井上 一夫(いのうえ かずお、1923年4月18日 - 20… 井上 一夫(いのうえ かずお、1923年4月18日 - 2003年5月12日)は、翻訳家。日本推理作家協会、日本翻訳家協会、日本文芸家協会会員。 東京出身。1948年、慶應義塾大学文学部哲学科卒業。雄鶏社の『雄鶏通信』で延原謙のもとで編集部員として勤めるかたわら、アルバイトで外国映画の名作を翻訳・出版。 のち独立して翻訳家に。エド・マクベインの警察小説「87分署」シリーズや、イアン・フレミングのスパイ小説「007」シリーズ、『アンジェリク』、SFなど多数の作品を翻訳した。『キングの身代金』は黒澤明監督映画『天国と地獄』の原作となった。 87分署シリーズ(The 87th Precinct)
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北村 文雄(きたむら ふみお、1923年〈大正12年〉4月1… 北村 文雄(きたむら ふみお、1923年〈大正12年〉4月18日 - 2017年〈平成29年〉3月1日)は、日本の造園学者・造園教育者。 専門は造園植物である芝、花蓮。北海道旭川市生まれ。父親の故郷新潟県のほか熊本県と福岡県などに転居し、以降栃木県から東京に移る。
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三枝 充悳(さいぐさ みつよし、1923年 <大正12年> … 三枝 充悳(さいぐさ みつよし、1923年 <大正12年> 4月18日 - 2010年 <平成22年> 10月19日)は、日本の仏教学者。専門は、仏教学・インド哲学。筑波大学名誉教授。位階は正五位。 1923年、静岡県静岡市生まれ。静岡県立静岡中学校に学ぶ。第一高等学校在学中、1943年、学徒出陣するが内地勤務で敗戦を迎えた。 戦後は東京大学文学部哲学科へ進み、学部卒業後は同大学院(旧制)修了。卒業後は母校の東京大学助手となった。ミュンヘン大学に留学、1962年にPh.Dを取得し帰国。帰国後、國學院大學助教授に就任。1971年、『東洋思想と西洋思想』を國學院大学に提出して文学博士号を取得した。 1975年より筑波大学教授。
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伊東 泰治(いとう やすはる、1922年4月18日 - 20… 伊東 泰治(いとう やすはる、1922年4月18日 - 2013年4月2日)は、日本のドイツ文学者。名古屋大学名誉教授。 1922年、山口県萩市で生まれた。1940年に山口県立山口中学校を卒業し、東京高等学校文科乙類に進んだ。1942年に卒業。京都帝国大学文学部ドイツ文学専攻に進み、1946年に卒業。 修了後は、三重県立医科大学予科教授に就いた。三重県立大学助教授、金沢大学法文学部助教授を経て、名古屋大学分校助教授に就いた。その後教養部助教授に配置換えとなり、教養部教授昇格。名古屋大学総合言語センター教授に配置換えとなり、同センター長を併任した。名古屋大学在職中、西ドイツ・アレクサンダー・フォン・フンボルト財団給費留学生として渡独し、ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学、フライブルク大学に滞在して在外研究。
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川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年(大正11年)4月1… 川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年(大正11年)4月18日 - 2005年(平成17年)12月3日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。日本統治時代の台湾の台南市生まれ。台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学法学部へ進む。1943年(昭和18年)から学徒動員で従軍し、台湾最南端の地で終戦を迎える。1946年(昭和21年)春に鹿児島県川辺町に引き揚げて、大学に復学し卒業。 高校教諭、参議院議員秘書などを経て、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で社会党公認で旧鹿児島1区に立候補し落選、3度目の挑戦となった1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で初当選する。
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都丸 哲也(とまる てつや、1921年〈大正10年〉4月18… 都丸 哲也(とまる てつや、1921年〈大正10年〉4月18日 - 2023年〈令和5年〉8月13日)は日本の政治家。東京都保谷市(現:西東京市)長を1977年から1993年まで務めた。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会世話人などを歴任した。 群馬県勢多郡横野村(赤城村を経て、現在の渋川市)で生まれる。東京都立大森高等学校を経て、学習院大学文学部でフランス文学を専攻。1959年保谷町議を経て1967年の市制後は市議。1969年に保谷町長→市長を務めていた原田彰俊が収賄で逮捕されて辞職したことに伴う出直し市長選で、社会党公認で立候補。この時は共産党や民主社会党(後の民社党)が独自候補を擁立したことに加えて、同じ社会党籍を持っていた市助役まで立候補したことから保守系の内藤利紀に敗北。
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梅村又次(うめむら またじ、1921年4月18日 - 200… 梅村又次(うめむら またじ、1921年4月18日 - 2006年12月29日)は、日本の経済学者。学位は、農学博士(九州大学・論文博士・1961年)(学位論文「賃金・雇用・農業」)。一橋大学名誉教授。 栃木県出身。1945年九州帝国大学農学部卒、1961年「賃金・雇用・農業」で九州大学より農学博士の学位を取得。1948年経済安定本部物価局勤務、1949年労働省労働統計調査部、1951年一橋大学経済研究所助教授となり、教授。1974年所長。1985年定年退官し、名誉教授、創価大学経済学部教授。1998年退職。1964年『戦後日本の労働力』で第5回エコノミスト賞受賞。1971年『労働力の構造と雇用問題』で日経・経済図書文化賞受賞。
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高橋 正雄(たかはし まさお、1921年4月18日 - 20… 高橋 正雄(たかはし まさお、1921年4月18日 - 2008年)は、日本のアメリカ文学者、中央大学名誉教授。 東京生まれ。東京帝国大学文学部英文科卒、中央大学法学部助教授、教授、1992年定年退任、名誉教授。
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室井 摩耶子(むろい まやこ、1921年〈大正10年〉4月1… 室井 摩耶子(むろい まやこ、1921年〈大正10年〉4月18日 - )は、日本のピアニスト。2025年現在、104歳でなお現役の日本最高齢ピアニストである。 東京府(現・東京都)に生まれる。成城小学校に入学した6歳からピアノを始め、小学4年次から高折宮次に師事。1941年、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業。同校研究科へ進み、レオニード・クロイツァー教授に師事、1943年に修了。 1945年1月、日比谷公会堂での日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)の演奏会でソリストを務めてデビュー。終戦後、本格的にリサイタル活動を開始。エリック・サティやデュカスなど多くの作品を日本初演した。
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矢口 純(やぐち じゅん、1921年4月18日 - 2005… 矢口 純(やぐち じゅん、1921年4月18日 - 2005年4月30日)は、日本の編集者、エッセイスト。 東京雑司ヶ谷生まれ。本名読み・きよし。父は英文学者・矢口達。1943年早稲田大学政経学部を繰り上げ卒業し入隊、敗戦時には仙台陸軍飛行学校の将校生徒。千葉県の誉田で村会議員を務める。1948年婦人画報社に入社、『博愛』編集長として出向、十返千鶴子が編集員だった。1950年『婦人画報』編集部に戻る。55年、石原慎太郎は「太陽の季節」が芥川賞をとる前に編集部を訪ね、矢口がルポ「スポーツ・ゲート」を連載させた。62年取締役編集長となり、銀座の酒場で山口瞳と知り合い、「江分利満氏の優雅な生活」を連載させる。
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安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日 … 安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日 - 2013年1月26日)は、日本の小説家。
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山田 英雄(やまだ ひでお、1920年4月18日 - 200… 山田 英雄(やまだ ひでお、1920年4月18日 - 2001年5月7日)は、日本の歴史学者、新潟大学名誉教授。専攻は日本古代史・国文学。 1920年、東京で生まれた。父・山田孝雄の東北帝国大学赴任に従って仙台で育った。第二高等学校を卒業し、東京帝国大学国史学科に進学。卒業後、1942年に召集。 戦後は三重県立宇治山田高等学校の歴史教師、1952年より新潟大学人文学部で専任講師を務めた。1954年より助教授、1965年に教授昇任。1972年には人文学部長、図書館長を務めた。1986年に定年退官し、同時に名誉教授となった。2001年に死去。
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大原 恆一(おおはら こういち、1920年(大正9年)4月1… 大原 恆一(おおはら こういち、1920年(大正9年)4月18日- 1998年(平成10年)7月20日)は、日本のロシア文学者、評論家、翻訳家、実業家。本名は大原嘉蔵。 太平洋戦争後の冷戦期、ソヴィエト社会主義共和国連邦のモスクワ大学に初めて留学した日本人の一人である。 帝政ロシア時代の詩人ニコライ・ネクラーソフの研究、翻訳において日本の第一人者である。ネクラーソフの叙事詩『だれにロシアは住みよいか』(原題Кому на Руси жить хорошо)を日本で初めて翻訳出版した。 作家の佐多稲子によると、佐多と大原とは昭和16年頃からの知り合いで、その時大原は、法政大学の学生であった。福岡の大きな材木店の、あるいはそのときから店主だったのかもしれない。
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神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 19… 神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 1998年4月5日)は、日本の政治学者。専門は日本政治思想史。立教大学名誉教授。 東京市四谷区四谷左門町(現・東京都新宿区左門町)生まれる。砧小学校、国士舘中学校を卒業。 1942年に第一高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学するが、1943年4月から12月にかけて東部第六部隊に所属。1944年1月から8月まで仙台予備士官学校に配属され、1944年12月から1945年9月までフィリピン方面軍特別情報部。 1946年1月に復員。1947年に東京大学(旧制)法学部を卒業後、大学院特別研究生となる(1949年に修了)。 1950年に国立国会図書館嘱託、主事、調査員。
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松澤 秀雄(まつざわ ひでお、1918年4月18日 - 19… 松澤 秀雄(まつざわ ひでお、1918年4月18日 - 1999年8月31日 )は、日本の経営者。サンテレビジョン社長を務めた。 神奈川県出身。1941年に東京帝国大学文学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社した。朝日新聞社で名古屋本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任し、1981年6月には兵庫県教育委員会委員長に就任。1982年9月にサンテレビジョン社長に就任し、1987年6月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1999年8月31日、心不全のため死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日… 島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。 大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」という概念を考案したことでも知られる。 作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの、戦争中の体験を描いた作品群、『出発は遂に訪れず』などの作品群、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの作品群に大別される。また、小説作品との決定的な差異はないとされる日記や、紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども多く書き続けた。
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槇野 勇(まきの いさむ、1917年(大正6年)4月18日 … 槇野 勇(まきの いさむ、1917年(大正6年)4月18日 - 1994年(平成6年)11月2日)は、日本の警察官僚。警視総監。位階は正四位。 奈良県、現在の五條市出身。1935年奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、[要出典]第一高等学校を卒業。1941年10月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に復員。 内務省に復帰し内務省調査局調査課に配属。1953年、国家地方警察滋賀県本部警察隊長に就任。
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小市 巳世司(こいち みよし、1917年(大正6年)4月18… 小市 巳世司(こいち みよし、1917年(大正6年)4月18日 - 2009年(平成21年)11月23日)は、日本の歌人。『アララギ』最後の編集発行人。中学教師、出版社編集部員、定時制高校教師、大学講師などを務めた。 東京府出身。1937年にアララギへ入会し、土屋文明に師事。第一高等学校を経て、1940年に東京帝国大学文学部を卒業後、岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)へ勤務。1946年5月から中等学校教科書株式会社(中教出版)編集部へ勤務。1950年3月に退職後、東京書籍株式会社編集部へ勤務。1953年4月に東京書籍退社後、東京都立小石川高等学校定時制へ勤務。1972年に中断していた作歌へ復帰し、アララギ編集委員・選者を務める。
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原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日… 原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日 - 2000年〈平成12年〉12月12日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)で、原田浜三郎、なか の二男として生まれた。早稲田大学商学部聴講生(講義録)修了。1932年(昭和7年)伊勢丹に入社し、その後、2年間兵役に就いた。1940年(昭和15年)日立航空機に移り、1945年(昭和20年)玉川村役場に入り、1852年(昭和27年)収入役に就任。1955年(昭和30年)合併で茅野町収入役となる。茅野市発足後、1958年(昭和33年)収入役、1963年(昭和38年)助役となる。1967年(昭和42年)に退職し、東洋精機興業に入社し事業部副部長に就任。
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渡辺 武(渡邊武、わたなべ たけし、1913年4月18日 -… 渡辺 武(渡邊武、わたなべ たけし、1913年4月18日 - 2004年2月11日)は、日本の漢方薬・椿研究家。 京都市生まれ。1935年京都薬学専門学校(現京都薬科大学)卒業。1939年東京帝国大学医学部薬学科選科修了。在学中に湯本求真の紹介により荒木性次に師事。1941年武田薬品株式会社研究所入社。1947 - 62年厚生省日本薬局方制定委員会委員。宮内庁より正倉院薬物調査を委嘱され、1956年「正倉院薬物の研究」で京都大学薬学博士。67年武田薬品を定年退社。1976年薬局・薬店・薬剤師、薬種商の東洋医学及び漢方の食養の研鑽の場として草古堂薬室方技塾を発足、77年日中医薬研究会に改称(会長)。
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白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - … 白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。静岡県湖西市出身。愛知製鋼の元社長。湖西市長も務めた。 1930年に静岡県立浜松商業学校を卒業し、1932年12月に豊田自動織機製作所に入社。 1949年11月に取締役に就任し、常務を経て、1963年2月に愛知製鋼専務に就任した。1969年12月に社長に就任し、1980年3月に会長を経て、1985年3月から相談役を務めた。1987年から1992年までに湖西市長も務めた。 1979年5月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日心不全のために死去。81歳没。
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西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - … 西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本のサッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。 選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄や堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。 早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた。 西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された が、本大会での出場機会は無かった。
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東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18… 東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18日 - 1971年(昭和46年)8月4日)は、日本のバレエダンサー、振付家である。 宮城県仙台市で生まれた。1922年、12歳の時にアンナ・パヴロワの来日公演を横浜で鑑賞して感銘を受けた。旧制仙台二中(現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業後に上京し、1930年に当時鎌倉の七里ガ浜でバレエスクールを開いていたエリアナ・パヴロワの内弟子となってバレエの道に進むことになった。 後にパヴロワの元を離れ、蘆原英了が創設した「日本チェケッティ協会」に加入してバレエの研究に取り組んだ。一方で日劇を本拠地にして1934年に高田せい子の門下だった益田隆、浅草の「カジノ・フォーリー」で活躍していた梅園竜子とともに「益田トリオ」を結成して活動し、1936年に来日したオリガ・サファイアのパートナーも務め、サファイアからソビエトバレエについての知識を得た。
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菅 忠道(かん ただみち、1909年4月18日-1979年1… 菅 忠道(かん ただみち、1909年4月18日-1979年11月20日)は、児童文学研究家。 東京生まれ。父は陸軍軍人。1927年福岡県中学修猷館、1930年第五高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部教育学科中退。学生時代から東大セツルメントなどの児童文化運動に関わり、1936年保育問題研究会に参加し、事務局長格の仕事をする。1936-42年岩波書店の雑誌『教育』の編集に参加。1937年からは教育科学研究会生活教育研究部会に所属、その傍ら同じ頃から同研究会の校外教育研究会に参加し、児童文学に取り組む立場から校外の子どもの生活や教育活動を研究した。幼児教育を研究対象とすることから、保育問題研究会と教育科学研究会の双方をつなぐ役割を果たす。
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南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年… 南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年不明 )は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社。1957年4月に阪神百貨店常務に就任し、専務を経て、1963年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1990年6月には相談役に就任。1985年12月には大阪商工会議所副会頭に就任。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。
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田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18… 田上 帯雨(たがみ たいう、1908年(明治41年)4月18日-2000年(平成12年)7月8日)は日本の書家。全日本書芸文化院名誉代表。本名は田上重利。 1908年(明治41年)4月18日、熊本県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業する。1933年(昭和8年)に田代秋鶴に師事し、書を始める。教職の傍ら、書学に励み、1938年(昭和13年)に文部省検定(文検習字科)に合格する。 共立女子専門学校、白百合女子大学で書道の指導にあたり、1950年(昭和25年)に日本書道美術院審査員、1951年(昭和26年)に全日本書芸文化院副会長、1965年(昭和40年)に日本書道美術院理事、1971年(昭和46年)に全日本書芸文化院代表を歴任する。
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松浦 東介(まつうら とうすけ、1907年(明治40年)4月… 松浦 東介(まつうら とうすけ、1907年(明治40年)4月18日 - 1964年(昭和39年)3月6日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員。 山形県東村山郡成生村(現在の天童市)大字大清水に生まれる。1926年、山形県立寒河江中学校を卒業。山形県会議員、同参事会員を務めた。1942年の翼賛選挙では山形1区(当時)から大政翼賛会の推薦を受けずに立候補したため落選した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で山形選挙区から出馬して当選。以後、23回、24回、25回、27回、29回、第30回総選挙で当選し、衆議院議員を通算7期務めた。 この間、日本自由党、民主自由党、自由党、日本民主党、自由民主党に所属。
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小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 … 小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 - 没年不明)は日本の数学者、教育学者。鳥取大学教授。 鳥取県境港市竹内町出身。 昭和7年(1932年)京大卒。朝鮮元山公立中学校、鳥取二中各教諭、鳥師教授を経て鳥取大学学芸学部教授。 趣味は俳句。宗教は禅宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 199… 伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 1992年4月4日)は、日本の植物研究家である。サボテンの交配や研究を行い、サボテンに関する多くの著作を行った。 山口県宇部市に生まれた。旧制中学卒業後、独学でサボテンの研究を行った。1952年、中井猛之進の推薦で「南米産サボテンの新分類法」の学位請求論文を提出した。1957年の『サボテン図説 南米物サボテンの分類』はドイツのサボテン研究家で、網羅的なサボテンの事典を作ったドイツのクルト・バッケベルクの著書『サボテン科』("Die Cactaceae: Handbuch der Kakteenkunde")に引用された。新種のサボテン450種を作出し、200以上のサボテンの属や1000以上の種の命名をおこなった。
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高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月1… 高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授・神奈川大学教授・日本大学教授・東海大学教授、秋田経済法科大学学長を歴任。 1905年、山形県山形市で生まれた。1918年、山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に入学。1925年、山形高等学校を卒業。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学文学部哲学科に入学。当時の文学部には西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎らが教員として在籍しており、京都学派の全盛期であり、特に田辺から多大な影響を受けた。西田幾多郎からは俊秀と評され、京都帝国大学を首席卒業した。
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中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 19… 中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。
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三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4… 三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。妻は同じく洋画家の三岸節子(旧姓:吉田)、異父兄は作家の子母澤寛(本名:梅谷松太郎)。 祖父の梅谷十次郎は元御家人で、石狩国の漁村厚田村(現:石狩市厚田区厚田)の網元だった(子母澤寛を参照)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父の巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
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芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日… 芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。愛媛県出身。 愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの四男。父は教員や村長を歴任し俳句も作った。「不器男」の命名は『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)による。1920年(大正9年)、宇和島中学校(一級上に富澤赤黄男がいた)を卒業し、松山高等学校に入学。 高校では山岳部に所属、日本アルプスを踏破した。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科に入学。
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大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月… 大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1988年(昭和63年)8月27日)は日本の実業家、元四国電力社長・会長。福島県出身。
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金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945… 金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945年4月25日)は、朝鮮のキリスト教指導者。本貫は慶州金氏。 咸鏡南道咸興府出身。1919年に日本の正則英語学校に留学し、1920年に東京のホーリネス教会で受洗、1921年内村鑑三のロマ書講義に感銘を受け、以後の聖書集会に出席した。1927年東京高等師範学校理科第3部を卒業後帰国し、咸興の永生女子高等普通学校の教師を務め、1928年からは京城の養正高等普通学校、1940年には第一高等普通学校、1941年には開城の松都高等普通学校に赴任した。 1927年には咸錫憲ら無教会主義の同志らと『聖書朝鮮』誌を創刊し、「世の中で一番良いものは聖書と朝鮮」であり、「新しい朝鮮を聖書の上に建てよ」と説き、朝鮮的キリスト教を追求した。
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渡辺 本治(渡邊、わたなべ もとじ、1901年(明治34年)… 渡辺 本治(渡邊、わたなべ もとじ、1901年(明治34年)4月18日 - 1961年(昭和36年)3月14日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県、後の西条市の農家に生まれる。10歳で父が死去し、商店や銅山で働き、17歳の時に一家で九州に移った。 1925年(大正14年)中島炭鉱に入社し採炭作業に従事。1933年(昭和8年)熊ヶ畑炭鉱(山田市)を開鉱。1936年(昭和11年)篠谷炭鉱(二瀬町)を開鉱。その後、伊岐須鉱・後牟田鉱(二瀬町)、赤間鉱(宗像町)、古月鉱(鞍手町)、稲築鉱、水江鉱などを経営し、渡辺鉱業社長、渡辺商事社長となる。1947年(昭和22年)小倉硝子工業を設立し社長に就任。
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椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 198… 椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 1985年1月27日)は、日本の作家。眼科医。本名は藤森 章。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、慶應義塾大学医学部卒業後、1925年同大眼科教室助手となった。その後は満鉄長春医院眼科医長、満鉄撫順医院眼科医長を歴任。 1946年に引き揚げ、東京電力病院眼科医長などを歴任した。 「テノン氏嚢の研究」「ミュッレル氏筋の研究」など眼科研究論文を発表。 大学在学中、本名で正木不如丘主宰の同人誌『脈』に小品を発表。1949年『宝石』に「カメレオン黄金虫」を発表し推理小説作家として登場した。1951年に『宝石』に発表した「扉」が翌年の第5回探偵作家クラブ賞候補作となる。
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辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月… 辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月18日 - 1954年(昭和29年)6月24日)は、日本の政治家(秋田市会議員、同副議長)、商人(呉服商、秋田県呉服太物商組合長)、実業家。秋田土地社長。辻代表。秋田商工会議所副会頭。 秋田県・辻兵吉の長男。辻吟次郎の甥。1917年、秋田中学卒業。1919年、志願兵として入営し、陸軍中尉に進級した。呉服商を営み傍ら会社の重役であった。秋田市会議員に推され、1942年7月13日、副議長(第18代)に就任し、1945年3月10日、退任した。 趣味は囲碁、運動。宗教は浄土真宗。秋田県在籍。住所は秋田市大町、東京市麹町区永田町。
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池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 199… 池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 1995年11月18日)は、日本の日本文化史学者、奈良教育大学名誉教授。 大分県宇佐市生まれ。1932年京都帝国大学文学部国史科卒業。西田直二郎に師事。京都市立第一商業学校、京都府立第一中学校教諭、龍谷大学講師、橿原文庫主事。1949年、奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1961年、「歴史の始源と口誦伝承」で京都大学文学博士。1963年、定年退官、名誉教授、龍谷大学教授。1978年、勲三等瑞宝章を受章。
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大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 198… 大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 1986年3月26日)は、日本の実業家。三菱電機代表取締役社長や、日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長などを歴任した。正四位勲二等旭日重光章。 栃木県出身。1921年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1924年東北帝国大学工学部電気工学科卒業、三菱電機入社。姫路工場長、営業部長を経て、1954年取締役事業部長に昇格。 1964年から三菱電機社長を務め、兵器事業の強化にあたった。1965年藍綬褒章受章。 1970年三菱電機会長。1971年蔵前工業会理事長。日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長も歴任。
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小池 政恩(こいけ せいおん、1899年4月18日 - 19… 小池 政恩(こいけ せいおん、1899年4月18日 - 1963年12月20日)は、日蓮宗僧侶、衆議院議員(1期)。息子は三島市長の小池政臣、孫は衆議院議員の小池政就。 静岡県出身。1929年法政大学文学部英法科を卒業後、日蓮宗布教院で教学を学ぶ。沼津市の住本寺住職、三島市猛通寺住職、宗会議員を歴任した後に本山玉沢妙法華寺貫首に晋山。三島高等実科女学校で教鞭も執った。宗教活動のほか社会福祉活動にも力を注ぎ、境内に老人福祉施設「玉沢昭寿園」を作った。1959年、社会福祉法人静岡恵明学園の理事長に就任。 政治家としては第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から静岡県選挙区で立候補し当選した。
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森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
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大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18… 大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18日 - 1977年〈昭和52年〉7月19日)は日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。1932年までは篤夫(あつお)と名乗っていた。太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲、軍歌(戦時歌謡)、社歌、校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章、1972年勲四等旭日小綬章。 広島県広島市天満町(現在の西区天満町)出身。生家は裕福な呉服商であったが、彼が物心付く頃には没落しており、貧しい暮らしの中で育った。少年時代に『アラビアン・ナイト』や巖谷小波の『世界お伽噺』を読み、文学者を志す。
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綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月1… 綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月18日 - 1980年(昭和55年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・矢野。 大分県出身。農業・矢野黙三郎の息子として生まれ、綾部伝一郎陸軍少佐の養嗣子となる。中学済々黌、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官、騎兵第12連隊付となる。陸軍騎兵学校で学ぶ。1918年8月から翌年7月までシベリア出兵に出動。再度、騎兵学校で学んだ後、1924年11月、陸軍大学校(36期)を首席で卒業した。 騎兵第12連隊中隊長、陸軍省軍務局課員(軍事課)、ソ連駐在、参謀本部員、兼軍令部員、関東軍参謀(作戦主任)、参謀本部課長などを歴任し、日中戦争に騎兵第25連隊長として出征した。
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北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 -… 北村 孝治郎(きたむら こうじろう、1894年4月18日 - 1969年12月25日 )は、日本の銀行家、経営者。滋賀銀行頭取を務めた。 滋賀県大津市出身。1917年に東京帝国大学独法科を卒業。横浜正金銀行での勤務を経て、1953年4月に滋賀銀行監事に就任し、1957年10月には頭取に昇格。1963年10月には会長に就任。75歳没。 横浜正金銀行からスイスの国際決済銀行 (BIS)に派遣されていた1945年、同じく派遣者の吉村侃とともに、スイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)およびスイス駐在陸軍武官の岡本清福の支援を得ながら、スウェーデンからBISに派遣されていたペール・ヤコブソンを介して、アメリカの諜報機関戦略情報局 (OSS)のアレン・ウェルシュ・ダレスとの間で日本の終戦工作を(ヤコブソンが別々に日本とアメリカの関係者と会合する形で)おこなった。
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西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1… 西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1945年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1940年の北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。 陸軍憲兵大尉・西原貫洞の三男として生まれる。広島県立広島第一中学校(現、広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校25期卒業。同期には、武藤章等。北部仏印進駐に際し、平和進駐を指示していた中央に反して富永恭次らが強行進駐を実施したのを嘆き、陸海軍次官宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発した。 1945年1月23日に死去。死去にあたり祭資の下賜を受けた。
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牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 194… 牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
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野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)… 野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)4月18日 - 昭和51年(1976年)9月8日)は、昭和時代の製塩業を営んだ実業家。野﨑続太郎の子(母は祖父野﨑武吉郎の娘)。妻は板倉勝憲の娘(長女)。姉に階(佐谷有吉妻)、妹に正(舟橋清賢妻)。子女は、保子(三女、大塚斌妻)ら。 京都帝国大学卒業。大正14年に祖父武吉郎が没した為、家業(製塩業)を継ぐ。昭和9年(1934年)株式会社野﨑事務所カナワ式、真空式、流下式と新しい製塩法を次々と取り入れ近代化をはかった。昭和21年(1946年)に内海塩業株式会社に社名変更し、昭和44年(1969年)にはイオン交換樹脂膜法を採用した。昭和49年(1974年)にはナイカイ塩業株式会社と社名を変更した。
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佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日… 佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日 - 1931年(昭和6年)3月1日)は、日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。 山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県に帰り、キリスト教信徒伝道者・本間俊平の「感化」を促す施設で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1913年9月に第一高等学校を卒業した。
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阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948… 阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948年5月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県西磐井郡厳美村(現在の一関市厳美町)で村長・阿部雄七とその妻てふの二男として生れる。旧制一関中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1919年11月、海軍砲術学校高等科を卒業し、「磯風」砲術長、第2艦隊参謀、砲術学校教官などを経て、1924年11月、海軍大学校(甲種22期)を次席で卒業した。 「長門」副砲長兼分隊長、アメリカ駐在、海軍省軍務局第1課局員、第2艦隊参謀、海大教官、第3艦隊参謀、海大教官、軍務局第1課長、第2回ロンドン軍縮会議全権随員、「多摩」「龍驤」「加賀」の各艦長、軍令部第3部長などを歴任し、1938年11月、海軍少将に進級。
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