四方 修(しかた おさむ、1930年9月24日 - )は、1… 四方 修(しかた おさむ、1930年9月24日 - )は、1984年3月の江崎グリコ社長誘拐事件に端を発する、グリコ・森永事件で捜査の指揮を当たった当時の大阪府警本部長。
9月24日生まれ:357人
四方 修(しかた おさむ、1930年9月24日 - )は、1… 四方 修(しかた おさむ、1930年9月24日 - )は、1984年3月の江崎グリコ社長誘拐事件に端を発する、グリコ・森永事件で捜査の指揮を当たった当時の大阪府警本部長。
向井 敏(むかい さとし、1930年9月24日 - 2002… 向井 敏(むかい さとし、1930年9月24日 - 2002年1月4日)は、日本のエッセイスト。 大阪府和泉市生まれ。1953年、大阪大学文学部仏文学科卒業、1955年、大阪大学大学院修士課程修了。在学中から開高健、谷沢永一らの同人誌『えんぴつ』に参加。 1960年4月、電通入社、1982年3月退社。 21年間コマーシャルの世界にいて、そのうち11年間は製作現場におり、日航の広告“東京午前零時”など多くのテレビCMを手がけた。勤務のかたわら「電通報」、毎日新聞のコラムを執筆。1977年、テレビCMを論じた『紋章だけの王国』を上梓。 退社後の1983年に、CM批評『虹をつくる男たち』でサントリー学芸賞受賞。
崔 昌華(チェ チャンファ、さい・しょうか、朝: 최 창화、… 崔 昌華(チェ チャンファ、さい・しょうか、朝: 최 창화、1930年9月24日 - 1995年2月8日)は、在日コリアンの牧師。朝鮮平安北道出身。 ソウル新興大学卒業後、1954年に当時国交の無かった日本に密入国し、北九州市に違法に居住し始めた。1960年在日大韓基督教会小倉教会を開設し、そこの牧師になる。牧師としての活動の傍ら、日本の法律を学ぶ為八幡大学に入学、1966年に法律学科を卒業。後年、八幡大学では朝鮮語の講師も務めた。 外国人参政権問題について日本は在日韓国人に与えるよるように要求し、1975年に北九州市に公開質問状を送った。同年NHKを相手取り"韓国人名の発音を日本語読みにて放送するのは人権侵害である"と主張して訴訟を起こした。
金原 淑郎(きんばら よしろう、1929年9月24日 - )… 金原 淑郎(きんばら よしろう、1929年9月24日 - )は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車取締役副社長や、自動車技術会会長を務めた。 愛知県立刈谷高等学校を経て、1954年早稲田大学大学院工学研究科修士課程修了。1980年トヨタ自動車工業取締役。1986年トヨタ自動車常務取締役。1988年トヨタ自動車専務取締役。1992年からトヨタ自動車取締役副社長を務め、プロジェクト「G21」を立ち上げて次世代自動車の在り方の検討を行うなどした。1994年自動車技術会会長。運輸省運輸技術審議会自動車部会委員等も務めた。
大井 数雄(おおい かずお、1929年9月24日 - 198… 大井 数雄(おおい かずお、1929年9月24日 - 1986年5月3日)は、日本の翻訳家、人形劇制作者。 長野県小諸町(現・小諸市)出身。1949年東京教育大学在学中に学生人形劇団を組織。劇団人形座を運営したが、1963年に解散。1967年人形劇団カラバスを創設した。 1965年演劇教育賞受賞。ソ連の社会主義リアリズムの人形劇理論を翻訳した。 1959年人形座で上演した「春楡(チキサニ)の上に太陽」(脚本・深沢一夫)は、高畑勲監督のアニメ映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の原作となった。
北垣 宗治(きたがき むねはる、1929年9月24日 - 2… 北垣 宗治(きたがき むねはる、1929年9月24日 - 2024年3月28日)は、英文学者。同志社大学名誉教授。 1929年、兵庫県城崎郡香住町(現美方郡香美町)出身。1982年、同志社大学文学部英文科卒、同大学院博士課程満期退学、1954年、文学修士(同志社)。1957年、B.Phil.(英国セントアンドルーズ大学)アーモスト大学に半年間学ぶ。ハーヴァード大学で数次にわたり在外研究を行う。1981年「十七世紀英国における翻訳の原理と諸問題」で文学博士。同志社大学文学部教授。1990年定年退職、名誉教授、1991年、新潟県で設立された敬和学園大学初代学長、2003年退任。 クリスチャンで、日本基督教団京都教会に所属していた。
津末 昭生(つすえ あきお、1928年9月24日 - 199… 津末 昭生(つすえ あきお、1928年9月24日 - 1995年6月10日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。熊本大学教授。東京都港区出身。祖父は衆院議員の津末良介。 成蹊高等学校から東京大学へ入学。1954年、理学部地学科(地質学課程)を卒業。鉱床学の渡辺武男教授の指導を受けて大学院に進み、1960年、博士課程を修了(理学博士)、「岩手県釜石鉱山地方の接触交代型鉄、銅鉱床について 」。 理学部地質学教室助手となる。ただちに米国のコロンビア大学・プリンストン大学に留学し、1963年復職。 1970年、熊本大学理学部助教授、1973年、教授となる。1994年、停年退官。この間、1990年から1992年は理学部長を務める。
森泉 章(もりいずみ あきら、1928年9月24日 - 20… 森泉 章(もりいずみ あきら、1928年9月24日 - 2007年1月26日)は、日本の法学者。専門は民法・金融法・団体法・不動産法。学位は法学博士(東北大学・1966年)(学位論文『権利能力なき社団に関する研究』)。青山学院大学名誉教授。弁護士。中川善之助門下。 長野県小県郡丸子町(現上田市)生まれ。長野県立上田中学校などを経て、1951年に東北大学法学部を卒業する。 1954年静岡大学法経短期大学部助教授、1957年福島大学経済学部教授を務め、1968年青山学院大学法学部教授として民法の講義を長年していた。1979年学部長。その後、駿河台大学法学部教授、関東学院大学法科大学院教授を歴任し、生涯現役で教育・研究に従事した。
三光 長治(さんこう ながはる、1928年9月24日 - 2… 三光 長治(さんこう ながはる、1928年9月24日 - 2025年1月30日)は、日本の音楽学者、ドイツ文学者、埼玉大学名誉教授。 広島県生まれ。1952年、京都大学独文科卒業。愛知大学講師、神戸大学助教授、埼玉大学教授、1994年定年退官、名誉教授、神戸松蔭女子学院大学教授。2008年秋、瑞宝中綬章受勲。テオドール・アドルノ、リヒャルト・ワーグナーの研究、翻訳等に従事。 2025年1月30日、誤嚥性肺炎のため兵庫県神戸市の病院で死去。96歳没。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。
松尾 壽之(まつお ひさゆき、1928年〈昭和3年〉9月24… 松尾 壽之(まつお ひさゆき、1928年〈昭和3年〉9月24日 - 2022年〈令和4年〉6月8日)は、日本の生化学者。ヒト心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)を始めとする多くの新規べプチドホルモンを発見。国立循環器病研究センター研究所長、宮崎医科大学長などを歴任。 学位は薬学博士(東京大学・1959年)。国立循環器病研究センター名誉研究所長、宮崎大学名誉教授。文化功労者。位階勲等は従四位瑞宝中綬章。 1928年(昭和3年)9月24日、福岡県に生まれる。 1959年(昭和34年)に東京大学大学院化学系(薬学)博士課程を修了し、1960年(昭和35年)には東京大学薬学部助手、1964年(昭和39年)には理化学研究所研究員となる。
菅 朝照(かん ともてる、1928年〈昭和3年〉9月24日 … 菅 朝照(かん ともてる、1928年〈昭和3年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉3月31日)は、日本の政治家、歯科医師。愛媛県北条市(現・松山市)長(2期)。位階は正六位。 愛媛県出身。東京歯科医学専門学校(現・東京歯科大学)卒業。地元で歯科医を開業し、北条市歯科医師会会長、愛媛県歯科医政治連盟副会長などを務める。1987年愛媛県議会議員選挙に立候補し、当選。2期務める。1992年北条市長選挙に立候補し、現職を破って初当選する。1996年に再選。2000年1月31日北条市長のまま死去。死没日付をもって正六位に叙され、勲五等双光旭日章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
長 新太(ちょう しんた、本名: 鈴木 揫治、1927年9月… 長 新太(ちょう しんた、本名: 鈴木 揫治、1927年9月24日 - 2005年6月25日)は、日本の漫画家、絵本作家、エッセイスト。 漫画作品のほか、「ユーモラスな展開と不条理な筋立て」による「絵本」と称される数多くの絵本や児童文学の挿絵を描き、「ナンセンスの神様」の異名をとった。エッセイなどの分野でも活動した。 東京府荏原郡羽田町(のちの東京都大田区)に生まれる。蒲田育ち。戦時中は陸軍少年飛行兵学校を受験したが体重が足りなかったために不合格となる。東京市立蒲田工業学校(現在の東京都立一橋高等学校)卒。蒲田が空襲の被害を受けたため横浜市に移り、ここで敗戦を迎える。映画が好きだったため映画館の看板屋で3年ほど働いた。
白井 昭(しらい あきら、1927年9月24日 - 2025… 白井 昭(しらい あきら、1927年9月24日 - 2025年2月26日)は、日本の評論家。鉄道技術者。鉄道ファン。元名古屋鉄道社員。元大井川鐵道副社長・顧問。日本ナショナルトラスト会員。 名古屋鉄道在籍時に、鉄道技術者としてパノラマカー(7000系)、モノレール車両(東京モノレール100形、名鉄MRM100形)の企画・製作・設計に携わった。大井川鐵道在籍時に井川線のアプト式新線開業、蒸気機関車の動態保存を手がけている。 同じく鉄道ファンであり鉄道関連の著書を多く手がけている白井良和は実弟である。 愛知県岡崎市出身。旧制豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋工業専門学校(現・名古屋工業大学)卒業。
加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 20… 加山 又造(かやま またぞう、1927年9月24日 - 2004年4月6日)は、日本画家、版画家である。京都府京都市上京区相国寺東門前町生まれ。 祖父・田辺玉田は北陸若狭の出身で、京都で活動の後、旅をしながら各地の風景を描いていく「旅の絵師」となり、旅先の一つ、広島県で結婚し、父・田辺勝也も広島で生まれた。祖父は広島を中心に中国地方で画家として活躍し、作品が二点広島県立美術館に収蔵されている。父は幼少期を広島で過ごした後に父(又造の祖父)と共に京都に移り住み加山勝也と改名。西陣織の図案家(デザイナー)となり、1927年、又造は京都で生まれた。 京都市立美術工芸学校(現 京都市立銅駝美術工芸高等学校ならびに京都市立芸術大学)、東京美術学校(現 東京芸術大学)を卒業。
大晃 定行(おおひかり さだゆき、1927年9月24日 - … 大晃 定行(おおひかり さだゆき、1927年9月24日 - 1996年1月14日)は、北海道上磯郡上磯町(現役当時、現在の北斗市)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は柴田 定行(しばた さだゆき)。現役時代の体格は181cm、115kg。最高位は東小結(1958年7月場所)。得意手は突っ張り、叩き、左四つ、寄り、うっちゃり。大相撲屈指の黄金時代といわれる、栃・若時代の名力士として知られている。 引退後は、年寄・阿武松を襲名した。 地元の高等小学校卒業後自動車の運転手として働いていたが体格が大きくもともと力士志望だったため、同じ渡島支庁の福島町出身の千代ノ山を慕って出羽海部屋に入門し、1944年1月場所に於いて初土俵を踏んだ。
辻 邦生(つじ くにお、1925年(大正14年)9月24日 … 辻 邦生(つじ くにお、1925年(大正14年)9月24日 - 1999年(平成11年)7月29日)は、日本の小説家・フランス文学者。学習院大学教授も務めた。位階は正五位。 東京市・駒込に生まれた。信州・長野の信州旧制松本高校で敗戦の前後を過ごしたことが、精神上大きな糧となる。 東京大学仏文科卒業後、渡仏。その時の日記『パリの手記』(1973年 - 1974年)は、辻文学の素材と風土を語る貴重な資料である。滞仏中にギリシア旅行をし、パルテノンの神殿に永遠の人間のあり方を見、『見知らぬ町にて』(1967年)を執筆した。1961年、帰国の途中で書きはじめた『廻廊にて』(1963年)で近代文学賞を受賞。
飯島 泰蔵(いいじま たいぞう、1925年9月24日 - … 飯島 泰蔵(いいじま たいぞう、1925年9月24日 - 2023年11月14日)は、日本の情報工学者。東京工業大学名誉教授。東京工科大学名誉教授。元北陸先端科学技術大学院大学副学長。瑞宝中綬章受章。 大阪府三島郡千里村(現吹田市千里山)生まれ。千里第二尋常小学校(現吹田市立千里第二小学校)、大阪市立扇町商業学校(現大阪市立扇町総合高等学校)を経て、1942年浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)首席入学。太平洋戦争中で沼津海軍工廠、東京芝浦電気柳町工場、海軍省海軍技術研究所島田実験所に動員されたのち、1945年東京工業大学電気工学科に進学。 1948年東京工業大学電気工学科及び応用数学科卒業、逓信省電気試験所入所、田無分室材料部物理課数学研究室配属。
飯田 鼎(いいだ かなえ、1924年<大正13年>9月24日… 飯田 鼎(いいだ かなえ、1924年<大正13年>9月24日 - 2011年<平成23年>5月10日)は、日本の経済学者。 1924年9月24日、千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷村(現:鎌ケ谷市)中沢に飯田粲・いゐ夫妻の二男として生まれる。1942年旧制日本大学第一中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、1949年慶應義塾大学経済学部を卒業し、同経済学部助手。1957年助教授に就任。1958年イギリス労働組合の生成により慶應義塾賞を受賞。慶應義塾労働組合三田支部委員長、慶應義塾労働組合委員長などを歴任。1966年10月教授に昇任。慶應義塾大学より経済学博士の学位を取得。1967年法政大学経済学部講師(社会政策論担当)を兼任(任期1年)。
岩崎 宏(いわさき ひろし、1924年9月24日 - 201… 岩崎 宏(いわさき ひろし、1924年9月24日 - 2018年6月4日)は、日本の実業家。東洋ラジエーター(現・ティラド)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡辰野町出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京大学法学部卒業。第一勧業銀行(現・みずほ銀行)取締役を経て、東洋ラジエーター(現・ティラド)代表取締役社長。2018年6月4日、老衰のため死去。
渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2… 渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2011年10月12日)は、広島県広島市西本浦町(現南区)出身の宮司。元サッカー選手、指導者。 実家は広島市の黄金山に面した邇保姫神社。國學院大學出身という異色の経歴は神社の神主だからである。 広島似島中学教諭時代に日本代表に選出され、1954年のワールドカップスイス大会予選と第2回アジア競技大会(マニラ)の国際Aマッチ2試合に先発出場した。体格も良く、ゴールキーパーとして安定したプレーを見せ、名ゴールキーパーと謳われた。視力が悪かったためメガネを掛けてプレーした。当時チームでのニックネームはやはり「神主」だったという。 指導者としても活動しており、山陽高校監督として1967年、同校を全国高校選手権優勝に導いた。
井関 弘太郎(いせき ひろたろう、1924年9月24日 - … 井関 弘太郎(いせき ひろたろう、1924年9月24日 - 2002年6月27日)は、日本の地理学者、理学博士。名古屋大学名誉教授。日本第四紀学会会長など歴任。 東京都生まれ。1944年9月、駒澤大学専門部歴史地理科卒業(第14回生)。1948年、京都帝国大学文学部史学科卒業。同年、駒澤大学専任講師として着任。1949年、助教授。 1951年、名古屋大学文学部講師。助教授を経て教授、文学部長を歴任。1961年「冲積平野の地形発達」で東京大学理学博士。 1983年9月10日から1994年5月31日まで、名古屋地理学会 第4代会長。1985年・1986年度、日本第四紀学会会長。 1988年名古屋大学を定年退官し、名誉教授。
野々山 一三(ののやま いちぞう、1923年(大正12年)9… 野々山 一三(ののやま いちぞう、1923年(大正12年)9月24日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 愛知県碧海郡富士松村(現・刈谷市井ケ谷町)の小作農の家に生まれる。高等小学校卒業後、国有鉄道米原機関区に就職した。1942年に日本国有鉄道名古屋鉄道教習所を卒業し、20歳で一人前の機関士となった。 召集され、1944年1月、フィリピン群島に送られる。同年夏、上陸用舟艇の艇長としてルソン島に転進。マニラ郊外に上陸後捕虜となる。1945年12月8日に輸送船に乗り、呉海兵団基地に帰還した。野々山の部隊は約960名編成されていたが、生存者はわずか20数名であった。
猪井 善亮(いい ぜんすけ、1922年(大正11年)9月24… 猪井 善亮(いい ぜんすけ、1922年(大正11年)9月24日 - 1985年(昭和60年)3月9日)は、昭和時代の政治家。静岡県湖西市長。 静岡県出身。1938年(昭和13年)静岡県興誠商業学校卒業。同年3月、水野商店に勤め、その後、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)に転じた。 1959年(昭和34年)湖西町経済課長となり、市制施行後、湖西市助役、同市消防長を務めた。1975年(昭和50年)4月に湖西市長に当選する。1983年(昭和58年)4月、3期目の当選後、選挙違反が発覚し逮捕、起訴され同10月に辞任。1985年(昭和60年)1月、最高裁で懲役2年、執行猶予5年が確定した。 在任中は、湖西青年会議所の設立、静岡県立湖西高等学校の開校、第2次湖西市総合計画などに尽くした。
深緑 夏代(ふかみどり なつよ、1921年9月24日 - 2… 深緑 夏代(ふかみどり なつよ、1921年9月24日 - 2009年8月31日)は、京城(現在のソウル)出身のシャンソン歌手、音楽講師。元宝塚歌劇団雪組主演娘役の宝塚歌劇団卒業生。 本名は多田 玲子(ただ れいこ)で、愛称はターコさん、タマコさん、ターコ先生など。
村上 弘(むらかみ ひろむ、1921年〈大正10年〉9月24… 村上 弘(むらかみ ひろむ、1921年〈大正10年〉9月24日 - 2007年〈平成19年〉3月22日)は、日本の政治家。第3代日本共産党委員長(中央委員会幹部会委員長)。名誉役員。元全逓信従業員組合大阪地方協会会長。 1972年の総選挙で大阪3区(分区前)から初当選、分区後も大阪3区から衆議院議員を通算4期務めた。 広島県因島市(現:尾道市)に、10人兄弟の5番目の子として生まれる。 逓信省逓信官吏練習所行政科を卒業。戦時中は兵士として広島にいた。1947年日本共産党入党。1948年に阪神教育事件で首謀者とされ、占領政策違反で大阪刑務所に服役、1年8ヶ月投獄される。党の50年分裂では所感派に属する。
村上 一郎(むらかみ いちろう、1920年(大正9年)9月2… 村上 一郎(むらかみ いちろう、1920年(大正9年)9月24日 - 1975年(昭和50年)3月29日)は、日本の文芸評論家、歌人、小説家。日本浪曼派に共感した。 東京で生まれ、父はホーリネス教会派のクリスチャンだった。栃木県宇都宮市で育つ。旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)予科に進学。高島善哉ゼミ出身。 1943年に大学を卒業後、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入校。小島直記らは同期生にあたる。1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 戦後は三菱化成(現三菱ケミカルホールディングス)に入社したがやがて退社。
渓間 秀典(たにま しゅうてん、1920年9月24日 - 1… 渓間 秀典(たにま しゅうてん、1920年9月24日 - 1989年7月1日)は、プロ野球球団阪急ブレーブスの球団代表、球団社長。 大阪市の天満にある万福寺の住職の次男として生まれる。 龍谷大学文学部に進学し、映画監督の松林宗恵とは同期であった。1944年に大学卒業した後に、海軍航空隊に志願し、海軍士官となる。 復員後は、京阪神急行電鉄に入社。 1968年10月にパ・リーグ会長に就任した岡野祐の後任として、プロ野球球団阪急ブレーブスの球団代表に就任した。1976年から1978年までは球団社長を務めた。 1989年7月1日に心不全のために死去。68歳没。
山崎 富栄(やまざき とみえ、1919年〈大正8年〉9月24… 山崎 富栄(やまざき とみえ、1919年〈大正8年〉9月24日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の美容師。作家・太宰治の愛人の一人であり、最晩年の太宰の看護や執筆活動の介助を続けたことと太宰と共に入水自殺を遂げたことでも知られる。 東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)に生まれる。父・山崎晴弘は日本最初の美容学校であるお茶の水「東京婦人美髪美容学校」(通称・お茶の水美容学校。後継校が現存するかは不明)の設立者。富栄はその次女。 父の下で美容技術の英才教育を受けて育つ。京華高等女学校から錦秋高等女学校(後の錦秋学園高等学校、現在は廃校)に転じて卒業。女学校卒業後、YWCAで聖書や英語、演劇を習う。
中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月2… 中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月24日 - 2010年(平成22年)7月23日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵67期首席。第11代海上幕僚長。最終階級は、帝国海軍では海軍大尉、海自では海上幕僚長たる海将(海軍大将に相当)。京都府出身。 1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人。三重県立津中学校四年修了時に海軍兵学校を受験し合格した。海軍兵学校第67期を首席で卒業し、遠洋航海に出る。なお、67期が遠洋航海をした最後の期となる。重巡洋艦「高雄」乗組みを経て駆逐艦「夕立」に水雷長として乗組む。スラバヤ沖海戦では水雷長として魚雷発射の指揮をとり敵艦に向け魚雷を8本発射するが、発射した魚雷のうち半分が目の前で自爆し、敵艦には1発も当たらず悔しい思いをしている。
上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月2… 上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月24日 - 没年不明)は、日本の官吏。北海道土地開発公社副理事長兼専務理事。 山形県米沢市元中馬口労町出身。米沢市南部尋常小学校を卒業する。1936年に山形県立米沢興譲館中学校を卒業する。1945年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業する。北海道の拓殖調査研究を嘱託される。 北海道庁に入る。開拓部に勤務する。1951年に漁政課企画係長、1955年に同課企画調査係長。1958年に資源課次長、1961年に同課長、同年に人事課長。 1963年に網走支庁長。1964年に道立総合経済研究所副所長。1965年に北海道企画部次長。1967年に道立総合経済研究所長。
中山 育雄(なかやま いくお、1916年9月24日 - 19… 中山 育雄(なかやま いくお、1916年9月24日 - 1986年7月10日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。福岡県出身。 1937年に神戸高等商業学校を経て、1940年に大阪帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に中山製鋼所に入社。1945年6月に取締役に就任し、同年12月には社長に昇格。1973年11月から1975年5月までに会長を務めた。 1973年11月に藍綬褒章を受章。 1986年7月10日肺炎のために死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小菅 孝一郎(こすげ こういちろう、1915年9月24日 -… 小菅 孝一郎(こすげ こういちろう、1915年9月24日 - ?)は日本の実業家。伊勢丹元常務取締役、同社監査役、同社相談役。株式会社東京カナダドライ元社長。 東京出身。1936年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)卒業。 松屋勤務の後、1940年伊勢丹に入社し総務部企画課、庶務課等の各課勤務。営業部用達課長、企画営業部第二各部次長を経て、1957年3月販売部長となり同年6月取締役に就任する。 1961年伊勢丹常務取締役、1979年伊勢丹監査役、1989年伊勢丹相談役に就任した。
渡辺 武雄(わたなべ たけお、1914年9月24日 - 20… 渡辺 武雄(わたなべ たけお、1914年9月24日 - 2008年3月17日)は、日本の演出家、振付家。第二次世界大戦後、長く宝塚歌劇団で活動し、名誉理事となった。 台湾の台北市生まれ。 1933年、関西学院大学に入学して劇研究会に所属し、同期生であった高木史朗に紹介された白井鐵造の助言で、出口秀子に師事してバレエを学ぶ。 1938年、大学を中退して上京し、高木史朗に紹介された日劇ダンシングチームの振付家・益田隆の助手となり、1940年には東宝舞踊隊公演『燃ゆる大地・台湾』で、初めて本格的な演出を手がけた。 その後、活動の拠点を東京から大阪へ移し、大阪松竹少女歌劇団 (OSK) を経て、1946年に大阪・梅田劇場の東宝ダンシングチーム設立に参画するとともに、関西学院大学に復学して1949年に卒業した。
清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 - 20… 清水 天山(しみず てんざん、1914年9月24日 - 2001年11月26日)は、日本の書道家。熊本で活躍した。「日本の書道会」を発足させ、会長を務めた。本名、清水 正隆。 清水天山の五男で手島右卿より直接指導を受けた清水隆治は清水天山の書を4期に分けている。第1期はしっかりとした土台を作った時期で、臨書修練の中心は草書十七帖(じゅうしちじょう)であった。この時期の基礎力養成が書家として大きな土台をつくった。第2期は、手島右卿に師事し、当時としては極めて難関の日本美術展に連続入選を果たしている。古典を土台としながら、多字数作を試行した時代で、男性的力強さで一貫している濃墨作がある。第3期は手島右卿が傑作を発表した時期に、その理念に共感して、一字作品を世に問うた。
難波 桂芳(なんば けいほう、1914年(大正3年)9月24… 難波 桂芳(なんば けいほう、1914年(大正3年)9月24日 - 2009年(平成21年)12月28日)は、昭和から平成時代の安全工学者。専門は化学安全工学、燃料工学、反応化学。 1940年(昭和15年)3月、東京帝国大学工学部火薬学科を卒業後、海軍火薬廠を経て,1942年(昭和17年)11月、東京帝国大学第一工学部火薬学科助教授、1963年(昭和38年)6月、同大学教授となり火薬学第二講座(製造火薬学)を担当。ほか燃料工学第二講座(高速燃料学)、反応化学第二講座(反応性物質化学)を担任した。1975年(昭和50年)4月1日、定年退官、東京大学名誉教授の称号を受ける。 学術分野ではほかに、日本学術会議安全工学研究連絡委員会、安全工学協会(現・安全工学会)、工業火薬協会(現・火薬学会)、日本化学会、日本火災学会などで会長、副会長、理事、評議員などを歴任する。
嶋崎 昌(しまざき あきら、1914年9月24日 - 197… 嶋崎 昌(しまざき あきら、1914年9月24日 - 1974年3月3日)は、昭和時代の歴史学者。元中央大学学長。専門は、中央アジア史。特に高昌国史を研究。 1914年、富山県上新川郡島村(現・富山市)で生まれた。幼くして小学校教諭の父の転勤に伴い、朝鮮半島で育った。1934年3月、京城帝國大学予科を卒業。京城帝国大学法文学部史学科に進学し、1937年3月に卒業。 1937年4月、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その際の指導教授は大谷勝真であった。その後、北京の中央亜細亜協会調査員として勤務。1944年に赤紙招集に伴い、邯鄲に拠点を置いた独立混成第1旅団に入隊。1946年に復員。 1947年6月、明星中学校に教諭として勤務。
高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 - 1992… 高田 誠(たかだ まこと、1913年9月24日 - 1992年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家、文化功労者。瑞宝章受章者。浦和画家の代表格として知られる。 埼玉県浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)常盤町の代々医者として知られていた旧家である高田家に生まれた。父は医師のほか民政党の県議会議員を務めた高田源八。兄に、医師であり浦和医師会会長、埼玉県産婦人科医会会長、浦和教育委員などを務めた高田進、弟に斎藤工業株式会社代表取締役社長、社団法人埼玉建設産業団体連合会初代会長、社団法人全国建設産業団体連合会会長などを務めた斎藤裕がいる。埼玉県立男子師範学校付属小学校の5、6年生のころに初めて油絵を制作している。
田邊 國男(田辺 国男、または田邉 國男、たなべ くにお、1… 田邊 國男(田辺 国男、または田邉 國男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党衆議院議員、山梨県知事、鈴木改造内閣の総理府総務長官、沖縄開発庁長官を歴任したほか、田辺酒造店主でもある。 山梨県塩山市下於曽(現在の甲州市)に生まれる。造酒業を営む田辺家の次男。田邊宗英の甥にあたる。父の田邊七六は戦前に実業界から衆議院議員となった人物で、立憲政友会に所属し幹事長を務め、戦後も日本進歩党に所属し、自民党山梨県連初代会長を務め山梨県政に影響力を持っていた。 1938年(昭和13年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、1958年(昭和33年)に第28回衆議院議員総選挙において旧山梨全県区から立候補し初当選して以来、通算当選9回(当選同期に安倍晋太郎・倉成正・斎藤邦吉など)。
大内田 茂士(おおうちだ しげし、1913年 <大正2年> … 大内田 茂士(おおうちだ しげし、1913年 <大正2年> 9月24日 - 1994年 <平成6年> 2月1日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。位階は正五位。 福岡県朝倉郡大福村(朝倉町を経て、現 朝倉市)出身。1931年、福岡県立朝倉中学校(現 福岡県立朝倉高等学校)卒業。浜哲雄に画家となることを勧められ、高島野十郎らの指導を受ける。23歳で朝倉郡宝珠山小学校代用教員となり、翌年上京して東京新宿絵画研究所で学ぶ。1942年「静物」で国展入選、1943年「隈」が文展入選。1944年応召され、台湾で終戦を迎える。 戦後、父の教え子だった森部隆の後援を受け、1949年に後援会が結成された。示現会の創立に参加し、日展の審査員・評議員も務めた。
田邊 圀男(田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日… 田邊 圀男(田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員、山梨県知事、鈴木改造内閣の沖縄開発庁長官、総理府総務長官を歴任したほか、田辺酒造店主。
壬生 台舜(みぶ たいしゅん、1913年9月24日 - 20… 壬生 台舜(みぶ たいしゅん、1913年9月24日 - 2002年6月13日)は、日本の仏教学者、浅草寺第26世貫首。大正大学教授等を務めた。専門は天台教学、仏教学。 1913年生まれ。大正大学仏教学部で学び、卒業。 1962年、学位論文『チベット仏教の基礎的研究』を大正大学に提出して文学博士号を取得。2002年に遷化。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
杉江 敏男(すぎえ としお、1913年9月24日 - 199… 杉江 敏男(すぎえ としお、1913年9月24日 - 1996年10月10日)は、日本の映画監督。 静岡県静岡市(現静岡市清水区)出身。静岡県立静岡中学校卒業。早稲田大学卒業後、1937年にP.C.L(東宝の前身)に入社。山本嘉次郎、豊田四郎、島津保次郎、成瀬巳喜男、黒澤明らの助監督を務め、1950年、『東京の門』で監督に昇進する。以降、『その人の名は云えない』『忘却の花びら』などのロマンスもの、『ジャンケン娘』『お姐ちゃんシリーズ』『若大将シリーズ』などの青春映画、『密輸船』などのアクション映画、『社長シリーズ』やクレージーキャッツ主演のコメディと、多方面に撮り分ける監督として東宝を支えた。公開ベースで見ても、1955年6本、1956年7本、1957年5本、1958年4本、1959年4本、1960年5本、1961年6本・・・と、邦画界の量産時代に、休む間もなく次から次へと会社から回ってくる企画を撮り続け、20年満たない期間に68本もの監督作品を残した。
田中 朋次郎(たなか ともじろう、1913年9月24日 - … 田中 朋次郎(たなか ともじろう、1913年9月24日 - 2003年3月4日)は、日本の競馬騎手、調教師。旧姓・新井(あらい)。 1935年に騎手デビュー。1937年に騎乗馬ハッピーマイトで日本競馬会施行による第1回の帝室御賞典(後の天皇賞・秋)に優勝した。1955年に調教師に転身して以降は、1985年の皐月賞と菊花賞、1987年の天皇賞(春)などを制したミホシンザンなどを手がけた。1984~1988年、日本調教師会々長。1989年、勲五等双光旭日章受章。1992年、定年引退。 1913年、群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)の農家に生まれる。白沢尋常小学校高等科を卒業後、村の馬喰の勧めで片品村の千明牧場へ奉公に入り、ここで乗馬の手ほどきを受けた。
柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 19… 柏木 俊夫(かしわぎ としお、1912年9月24日 - 1994年12月7日)は、日本の作曲家、音楽理論家。東京学芸大学名誉教授。 兵庫県洲本市出身。『和声 理論と実習』の共著者として知られる。東京学芸大学教授、東京芸術大学講師、千葉経済大学教授を歴任。 旧制洲本中学校卒業、東京音楽学校(東京藝術大学の前身)作曲科第1期生卒業。同校で信時潔、クラウス・プリングスハイムらに師事した。 1950年、イタリアのジェノヴァでの作曲コンクールにおいてピアノ曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」で入賞した。他には声楽曲が多い。1985年、勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月7日、心不全のため死去。
千谷 七郎(ちたに しちろう、1912年9月24日 - 19… 千谷 七郎(ちたに しちろう、1912年9月24日 - 1992年6月26日)は、日本の精神病理学者。鳥取市生まれ。鳥取第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)卒、第一高等学校理乙卒、東京帝国大学医学部卒、同精神神経科講師、1950年東京女子医科大学教授、1957年「精神科とCortisone様作用物質」で東京女子医科大学医学博士、のち名誉教授。日本文化会議会員。鳥取第一中学校時代には第14回全国中等学校優勝野球大会にも出場した。
友光 恒(ともみつ つね、1911年(明治44年)9月24日… 友光 恒(ともみつ つね、1911年(明治44年)9月24日 - 1994年(平成6年)11月25日)は、昭和時代の政治家。埼玉県上尾市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 埼玉県北足立郡上尾町(現上尾市)出身。日本大学専門部法科を卒業後上尾町役場に入職する。上尾市議会議員を経て、1968年(昭和43年)同市助役となり、1972年(昭和47年)2月上尾駅東口の再開発(アリコベール)を公約に掲げて市長に当選し4期務めた。上尾市長選挙で北上尾駅開業の是非をめぐり、駅建設見直し派である荒井松司と争い1988年(昭和63年)2月、落選した。1994年死去。死没日付をもって正七位から従五位に進階し、勲四等旭日小綬章を追贈された。
巖 金四郎(いわお きんしろう、1911年9月24日 - 1… 巖 金四郎(いわお きんしろう、1911年9月24日 - 1994年12月30日)は、日本の男性俳優、声優、朗読家。東京府東京市(現・東京都文京区)出身。明治大学商学部中退。本名同じ。 プロダクション・タンクに所属していた。日本における声優の草分け的な存在とされる。全国芸能団運営会会長、元東京放送劇団代表、プロダクションTHG代表。 中学在学中から映画と演劇を好んでおり、学校を休んで浅草の劇場に通っていたとされる。 大学在学中は演劇部に所属。1936年、上二証券に入社。1941年、30歳の時にNHK東京放送劇団発足と同時に第1期研究生として入団。同期生には富田仲次郎、加藤道子らがいた。 以来俳優、声優として活躍。
中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24… 中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士九段、居合道範士九段(全日本剣道連盟)。流派は神道無念流剣術、夢想神伝流居合。職業は警察官(宮内省皇宮警察、鹿児島県警察)。 鹿児島県出身。大道館武道専修学校を第一期生として卒業後、上京して中山博道の道場・有信館に入門する。剣道の公式戦で69連勝を打ち立て、「昭和の武蔵」、「戦うに敵なし」と謳われた。第二次大戦後は全日本東西対抗剣道大会で9人を勝ち抜く記録を打ち立て、「東西対抗の鬼」の異名をとった。 関東管区警察学校教授、一橋大学、中央大学、防衛医科大学校剣道部師範、鹿児島県剣道連盟理事長、全日本剣道連盟審議員などを歴任した。
中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没… 中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没年不明)は、日本の林学者、造園学者。 京都大学、島根県立島根農科大学(現在の島根大学生物資源科学部)、信州大学、名城大学などで長く教育と研究にあたる。専門は防火樹に関する実験的研究であるが、別に観光レクリエーションと日本庭園史を手がけた。 1929年、第八高等学校文科乙類を卒業する。東京帝国大学法学部法律学科に進学するが、結核にかかり1935年に中途退学した。療養後の1942年9月から京都帝国大学に入学し、1945年、京都帝国大学農学部林学科を卒業した。同年より京都大学農学部助手(演習林、造園学教室)を経て1953年に京都大学講師となる。
岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 19… 岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 1959年2月22日)は、日本の演出家。美術史家の岡倉天心の甥。 新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)と渡り、歌舞伎やオペラなどの演出にも携わった。 東京市本郷区丸山新町(現・文京区白山)出身。 立教大学在学中の1929年に発足した新築地劇団に参加する。演出は土方与志から指導を受けた。大学卒業後も引き続き劇団に在籍した。新築地劇団在籍中に『土』(長塚節作、1937年)や『綴方教室』(豊田正子作、1938年3月)を演出して評価を受ける。1940年8月に新築地劇団を退団するが、治安維持法違反で[要出典]検挙され、翌年保釈された。