新典社、1970年。
幾瀬 勝彬(いくせ かつあき、1921年8月15日 - 19… 幾瀬 勝彬(いくせ かつあき、1921年8月15日 - 1995年4月21日)は、日本の小説家、推理作家。旧姓は長島。 北海道出身。札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)を経て、早稲田大学文学部国文科に入学。大東亜戦争の戦況拡大により繰り上げ卒業して、海軍飛行科予備学生となる。ラバウルで終戦を迎えて1946年に復員後はNHK、ニッポン放送に勤務。 1970年、長編「ベネトナーシュの矢」が第16回江戸川乱歩賞の最終候補となる(受賞作は大谷羊太郎の『殺意の演奏』)。これを改題した『死を呼ぶクイズ』を翌1971年に刊行。以後も、A・E・W・メースン、エラリー・クイーンなどの影響を受けた本格志向の作品を発表。
野辺地 正之(野邊地正之、のべち まさゆき、1921年8月1… 野辺地 正之(野邊地正之、のべち まさゆき、1921年8月15日-2005年2月2日)は、日本の心理学者。東京府(現中野区)出身。同志社大学卒業。1966年「自我の変容に関する心理学的研究」で京都大学教育学博士。同志社大学文学部助教授、教授。1992年定年退任、名誉教授。1998年勲三等瑞宝章受勲。
那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、1920年8月15日 … 那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、1920年8月15日 - 1994年12月22日)は、和歌山県日高郡日高川町(現役時代は、同郡矢田村)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は柏木 佐平(かしわぎ さひら)。最高位は西前頭19枚目(1950年9月場所・1951年1月場所)。現役時代の体格は182cm、99kg。得意手は右四つ、三所攻め、大股、小股掬い。 1937年5月、横綱・武蔵山の一行が巡業で和歌山市内を訪れた際に出羽海親方(元小結・両國)の熱心なスカウトを受け、それに応じて出羽海部屋へと入門。同年5月場所で初土俵を踏み、翌年5月、本名でもある「柏木」の四股名で序ノ口に付いた(その後、「那智ノ海」を経て「那智ノ山」へ改名している)。
高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年… 高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)・解説者・評論家。 東京府立第一商業 から慶應義塾大学へ進学。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(別名・最後の早慶戦)では先発の久保木清の中継ぎとして登板した。卒業後に菊水クラブへ進み、1950年に大映スターズへ入団。1951年から1953年まで3年連続で9勝を記録。現役生活は6年のみであり通算では負け越しているものの、終始大映の主力投手として活躍した。1955年引退。 引退後はニッポン放送解説者・スポーツニッポン評論家を務めた。
小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 19… 小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 1998年9月22日)は、昭和(戦後)の裁判官。 1919年(大正8年)8月15日生まれ。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、南満州鉄道に勤務。現地で軍隊に召集され、抑留の後、復員。1947年(昭和22年)司法試験合格。同年に創設された司法修習所第1期出身の裁判官。法律に強い理論派で、厳格な法解釈で知られた。 自衛隊の合憲性が問われた長沼ナイキ事件 控訴審の裁判長。1審で出された初の自衛隊違憲判決を覆し、最高裁の「送り込み人事」、「長沼シフト」と言われた。
山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月1… 山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月15日 - 1974年〈昭和49年〉7月22日)は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 明治の元勲山縣有朋の曾孫(山縣有道の長男)として東京府で生まれる。学習院高等科を経て、九州帝国大学法文科を卒業。卒業後の1942年(昭和17年)、日本興業銀行に入るが、同年、第1期海軍兵科予備学生として海軍に入った。終戦直後の1945年(昭和20年)11月1日、父の死去に伴い、公爵を襲爵する。1946年(昭和21年)復員し、日本興業銀行に復職する。翌1947年(昭和22年)、同行を退職し、栃木県矢板町の山縣農場の経営に取り組む。 1963年(昭和38年)、矢板市長選挙に立候補し、初当選、以来連続3期務める。
油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 19… 油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 1998年6月8日)は、日本のジャズ評論家。1950年代から晩年まで、日本のジャズ評論の第一人者と評される活躍をした。 横浜市生まれ。1924年、神戸市へ移り、同地で育つ。兵庫県立第三神戸中学校を経て、慶應義塾大学法学部に学び1941年に卒業した。ジャズへの関心は学生時代からのもので、当時から既にレコードの収集、ジャズ評論の執筆を始めていた。戦時中は兵役に就き、前橋陸軍予備士官学校から東部22部隊へ配属され、将校として高射砲部隊にいた。戦後は評論活動を再開し、神戸で朝比奈次郎と名乗り、1952年に開局したラジオ神戸(現・ラジオ関西)で「ジャズ・アメリカーナ」という番組を担当し、選曲にもあたった1955年に神戸から上京し、評論家としての本格的な活動に入った。
西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 … 西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 - 没年不明)は、日本の経営者。太陽生命保険社長を務めた。東京都出身。 1941年に東京帝国大学経済学部を卒業。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年(昭和17年)1月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1962年5月に太陽生命保険に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1971年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1978年4月に社長に就任。1990年7月に取締役相談役に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章。
津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979… 津田 幸男(つだ ゆきお、1917年8月15日 - 1979年4月17日)は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。兵庫県神戸市出身。 第一神戸中学校時代に二宮洋一、直木和らと共に1933年に全国中等学校蹴球選手権大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)で優勝。卒業後には二宮と共に慶應義塾大学へ進学し、体育会ソッカー部へ入部。レギュラーの座を掴むと関東大学サッカーリーグ戦4連覇(1937年、1938年、1939年、1940年)、1937年の全日本総合蹴球選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝、慶應BRB(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1936年、1939年、1940年の全日本総合蹴球選手権大会 優勝に貢献した。
岸田 寿夫(きしだ としお、1917年8月15日 - 200… 岸田 寿夫(きしだ としお、1917年8月15日 - 2007年12月8日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長を務めた。 滋賀県出身。1945年に東京帝国大学第二工学部冶金学科を卒業し、1946年に大同製鋼(のちの大同特殊鋼)に入社。1975年2月に取締役に就任し、1980年9月に常務、1982年9月に専務を経て、1984年9月に副社長に就任し、1988年6月には社長に昇格。1992年6月に取締役相談役に就任し、1994年6月に相談役に就任。 1993年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2007年12月8日に心不全のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田畑 英勝(たばた えいかつ、旧名:龍英勝、1916年8月1… 田畑 英勝(たばた えいかつ、旧名:龍英勝、1916年8月15日 - 1983年8月11日)は、日本の民俗学者。奄美群島の民俗調査、著作に功績がある。 奄美大島の旧家の長男として鹿児島県名瀬市で生まれる。名瀬尋常高等小学校(奄美市立名瀬小学校)、旧制鹿児島県立大島中学校(鹿児島県立大島高等学校の前身)を経て、國學院大學で折口信夫、柳田國男に師事する。旧制大島中では美術部と乗馬部、国学院大学では柔道部として活動。1939年に國學院大學本科国文科を卒業後、台湾での教職を経て、満洲国立新京法政大学(中国語版)教授。戦後は1947年に故郷奄美大島に帰り、旧制奄美高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身)および同専攻科の教員を務めながら、奄美の民俗研究に取り組む。
加藤 渉(かとう わたる、1915年8月15日 - 1997… 加藤 渉(かとう わたる、1915年8月15日 - 1997年6月12日)は、日本の建築構造学者、海洋建築工学者、構造デザイナー。 東京神田生まれ。大学卒業後満洲国大陸科学院に勤務。小野薫に師事。その後仲間の建築技師らと現地召集により、陸軍造船中隊凌水屯部隊でコンクリート船設計に関与。 戦後は母校日本大学旧工学部、現理工学部で長く教鞭を執り、その後理工学部長を歴任。在任中海洋建築工学科を創設。大学外部では株式会社カトー設計事務所を主宰。シェル構造建築を1951年に「鶴見倉庫」を小野薫と試みる。こうしたシェル構造に関する一連の研究により、日本建築学会賞を受賞。
野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2… 野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2000年5月13日[要出典])は、広島県出身のサッカー選手、日本代表選手(全日本)。フォワード。野澤正雄は実兄。 広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1933年、早稲田大学へ入学。早稲田大学ア式蹴球部で、川本泰三、堀江忠男、加茂健、加茂正五、西邑昌一らと関東大学リーグを四連覇、東京大学ア式蹴球部黄金期後の早稲田大学黄金時代に貢献した。 大学在学中の1934年には日本代表に選出され、第10回極東選手権大会(マニラ)出場。足を痛めていた川本に次ぐフォワードとして全3試合にフル出場。第2戦のフィリピン代表戦では、相手に胸を蹴られて肋骨が折れ、意識を無くすほどの重症を負ったが、逆転の決勝ゴールを叩き込むなど3試合3得点を決めた。
篠原 弘道(しのはら ひろみち、1913年〈大正2年〉8月1… 篠原 弘道(しのはら ひろみち、1913年〈大正2年〉8月15日 - 1939年〈昭和14年〉8月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少尉。通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」。 日本陸軍のトップ・エースの一人として総撃墜数58機を誇り、これは1939年5月27日の初陣から同年8月27日に戦死するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1回の空戦で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。 1913年8月15日栃木県河内郡雀宮村大字東谷(現:宇都宮市東谷町)生まれ。父庄蔵、母はる。雀宮尋常小学校東校(現:宇都宮市立雀宮東小学校)を経て1931年(昭和6年)下野中学校卒業後、12月に騎兵の現役志願兵として羅南の騎兵第27連隊に入営。
石橋 湛一(いしばし たんいち、1913年(大正2年)8月1… 石橋 湛一(いしばし たんいち、1913年(大正2年)8月15日 - 2003年(平成15年)9月7日)は、日本の教育者。内閣総理大臣を務めた石橋湛山の長男。三菱銀行に勤務していた。
田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日… 田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日 - 1990年(平成2年)12月4日)は、日本の男子陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック金メダリスト。位階は正五位。 大阪府において出生。その後、父の郷里である山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に戻り、岩国尋常高等小・旧制岩国中学(山口県立岩国高校の前身)に進学。兄・田島元も三段跳の日本チャンピオンになったことのあるジャンパーで、旧制広島一中時代の織田幹雄と親交があり岩国中学に来てよく一緒に練習した。この兄と織田の影響で三段跳を始めた。 山口高校(山口大学の前身)を経て京都帝国大学経済学部(現京都大学)を卒業する。 1932年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、走幅跳で6位入賞。
中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1… 中島 正行(なかじま まさゆき、1911年8月15日 - 1952年5月29日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 戦前の明治神宮大会柔道競技で優勝したほか、全日本選士権大会にも5度出場して優勝2度・準優勝1度の戦績を有す、戦前を代表する強豪柔道家の1人である。選手として活躍する傍ら神奈川県警察部や横浜市警察にて柔道指導に当たり、多くの後進の警察官育成に尽力した。 福岡県久留米市に父・末治郎の長男として生まれ、少年時代より同市花畑に町道場を開いていた今村の手解きを受けた。1929年6月に17歳で講道館へ入門して翌月に初段を許されると、その半年後に2段、1931年10月には3段に列せられた。 神奈川大学夜間部を経て1932年には神奈川県警察部相川勝六部長の知遇により同部巡査を拝命し、警察官としての職務に精励しながら柔道助教を務める。
田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉… 田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉8月15日 - 1998年〈平成10年〉4月25日)は、日本の政治家。愛媛県今治市議会議員、今治市長などを歴任した。 1935年(昭和10年)に早稲田大学を卒業。1947年(昭和22年)4月に今治市議会議員に初当選。2期目には今治市議会の副議長を務めた。 1954年(昭和29年)1月に行われた今治市長選挙に立候補し、稲本早苗、山沢和三郎、福島照一を破り初当選。田坂は当時で42歳であり、若き市長の誕生となった。 1958年(昭和33年)1月の今治市長選挙では無投票当選し、再選。1962年(昭和37年)1月の今治市長選挙では3選を目指して立候補したが、羽藤栄市に破れ落選した。
藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月… 藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月15日 - 1973年12月19日)は、日本の考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会会長である。 1911年長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれ、旧制諏訪中学校在学中に考古学に目覚め、両角守一、地理学教師三沢勝衛の指導を受けた。1929年に卒業後、上京、森本六爾の主宰する東京考古学会に入会、本格的に考古学の研究を始めた。森本六爾の死後は、杉原荘介、小林行雄らとともに東京考古学会の運営に携わった。 1936年東京で葦牙書房(あしかびしょぼう)を興し、同社で森本六爾の遺稿集である「日本農耕文化の起源」を出版した。1943年出征、1946年復員の後、郷里諏訪に帰り、古書店「あしかび書房」を経営しながら、諏訪考古学研究所を立ち上げ、諏訪地方の遺跡を中心に発掘調査に当った。
富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月1… 富江 利直(とみえ としなお、1910年〈明治43年〉8月15日 - 没年不明)は、新潟県糸魚川市出身の陸上競技(中距離走)選手。1936年ベルリンオリンピックに800メートル競走と1500メートル競走で出場した。 新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現在の糸魚川市大町)出身。糸魚川小学校を経て、糸魚川中学校(現在の新潟県立糸魚川高等学校)卒業。明治大学に進学。 明治大学体育会競走部に所属し、1931年・1932年には日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)800m走で優勝。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には1931年の第12回大会から1935年の第16回大会まで4回出場している(1934年の第15回には出走していない)。
今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997… 今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997年10月13日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。本名は、今村義雄。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東洋大学専門部東洋文学科修了、1933年法政大学文学部哲学科中退。簡易保険局勤務を経て、日本文学報国会事務局長を務めた。戦後、鎌倉文庫勤務を経て、文芸美術国民健康保険組合発足から運営に従事し常務理事を務めた。1975年藍綬褒章受章。