近藤 信好(こんどう のぶよし、1930年〈昭和5年〉8月2… 近藤 信好(こんどう のぶよし、1930年〈昭和5年〉8月25日 - 2005年〈平成17年〉5月29日)は日本の政治家。足立区議(2期)、第30代足立区議会副議長、東京都議(6期)、第31代都議会議長を歴任した。長女は足立区長の近藤弥生。 1930年8月25日、群馬県多野郡万場町(現:神流町)に生まれる。1955年に日本大学歯学部を卒業。1958年に近藤歯科医院を開業。1967年から足立区議会議員を2期6年務める。この間、第30代足立区議会副議長(1971年5月25日から1972年7月6日)を務める。1973年、東京都議会議員選挙に足立区選挙区から立候補して、初当選する。都議会では、警務消防委員会委員長(1979年から1980年)、都議会自民党政調会長(1981年から1982年)、都議会自民党幹事長(1983年から1984年)、議会運営委員会委員長(1983年から1984年)を歴任した。
三條 美紀(さんじょう みき、1928年〈昭和3年〉8月25… 三條 美紀(さんじょう みき、1928年〈昭和3年〉8月25日 - 2015年〈平成27年〉4月9日)は、日本の女優。本名:佐藤 幹子(さとう みきこ)。旧芸名は三条 美紀。京都府京都市右京区出身。血液型A型。父は俳優で大映の部長も務めた佐藤圓治。娘は元女優の紀比呂子。オフィスまとば所属。 京都で生まれ、日活に所属していた父が日活多摩川撮影所へ移るのを機に上京。東京都立桜水女子商業学校(現在の東京都立杉並総合高等学校)卒業。戦時中は、学徒動員により東芝府中工場の経理課で勤務していた。 戦後、大映東京撮影所経理課に勤務していたが、戦後になり大映がスターを発掘する中、永田雅一ら社内上層部の目に留まり演技課へ異動。
吉沢 典男(よしざわ のりお、1928年8月25日 - 19… 吉沢 典男(よしざわ のりお、1928年8月25日 - 1988年3月8日)は、日本の国語学者・音声学者。 長野県長野市出身。長野師範学校付属小学校、旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、國學院大學文学部国文科卒業、1953年同大学院修士課程中退、同年国立国語研究所に入所、東京医科歯科大学助教授を経て、1963年千葉大学文理学部助教授、1966年東京外国語大学助教授、同音声学研究所教授。 1962年「呼気消費量計による、発声・発音についての音声生理学的研究」で神戸医科大学医学博士。NHK放送用語委員会委員を務めた。
石河内 稔勝(いしごうち としかつ、1928年8月25日 -… 石河内 稔勝(いしごうち としかつ、1928年8月25日 - 2014年6月15日)は、日本の政治家、実業家。広島県沖美町議会副議長、広島県沖美町商工会長、広島県沖美町長を務めた。 広島県沖美町(現・江田島市)に生まれる。広島県立広島第二中学校(現・広島県立広島観音高等学校)を卒業後、外務省・文部省共同所管の南洋協会が運営する南洋学院に入学する。南洋学院在学中に終戦となり、その後内地の新制大学への転校を認められ、中央大学法学部に在籍する。 1977年から広島県沖美町議会議員選挙に5回連続当選を果たす。在任中に町議会の副議長を2度(1985年・1993年)務めた。1991年5月に広島県沖美町商工会長に就任し1998年11月の広島県沖美町長選挙で現職を破り第5代広島県沖美町長となる。
泉 大八(いずみ だいはち、1928年8月25日 - )は、… 泉 大八(いずみ だいはち、1928年8月25日 - )は、日本の小説家。本名は百武 平八郎(ひゃくたけ へいはちろう)。鹿児島県出身。 職業軍人の家庭に生まれ、自身も陸軍予科士官学校へ進学したが終戦後は電電公社(NTTの前身)で組合活動をしながらプロレタリア文学を執筆し、芥川賞候補となる。 1960年代後半に電電公社を退社して専業作家となってからは官能小説に転じ、宇能鴻一郎や川上宗薫と並ぶ「ポルノご三家」と評されていた。 1928年(昭和3年)8月25日、鹿児島県出水郡出水町(現在の出水市)に生まれる。祖父は肥前国佐賀藩の出で、出水へ移り鍛冶屋を営んでいた。元海軍大将・侍従長の百武三郎は祖父の親類に当たる。
浅井 美幸(あさい よしゆき、1927年8月25日 - 20… 浅井 美幸(あさい よしゆき、1927年8月25日 - 2009年10月4日)は、日本の政治家。東京都出身。衆議院議員。 1927年8月25日、東京市、現在の東京都新宿区に生まれる。1948年、東京歯科医専(現・東京歯科大学)を卒業する。 1967年、公明党の衆議院初進出となる衆院選に旧大阪2区から立候補し、初当選する。国会対策委員長に就任する。 1969年、国対委員長を渡部一郎に譲り退任する。 1970年、公明党委員長の竹入義勝を団長とする第1次公明党中華人民共和国訪問団(訪中団)に参加し副団長に就任する。1971年から1972年の田中角栄首相自民党総裁の中国訪問までに第2次、第3次の訪中団として日中間の交渉をおこなう。
秋元 満(あきもと みつる、1927年8月25日 - 201… 秋元 満(あきもと みつる、1927年8月25日 - 2019年1月5日)は、日本の銀行家。 滋賀県出身。1952年に同志社大学経済学部を卒業し、翌年に京都銀行に入行。1974年11月に取締役に就任し、1979年7月に常務、1984年6月に専務、1992年6月に副頭取を経て、1994年4月に頭取に就任。1998年6月に会長に就任し、2002年6月から2006年6月までに相談役を務めた。 京都銀行協会会長、京都経済同友会副代表幹事、京都商工会議所副会頭、京セラ・日本電産各監査役などを歴任した。 2002年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 2019年1月5日、老衰のために死去。91歳没。
福田 甲子雄(ふくだ きねお、1927年8月25日 - 20… 福田 甲子雄(ふくだ きねお、1927年8月25日 - 2005年4月25日)は、日本の俳人。 山梨県中巨摩郡飯野村(現・南アルプス市飯野)に生まれる。1947年より、飯田蛇笏選「春夏秋冬」に投句をはじめ、「雲母」に入会、蛇笏に師事。1960年より飯田龍太選に投句し龍太に師事、1963年より終刊まで「雲母」編集同人。1969年、第5回山盧賞を受賞、2002年、第25回野口賞を受賞。 1971年6月、第一句集『藁火』を出版。その後、数々の句集や評論集などを出版。1992年、「雲母」終刊。その後は、盟友・廣瀬直人の主宰誌「白露」の同人として活躍。作品は、重厚な風土性と格調の高さが特徴であると評される。
斎藤 光雄(さいとう みつお、1926年8月25日 - 20… 斎藤 光雄(さいとう みつお、1926年8月25日 - 2010年8月4日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。専門は計量経済学、経済統計学。経済学博士(大阪大学、1975年)(学位論文「一般均衡と価格」)。大阪府大阪市南区出身。 1926年8月25日 大阪市南区の商家の四男として生まれる。 1947年3月 浪速高等学校高等科文化甲類卒業 1951年3月 京都大学経済学部卒業 1959年3月 大阪大学大学院経済学研究科経済政策専攻修士課程修了 1959年7月 大阪大学助手(経済学部付属社会経済研究施設) 1964年3月 大阪大学助教授(経済学部付属社会経済研究施設) 1970年2月 大阪大学教授(社会経済研究所) 1971年2月 神戸大学教授(経済学部) 1990年3月 神戸大学を定年により退官 1990年3月 神戸大学名誉教授 1990年4月 帝塚山大学教授(経済学部) 1991年4月 理論・計量経済学会(現日本経済学会)会長(1992年3月まで) 1973年10月 『一般均衡と価格』、創文社 1991年11月 『国民経済計算』、創文社 一般均衡理論モデルに計量経済学的な個別主体均衡のモデルを組み込んで、日本経済の実証分析を行った。
白濱 謙一(しらはま けんいち、1926年(大正15年)8月… 白濱 謙一(しらはま けんいち、1926年(大正15年)8月25日 - 2010年(平成21年)1月6日)は、昭和期の建築家である
荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年8月25日 - 1988… 荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年8月25日 - 1988年7月2日)は映画評論家、料理研究家、オーディオ評論家。月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から、淀川長治、水野晴郎と並んで名解説者として知られた。身長165センチ、体重69キロ。
星野 徹(ほしの とおる、1925年8月25日-2009年1… 星野 徹(ほしの とおる、1925年8月25日-2009年1月13日)は、日本の詩人、英文学者、茨城大学名誉教授。 1925年、茨城県生まれ。茨城大学文学部英文科を卒業。1957年より詩誌『白亜紀』を創刊し、編集発行人となる。一時歌誌「アララギ」にも属した。研究の面では英国詩を研究テーマとした。 1962年に茨城大学助教授となった。1973年に教授昇任。1991年に茨城大学を定年退職し、名誉教授となった。その後も、茨城キリスト教大学教授として教鞭をとり、2001年に退職した。
黒坂 正則(くろさか まさのり、1924年〈大正13年〉8月… 黒坂 正則(くろさか まさのり、1924年〈大正13年〉8月25日 - 2013年 <平成25年> 8月16日)は、日本の政治家、千葉県富津市長(3期)。位階は正五位。勲四等旭日小綬章。 千葉県出身。木更津中学校、旧制新潟高等学校を経て、東京大学第二工学部土木工学科卒。卒業後は建設省に入省後、千葉県庁に出向、土木部長、県住宅供給公社理事長などを務め、1983年、富津市長選挙に立候補し、初当選する。市長を3期務め、1995年の市長選挙で元千葉県議会議長の野口岡治に敗れた。1996年春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。2013年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1… 増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1986年11月23日)は、日本の映画監督、脚本家である。 山梨県甲府市出身。旧制甲府中学から旧制第一高等学校を経て東京大学法学部を卒業。東大法学部時代の知人に三島由紀夫がいる。 1947年、大映に助監督として入社。東京大学文学部哲学科に再入学。1952年、イタリア留学、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学ぶ。帰国後、溝口健二や市川崑の助監督として参加。1957年、『くちづけ』で監督デビュー。監督第2作『青空娘』より若尾文子とタッグを組み、『妻は告白する』『清作の妻』『「女の小箱」より 夫が見た』『赤い天使』『卍』『刺青』などの佳作にして重要な作品群を残す。
宮下 信明(みやした のぶあき、1924年8月25日 - 2… 宮下 信明(みやした のぶあき、1924年8月25日 - 2005年9月6日)は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、内野手。
浦嶋 幸世(うらしま ゆきとし、1924年8月25日 - 2… 浦嶋 幸世(うらしま ゆきとし、1924年8月25日 - 2022年2月3日[要出典])は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。 北海道夕張郡生まれ。1950年北海道大学理学部地質学鉱物学教室を卒業し、北海道大学助手・助教授(理学部)を経て、1970年に鹿児島大学教授(教養部)に転じ、1990年まで教育と研究に従事した。1959年北海道大学に提出した鴻之舞鉱山をはじめとする鉱床の調査研究論文で、理学博士となる(論文表題は 「北海道北東部の金属鉱床の研究」 )。 鉱床学の研究では、所属した大学が置かれている地域の鉱床を精査する姿勢を貫いた。現地での調査を基礎に、鉱石の詳細な観察を行い、後年にはEPMA(電子線微小部分分析装置)による鉱物分析を加えて、鉱床生成過程を考察した。
小山 やす子(こやま やすこ、1924年8月25日 - 20… 小山 やす子(こやま やすこ、1924年8月25日 - 2019年2月27日)は、日本の書家。東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。川口芝香に師事し、現代かな書を代表する書家の一人として活動した。2008年度、書「更級日記抄」により恩賜賞・日本藝術院賞を受賞し、2016年には書の分野で女性初の文化功労者に選ばれた。 1950年から川口芝香に学び、1961年に日展へ初入選した。1979年に日展特選、1987年に日展審査員、1999年に日展評議員となった。2000年から2016年まで現代書道二十人展に出品した。 また、1951年から書道研究団体玉青会を組織し、後進の育成に尽力した。毎日新聞社主催のサンパウロ展(1975年)など海外展にも出品し、自身の個展を多胡碑記念館(2001年)などで開催した。
山川 武範(やまかわ たけのり、1922年8月25日 - 1… 山川 武範(やまかわ たけのり、1922年8月25日 - 1981年11月9日)は、長崎県出身のプロ野球選手(内野手)。1951年途中までは山川 喜作 。 石本秀一の秘蔵っ子で、金鯱・大洋軍などでプレー後、1942年に応召される。 戦後の1946年に東京巨人軍に入団しプロ野球に復帰する。堅実な守備とシュアな打撃を買われて二番・三塁手のレギュラーを掴み、チームトップの70得点を記録した。同年8月21日の対中部日本戦では、1,3,4,5,6回と5打席連続四球(1試合最多四球の一リーグ記録)を選ぶと、6回の打者一巡後の打席で二ゴロ失策で出塁し、9回には二塁打を打って、1試合7打席7出塁の珍しい記録を作り、5得点を記録している。
山崎 正雄(やまざき まさお、1922年(大正11年)8月2… 山崎 正雄(やまざき まさお、1922年(大正11年)8月25日 - 没年不詳)は、日本の政治家。青梅市長(3期)。 現在の東京都青梅市生まれ。山梨高等工業学校(現・山梨大学工学部)卒。醤油会社に入り、専務、社長となる。青梅商工会議所議員、青梅市議会議員、同副議長、同議長となる。市議時代には全国市議会議長会評議員、関東市議会議長会副会長などを歴任した。1975年(昭和50年)石川要三が辞職。これに伴う市長選挙に立候補し、当選する。1979年(昭和54年)に再選、1983年(昭和58年)に三選した。青梅市長は3期務め、1987年(昭和62年)に退任。翌年青梅商工会議所会頭に就任。1992年(平成4年)に勲三等瑞宝章を受章した。
中 義勝(なか よしかつ、1921年8月25日 - 1993… 中 義勝(なか よしかつ、1921年8月25日 - 1993年10月28日)は大阪府出身の法学者。専門は刑法。1946年(昭和21年)、関西大学法文学部卒業後、同大学法学部教授、学長。恩師は植田重正。 出世作は『輓近錯誤理論の問題点』。『間接正犯』では、安易に間接正犯を認める通説を厳しく批判した。『誤想防衛論』では、団藤説を厳しく批判した。 主観的違法要素と間接正犯を巡る中=中山論争は有名。『刑法上の諸問題』は重要な論文集。教科書として『講述犯罪総論』がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山川 京子(やまかわ きょうこ、1921年8月25日 - 2… 山川 京子(やまかわ きょうこ、1921年8月25日 - 2014年3月20日)は、歌人。 東京府出身。旧姓:田中。松本清張の父・峯太郎の弟・田中嘉三郎の娘で、つまり清張の従妹にあたる。國學院大學文学部国文科卒。中河幹子、折口信夫に師事した。同じく折口門下の詩人・山川弘至と結婚するが、45年夫が戦死。「をだまき」をへて1954年「桃」を創刊。伝統性を尊重しロマン主義をめざす。 大本の信者で、教団の教育機関・梅松塾の第三代塾長を務めた。
政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 194… 政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 1944年)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。1944年の登録名は中本 政夫。
穂坂 衛(ほさか まもる、1920年(大正9年)8月25日 … 穂坂 衛(ほさか まもる、1920年(大正9年)8月25日 - 2016年(平成28年)10月26日)は、日本の技師・学者。東京大学名誉教授。紫綬褒章。大野豊らと共に、世界初のオンライン座席予約システムと言われるMARS-1を開発。また日本のコンピューターグラフィクス・CAD分野のパイオニア。 技術士官として山名正夫の下で、艦上爆撃機の構造強度計算や、特攻機桜花の構造設計に携わる。「試験飛行時には設計者も同乗する必要があるため、ミスの許されない仕事を学んだ」と当人が語っている。 戦後、国鉄の鉄道技術研究所に移った穂坂はフルブライト・プログラムの第一期生としてMITに留学、ノーバート・ウィーナーとの出会いをきっかけにコンピューターを工学に応用することに関心を持つようになった。
古守 豊甫(こもり とよすけ、1920年8月25日 - 20… 古守 豊甫(こもり とよすけ、1920年8月25日 - 2008年1月8日)は、日本の医学者で長寿研究者。 山梨県北都留郡上野原町棡原(現・上野原市)で60年間の食生活と死因の変化を調査研究し、伝統的な食生活が長寿の要因であると結論づけた。 1920年、山梨県甲府市に生まれる。 1938年(昭和13年)、棡原小学校に代用教員として赴任した。 1943年に、東京医学専門学校(現・東京医科大学)を卒業し、軍医少尉に任官する。翌年、ラバウルに赴任した。 1946年に復員すると、母校の東京医科大学で肺結核の臨床研究を手がける。1947年より国立甲府病院内科勤務となる。 1954年に古守病院を創設した。1959年に東京医科大学より医学博士号を取得する。
三好 豊一郎(みよし とよいちろう、1920年8月25日-1… 三好 豊一郎(みよし とよいちろう、1920年8月25日-1992年12月12日)は、日本の詩人。 東京出身。早稲田大学専門部卒。鮎川信夫らと交遊、戦時下に詩誌「故園」を発行。1947年『荒地』創刊に参加。1949年第一詩集『囚人』を刊行。1975年『三好豊一郎詩集』で無限賞、1984年『夏の淵』で第14回高見順賞受賞。
葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日… 葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の歌人・実業家。 広島県呉市出身。東京工業大学電気工学科卒。1938年(昭和13年)、『多磨』に入会し、北原白秋に師事。1950年(昭和25年)、岡部桂一郎、金子一秋、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。翌年、伊藤麟、片山貞美、草柳繁一、杉本二木雄、深作光貞、森比左志、山崎方代らが加わる。1953年(昭和28年)、宮柊二の『コスモス』創刊に参加、のち編集人。1981年(昭和56年)、歌集『玄』で第32回読売文学賞受賞。日新運輸倉庫(現・日新)取締役を務めた。
関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)… 関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)8月25日 - 2000年9月9日)は、日本の実業家。元よみうりランド代表取締役社長。祖父は政治家、実業家の小坂善之助。妻は正力松太郎の次女。 埼玉出身。大正7年(1918年)に関根善作(日本銀行行員、後に第百銀行頭取、合併により三菱銀行副頭取を歴任)と国(小坂善之助三女)の間に三男として生まれる。祖父の小坂善之助は衆議院議員を歴任した政治家であったが、信濃銀行を創業し、信濃毎日新聞社の経営基盤を確立するなど、実業家としても影響力を持っていた。長三郎の叔父で小坂善之助の長男の小坂順造は、父の関根善作と明治37年(1904年)に日本銀行に入社した同期であり、明治40年(1908年)に信濃銀行へ取締役として移籍し、安田銀行への合併処理の後に、信濃毎日新聞社長、衆議院議員を歴任していた。
川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日… 川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日 - 没年不明)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 兵庫県神戸市で生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。弁護士となる。また東京朝日新聞政治部記者も務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙に兵庫県第3区から出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党から出馬して再選され、その後自由党に所属して衆議院議員に通算2期在任した。この間、商工大臣秘書官、日本自由党幹事などを務めた。
加藤 敏夫(かとう としお、1917年8月25日 - 199… 加藤 敏夫(かとう としお、1917年8月25日 - 1999年10月2日)は、日本の数学者。専門は、偏微分方程式・数理物理学・関数解析学。 1917年、栃木県鹿沼市に生まれた。1941年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。太平洋戦争による学業の中断を経て、1951年東京大学助教授、1958年に東京大学教授となる。1962年よりカリフォルニア大学バークレー校教授。1988年に定年退職し、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授となった。1999年、カリフォルニア州オークランドの自宅にて病没。 数理物理学に関する業績が多く、1951年には量子力学において現実的な(特異性のある)ポテンシャルでのシュレーディンガー作用素の自己共役性を示した。
山之口 安秀(やまのくち やすひで、1917年 <大正6年>… 山之口 安秀(やまのくち やすひで、1917年 <大正6年> 8月25日 - 2001年 <平成13年> 10月18日)は、日本の政治家。第18代鹿児島市長。位階は正五位。勲三等旭日中綬章受章。 鹿児島県日置郡東市来村(後に東市来町、日置市)出身。鹿児島県伊佐農林学校(現鹿児島県立伊佐農林高等学校)、宮崎高等農林学校(現宮崎大学農学部)を経て、1942年九州帝国大学農学部(現九州大学農学部)卒業。南満洲鉄道勤務、福岡県職員を経て、1949年鹿児島県庁に入職。鹿児島県の農業経済、農政などの各課長、農政部次長(1966年)、企画部長(1967年)などを歴任し、1971年県出納長に就任した。1975年の鹿児島市長選で保守系の候補として出馬、現職の末吉利雄を破り、初当選した。
歌上艶子(うたがみ つやこ、1917年(大正6年)8月25日… 歌上艶子(うたがみ つやこ、1917年(大正6年)8月25日 - )は、日本の歌手。灰田勝彦とのデュエット曲「マニラの街角で」で知られる。本名は横枕三佐子(よこまくら みさこ)。父は帝国海軍軍楽隊隊長の横枕文四郎。 1917年(大正6年)、長崎県佐世保市出身。 松竹少女歌劇団に入団し、1936年(昭和11年)コロムビアから「ピーターパン」でデビュー。1942年(昭和17年)、ビクターから歌謡曲歌手として再デビュー。同年、灰田勝彦とのデュエットで「マニラの街角で」が大ヒットする。 その後は戦時歌謡などを吹き込む。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986… 井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986年1月3日)は、日本の彫刻家、美術評論家、詩人。別名は矢野 則雄。 朝鮮京城府生まれ、長崎県北松浦郡佐々村出身。1939年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業、1941年研究科修了。 在学中から二科展などに出品、1943年銀座で個展を開く。戦後、前衛美術会を結成。1972年12月宮城教育大学教授。1981年退官。『純粋詩』『造型文学』『新日本詩人』『列島』などに詩や評論を発表。 1986年1月3日、福島県双葉郡富岡町の小浜海岸を散歩中に転倒して、怪我によって起きられなくなったまま凍死した。墓所は多磨霊園。 元妻は、女性史研究家の井手文子。
神沢 浄(かんざわ きよし、正式には「神澤淨」。1915年8… 神沢 浄(かんざわ きよし、正式には「神澤淨」。1915年8月25日 - 2007年3月1日)は、日本の政治家。日本社会党参議院議員、衆議院議員。 山梨県中巨摩郡竜王村(現・甲斐市)の農家に生まれる。1933年旧制甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。戦前は中国に渡り、貿易会社に勤務する。終戦後は郷里で青年団運動に打ち込み、1947年竜王村村長に当選する。同年4月15日に就任した。翌1948年に社会党に入党。1951年4月4日に村長を退任した。同年の山梨県議会議員選挙に中巨摩郡選挙区から社会党公認で立候補したが、この時は落選した。1955年の県議選では左派社会党から立候補して当選した。
釜井 章二(かまい しょうじ、1914年8月25日 - 19… 釜井 章二(かまい しょうじ、1914年8月25日 - 1997年7月20日)は、日本の経営者。安田信託銀行社長、会長を務めた。栃木県出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に安田信託(のちの安田信託銀行)に入社した。1962年5月に取締役に就任し、1966年5月に常務、1973年1月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1986年6月に相談役に就任した。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月20日尿管癌のために死去。82歳没。
辻 章男(つじ たかお、1914年 <大正3年> 8月25日… 辻 章男(つじ たかお、1914年 <大正3年> 8月25日 - 1990年 <平成2年> 11月17日)は、日本の運輸官僚。海上保安庁長官を務めた。位階は従三位。 兵庫県出身。1937年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に逓信省に入省。運輸省で航空局長、官房長、海運局長などを歴任し、1963年6月から1964年2月までに海上保安庁長官を務めた。1977年7月に関西国際空港ビル会長に就任。 1984年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1990年11月17日肺炎のために死去。76歳没。死没日付をもって正六位から従三位に進階した。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25… 福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。 保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が戦後民主主義を軸とする進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ … 村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年(大正元年)8月25日 - 2005年(平成17年)11月20日)は、日本の書家。勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。
水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治… 水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治43年)8月25日 - 2003年(平成15年)4月8日)は脚本家。映画監督の谷口千吉は元夫。1913年(大正2年)生まれを自称していた。
尾原 佐七(1910年8月25日 - 没年不明)は、日本の実… 尾原 佐七(1910年8月25日 - 没年不明)は、日本の実業家。尾原呉服店、山陰ゴム卸(株)各社長。島根県衣料品商業協同組合会理事長。島根倉庫(株)取締役、島根県信用保証協会理事。松江商工会議所常議員。松江商店会会長。旧名一義。 島根県松江市白潟本町出身。先代佐七の長男。旧名一義、佐七を襲名した。1935年尾原呉服店の専務となり、1947年同社長に就任した。 宗教は真宗。菩提寺は明宗寺。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
岸本 実、ないし、岸本 實(きしもと みのる、1908年8月… 岸本 実、ないし、岸本 實(きしもと みのる、1908年8月25日 - 1992年2月17日)は、人口地理学を専門とする日本の地理学者。徳島大学、立正大学などで教え、立正大学名誉教授となった、日本地理学会会長も務めた。 徳島県徳島市沖浜町大木に生まれた。 徳島師範学校本科第1部に学び、東京高等師範学校文科第4部(歴史地理科)に進んだ。 1939年に東京文理科大学地学科地理学専攻を卒業した。 千葉県師範学校在職中に応召し、陸軍中尉として中国大陸に従軍した。1943年11月には、千葉師範学校教授となった。 戦後は、両親の求めに応じて1946年7月に帰郷し、徳島師範学校教授となり、学制改革を経て徳島大学教育学部教授となった。
間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年(明治41年)8月… 間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年(明治41年)8月25日 - 1981年(昭和56年)11月19日)は、将棋棋士。溝呂木光治八段門下。間宮 久夢斎(きゅうむさい)とも称した。入玉狙いという特異な棋風と放浪癖から、将棋界きっての奇人変人として知られた。 静岡県田方郡大仁町(後の伊豆の国市大仁)出身。裕福な家系(後述)に生まれ、経済的に恵まれた環境で幼少期を過ごした。 中等学校を四年次で中退して溝呂木光治の弟子となり、1923年に初段となった。18歳のときには溝呂木の内弟子となり、それから4年ほどで三段まで昇段したが、なかなか四段に上がれず苦しんだ。23歳の時に内弟子を辞めて独立し、各地を放浪するようになる。
翁長 助静(おなが すけしず / じょせい、1907年(明治… 翁長 助静(おなが すけしず / じょせい、1907年(明治40年)8月25日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の教育者。政治家。沖縄県真和志市(現・那覇市)長。 沖縄県真和志間切(のち島尻郡真和志村→真和志市、現・那覇市)に生まれる。沖縄県立沖縄第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を経て、1926年、沖縄県師範学校本科第二部卒。 沖縄県内の小学校の訓導を経て、1944年、南風原青年学校校長となるが、太平洋戦争は激化する一方で、翁長は妻子を台湾に疎開させた。翌年、米軍上陸による沖縄戦に遭遇し、実父が目の前で被弾し、死亡した。 戦後は小学校校長に復帰し、1948年、真和志村長に当選、1950年に再選したが、選挙の結果更正により、対立候補が当選者となり、村長を失職した。
雨宮 綾夫(あめみや あやお、1907年8月25日 - 19… 雨宮 綾夫(あめみや あやお、1907年8月25日 - 1977年6月9日)は日本の物理学者。東京大学教授。
谷口 武雄(やぐち たけお、1907年(明治40年)8月25… 谷口 武雄(やぐち たけお、1907年(明治40年)8月25日 - 1988年(昭和63年)10月24日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県真壁郡河間村(下館市を経て現筑西市)で、谷口健吉の三男として生まれた。1934年(昭和9年)中央大学法学部を卒業した。 1938年(昭和13年)8月、昭和機械工業社長に就任。その他、帝都高速度交通営団参与、昭和鉄工顧問、谷口ビルヂィング社長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で茨城県全県区に日本協同党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で茨城県第3区に国民協同党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
肥州山 栄(ひしゅうざん さかえ、1906年8月25日 - … 肥州山 栄(ひしゅうざん さかえ、1906年8月25日 - 1980年9月11日)は、長崎県佐世保市東浜町出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は松本 栄(まつもと さかえ)。最高位は東関脇(1941年1月場所、同年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、突っ張りなど。現役時代の体格は180cm、109kg。 1906年8月25日、長崎県佐世保市東浜町で漁師を営む家に生まれる。1926年の秋に上京し、明治神宮競技大会の相撲部門に青年団の部の長崎県代表として出場したところ、出羽海親方から見い出されて勧誘されたため、同年の年末に出羽海部屋へ入門した。 1927年1月場所で初土俵を踏むと序ノ口で2場所続けて全勝優勝したことで自信を付け、1929年9月場所では西幕下14枚目でありながら6勝0敗で全勝優勝を果たし、1930年1月場所では新十両昇進を果たした。
伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - … 伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - 2001年10月29日)は、日本の映画監督である。本名・旧名伊賀山 正徳(いがやま まさのり)。 1905年(明治38年)8月25日、秋田県秋田市保戸野表鉄砲町 (現在の同市保戸野鉄砲町)に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業、東京に移り、明治大学に入学する。日本大学法文学部美学科(現在の日本大学藝術学部)に移籍し、在学中の1925年(大正14年)、国際活映巣鴨撮影所が製作した内田吐夢監督の『義血』で助監督を務めている。同作の撮影技師は円谷英二であり、同作は同年2月6日に公開されている。1927年(昭和2年)、同学の卒業と同時に、タカマツ・アズマプロダクション吾嬬撮影所に助監督として入社したが、同社は同年後半に活動を停止しており、翌1928年(昭和3年)には、京都の勝見庸太郎プロダクションに移籍した。
三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年… 三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名熊谷 了二(くまがい りょうじ)。優秀な助監督から早期に監督に昇進、佳作を生み出し、牧野省三亡きあとのマキノ・プロダクションを支えた。 1904年(明治37年)8月25日、東京都に生まれる。1919年(大正8年)3月、旧制荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)4年修了、1923年(大正12年)7月、法政大学本科を1年次で中退し、関東大震災後の1924年(大正13年)、京都の日活関西撮影所現代劇部の監督部に入社した。 三枝源次郎に師事、助監督をつとめていたが、1928年(昭和3年)4月で日活を退社、同年5月に南光明、根岸東一郎とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。
森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年… 森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年5月29日)は、日本の経営者。 佐賀県出身。1929年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1955年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1966年5月には社長に就任。1973年10月には会長に就任。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年5月29日肝臓腫瘍のために死去。70歳没。
梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1… 梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1984年1月18日)は、日本の仏教学者。 長野県松本市生まれ。1929年東京帝国大学文学部卒。1949年「原始般若経の研究」で文学博士(東京大学)。東京水産大学助教授、大正大学助教授、教授、1974年定年退任、名誉教授。