尾崎 行信(おざき ゆきのぶ、1929年4月19日 - 20… 尾崎 行信(おざき ゆきのぶ、1929年4月19日 - 2014年3月9日)は、日本の裁判官、弁護士。最高裁判所裁判官を務めた。位階は正三位。 明治から戦後まで衆院議員を務め「憲政の神様」と呼ばれた政治家・尾崎行雄の孫である。戦時中に祖父が起訴された尾崎不敬事件で、一審は有罪だったが大審院では逆転無罪となった時に「戦争中のひどい時代に立派な判決を出す人がいる」と感銘を受けたという。 三重県出身。尾崎行雄と繁の二男・彦麿の長男として生まれる。旧制宇治山田中学校(49期)、旧制成蹊高等学校(23回生)を経て、1953年に東京大学法学部卒業。 嘱託尋問調書の証拠能力を否定したロッキード事件「丸紅ルート」の大法廷判決、靖国神社などへの玉串料の公費支出を違憲とした愛媛県靖国神社玉串料訴訟の大法廷判決に関わったほか、裁判長として「がん告知義務訴訟」などの判決に携わった。
太田 蘭三(おおた らんぞう、1929年4月19日 - 20… 太田 蘭三(おおた らんぞう、1929年4月19日 - 2012年10月22日)は、三重県鈴鹿市出身の小説家。山岳推理小説の第一人者として知られる[要出典]。本名・太田 等(おおた ひとし)、別筆名に太田 瓢一郎。 三重県立津高等学校を経て中央大学法学部卒[要出典]。 同人誌「新表現」を経て1956年に太田瓢一郎の筆名で時代小説でデビュー。1958年から1963年まで時代ものの単行本の刊行を続けたが、以後単行本の刊行は止まる。その後、長年続けてきた登山と釣りの経験を生かし、釣り雑誌にエッセイや小説を連載していたが、1978年に新しい筆名太田 蘭三で『殺意の三面峡谷』を刊行して再デビュー、山岳推理の新境地を開拓した。
正田 昭(しょうだ あきら、1929年4月19日 - 196… 正田 昭(しょうだ あきら、1929年4月19日 - 1969年12月9日)は、日本の元死刑囚、小説家である。バー・メッカ殺人事件の主犯。 正田は裕福な中流家庭で兄3人と姉2人の末っ子として大阪府に生まれる。弁護士だった父親は石川県から横浜英語学校に学び、21歳で渡米、ハウスボーイから身を立てカリフォルニア州立大学を経て、サクラメントで法律事務所を経営する人物だったが、昭が生後5ヶ月のときに54歳で他界し、昭は高校の体育教師だった母親によって育てられる。母親は4人の息子たちを早稲田大、フィレンツェ大、東大、慶応大に進学させ、娘2人も女子大に進ませた。賢母だったが印鑑と銀行の貸金庫の鍵を肌身離さず持つなど金に対する執着が強く、そのような母に耐えられなかった長兄が家庭内暴力をするようになる。
深代 惇郎(ふかしろ じゅんろう、1929年4月19日 - … 深代 惇郎(ふかしろ じゅんろう、1929年4月19日 - 1975年12月17日)は、日本の新聞記者。
好並 隆司(よしなみ たかし、1929年4月19日 - 20… 好並 隆司(よしなみ たかし、1929年4月19日 - 2010年9月23日 )は日本の歴史学者、社会運動家。専門は中国古代史。 京都府京都市生まれ。高校時代、平和運動に目覚める。1947年、岡山大学法文学部文学科1期生入学。1948年日本共産党入党。開学期の岡山大学学生運動を指導する。 岡山大学卒業後は広島大学大学院文化研究科を経て岡山大学文学部教官となる。 1961年、春日庄次郎らとともに日本共産党を批判、除名される。社会主義革新運動創設に参加し、その後共産主義労働者党に参加。 1969年、岡山大学闘争に際しては入試拒否27教官に名前を連ねる。 1973年、岡山大学教養部教官坂本守信の解雇処分に反対する教養部バリケード封鎖では学生らとともに教養部構内に立てこもる。
杉崎 光世(すぎさき みつよ、Dr. Sugisaki Ka… 杉崎 光世(すぎさき みつよ、Dr. Sugisaki Kawase Mitsuyo, 1929年(昭和4年)4月19日 - 2018年(平成30年)6月12日)は、日本の法学者(博士)。フランス語学者。教育者。九州国際大学名誉教授。専門分野は家族法。板垣退助の曾孫。IQ140。旧姓は川瀬で、婚姻により杉崎姓を名乗るが、のち川瀬に復姓。川瀬光世。 昭和4年(1929年)4月19日、日本福音ルーテル八幡教会牧師・川瀬徳太郎の二女として、福岡県八幡市大字槻田1194番地に生まれる。母は乾正士の長女 美世子(みよし)。教育家・乾一郎は叔父にあたる。 西南女学院を卒業後、八幡大学法経学部に進み、さらに九州大学大学院で博士課程の単位を取得した。
能島 廉(のしま れん 1929年4月19日 - 1964年… 能島 廉(のしま れん 1929年4月19日 - 1964年12月16日)は、作家、編集者。本名は野島 良治(のしま よしはる)。 宮崎市出身だが、子供の頃に親の故郷である高知市へ移ることになり、高知県立海南中学校に入学した後名古屋陸軍幼年学校へ入学したが、終戦となり海星中学に復学したのち旧制高知高等学校に進学する。 1949年に東京大学文学部ドイツ文学科へ入学すると、在学中に旧制高知高校の先輩から誘われる形で同人誌『第15次新思潮』に加わり、1952年に大学を卒業して小学館に入社した後も児童向け雑誌の編集に関わりながら短編数話を発表した。その後小学館の学習雑誌で学年別の編集長を務め、作家として梶山季之や瀬戸内寂聴らを起用している。
樫尾 和雄(かしお かずお、1929年(昭和4年)4月19日… 樫尾 和雄(かしお かずお、1929年(昭和4年)4月19日 - 2018年(平成30年)6月18日)は、日本の実業家。カシオ計算機創業メンバーの「樫尾四兄弟」の一人(三男)。 東京都出身。1949年に日本大学高等師範部英語科を卒業。電気計算機の開発を手がけていた樫尾製作所(長兄の樫尾忠雄が創業)を助けるため、それまでの仕事を辞めて入社。計算機開発では忠雄とともに製作を担当した。計算機の商業化に成功した1957年にカシオ計算機が設立されると兄弟とともに創業メンバーとなる。 カシオ計算機では営業を主に担当する。カシオの名を広めた世界初の個人向け電卓であるカシオミニを企画。デジタル式腕時計のG-SHOCKやデジタルカメラを一般化させたQV-10の企画にも関与し、ヒット商品に育てた。
小坂井 澄(こさかい すみ、1929年4月19日 - )は、… 小坂井 澄(こさかい すみ、1929年4月19日 - )は、ノンフィクション作家。 東京生まれ。立教大学文学部中退。集英社勤務の後、1967年よりフリーライターになる。1975年から著作の上梓を始め、1983年、『これはあなたの母』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。一貫してキリスト教精神に貫かれており、当初は不幸な女性たちの評伝、近年はキリスト教関係の書物が多い。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
実藤 遠(さねとう とおし、1929年4月19日 - 201… 実藤 遠(さねとう とおし、1929年4月19日 - 2016年10月30日)は、日本の中国研究者、超常現象研究家。 東京生まれ。父は実藤恵秀、弟にさねとうあきら。1951年早稲田大学政治経済学部卒業。早稲田実業高等学校で地理の教師を務める。はじめは日本と中国との関係史を研究したが、1974年の超能力ブームに触発されて、超常現象の研究をはじめる。日本サイ科学理事長、国際新科学会会長、国際新科学研究所所長。天然自然研究会歴任、チョウ常識教室を主宰。
矢島 文夫(やじま ふみお、1928年4月19日 - 200… 矢島 文夫(やじま ふみお、1928年4月19日 - 2006年5月22日)は、日本の言語学者(アラビア語学)・オリエント学者・翻訳家。アジア・アフリカ図書館館長。東京市生まれ。アラビア語やメソポタミア文学・オリエント神話・歴史等を研究。『ギルガメシュ叙事詩』の翻訳の他、海外の関連研究書を数多く翻訳し日本に紹介した。 父は科学史家の矢島祐利、母は民俗学者の矢島せい子。弟の矢島敬二(東京都立大学理学部数学科卒)は東京理科大学教授、矢島敏彦(東京大学理学部地質学科卒)は埼玉大学教授。母の兄弟姉妹に沢村国太郎や沢村貞子、加東大介がおり、親族に俳優が多数いる。 旧制東京外事専門学校(現・東京外国語大学)卒業。
田沼 肇(たぬま はじめ、1926年〈大正15年〉4月19日… 田沼 肇(たぬま はじめ、1926年〈大正15年〉4月19日 - 2000年〈平成12年〉8月9日)は、日本の社会学者・社会運動家。 群馬県桐生市生まれ。本籍東京市(現港区)。武蔵高等学校卒、1948年東京帝国大学経済学部卒、商工省調査統計局勤務。1950年法政大学大原社会問題研究所勤務、1963年同社会学部助教授、1964年教授。1970-1971、1978-1981年社会学部長。1993年退職、名誉教授。1983年原水爆禁止日本協議会代表理事。 1987年に発病し、1995年パーキンソン症状を伴う進行性核上性麻痺と診断される。1993年東京都重度心身障害者手当を申請するが、判定医の診断により却下される。
宇野 亨(うの とおる、1924年(大正13年)4月19日 … 宇野 亨(うの とおる、1924年(大正13年)4月19日 - 1995年(平成7年)11月11日)は、昭和期の政治家、実業家。衆議院議員(2期)、千葉県議会議員(3期)などを務めた。旧姓・佐藤。 千葉県匝瑳郡共興村(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で佐藤久衛、つぎ の四男として生まれた。共興小学校、匝瑳中学校(現千葉県立匝瑳高等学校)を経て、1942年(昭和17年)早稲田大学文学部に入学。1944年(昭和19年)前橋陸軍予備士官学校に入校し、見習士官となり陸軍少尉で終戦を迎えた。その後、復学して1947年(昭和22年)早稲田大学文学部を卒業した。大学在学中に、親類筋、八日市場市の酒造業・宇野儀助の長女・満子と結婚して宇野姓となる。
日高 啓(ひだか ひろし、1924年4月19日 - 2018… 日高 啓(ひだか ひろし、1924年4月19日 - 2018年9月9日)は、日本の経営者。髙島屋社長を務めた。宮崎県宮崎市出身。 1948年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に髙島屋に入社した。1976年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1986年2月に副社長に就任し、1987年4月には社長に昇格。1996年7月に取締役相談役に就任し、1997年2月に相談役、2000年5月に特別顧問を経て、2001年5月から顧問を務めた。 2018年9月9日に脳梗塞のために死去。94歳没。
時野谷 滋(ときのや しげる、1924年(大正13年)4月1… 時野谷 滋(ときのや しげる、1924年(大正13年)4月19日 - 2006年(平成18年)5月3日)は、日本の日本史学者。 専門は日本制度史。1979年(昭和54年)に東京大学から「律令封禄制度史の研究」(主査土田直鎮)に対して文学博士の学位を授与されたのをはじめ、律令財政史が中心であるが、論文は古代・上代に限らず、中世・近世・近代に亘っている。また、1973年(昭和48年)から1985年(昭和60年)まで文部省で教科書調査官および主任教科書調査官を務めた。いわゆる家永教科書裁判の第三次訴訟の対象となった検定時の主査を務めたことから、教科書裁判に証人として出廷した。 東京に生まれる。本籍は茨城県真壁郡河間村(下館市を経て、現在の筑西市)。
粕谷 照美(かすや てるみ、1924年〈大正13年〉4月19… 粕谷 照美(かすや てるみ、1924年〈大正13年〉4月19日 - 2023年(令和5年)12月9日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身。1943年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒。新潟県内の小中学校の教員を務め、新潟県教職員組合執行委員、日本教職員組合中央執行委員を経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。3期務める。国会内では逓信委員長、環境対策特別委員長などを歴任、党内では中央執行委員、教育文化局長などを務めた。芸大事件の追及などを行った。1992年の第16回参議院議員通常選挙に出馬せず引退した。
千 玄室(せん げんしつ、1923年〈大正12年〉4月19日… 千 玄室(せん げんしつ、1923年〈大正12年〉4月19日 - 2025年〈令和7年〉8月14日)は、茶人。茶道裏千家15代家元汎叟宗室。斎号は鵬雲斎、若宗匠時代は宗興。家元譲座後は大宗匠を務めた。位階は従三位。 「玄室」の名は、裏千家4代目の仙叟宗室が宗室を襲名する以前の名で、12代直叟宗室が隠居した際にも「玄室」を名乗っていた。最初の「宗室」への改名前の本名は千 政興。 青年時代には大日本帝国海軍に特攻隊員として入隊した経験を持ち、メディアなどを通し、戦争体験者の1人として実体験を語り継いでいた。終戦直前には松山海軍航空基地で航空隊分隊士教官として甲飛第15期の訓練にあたった。後に特秘命令として南方戦線に居る高官を陸軍の大型輸送機を使用して連れて帰るように命ぜられた。
森 一郎(もり いちろう、1923年4月19日 - 1991… 森 一郎(もり いちろう、1923年4月19日 - 1991年10月21日)は、日本の英語教師・俳人。 奈良県出身。奈良県立畝傍中学、東京文理科大学卒業。奈良女子高等師範学校附属高等女学校(現・奈良女子大学附属中等教育学校)英語科教諭、東京都立日比谷高等学校英語科教諭、関西学院大学教授、奈良産業大学教授、中央ゼミナール講師を歴任。 日比谷高校時代にまとめた入試頻出順の英単語集である『試験にでる英単語』(青春出版社)の初版の1967年以降、2006年現在までに累計1500万部を超える大ベストセラーとなり、大学受験参考書・英単語集の金字塔を打ち立てた。1975年に第一回目の改訂が行なわれ、当時社会問題化した環境問題等に関する単語を追加し、時事英語試験への対策を強化した。
戸田 一夫(とだ かずお、1922年4月19日 - 2006… 戸田 一夫(とだ かずお、1922年4月19日 - 2006年10月21日)は、日本の実業家。フィンランド視察を基にした、北海道産業クラスター構想提唱者。北海道札幌市出身。東京工業大学(現東京科学大学)卒。
友金 信雄(ともがね のぶお、1922年〈大正11年〉4月1… 友金 信雄(ともがね のぶお、1922年〈大正11年〉4月19日 - 2005年〈平成17年〉7月13日)は、日本の政治家。兵庫県宝塚市長。位階は従四位。 兵庫県に生まれる。1943年(昭和18年)横浜専門学校(現神奈川大学)を卒業。1955年(昭和30年)宝塚市議会議員、1967年(昭和42年)兵庫県議会議員にそれぞれ当選。 1970年(昭和45年)12月23日、宝塚市長の北俊三が任期中に死去。1971年(昭和46年)2月7日に行われた宝塚市長選挙に立候補し初当選した。1991年(平成3年)まで5期在任。同年の市長選で落選して引退した。 2005年に83歳で死去。死没日付をもって正八位から従四位に進階した。
小野 三嗣(おの みつつぐ、1921年(大正10年)4月19… 小野 三嗣(おの みつつぐ、1921年(大正10年)4月19日 - 2007年(平成19年)3月22日)は、日本の運動生理学者。 秋田県大館生まれ。1942年陸軍航空士官学校(55期)卒、45年大尉に昇進、航空第二師団参謀部付、1950年東京慈恵会医科大学医学部卒業。同名取礼二生理学教室所属、60年 東京慈恵会医科大学医学博士。論文の題は「所謂光力学的作用による骨格筋収縮の機転について」62年慈恵医大講師、1963年東京学芸大学助教授。1964年東京オリンピックで重量挙げのトレーニング-ドクターとなり、全員入賞に貢献した。1966年横浜国立大学教授、1970年東京学芸大学教授。85年定年退官、名誉教授。
岩瀬 義郎(いわせ よしろう、1920年〈大正9年〉4月19… 岩瀬 義郎(いわせ よしろう、1920年〈大正9年〉4月19日 - 2015年〈平成27年〉1月10日)は、日本の大蔵官僚。証券局長、理財局長、日本キャッシュサービス取締役社長、外務省海外移住審議会会長、 沖縄振興開発金融公庫理事長、財団法人日本経済教育センター副会長などを務めた。 東京府出身。1943年12月 臨時召集(横須賀第2海兵団)。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月、主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月、経理学校を卒業し、海軍主計少尉に任官。1944年12月、1945年2月 天城乗組。同年9月、主計中尉に進み予備役に編入。 1946年9月 東京帝国大学経済学部経済学科卒業。
久野 健(くの たけし、1920年4月19日 - 2007年… 久野 健(くの たけし、1920年4月19日 - 2007年7月27日)は、日本の仏像研究家。日本彫刻史が専門で、仏像研究に日本で初めて光学的方法を適用した。 東京都出身。東京帝国大学卒。 1945年(昭和20年)、文部省美術研究所(現東京国立文化財研究所)入所。 1959年(昭和34年)、神奈川県横須賀市芦名の浄楽寺で、江戸時代の地誌に仏師運慶との関係を伝える記録があった仏像5体(阿弥陀如来坐像・観音菩薩立像・勢至菩薩立像・毘沙門天立像・不動明王立像)を調査し、内部から運慶の銘札を発見し運慶作であることを実証した。 1976年(昭和51年)に「平安初期彫刻史の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。
真島 公三郎(まじま こうざぶろう、1920年4月19日-2… 真島 公三郎(まじま こうざぶろう、1920年4月19日-2009年9月19日 )は、日本の経営者。三井金属鉱業社長を務めた。佐賀県出身。 1943年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三井鉱山に入社した。後に三井金属鉱業に転じ、1974年5月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1981年6月に専務を経て、1983年6月に副社長に就任し、1984年6月には社長に昇格した。1990年6月に会長に就任し、1993年6月から名誉相談役を務めた。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲一等瑞宝章を受章した。 2009年9月19日心不全のため死去、89歳没。
中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1… 中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1970年2月27日)は、和歌山県出身のプロ野球選手(三塁手)。
小林 文次(こばやし ぶんじ、1918年 <大正7年> 4月… 小林 文次(こばやし ぶんじ、1918年 <大正7年> 4月19日 - 1983年 <昭和58年> 8月28日)は、日本の建築史家、工学博士。福島県伊達郡桑折町生まれ。兄に歴史学者・文学博士の角田文衞がいる。門下には望月照彦、近江榮、山本理顕、椎名英三などがいる。福島県のさざえ堂の実測調査を手がけた。位階は従五位。 1941年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院に進学するも1944年に退学。同年慶應義塾大学予科教授。大学院生時代は平等院の研究を手がける。1949年日本大学助教授、1952年フルブライト制度でアメリカ合衆国のオレゴン大学へ留学。現地ではアメリカ合衆国近代建築史を研究した。1960年「古代メソポタミヤ建築論」により、東京大学工学博士を取得。
田原 尚(たはら ひさし、1917年4月19日 - 2004… 田原 尚(たはら ひさし、1917年4月19日 - 2004年2月10日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1968年11月に取締役に就任し、1972年11月に常務、1976年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1982年6月から1988年6月までに社長を務めた。1990年6月から1994年6月までに会長を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年2月10日肺炎のために死去。86歳没。
守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)… 守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)4月19日 - 平成12年(2000年)8月16日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取・会長。 中国地方各地で、税務署長を務めた地主藤井宇一郎の5男として、広島県深安郡千田村(現福山市)で生まれる。 京都帝大卒後、神戸海上保険勤務を経て守分家の婿養子となる。 1948年(昭和23年)中国銀行入行。支店長、役員等歴任。義父である守分十の死去に伴い、頭取に就任する。 頭取在任時は、自主健全経営を堅持したほか、時代に即応した経営戦略を打ち出し人事諸制度の整備、改革の実施、事務管理体制の強化、店舗網の整備拡充、総合オンライン体制への移行や相次ぐ関連会社の設立などの施策を講じた。
池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 20… 池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 2000年4月22日 )は、日本の経営者。大和銀行頭取を務めた。 大阪府大阪市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に大和銀行に入行。1968年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年5月に副頭取に就任し、1977年4月に頭取に就任。1984年6月に取締役相談役に就任し、1986年6月に相談役を経て、1998年4月から顧問を務めた。 大阪銀行協会会長、朝日放送監査役、西日本旅客鉄道非常勤取締役を歴任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2000年4月22日肺炎により、大阪市の病院で死去。
浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19… 浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19日 - 1997年〈平成9年〉7月31日)は、日本の官僚、実業家。郵政事務次官、フジテレビジョン社長、日本民間放送連盟第5代会長を務めた。岐阜県出身。 京都帝国大学法学部卒業後、逓信省入省。経理局に配属される。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、1940年(昭和15年)9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。工作艦明石に配属され、以後、海南警備府司令部付副官事務、舞鶴海軍航空隊主計長兼副官、第31航空廠会計科長、第三南遣艦隊司令部付、第33警備隊主計長兼副官を歴任。ミンダナオ島の戦いで辛酸をなめた。
高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 19… 高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 1990年9月25日)は、日本の昭和期の労働官僚、評論家。旧姓は富田。建築家の富田玲子は娘。 旧満洲長春に生まれる。1929年3月、長春西広場尋常小学校を卒業。長春高等女学校から、大連神明高等女学校に転校した。1933年(昭和8年)、東京女子大学英語専攻部に入学。当初、別の大学に入学したが、どうにも合わず2日で退学し、合格していた東京女子大学に1週間遅れで入学した。卒業後、直ぐに結婚し、医師の夫(道也)との間に1女2男をもうけた。娘は、建築家の富田玲子。 1943年の春に夫が召集され、旧満洲の陸軍病院へ。同年冬に5歳の長男を連れ満洲にわたるも、夫は南方へ転進。
森川 金寿(森川 金壽、もりかわ きんじゅ、1913年4月1… 森川 金寿(森川 金壽、もりかわ きんじゅ、1913年4月19日 - 2006年10月16日)は、日本の弁護士。 高知県出身。東京帝国大学法学部卒。1936年弁護士開業。海野普吉を助け、1947年自由人権協会の事務局長となり、のち代表理事。1967年ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷(ラッセル法廷)の構成員となる。1972年7月8日には、福島要一(日本学術会議会員)、平野義太郎(日本平和委員会会長)らとともに「インドシナにおけるニクソンの戦争犯罪、日本政府・財界の共犯を告発する東京集会」を神田の学士会館で開催。当時、強化されつつあったベトナム北爆に抗議した。 家永教科書裁判、横田基地騒音訴訟、横浜事件再審訴訟の弁護団長を務めた。
松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - … 松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。 1912年(明治45年)に東京府渋谷に生まれ、その後、岩手県で育った。17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。
源氏 鶏太(げんじ けいた、1912年〈明治45年〉4月19… 源氏 鶏太(げんじ けいた、1912年〈明治45年〉4月19日 - 1985年〈昭和60年〉9月12日)は、日本の小説家。富山市出身。旧制富山商業学校(現・富山県立富山商業高等学校)卒。本名、田中富雄。 住友合資会社勤務の傍ら小説を書き始め、『英語屋さん』ほか2編で直木賞受賞。『三等重役』『停年退職』『天上大風』など、長いサラリーマン生活からの体験に基づいたユーモア小説で人気を博した。戦後の昭和を代表するベストセラー作家の一人である。映画化された作品も多い。晩年は幽霊物を多く書いた。 ペンネームの由来は「平家より源氏が好きなこと」と「『鶏』という字が好きで、『鶏太』とすると、昔の武士の名前のようになる」という理由。
丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 199… 丹羽 正治(にわ まさはる、1911年4月19日 - 1992年1月11日)は、日本の実業家。松下電工名誉会長、松下電器産業監査役、PHP研究所副所長、松下政経塾副塾長、産業構造審議会委員。大阪府堺市出身。 1932年に大阪商科大学高商部を卒業と同時に松下電器製作所へ入社。1939年に常務取締役に就任。1945年に系列会社の松下航空工業に移籍し専務取締役となる。1947年1月、松下幸之助が公職追放され、35歳の若さで松下電工代表取締役社長に就任、幸之助の経営哲学の忠実な実践者として同社を売上高1兆円の大企業に育てる。1977年2月に同社の代表取締役会長を経て、1989年2月に名誉会長に退く。 1992年1月11日午前10時49分に急性肝炎のため、大阪府守口市の病院で死亡。
森玉 美雄(もりたま よしお、1910年4月19日 - 19… 森玉 美雄(もりたま よしお、1910年4月19日 - 1943年4月8日)は、日本の小説家、詩人。兵庫県加古郡天満村(現・稲美町)出身。織田作之助が編集長格の雑誌「大阪文学」で見出された小説家。 短編小説『おふくの家出』(雑誌「大阪文学」2巻4号に発表)が第15回芥川賞推薦候補になる。活躍し始めてすぐの昭和18年4月8日に、結核のため32歳で死去。 1910年(明治43年)4月19日、大百姓の森玉柳祐の次男として生れる。母はえい。本名は作男。1911年(明治44年)に長女豊江、1916年(大正5年)に三女善枝が生れる。天満村立天満尋常小学校(現・稲美町立天満小学校)から兵庫県立小野中学校(現・兵庫県立小野高等学校)を経て、神戸高等商船学校(現・神戸大学海洋政策科学部)機関科に入学。
弥富 武(いやとみ たけし、1910年4月19日 - 197… 弥富 武(いやとみ たけし、1910年4月19日 - 1975年5月28日)は、日本の経営者。東京建物社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。1955年に取締役に就任し、1959年10月に常務を経て、1963年2月に東京建物副社長に就任し、同年8月には社長に昇格した。 1975年5月28日、急性心不全のために在任中に死去。65歳没。
宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19… 宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19日 - 1992年(平成4年)4月17日)は、昭和・平成期の企業経営者。旭化成中興の祖と呼ばれた。勲一等瑞宝章受章。没後従三位追贈。吾妻町名誉町民及び延岡市名誉市民。 長崎県南高来郡山田村(現:雲仙市吾妻町)出身。長崎県立島原中学校に入学、同中学時代は市内の曹洞宗の禅寺晴雲寺で5年間寄宿生活を送った。第五高等学校を経て東京帝国大学法学部英法科卒業後、日本窒素肥料(現:チッソ)に入社。旭ベンベルグ絹糸(後の旭化成工業、現:旭化成)に配属となる。 総務課長、東京事務所長を経て38歳で取締役に選任。延岡工場で起きた労働争議の解決に尽力し、その手腕が認められる事となった。
若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 … 若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 - 1999年12月25日)は、日本の日本史学者。 京都府出身。1936年京都帝国大学文学部国史学科卒。金沢大学教育学部助教授、奈良女子大学教授を務め、1972年定年退官、龍谷大学教授、大手前女子大学教授を務めた。能登地方の市町村史誌を数多く手がけたことから「能登守」と呼ばれた。
谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1… 谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1989年11月8日)は、日本の法学者(民法)。大阪市立大学名誉教授。法学博士(京都大学・論文博士・1949年)(博士論文「不当利得の研究」)。日本学士院会員。京都府出身。末川博門下。 京都市下京区木屋町仏光寺で誕生、山紫水明処の隣の屋敷で育つ。幼少時、祇園祭の長刀鉾の稚児を3年間務めた。民事訴訟法学者である谷口安平は知平の次男、裁判官の谷口安史は孫に当たる。 京都府立京都第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を4年間を通して首席で卒業、三高へ進学。京都帝国大学においても当時は18課目を履修すれば卒業できるところ40課目を履修し、さらに平均点首位で卒業した。
早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 197… 早川 勝(はやかわ まさる、1904年4月19日 - 1979年2月5日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に旧制第六高校師範の金光弥一兵衛や同校柔道部員らと共に前三角絞を開発した事で知られ、社会人となってからは三菱鉱業を経て日本経営者団体連盟専務理事を務めるなど実業家として活躍した。また兄・昇(のぼる)も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には王子製紙にて専務取締役を務めている。 東京府中野区に生まれ、4歳年長の兄・昇と同じ県立第一神戸中学校(後の県立神戸高校)に進学して柔道を始めた。中学在学中には昇が籍を置いていた金光弥一兵衛率いる旧制第六高校柔道部の選手たちと共に前三角絞を編み出し、勝は大日本武徳会兵庫支部主催のもと1921年11月に開かれた兵庫県下中学柔道大会に主将として出場しこの技を駆使して優勝、その有効性を証明して見せた。
古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992… 古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992年5月3日)は、日本の法学者。西南学院大学学長、西南学院名誉顧問。 1904年(明治37年)、福岡県甘木市に生まれる。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学法科卒業。1943年(昭和18年)、東京帝国大学大学院修了。その後日本貯蓄銀行、関東学院勤務などを経て、1949年(昭和24年)に西南学院大学教授に就任。1956年(昭和31年)から1969年(昭和44年)までのおよそ13年間に渡り同大の学長をつとめる。また1989年(平成元年)から西南学院理事長を2年間務めた。 専門は民法。勲三等旭日中綬章を1974年(昭和49年)に受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
本間 茂雄(ほんま しげお、1904年(明治37年)4月19… 本間 茂雄(ほんま しげお、1904年(明治37年)4月19日 - 1974年(昭和49年)11月3日)は、日本の体操競技選手、指導者で、体育学者。 1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表で、日本では最初の体操競技オリンピック選手の一人である。 新潟県の佐渡島出身。旧畑野町(現・佐渡市)の畑野尋常小学校から東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区牛込)の牛込尋常小学校高等科(現在の新宿区立牛込仲之小学校)、府立四中、東京高等師範学校を経て、1933年(昭和8年)東京文理科大学教育学科を卒業した。大学在学中に主将として1932年ロサンゼルスオリンピックに体操競技初の日本代表メンバーとして出場したが、チームは最下位だった。
北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19… 北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、日本の内務・防衛官僚。岡山県和気郡三石村字三石(現:備前市)に、父北村貫皐、母古美津の長男として誕生。本籍地は岡山県邑久郡太伯村乙子(現:瀬戸内市)。 戦前は内務省警保局の官僚として特高警察や、警保局経済保安課課長、兵庫県警察部長を務めた。戦後はいわゆる「逆コース」に乗って復帰し、保安庁保安研修所、内閣国防会議事務局長などを歴任、叙勲された。
岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 -… 岡 潔(おか きよし、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。奈良市名誉市民。従三位勲一等瑞宝章。 1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市東区田島町(現・中央区)で生まれた。父祖の地は和歌山県伊都郡紀見村(現・橋本市柱本)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学講師、1929年(昭和4年)、同大学助教授。1929年(昭和4年)、フランス留学。中谷宇吉郎と中谷治宇二郎に出会い、妻の岡ミチも合流する。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授。1938年(昭和13年)、病気で郷里に戻り、孤高の研究生活に身を投じた。
福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日… 福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日 - 没年不明)は、日本の教育者。元境高等学校長。 旧制鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)では、西田税(二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、北一輝とともに刑死)と同期だった。大正13年(1924年)、旧制金沢医科大学附属薬学専門部卒業。鳥取県立米子中学校教諭、同米子工業学校長、鳥取県立境高等学校長を歴任した。昭和32年(1957年)退職。 大正14年(1925年)3月、秩父宮が来陰した際、西田税は汽車に同車し、秩父宮と談笑した。西田と米子中学校(現・米子東高校)で同期だった福島は「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ。
岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4… 岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4月19日 - 2000年 <平成12年> 7月6日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、北海道庁長官。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。岡田吟平の五男として生まれる。第六高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入り東京府属となる。以後、社会局勤務、茨城県事務官、静岡県経済部長、和歌山県総務部長、長崎県総務部長、福岡県書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。 1945年6月、徳島県知事に就任。1947年2月、官選最後の北海道庁長官に就任し、同年4月に退任。1950年6月、北海道開発庁が発足すると、初代次長(事務次官)に就任し、1953年1月に退官した。
三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - … 三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - 1977年2月7日)は、日本の産婦人科学者。京都大学医学部附属助産婦学校第4代校長を歴任。 基靭帯基底部に浸潤した子宮癌に対する超広汎性子宮全摘術や、子宮癌の放射線治療に回転照射術式を考案した。 石川県で生まれる。旧制第四高等学校を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学医学部を卒業する。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)の講師を務め、1926年(大正15年) に助教授となる。1929年(昭和4年)医学博士を修める。1930年(昭和5年)ドイツに留学する。 帰国後、1936年(昭和11年)に新潟医科大学産婦人科の第4代教授となる。1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授に転任。
岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30… 岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30年)4月19日 - 1994年(平成6年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 三重県出身。岡田靖の息子として生まれる。富田中学校(現三重県立四日市高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍経理学校(13期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第38連隊付となる。1921年(大正10年)8月、宇品陸軍糧秣支廠員に就任し、1922年(大正11年)12月、二等主計に昇進。1923年(大正12年)8月、陸軍糧秣本廠員に就任。1928年(昭和3年)6月から1930年(昭和5年)5月まで、経理学校で第2期甲種学生として学んだ。
片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月… 片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家。衆議院議員(2期)。地方議員(三重県会議員・四日市市会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 1896年(明治29年)4月19日、三重県三重郡富洲原町(現・四日市市)に生まれる。富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子であった。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢四十八家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米穀取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。