高橋 武生(たかはし たけお、1935年(昭和10年)7月2… 高橋 武生(たかはし たけお、1935年(昭和10年)7月26日 - 2013年(平成25年)2月25日)は、日本の検察官。位階は正三位。 弁護士。福岡高等検察庁検事長、証券取引等監視委員会委員長を務めた。 1963年(昭和38年)検事任官。山形地検、横浜地検、東京地検各検事正等を経て、1997年(平成9年)福岡高検検事長。1998年(平成10年)に退官し、証券取引等監視委員会委員に就任。2001年(平成13年)に同委員長。 2007年(平成19年)に弁護士登録。2008年(平成20年)の春の叙勲で瑞宝重光章を受章。 2013年(平成25年)2月25日、急性心不全で死去。叙正三位。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
飯島 彰(いいじま あきら、1934年7月26日 - 200… 飯島 彰(いいじま あきら、1934年7月26日 - 2001年1月28日)は日本の実業家。トヨタ車体社長・会長を歴任した。 長野県千曲市出身。長野県屋代東高等学校、信州大学工学部卒業。トヨタ車体代表取締役社長を経て、2000年より同社会長。2001年、肝不全のため死去。
杉浦 正健(すぎうら せいけん、1934年〈昭和9年〉7月2… 杉浦 正健(すぎうら せいけん、1934年〈昭和9年〉7月26日 - )は、日本の政治家、弁護士。自由民主党所属の元衆議院議員(6期)。法務大臣(第76代)、内閣官房副長官(政務担当、第2次小泉内閣・第2次小泉改造内閣・第3次小泉内閣)などを歴任した。 1990年2月の総選挙で大規模な買収を行い、岡崎市議会議員13人が逮捕され、同7人が書類送検された(杉浦事件)。17人もの市議を入れ替える補欠選挙を引き起こし、市政を混乱に陥れるが、自身の立件は免れ、2005年には法務大臣として初入閣した。2023年まで小池百合子都知事の政治団体「百乃会」の代表および会計責任者を務めた。 愛知県矢作町大字東本郷(現・岡崎市東本郷町字荒井前)に生まれる。
滝沢 貞夫(たきざわ さだお、1934年7月26日 - 20… 滝沢 貞夫(たきざわ さだお、1934年7月26日 - 2016年11月20日)は、日本の国文学者。信州大学名誉教授。専門は中世和歌で、『詞花和歌集』以後の二十一代集の総索引を作成した業績がある。 新潟県生まれ。長野県長野市育ち[要出典]。1957年東京教育大学文学部卒業、1959年同大学院修士課程修了。長野県立高校教諭を経て、1968年長野工業高等専門学校助教授、1972年信州大学教育学部助教授、1979年同教授。2000年定年退任、名誉教授。正四位、瑞宝中綬章追贈。
吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - 202… 吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - 2025年2月3日)は、京都府京都市中京区出身のプロ野球選手(内野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者、野球評論家、タレント、甲子園歴史館の運営会議顧問であった。 現役時代は「今牛若丸」と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。引退後は3度にわたって阪神タイガースの監督を務めた。阪神を初めて日本一に導き、また阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。 ニックネームは「よっさん」。1989年から1996年まで野球フランス代表監督を務め、「ムッシュ」とも呼ばれる。甥の谷真一も近鉄バファローズの元プロ野球選手。 1946年、旧制中等学校の京都市立第二商業学校に入学。
笈田 ヨシ(おいだ ヨシ、Yoshi Oïda、1933年7… 笈田 ヨシ(おいだ ヨシ、Yoshi Oïda、1933年7月26日 - )は、日本の俳優・演出家。旧芸名は笈田 勝弘。兵庫県神戸市出身。パリ在住。内外の舞台で活躍。 甲南中学校・高等学校、慶應義塾大学文学部哲学科卒業。慶應義塾大学在学中、文学座に入団。劇団四季を経て、1968年にロンドンでピーター・ブルック演出の実験劇『テンペスト』に出演。 1970年にブルックが設立した国際演劇研究センター(CIRT)に参加。以後パリを拠点に、主に各国の劇場で活躍。著書に『俳優漂流』『見えない俳優』(五柳書院)がある。他に数カ国語の翻訳がある。 1990年代に笈田 ヨシ、あるいはヨシ 笈田に改名。 1992年にフランス芸術文化勲章シュバリエ受勲。
佐藤 彰夫(さとう あきお、1933年7月26日 - )は、… 佐藤 彰夫(さとう あきお、1933年7月26日 - )は、日本の経営者。三井化学社長を務めた。東京都出身。 1957年に東京大学を卒業し、同年に三井化学工業に入社。1968年に三井東圧化学に転じ、1985年6月に取締役に就任し、1989年6月に常務、1991年6月に専務を経て、1993年6月に社長に就任。1997年10月には合併で発足した三井化学社長に就任し、1999年6月から相談役を務めた。 2020年4月に旭日重光章を受章。
笹原 信一郎(ささはら しんいちろう、1932年(昭和7年)… 笹原 信一郎(ささはら しんいちろう、1932年(昭和7年)7月26日 - 2022年(令和4年)3月14日)は、日本の銀行家。富士銀行取締役、荘内銀行頭取、鶴岡商工会議所会頭を務めた。 鶴岡の名門である笹原家に生まれる。父の笹原儀三郎は、鶴岡南高校長等を歴任した。 東大法学部卒業後、富士銀行入行。同行時代は支店10年、大企業向けホールセール10年、本部企画業務に10年、それぞれ従事した。1986年(昭和61年)には、頭取在任14年となった玉城俊一が代表権のない会長に退いたため、招聘され荘銀頭取に就任した。 頭取在任時は、金融の自由化や国際化に対応した。一方で、庄内地方における農業経済の不振や、山形県内陸部との経済格差拡大に伴い、経営は苦戦を強いられた。
石鉢 勝美(いしばち かつみ、1931年7月26日 - )は… 石鉢 勝美(いしばち かつみ、1931年7月26日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)。 旭川商業高校から旭川鉄道管理局を経て、1953年に名古屋ドラゴンズへ入団。同年退団。 1956年から1964年まで旭川協会に所属した。
小野 喬(おの たかし、1931年(昭和6年)7月26日 -… 小野 喬(おの たかし、1931年(昭和6年)7月26日 - )は、体操競技の元オリンピック選手、元鹿屋体育大学教授。秋田県能代市出身。旧制秋田県立能代中学校(現在の秋田県立能代高等学校)、東京教育大学体育学部、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。現役時代は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれたことで知られる。全日本体操競技選手権の個人総合で7回の優勝を誇り、オリンピックでも4大会連続で出場し、金メダル5つ、銀メダル4つ、銅メダル4つを獲得した。 東京教育大学では久保田正躬と学生寮で相部屋だった。同大学1年の時に高校教師だった父親を亡くす。同大学3年の時に1952年ヘルシンキオリンピックに出場し跳馬で体操競技では日本初となる銅メダルを獲得。
窪川 英水(くぼかわ ひでお、1931年7月26日 - )は… 窪川 英水(くぼかわ ひでお、1931年7月26日 - )は、日本のフランス語学者、東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 東京生まれ。1956年東京外国語大学フランス語科卒、1964年東京都立大学大学院博士課程満期退学。駒澤大学文学部助教授、東京都立大学 (1949-2011)助教授、教授。95年定年退官、名誉教授。
左近允 洋(さこんじょう ひろし、1931年7月26日 - … 左近允 洋(さこんじょう ひろし、1931年7月26日 - 2008年3月10日)は、日本の音響監督である。妻は声優の麻生美代子。グロービジョンに所属していた。 鹿児島県出身。山口県立山口高等学校(56期)、早稲田大学芸術科卒業。 高校時代は弁論部に所属していたが、風刺劇に出演したことがきっかけで演劇部の設立に参加し客員部員となる。 1955年、新演劇研究所に入所。1959年、劇団新演の創立に参加。劇団と並行して東京俳優生活協同組合に所属。 1964年1月、新演の活動状況に反対して退団。舞台演出の道を志したが仕事に恵まれず、その後音響演出に携わるようになり、アニメや数多くの外国TVドラマ吹替を演出。
鍵谷 幸信 (かぎや ゆきのぶ、 1930年7月26日 - … 鍵谷 幸信 (かぎや ゆきのぶ、 1930年7月26日 - 1989年1月16日)は、日本の英文学者・詩人・音楽評論家。 北海道旭川市出身。北海道旭川北高等学校を経て慶應義塾大学文学部英文科卒。慶應義塾大学法学部助教授、教授。現代英米文学を専攻し、「エリオット詩集」「ウィリアムズ詩集」などの翻訳や研究書を発表。西脇順三郎門下の詩人で、西脇の全集編集にも携わる。 現代美術・現代音楽、ジャズにも造詣が深く、エッセイも多数執筆、「コーシンさん」の愛称で親しまれた[要出典]。
石井 威望(いしい たけもち、1930年7月26日 - 20… 石井 威望(いしい たけもち、1930年7月26日 - 2024年10月5日)は、日本のシステム工学者。東京大学名誉教授。アカデミーヒルズリサーチ・ネットワーク所長。工学博士(東京大学・1963年)。大阪市生まれ。 専門はシステム工学・マルチメディア。テクノポリス(高度技術集積都市)構想を推進し、未来社会論で独創性を見せる。著書に『日本人の技術はどこから来たか』(1997年)、『iバイオテクノロジーからの発想』(2000年)など。 東京大学に在学中、ノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス』を読んで、医学から工学に転じた。その後、システム工学、管理工学、応用工学から人工臓器、都市交通システムまで幅広い分野で活躍したが、専門はシステム工学・マルチメディアである。
富山 秀男(とみやま ひでお、1930年7月26日 - 20… 富山 秀男(とみやま ひでお、1930年7月26日 - 2018年12月20日)は、日本の美術評論家。 東京生まれ。1953年東京教育大学芸術学科卒。東京国立近代美術館に勤務、次長、京都国立近代美術館館長、ブリヂストン美術館館長。
高塚 省吾(たかつか せいご、1930年7月26日 - 20… 高塚 省吾(たかつか せいご、1930年7月26日 - 2007年5月28日)は、日本の洋画家。美人画・裸婦で絶大な人気を誇った。 岡山市出身、東京芸術大学で梅原龍三郎、林武、硲伊之助に師事、1953年卒業。同年、恩師で日本美術会の委員長を務めた硲伊之助の影響から、第7回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品。以後、第11回まで出品。新東宝撮影所美術課に勤務のかたわら「8人の会」を結成、個展を開くなどしたが作品に恵まれず、1955年には谷桃子バレエ団の美術担当となり台本も書く。1956年NHK広報室嘱託となり、1968年まで勤める。1957年より小津安二郎監督映画のタイトルを担当するなど多方面に活躍。
安武 洋子(やすたけ ひろこ、1928年7月26日 - 20… 安武 洋子(やすたけ ひろこ、1928年7月26日 - 2019年8月8日)は、日本の政治家。参議院議員(日本共産党公認、通算2期)。日本共産党中央委員会名誉幹部会委員。安武ひろ子とも表記。 兵庫県神戸市出身。兵庫県立第二神戸高等女学校(現・兵庫県立夢野台高等学校)を卒業後、兵庫県総評婦人部長などを経て、1974年の参院選で兵庫県選挙区から出馬し初当選を果たす。当選2回。原水爆禁止日本協議会副理事長として核廃絶運動にも取り組んだ。 2019年8月8日午後7時27分、肺がんのため兵庫県明石市の病院で死去。91歳没。
藤沢 友吉郎(ふじさわ ともよしろう、1928年7月26日 … 藤沢 友吉郎(ふじさわ ともよしろう、1928年7月26日 - )は、日本の経営者、薬学博士。藤沢薬品工業社長、会長を務めた。 大阪府大阪市出身。1953年に東北大学理学部化学科を卒業し、同年に藤沢薬品工業に入社。1970年11月に取締役に就任し、1972年11月に常務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1978年1月には社長に昇格。1992年6月に会長に就任し、1998年6月に取締役相談役を経て、2005年4月からアステラス製薬相談役を務めた。 1993年11月に藍綬褒章を受章し、2002年11月に勲二等瑞宝章を受章。
林 宗明(はやし むねあき、1927年7月26日-2009年… 林 宗明(はやし むねあき、1927年7月26日-2009年4月29日)は、日本の工学者。京都大学名誉教授。専門は電力工学。正四位瑞宝中綬章。 宮崎県出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1948年に第七高等学校造士館 (旧制)理科を卒業し、京都大学工学部電気工学科に入学。1952年3月に同学科を卒業して住友電気工業株式会社に勤務した後、1955年に京都大学に転職して工学部電気工学科発送配電研究室(大久保達郎教授)の助手となる。その後、講師を経て、1959年4月1日に助教授に就任。大久保教授が1963年11月9日に退官したため発送配電研究室を引き継ぎ、1967年5月1日に教授に昇任。
大槻 義一(おおつき よしかず、1927年7月26日 - 2… 大槻 義一(おおつき よしかず、1927年7月26日 - 2011年12月)は、日本の映画監督。 東京都中野区出身。1951年に松竹大船撮影所に助監督として入社。同期は今村昌平ら8人。同期生で同期会の二十五時グループを結成した。1952年の『カルメン純情す』から木下惠介の木下組の助監督として献身的に働き、1960年の『笛吹川』まで全ての木下作品で助監督を務めた。1962年に『流し雛』で監督デビュー。この初監督作品の脚本は木下が書いている。1963年1月27日に公開されたテレビドラマ『七人の刑事』の映画版の監督を担当した。 1966年に松竹を離れてフリーとなり、以後は1980年代までテレビドラマを監督した。
中村 圭彦(なかむら きよひこ、1926年 7月26日- 2… 中村 圭彦(なかむら きよひこ、1926年 7月26日- 2008年 3月25日)は、日本の元スキージャンプ選手、指導者、スキージャンプ台設計の世界的権威。札幌生まれ。 母方の叔父にガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピックスキージャンプ代表の龍田峻次、札幌オリンピックでジャンプ競技委員長を務めた龍田鳳三の兄弟。叔父の影響で札幌一中(現在の札幌南高校)の時本格的にジャンプ競技を始め、1949年の全日本選手権で5位入賞。 現役を退いた後1957年から小樽市内の小中学生を対象にジャンプ学校を開いた。その教え子に板垣宏志や青地清二らがいる。1959年に小樽スキー連盟理事となり、1972年の札幌オリンピックではジャンプ競技副委員長を務めた。
品川 正治(しながわ まさじ、1924年7月26日 - 20… 品川 正治(しながわ まさじ、1924年7月26日 - 2013年8月29日)は、元・日本火災海上保険(現損害保険ジャパン)会長で、経済同友会終身幹事、財団法人国際開発センター会長。財界人としては珍しく、新自由主義的な経済政策への批判、平和主義・護憲の立場から発言や運動を行っていた。「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(全国革新懇)の代表世話人。 兵庫県神戸市出身。第二次世界大戦中の1944年12月、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒、旧制第三高等学校在学中に大日本帝国陸軍に召集され、中国戦線に出兵する。戦闘で負傷し、散弾の破片を体内に残していた。中国で二等兵のまま終戦を迎え、抑留の後、1946年に復員。
水越 潔(みずこし きよし、1922年7月26日 - 199… 水越 潔(みずこし きよし、1922年7月26日 - 1999年12月22日)は、日本の経営学者・会計学者。経営学博士(論文博士・1973年)(学位論文「オーストラリア株式資本の一考察」)。明治大学名誉教授。 東京出身。明治大学経済学科卒、1973年「オーストラリア株式資本の一考察」で経営学博士の学位を取得。明治大学経済学部助教授、教授を務め、1991年退任、名誉教授となり、文京女子大学副学長を務めた。
宇井 あきら(うい あきら、本名:宇井昶〈読み同じ〉、192… 宇井 あきら(うい あきら、本名:宇井昶〈読み同じ〉、1921年〈大正10年〉7月26日 - 2009年〈平成21年〉9月1日)は、日本の元作曲家、シャンソン歌手。武蔵野音楽学校声楽科卒業。 1955年にシャンソン歌手としてデビュー。『ひるのいこい』(NHKラジオ第一放送)にレギュラー出演するなどの活動をした後に作曲家へ転身し、シャンソンを中心に歌謡曲やテレビドラマの主題歌、或いは東京都内の小学校校歌に至るまで幅広いジャンルの作品を手掛けた。特に菅原洋一が1970年にヒットさせた『今日でお別れ』は其の年の日本レコード大賞を受賞するなどして宇井あきらの代表作となった。 また、宇野ゆう子を始め、後進のシャンソン歌手育成にも熱意を傾けたことでも知られる。
福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 20… 福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 2001年12月20日)は、日本の中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授。老荘思想・道教研究の第一人者として知られる。 1918年、大分県下毛郡鶴居村大字高瀬(現:中津市)の農家に生まれた。大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)を卒業し、広島高等師範学校(現:広島大学)文科第一部で学んだ。1940年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、支那哲学史を専攻した。1942年9月に卒業し、同大学大学院に入学。しかし、同年10月には大学院を休学し、現役兵として野砲兵第6連隊補充隊(熊本)に入隊。1944年に陸軍砲兵少尉、1945年に陸軍砲兵中尉。
具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年… 具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年7月26日または1918年 - 1965年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第4代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 日本統治時代の京畿道水原出身。本籍地はソウル。中央大学予科、立教大学文学部卒。日本統治時代には抗日闘争により3年間投獄された。解放後は漢城日報政治経済部長、民衆日報幹部、水原新聞社社長、政界春秋社社長、国際ニュース社社長、自由新聞社常務取締役を務めた。政界入りした後は民主党中央委員・宣伝部次長・龍仁郡党委員長・京畿道党副委員長を歴任し、1958年の第4代総選挙で民主党の候補として龍仁郡選挙区から当選したが、後は民主党を離党し自由党に移籍した。
明石 孝(あかし たかし、1914年〔大正3年〕7月26日 … 明石 孝(あかし たかし、1914年〔大正3年〕7月26日 - 1997年〔平成9年〕5月29日 )は、近畿日本ツーリスト元社長、日本国有鉄道(国鉄)元常務理事である。 東京都出身。1938年〔昭和13年〕に東京帝国大学工学部を卒業した後に鉄道省に入省した。東京鉄道局新橋運輸部運転課長、同運転部電車課長、大阪鉄道管理局運転部長、東京鉄道管理局運転部長、運転局列車課長、名古屋鉄道管理局長、副技術長兼安全企画部長、運転局長など様々な要職での歴任を経て、1965年から1968年には国鉄常務理事東北支社長を務めた。 1968年4月に国鉄を退職し、同6月に近畿日本ツーリストに入社。顧問、専務取締役を経て、1973年から副社長を務めた。
松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26… 松田 靖彦(まつだ やすひこ、1913年〈大正2年〉7月26日 - 1979年〈昭和54年〉12月24日)は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。最終階級は少佐、2等陸佐。第3代秋田駐屯地司令、第3代山梨地方連絡部長を務めた。 静岡県五和村出身。陸軍中将松田巻平の長男。1934年3月17日、予科卒業(12期、第2中隊第5区隊)歩兵第79連隊に配属され、本科48期卒(第2中隊第3区隊)。日中戦争に従軍し、本部作戦主任を経て1939年6月、第1大隊第1中隊長。 中隊長在任中の部下にのち韓国陸軍中将・駐日大使の崔慶禄がおり、士官学校への入学を推薦したほか、演習を視察で訪れた小野武雄中佐とも引き合わせた。 久留米第一予備士官学校歩兵生徒隊中隊長、西部軍教育隊中隊長を経て、郷里静岡で編成された第143師団(長:鈴木貞次中将)参謀として終戦を迎える。
里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 19… 里見 明正(さとみ あきまさ、1912年7月26日 - 1974年10月24日)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家のひとり。 熊谷中学校出身。浦和画家の須田剋太と同じく光風会に所属し、浦和市(現・さいたま市南区)の別所沼畔にアトリエを構え、須田のアトリエと隣り合っていた。別所沼対岸(稲荷台)の林倭衛のアトリエにも須田としばしば訪れた。また、寺内萬治郎の門下生が集まる武蔵野会に参加した。新文展に初入選で特選を受賞した。県北美術家協会会長、熊谷市教育委員長などを歴任し、文化の振興にも貢献した。作品は埼玉県立近代美術館に所蔵されている。
中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 196… 中山 正(なかやま ただし、1912年7月26日 - 1964年6月5日)は、日本の数学者(環論・表現論)。名古屋大学教授在職中に逝去。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学を卒業。1937年から2年間、プリンストン高等研究所に滞在。1941年、大阪帝国大学より博士号を取得。1944年、名古屋大学教授。1954年に日本学士院賞を受賞。1963年日本学士院会員。名古屋数学雑誌(NAGOYA MATHEMATICAL JOURNAL)の創刊、編集に尽力した。代数学における中山の補題で有名。1964年に結核のため死去。晩年、理学部A館4階の研究室まであえぎつつ階段を昇る博士のために置かれたという「中山先生の椅子」の話はいまでも語り継がれている。
大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 198… 大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 1987年1月10日)は、日本の経営者。山梨県出身。 府立一中を経て、1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。 1949年に鐘淵化学工業(現在のカネカ)に転じ、1956年11月に取締役に就任し、1962年2月に常務、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1978年11月に会長に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1987年1月10日脳梗塞のために死去。76歳没。
斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 19… 斎藤 栄治(さいとう えいじ、1910年7月26日 - 1979年1月22日)は、日本のドイツ文学者。 1933年東京帝国大学独文科卒。戦後、1971年まで東京大学教養学部教授。ゲーテなどを専門とし、多くの翻訳書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 199… 安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 1990年8月14日)は、日本の経営者。東京都出身。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入社。1962年11月に取締役に就任し、1963年6月には日本酸素常務、1968年12月に専務を経て、1974年12月に社長に就任。1978年2月に取締役相談役を経て、1980年9月には相談役に就任。 1990年8月14日脳梗塞のために死去。81歳没。
赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治… 赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治40年)7月26日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の実業家、政治家。赤沢組会長。自治大臣兼国家公安委員長。 山陰労災病院の誘致、国道9号の拡幅、美保基地周辺の民生安定事業など、郷土に残した足跡は多い。衆議院議員で、経済産業大臣などを務める赤沢亮正は孫。 鳥取県米子市西倉吉町に生まれた。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。旧徳島藩士である。明治30年代から始まった山陰本線の建設に参加するため米子に進出、業界のリーダーとして業績を積み上げた。 また康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれ、赤沢家は市民から一目置かれる家庭だった。
川合 寿人(かわい ひさと、別表記 : 川合 壽人、1907… 川合 寿人(かわい ひさと、別表記 : 川合 壽人、1907年 <明治40年> 7月26日 - 2002年 <平成14年> 7月9日)は、日本の内務・警察官僚。警視総監。位階は正四位。 現在の佐賀県鳥栖市で生まれる。福岡高等学校を経て、1931年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格し、翌年には高等試験司法科試験に合格。1932年、内務省に入り広島県属となる。以後、警視庁交通課長・警衛課長、群馬県警察部長などを務め、1945年に退官。 戦後、警察庁に復帰し、仙台警察管区本部長、警察大学校長、皇宮警察本部長、近畿管区警察局長などを歴任。1957年1月、警視総監に就任し、1958年9月まで在任し退官。
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月… 坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。「直行」を音読みした「ちょっこう」で知られる。 討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。 1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。
稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1… 稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1987年10月30日)は、日本の俳人、茶道教授であり、元女優である。女優時代の芸名は若葉 信子(わかば のぶこ)、旧芸名露原 桔梗(つゆはら ききょう)、出生名は野口 キクノ(のぐち きくの)、俳優の宮島啓夫との婚姻時には、本名を宮島 公子(みやじま きみこ)とした。 1906年(明治39年)7月26日、神奈川県愛甲郡厚木町(現在の同県厚木市)に生まれる。生年月日および生地については、『現代俳句大系 第12巻 昭和34年-昭和43年』(角川書店)、『日本人名大辞典』(講談社)、『CD - 人物レファレンス事典 日本編』(日外アソシエーツ)等、俳人「稲垣きくの」を紹介する記事においては上記あるいはそれに準じた記述があるが、女優「若葉信子」を紹介する『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)、『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)では、「1908年(明治41年)7月23日」に「福井県福井市」で生まれたとする記述がある。
津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - … 津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - 1991年9月20日)は、島根県松江市出身の日本の陸上競技選手(長距離)。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックでマラソンに出場し、連続して入賞を果たした。 旧制松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て関西大学予科に進学する。旧制中学時代から陸上競技を始めたが、当時は県内大会に出場する程度のレベルであった。 しかし、「なぜ日本のマラソン選手はオリンピックで勝てないのか」という疑問を抱くようになり、親交のあった大阪毎日新聞や大阪朝日新聞の運動記者から資料を得て、研究を行うようになる。その中で、ハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミをはじめとするフィンランドの長距離選手の強さに着目し、彼らのようなトラックでのスピードをつけることがマラソンで勝つために必要だと考えるに至る。
牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7… 牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7月26日 - 1999年〈平成11年〉11月20日)は、日本の実業家。サンデン創業者。群馬県出身。伊勢崎市議会議員(1期)。群馬県名誉県民。位階は正五位。 1905年(明治38年)7月26日、群馬県佐波郡豊受村長沼(現・伊勢崎市長沼町)に、父・鋭、母・つねの次男として生まれる。1922年(大正11年)に高崎商業学校を卒業後、1年間伊勢崎工業学校に学ぶ。 家業の染色業を継いだが、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に機械の供出により廃業、同年三共電器株式会社を設立し社長となった。 戦時中はコンデンサーの製造などを行っていたが、1948年(昭和23年)に自転車用発電ランプの製造販売を開始し、「ふくろうマーク」で広く知られるようになった。
北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 19… 北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 1978年11月17日)は、日本の実業家、工学博士。住友電気工業元社長。 大阪府大阪市出身。1927年に東京帝国大学工学部を卒業し、住友電線製造所(のちの住友電気工業)に入社した。 1956年11月から社長を務め、1966年11月から会長を務めた。 その一方で、原子力委員会委員、通産省電子情報処理振興審議会会長、産業構造審議会情報産業部会長、関西経済同友会幹事、日本電線工業会会長、関西情報センター理事長なども歴任した。大阪大学工学部電気工学科で非常勤講師も務めた。1956年に紫綬褒章を受章し、1967年に藍綬褒章を受章し、1974年に勲一等瑞宝章を受章。
深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -19… 深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -1992年12月9日 )は、日本の政治家、参議院議員(2期)。 佐賀県出身。1933年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。戦後、新日本婦人党総裁となり、1947年の第1回参議院選挙に東京地方区から(無所属)初当選。2期務めた。のち、民主党に移り、婦人部副部長や参議院民主党副会長などを務め、改進党では都連副会長や婦人部長となり、日本民主党を経て自由民主党に入った。国会では参議院建設委員長や懲罰委員長を務めた。1956年の第4回参議院議員選挙で落選した。 1974年秋の叙勲で勲三等宝冠章受章。 1992年12月9日死去、89歳。死没日をもって従四位に叙される。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26… 小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26日 - 1974年11月10日)は日本の俳優。本名は小笠原 長英(おがさわら ながふさ)。 旧唐津藩主子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将・元宮中顧問官・元学習院御用掛)・秀子(元前橋藩主伯爵松平直方の長女)の次男として東京府東京市に生まれる。学習院初等科・学習院中等科から陸軍幼年学校に入学したが病気で中退、学習院高等科卒業。 日本映画黎明期の大正時代、兄の小笠原明峰(小笠原長隆)が設立した小笠原プロダクションの専属となり、1921年に芸能界入りする。兄の明峰は長生の長男であり、第15代当主となる立場であったが、映画監督となったため廃嫡となる。
吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1… 吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1986年11月20日)は、日本の農学者。 岡山県井原市に生まれる。1930年京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業する。倉敷労働科学研究所員、労働科学研究所を経て、岡山理科大学教授、同朋大学教授、金沢経済大学(現・金沢星稜大学)学長、龍谷大学教授などを歴任した。1961年、萩野昇とともに富山県神通川流域のイタイイタイ病の原因がカドミウムであることを突き止めた。ほかに1950年の第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補したが辞退した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 194… 高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 1945年6月21日)は、日本の哲学者・大学講師。 1901年7月26日、石川県河北郡七塚村木津(現・かほく市木津)に生まれる。父親は羽二重工場を営み、七塚村の村長を務めるなど、裕福な名士だった。母親は西田幾多郎の妹で、ふみは西田の姪にあたる。 地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学する。高等女学校卒業後も、女子高等師範・女子医専のような実学・職業教育ではない学問を求め、花嫁修業を求める親を説得して、設立2年目の東京女子大学高等学部へ1920年4月に入学し、さらに、1926年4月に東北帝国大学法文学部に入学して哲学を学ぶ。
藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 -… 藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 - 1964年3月20日) は、日本の化学者。東北大学名誉教授。元日本学術会議会員。紫綬褒章受章。正三位勲二等旭日重光章。 1899年、イギリス領マラヤシンガポール植民地で生まれた。東北帝国大学理学部化学科で学び、1923年に卒業。1929年に学位論文『デカヒドロキノリン類の研究』を東北帝国大学に提出して理学博士号を取得。 大学院修了後は、理化学研究所に勤務。1932年、母校の東北帝国大学助教授を命じられた。1933年、東北帝国大学教授に昇格。 戦後、東北大学理学部長を務めた。また、東北大学抗酸菌研究所教授も務めた。1963年に東北大学を退官し、名誉教授となった。
栗木 幹(くりき かん、1896年 <明治29年> 7月26… 栗木 幹(くりき かん、1896年 <明治29年> 7月26日 - 1981年 <昭和56年> 12月28日)は、日本の経営者。三井鉱山社長を務めた。位階は正四位。 愛知県出身。1921年に東京帝国大学工学部採掘学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務を経て、1954年5月に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格し、1964年5月までに務めた。1968年1月に三井アルミニウム社長に就任し、1971年5月に会長を経て、1976年には相談役に退いた。 1971年に勲二等旭日重光章を受章。 1981年12月28日心不全のために死去。85歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
佐佐木 行忠(ささき ゆきただ、1893年〈明治26年〉7月… 佐佐木 行忠(ささき ゆきただ、1893年〈明治26年〉7月26日 - 1975年〈昭和50年〉8月10日)は、日本の華族。侯爵、貴族院議員。神社本庁統理や神宮の大宮司、國學院大學理事長・学長を務めるなど神職界で中心的な働きをした。 1893年(明治26年)、東京府(現:東京都)に生まれる。祖父佐佐木高行の死去に伴い、1910年(明治43年)3月12日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)、学習院高等科を卒業して京都帝国大学法科大学政経科に進み、1917年(大正6年)、東京帝国大学文科大学に転入学。在学中の1918年(大正7年)7月25日に貴族院侯爵議員となり、以後は国政に専念、1937年(昭和12年)から1944年(昭和19年)まで貴族院副議長も務めた。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉7月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月19日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)。 栃木県河内郡豊郷村(現宇都宮市)出身。1909年(明治42年)栃木県立宇都宮農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)河内郡農会代議員に就任。その他、1929年(昭和4年)豊郷村会議員に選出され、同村消防組頭も務めた。1937年(昭和12年)満洲国に移り南満洲鉄道嘱託、軍人、官吏となる。 終戦後に帰国し、豊郷村農業会長、同農業協同組合長を務め、1947年(昭和22年)栃木県議会議員に選出され2期在任し、1951年(昭和26年)同議長となった。
宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日… 宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日 - 1961年〈昭和36年〉9月21日)は、日本の小説家。本名は格次郎。父は六三郎、母はキョウ。7歳年長の兄・崎太郎は幼時に脳膜炎にかかり知的障害があった。日本芸術院会員。 福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。早稲田大学英文科中退。『蔵の中』『苦の世界』など、おかしみと哀感のある作品を独自の説語体で発表し、文壇に認められた。その後『山恋ひ』『子を貸し屋』などで作風の幅を広げた。一時精神に変調をきたすが、復活後は冷厳に現実を見つめる簡素で写実的な作風に転じ、『枯木のある風景』『器用貧乏』『思ひ川』などを発表。他に松川事件の被告を弁護した『世にも不思議な物語』などがある。