中本 ムツ子(なかもと ムツこ、1928年〈昭和3年〉1月3… 中本 ムツ子(なかもと ムツこ、1928年〈昭和3年〉1月30日 - 2011年〈平成23年〉4月28日)は、日本のアイヌ文化伝承者。地元・千歳市において、古老からの伝承の聞き取りなど、それまで「アイヌ文化不毛の町」と言われた千歳において、アイヌ文化の伝承活動を立ち上げ、千歳アイヌ文化伝承保存会を中心となって設立したほか、アイヌ語学習用の書籍の出版、アイヌ文学のCD化、アイヌ教室の開催などで、北海道内外でのアイヌ文化の伝承や啓発に努め、特に言葉の伝承に尽力した。北海道千歳村(後の千歳市)蘭越出身。 アイヌの子として、差別と貧困のなかに育った。幼少時より体が弱く、自身曰く「劣等感の塊のような子」だった。
木暮 英路(こぐれ えいじ、1927年1月30日 - )は、… 木暮 英路(こぐれ えいじ、1927年1月30日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手。巨人などでプレーした木暮力三は実兄。 桐生中学から1944年に阪急軍へ入団。投手兼内野手としてプレーする。 終戦後はアマチュアの全桐生でプレーし、1950年に西鉄クリッパースでプロ復帰。同年で退団し、その後は大生相互銀行でプレーした。
熊倉 一雄(くまくら かずお、1927年〈昭和2年〉1月30… 熊倉 一雄(くまくら かずお、1927年〈昭和2年〉1月30日 - 2015年〈平成27年〉10月12日)は、日本の俳優、声優、演出家。テアトル・エコー所属で、生涯に渡って代表取締役演劇担当を務めていた。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)三ノ橋出身。父は工作機械のセールスマン。母方の祖父は傘の会社の技師長。青山で1年ほど暮らして、5歳の時、一家は下町、東京府東京市京橋区入船町(現在の東京都中央区入船)に越して父の両親と同居。この町で小学校時代を送っていたが、元々虚弱体質であり、小学2年生の時に肋膜炎を罹り3ヶ月ほど自宅療養し、本ばかり読んでいた。将来は発明家になりたいと考えており、エジソンが好きだった。
三沢 光広(みさわ みつひろ、1927年(昭和2年)1月30… 三沢 光広(みさわ みつひろ、1927年(昭和2年)1月30日 - 2023年(令和5年)5月16日)は日本の政治家。塩尻市長(第5代)。 長野県東筑摩郡塩尻町生まれ。長野県東筑摩農学校卒業。1946年から長野県農業会に勤務し、1948年から長野県農協中央会教育部生活課長、広報課長、教育部長、農政対策部長、審議役を歴任した。1983年から長野県議会議員を務め、地方社会保険医療協議会委員、長野県農協学園講師を兼任した。2期目の途中で辞職し、1990年9月に塩尻市長に当選、3期務め、2002年に引退した。在任中はレザンホールの建設などにあたった。2004年に旭日小綬章を受章。
伊藤 清三(いとう せいぞう、1927年1月30日 - 20… 伊藤 清三(いとう せいぞう、1927年1月30日 - 2011年11月26日)は、日本の数学者。専門は関数解析学、偏微分方程式論。東京大学名誉教授。日本数学会理事長。 1927年、三重県生まれ。1950年に名古屋大学理学部数学科を卒業。 卒業後は名古屋大学理学部助手を経て、1953年名古屋大学理学部講師。1957年、東京大学理学部講師に就いた。1958年、理学博士号を取得。1960年に同大学助教授、1965年に同大学教授に昇進。1987年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京商船大学教授として教鞭をとった。1988年からは杏林大学教授をつとめた。 学界では、日本数学会理事長をつとめた。
釈 伝印(しゃく でんいん、1927年1月30日 - 202… 釈 伝印(しゃく でんいん、1927年1月30日 - 2023年3月11日)は、中国の禅僧。字は月川。名は毓岱。遼寧省荘河県出身で俗姓は呂氏。元中国仏教協会会長。 1927年、遼寧省荘河市に生まれ。仏教の熱心な信者の家庭に生まれる。姓は呂氏。20歳で崇仁の弟子となり戒名を伝印と改める。1954年、江西省雲居山の真如禅寺の虚雲のもとで具足戒を受ける。その後中国仏学院に学ぶも、文化大革命に巻き込まれ、1978年秋、浙江省天台県の国清寺に移住、1981年から1983年には日本に留学し、佛教大学に学ぶ。1994年8月、江西省廬山東林寺の住職となり、1999年2月、北京市仏教協会会長に就任。2010年2月、中国仏教協会会長就任。
橋村 三郎(はしむら さぶろう、1926年1月30日 - 2… 橋村 三郎(はしむら さぶろう、1926年1月30日 - 2013年6月7日)は、日本の医学者、生理学者。専門は神経生理学、電気生理学。鹿児島大学名誉教授、医学博士。 鹿児島県鹿児島市の谷山地区出身。4人兄弟の次男。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1944年に旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科を卒業。1948年九州大学医学部を卒業。1953年から2年間、アメリカのロチェスター大学に留学。帰国後、九州大学医学部助教授(生理学教室第一講座所属)。論文「日本産トノサマガエルならびにヒキガエルの血液におけるK及びCaの含有量の季節的変動について」により、1956年8月九州大学から医学博士の学位を授与される。
飯田 修一(いいだ しゅういち、1926年 <大正15年> … 飯田 修一(いいだ しゅういち、1926年 <大正15年> 1月30日 - 2012年 <平成24年> 8月15日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1958年)。東京大学名誉教授。位階は従四位。 兵庫県神戸市出身。1947年、東京帝国大学理学部物理学科卒業、その後東京大学大学院に進学。1958年、東京大学理学部助教授、理学博士(東京大学)(学位論文「Formation energy of superlattice for Ni3-Fe」)。1968年教授に就任、1986年退官。その後、1988年から1996年まで帝京大学教授。 現在一般に知られている物理学とは異なる体系・「飯田物理学」(新体系物理学)を創設し、ニュートンやアインシュタインを遥かに越えたと自称、晩年はその「飯田物理学」の流布に勤しんでいた。
駒田 桂二(こまだ けいじ、1926年1月30日 - 201… 駒田 桂二(こまだ けいじ、1926年1月30日 - 2012年8月1日)は、大阪府布施市(現:東大阪市)出身のプロ野球選手。 1949年シーズン中に東洋紡績から大阪タイガースに入団。当初は制球力に難があったが、それを克服し1950年に頭角を現し7勝を挙げる(6敗)。カーブが武器の投手であった。翌1951年には11勝を挙げる。その後は、先発投手としてチームを支えた。1956年オフに退団し、東洋紡績に復帰した。2012年8月1日、死去。86歳没。 投手でありながらバッティングセンスも良く、通算で.217の打率を記録している。また通算本塁打数は1951年に記録した1本のみであるものの、後述の「幻の本塁打」をも含めると(通算のみならず、1951年のシーズンを含めて)2本打ったことになる。
斉藤 一雄(齋藤 一雄、さいとう かずお、1925年(大正1… 斉藤 一雄(齋藤 一雄、さいとう かずお、1925年(大正14年)1月30日 - 2005年(平成17年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、東京都議会議員(4期)。東京神田出身。 1952年(昭和27年)明治大学商学部を卒業する。労働組合に入り、東京都労連政治部長、東京地評副議長などを歴任し、1973年(昭和48年)東京都議会議員に当選する。以後4回当選。1986年(昭和61年)日本社会党自治体議員団全国会議議長を務める。 1990年(平成2年)第39回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧東京3区から立候補し初当選、当選1回。社会党東京都本部委員長、衆議院環境委員会理事などを歴任した。
夏堀 正元(なつぼり まさもと、1925年1月30日 - 1… 夏堀 正元(なつぼり まさもと、1925年1月30日 - 1999年1月4日)は、日本の小説家。 1925年、北海道小樽市において、小樽地方裁判所の判事を務めていた夏堀悌二郎(のちに北海道会議員、公選初代の八戸市長)の子として生まれる。1939年に父の郷里青森県に移る。1941年に中央大学予科に入学、1944年に旧制早稲田大学国文科に入学する。学徒出陣し、戦後大学に戻るが、1950年に中退する。北海道新聞社に入社、1954年に退社し、1956年に「呪文脱出」を『新潮』に発表し、作家として立つ。1960年に下山事件に取材した長編小説『罠』を刊行、評価される。1965年より同人誌『層』を5年間運営、黒井千次、井出孫六、色川武大などが加わった。
井草 凖一(準一、いぐさ じゅんいち、1924年〈大正13年… 井草 凖一(準一、いぐさ じゅんいち、1924年〈大正13年〉1月30日 - 2013年〈平成25年〉11月24日)は、日本の数学者。ジョンズ・ホプキンズ大学名誉教授。勲三等瑞宝章受章者。 群馬県群馬郡清里村(現・前橋市青梨子町)生まれ。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1945年(昭和20年)東京大学理学部数学科を卒業。東京大学大学院へ進む。 1948年(昭和23年)から2年間東京文理科大学助教授を務める。1949年(昭和24年)秋月康夫の招きにより京都大学助教授となり4年間勤務した。京都大学時代の教え子に広中平祐がいる。 1953年(昭和28年)理学博士号を取得。
王育徳(おう いくとく、台湾語: Ông Io̍k-tek、… 王育徳(おう いくとく、台湾語: Ông Io̍k-tek、1924年1月30日 – 1985年9月9日)は、台湾出身の言語学者。日本で台湾語や中国語諸言語の研究をおこなうかたわら、国民党独裁政権下で台湾独立運動をおこなった。明治大学講師、のちに同大学商学部教授。1969年から死去まで東京外国語大学の台湾語講座も担当した。 王育徳は1924年(大正13年)、日本統治下の台湾台南市で生まれた。台北高校を卒業後、1943年10月に東京帝国大学文学部支那哲文科に入学したが、太平洋戦争激化のために翌年台湾に戻り、そこで終戦をむかえた。 第二次世界大戦後は台湾の台南第一中学で教壇に立つかたわら、台湾語による演劇活動を行っていた。
盛田 慶吉(もりた けいきち、1924年1月30日 - 20… 盛田 慶吉(もりた けいきち、1924年1月30日 - 2009年3月28日)は、日本の経営者。敷島製パン社長、会長を務めた。 父は敷島製パン3代目社長である盛田秀平。5代目社長の盛田淳夫は長男。 愛知県出身。1948年に早稲田大学商学部を卒業。 松坂屋での勤務を経て、1949年に敷島製パン監査役に就任し、1951年に取締役、1958年に常務を経て、1969年には社長に就任。1998年には会長に就任。 1998年11月に藍綬褒章を受章。 2009年3月28日急性心筋梗塞のために死去。85歳没。
鎌田 皎(かまだ あきら、1922年(大正11年)1月30日… 鎌田 皎(かまだ あきら、1922年(大正11年)1月30日 - 2002年(平成14年)7月24日)は、昭和から平成時代の薬学者。大阪大学名誉教授。 1945年(昭和20年)9月、京都帝国大学理学部化学科卒業後、同学部副手、1949年(昭和24年)助手となる。のち1955年(昭和30年)8月、大阪大学薬学部薬剤学教室講師となり、1960年(昭和35年)助教授を経て、1971年(昭和46年)教授となった。1985年(昭和60年)定年退官と同時に同大名誉教授。 特に界面化学を薬学に応用する研究で知られ、界面活性剤を薬物投与に応用する研究から構造活性相関と生物製剤に関する研究まで広い分野に渡る研究を行った。
三善 信二(みよし しんじ、1921年(大正10年)1月30… 三善 信二(みよし しんじ、1921年(大正10年)1月30日 - 1979年(昭和54年)3月7日)は、日本の官僚、政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員三善信房の次男。兄はリコー会長を務めた三善信一。
山田英世(やまだ ひでよ、1921年1月30日 - 1982… 山田英世(やまだ ひでよ、1921年1月30日 - 1982年4月17日)は、日本の哲学研究者。 長野県下高井郡穂高村(現木島平村)生まれ。旧制飯山中学(長野県飯山北高等学校)を経て東京文理科大学倫理学科卒。1967年「プラグマティズムにおける倫理探求の理論」で東京教育大学文学博士。秋田師範学校教授、新潟高等学校教諭、愛知学芸大学助教授、愛知教育大学教授、1976年筑波大学教授。セイロン大学に留学。デューイ、ベンサムなどを研究した。
村松 友次(むらまつ ともつぐ、1921年(大正10年)1月… 村松 友次(むらまつ ともつぐ、1921年(大正10年)1月30日 - 2009年(平成21年)3月16日)は、日本の国文学者・俳人。東洋大学短期大学名誉教授。 2921年、長野県小県郡丸子町(現上田市)で生まれた。ハルピン鉄道学院露語専修科でロシア語を学んだ。1944年から長野県および東京都にて小・中学校教諭として勤務。その一方で、東洋大学国文学科(二部)で学び、1962年に卒業。同大学大学院に進み、1967年に博士課程を満期退学。 東洋大学短期大学助教授に就いた。その後教授昇格。1987年、学位論文『曽良本『おくのほそ道』の研究』を東洋大学に提出して文学博士の学位を取得。1989年、第12代東洋大学短期大学学長に就任。
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月3… 長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市東多久町)で父・勇吉と母・サタ(貞子)との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区春吉)に転居し、春吉尋常小学校に小学1年生から通った。 小学生時代は成績が良く男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている。
直木 孝次郎(なおき こうじろう、1919年1月30日 - … 直木 孝次郎(なおき こうじろう、1919年1月30日 - 2019年2月2日)は、日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1969年)。日本古代史研究を代表する研究者。 1919年、兵庫県神戸市で生まれた。1936年、兵庫県立第一神戸中学校を卒業。1938年、第一高等学校文科乙類へ入学。1941年に第一高等学校を卒業し、 京都帝国大学文学部史学科に進んだ。太平洋戦争の時局悪化に伴い、1943年に京都帝国大学文学部国史学科を卒業。卒業後は、海軍土浦海軍航空隊に入隊した。 1945年、終戦により復員。最終的な階級は海軍中尉であった。翌1946年、京都帝国大学特別研究生として研究の道に戻った。
酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月3… 酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月30日 - 2004年〈平成16年〉2月28日)は、酒井左衛門尉家21代当主、写真家、書家、歌人、財団法人致道博物館名誉館長。1998年勲五等双光旭日章。1999年鶴岡市名誉市民。 1917年(大正6年)、旧庄内藩主 酒井家20代当主・酒井忠良の長男として山形県鶴岡市家中新町に生まれる。母は大給近道長女・萬千子。 1935年(昭和10年)に旧制鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業後、酒井家図書研究所文会堂で旧庄内藩校致道館伝統に基づく「庄内学」とも称される儒学や東洋古典などを学びながら短歌を始め、歌人で万葉集研究家の国文学者、佐佐木信綱に師事する。
藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 19… 藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 1994年11月10日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や福岡家庭裁判所長、東京高等裁判所部総括判事などを歴任した。福岡県出身。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
下畑 卓(しもはた たく、1916年1月30日 - 1944… 下畑 卓(しもはた たく、1916年1月30日 - 1944年4月10日)は、日本の児童文学作家。
千代 國一(ちよ くにいち、1916年1月30日 - 201… 千代 國一(ちよ くにいち、1916年1月30日 - 2011年8月29日)は、日本の歌人。 新潟県生まれ。大倉高等商業学校(現・東京経済大学)卒。銀行員を経て企業人となり、戦後は大倉製絲の工場復活に尽力した。応召中の兄がくれた岩波文庫の正岡子規歌集を読んで短歌に興味を持ち、窪田空穂に特に感銘を受けて、彼が創刊した歌誌『国民文学』に入会。松村英一に師事し、1987年より編集発行人を担当。師の没後に主宰を継承した。 1952年、歌集『鳥の棲む樹』で第1回新歌人会賞。1966年、歌集『冷気湖』が第9回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)に選ばれる。1999年、歌集『水草の川』で第7回短歌新聞社賞。
大島 靖(おおしま やすし、1915年(大正4年)1月30日… 大島 靖(おおしま やすし、1915年(大正4年)1月30日 - 2010年(平成22年)8月7日)は、日本の政治家、官僚。第14代大阪市長。労働省労働基準局長。大阪市長を1971年から1987年まで、4期16年務めた。 1915年1月30日、和歌山県田辺市に生まれる。旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業、1939年に内務省へ入省。 1949年から大阪府労働部長を務め、1954年に在ジュネーヴ領事へ転じた。1959年に労働省審議官に就任し、1960年には労働省労働基準局長に着任。1963年5月31日から中馬馨大阪市長のもとで大阪市助役となった。
中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月3… 中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月30日 - 2003年(平成15年)7月21日)は日本の外交官、元駐フランス特命全権大使。広島県出身。
柳 志元(ユ・ジウォン、リュ・ジウォン、朝鮮語: 유지원/류… 柳 志元(ユ・ジウォン、リュ・ジウォン、朝鮮語: 유지원/류지원、1913年1月30日 - 1981年12月31日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は文化柳氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の忠清南道燕岐郡出身。関西大学法科3年中退または卒業。三益社専務理事、全国青年総連盟中央委員、大同青年団(のちの大韓青年団(朝鮮語版))中央執行委員・外交部長、青年新聞社長、大韓青年団総本部団長、失踪軍人遺族会長、自由党燕岐郡党委員長・中央執行委員・企画委員(1967年時点)、第3代国会米軍撤退反対国民運動展開対策委員会委員長、第3・4代国会国防委員会委員長(1954年6月23日~1955年2月19日、1955年3月2日~1956年2月19日、1958年6月17日~8月31日)を務めた。
川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2… 川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本の実業家。日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長で、ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。 本業の楽器製造に加えてオートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業し、社業の業績向上と多角化に大きな成果を挙げてヤマハ中興の祖ともいわれる。 音楽や楽器演奏を身近にするためにヤマハ音楽教室を全国で展開して音楽教育の裾野を広げるほかに、『ヤマハポピュラーソングコンテスト』や『世界歌謡祭』などを開催して、1970年代から80年代のフォークソングとロックミュージックに功績している。特に、アマチュア時代の中島みゆきを見いだし、浜松市にあった川上の自宅に中島を呼び出し「あなたはすごい詞を書く。
小此木 真三郎(おこのぎ しんざぶろう、1912年1月30日… 小此木 真三郎(おこのぎ しんざぶろう、1912年1月30日 - 1994年8月9日)は、西洋史学者。美術界のパトロンとして知られる久保貞次郎の弟。 栃木県足利市の金物店の三男として生まれる。1934年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。羽仁五郎に師事。卒業後会社員となり、1938年に兄の欧米視察に同行。1941年応召、即日帰郷。文化学院講師、世界経済調査会嘱託、1952年静岡大学文理学部助教授、1959年法経学部教授、1975年定年退官、名誉教授、日本福祉大学教授。1982年退職。
大久保 清子(おおくぼ きよこ、1911年1月30日 - 2… 大久保 清子(おおくぼ きよこ、1911年1月30日 - 2006年8月4日)は、日本の女優である。出生名笹井 朝子(ささい あさこ)、結婚後の本名は伊藤 朝子(いとう あさこ)。女優引退後は、伊藤大輔夫人として知られる。 1911年(明治44年)1月30日、京都府京都市上京区三条通千本(現在の同府同市中京区三条通千本)に生まれる。父は笹井幸二郎、伯父は千本組当主の笹井三左衛門、従兄に笹井末三郎がいる。旧制小学校(現在の京都市立朱雀第一小学校)、同市東山区の華頂高等女学校(現在の華頂女子高等学校)を卒業した。『芸能人物事典 明治大正昭和』等には「精華高等女学校」を卒業した旨の記述があるが、同校は現在の精華高等学校であり、当時は大阪市住吉区(現在の阿倍野区)晴明通に実在した学校であるが、誤りである。
宮木 高明(みやき たかあき、1911年1月30日-1974… 宮木 高明(みやき たかあき、1911年1月30日-1974年1月9日)は、日本の薬学者。 東京浅草の商家に生まれる。京華中学校、第一高等学校、1935年東京帝国大学医学部薬学科卒、副手、38年助手、42年「Napthyridin誘導体の合成研究」で薬学博士、千葉医科大学附属薬学専門部教授。1947年千葉医科大学教授。49年千葉大学薬学部長、教授。 1974年1月9日、脳出血のため東邦大学医学部大森病院にて死去。62歳。
井上 啓次郎(いのうえ けいじろう、1911年1月30日 -… 井上 啓次郎(いのうえ けいじろう、1911年1月30日 - 1989年4月16日)は、日本の科学技術官僚、工学博士。第4代科学技術事務次官。第6代日本科学技術連盟理事長。 三重県出身。1936年東京工業大学(のちの東京科学大学)電気化学科卒業。1954年「活性炭の製造並びに性状に関する研究」により東京工業大学工学博士の学位を取得。 技術院参技官、科学技術庁原子力局科学調査官、科学技術庁原子力局次長等を経て、1962年科学技術庁資源局長。1963年に日本原子力船開発事業団が設立されると、原子炉担当理事に就任し、むつの基本設計を行った。 1964年から1968年まで科学技術事務次官を務め、東海再処理施設の建設問題への対応を行うなどした。
秦 万紀子(はた まきこ、1910年1月30日 - 1965… 秦 万紀子(はた まきこ、1910年1月30日 - 1965年10月10日)は日本のファッションデザイナー、カラリスト。自らのコレクション発表と共に、日本各地で編物デザイナー養成をし、服飾編み物界の興隆に寄与した。1951年、財団法人白南風社 しらはえしゃ (1951-2009)を労働省の認可を得て設立。編物手芸にデザイン・色彩・製図 法の指導で付加価値を高めて提供をする授産事業を行い、第2次大戦による戦争未亡人の自立のために活躍した。1961年パリのサロン・デ・エトワール(SALONS DE L’ETOILE)にて「秦 万紀子コレクション」を開催し、パリ市会よりパリ名誉市民賞(AMI DE PARIS)を受賞。
堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 201… 堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 2011年2月23日)は、日本の登山家。1936年に立教大学山岳部遠征隊を率いて、ヒマラヤ山脈のナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル)の登頂に成功した。 富山県下新川郡石田村(現在の黒部市)出身。富山県立魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)に進み、野球部や陸上競技部に所属する傍ら、スキーにも取り組んで、黒部鉄道(現・富山地方鉄道本線)が開通すると宇奈月まで出向いて滑っていた。 1927年、立教大学予科2年に編入学し、立教大学山岳部に入部する。大学についてはのちに商学部経済学科に進む。山岳部へは当初はスキーをやる目的での入部であったが、実際に立山連峰の冬山に入るとスキーではなくアイゼンで歩けることを知ったという。
常盤 嘉治(ときわ よしはる、1909年〈明治42年〉1月3… 常盤 嘉治(ときわ よしはる、1909年〈明治42年〉1月30日 - 1997年〈平成9年〉2月23日)は、日本の実業家。経済ジャーナリスト。学校法人関東学院大学常任理事として同学校法人の財政立て直しを行なった。燦葉会会長。横浜ユネスコ協会副会長。常盤経済研究所会長。国務大臣私設秘書。船田中に声をかけられ護国同志会へロビイストとして参画。1946年、日本協同党(現・自由民主党)の推薦により東京一区より第22回衆議院選挙出馬も1,180票で落選。キリスト教プロテスタント。 1909年(明治42年)、神奈川県茅ヶ崎市芹沢に生まれる(現・神奈川県立茅ヶ崎里山公園谷戸の家周辺)。貧しい分家の育ちだが、芹沢の常盤家本家は農業のほかに金貸しや穀物商などを営み、白壁の土蔵を持つ地主であった。
竹之下 休蔵(たけのした きゅうぞう、1909年1月30日 … 竹之下 休蔵(たけのした きゅうぞう、1909年1月30日 - 1988年3月20日)は、日本の体育学者。東京教育大学(現筑波大学)名誉教授。体育社会学を研究した。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1932年に東京高等師範学校体育科を卒業した後、1936年に東京文理科大学教育学科を卒業(東京高等師範、東京文理科大ともに東京教育大学の前身)。1937年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)助教授に就任し、その後、神戸商業大学(現神戸大学)予科教授、東京体育専門学校(東京教育大学体育学部の前身)教授を経て、1947年に文部省事務官となる。後に文部省大学学術局視学となり、1949年、学校体育指導要綱、学習指導要領体育編の作成で中心的な役割を果たす。
佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1… 佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1月30日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の実業家。サンジルシ醸造の社長、会長と中京テレビ放送社長を務めた。 1908年(明治43年)1月30日に三重県桑名市船場町316で父・初代佐藤信之助、母・ゑきの長男として生まれ、佐藤義一と名付けられた。旧制富田中学校を経て、1930年(昭和5年)3月に慶應義塾高等部卒業し、大蔵省醸造試験所で1年間醸造学を学んだ後、家業の佐藤信之助商店に入って味噌・醬油製造業に従事した。 早くから若手実業家として桑名財界で活躍し、桑名電軌と桑名土地建物の取締役に就任し、1936年(昭和11年)6月22日に桑名瓦斯の監査役にも就任した。
岩田 孝三(いわた こうぞう、1907年1月30日-1994… 岩田 孝三(いわた こうぞう、1907年1月30日-1994年2月21日)は、日本の地理学者。専門は地政学。 新潟市出身。本籍は埼玉県浦和市。1930年東京高等師範学校文科第一部卒業、1933年東京文理科大学地理学科卒業。1934年同大学院退学、第二東京市立中学校(現東京都立上野高等学校)教諭、1936年陸軍経理学校教授、1937年陸軍教授。1945年敗戦により解雇、1951年東京学芸大学教授。1952年「わが国、国界、藩界についての政治地理学的研究」で東北大学理学博士(主査 富田芳郎教授)。1970年東京学芸大学定年退官、名誉教授、国士舘大学文学部地理学専攻教授。
高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30… 高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本の小説家、詩人。
脇阪 実(わきさか みのる、1907年1月30日 - 没年不… 脇阪 実(わきさか みのる、1907年1月30日 - 没年不明)は、日本の大蔵官僚。主税局国税査察部長、関東信越国税局長、東京国税局長、造幣局長などを歴任。 滋賀県出身。1932年10月 高等試験行政科を合格。同年11月 高等試験司法科を合格。東京帝国大学法学部法律学科卒業。1933年 大蔵省入省。主税局兼東京税務監督局属。1935年6月 金沢税務署長。1936年7月 神田橋税務署長。1946年5月1日 主税局国税第二課長。1947年7月2日 主税局国税第一課長。1948年7月5日 主税局国税査察部長兼主税局国税第一課長。同年12月9日 主税局国税査察部長。1949年6月1日 関東信越国税局長。
河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年… 河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記河上 君栄。本名川上 高江(かわかみ たかえ)、旧芸名光村 貴美子(みつむら きみこ、光村 きみ子とも)、河上 君江、河上 君枝と表記されることもある。 1907年(明治40年)1月30日、愛媛県松山市に生まれる。 同市内にある旧制・松山市裁縫女学校を卒業するとともに京都に移り、満17歳となった1924年(大正13年)7月、日活大将軍撮影所に置かれた関根達発の研究所の研究生として入社する。「光村 貴美子」の名で脇役出演を始め、満18歳になった1925年(大正14年)11月12日に公開された『愛国の血刃』(監督高橋寿康)に出演して、認められるようになり、1926年(大正15年)4月1日に公開された『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(監督池田富保)では大野群右衛門の妻に抜擢されたが、端役が続き、同年9月には同社を退社、同年10月1日、関根達発の紹介により牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍、「河上 君榮」と改名し、関根主演の『勝てば官軍』(監督富沢進郎)で相手役に抜擢されて再デビューを果たした。
懸田 克躬(かけた かつみ、1906年1月30日 - 199… 懸田 克躬(かけた かつみ、1906年1月30日 - 1996年3月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は、精神分析学・脳波学。学校法人順天堂第七代堂主、第四代理事長、順天堂大学学長など歴任。順天堂大学名誉教授。学位は、医学博士。 日本における精神分析学・臨床脳波学の基礎を築いた人物である。フロイト精神分析を研究した。また、エリッヒ・フロム『愛するということ』の翻訳はロングセラーになった。学校法人順天堂において、初の創立者一族以外から理事長に就任した。
浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)… 浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 浜磯之助の長男として福岡県早良郡鳥飼村(現・福岡市)に生まれる。日本学士院会員の医学者浜清は実弟。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1928年3月九州帝国大学法文学部を卒業。 1928年3月徴兵により佐世保重砲兵大隊に1年間入隊。1931年4月外務省文化事業部補給生として中国に留学し北京大学、清華大学、東亜同文書院などで現代中国の研究を行う。 1934年4月南満洲鉄道(満鉄)に入社し、対中国要員として満鉄調査部に配属される。青島事務所を経て、1936年4月北京事務所へ異動し、同年12月中国における満鉄の権益拡大をコントロールする機構である、大連本社の総裁室東亜課に勤務。
田辺 貞之助(たなべ ていのすけ、1905年1月30日 - … 田辺 貞之助(たなべ ていのすけ、1905年1月30日 - 1984年9月7日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京市深川区(現・東京都江東区深川)に生まれる。旧制一高を経て、1928年東京帝国大学文学部仏文科卒。暁星中学校講師、浦和高等学校教授を務め、戦後は東京大学教養学部助教授・教授、1966年に定年で退任後は、早稲田大学客員教授、埼玉医科大学教授を務め、1976年に名誉教授となった。 フランス文学作品は、ユイスマンス、ゴーティエほかの幻想文学、また自然主義文学ではエミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサンなど多数を訳し、数多くのフランス艶笑譚の翻訳から近世小咄の研究まで洒脱な随筆調の作品を著した。
三瓶 孝子(さんぺい こうこ、1905年〈明治38年〉1月3… 三瓶 孝子(さんぺい こうこ、1905年〈明治38年〉1月30日 - 1978年〈昭和53年〉10月16日)は、日本の経済史学者。 福島県出身。東京女子大学卒。高橋経済研究所研究員となり日本経済史を研究。1939年退所、1940年日本労働科学研究所に入所、農村や工場の実態を調査。1941年女性による初めての経済史研究書『日本綿業発達史』を刊行した。
斎藤 寅次郎(さいとう とらじろう、1905年(明治38年)… 斎藤 寅次郎(さいとう とらじろう、1905年(明治38年)1月30日 - 1982年(昭和57年)5月1日)は、日本の映画監督である。本名は寅二郎。喜劇映画を非常に得意とし、しばしば「喜劇の神様」と称される。 妻は自作のコメディエンヌでもあった女優の浪花友子。晩年の1972年に芸名を本名の寅二郎に改めている。 1905年(明治38年)1月30日、秋田県由利郡矢島町(現在の由利本荘市矢島町)舘町で役場収入役の父・孝一郎の子として生まれる。8人兄弟の次男であった。子供のころは一年に一度巡業しに来た活動写真に夢中になっていた。 1919年(大正8年)、矢島小学校小学校高等科を卒業する目前に上京して、祖父の弟が経営する医院に住み込みの書生となる。
長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 197… 長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 1976年8月5日)は、日本の漫才作家、演出家、放送作家。 大阪府島之内出身。御津小学校、天王寺中学校、旧制大阪高校を経て、東京帝国大学文学部美術史学科卒。 実子は、元NHK大阪放送局所属の演出家・長沖渉。祖父は加賀藩士で、明治維新後に大阪に出てきて商売を始める。 大阪高校在学中に左翼運動を始める一方、1925年に武田麟太郎、秋田實、藤沢桓夫と共に文学同人誌『辻馬車』を創刊。大学在学中に新人会に参加。 1929年3月、東大を卒業。 1930年、徴兵検査で歩兵第一連隊に入隊。甲種幹部候補生で10ヶ月ほど過ごし除隊後、作家に復帰。『中央公論』に「肉体交響楽」を寄稿するも軍批判とみなされ発表を見送られる。
色川 幸太郎(いろかわ こうたろう、1903年1月30日 -… 色川 幸太郎(いろかわ こうたろう、1903年1月30日 - 1993年8月5日)は日本の弁護士、最高裁判所裁判官。 千葉県出身。旧制土浦中学校(現在の土浦第一高等学校)、旧制第二高等学校卒業。東京帝国大学在学中に高文司法科試験に合格。1927年4月に大学卒業とともに弁護士となった。大阪の農民組合から法律顧問の水谷長三郎の後任を依頼されて大阪で開業し、関西で住むことになった。1947年、色川法律事務所を開設。 戦前は日本農民組合顧問として小作争議を支援。労働法に精通し、リベラル派として知られた。 戦中は陸軍に召集され法務将校として勤務。最終階級は法務中尉。 戦後は大阪地方公共企業体等調停委員、大阪市人事委員などを長く務め、大阪弁護士会会長も歴任。
近藤 真柄(こんどう まがら、別名・筆名: 堺真柄・近藤真柄… 近藤 真柄(こんどう まがら、別名・筆名: 堺真柄・近藤真柄、旧姓戸籍名: 堺マガラ、最初の結婚改姓戸籍名: 高瀬マガラ、第2の結婚改姓戸籍名: 近藤マガラ、女性、1903年1月30日 - 1983年3月18日)は、社会主義者、婦人運動家、フェミニスト。
小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - … 小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - 1969年5月3日)は、日本のアマチュア天文家。日本の流星観測のネットワークを組織。 現在の岡山県津山市上之町の山本家に生まれる。1921年、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り京都大学の山本一清に師事し、同会の流星課長として月刊誌『天界』に流星観測報告や論文を発表。1925年、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居(小槙姓となる)。以後、教職に就きながら流星観測を続け1943年に「紀伊天文同好会」を設立。後にこれが「日本流星研究会」に発展し、全国三百数十カ所にわたる流星観測のネットワークを組織。日本全国のアマチュア天文家と交流し青少年の宇宙への夢を育んだ。