水口 健次(みずぐち けんじ、1932年8月16日 - 20… 水口 健次(みずぐち けんじ、1932年8月16日 - 2008年10月29日)は、経済評論家。戦略デザイン研究所、市場調査研究所所長、日本マーケティング塾塾長。 1957年立命館大学法学部卒業後、市場調査研究所(現・日本マーケティング研究所)の設立に参画した。その後、同所代表取締役社長に就任。 1989年には、自ら戦略デザイン研究所を設立し、代表取締役所長に就任した。 2008年10月29日、転移性肝腫瘍のため死去。
三村 恪一(みむら かくいち、1931年8月16日 - 20… 三村 恪一(みむら かくいち、1931年8月16日 - 2022年2月19日)は、日本出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。 第二次世界大戦後に都立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)に編入しサッカーを始める。卒業後は中央大学に進学し、1953年には長沼健と共に日本学生選抜に選出され、ドイツのドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場した。 大学卒業後は東邦チタニウムに入社し、同社にサッカー部を設立。選手兼指導者として選手強化や環境作りに奔走した。 日本代表としては、1955年1月の東南アジア遠征で代表デビュー。同月11日のビルマ(体協選抜)戦で国際Aマッチ出場を果たし(後の日本代表データの見直しで2日のビルマ(保険大臣チーム)戦が国際Aマッチと認められたため、現在はこの試合が国際Aマッチデビュー戦)、同年11月のメルボルンオリンピック代表メンバーに選出された。
小畠 絹子(おばた きぬこ、1931年8月16日 - 202… 小畠 絹子(おばた きぬこ、1931年8月16日 - 2022年1月31日)は、日本の女優。本名は大久保禮子 (禮は示ではなくネ)。東京府(現東京都)出身。 元華族の大久保子爵家の次男である父・準と、母・秋子のもとに、四人姉妹の次女として東京市赤坂区青山南町に生まれる。本名は大久保禮子(おおくぼ のりこ)。母方の従兄に新劇運動を興した土方与志がいる。高井戸国民学校を卒業し、1949年に成安女子学院(現・京都産業大学附属中学校・高等学校)を卒業。親類が経営する鏑木汽船に入社。勤務中にスカウトされ、1957年に木崎伸子の芸名で中川順夫監督の教育映画、『えんぴつ泥棒』、『愛の星座』に教師役で出演。新東宝が『愛の星座』を配給したことが縁となり、同年9月に新東宝に入社。
山田 卓(やまだ たく、本名:山田卓〈やまだ たかし〉、19… 山田 卓(やまだ たく、本名:山田卓〈やまだ たかし〉、1931年8月16日 - 2007年11月2日)は、日本の振付家。その振付作品の多さは群を抜いている。日本振付家協会の創設者であり、会長を務めた。 1931年8月16日、大阪に生まれる。7人の子供の5番目。戦時中もあり、裕福ではない幼少時代を過ごす。1937年、吹田第一小学校に入学。茨木中学校へ進み、器械体操で国体2位を受賞した。3年で終了(この年新制に変わったため)し、鳥羽商船高等学校へ進むが1年半で辞める。理由は、自身の希望した航海科ではなく、さらには軍隊の名残があった校風が肌に合わなかったためと推測される。退学後、姉の勧めで江川バレエ団に入団する。
稲葉 宏雄(いなば ひろお、1931年8月16日 - )は、… 稲葉 宏雄(いなば ひろお、1931年8月16日 - )は、教育学者、京都大学名誉教授。 岐阜県大垣市生まれ。1954年京都大学教育学部卒業。59年同大学院教育学研究科博士課程単位取得退学、京都女子大学文学部専任講師、65年助教授。1972年京都大学教育学部助教授、79年教授。88年教育学部長、95年定年退官、名誉教授、近畿大学生物理工学部教授。2000年龍谷大学文学部教授。2003年退職。
鍛冶 昇(かじ のぼる、1931年8月16日 - 2021年… 鍛冶 昇(かじ のぼる、1931年8月16日 - 2021年10月21日)は、日本のテレビ演出家、映画監督、プロデューサー。三重県桑名市生まれ。日本映画監督協会会員。日本映画テレビプロデューサー協会会員。 1945年、慶応義塾大学仏文科卒業。日活撮影所助監督部入社後、主に滝沢英輔、市川崑、斎藤武市の助監督をつとめる。1965年、テレビ映画「山のかなたに」で監督デビュー。1969年に日活を退社後フリーを経て国際放映のプロデューサーとして活動。 1988年〜1994年、日活芸術学院にて映像創作科の専任講師として、映画演出、映画企画製作などの科目を担当。 2021年10月21日死去、90歳。 (特記以外は製作日活)
太田 龍(太田 竜、おおた りゅう、1930年8月16日 -… 太田 龍(太田 竜、おおた りゅう、1930年8月16日 - 2009年5月19日)は、日本の革命思想家である。
村田 経和(むらた つねかず、1930年(昭和5年)8月16… 村田 経和(むらた つねかず、1930年(昭和5年)8月16日 - 2011年(平成23年)4月11日)は、日本のドイツ文学者。 曾祖父は村田銃の開発で知られる村田経芳男爵。祖父は村田綱太郎男爵、父は貴族院議員・村田保定男爵(安場末喜の三男で養子に入る)。男爵家。東京出身。 1954年、学習院大学卒業。1956年、東京都立大学大学院独文学修士課程修了。1962 - 64年ボン大学に学び、1974 - 76年ミュンヘン大学講師。 1962年学習院大学文学部助教授。1971年、教授。2001年、定年退任、名誉教授。 安場保吉・大阪大学名誉教授(経済学)は従兄。妻は村田インゲボルグ(1941 - 、ボン大学卒業、東京農工大学外国人教師)。
板垣 宏(いたがき ひろし、1930年8月16日 - 201… 板垣 宏(いたがき ひろし、1930年8月16日 - 2015年12月2日)は、日本の経営者。帝人社長、会長を務めた。 愛媛県出身。1953年に京都大学工学部工業化学科を卒業し、同年に帝国人造絹絲(のちの帝人)に入社した。1977年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1989年6月に社長に就任し、1997年6月には会長に就任した。社長在任時には、バブル崩壊に伴う業績低迷を克服し、ポリエステル繊維業界において、国内最大手の地位を固めていった。1999年6月に相談役に就任し、2005年8月から2010年8月までに最高顧問を務めた。 2002年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 2015年12月2日、心不全のために死去。
仙田 左千夫(せんだ さちお、1929年8月16日 - )は… 仙田 左千夫(せんだ さちお、1929年8月16日 - )は、日本の経済学者。経済学博士(京都大学・論文博士・1976年)(学位論文『イギリス公債制度発達論』)。滋賀大学名誉教授。 1929年8月愛知県に生まれる。1947年愛知県立一宮中学校(旧制)卒業、1949年3月彦根経済専門学校1年修了の後、同年4月滋賀大学経済学部に入学し、1953年3月経済学部経済学科卒業。その後京都大学大学院経済学研究科に進学、1958年3月同研究科博士課程単位取得退学。 1958年より2年間中京大学に勤務。1961年4月滋賀大学経済学部講師として母校に着任し、1964年2月に助教授、1976年4月に教授昇任。1988年4月からは経済学部長を務めた。
大内 初夫(おおうち はつお、1928年(昭和3年)8月16… 大内 初夫(おおうち はつお、1928年(昭和3年)8月16日 - 2003年(平成15年)9月13日)は、日本の国文学者。鹿児島大学名誉教授。専門は俳文学。 大分県日田市生まれ。九州大学国文科卒業。同大学院、佐賀龍谷短期大学(現・九州龍谷短期大学)助教授を経て、1958年、鹿児島大学教養部助教授、のちに教授。1982年、「近世九州俳壇史の研究」で、九州大学より文学博士の学位を取得。1994年、定年退官、名誉教授、ノートルダム清心女子大学教授。1999年、退職。 2003年9月13日、脳出血のため死去。75歳没。没後正四位勲三等旭日中綬章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
猪熊 葉子(いのくま ようこ、1928年〈昭和3年〉8月16… 猪熊 葉子(いのくま ようこ、1928年〈昭和3年〉8月16日 - 2024年〈令和6年〉11月19日)は、日本の近代文学研究者・イギリス近代文学研究者、児童文学者、翻訳家。聖心女子大学名誉教授。 千葉県千葉市生まれ。旧姓・葛原()。父は外科医の葛原輝、母は歌人の葛原妙子。夫は明電舎社長・猪熊時久。 聖心専門学校をへて、1952年、聖心女子大学文学部国語国文学科卒業、須賀敦子とは大学時代からの友人。1954年、同大学院文学研究科国文学専攻修士課程修了。同年、同大学文学部助手、1956年専任講師、1957年から1年間オックスフォード大学に留学、J・R・R・トールキンに師事した。1972年聖心女子大学助教授を経て、1978年教授、1990年白百合女子大学文学部教授、1999年定年退職。
上野 瞭(うえの りょう、1928年8月16日 - 2002… 上野 瞭(うえの りょう、1928年8月16日 - 2002年1月27日)は、日本の児童文学作家。 息子の上野宏介はイラストレーター。 京都府京都市生まれ。本名は瞭(あきら)。父は炭や米を扱う商人で、戦後は食糧公団に勤め、京都米穀株式会社の役員となるが、晩年は不遇だった。母は眼を病んでいた。6人兄弟の長男。第二錦林尋常小学校時代から「少年倶楽部」を愛読するが、「よい子」「頑張る子」「できる子」への反発から佐藤紅緑と佐々木邦だけは読まなかった。 京都市立第二商業学校時代に太平洋戦争が開戦し、舞鶴へ学徒動員に送られる。立命館専門学校二部在学中から「木馬」「子ども・詩の国」に童話を発表し始める。同志社大学文学部文化学科に編入し、哲学を専攻して卒業。
安井 昌二(やすい しょうじ、1928年8月16日 - 20… 安井 昌二(やすい しょうじ、1928年8月16日 - 2014年3月3日)は、日本の俳優。本名:四方 正雄(よも まさお)。旧芸名は四方正夫。「劇団新派」所属。 東京府出身。日本大学法文学部中退。長谷川一夫主宰の劇団・新演伎座、俳優座養成所(3期)を経て、活動再開まもない日活映画の専属俳優となり『月は上りぬ』(1955年、田中絹代監督)で映画デビューを果たす。これを機に芸名を四方正夫から、役名の「安井昌二」へと改名した。1956年に市川崑監督の映画『ビルマの竪琴』の主役・水島上等兵を演じたことで一躍人気を得る。1960年代以降はテレビや舞台へと活動拠点を移し、妻・小田切みきと二人の娘四方正美、四方晴美と夫婦親子役で出演した『パパの育児手帳』『チャコちゃん』などでお茶の間においても人気者となった。
稲村 稔夫(いなむら としお、1928年(昭和3年)8月16… 稲村 稔夫(いなむら としお、1928年(昭和3年)8月16日 - 2000年(平成12年)3月12日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員、新潟県三条市長。 東京都出身。1948年(昭和23年)北海道大学農林専門部を卒業。同年5月、北海道虻田郡倶知安町立倶知安中学校教諭、1950年(昭和25年)北海道歌志内高等学校教諭を歴任し、日本教職員組合でも活動した[要出典]。 その後、日本社会党本部書記に転じ、同党中央本部農民部副部長などを務め、沖縄返還要求運動、原水爆禁止運動、農民運動などを担当。1969年(昭和44年)父の出身地の三条市に移り、新潟県本部書記次長、日本農民組合新潟県連役員などに在任。
金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1927年〈昭和2年〉8月… 金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1927年〈昭和2年〉8月16日 - 2014年〈平成26年〉8月9日)は、日本の地方政治家、教育者。第5代東京都調布市長。位階は正六位。 1951年(昭和26年)、日本大学農獣医学部畜産学科卒業。卒業後は東京都青少年委員、公明選挙推進委員を経て、保護司となった。1963年(昭和38年)、調布市議会議員に当選し、自民党系の会派に所属した。都議会議員選挙立候補のため、1965年(昭和40年)7月8日付で辞職した。同月の都議選に調布市選挙区から自民党公認で立候補したが、落選した。1966年(昭和41年)3月、私立調布若竹幼稚園(現・学校法人泳光学園調布若竹幼稚園)を開園し、自ら理事長となった。
杉山 とく子(すぎやま とくこ、本名及び旧芸名;杉山 徳子、… 杉山 とく子(すぎやま とくこ、本名及び旧芸名;杉山 徳子、1926年〈大正15年〉8月16日 - 2014年〈平成26年〉8月28日)は、日本の女優。東京府(現東京都)出身、血液型はB型。代表作は映画『キューポラのある街』、テレビドラマ『男はつらいよ』、『渡る世間は鬼ばかりシリーズ』。 実践女子学園第二高等女学校卒業後、保母や千葉新聞社の広告部員として働く。 東宝のニューフェイスに応募し、1946年に舞台芸術アカデミーへ。 2年の養成期間を経て、1948年、俳優座に入り、同年に『遠くへの羊飼い』で舞台デビュー。 1949年、『白鳥は悲しからずや』で映画初出演。長らく中堅女優として活動した。 『男はつらいよ』(テレビドラマ版)で車つね役を務め、映画版シリーズにも別役で複数回出演。
住江 みちる(すみのえ みちる、1926年8月16日 - 1… 住江 みちる(すみのえ みちる、1926年8月16日 - 1988年)は、かつて宝塚歌劇団に在籍していた歌手。本名は的場翠。兵庫県芦屋市出身。プロレス解説者の伊集院浩の姪でもある。1988年に膵臓がんで死去。 1939年(昭和14)に宝塚歌劇団29期生として、宝塚音楽舞踊学校(現在の宝塚音楽学校)に入学、同期生には淡島千景、久慈あさみ、南悠子、故里明美(入団時は故里千秋)などがいる。当時のプログラム上では、1945年(昭和21)まで「住江」、1946年は「住の江」の表記である。 1942年(昭和17)に宝塚歌劇団に入団。初舞台は同年5月の大劇場雪組公演で、行軍譜『軍艦旗征くところ』、舞踊『戻り橋』、歌劇『ピノチオ』で初舞台を踏む。
渡辺 行男(渡邊 行男、わたなべ ゆきお、1926年8月16… 渡辺 行男(渡邊 行男、わたなべ ゆきお、1926年8月16日 - )は、日本近代政治史学者。 福岡県豊前市生まれ。明治大学文学部中退。衆議院事務局に入り、1977年より憲政記念館で憲政資料の調査・収集・展示に当る(企画調査主幹)。帰郷し福岡県豊前市立図書館長を経て著述業に専念する。
櫻部 建(桜部 建、さくらべ はじめ、1925年8月16日 … 櫻部 建(桜部 建、さくらべ はじめ、1925年8月16日 - 2012年6月9日)は、日本の仏教学者。 京都市生まれ。大谷大学文学部原始仏教学科卒業。インド・ビハール州立ナーランダ研究所講師を経て、大谷大学助教授、教授。1967年「阿毘達磨倶舎論界・根品の研究」で大谷大学より文学博士の学位を取得。駒澤大学教授、同朋大学教授。
高杉 廸忠(たかすぎ みちただ、1925年8月16日 - 2… 高杉 廸忠(たかすぎ みちただ、1925年8月16日 - 2000年5月27日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、日本社会党)。 静岡県出身。1950年専修大学法律学科卒。1952年日本社会事業大学研究科卒。参議院議員藤原道子の秘書となり、茨城県中小企業労務協会会長。全国中小商工業団体連合会副会長に就任する。1977年の第11回参議院議員通常選挙で茨城県選挙区から日本社会党公認で立候補して当選。2期務める。この間、参議院物価対策特別委員長、逓信委員長、社会党茨城県委員長などを歴任した。1989年に引退。1995年、勲二等瑞宝章受章。2000年5月27日死去、74歳。死没日をもって従四位に叙される。
佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月… 佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月16日 - 2006年 <平成18年> 1月24日)は、日本画家、日本芸術院会員。岩手県出身。日展理事。名古屋芸術大学教授。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描いた。位階は正五位。 岩手県九戸郡野田村出身。1946年東京美術学校日本画科首席卒業、同年第31回院展初入選。1948年に髙山辰雄らの日本画研究団体一采社に参加。1949年日展初入選。1951年から山口蓬春に師事。1954年、第10回日展で「冬」が特選・白寿賞を受賞。1959年第2回新日展「津軽の浜」が特選・白寿賞となり、1962年第5回新日展「夕凪」で菊華賞を受賞。
桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、… 桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、1922年8月16日 - 1983年9月4日)は、昭和期の俳優・演出家。元劇団民衆舞台所属。2男1女あり、長男は桑山正道(舞台監督・舞台プロデューサー)、次男は桑山和之(映画プロデューサー)。 東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。1943年に日本映画学校演技科を卒業し、戦争中は砲兵隊に所属して終戦時には仏領インドシナ(現ベトナム)で武装解除になり捕虜となる。戦後、帰国後しばらく自由労働者をした後、木下順二が主宰する劇団「ぶどうの会」に参加。劇団の創立メンバーとして、看板女優・山本安英の主演による『夕鶴』の与ひょう役をはじめ数々の舞台に出演した。
増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986… 増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986年3月25日)は、徳島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 徳島中学校を卒業し、京都薬学専門学校や社会人野球でプレー後、1950年に大映スターズへ入団。1年目から外野のレギュラーを獲得し、下位打者として93試合に出場した。1952年は控えとして、代打や守備交代などでの途中出場が多かったが、翌年からはレギュラーに戻った。1956年は再び控えの外野手になり、この年限りで引退した。 1955年5月24日の毎日×大映戦(後楽園球場)、大映は毎日の荒巻淳投手にノーヒットノーランに押さえられるも、毎日も点が入らず0-0のまま延長戦、そして延長11回1死に増田がヒットを打ってノーヒットは途絶え、その後抑えられてた大映打線が息を吹き返して4-0で勝利した(「延長でノーヒットが途絶えた」で「最終的に4点差」は最多得点差)。
別所直樹(べっしょ なおき、1921年8月16日 -1992… 別所直樹(べっしょ なおき、1921年8月16日 -1992年)は、詩人、評論家。シンガポールにて生まれる。原籍地は宮城県。 母の築地藤子は、アララギの歌人であり、斎藤茂吉、島木赤彦などと親交があり同時代に活動していた。 上智大学経済学科卒業後、新聞、雑誌記者を経て文筆生活に入る。1938年頃から「アララギ」に短歌を寄せ、土屋文明の門にあったが、同時に現代詩にも手を染め、次第に短歌から遠ざかる。「日本詩壇」「若草」に投稿。1943年太宰治の知遇を得、その死までの5年間を師事する。「鱒」「詩行動」「新日本詩人」「文学者」にも寄稿。「灰」主宰。 太宰治との親交にかかわる逸話として、戦時中の物資不足の折、酒が手に入ったとの報に仲間達と共に太宰のもとに集まりささやかな宴の最中、直樹は、誤って酒をこぼしてしまい、ひたすら恐縮する別所に対し太宰は次のように語ったという。
小野 協一(おの きょういち、1921年8月16日 - 20… 小野 協一(おの きょういち、1921年8月16日 - 2002年10月18日)は、日本の英文学者。 和歌山県新宮市出身。1944年東京帝国大学文学部英文科卒。1951年東京外国語大学講師、助教授、教授、1984年定年退官、名誉教授、和光大学教授、鶴見大学教授。1992年退職。ジョージ・オーウェルが専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
河野 一英(こうの かずひで/いちえい、1920年〈大正9年… 河野 一英(こうの かずひで/いちえい、1920年〈大正9年〉8月16日 - 2015年〈平成27年〉7月24日)は、日本の公認会計士(登録番号No.992)。正七位勲四等。元センチュリー監査法人(現・EY新日本有限責任監査法人)会長。大東文化大学名誉教授。商学博士。オーデリック特別顧問、日東工器・日本ライフライン・化学工業日報社・味の浜藤・シレン・各顧問、横浜化成監査役、大蔵省公認会計士試験委員、センチュリー監査法人会長を歴任した。 1920年、平田屋(のちの平田百貨店、現・高麗大然閣タワー)従業員の河野一三(広島県沼田郡緑井村出身)・房(旧姓・村井、三重県出身)夫妻の長男として朝鮮京畿道京城府にて出生した。
村山 美知子(むらやま みちこ、1920年8月16日 - 2… 村山 美知子(むらやま みちこ、1920年8月16日 - 2020年3月3日)は、日本の文化人。朝日新聞社の第3代社主。元朝日新聞社社長村山長挙の長女。兵庫県出身。甲南幼稚園、甲南小学校、甲南高等女学校を経て1939年に自由学園高等科1年修了。 朝日新聞社の発行済み株式総数のうち36.5%(116万6,641株)を保有する筆頭株主だった。1963年6月から株式会社朝日新聞社取締役社主付として就任。1977年8月から朝日新聞社社主に就任。 また朝日新聞と関係が深い朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)の発行済み株式総数の3.5%(14万5,500株)を保有し、1979年6月から2007年6月27日まで同社の社外取締役を務めていた。
安藤 仁子(あんどう まさこ、1917年〈大正6年〉8月16… 安藤 仁子(あんどう まさこ、1917年〈大正6年〉8月16日 - 2010年〈平成22年〉3月17日)は、日本の実業家にして日清食品創業者である安藤百福の3人目の妻。百福と結婚後、夫の投獄、事業の失敗、財産喪失など、度重なる不運を乗り越えて、世紀の発明と呼ばれるインスタントラーメン「チキンラーメン」が完成するまで夫を支え、その生涯を共に生き続けた。2018年(平成30年)のNHK連続テレビ小説『まんぷく』の主人公の1人、立花福子のモデル。 1917年に、大阪市北区富田町で、3人姉妹の三女として誕生した。実家の安藤家は、福島県の二本松神社の神主を務める名門であり、父の安藤重信は大阪で事業に乗り出す資産家であった。
川俣 晃自(かわまた こうじ、1917年8月16日 - 19… 川俣 晃自(かわまた こうじ、1917年8月16日 - 1999年7月5日)は、日本の劇作家、小説家、フランス文学者。東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市出身。第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科卒。一高時代から小説を書き、戦後は都立大学助教授、教授、1957年小説「般若心経」が中央公論新人賞佳作として掲載される。66年戯曲「関東平野」で第12回岸田國士戯曲賞受賞。82年都立大を定年退官、名誉教授、獨協大学教授。
中尾 佐助(なかお さすけ、1916年8月16日 - 199… 中尾 佐助(なかお さすけ、1916年8月16日 - 1993年11月20日)は、日本の植物学者。大阪府立大学名誉教授。専門は遺伝育種学、栽培植物学。ヒマラヤ山麓から中国西南部を経て西日本に至る「照葉樹林帯」における文化的共通性に着目した「照葉樹林文化論」を提唱した。
松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死… 松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死(年月不明))は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 19… 福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である。別名船橋 一(ふなばし はじめ)。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画(英語版)も手がけた。 1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる。
佐々木 常助(ささき つねすけ、1915年8月16日 - 没… 佐々木 常助(ささき つねすけ、1915年8月16日 - 没年不明)は、島根県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは外野手。
秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8… 秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8月16日 - 2006年〈平成18年〉1月5日)は、日本の医学者、医学博士(東京大学)、実業家。補綴材(エピテーゼ、プロテーゼ)の研究者。株式会社高研の創業者。株式会社荘内日報社元社長・元会長。鶴岡市行政顧問。勲四等瑞宝章。山形県鶴岡市出身。「世界にさきがけ、独創に生きる」を座右の銘とした。 医療用高分子の研究の分野で活躍し、血液樹脂、合成高分子、医用シリコーン、医療用の生体モデルなどを開発し、医療技術の向上に貢献した。略歴は以下のとおり。
土方 三郎(ひじかた さぶろう、1914年8月16日 - 2… 土方 三郎(ひじかた さぶろう、1914年8月16日 - 2002年9月19日)は、日本の経営者。日東電気工業(現:日東電工)社長を務めた。山口県萩市出身。 1935年に高松高等商業学校を卒業し、日立製作所での勤務を経て、同年に日東電気工業(のちの日東電工)に入社。1949年に取締役に就任し、1957年に常務、1961年に専務、1971年11月に副社長を経て、1974年6月に社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1989年6月には相談役に就任。 1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月19日老衰のために死去。88歳没。
福士 文知(ふくし ぶんち、1913年(大正2年)8月16日… 福士 文知(ふくし ぶんち、1913年(大正2年)8月16日 - 2003年(平成15年)5月1日)は、昭和から平成時代の政治家。医師。青森県弘前市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。曾祖父は、尾上銀行頭取清藤盛美。 弘前市出身。1966年(昭和41年)岩手医学専門学校卒業。1975年(昭和50年)弘前市医師会長を経て、1976年(昭和51年)から市長に4選。1992年(平成4年)2月に引退した。 2003年(平成15年)5月1日、急性肺炎のため弘前市の病院で死去した。
磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 199… 磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 1997年6月19日)は日本の鉄道官僚、第6代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1969年-1973年)。永井岩之丞の孫。 作家・三島由紀夫の父・平岡梓は従兄にあたる。 磯崎と親交があった作家の阿川弘之より命名されたニックネームは「ダッコちゃん」。 東京府東京市本郷区丸山町(現在の東京都文京区千石)で海軍の造船技官であった磯崎清吉と鐘(永井岩之丞二女)の次男として生まれる。名前は当時父が艤装に関わっていた巡洋戦艦『比叡』から一文字取られた。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業後、1935年、鉄道省に入省。
平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 20… 平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 2005年8月17日)は、日本の国語学者。東京都立大学名誉教授。日本音声学会第5代会長。 宮崎県北諸県郡中郷村(現:都城市)生まれ。1922年3月に中郷村尋常高等小学校を卒業。1928年3月に麻布中学校を卒業。1935年3月に國學院大學文学部国文学科卒業。1937年3月に國學院大學大学院修了。金田一京助、折口信夫に師事。 1937年4月に法政大学講師。1940年6月に東京府立高等学校教授。1949年4月に東京都立大学人文学部助教授。1957年に文学博士となった(学位論文「日本語音調の研究」)。 1962年2月に東京都立大学人文学部教授。1969年4月に東京都立大学附属図書館長。
諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 19… 諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 1983年8月21日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1933年に東京商科大学本科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1965年6月に常務、1968年6月に専務を経て、1969年6月には社長に就任。1974年9月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月21日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日… 杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日 - 2000年7月3日)は、日本の会社役員、サッカー選手。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、兄は上智大学教授などを務めた野村正二郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 旧制大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て早稲田高等学院に進学。早稲田高等学院3年次の1927年に上海で開催された第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが出場機会は無かった。同年9月14日に平壌での崇実専門学校との親善試合で代表初出場を果たした。 早稲田高等学院卒業後は早稲田大学理工学部電気工学科に進学。ア式蹴球部に所属し、在学中の1930年5月開催の第9回極東選手権大会の日本代表に選出されるも第8回大会同様に出場機会は無かった。
平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1… 平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本の木琴(シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。 妹はフィギュアスケート選手の平岡露子。ミュージシャンの平岡精二はいとこの子。 元来、東京の家系であるが、実業家の父・寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。 父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞で、少年も野球の特訓を受け育つが、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部で学ぶ。この頃ピアノを始めるが、手が小さいためピアノにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館「コンパル館」で無声映画の伴奏をしている木琴(シロフォン)に魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。
曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月… 曻地 三郎(しょうち さぶろう、1906年(明治39年)8月16日 - 2013年(平成25年)11月27日、旧姓:山本)は、日本の教育者、教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。 福岡教育大学教育学部教授、韓国社会事業大学(現大邱大学校)教授・大学院長、社会福祉法人しいのみ学園理事長兼園長を歴任。関西大学法学士、広島文理科大学文学博士、九州大学医学博士。福岡教育大学名誉教授、韓国・建陽大学校名誉教授、中国・長春大学名誉教授、上海・華東師範大学名誉教授、モスクワ心理教育大学名誉教授。大韓民国国民勲章受章、ペスタロッチー教育賞受賞。吉川英治文化賞受賞。
花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月1… 花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月16日 - 1987年〈昭和62年〉3月5日)は、日本の内務・厚生官僚。位階は従四位。中高年齢者福祉協会(現:中高年齢者雇用福祉協会)理事長、船員保険会常務理事、厚生省保険院保険局年金課長などを歴任した。勲三等瑞宝章受章者。 花澤徳蔵の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和5年)東京外国語学校を経て、1928年(昭和3年)高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部卒業後、保険院社会局に入る。戦時色強まる1940年(昭和15年)の秋、厚生年金(当時は労働者年金保険)の創設を発表した。労働者年金は1942年(昭和17年)に創設し、2年後に厚生年金と名称を変えた。
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月… 中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。 海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。 佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。
杉浦 健一(すぎうら けんいち、1905年(明治38年)8月… 杉浦 健一(すぎうら けんいち、1905年(明治38年)8月16日 - 1954年(昭和29年)1月15日)は、日本の文化人類学者である。 愛知県岡崎市の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、同大学院に入学するが中退する。その後は日本国内の辺地民俗学の調査の参加や、1937年(昭和12年)に南洋庁に入庁した事により、人類の調査のため1941年(昭和16年)に退職するまで5度ミクロネシアやパラオ等当時日本の直轄下であった南洋諸島を訪問した。またこの頃に文部省(現在の文部科学省)に入省し、同省の民族研究所の研究員として活動する。 第二次世界大戦後はアメリカ国内における文化人類学の影響もあり、親族組織論等多彩な人類学の研究に携わる。
源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治… 源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任。大艦巨砲主義だった日本海軍内で、いち早く航空機の有用性を見い出し「零戦」「紫電改」の開発に関与。戦争中は、大本営参謀として真珠湾攻撃を立案・指導。これによりアメリカ太平洋艦隊が機能不全に陥り、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった。以降、ミッドウェー海戦他、海軍の戦闘に参画。また特攻作戦に深く関与し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。戦後1954年(昭和29年)空将補として自衛隊入りし、自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。
松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8… 松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8月16日 - 1968年(昭和43年)3月16日)は、昭和期の法学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・松平親信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)1月11日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)学習院高等科を卒業し、1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業。1930年(昭和5年)陸軍省嘱託となる。以後、拓務省嘱託、貴族院事務局嘱託、外務大臣秘書官付嘱託などを務めた。 1941年(昭和16年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 196… 辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 1967年4月27日)は、日本の中国文学研究者。 1903年、福岡県博多市で生まれた。1921年に福岡県立中学修猷館を卒業し、山口高等学校を卒業した。1928年、東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。同年、京城帝国大学に赴任し、支那語学・支那文学講座を担当した。その後、助教授を経て、1939年に教授昇格。同年、博士論文『支那現代文学の研究』を東京大学に提出したが、太平洋戦争下の混乱の中で文学博士号授与は1946年となった。朝鮮半島赴任時には、延禧専門学校(現・延世大学校)校長も務めた。 戦後は昭和女子大学、相模女子大学教授などをつとめた。また、鎌倉文士とのつきあいもあり、鎌倉市図書館館長を務めた。
崎山 正毅(さきやま せいき、1903年8月16日 - 19… 崎山 正毅(さきやま せいき、1903年8月16日 - 1995年)は、日本の翻訳家。 大阪生まれ。東京帝国大学英文科卒。NHK国際局長など。キャサリン・マンスフィールドなど英文学を翻訳した。