吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 - 2… 吉沢 秀和(よしざわ ひでかず、1945年5月13日 - 2025年1月2日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。1967年までの登録名は吉沢 勝。 実家は長野県で農家を営んでおり、親族がいたことから下宿して進んだ北海高等学校では2年生の時、控え投手として1962年の春夏の甲子園に出場。春の選抜では1回戦で御所工に敗退、吉沢の登板はなかった。夏の選手権では準々決勝に進み、伊藤久敏投手を擁する久留米商と対戦。先発した3年生エース松谷栄司が5回に負傷退場し、吉沢は急遽リリーフに立つが、9回に3点を取られ逆転負け。苦い甲子園デビューとなった。同年の岡山国体では1回戦で先発。作新学院の八木沢荘六、加藤斌に投げ勝ち完封勝利を飾る。
今井 務(いまい つとむ、1945年4月29日 - )は、長… 今井 務(いまい つとむ、1945年4月29日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手)。 岡谷工高では投手であったが、打撃面で高く評価されていた。1963年に高校を中退し、大洋ホエールズに入団。1965年には一軍に上がり、10月27日の最終戦ではサンケイを相手に一塁手、七番打者として初の先発出場を果たす。この試合では石戸四六から4打数2安打を記録した。その後はイースタン・リーグで本塁打王や打点王を獲得するものの、一軍ではあまり出場機会に恵まれなかった。 1970年、東映フライヤーズに移籍。主に代打として起用され、同年は打率.261、2本塁打を記録。翌1971年は自己最多の58試合に出場。
日野 茂(ひの しげる、1945年1月11日 - )は、長野… 日野 茂(ひの しげる、1945年1月11日 - )は、長野県松本市出身(中国・旅順生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 教師であった両親の下で旅順に生まれ、父は生死不明のまま母と日本に引き上げる。 千葉に移り住むと、県立船橋高校卒業後の1963年に中央大学へ進学し、東都大学リーグでは2度の優勝を経験。2年次の1964年からレギュラーとなり、同年の春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選出される。2年先輩の武上四郎と二遊間、1年上の川島勝司と三遊間を組むこともあり、同期の高橋善正・高畠導宏と共に中大の黄金期を支えた。リーグ通算86試合出場、308打数81安打、打率.263、5本塁打、33打点。
土屋 紘(つちや ひろし、1944年7月10日 - )は、長… 土屋 紘(つちや ひろし、1944年7月10日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(投手)。
五明 公男(ごみょう・きみお、1943年〈昭和18年〉8月2… 五明 公男(ごみょう・きみお、1943年〈昭和18年〉8月21日 - 2019年〈平成31年〉3月1日)は、日本の体育学者、アマチュア野球指導者。 1943年(昭和18年)に東京都で生まれるが、太平洋戦争激化の影響により一家で長野県更級郡篠ノ井町(現在の長野市篠ノ井地区)へ疎開し、幼年時代を過ごす。小学校入学の際に東京へ戻り、大田区立羽田小学校へ入学。小学校・中学校と野球に熱中する。 中学校3年時に進学先を決める際に、東京都と神奈川県の高等学校をリサーチし、「高校で野球をやるんなら甲子園へ行きたい」と思い、「法政二高の田丸仁監督は素晴らしい指導者であると言うので、ここへ行こう」と思い法政大学第二高等学校への進学を決めたという。
小泉 恒美(こいずみ つねみ、1942年7月5日 - 199… 小泉 恒美(こいずみ つねみ、1942年7月5日 - 1990年6月2日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは本来は一塁手だが、外野手もこなした。 長野県岡谷工業高等学校3年時の1960年に春季北信越大会で準決勝に進出。この試合ではリリーフとして登板したが、金沢市立工業高等学校の前に敗れた。夏の甲子園県予選でも敗退したため、甲子園とは縁がなかった。 卒業後の1961年に南海ホークスへ入団。王貞治に似た一本足打法が持ち味で、入団5年目の1965年には、一塁手や右翼手として69試合に出場した。10月13日の対東京オリオンズ戦(東京スタジアム)では、野村克也に代わる4番打者として先圧起用され、4打数1安打1打点という成績を残した。
三沢 今朝治(みさわ けさはる、1941年1月3日 - )は… 三沢 今朝治(みさわ けさはる、1941年1月3日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
倉島 今朝徳(くらしま けさのり、1940年6月24日 - … 倉島 今朝徳(くらしま けさのり、1940年6月24日 - 2013年7月3日)は、長野県出身のプロ野球選手(捕手・内野手)。 長中3年生の時に野球を始め、上田松尾高では1年生の時、神津進投手とバッテリーを組み、1957年夏の甲子園に捕手、六番打者として出場。前年度優勝校の平安高を降し準々決勝に進出するが、この大会に優勝した広島商の山中英明(法大)に完封負けを喫した。同年秋の静岡国体は1回戦で 早実高を降すが、準々決勝で法政二高の延藤謙吉(三重交通)らに抑えられ完封負け。翌1958年春季北信越大会に進むが、準決勝で小松実に敗退。1959年夏は県予選準々決勝で小諸商に敗れる。 卒業後は明治大学へ進学。
塩原 明(しおばら あきら、1940年5月30日 - )は、… 塩原 明(しおばら あきら、1940年5月30日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
牧田 政彦(まきた まさひこ、1940年1月13日 - )は… 牧田 政彦(まきた まさひこ、1940年1月13日 - )は長野県出身の元プロ野球選手。左投左打。 長野県伊那北高等学校から1958年に阪急ブレーブスに入団。初登板の西鉄ライオンズ戦で初勝利を挙げ、1963年には初の完投勝利を記録したが、翌1964年に河野旭輝との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍、こちらでは勝利を記録することなく1966年限りで退団した。
堀込 基明(ほりごめ もとあき、1939年10月31日 - … 堀込 基明(ほりごめ もとあき、1939年10月31日 - 1997年2月16日)は、長野県小諸市出身のプロ野球選手(外野手)。愛称は「モーやん」。 小諸商業高校から専修大学へ進学。東都大学野球リーグでは1959年春季リーグで優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では、エース坂井勝二を擁し準決勝に進出するが、木次文夫、近藤昭仁らのいた早大に敗退。1960年秋季リーグでも山本兵吾の好投もあって在学中2回目の優勝を飾った。大学の1年上には坂井(3年で中退)、山本の他に、後にプロで同僚となる小池兼司がいた。1961年春季リーグでは首位打者を獲得。リーグ通算89試合出場、288打数95安打、打率.330、4本塁打、35打点。
井石 広一(いいし ひろかず、1937年11月23日 - )… 井石 広一(いいし ひろかず、1937年11月23日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。 赤穂高校から1956年に広島カープへ入団。 1958年に一軍初出場も同年で引退。
木次 文夫(きつぎ ふみお、1937年1月26日 - 197… 木次 文夫(きつぎ ふみお、1937年1月26日 - 1977年5月14日)は、日本のプロ野球選手(一塁手)。
光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、… 光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、長野県飯田市出身の野球選手(投手、外野手)・監督・解説者、ブラインドゴルフ選手。 終戦翌年の1946年に小学4年生で野球を始め、中学時代は投手のほか、様々なポジションをこなした。 飯田長姫高時代は授業中もゴムまりで鍛えた握力で鋭いドロップを投げ、2年春に、3年生のエースが受験勉強のために退部し、代わりにエースとなった。 3年次の1954年、登録身長160cm、実際の身長は157cm、体重51kgの短躯ながら左腕エースとして春の選抜に初出場。1試合平均で12個の三振を奪うなど、剛球投手として注目されたが、完全な光沢のワンマンチームで、チーム自体はそれほど注目されていなかった。
中村 修一郎(なかむら しゅういちろう、1935年11月12… 中村 修一郎(なかむら しゅういちろう、1935年11月12日 - 2009年12月22日)は、日本のプロ野球選手。二塁手が主だが三塁・一塁も守った。右投右打。
奥原 為雄(おくはら ためお、1935年10月13日 - )… 奥原 為雄(おくはら ためお、1935年10月13日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。
土屋 正孝 (つちや まさたか、1935年10月6日 - )… 土屋 正孝 (つちや まさたか、1935年10月6日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手)。 警察官の長男に生まれる。土屋は野球のほか、テニス・バスケットボール・バレーボールなど、球技は何でも得意で、姉と妹は高校時代にテニスで日本一になったことがあるという球技一家であった。 松本深志高校では、1953年春季長野大会中信予選決勝に進むが、後にプロで同僚となる堀内庄・木次文夫のいた松商学園に惜敗。同年夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。高校では複数のポジションをこなし、2年生では捕手と三塁手を兼ね、3年生になると投手を任されていた。当初大学への進学を予定していたが、読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・国鉄スワローズから勧誘され、1954年に巨人に投手として入団。
堀内 庄(ほりうち あつし、1935年10月5日 - 201… 堀内 庄(ほりうち あつし、1935年10月5日 - 2010年10月27日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。
高山 邦男(たかやま くにお、1934年10月7日 - )は… 高山 邦男(たかやま くにお、1934年10月7日 - )は、長野県長野市出身の元プロ野球選手。 松代高校から1953年に名古屋ドラゴンズへ入団。1956年に退団し、長野鉄道管理局に入社した。
山岸 静馬(やまぎし しずま、1934年4月2日 - 199… 山岸 静馬(やまぎし しずま、1934年4月2日 - 1990年10月4日)は、長野県上水内郡信州新町出身のプロ野球選手。 長野北高校から1954年に高橋ユニオンズへ入団。ヴィクトル・スタルヒンがプロ最後の先発登板となった1955年10月7日の試合では先発捕手として出場した。 1956年に球団が吸収合併されたため1957年は大映ユニオンズ所属となり同年に退団。退団後は電電信越でプレーし都市対抗野球大会にも出場した。
町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - 202… 町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - 2025年9月22日)は、長野県長野市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。 長野北高校では、2年生次の1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌1951年春の選抜には選出されなかった。高校通算36本塁打。高校同期に松橋慶喜、1年下に山岸静馬がいた。 1952年に国鉄スワローズへ入団。入団後まもなく強肩を見込まれて、本来の守備位置である三塁手から外野手にコンバートされた。1953年には開幕から右翼手として起用され、7月には杉浦清に代わり初の四番打者も経験。1954年には初の規定打席(29位、打率.250)に達する。
松橋 慶季(まつはし よしき、旧名:義喜(よしき)、秀康(ひ… 松橋 慶季(まつはし よしき、旧名:義喜(よしき)、秀康(ひでやす)、1934年1月10日 - 2015年2月22日)は、長野県長野市出身のプロ野球選手(捕手)、プロ野球審判員。 長野県長野北高等学校では2年生の時、捕手として1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。松商学園の控え捕手は吉沢岳男であった。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌年春の選抜の出場校には選出されなかった。高校同期に三塁手の町田行彦、1年下に控え捕手の山岸静馬がいた。 1952年に阪急ブレーブスに入団するが、翌1953年に国鉄スワローズに移籍。阪急から国鉄に移籍したのは、郷里に母を一人残した中、長野県から遠い西宮市でプレーするのを好まなかったからである。
小山 恒三(こやま つねぞう、1933年12月20日 - 2… 小山 恒三(こやま つねぞう、1933年12月20日 - 2018年1月31日)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。 長野県小諸実業高等学校から東京鉄道管理局を経て、1952年に国鉄スワローズに入団。同年10月10日の対松竹ロビンス戦(西京極球場)に先発投手として一軍公式戦へのデビューを果たすと、完封で初勝利を挙げた。「スワローズの新人投手による一軍公式戦初登板での先発完封勝利」は球団史上初の快挙だが、小山に続く達成者は、東京ヤクルトスワローズ時代の2024年5月15日に松本健吾(トヨタ自動車出身の右投手)が対広島東洋カープ戦(松山坊っちゃんスタジアム)で記録するまで72年間現れなかった。 カーブやドロップなどの変化球を駆使していたものの、プロ野球投手としての実働年数はわずか2年で、1953年に現役を引退。
吉沢 岳男(よしざわ たけお、1933年7月15日 - 19… 吉沢 岳男(よしざわ たけお、1933年7月15日 - 1971年7月15日)は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(捕手)。
黒岩 弘(くろいわ ひろし、1933年7月1日 - )は、長… 黒岩 弘(くろいわ ひろし、1933年7月1日 - )は、長野県上高井郡日野村出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 長野県上水内農学校(現長野県長野吉田高等学校)で野球を始める。最初は遊撃手であった。戦後長野県須坂商業高等学校に入り直し、投手に転向しエースとなった。卒業後国鉄長野工場を経て東京鉄道管理局に移り、熊谷組に補強され都市対抗野球で優勝する。 1954年に国鉄スワローズに入団した。 緩いカーブ、シュート、スライダー、シンカーと制球力を武器に金田正一以外は脆弱な国鉄の投手陣を支え、入団1年目と2年目はそれぞれ4勝をマークしている。1958年限りで引退し、東京都内の家具会社に就職した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。
山崎 弘美(やまざき ひろみ、1932年10月9日 - 20… 山崎 弘美(やまざき ひろみ、1932年10月9日 - 2013年5月20日)は、長野県出身のプロ野球選手。 辰野高校から1952年に読売ジャイアンツへ入団。1958年の二軍の国鉄・大洋との北海道遠征では、青函連絡船で函館に着くと朝市で毛ガニを両手で抱えきれないくらい買ってくるなど、めぼしい駅に着く度に地元の名物を買い込んできたほか、買い出し・列車の手配など、マネージャー兼任で活躍した。また、巨人軍合宿所の小山寮長の信頼が厚く、そのうち副寮長格になって寮長の隣の部屋に住んでいたという。しかし、広田順・藤尾茂・森昌彦ら強力な捕手陣の壁を崩せず、一軍試合出場は1959年の2試合のみで、1960年に引退。
小森 光生(こもり みつお、1931年11月2日 - )は、… 小森 光生(こもり みつお、1931年11月2日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
沖 実郎(おき じつお、1927年7月12日 - )は、長野… 沖 実郎(おき じつお、1927年7月12日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。
宮沢 澄也(みやざわ すみや、1926年5月29日 - 没年… 宮沢 澄也(みやざわ すみや、1926年5月29日 - 没年不明)は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
小林 経旺 (こばやし つねお、1926年1月1日 - 生死… 小林 経旺 (こばやし つねお、1926年1月1日 - 生死不明 )は、長野県出身の元プロ野球選手(投手)。 1948年の登録名は小林 常夫、1949年から1954年は小林 恒夫。 通算100敗以上しながら、唯一通算50勝未満の投手であり、負け越し数「64」(46勝110敗)のプロ野球ワースト記録を保持する。 台中商業、社会人野球の台湾電力、上田栞製作所を経て、1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。翌1948年に大塚の金星スターズ買収に伴い金星スターズへ移ると、監督であった石本秀一の指導で頭角を現す。翌1949年に石本が大陽ロビンスの監督に就任する際に、小林も連れていこうとする。これに対して、金星の後継球団である大映スターズが二重契約であると主張。
溝上 治一(みぞうえ じいち、1924年3月 - )は、長野… 溝上 治一(みぞうえ じいち、1924年3月 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(外野手)。
佐々木 光雄(ささき みつお、1924年 - 没年不明)は、… 佐々木 光雄(ささき みつお、1924年 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 長野中から1942年に大洋軍へ入団し、同年退団。戦後は国民野球連盟の大塚アスレチックスでプレーした。
土屋 亨(つちや とおる、1923年10月6日 - 2002… 土屋 亨(つちや とおる、1923年10月6日 - 2002年10月15日)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)、スポーツジャーナリスト(スポーツライター)、野球解説者。
小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不… 小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不詳)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)。 長野商業では、1939年の夏の甲子園に出場し、ベスト4まで進むが準決勝で下関商業に敗れた。 1941年に東京巨人軍に入団するが、同年はわずか4試合の出場に留まった。1942年に主将の水原茂が9月初旬に応召を受け離脱したため、正三塁手がいない状況となる。1ヶ月ほど強肩を買われて青田昇が三塁手を務めるが暴投を乱発して外野手に戻ったことから、小池が後釜の三塁手を務める。この年は50試合に出場するが、5月半ばから10月半ばの5ヶ月に亘って43打席連続無安打に抑えられるなど、シーズンでわずか7安打しか打てず.077の低打率に終わった。
手塚 明治(てづか あきはる、1921年10月10日 - )… 手塚 明治(てづか あきはる、1921年10月10日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。1956年の登録名は手塚 耀朗(てづか てるお)。
吉水 幸夫(よしみず ゆきお、1921年2月8日 - )は、… 吉水 幸夫(よしみず ゆきお、1921年2月8日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。
平林 栄治(ひらばやし えいじ、1920年12月15日 - … 平林 栄治(ひらばやし えいじ、1920年12月15日 - 戦死)は長野県出身のプロ野球選手。
宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 200… 宮崎 仁郎(みやざき じろう、1920年2月8日 - 2001年2月18日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは遊撃手。
加藤 智男(かとう ともお, 1919年4月13日 - 没年… 加藤 智男(かとう ともお, 1919年4月13日 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手(投手)。
島方 金則(しまかた かねのり、1918年1月14日 - 1… 島方 金則(しまかた かねのり、1918年1月14日 - 1995年8月4日)は、長野県松本市出身のプロ野球選手。
土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身… 土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身の元プロ野球選手(投手、右翼手)。
北原 昇(きたはら のぼる、1917年 - 没年不明)は、長… 北原 昇(きたはら のぼる、1917年 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手。
三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 19… 三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 1997年)は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。 諏訪蚕糸学校では1930年に春のセンバツと夏の選手権に出場。 1937年に名古屋軍へ入団。前年大活躍した正捕手のバッキー・ハリスがイーグルスへ移籍し、捕手不足の中で頭角を現した。強肩でキャッチングが上手く、また俊足でもあったためレギュラーを張っていた。ただ打撃に難があり、1939年に服部受弘が入団すると一塁手に回る機会も多かった。中日球団でエースの象徴とされる背番号20を、初めて付けた人物として知られる。 1941年に軍に応召され、退団。戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の小口製作所でプレイングマネージャーとして活躍した。
小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年… 小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年不明)は、長野県佐久市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 岩村田中学校ではエースピッチャーとして活躍。東京鉄道局で外野手に転向した。1937年に名古屋金鯱軍へ入団。同姓の小林利蔵と共にクリーンアップを担い、チームを牽引している。また、1937年春季リーグと1938年秋季リーグには規定打席に到達しながら、死球の数が四球の数を上回るという珍記録を残した(2007年に大村直之が記録するまで史上唯一の達成者だった)。1940年には翼軍へ移籍。そこでもチームの主軸を担い、キャリアハイである4本塁打49打点を記録するも同年に応召された。 戦後は藤倉電線で4番打者として活躍し、都市対抗野球では1試合7打点の記録も残している。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
矢島 粂安(やじま くめやす 1911年 - 1944年4月… 矢島 粂安(やじま くめやす 1911年 - 1944年4月)は、日本のプロ野球選手。長野県出身。結婚後の姓は、繁原(しげはら)。
中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1… 中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1987年4月21日)は、長野県松本市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不… 川上 良作(かわかみ りょうさく、1906年1月4日 - 不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 赤穂実業から八王子実業団を経て1937年に名古屋金鯱軍へ入団。開幕戦となる3月28日の東京巨人軍戦では8番サードでスタメン出場した。 同年の秋季リーグ終了後に退団した。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月26日 - 1960年〈昭和35年〉2月2日)は、日本の野球史研究家、文学研究家。 日本の野球史研究の先駆者で、明治・大正期の野球書を長年収集して『日本野球文献解題』を私家版で作成し、日本に野球が伝来した時期について「明治5年説」を提唱した。また、石川啄木関連の文献資料を収集して『文献石川啄木』二巻を刊行したほか、『啄木と故郷人』、『啄木文学散歩』の著書があり、岩波書店版『啄木全集』の編さんもしている。 1895年(明治28年)8月26日に日本の長野県下高井郡市川村(のちの野沢温泉村)虫生に生まれる。小学生ですでに野球をプレーしていた。
市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月… 市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月15日 - 1964年(昭和39年)6月23日)は、日本の野球選手(捕手)・監督、プロ野球球団経営者。日本競輪学校初代校長。