渡辺 宙明(わたなべ ちゅうめい、1925年〈大正14年〉8… 渡辺 宙明(わたなべ ちゅうめい、1925年〈大正14年〉8月19日 - 2022年〈令和4年〉6月23日)は、日本の作曲家、編曲家。「ちゅうめい」は本名を音読みしたペンネームであり、本来の読みは「わたなべ みちあき」。 父は渡邊工業社長・名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者の渡辺俊雄。息子は作曲家・編曲家の渡辺俊幸。孫(俊幸の息子と娘)はナレーター・声優の渡辺眞伍、芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。 また、作詞家の田野倉健之がアシスタントを務めた。 愛知県名古屋市出身。愛知県立明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)、第八高等学校理科、東京大学文学部心理学科卒。
吉田 善一(よしだ ぜんいち、1925年〈大正14年〉8月1… 吉田 善一(よしだ ぜんいち、1925年〈大正14年〉8月19日 - 2023年〈令和5年〉5月4日)は、日本の化学者。専門は有機化学、創造機能化学。京都大学名誉教授。1987年度日本化学会会長。工学博士。位階勲等は正四位勲二等瑞宝章。 1925年8月19日、香川県三豊郡仁尾町(現在の三豊市仁尾町)にて生まれた。家業が醸造業だったため、子供の頃からコウジやもろみなど、発酵過程における色の変化を不思議に思い、成長の中で自然が魅せる多種多様な色素に興味を持つようになった。戦時中は、父親が召集された上に、原爆による被爆を経験した。 戦後復員した父の許可を得て、色素研究で著名な吉田彦六郎のいる京都大学工学部工業化学科に進学した。
田実 泰良(たじつ やすよし、1925年8月19日 - 19… 田実 泰良(たじつ やすよし、1925年8月19日 - 1982年6月)は日本映画のプロデューサー。 1950年に慶應義塾大学卒業と同時に東宝撮影所演出部に入社。1953年に東宝社員となる。監督の黒澤明や松林宗恵の下で助監督をした。1963年文芸部に配属され1965年に契約者となる。1971年に日本創造企画に入社し博覧会物をプロデュースする。その後日本映画プロデューサー協会事務局長を務めたが、1982年6月癌の為死亡。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
市村 泰一(いちむら ひろかず、1925年8月19日 - 1… 市村 泰一(いちむら ひろかず、1925年8月19日 - 1989年3月18日)は、日本の映画監督。 長野県須坂市出身。父は「信濃毎日新聞」の記者。小学校四年まで上田市で過ごしたのち東京府・世田谷に移住、独協中学校をへて1947年上智大学文学部新聞報道科卒業。中学の同級生に藤間紫の弟・藤間勝胤がおり、その関係で15歳の時から大学卒業まで藤間宗家の書生であった。六代目尾上菊五郎に魅せられ歌舞伎研究に没頭、1949年松竹京都撮影所演出部に入る。斎藤寅次郎、大曾根辰保、渡辺邦男、内出好吉などの作品に助監督でついたあと、1961年、川内康範原作、伴淳三郎主演のアクション・コメディ「快人黄色い手袋」で監督デビュー。
北村 義和(きたむら よしかず、1925年8月19日 - 1… 北村 義和(きたむら よしかず、1925年8月19日 - 1986年5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 北海道阿寒郡鶴居村出身。1945年北海道帝国大学農林専門部農学科卒。 大学卒業後、鶴居村農業会技術員、ホクレン農業協同組合連合会理事を経て、1975年から北海道議会議員(釧路支庁選出)を2期務めた。 その後、1980年の第36回衆議院議員総選挙に本名武の後継者として自由民主党公認で旧北海道5区から立候補し当選(当選同期に古賀誠・平沼赳夫・太田誠一・川崎二郎・久間章生・森田一・高村正彦・柿澤弘治など)。1983年の第37回衆議院議員総選挙では自民党公認の北村と中川昭一に加え、保守系無所属で鈴木宗男(中川一郎の元秘書)と武部勤(元北海道議)が立候補する保守乱立選挙となり、そのまま落選し政界から引退した。
福井 崇時(ふくい しゅうじ、1923年(大正12年)8月1… 福井 崇時(ふくい しゅうじ、1923年(大正12年)8月19日 - 2018年(平成30年)5月4日)は、日本の物理学者。名古屋大学名誉教授。1957年、高エネルギー荷電粒子の飛跡を観測する「放電箱」(ディスチャージチェンバー、後のスパークチェンバー)を開発、1961年仁科記念賞、1962年朝日賞(文化賞部門)を、いずれも宮本重徳とともに受賞。1985年紫綬褒章、1993年勲三等旭日中綬章、2001年イタリア共和国功労賞コメンダトーレ三等騎士勲章。著書に『身近な物理の世界』(1991年)、『粒子物理計測学入門』(1992年)がある。 また1966年のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたことが判明している 。
池谷 三郎(、1923年〈大正12年〉8月19日 - 200… 池谷 三郎(、1923年〈大正12年〉8月19日 - 2002年〈平成14年〉10月19日)は、日本のアナウンサー、俳優。 東京都中央区日本橋出身。青山学院専門部を経て慶應義塾大学文学部卒業。 1951年10月、開局を控えたラジオ東京(KRT。後のTBS)にアナウンサー第1期生として入社。入社1年目に駅伝中継を担当。 『浪曲天狗道場』では1954年10月の第1回から司会を担当。ラジオ番組においてトップレベルの聴収率を上げる功績を残す。池谷も『浪曲天狗道場』を始めるまでは、浪曲のことは全く何も知らず、「広沢虎造の『次郎長伝』といっても、大政も知らなければ小政も知らなかった」という。 1966年1月、ラジオ局放送部兼テレビ編成局アナウンス部。
近藤 富枝(こんどう とみえ、1922年8月19日 - 20… 近藤 富枝(こんどう とみえ、1922年8月19日 - 2016年7月24日)は、日本の作家、エッセイスト。旧名:水島富枝。夫は軍事史研究家の土門周平。 東京府東京市日本橋区矢ノ倉町(現:東京都中央区東日本橋一丁目)の袋物問屋に生まれる。1929年に、父の破産で一家離散となり、一人で父方の祖父母の家にひきとられ、東京市田端で育つ。祖父・水島辨治郎は、日本橋の金襖問屋・増見屋の8代目水島三右衛門の次男だった。 東洋高等女学校卒業。東京女子大学国語専攻部に在学中に演劇に熱中し、1942年新劇団「芸術小劇場」(北村喜八・村瀬幸子が主催)の研究生、のち文学座の研究生となる。1943年に大学卒業後、文部省教学局国語課勤務。
橘博(たちばな ひろし、1922年8月19日 - 2005年… 橘博(たちばな ひろし、1922年8月19日 - 2005年8月8日)は、日本の経営学者。 大阪府枚方市出身。別名・田村二郎。1949年大阪商科大学卒。1977年「工場経営と作業分析」で大阪市立大学経営学博士。大阪市立大学商学部助教授、教授。86年定年退官、名誉教授、阪南大学教授、93年退任。98年勲三等瑞宝章受勲。
中埜 政一(なかの まさかず、1922年8月19日 - 20… 中埜 政一(なかの まさかず、1922年8月19日 - 2002年5月19日)は、日本の経営者。ミツカングループ本社社長を務めた。7代目中埜又左エ門。 愛知県出身。1946年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に中埜商店(のちのミツカングループ本社)に入社。1953年9月に社長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2002年5月19日肺炎のために死去。79歳没。
角田 豊(すみだ ゆたか、1922年8月19日 - 1978… 角田 豊(すみだ ゆたか、1922年8月19日 - 1978年9月7日)は、日本の法学者。 神奈川県逗子生まれ。第一高等学校、1944年東京帝国大学法学部政治学科卒、同大学院、1943年徴兵、ポツダム中尉。1946年中央労働学園調査部職員、1948年同専門学校助教授、1949年中央労働学園大学助教授、1951年静岡大学文理学部助教授、1964年同志社大学教授。
信元 安貞(のぶもと やすさだ、1920年8月19日 - 2… 信元 安貞(のぶもと やすさだ、1920年8月19日 - 2003年5月8日)は、日本の経営者。曙ブレーキ工業社長、会長を務めた。位階は従四位。前妻の満智子との子に信元久隆、信元真佐江、後妻トミ子との子にリップシャッツ信元夏代がいる。 東京都出身。1943年に東亜同文書院大学商学部を卒業し、1950年に曙産業(のちの曙ブレーキ工業)に入社。取締役、常務、専務を経て、1960年5月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1990年6月に会長に就任し、信元久隆氏代表取締役社長を継いだ。1994年6月には名誉会長に就任。 1981年4月に藍綬褒章を受章し、1991年4月に勲二等瑞宝章を受章。「自動車部品産業の黎明期に多大な貢献」をしたとして、日本自動車殿堂者(Japan Automotive Hall of Fame)に認定されている。
世良 晃志郎(せら てるしろう、1917年8月19日 - 1… 世良 晃志郎(せら てるしろう、1917年8月19日 - 1989年4月16日)は、日本の法学者(中世西洋法制史)。東北大学名誉教授。元宇都宮大学学長。 現在の広島県庄原市(旧制)に生まれる。1934年に廣島高等学校に入学し、1937年に同校を卒業。同年、東京帝国大学法学部に首席で入学して久保正幡に学び、1940年に首席で卒業する。在学中の1939年に高文司法科試験(現在の司法試験)に首席で合格する。卒業後は母校の助手となる。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。
岩下 光男(いわした みつお、1917年(大正6年)8月19… 岩下 光男(いわした みつお、1917年(大正6年)8月19日 - 2002年(平成14年)4月13日)は、日本の工学者(海洋工学)。魚群探知機の改良型の開発者。元北海道東海大学学長補佐。北海道山越郡長万部町出身。 1936年(昭和11年)東京電機学校電気科卒業。同年、東北帝国大学電気通信研究所助手。1946年(昭和21年)電波科学専門学校助教授。1950年(昭和25年)4月東海大学工学部助教授。1959年(昭和34年)同工学部教授。1962年同海洋学部教授。1974年(昭和49年)同海洋学部長。1976年(昭和51年)同海洋研究所長。後に同海洋科学博物館長。1985年(昭和60年)北海道東海大学工学部教授。
近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 198… 近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 1989年12月14日)は、日本の演出家、音楽評論家、NHKディレクター・プロデューサー、音楽部長。NHKテレビ草創期のディレクターで、『NHK紅白歌合戦』の創設を始め、『今週の明星』、『懐かしのメロディー』など多くの歌謡番組を手掛けた。 広島県出身。1940年日本大学卒業後、当時社団法人だったNHKに入局。 当初から音楽番組の担当で、終戦年の1945年、大晦日に放送するラジオの大型音楽番組の企画を担当。スポーツの対抗戦の形をとり男女が紅白に分かれて戦うという構想で『紅白音楽合戦』を立案した。こうした発想は当時としては非常に斬新なものだった。
早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 19… 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。 1914年(大正3年)、宮城県仙台市東一番丁(現・青葉区)で、早坂順之助・ふみ江の子として生れる。兄弟姉妹は兄(夭折)、弟、妹2人がおり、他に順之助と先妻との間に生まれた異母兄がいた。早坂家は代々宮城県志田郡三本木町の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。1918年(大正7年)4月頃に北海道札幌市南7条西7丁目(現・中央区)に転居した。ただし、本人は生涯にわたって故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていたという。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。
神前 善一(こうざき よしかず、1914年8月19日 - 1… 神前 善一(こうざき よしかず、1914年8月19日 - 1984年2月6日)は、日本の経営者。和歌山県出身。 1932年に和歌山商業学校を卒業し、同年に松下電工に入社。1947年7月に取締役に就任し、1955年1月に常務、1964年9月に専務を経て、1977年2月には社長に就任。1982年2月から副会長を務めた。 1984年2月6日急性心筋梗塞のために死去。69歳没。
柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> … 柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> 8月19日 - 2000年 <平成12年> 1月16日) は、日本の実業家。六代目秩父鉄道社長。日本民営鉄道協会副会長。位階は正五位。 秩父市で秩父鉄道4代目社長・柿原亀吉の6人兄弟の長男として生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1937年、東京商科大学卒業。謙一自身はこれで学校は終わりだと思っていたが、陸軍経理学校に入学させられた。 大学卒業後、一年半ばかり家業を手伝っていたが、1934年に補充兵で応召。その後9年間兵役に従事。大尉となる。 戦後、秩父鉄道に入社。1947年に取締役経理部長となり常務取締役を経て、1969年に六代目社長に就任。
古川 進(ふるかわ すすむ、1913年8月19日 - 199… 古川 進(ふるかわ すすむ、1913年8月19日 - 1991年10月23日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。佐賀県佐賀市出身。 1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村銀行(のちの大和銀行。統合により現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1961年11月に取締役に就任し、1963年4月に常務、1966年11月に専務、1968年11月に副頭取を経て、1973年4月からは大和銀行頭取を務め、1977年4月からは会長、1987年6月からは相談役を歴任した。 その一方で、1981年12月から1985年12月までに大阪商工会議所会頭を務め、海外交流に力を入れた。日本商工会議所副会頭、大阪銀行協会会長、全国銀行協会連合会副会長、関西経済同友会代表幹事なども歴任した。
小森 英夫(こもり ひでお、1913年8月19日 - 199… 小森 英夫(こもり ひでお、1913年8月19日 - 1996年9月9日)は、日本の経営者。同和鉱業社長を務めた。新潟県新潟市出身。位階は正四位。 1934年に横浜商業専門学校を卒業し、1946年2月に同和鉱業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1966年5月に常務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1981年6月には会長を経て、1987年6月には相談役に退いた。 1975年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1996年9月9日急性心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 199… 沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 1994年6月29日)は、日本の歴史学者、日本史学者。東京大学名誉教授(史料編纂所元所長)。洋学史、日蘭交渉史が専門で、日蘭学会理事長も務めた。 熊本県熊本市出身(出生地は和歌山県)。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1932年第五高等学校 (旧制)卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所に入り、1954年助教授、1965年教授に就任し、1971年から1973年に所長を務める。1973年から1983年まで東洋大学文学部教授。そのほか、1980年から1983年に日蘭学会理事長。勲三等旭日中綬章受章。
乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年… 乾 孝(いぬい たかし、1911年8月19日 - 1994年2月27日)は、日本の心理学者、法政大学名誉教授。専門は発達心理学。 東京で法学者・乾政彦の子として生まれる。1935年法政大学法文学部哲学科心理学専攻卒。城戸幡太郎に師事。助手、助教授をへて1946年教授、1976年定年、名誉教授。1947年民主主義科学者協会(民科)の哲学部会に参加、のちに人間科学部会、さらに心理学部会の結成に参加し、その中心となって活動。一方、1953年東京保育問題研究会の結成に関与した。児童文化問題にも造詣が深く、人形劇の創作や実践も行い、育児などに関して多くの一般書を書いた。 な日本応用心理学会名誉会員・日本社会心理学会名誉会員。
佐々木 一義(ささき かずよし、1910年8月19日 - 1… 佐々木 一義(ささき かずよし、1910年8月19日 - 1978年7月11日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市生まれ。1934年東京帝国大学文学部倫理学科卒、文部省に入省。1961年「ハイデッガーの実存論的空間性論について」で九州大学文学博士。1940年小樽高等商業学校教授、1944年久留米工業専門学校教授、1949年九州大学第三分校助教授、51年第二分校助教授、53年教授、63年教養部教授、70-71年教養部長、75年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。 1978年7月11日、すい臓がんのため神奈川県相模原市の北里大学病院にて死去。67歳。
菊池 喜充(きくち よしみつ、1910年8月19日 - 19… 菊池 喜充(きくち よしみつ、1910年8月19日 - 1984年10月31日)は、日本の電子工学者。電気音響工学、超音波工学の専門家で、魚群探知機、超音波探傷法の実用化、フェライトによる磁歪材料の開発などに貢献した。紫綬褒章受章。朝日賞等受賞。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安藤 貞重(あんどう さだしげ、1907年〈明治40年〉8月… 安藤 貞重(あんどう さだしげ、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1997年〈平成9年〉1月20日)は、日本の神職。安積国造神社第62代宮司。 1907年(明治40年)8月19日、福島県に生まれる。父は安藤國重、母トシは福島稲荷神社社家の丹治家出身。 旧制安積中学校(のちの福島県立安積高等学校)出身。1930年(昭和5年)12月までに文部省から歴史科の教員免許状を取得した。1931年(昭和6年)、國學院大學国史学科卒業。同年、累代社家を務めている実家の安積国造神社の社掌に就任。 1933年(昭和8年)、福島稲荷神社社司の丹治経也が帰幽すると、その子経幸がまだ幼かったため代わりに同社社司に就任。
千家 啠麿(せんげ てつまろ、1907年〈明治40年〉8月1… 千家 啠麿(せんげ てつまろ、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1995年〈平成7年〉10月24日)は、日本の国立公園事業に尽力した造園家、国立公園行政官、観光行政官。国立公園制定や自然保護のほか、観光政策審議会や日本観光協会、日本レクリエーション協会など、各種審議会委員や団体理事等歴任。アメリカ合衆国シエラクラブ名誉会員、日本造園学会名誉会員。島根県生まれ。千家忠の養子。 千家尊福(男爵、東京府知事として水源林の拡充整備など尽力)の6男に生まれ、のち千家忠の養子。旧制大社中学校(現・島根県立大社高等学校)、途中から旧制京都二中(現・京都府立鳥羽高等学校)、旧制松江高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学。
松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - … 松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - 1973年11月7日)は、日本の農民教育家・農業評論家・畜産学者。詩人・社会運動家・元共産党員のぬやま・ひろし(西沢隆二)は実兄。 西沢吉治・松丸みつの三男として神戸に生まれる。長兄・基一、次兄・隆二。 台町小学校から深川八丁堀の小学校に転校、麻布中学を経て旧制静岡高等学校理科を卒業。 1925年、父親の事業の破産に遭い、両親が八丈島に移住したのにつれて移住。 1932年、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。卒業と同時に松丸姓を継ぐ。すぐに朝鮮に渡り、全羅北道で農林学校の教諭を1年余り務めたのち、朝鮮総督府畜産技師となり、1940年、畜産課長となる。
遠藤 留吉(えんどう とめきち、1907年〈明治40年〉8月… 遠藤 留吉(えんどう とめきち、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、大阪市西成区玉出に本店を置く会津屋の創業者。1935年にたこ焼きを開発したことで知られる。 1907年(明治40年)8月、福島県河沼郡会津坂下町に農家の子として生まれる。家業を継いで農家になるが、どれだけ熱心に働いても収入が少なく、田畑も自分の物にならないジレンマを感じ、27歳の時に僅か11銭を持って東京へ出奔する。東京では「第二食堂」という店で3年間熱心に働いたことで、店主の紹介で同じ食堂で働いていた女性と結婚。妻の妹が大阪で所帯を持っていたことをきっかけに、大阪へ転居する。大阪では屋台寿司と関東煮を出す屋台を構えるも、昭和恐慌による不景気が尾を引いていたこともあり、振るわなかった。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 19… 上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 1993年4月26日)は、日本の仏教学者。名古屋大学名誉教授。 岡山県出身。旧制龍野中学(現:兵庫県立龍野高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部印度哲学科卒、1948年「唯識思想研究」で九州大学文学博士。1945年龍谷大学教授、1949年名古屋大学文学部教授となり、文学部長を務め、1968年定年退官、名誉教授。1972年筑紫女学園短期大学学長となり、1986年、同大学退任。1975年勲三等旭日中綬章受勲。
一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 197… 一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 1977年)は、日本の作家、中国文学者。 東京生まれ。東京帝国大学支那文学科卒。1929年福田清人、那須辰造らと第10次『新思潮』に参加、のち『文藝レビュー』に参加して小説を書く。文部省勤務。戦後、和洋女子大学教授。森鷗外の研究でも業績があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年… 川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年)8月19日 - 1972年(昭和47年)9月27日)は、日本の銀行家、文化人。元百五銀行頭取・会長、父は川喜田半泥子。 三重県津市に、旧家川喜田家の長男として生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行する。1936年(昭和11年)に百五銀行に移り、1951年(昭和26年)に同行頭取に就任し、1971年11月には会長に就任。また、1970年5月から1972年9月までに近畿日本鉄道監査役を務め、菱川合資代表、相互商事社長、東海製鉄役員なども務めた。 三重経済界のトップとして、戦中・戦後を乗り切る。また、半泥子が設立した石水会館を石水博物館に発展させ、地域の文化振興に貢献する。
久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年… 久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年6月29日)は、日本の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。北海道出身。明治大学政治経済学部卒。 第1回全日本選手権(1929年度)の優勝者である。 札幌商工会議所会頭を務めた久保兵太郎の三男として北海道に生まれる。札幌商業学校時代の1923年、日本スケート会(日本スケート連盟の前身の一つ)主催のフィギュアスケート選手権に出場。明治大学に入学し、1926年から1930年(1927年は中止)まで日本学生氷上競技選手権(インカレ)で4大会連続2位となる。同大会の1928年から1930年までの優勝者は、金子諭吉(慶大)であった。 1929年のフィギュアスケート選手権(日本スケート会主催)では、金子を抑えて優勝する。
上原 準三(うえはら じゅんぞう、1902年(明治35年)8… 上原 準三(うえはら じゅんぞう、1902年(明治35年)8月19日 - 没年不明)は日本の弁護士、政治家。元鳥取県弁護士会長。元米子市教育委員長。元米子市会議員。 妻の美貴子は元鳥取県弁護士会長君野順三の長女で、弁護士 君野駿平の姉。 鳥取県八頭郡河原町(現:鳥取市)出身。弥太郎三男。 1927年(昭和2年)京都帝国大学法学部卒。1928年(昭和3年)判事、1931年(昭和6年)弁護士開業。 趣味は囲碁、長唄。宗教は真言宗。住所は米子市西町。 安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』130頁によると、「昭和三十一年公選制の教育委員に議会選出で、上原準三さんが出て来られた。
近藤 英明(こんどう ひであき、1902年8月19日 - 1… 近藤 英明(こんどう ひであき、1902年8月19日 - 1991年10月27日)は、日本の内務官僚、国会職員。参議院草創期の1949年から1953年までの間、参議院事務総長を務めた。 島根県松江市出身。1927年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、内務省に入省。1931年12月に貴族院書記官に任ぜられ、以後、貴族院事務局で委員課長、議事課長、庶務課長を務めた。 この間、1935年の天皇機関説事件の際には、菊池武夫男爵による政府に対する緊急質問の通告を聞いた美濃部達吉から一身上の弁明のための発言通告を受け、近藤は恩師でもある美濃部に対し、一身上の弁明をせずに黙殺する方が賢明であり、菊池男爵のような右翼議員はいかによく説明しても納得するわけはなく、菊池が屈服したとしても背後の右翼勢力を刺激するだけである旨を伝えたが、美濃部は「お前の言うところは十分わかる。
山本 杉(やまもと すぎ、1902年〈明治35年〉8月19日… 山本 杉(やまもと すぎ、1902年〈明治35年〉8月19日 - 1995年〈平成7年〉9月9日)は、日本の医師、性医学者、政治家。参議院議員(2期)。全日本仏教会常務理事、全日本仏教婦人連盟理事長・会長、家庭生活問題研究協会副会長、全日本母性連盟会長、至誠会会長。夫は仏教学者で大正大学教授の山本快竜。 広島県出身。1923年(大正12年)、東京女子医学専門学校卒業。昭和13年6月23日「人工気胸のレントゲン学的研究」で慶應義塾大学より医学博士号を授与。 1959年(昭和34年)第5回参議院議員通常選挙で自由民主党より立候補して当選し、1964年(昭和39年)に行政管理政務次官就任。1965年(昭和40年)第7回参議院議員通常選挙で自由民主党より立候補して再選。
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - … 佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日 )は、愛知県出身の日本の政治家、ジャーナリストである。衆議院議員8期(日本社会党所属)、中央公論編集長を務めた。愛称はサトカン。
高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 19… 高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 1987年6月17日)は、第二次世界大戦前に芸術を学ぶためにフランスに渡り、新聞記者としても戦後までフランスに滞在していた彫刻家。思想家、文筆家、翻訳家としても活躍した。 少年時代から文学・哲学・芸術に目覚め、18歳で上京し、高村光太郎の勧めで彫刻や翻訳に従事。31歳でフランスに渡り、ロマン・ロラン(作家)やアラン(哲学者)、ポール・シニャック(画家)、ジョルジュ・ルオー(画家)をはじめとするヨーロッパの知識階層と交流した。在欧日本人向け日刊紙『日仏通信』を刊行し、第二次世界大戦中も日本に戻らず新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会副会長を務めた。
当間 重民(とうま じゅうみん、1900年8月19日 - 1… 当間 重民(とうま じゅうみん、1900年8月19日 - 1952年2月8日)は、戦前の沖縄県、沖縄諮詢会、及び沖縄民政府時代の政治家で那覇市長。
鈴木 仙八(すずき せんぱち、1899年8月19日 - 19… 鈴木 仙八(すずき せんぱち、1899年8月19日 - 1967年5月14日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(5期)。 1899年東京府北豊島郡王子村(現東京都北区)に鈴木八五郎の三男として生まれる。王子町議、東京市議、東京府議を歴任する。1942年の第21回衆議院議員総選挙では東京6区(当時)から非推薦で立候補して落選した。翌年、東京都発足による第1回東京都議会議員選挙では王子区から立候補して当選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区(当時)から日本自由党公認で立候補して初当選。鳩山一郎派に属した。1947年の第23回衆議院議員総選挙からは、東京都第5区で立候補した。
松尾 俊郎(まつお としろう、1897年8月19日 - 19… 松尾 俊郎(まつお としろう、1897年8月19日 - 1979年7月20日)は、日本の地理学者。学位は、文学博士(駒澤大学・1969年)(学位論文『関東山地東辺地帯における集落の人文地理学的研究』)。横浜国立大学教授、駒澤大学教授等を歴任。 佐賀県出身。東京帝国大学卒業。文部省に入省。1949年まで図書監修官として国定地理教科書の編集など行う。のち横浜国立大学教授に就任。1963年3月、横浜国立大学を停年退官。1966年から駒澤大学教授をつとめ、地名を研究。 1969年『関東山地東辺地帯における集落の人文地理学的研究』で、駒澤大学より文学博士の学位を取得した。1973年3月に駒澤大学教授を退任。
野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979… 野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979年3月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は高野。 新潟県中魚沼郡倉俣村(現十日町市)出身。1919年上野家政女学校高等科卒業。卒業後は故郷の小学校の教諭(訓導)を務め、税務署職員だった野村幸次郎と結婚した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選した。当選後は国民協同党に入った。翌1947年の第1回参議院議員通常選挙で新潟県から国民協同党公認で立候補したが落選した。1979年死去。
藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月… 藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月19日 - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 奈良県宇智郡北宇智村近内(現在の五條市)出身。北宇智村長・藤岡長二郎の三男として生まれる。奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。 1920年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警視、広島県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、東京府総務部長、警視庁警務部長などを歴任。 1938年2月、香川県知事に就任。
伊藤 卯四郎(いとう うしろう、1894年8月19日 - 1… 伊藤 卯四郎(いとう うしろう、1894年8月19日 - 1974年5月1日)は、大正、昭和時代の労働運動家・政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)。衆議院鉱工業委員長、民社党中央執行副委員長。 長崎県南高来郡有明町(現島原市)出身。島原尋常高等小学校卒。東洋哲学塾に学ぶ。 その後は北海道に渡り、炭鉱夫として働く。労働運動に身を投じ、1920年歌志内炭坑労働組合組合長となる。1922年長崎県に移り、日本労働総同盟南九州連合会を結成する。1928年福岡県に移り、八幡製鉄所労働組合顧問となり、労働運動を指導する。社会民衆党福岡県連書記長、福岡県会議員を2期務めた。 戦後は日本社会党結党に参加。
後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 19… 後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 1984年4月11日)は、大正 - 昭和時代の彫刻家。長男の後藤道雄は仏教美術史家。 1893年8月19日茨城県水戸市に生まれる。富岡周正に牙彫を学ぶ。 東京美術学校(現東京芸術大学)入学後は高村光雲に師事し木彫を始める。 仏教を厚く信仰し、仏像などを生涯作品のテーマにした。清一の彫る仏像は如来よりも菩薩や明王を題材にしたものが多い。 1930年構造社会員となる。 1958年日本美術展覧会評議員になり、1960年同展で「双樹」が文部大臣賞を受賞する。 余暇は専ら骨董品収集と読書を趣味としていた。1984年4月11日に死去。90歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
三浦幸平(みうら こうへい、1890年(明治23年)8月19… 三浦幸平(みうら こうへい、1890年(明治23年)8月19日 – 1975年(昭和50年)6月7日)は、日本の教育者。教育功労者。従四位旭日中綬賞。妻は山田橋衛の長女愛子。 東京物理学校(現・東京理科大学)理化学科を首席で卒業。愛知県立第一中学校(現旭丘高校)の嘱託教員、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の助教授を経て、1938年に工業技術教育を実現するため名古屋第一工学校を創立。1945年に名古屋大空襲により名古屋第一工学校が全焼。1950年愛知常磐女子高等学校と合併し常磐高等学校を設立し校長兼財団法人常磐学園理事長となる。1951年に学校法人三浦学園に名称変更。1964年に中部工業大学(現中部大学)を設立し学長に就任。
中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月1… 中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月19日 - 1973年〈昭和48年〉3月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、諫早市長。位階は正五位。勲三等瑞宝章綬章。 長崎県出身。1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科卒。コロンビア大学大学院に留学し、記者として二六新聞社などで勤務する。その後、1947年(昭和22年)、諫早市長選挙に立候補して当選。同年4月8日、初代公選市長となった。市長在任中は市立中学の開校、市役所機構の再編、自治体警察の設置、諫早球場の開場など市制改革に追われた。1951年(昭和26年)に再選。翌1952年(昭和27年)4月3日に退任した。第25回衆議院議員総選挙において長崎1区から改進党で立候補したが落選。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19… 天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉7月31日)は、日本の外交官。 日独伊三国同盟締結時(1940年〈昭和15年〉9月25日)は駐イタリア特命全権大使。三国同盟に反対の立場の天羽は三国同盟締結直前(1940年〈昭和15年〉9月6日)に松岡外相によってイタリア特命全権大使の任を解かれ(いわゆる松岡旋風人事)、後任の駐イタリア特命全権大使として堀切善兵衛が選ばれた(1940年〈昭和15年〉9月30日に正式任命)。外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され公職追放となった(のちに解除)。1945年(昭和20年)12月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された天羽は遂に起訴されることなく3年後の1948年(昭和23年)12月に釈放された。
對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - … 對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - 1933年2月16日)は、長崎県下県郡久和村(のち厳原町、現対馬市)出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は川上 弥吉(かわかみ やきち)。最高位は東大関。現役時代の体格は190cm、105kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げ、小手投げ。 対馬の生まれで幼少時より背が高く、「半鐘泥棒」と言われてはからかわれていた。成人して地元の重砲隊に入隊したが体の大きさを見込んだ師団長が力士になることを勧め、除隊させてくれた。師団長の紹介状を手に角聖・常陸山を訪ね入門した。常陸山からは「タイシュウ(対州)」の愛称で呼ばれていた。
小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1… 小林 好日(こばやし よしはる、1886年8月19日 - 1948年2月11日)は、日本の国語学者。